private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over24.21

2020-02-29 15:01:55 | 連続小説

おれたちは、、、 朝比奈は、受付のおねえさんに、、、 澤口さんに、退室の手続きをしてもらい、お礼を言って図書館をあとにした。澤口さんは、室内のときとは打って変わって他人行儀な対応になっていた。最後にだけまわりにわからないように、ちょっとだけ手を振ってくれたので、おれたちもそれにあわせて控えめにあたまをさげた。
「彼女も、いろいろと気をつかう立場みたい」
 朝比奈はそんなことしないんだろうな。そんな仕事場だったら、さっさと辞めてしまうだろうし、そう考えれば未来は明るいのか。
「そう。そう思う? わたしもね、それなりに自制はしてるんだけど。ただ、ただひとつ言えるのは、それで自分が楽しいかってこと。判断基準はね、それだけ。楽しさがそのときだけでよければ、そうするし、ながく続けたいならそのように振舞う。そうあればいいと」
 それができないから、おれたちは無駄な争いをするし、ひとを好きになったりもする。そんなふうに感情をコントロールできるのはどうしてなのかと、いまさら面と向かって訊くたぐいのはなしじゃない。
 澤口さんだって長く勤めたいからこそ、やれることと、やれないことを切り分けていると考えればいいだけのことだ。その分、あの音響ルームで楽しめばいいんだ。
「どちらが目的で、どちらが要因なのか、それじゃあわからなくなる。彼女もそこらへんのことに、そろそろ行き詰っているんじゃないのかな」
 朝比奈のスクーターは自転車置き場の隅に止めてあった。整然と並べられた自転車の列から外れてすみっこに、それでも横柄な態勢でとめてあるように見えるのは、おれの気持ちが風景をゆがめているのか、勝手な偏りが映像を正確に処理できなくなり、おれなんかじゃしょせんそれぐらいの感じ方しかできないんだから。
 そしておれは、このスクーターを見ると、朝比奈とケイさんのやりとりを思い出して、いろんなストーリーがあたまをよぎり、そんなおれの情動を乗せたスクーターを恨めしく見てしまう。
 何の確約もない関係と、朝比奈の人生論は、そこにどんな選択肢もあることを示していて、だからおれが朝比奈と行動を一緒にするのと同じように、ケイさんとの行動を重ねる時も存在しているんだから、、、 もちろんそれ以外のおとこもあるだろう。
「自由に飛ぶ蝶を追いかけて、捕まえるともう大して興味をそそられなくなる。追っかけているときが一番楽しかったなんてよくあることで、それがわたしたちなんだよ。我慢できずに手に入れてきたものにどれだけ価値があったのか、あとで後悔したことって、ねえ、何度もあるでしょ。ホシノよ、少年よ、もっと自由になりなさい。カラダも思考回路も」
 そりゃ朝比奈は自由気ままに日々を過ごしているから、、、 ように見える、、、 もしくは見せようとしている、、、 認めないだろうけど、、、 実際はどうかなんて誰にもわかるはずはない。そしておれは、多くのことに束縛されて生きている、、、 ように見られている、、、
「そうね、ホシノは帰る場所があるからそうなのよ」
 帰える場所があるとか、また意味不明のこと言ってくれちゃって。自分こそどうなんだって問い返してやりたい。ウチに来る理由を言いやしないのは、そこに理由などいくらでも創れる裏返しか。おれは朝比奈の思いのままで、もちろん拒否権もあるんだけど、それを行使するだけの勇気はない。
 朝比奈はスクーターにまたがっておれの動きを待った。すべてはそういうことで、おれには多くの権利があるにもかかわらず、朝比奈の意にそぐわない行動はできない。その先にある代償が大きすぎると自然に判断させられているからだ。だから整列している列から自分の自転車を取り出し出発を待つしかできなかった。
「自転車で来たんだ」
 いろいろと出発間際にあって、自分の足で来るには時間がなくなっていた。それなのにその原因である母親とのやりとりの中に、朝比奈を家に呼んだというキーワードはなかった、、、 そのときはまだ走る選択肢はなかったから、、、 
「そう、それは良かった。昨日の今日だから、ニケツはやめたかったから、押してこうとしていたから。だから、ね」
 朝比奈が前を指さすから、おれは自転車を漕ぎはじめたから、そのスピードにあわせて朝比奈はスクーターを走らせたから、、、 とかね。
「カラまわりしてる」
 そうして、おれたちは公園のなかを並走してく。ふたりで話しができる距離で。これはこれで法規に反しているとか、あいかわらずおれはそうして楽しいより正しいを優先させている。
 公園のベンチでは、体を密着させて楽しそうに話しているカップルがいた。耳元でささやいているのか、頬に口づけているのか、法律に違反しているわけじゃないけど、いちじるしく道徳は乱しているんだから、目を逸らそうとするのはなにも子連れの母親だけじゃない。
 ヤツらはいま、自分たちだけの世界で存在していて、まわりのことは目に入っていない。それが幸せの頂点に近いポジションだとは考えていない。これからももっと高みを目指せると信じている。それなのに頂点を知った記憶が、これ以上の幸せを感じない限り衰退していくしかない。
