private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

A day in the life 2

2016-11-26 15:16:25 | 非定期連続小説

 分刻みでスケジュールをこなしているアケミの行く手を阻み、軽トラが路上駐車をしている。普段は車通りの少ない平日の商店街への脇道で、工事ということもあり我が物顔で路上駐車しているのが余計に癪に障る。
 法務局へ行く抜け道として使っているこの脇道は、信号もなく定刻通りに到着するために重宝しているのに、とんだ障害物に軽くクラクションを入れると、能天気そうな作業員が軽く右手を挙げて軽トラに乗り込んでいく。
 ちょうど作業が終わったらしく、荷台には用具が積み上げられ、道路はきれいに片づけられていた。これでまだ作業中であったら、クルマをどけるにも時間がかかりアケミの苛立ちも相当なものになっていたはずだ。
――まったく、工事してりゃなんでも許されるってわけじゃないのよ。あっち、こっちで工事しちゃ、路線規制とか、通行止めとかして。ふだん使ってる者にとっちゃ、たまったもんじゃないわ。どうせ年間経費を消化するために、どうでもいいところ掘り起こしてるだけでしょ。
 と、自分本位な八つ当たりもはなはだしい。
 会社での朝の申し送りを終えて、得意先との商談へ向かう前に法務局へ登記謄本を貰ってくる途中だった。個人で会社を経営していると、法務局にはなにかと係わりがあり、やれ届け出だとか、証書の発行だとか、はたまた、得意先の代行で写しを引き取りにいくこともある。駐車場の込み具合も含めて予定の10分前には到着しておきたいところで、こういったよけいなことで時間を取られたくない。
――大丈夫、想定内よ。それにたいしたロスじゃない。
 これだけ、インフラが整備されているというのに、ああいったお役所は昔よりは改善されたとはいえ、まだまだ一般企業とはかけ離れたところも残っている。以前に担当者が昼からの出勤なので、それからの対応となると当たり前のように言われた時は開いた口がふさがらなかった。ふさがらないついでに、ありとあらゆる文句を言い並べたところ、はあ、そうですか。と暖簾に腕押しで、アタマに血がのぼり切れかかったことがある。これからも何度も付き合うことになるので、あまり心証を悪くするわけにもいかずその場はそれで引き下がったが、いま思い出してもはらわたが煮えくりかえってくる。
 会社を経営する者にとって時間を守るということは特に重要で、得意先とのアポに遅れるなんてことは絶対にあってはならない。信用が第一で、何年も経って築き上げた信頼関係など、たったひとつのミスで簡単に崩れさることだってある。それを思えば、お役所の仕事はまだまだ甘く、どちらが金を払っている顧客であるのかという意識は薄弱だと思えてならない。
――競合相手がいれば、そんなことやってられないはずでしょ。郵便局だって行くところによって違うこと言ってくるから、取り扱い局ごとにそれぞれフォーム変えてたらコストがかかってしかいないし、日本経済の低迷からの脱却は、こういった実務にかける余計な手間をなんとかするとこから考え直した方がいいんじゃないのっ!