「誰も不幸になると思っていまを生きていないよ。この幸せは永遠に続くと思っているし、不幸だけは自分におとずれるとは考えていない。だけど終わりはかならずやってくる。自分の内なるところから、外界の影響から、ところかまわず、時を選ばすに。気づいて初めてこんなはずじゃなかったと、時を巻き戻したくなる。そのときはもう二度と訪れることはない」
 そうだろうな、そこまで先を見据えて今を生きる人間はそうそういやしない。だからって、いまの快楽の中で刹那的に生きる選択肢を選ぶのも、どこか逃げているようでおれにはしっくりこなかった。
「運動系だからね、ホシノは。ストイックにものごとを成し遂げた先にあるものこそ快楽として認めようとしている。それもいいんじゃない。そういうタイプは本質的には家や血に属してる」
 文科系とはあたまの構造が違って成長するとでも言いたげな、それとも帰れる場所があるのは運動系で、ないのが文科系とでも選別できるとか。
 だいたいおれなんか家に帰るのが遅くなるぐらいで言い訳を用意して、それもせいぜい部活で遅くなるとか、汗だくだから銭湯寄ってから帰るとかぐらいで、昨日だって、なんのおとがめもなかったのは奇跡的だ、、、 だからその分、朝にカラまれたのか、、、
「なに? ホシノ、無断外泊したことないの? 夏休みなんだから口実になるイベントなんていくつかあるでしょ。もう学生最後の夏休みも終わっちゃうんだけどねえ」
 夏の思い出になるようなイベント。ああ、なにも思い浮かばない。これまでは部活とその合宿、しかも女子とは別の場所。恥ずかしいくらいなにもなさすぎて返す言葉もない。今年はガソリンスタンドバイトや、朝比奈が連れ立ってくれてるから、いい思い出作りに一躍買ってくれる。
「思い出づくりのために生きてるわけじゃないでしょうけど、どんな生き方だって、最終的にはいい思い出になったりする」
 悪い笑顔を携える朝比奈は、だったら何て言い訳するつもりなんだ。バイトが遅くなっちゃって電車がなくなったから、とか。マリイさんが急病で一緒に病院へ、とか。バンマスがわたしのこと離さなくて、とか、、、 それはいかんな、、、
 どうやら、かくも人生の選択肢は多すぎると勘違いして、自分の本当の欲求がなにかなんてわかりゃしなくなるらしい。ならば、お気に召すまま好きにすればいいさ、、、 あとは神のご加護があればいい、、、
「わたしはいいのよ。いつもイイ子にしているから神に信用されてるの。いちいち連絡しなくても心配されないから、おかまいなく」
 おかまいなくって言われれば、よけいにかまいたくなる。だっておかしいだろ、イイ子が無断外泊としても心配されないなんて、、、 その時点でイイ子じゃないし、、、 常識的に考えれば、親から見放されているとか、親と同居していないとか、、、 やっぱり、おれのアタマはカタく、画一的なものの見方しかできない、、、
 いずれにせよ朝比奈の私生活について謎は深まるばかりで、そいつはいつまでたっても闇の中なんだろうな。すべてを明らかにしないところが朝比奈の魅力を作り出しているのは間違いなく、たとえ明らかにしてもどこまでが本当であるかなんてわかりゃしないし、そんなものになんの価値もないと何度も言われている。
 そいつを証明するかのように、おれのぼやきもどこ吹く風で、朝比奈はソッポを向いている、、、 ソッポではなく、通りの向こうの人だかりをみていた、、、 なにか事故でもあったのか、クルマが渋滞し、ひとだかりはひとり、ふたりと増えていく。
「通り抜けられそうにない。わき道から行こう」
 ウインカーを出して左折するので、おれもそのあとに続く。事故ならパトカーも来てるか、やって来るから、たしかにそこで引っかかるのはうまくない。もはや勝手知ったるおれの近所とばかりに朝比奈はおれを置いて行ってしまった、、、 おれはいつでもその準備はできている、、、


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2020-02-22 14:56:33 | 連続小説

「アユスタン アユスタン スタンバミー♪ スタンバミー♪」
 優しい声が、甘く、切なく徐々にフェードアウトしていく。これで終わりってことだ。おれが何に対して切ない気持ちになったのか。おれがギターを止めても、朝比奈の声があたまのなかで共鳴していた。夢の続きも、意図するところも、訓戒も、思い出すにはいたらなかった、、、 夢物語だったとしておくのが、おれには無難なところだ、、、 それなのに、なぜよかったと言えるんだ? それ、、、
「よかったよ。ホシノ。ずいぶん楽しそうにしてたし、相性いいんじゃないの。もしかして、ホシノと楽器も。以外とね」
 ああ、夢の続きじゃなくてギターのはなしね、ギターの。そりゃそうだ。『楽器も』って、それ以外に相性が良かったものってなんだろうかとか、少しだけ疑問に感じたけど、いまそれ以外のこと考える余裕はなく、そうして本当に必要な行動を置き去りにしていく。
 なのにおれは、そう言われて、ハイそうですと答えるのも癪なぐらいに楽しんでしまった。チンクを運転したときも物珍しさもあって集中できたけど、楽しむまでにはならなかった。走り終えたときにはホッとしたぐらいだ。