 怒りの矛先がほうぼうへ向かいはじめ、社用車のライトバンのハンドル操作も荒々しくなっていく。
「ああっ! もうっ!」
 法務省まであと100メートル。信号の先頭に止まったアケミの目の先に映ったのは駐車場に並ぶ数台のクルマだった。
――これも顧客第一に反してるわよね。日々の来客数と対応物件から割り出される対応時間を数値化して統計を取れば、どれだけのキャパを要する駐車場が必要か、もしくは自前で用意できなければ、近接する部分に契約駐車場を足りない分用意するとか、手の打ちようはいくらでもある。そういった分析もせず、既存の施設のみで賄おうとする親方日の丸的な態度が許せないわ。商業施設ならこれだけで商機を逃しているわけでしょ。
 テレビの推理番組とか情報クイズ番組であったり、どちらにしても、ある程度、視聴者にこれでもかとヒントを与え続け、こうなるに決まってると、先読みさせることで、悦に入らせ、脳の快楽中枢を刺激し、自ら選んでいるようには思わせないように、再びその番組を見させるように仕組んでいる。
 経験は人の人生を豊かにすると同時に、ミスディレクションを引き起こす要因にもなる。成功体験は人間の視野を狭くして、失敗体験は人間をますます臆病にしてしまう。悪いイメージは一度でも考え出すと取り止めがなくなる。
 以前に駐車待ちで並んだときには、たった2台だけだったのに30分も待たされた。それとは別の日に、スムーズに駐車場に入れたにもかかわらず、前の客があとに控えるアケミの都合などお構いなしに、担当の対応に難癖つけてなかなか終了せずに20分近く待たされたこともあった。
 駐車待ちをしている5台のクルマのあとにならんで、うまくして入局できたとしても、そのあとで対応してもらうのにいったいどれぐらいの時間がかかるのか。考えれば考えるほどに、それは永遠の時間のように思われた。
「 …どうする?」
 アケミが考えた選択肢はふたつあった。おとなしく駐車の列にならぶか、どこか近場に路上駐車して手早く用事をすますか。確率論ではあっても目の前の5台に連なるクルマを見てしまえば、素直にあとにつきづらい。それに、自分のうしろにもう一台並んだらもうそこからは後戻りできない。
 未来はたったひとつしかない。それを選ぶのは自分だ。その時点では無限にある選択肢は数々の未来につながっている。その中で最良の未来を選ぶために人は生きているはずだ。そこには倫理も道徳も建前上は存在しても、最終結論を導き出す要因にまではならない。
 現実がありきたりな世界なら、理想はもっとも良い選択をした結果の最良の世界につながっていく。ただ、人間の欲は果てしないもので、理想を手に入れればそれはもう理想ではなく現実の世界で、ありきたりな日常の一部になってしまうのだ。それに気づかずにつねに理想を求めていけば、その度に現実に突き戻されることとなり、虚しい思いとともに、そこから前進することもできなくなる。
 考えをまとめるには短すぎる赤信号の長さだった。べつに極端に短いわけでもない。自分が時間の欲しいときには無情にも時間は短く感じられ、早く過ぎて欲しいと思えば一向に進まない。そうやって知らないうちに人生の時の流れはうまいぐあいに調節されているのだろう。
 アケミはバックミラーに目をやり、うしろからクルマが来ないことを確認して、もう少しだけ考える時間を確保した。結論は八分どおり出ていても、それを実行に移すまでの後押しが欲しい。5台のクルマは動かない。止まったままだ。それを後押しと信じるしかない。アケミは並んでいるクルマのうしろには付かずにそのまま直進し、一本目の角を左に曲がった。
 裏道には違法駐車が縦列に並んでいた。ゆっくりと横を流して止められるスペースがないか、動きだしそうなクルマはないかと目を凝らす。そうして進むうちに次の角まで到着してしまい、チッと舌打ちする。
 その角を度左に折れて進むも、この道は大通りに面しているので止められる場所はない。次の角を左に曲がれば、さきほどの正面の通りまでの裏道となっているので、そこを目指して左折する。再び先ほどと同じ状況が視界に広がり、一台のすきまもなくクルマが止められている。法務局の周りを一周して元の信号まで戻って来ていまい、恐る恐る駐車場の状況を見ると、さっきまで並んでいた5台のクルマは2台になっており、クルマも別の車種に代わっていた。