 それなのに楽器の演奏は、うまくやらなきゃとそればっかりに必死なのはクルマの運転と同じだったけど、朝比奈が歌を入れてくれてからの気持ちの高ぶりはこれまでにないものだった、、、 つまり集中できたのも、楽しめたのも、気持ちの高ぶりもすべて朝比奈のおかげでしかない、、、
 バンマスさんやケイさん、ついでにマリイさんも入れ込むのも無理はないのか。おとこがハマる要素がいっぱいあるし、、、 マリイさんはおとこではないか、、、 朝比奈がおれとおなじ環境にいてくれたこと、そうしておれを導き続けていることに感謝すべきなんだ。
 なんにしろ楽器が弾けるだけで、なにか自分の人生がひろがった気になるからいい気なもんだ。それを自由自在に操れるようになれば、そりゃ楽しいだろうなとか、何だってそうなんだろうけど、ひとりじゃなくそこにいるみんなで曲とともに一体化していく感じが。それでおれは、マリイさんの店で見た演奏があんなに楽しげだったのが理解できた。
 朝比奈はそれをおれに教えようとしてくれた。クルマの運転がしっくりこなかったからか、よけいにおれは身に染みているんだ。なんにしろ思考を止めずに次の一手を考えていく。その行為自体はなにも変わらない。
「そうねホシノ。じゃあ最初ときのこと覚えてる」
 あいかわらず冴えないおれは、朝比奈の言わんとする意味がわからず、なにを言ってるんだか、さっきやって見せたばかりだろなんてのたまいていると、ああそうかと朝比奈の問いの先が見えた。問いの先は見えたけど、問いへの回答はそんなに簡単には見えてこない。
 初めての行為というものが往々にして、一番印象に残り、記憶に留められ、いつでも懐かしく感じられるからこそ、初体験なる言葉もあるぐらいなんだから。この先、何度も新しいことを経験するだろうけど、この時感じたような、新しい力が体内にもぐり込んできて、指の先から足の先まで血の廻りや、神経をつたう痺れさえ快感に思えるような体験は二度と味わえないだろ。
 こうしてひとつの新しい体験は、ひとつの人生の感動を消化してしまったにひとしいと思えば物悲しさも同時にある。ひとりで経験したわけじゃなく朝比奈といっしょだったからってこともあり、昨日も今日も思い出ぶかい一日として印象に残るのは、そのなかでも救いだといえる。
「それもすべて視覚からの映像とか、五感からの刺激による脳内物質の抽出による産物でしかない。二度目以降からは、物質の抽出も弱まり感動も記憶も薄まっていく。どうせあまい味覚とともに思い出になったりするでしょ。ホシノよ」
 またあ、冷静に語っちゃって。そんなこと言ったら人間の経験なんてものは、あるいみすべて脳の錯覚ってことになってしまうじゃないか、、、 あまい体験とはそういうことなのか、、、 おれが初めて自分の足で競い合った時のおれは、今日と同じような快感を得ていたんだろうか、それとも錯覚の中だけのできごとだったのか。
 覚えてないくらいだから、それはそれほど特別な体験ではなかったのかもしれないし、朝比奈が言うように、そのとき脳はいつもと違う強い刺激を受けて、強く印象に残ったけれど、なんども走り続けたことでだんだんと薄められていったように。
「わたしたちが求める欲望ってだいたいそうだったりする。いつまでも同じ感動は続かない。それでもなにか新しいことに着手するには動機が必要となる。感動体験が普遍になっていくのは人間の生存本能のせいでしかない」
 そうだとしたら、今日の感動もいつかは意味をなくしていくのかもしれない、、、 おれが楽器を続けていればのはなしだ、、、 そのほうが印象に残るなら、もうやらないほうがいいのかなんて、安易な選択ぐらいしかできない。
「ははっ、そうね。それもいい考えかもしれない。好きだとか熱中してまわりがなにもみえなくなって、そのあげくになにも残らないなんてよくあるこだから。わたしがそうなることだってね」
 走ることは日常であり、かけっこだって、運動会の50メートル走だって、体育の授業だって、遊びの延長にしか過ぎなかった。初体験として感銘をうけながらも、それまでの日常の延長線上として薄められていく。誰のコップにも入る水の量は決まっている。感動をどれだけ残そうとしても、収まりきらなきゃはみ出していくってもんだ。
 断片的には、先生や友達から誉められたりして優越感に浸った記憶はある。なんだかんだで、部活に入るように勧められて、競技をして人に勝つのは嬉しくて、タイムが縮まれば方向性に間違いはないともっと頑張って練習したし、試合で負ければ悔しくて、タイムが伸びなければ、別のやり方があるんじゃないかと試行錯誤しながらさらに頑張って練習していた。
 そういうのが動機といえば動機なんだろうけど、当時はそんな気持ちはなく、いま思えば何かに突き動かされていただけだ。自分の意志とは別のところで自分が動いていた。そう思えばこれまでの自分の人生は、ほんとうに自分で選んで生きてきた道だったんだろうかと考えさせられる。
 ああ、そうか、おれがいま置かれている状況は、それと同じなんだ。もう一度あのときの時間を繰り返す機会を与えられた、、、 それがおれの望みだったのか、、、 もう一度、自分の道を取り戻すときなのかもしれないと知らしめてもらえたわけだ。