 猛烈な悔しさがこみあげてくる。理想の世界は、さきほどの5台の後ろに並ぶ先に待っており、素直に並んでいれば、いまごろ駐車できていたという取り戻せない時間と事実がなんとも虚しくてならないし、自分が判断を間違え相反する世界に足を踏み入れてしまったことも無性に腹立たしい。
 ひとつの失敗をひきずって、さらに深みに入り込んでしまうのか。それともミスはミスとして受け入れ、気持ちを切り替えて、仕切り直すことができるか。払った代償が大きければ大きいほど後戻りを決断することは容易ではない。フランスの高速旅客機の例を出すまでもなく、それは人類の永遠の課題であり、決して解決することもない。自分の選んだ道をひたむきに進むことが一般的に賞賛されるのも、誤った判断を推し進める悪しき要因となる場合もある。
 アケミは少なくなった駐車の列を見なかったことにしたのか、そのままやりすごして、先ほど左折した角も通過し、もうひとブロック先の裏道に賭けてみた。きっとそこなら、一台くらい止められるスペースがあるはずだ。明治時代にブラジルにフロンティアを期待した人達も、終戦後の朝鮮に桃源郷を夢見た人々も、そう信じて後戻りできない船出を決行していった。
 祈る気持ちで角を折れたアケミは、クルマのスピードを最大限におとして前進し、空きスペースを探すべく目を凝らす。微妙な隙間は軽自動車なら止められてもアケミの商用車では収まらない。苛立つ気持ちと、すぐにでも戻って駐車の列に並んだ方が良いのでは、と思う気持ちを抑えつつ、根気よく一台、また一台と確認を続ける。もうすぐ裏道も終わりにさしかかった頃に、駐車しているクルマの前後にそれなりのスペースが目に入り、心臓が大きく鳴った。
「大丈夫、大丈夫、空いている。絶対に止められる」
 アケミは自分にそう言い聞かせて、スペースの横を通りながら自分のクルマが入るかどうか目算した。なんとか縦列駐車するぐらいのスペースはある。縦列駐車は得意ではなくともそんなことも言っておられず、バックにレンジを入れて惰性で後進する。これほど緊張する縦列駐車は、自動車学校の仮免試験のとき以来で、障壁代りのチェーンに触れそうになり、教官に急ブレーキをかけられた嫌な記憶もよみがえる。
 サイドミラーで左右幅を確認しつつ、バックミラーで後ろとの距離を測る。誰も見ていないのでそこは余裕を持って切り返しを数回こなし、なんとかクルマを納めることができた。こみ上がる歓喜に身体が跳ね、思わずハンドルを右手ではたく。
「よーし、何でも簡単にあきらめちゃだめよね。攻めの気持ちがあるから運も呼び込めるってものよ」
 そうひとりごちして、意気揚々とハンドバックを手に、ドアノブに手をかけようとしたそのとき、サイドミラーには見たくもない物体が映り込んでいる。白と黒に塗り分けられた軽自動車。ミニパトがゆっくりと前進してくる。
一台づつ車内を確認しては、先端にチョークの付いた棒を窓から手を伸ばし、器用に使いこなして、タイヤとアスファルトに直線を引き時刻を書き込んでいる。
「なんなのよっ! このタイミングで来る?」
 せっかく駐車スペースを見つけて意気揚々と出かけようとしたところに、路上駐車の取り締まりが現れるとは、ついてないにもほどがある。せっかく手に入れたものを手放すという行為は、はじめからなかった時より失望感がより増して、絶対に手放したくない思いが強くなる。
「どうする?」
 アケミが考えた選択肢はふたつ。クルマを出して他に止められる場所をもう一度探し直すか、このままこっそりと助手席側から外に出て用事をすますか。例えマーキングされても制限時間内に戻ってきてクルマを出せば、駐車違反に問われることはないはずだ。それは局内での対応がスムーズに進んだと仮定しての話しになるが。
 そうこうしているあいだにも、ミニパトは迫ってくる。慎重に身体を動かして、助手席の方へ席を移ろうと試みる。ヘッドレストからあたまが出ないように、身体を下にずらしながらの動作となるので時間もかかり、体力も使うため少し汗ばんできた。足を伸ばすとスカートが捲れあがり、これ以上足を広げれば下着があらわになってしまう。誰も見てないからいいようなものの、こうまでして今日の予定をクリアしていかなければならないものかと、救われない泥沼にはまっていく自分が滑稽に見えてくる。