「だから、ある意味、はじめてが最後になるのかもね。そう考えれば、ひとはもっと人生を大切に生きていけるだろうな。ホシノよ」
 夢中になってやれることってそんなに簡単には見つからない。きづいたら日が暮れていたとか、朝になっていたとか、時間の流れの中からはみ出している感じ。おれたちはどうしても同じような毎日を送るのは、それが安全で安心だと思い込んでいるからで、違う一歩を踏み出すのには、それによって起こる変化を想像できずに躊躇してしまうからだ。
 おれはいま、これまでと違う一日への一歩を手に入れた。おれがギターの感動をどうのこうの語るより、なによりも朝比奈の願いをかなえるために頑張らなければならない、、、 すいません、ちょっとカッコつけました、、、 それが自分の望むところと違っていても、その場に投げ出されたならやるべきなんだ。
「よかったね。ホシノ。動機やキッカケがどうであれ、自分がやるべきことが見つかって。望んだことが本当にしたいことだとは限らないし、思いもせず手にしたモノが宝物になることだってある」
 おれに必要なのは、愛でも金でもない、生きていくための動機なんだとでも言いたいのだろうか、そんな思いが言葉にこめられている気がした。
「勘違いがわたしたちの人生をつくりあげているなら、これもまた正しいことなんてひとつもないって理由にもつながる」
 なるほどそうか、思いどおりにいく人生なんかない。あってもそれで幸せになれるわけでもない。安息は狂気を求め、混乱は静寂を欲している。生きることが複雑になるにつれ、選択肢が増えるにつれ、本当に求めているモノがなにかを見失っていくようだ。
「大切なものを手にすれば、別の大切なものをまた失っていくのはこの世の決まりごと、自然の摂理、宇宙の法則。合計で0以上にも、以下にもなることはない。で、このあとホシノの家にいくことになってるんだけど、おかあさんに聞いてる?」
 朝比奈が首をくるりとまわして見上げた先には、部屋の奥で薄暗いあかりが灯っていた。蛍光灯が古くなっているらしく時折切れかけてまた点く。モールス信号のように点滅していた、、、 解読はできない、、、
 そっからそうなるのか。あの母親にして、この朝比奈あり、、、 血縁関係ではないな、、、 むしろおれがそうだな、、、 そんなことひとことも言わないで、おれを放牧しといて、ペーターにつれられて小屋に帰えるユキちゃんにしようとは。


Starting over24.21

2020-02-15 08:45:37 | 連続小説

「そういうところに差を感じたりするし、悔しいと思ってる姿をみられるのも意にそぐわない。そうなんだけどね。そう。いいわ、簡単なコード進行で弾ける曲があるからやってみて。最初はAで2小節」
 なんだか報復されるような気がする。Aか。これはオープンコードで押さえやすいヤツだ、、、 やっぱりAからはじまるのは安心感があるな、、、 ということは、次はBかな。
「夢の後始末は自分ですることね。残念ながらそれはF。ネックを握る方じゃなくて指を立てて。それで中指ははずす。そうそんなタッチで。これでFmになる。さらにひとつフレットをずらしたのがFm#。このまま2小節」
 マイナーっていうだけあって暗い音調になる。すこし切ない感じ。ああいいな、こんな曲調。楽器弾いてるって気になるし、聴いてる人が物悲しさを感じてくれてそうで、それをおれの演奏でそう思ってくれるってのがまた、、、 楽器を弾くとひとは独善的になるだろうか、、、
「クルマを運転するのも、楽器を弾くのも大人になる扉を開けていくひとつひとつの儀式なんだよ。人によってそんな目標は他にもそれぞれあるだろうし、そうして王子は王様になることができる。自分の人生への支配はそうやってはじまっていく。うまく儀式を通過できない者は、過去に後悔を残して、その回収にひと苦労する」
 そうして夢の世界に生きていくしかなくなるんだ。朝比奈はおれが大人になるための儀式を手伝ってくれているのだろうか、、、 なんのために、、、 そんなやわいことを考えてると、朝比奈の目が流れるように動いてさげずむような表情をみせる。
 なんにしろこれはFの押さえかたなんで、気を抜くと音がこもるから、返した手首がつりそうになるけどしっかりと力をこめる。力の分配ができるうちはまだ大丈夫だ、、、 いろいろとね。
「いろいろとね。そう、それでつぎがD。したから弦を3本。一番細いのを中指、それから薬指、人差し指の順にこう押さえていく。とはいえね、べつに握り方はどうだっていいんだ。自分が握りいいようにすれば。それがだいたいスタンダードな握り方になる。普遍なものはそうやって浸透していく。ホシノもさっき言ってたでしょ。キスして、愛撫して、そして性交に至る。有名人がフルネームで呼ばれるように。そうやってこの世界はできてきた」
 そこでさっきの掘り起こしてくるか。ありきたりなおとこなんでスイマセン。それが世間の常識の中で生きていると、愚にも付かないおれができあがる。いまの世界で幸せかと訊かれや、そうだと答えるし、だからってこの世界に不満はないわけじゃない。
 どうしたっておれたちは、ひととおりあたりさわりのない行動をして、それにあきれば違うやり方を試してみる。ひとに変人と呼ばれる奇行が、いつしかスタンダードになっていくことだってあり、偶然の産物で世の中は変わってきた。進化も退化も数の原理が決めただけだ。