――アンジーなら、スカートの裾を破って、さっそうと座席移動するところだけど、破ったあと、どうやって法務局や得意先に行けって言うのよ。悪役と戦ってるならさまになるんだけどね。
 なんとか助手席に移り込んだときには身体がぐったりしてしまった。ここで止まってしまうわけにはいかない。開扉レバーに手をやり、ゆっくりとドアをあける。ところが少し開いたところでそれ以上は開かなくなってしまった。アケミはやせ型だが、さすがにこの隙間には身体は通らない。
「ちょっと。どうなってんのよ。コレッ!」
 窓越しに悪態をついても、壁とドアのあいだにある物体は動じない。ドアに傷がつくのを承知で力を込める。グッグッと金属がこすれる音がして、あわてて力を抜いた。ダメだ、ここからは出れない。そうなればあとは後部座席のドアから降りるしかなく、恨めしそうに後ろを振り向いた。移り込むにはかなりアクロバテックな動きを強いられる。背もたれを目いっぱい倒して、ミニパトの婦警に気づかれないようにして、身体を寝かせたままうしろにずれて移動するしかない。
――だからアンジーじゃないって。
 それは自分で突っ込みたくなるほどバカバカしい行為だ。それにミニパトはもう2台後ろまで迫ってきている。いまからトライして後部座席に移動できても、見つからずに車外に出るのは至難のわざだ。
 必死の思いで座席を移動して、クルマのドアに傷までこしらえて、結局はこのザマで、なにひとつ得るものはなかったどころか、さらに無駄に時間を浪費しただけとなった。はじめのボタンの掛け違いを正すには、やはり最初までもどらなければ二度と元に戻ることないのか。
 アケミはしかたなく、スマホを取り出して耳にかざし、通話をしているふりをする。連絡を取る必要があり、やむなく駐車したように見せかけるためだ。サイドウインドウには目をやらずとも、目端にミニパトが映るのを確認する。声をかけられたらスマホでの用事を済ましたふりをして、サッサとこの場をはなれるしかない。
 ウインドウをノックする婦警に対し、いま気づいたとばかりに驚いた表情をつくり、手をのばしてパワーウインドウを操作してウインドウを下げる。婦警は助手席にひとりで座っているアケミに、運転手はどうしたのかと問いかけてくる。たしかにこの構図は、他に運転手がいて、車外に出て戻ってくるのを待っていると思われるのがふつうで、助手席でひとりスマホを操作していても、緊急停車している言い訳にはならないと今さらながらに気づいた。
 婦警にクルマを出すように促され、申し訳なさそうにしてアタマを下げる。ただでさえ予定時間を過ぎているのに、これ以上ムダなやりとりをして時間をかけるわけにはいかない。
「ごめんなさい、ちょっと主人が所用で。ここで待っているように言われて… 」
 婦警は知らないが助手席側からは外に出ることができないので、クルマを出すためにはもう一度、運転席に移動しなければならない。助手席側のドアが開かない動きを再演して、先ほどの行動を婦警が見ている前でするのは気恥ずかしい。笑顔であたまをさげ、手の動きで婦警たちに先に進むように促す。いぶかしがる婦警は何故サッサとクルマを降りて運転席に移らないのかと不思議そうに見ている。なんだかんだっと言ってここに居座るつもりでいると思われているらしい。
 ここでアケミの考えた選択はふたつあった。自分は免許を持っておらず、主人が帰ってくるまでここを出ることができないと伝えるか。助手席側のドアが開かないと伝えて、運転席に移り変わりクルマを出すか。いずれにしても理想とかけはなれた世界しか待っていなさそうだ。
 第一の選択は他に依存する部分が多すぎて効率的でない。戻ってくることのない架空の主人を待ち続けて、婦警がもしも立ち去らなければ嘘がばれ、あらたないいわけをひねり出さなければならず、それに時間がかかりすぎる。
 いつまでもここで留まっていてもしかたがないと観念したアケミは、目を離さない婦警にニッコリと微笑み返しして、右足を持ち上げ運転席のフロアに滑り込ませる。スカートが張り、結構きわどいラインまで裾が捲れ上がる。婦警で良かったと安堵するとともに、往きに裾を破かなくて良かったと胸をなでおろす。それでも婦警たちは目を剥いて驚きを隠せないでいる。なにか見てはいけないものを見たような表情で首をふっている。
 アケミはエンジンをかけ、ハンドルを切りかけてミニパトに後ろに下がるように仕草でつたえる。ゆるゆると後退するミニパトの前方をなめながら、ウインカーをあて社用車を前進させた。自分の行動を正当化するためにおこなったことへのしっぺ返しは相当なものとなった。署に戻った婦警がおもしろ、おかしく喧伝する姿が容易に想像できる。
 大きなため息をつくアケミ。いまさらもう法務局へ向かう気にもならないし、そもそも時間がない。それにもし法務局の駐車場に向かって空きがあったとしたらと、想像するだけで気が狂いそうになる。理想の世界には永遠にたどりつけない自分を再確認するようなものだ。
 これから得意先に向かえば30分前には余裕で到着する。そうすれば資料を見直す時間もとれる。そういえば一か所だけ、言い回しをどうしようかと保留にしておいた部分があったはずだ。
 時間に余裕があるのは何しろ良いことだと、そう自分に言い聞かせても乗り気になってこない。法務局だって。余裕を持って会社を出てきたはずなのに、駐車場の混み具合に惑わされてあるべき時間を迷いのなかで失ってしまった。
 大通りでクルマを路肩に寄せていた。エンジンを切り、シートに身をゆだねる。
『マリちゃん。あなたね、選択肢がひとつしかないから仕事がうまく回っていかないのよ。リスクマネジメントして、AがダメならB。BがダメならCと、腹案はふたつ、みっつ用意しておくものでしょ』
 そんな社会人としての術をパート社員に偉そうに吹いていた。自分でさえこれだけ考えて行動し、仕事をこなしている。前日には翌日のスケジュールを組み立て、必要なタスクにチェックを入れ、さまざまな状況を想定して対応できるように準備している。それでうまくいったことも何度かあった。
――うまくいった?
 うまくいったと思い込んでいただけなのかもしれない。本当はふたつも、みっつも用意した代替え案に陽の目を当てたかっただけなのかもしれない。自分がこれだけ準備していることを知らしめて、自分自身で満足していただけなのかもしれない。いわば自らリスクを求めて、それに対応できている自分に酔っているということだ。
 いったい自分は何をしたかったのだろうか。これまですべきこと、やるべきこと、したかったことをすべて棚上げして、不安を取り去れないままうわべだけうまく立ち回っている、あるべき自分ではない自分を過ごしてきただけではないか。アケミの行く手を阻む悪意なき人々は、結局のところ自分で作り出していたにすぎない。
 なにもかもバカバカしく思えてきた。
迷宮に陥った人間は自分が迷宮にいることに気づいていない。ある時、前に見かけたネズミを見つけて、迷い込んだネズミを哀れに思っていると、上空から自分を見ている誰かにささやかれた。おまえも抜け出せないのだと。
 クルマを停めた場所から見えるハンバーガーショップの女性店員が、天井の電球を交換している。台にした脚立の上に不安定に立って、必死に手を延ばしている。時間を惜しんで足を踏み外しケガでもしたら元も子もないのに、彼女はなんとかやり遂げようと徐々につま先立ちになってきた。
 ここで、アケミの選択肢はふたつあった。いまより高い台座を用意するか、自分より背の高い他のヒトに替ってもらうか。
「あきらめて、やめてしまうって手もあるのにね… 」
 それも単なる人生の一日。
 今日もまた人生の一日。
 これもまた人生の一日。


A day in the life 1

2016-11-12 13:47:38 | 非定期連続小説

 地面に貼り巡らされたレンガがそこだけ隆起している。まるでそこだけが、そのように造形されていると思えるほど、自然に盛り上がっていた。
 想像するに、それは近くの街路樹の根が成長し、レンガを持ち上げていったか、なんらかの他の植物がその下で繁殖し芽を出し、太陽を求めレンガを押しのけようとしていると言ったところか。