 Dは細い弦を押さえるから高い明るい音がした。マイナーではないからってのもある。
「そしてE。DとEはワンフレーズずつ。またAに戻って2小節。これを繰り返す。よし、やろう。レッツプレイ」
 えっ、もう。しかたなくおれはコードを押さえて、右手でストロークをする。押さえるタイミングと弦を鳴らすタイミングがズレて音がこもるし、コードを変えるときの指の動きが遅くて、しっかりと押さえられないまま音を出してしまい曲が乱れる、、、 曲ってほどたいした演奏ではない、、、
 朝比奈はそうなることを予測していたかのように、鼻から息を漏らしていた。おれは悪あがきのようにうまくまとめようとする。心臓が爆音するぐらいに高鳴ってくる。はじめてやるんだからうまくいくはずもないのに、こんな状態であればさらにカラダが思うように動かない。
 それでもすぐにできるところを見せないとおとこがすたるとか、だれもそんなこと期待してないし、実際できもしないのにあらがってしまう。練習しなきゃうまくはならないのはなんだっておんなじで、これはまだ序の口でしかない。
「そうやって、もがいてる姿って嫌いじゃない。おとこってカッコつけだから、はじめかっらイイとこみせないと気が済まないみたいだけど、そんなことありえないのにね。それを目の当たりにすると、そのまんまでなんか笑える」
 笑われてしまっていいのだろうか、、、 おれの脳が警告を発している、、、 
 楽器を演奏するための動作には理由がある。何にだってひとつひとつに理由があり、それによって起因する行為を理解して、かつ連続的におこなっていくことで行為としてなりたつわけで、前進するにはこれぐらいの難易度があったって当然なんだと思う。
「なににしてもね。そこに至る理由と長い間に構築された手順というものがあるのはさっき言ったとおりで、わたしたちはそれを最善と信じて模倣していくだけでしょ。そのさきに自分だけの表現ができると信じているか、そうでないか」
 おれがなんとか曲の流れに乗るまでに、演奏は4回ストップして、朝比奈は3回鼻から息を漏らし、2回首を振り、1回口角を上げた。おれはそのたびギターを落としそうになる、、、 それを楽しんでいる、、、 その先を信じるために。
 なんども繰り返していれば、いつか指も腕も自分から離れて勝手に動きはじめるようになる。それをいま実践する時だ。おれはAFm#CDEAの世界に浸っていった。世の中はわからないことだらけでも、勝手に浸っていればいい。そこに理屈があって誰かがわかってりゃいいことで、あとは深く考えてもしかたない何万もの人間がいればいい。
 おれが四苦八苦しながらもなんとかギターを弾いていても、もう朝比奈はさして心配もしていないようで、目を閉じてカラダを揺らしてリズムを取っていた。こんな曲でリズムがとれるのか、朝比奈の耳にはどう響き、そこからなにを考えているのか。そうやっておれを安心させようとしているだけかもしれないし、なんたっておれがひとつ考えてるうちに、10ぐらいの結論を出しているあたまで、先の先まで読んで今を生きているんだから。
「ずいぶんサマになってきた。それでね… 」
 それでなんだっていうんだ。おれにまだこれ以上の何かを望もうとしているような口ぶりじゃないか。
「ストロークをするとき、上からのときは手で弦を押さえてミュートする。したから弾きあげるときは弦をオープンにして音を残す。そうすると音に幅がでて、リズムもとりやすくなる」
 それはずいぶんと大掛かりな作業にも思えた。あたまが回りすぎるってことはそのぶん、多くのことを考え判断していくことで、知らなきゃすんだものまでもかかえこまなくならないなら、さして良いことだとも思えないなんて、その世界をみたこともないおれが言うことでもなく、大きなお世話ともいえる同情が、回りの悪いおれのあたまをよぎっていった。
「いいよ、できてる。ちゃんと」
 そう言ってから朝比奈はいつものアレをやった。鼻で息を大きく吸う。胸がふくらむ。
https://youtu.be/T44ZC7OAXV0「ヘンダナイッ♪」
 つきぬけるような声音が室内にこだます。おれはもうそれだけで背筋に悪寒が走る。朝比奈の歌に引き寄せられるように、テンポの悪いおれのギターが安定したリズムを刻みだす。吸い込まれていくんだ、、、 こうやって。
 もしかしたらバンドのひとたちもこれを感じていたのかもしれない。自分たちがそれぞれリードしていたのをやめたわけじゃなく、朝比奈の歌によってもたらされた結界のなかに吸い込まれていき、演奏をコントロールされていくような。
 それは不快なものではなくむしろゆりかごのなかに揺らされている感じ。朝比奈の、女性のふところの深さにおとこなんてものは赤子と変わらないんだ。
「ダーリンッ。ダーリンッ♪」
 そして声域がまた広がった。音速のなかで思考するようになる。聴くものもワンランクうえのステージに引き連れていくのか。


Starting over24.11

2020-02-10 22:05:25 | 連続小説

「また、気持ちが後ろ向きになってるでしょ」