 夏の暑さもさめやらぬまま、赤茶けたレンガの照り返しやら、吸収された熱が発散し膨張した空気に身体が重くのしかかってくる。
 レンガの隙間からは茶色い物体が見えかかっていた。
 商店街の蕎麦屋の前にそれはあった。夏まつりがおこなわれ、そこで転ぶお年寄りや子供が多数あったとかで、市に通報があり整備することになった。
 さびれていたはずの商店街が、今年の夏まつりはえらく盛況だったらしく、市の補助金も出ない中で、自前で整備費を都合付けたと市の担当者が驚きながらも、予算が浮いたと喜んで話してくれたのを耳にして、それであれば事前見積もりで提出した工費の値切りに応じなければよかったと、タケシタは毒づいた。
 個人で外構業を営むタケシタがなんだか厭な流れを感じていたのは、ここに来るまでに通りかかった公園で、似合いのカップルが真っ昼間からベンチに座ってビールを飲んでいたのを目にした時からだ。
 藤の木の蔓をつたわせようと鉄骨で作られた建造物に、自らのDNAに背くことなく蔓を伸ばし、柱に巻きついて、天井を覆っている。5月にはきっと紫の花を下げて行きかう人の目を楽しませるのだろう。今はベンチの二人に良い感じで日影ができており、それはそれでまた気に食わない。
 カップルなんてものは、イイ女に野暮いオトコと不釣り合いであれば、なんでこんなヤツがいいんだとアタマにきたり、不細工オンナとイケメンならばやってろよと舌を出したりと感情が動くもので、それが美女に男前だと、テレビでも見ている気分になり、自分はフレームの外に追い出されてしまった気持ちをタケシタはいつも持ってしまう。
 仲むつましいふたりの生活風景を想像力の乏しいあたまで思い浮かべ、大きなため息とともに虚脱感につつまれる。そして人生のこれまでの道のりと、これからの道筋を照らし合わせれば、いままでまともに女と付き合うこともなく、これから素敵な女性と巡り合う予定もありそうにもない自分に悲観し、仕事へ向かう気持ちもいっそう萎えていた。
 映画のワンシーンを演じるようなふたりを横目に、なんともやるせない気分を引きずりながらここまでやって来た。サッサと仕事を片付けようと軽トラからトラ柵を取り出していると、いつのまにか明らかに敵対心を目に灯した団体に囲まれていた。
 人は逆境に立ち向かう姿に感情移入しやすい。弱い立場の人間ならば余計にそうなりやすいのは、自らの境遇と重ね合わせるといったところか。体制側が造って管理している道路や歩道が、そんな自然の小植物の抗いを受けていれば応援したくなるのはわからないでもない。
 一生懸命に生を得ようとしているそんな健気な植物を撤去しようとしているタケシタは、あきらかに体制側の人間であり、網にかかった獲物のごとく反体制グループの毒牙にかかり、大きな反発を一身にあびている。
 自分の家の庭先に繁っている雑草ならば、親の敵のようにして容赦なく引き抜くはずなのに、歩道のレンガの隙間に芽生えた植物に優しくなれるのは、どんな心の棲み分けをしているのだろうか。世の中にはそんな偽善があふれている。メディアが取り上げれば数をタテにして、ますます盛り上がっていく。数は正義になる。それがどれだけ恐ろしいものか知っている年代の人であっても、こういった心温まる話にはコロッと、こころを持って行かれる。
 タケシタはそんな大勢の正義の味方を向こうにまわし、絶望的状況にあった。誰だって面倒な仕事はご免こうむりたい。できれば自分だってそちら側にまわり、芽吹かせようとしている小さな命を守ってやりたいと腰も引ける。
 役所から仕事を貰うために使い勝手のいい便利屋のように立ち回り、次の声がかかるように愛想と、季節の贈り物をかかさない。そんな立場の自分がこんなことで寝返るわけにいかないと思いつつ、そういえばこのごろやたらと面倒な仕事が増えてきたと思い起こされる。キリギリスが眼鏡をかけたような担当の上から見くだす顔が、さらに憎らしく思い出された。した手にでるほど自分の立場を危うくしているのではいかと、いらぬ心配が現実化してしまった。
――あのヤロウ、こうなるって知ってたんじゃないだろうな?
 口ではどんな小さな仕事でも、面倒な仕事でもやるので仕事を回してくださいと懇願するがそれも程度問題で、トラブル処理も兼務なら工賃に上乗せしてもらわなければ割が合わない。
 これからタケシタは対抗する声を制し、植物を守ろうとする正義の味方たちを蹴散らし、レンガを外して、土を掘り、植物を取り除き、市指定のゴミ袋に放り込んで、あと地に除草剤をこれでもかと撒いて根絶やしにして、土を戻し、きれいにレンガをはめ込み、なにごともなかった平常の歩道に戻さなければならない。
 普段ならなんの造作も他愛もない作業だ。それなのになんの因果か多勢に無勢は見ての通り、たったひとりで徒党を組んだNPOだか、市民団体だかに立ち向かわなければならい。自分こそがレンガの下敷きになっている、か弱き命ではないかと哀願し、同情を買いたくなってくる。
 暴言を浴び続けているタケシタは、廃棄せずに他の場所に移すだけだと、簡単にばれるようなウソをついぐらいしか回避手段を思いつかいない。気が弱いタケシタが大勢を相手に、腹芸を見せられるはずもなく、乾いた口や、詰まる喉で、しどろもどろになりながら説得しても信頼性はゼロである。
 移植と言っても簡単にできるわけもなく、そこの管理者と交渉して必要であれば費用が発生するし、運送料も余分にかかる。ただでさえギリギリの利益で請け負っているのにそんなことをしていればアシがでる。希少植物であれば受け入れ先もあるがそんなうまい話があるわけもまなく、この場が丸く収まりさえすればサッサと手離れして廃棄するつもりだ。
 
人だかりが目を引き、関係のない通りかかりの者まで面白半分で一緒になって騒ぎはじめたから始末に負えない。その中には退去する代わりに何か貰えるのではと期待する物乞いまがいなヤツらもいて、タケシタを囲む人たちはそれ自体がまわりの迷惑になっていることなどお構いなしに、正義・正論をゴリ押しして勝手な振る舞いをしていることに正気でなくなっている。
 世の中には多くの仕事があり、こういう仕事も必要なのだと寛容にはなれない人は多い。自分がしてきた仕事がどれほど高貴で、誉れ高いものだったと信じて疑うことなく、自分たちが仕事をするうえで、一切自然に害を加えなかったなどありえず、小さな生命の芽生えと引き換えに、自分たちの必要以上の快適な生活を支えてきたはずだ。それともその自覚があるからこそ、償いのためにこんなことをしているとでも言うのか。たとえそうであってもひとりでは何も言いださず、同じ意見を持つ賛同者が増え、ようやく行動を起こせるぐらいのやわなムーブメントなのに。ついでに野次馬まで加勢して。
 誰もひとりでは世界の貧困をなんとかしようとも思わない。自分ひとりの範疇に収まらないとき人は無関心になれる。それがたったひとりの不幸な人間がフューチャーされると、こぞって人々は手をつなぎ支援をもとめ、そのひとりのみを不幸から救うことに満足し、それ以外は見えない世界だと割り切る。ひとりだけが幸せになり、そのために隣の不幸な人がもっと不幸になっても、誰の手も差し伸べられずに、誰に知られることもなく、この先も生きていようとも、ひとりを幸せにした達成感だけで手を取り合った人たちは満足感を得ることができる。