 ぎくっ。おれの内面に機敏に気づいている。ギターを鳴らしながら目線もあわせずそいう言ってきた。よく耳にするリフのいくつかを、手慰みのように順番に弾いている。空気を重く感じていたのはおれだけで朝比奈はそうでもないのか。
 朝比奈は抱えていたギターをおれに突き出してきた。朝比奈のカラダで十分温ためられたギターを構えてみた。ぬくもりが伝わってくる。抑圧と解放。解放と抑圧。おれと朝比奈はそれをお互いに繰り返している。
「指をこうして」
 朝比奈はおれのバックに位置して手を伸ばし、弦を押える位置を教えてくれる。顔がすぐ隣に最接近している。これが火星なら数十年に一度の大接近とか、ニュースになるぐらいだよな、、、 例えが火星って変か、、、 大接近って、でもそういうイメージなんだよな、おれのなかでは。
 あまい香りがする。ちょっと前に走ったし、さっきも演奏で紅潮してたのに朝比奈クラスだと汗のにおいだって芳しいのか。それに肩越しから鼓動が、首筋には吐息が、、、 多分、吐息じゃないけど、、、 呼吸じゃ味気ないし。
 それに時折ふれてくる胸のやわらかい部分。そんなんで集中できるほどおれは大人になりきれてない。むしろ大人になるほど意識が高まってくるはずだ。こどものときは知らなかったことが、大きくなるにつれ意味をおびてきて、今度はそれを抑制することが大人の証明になってくるなんて、ほかにも多くあるはずだ。それが正しいかなんてわからないし、おれはそんなものに価値を見いだせない。
「このフォームがC。一番最初に覚えるコード。そう、たぶんね。調和をかもしだすには抑制も必要なんだけど、いつしかそれが抑圧になっていく。そしてひとの前にはしなくてはならない選択が突きつけられる」
 そんなCを最初だなんて。ふつうはAから始まって、Bを充分堪能したあと、、、 あっイテッ。脇腹にヒザが入った、、、 すいません、なんも知らないくせに知ったかぶりしました。
 これってさ、おれだけが勘違いしているわけじゃないと思うんだけど。だってそうだろ、男女が密室でふたりっきりで、こんなに密着したら、これはおとことして次の段階に行かなければならない状況なんではないだろうか。そうしなければ女性の決意に水を差すとかそういう流れなんじゃないか、、、 ひとりよがりか。
「それがホシノがした選択。理性が起こしたのか、本能が起こしたのか。誰にもわからず選択は未然におわる」
 そしてされるがまま右手を振りぬかれた。“ジャーン”なんだか明るい音がした。おれははじめから面倒なことは考えずに、前だけを向いていればよかったんだ。朝比奈も言っている。なにしろ前に進むべき場所があるのは結構なことだ。
 左でコードを押さえる。右で弦をはじく。バイトのシフトと同じで必要なときに必要な場所になければうまく機能しないってことなのか。それはそうでこんな初歩の初歩を覚えることになんの意味があるのだろうか。疑問がいっぱい、太陽がいっぱい、朝比奈のオッパイ。そんななかでおれはされるがままでいいんだろうか。
「それ以外の選択肢はないの? 少ない選択は喪失感をあたえるし、多すぎる選択は混乱をあたえる。どちらにしろ達成感はえられずに、そう判断した自分を肯定する材料を集めるのに時間を労する」
 そうだな、朝比奈がおれのことを幸運の石だと判断したなら。すこしはおれも大きく出ていいじゃないだろうか、、、 なんて、、、 ただしその論点が明確ならそうできるんだけど、どこのなにをもってそう言っているかわかんないうちは、どちらにせよ朝比奈の手のなかだからなんともならないしな。
「それが賢明な判断なのかもね。ホシノを幸運の石にできるかどうかは、そう、これは、ホシノにかかっているわけじゃなく、わたしの主観でしかないんだから」
 ふう、余計なこと言わなくてよかった。どうやら朝比奈がここでギターを披露するのも、おれにギターの手ほどきをするのも、もっと言えばチンクで運転を教えるのも、公園をランニングするにもなんらかの命題があり、それをしていくことにより、朝比奈の一手、一手が王将を詰めるのに必要な行為として成り立っていくわけだ。
 論理的に考えればそうだけど理論的に理解してはいない。
 不器用な左手でコードを押さえるという行為が理にかなっているかわからない状況で、どうやら右手も上下に動かすのは初心者がやることで、うまいひとは一弦づつバラバラに五本の指を使って音を奏でるから、そうすると右手が利き手として必要価値が高まるらしい、、、 おれにはそれが一致するまでにいたらず、ピンときていない。
「そんな先のこと考える余裕は必要ないよ。これがF。ギターをやるひとが続けるかどうかって分岐点になるのかF。Fの挫折とか言わる。なににだってうまくものごとが進む期間があり、それによってのめり込むきっかけにもなる。そして同じようになににだって挫折とか乗り越えられないカベが現れ、こころざす人を右と左に振り分けていく」
 朝比奈は人差し指を立てて中指薬指小指を順に上から重ねた。弦をはじくと少しこもった音になる。
「アコースティックだと弦が高いから、押さえるのにそれなりの握力が必要になる。エレキだとこういう押さえかたもある」
 そう言って、ギターのネック、、、 左手で持つ部分をネックというらしい、、、 それをわしづかみにした。さっきよりもっと音がこもった。朝比奈は目をかしめた。どうやらうまくいかないことにイラだっているみたいだ。
「FとBは押さえづらいけど大切なコードなんだ。これをふたつづつフレットを進めていくとオープンな状態でE、F、G、もとにもどってAになる。そしてオープンな状態でAからはじまって、B、C、D、Eと進んでく」
 おれはなされるがままにネックの根本に向かって、銀色の金具の場所をひとつ飛ばしで進んでいく。音がそのたび高くなっていく。それはかなり重要な説明らしいんだけど、おれにはそれがどう大切なのかわかっていない。そんなことはどうでもいいように朝比奈はそれをこなしていく。
 おれは力を込めてFのコードを押さえる。カチリとはまり込んだ感触が手を伝わってアタマに響いてくる。そしてストロークするときれいな音が流れる。朝比奈がいうところのオープンな状態で弾く時の音が再現されていて、うんうんと首を縦に振る、それは肯定しているようで、少しいまいましい思いが混在していると自己主張してくる。
 その認識をもとに弾くことができるように工夫されているのなら楽器を考えたひとの思うつぼだろうか、、、


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2020-02-01 13:26:12 | 連続小説

https://youtu.be/kfjoxkhp-vE
「あーっ、この曲、大好き! タイム、タイム、タイム♪」
 そう言って澤口さんは、朝比奈と一緒に歌いはじめるではないか、、、 おれひとりカヤの外、、、 ああ、そうS&Gってサイモンとガーファンクルのことね。この曲ならおれもわかるわ。たしか銭形へいじい・シェーとウインナーとかやらだ。気持ちが高ぶってくるテンポだから、歌えはしないけどハミングぐらいならできる、、、 フン、フン、フン、、、 うっ、なぜかふたりの目が冷たい。
『ワイルアイルッカラン~』
 そこでおれは足でリズムをとる。それなら歌のジャマにならないと思いきや、朝比奈は目を細め、顔をしかめる。これもリズム感が悪くて、ご迷惑なんだ。こんな不慣れな動作が無知と経験のなさもあいまって朝比奈を呆れさせていく、、、 澤口さんは肩をすぼめて笑ってくれた。それが逆に朝比奈と自分が近い関係であると知らしめてくれるようで、、、 気のせい。
 見え張っていいとこ見せてもボロが出るだけだし、どうせ見透かされるだけなんだからその認識だけはしておかなきゃいけない。おれは足を踏みこむ力をゆるめ音をたてないようにする。そんな力加減がよけいに踏み外して抜けてしまったり、力を入れすぎてガクッとしたりで、からだの使い方の自由が奪われていくのはこういう時だ。ほとんど操り人形のひもがからまった状態になってる。
 サビの部分では、ふたりでハモった。メインボーカルが朝比奈で、澤口さんは高いパートだ『バッルックカランドリーブサアブラウン、アンザスカイザヘイジィシェードウィンター♪』うっわ、なにこれ、スゴっ。朝比奈も楽しそうじゃないか。いままでのどれとも違う歌い方してる。満面の笑顔でリズムに合わせてあたまを左右にたおす。澤口さんも手拍子をうちながらからだをゆらす。
 ふたりは前もってリハーサルをしてきたかってぐらいに息もピッタリで、それにあっけを取られ、おれは口を開いてポカンとなっていく。お互い目を見合わせながら歌う姿はピンクレディより人気出るんじゃないだろうかと、そのさいはマネージャー、、、 ムリだな、、、 付き人にでもしてもらい、少しで恩恵にあずかろうとか品がないことを考える。
『~キャリヤキャッピンヤハンド~』
 何にしたってそんなもんで、自由は一定の条件下でしか有効ではないのに、そんなことに気づかないまま、おれたちは自由を我がものとして消費しているから、いざというときにこんなもんだ、、、 いまがどう“いざ”なのかわからんけど、、、
 いったい誰から誰に受け渡され、なにを犠牲にして手に入れたのか。知らないってことはある意味幸せで、それは与えられたものだから、そうであれば束縛されるのもいいもんだと、、、 どうしたっておれたちなんかは選択肢が多いほど選べなくなり、そして自分の選んだモノにいつもガッカリしてしまう、、、
『ルッカラン♪』
 ふたりそろってルッカランって、こっち向いてそんなこと言われたら照れちゃうし、おれしかいないから見る先は限定されているだけなのか、、、 おれなんか部活のときにケーコちゃんのおしりを探して走るの頑張ってたぐらだから、おとこが、、、 おれがなにかを頑張る時は、それぐらいの動機しかないわけで、、、 比べるのもなんだけど、それが幸せな時間でもあるわけで、、、
 幸せって、これ以上の幸せがあるんだろうかと感謝しなければ。ふたりの女の子と一緒になって、楽し気に歌を歌っている姿を見るのも、何度も経験できると思ってるから単なる時間の経過でしかなくなってしまうけど、そういう機会がなくなってはじめて貴重だった時間の数々をもったいなかったと、もの思いにふけってしまう。できるうちに手足動かさないと、その幸せも逃げていくばっかりだろ。
『ドリンキンマイヴォッカアンライム~』
 ふたりは頬がつかんばかりに近寄って声をあわせる。上気したせいかピンクの肌が薄っすらと艶ってきている。おれは簡単に考えていた。楽器を弾くなんてラクなもんで、そりゃの演奏するのは大変なのはわかるけど、座って腕や足動かしてりゃいいんじゃないかと。ところがどうして、こりゃ立派なスポーツじゃないか。熱量はしだいに高くなり、からだはもとより、気持ちが、感情が、心が強く揺さぶられる。普段じゃない呼吸の中で無駄な感情がそぎ落とされていく。それなのに朝比奈は涼しい顔だ、、、 汗はにじんできてるんだけどね、、、
 そして最後に『ザズアピッチョブスノンダグラン!』で、歌もギターも終わった。おれが拍手をしかけたら、「澤口さん、凄い!」「朝比奈さん、凄い!」と、共感するふたりの声が重なった、、、 ホシノくん、ショボい、、、 おれはなんの役にもなれてなかった。
「あなたの声って、ほんとに素敵。コンサートで聴いてるみたいだった。もしかしてプロのひとなの?」と澤口さんは言った。
「それを目指してる途中なんです」事もなげに朝比奈が言った。「澤口さんもなにかやられてるんじゃないですか。声もハーモニーもわたし大好き。一緒にやっててとっても楽しかったから、ついつい調子にのってしまって。わたしは音楽やってて、こういう時間が一番好きなんです。それぞれの嗜好とか、考え方とかを全部なしにして、ただ歌って楽しめる」
「わたしだって、最初のイントロから痺れっぱなし。あのリフ聴いたら鳥肌立ってもう我慢できなくなっちゃって」
 わたしはおふたりの美声を聴けて、鳥肌とか、いろんなものが立っちゃってガマンできなくなっちゃった、、、 うっ、、、 すいません、、、
「わたしは単に下手の横好きよ。好きな曲は何回も聴いて、何回も歌って、そうやって覚えていっただけ。英語だってぜんぜんわからないから、聴こえたとおりに歌っているだけだし、朝比奈さんはネイティブみたいに発音が良くて声もとおるし、うらやましいとかそう思っている時点で多分人種が全然違うんだろうね。なんだかね、一緒に歌ってて楽しくてうれしかったんだけど、思い知らされた感じもあった。もっとやりつくさなきゃいけないとか、中途半端な自分が叱咤されているようで。それで後押しされた気持ちにもなった」
 あっ、その感覚おれにもわかるな。一緒にいるだけでときとして朝比奈から浴びせられる圧力と、緊張感、そして計り知れない力量。そんなのが言葉や、歌とともに伝わってくるとなんだか自分が惨めであり、もっとやれるんじゃないかって気になる。
「わたしはひとそれぞれの向き合い方があっていいと思ってます。突き詰めるのも、ただ聴くのが楽しいって言うのも、そこに差は見いだせないですから。でも、もし澤口さんがなにかを成し遂げようとするキッカケになったのなら、わたしの歌がそのちからになったのなら、すごくうれしいです」
 だよな、朝比奈がめざしてるのってその部分だから。よかったよ、おれがただ感心してるよりも、澤口さんのおかげで何倍にも朝比奈の力になっていくんだから。
「朝比奈さん、あなたはちゃんと自分の言葉で話せるのね。うらやましいわ。あっ、それ言っちゃダメだったね」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。おれはそれを見てひきつってしまった。
「わたしね、この仕事してて、はじめてだったの。この音響ルームを借りたいって依頼されたの。今年から勤めてるから、いろんな場所の掃除当番とかあって、この部屋なんかも最初ひどいものだった。ホコリだらけで。でも掃除しながら、いろんな曲をレコードで聴けるから率先してやってたの。いわばここはわたしの秘密基地みたいなものになった。なんだかきれいにした甲斐があったし、あなた最初に借りてくれてよかった」
「そうだったんですね。ありがとうございます。澤口さんのおかげで、気持ちよく使えることができました」
「ううん、わたしのほうこそ、こんな思いをさせてもらえてありがとう。最初はね、男の子とふたりで入るっていうからちょっと心配で様子見ようとしただけなんだけど、こんなすてきな体験させてもらえて得しちゃった。こら少年。朝比奈さんに手だしちゃダメだぞ」
 ホシノです、、、 
「ホシノくん、あなたいいわねえ。こんな素敵なカノジョがいて。うーん。ちょっと釣り合い悪そうだけど、それがまた良いのかもね」
 大いに釣り合い悪いですが、、、 はっきりモノを言う、気に入らんな、、、 はっきりカノジョとなったわけではない。
「ホシノはわたしにとって幸運の石なんです。わたしの勘が当たればですけど、あっ、でもよく当たるんです、わたしそういうの感じやすくて」
「そうね、そういう想いって大切にしないといけないよね。どんなに一生懸命に、まじめに、ひたむきにつきあってるつもりでも、ちょっとした勘違いや、誰かからの横ヤリで相手から嫌われてしまうこともあれば、それがきっかけで好かれることもある。信じられてるうちは、好かれているうちは大丈夫だから」
「澤口さん… 」
「朝比奈さん。ホシノくん。ありがとね、おじゃましました。時間まで楽しんで。ここはいつでも開いてるから、また借りに来てね。文化祭の出し物の予行演習ってとこかしら。頑張ってね」
 朝比奈はあたまをさげた。だからおれもそれにつられてあたまをさげた。澤口さんは手を振って扉をしめた。なんだか、すこし部屋の空気が重くなっていた。文化祭とか予定調和のなかでおこなわれる舞台ならどれだけラクだったろう。