 とどのつまり正義なんてものは自己都合で自己完結でき、できれば世間の注目をあび、目に見えるものだけを救うことが望まれている。それはある意味、体制側の思うツボなのではないか。彼らは只、自分より不幸な何かを助けたいという欺瞞に従って行動し、快感を得て、少しの良心と引き換えに、多くの悪行を正当化してしまっているだけなのだ。
 それでは見えているもの以外は見えていないに等しいはずなのに。
『自己は結果であって要因ではない。誰もがそうであり、多くの人々が自分の人生を悲観している。結果だけを見て、うまくやれていないと自分を責めている。その要因がどこにあるのかとは考えない。アナタの話しを聞いてくれる人がいる。アナタを勇気づける人がいる。アナタを必要としてくれる人がいる。アナタと一緒にいたいと思う人がいる。それだけで充分なはずなのに、もっと大きな報酬を得る結果を望んでいる。言葉の重みも深みもそれぞれの神がのたまう言葉と同じだったなら、その浸透力も変わっていたはずだ。計算がなく、温かみがあり。利益が伴はなくとも、思いやりがある』
 タケシタも薄々、感づいていた。ヤツらはひとりでは何もできない、ましてやひとりで大勢に立ち向かうことなど絶対にしない。そう思うと自分の置かれた境遇が少し異質に感じられてきた。こんなときはケツ捲くって逃げるが勝ちだと小さい頃から思ってきたし、それでここまでなんとか凌いできたという自負もある。逃げるのは決して恥ずかしいことではない。それで最後にしてしまうより、いつかやりかえせるチャンスが残り、自分の目で確かめることができる。ただ今回は、あえて一歩踏み出してみようと、妙な勇気がわいてきた。
――うーん、トイレだって一歩前に。人生だって一歩前にでれば、これまでと違った景色が見れるってことだろ…
 そうすれば、ひとつの経験値となり、うまくいこうが、ダメであろうが今後の経験則にはなるだろう。
 なにやら気持ちも落ち着いてきて一歩前に足を踏み込んだ。いつだって常識はずれな一手が世界を動かす。思いもよらない行動が多くの人々の意識を変える。
 予想もしなかった相手の行動に大勢の力も分散した。後ずさる先頭につられて全員が一歩後ろに下がり、何人かは足を引っ掛け将棋倒しとなった。これだけの多人数を相手に挑んでくるとは思わず高をくくっていたものだから、リーダー然の男も想定外の行動にすぐに対応できず、まわりの反応をうかがうのみだ。
 一方、時を得たりと思ったタケシタは、これを逃せば二度と好機は訪れないと、一気呵成にくびきを入れてレンガをはがしはじめた。
 悲鳴だか、雄たけびだかがあがるも、誰もがタケシタの行動に釘づけになっていた。反対していながら、いったい何が出てくるのか気にはなっていたのだ。多くの目が、レンガがはがされたあと地を覗き込んでいた。大きな茶色い表層が現れ、やはり街路樹の木の根が伸びてきたのかと、少々当たり前の結果になんとなく落胆の色がうかがえる。あーあっ、という声は掘り起こされてしまったことを憂うより、出てきた植物がそれほどたいしたもの、つまりは声を上げてまで、みんななで守ってあげるにふさわしい風体ではないことの方が大きいようにも思われた。
――なんだよ、しょせん単なる烏合の衆かよ。ひとの不幸は蜜の味とか、怖いもの見たさとか、せいぜいその程度の好奇心なんだろ。出てきたモノがなんの変哲もない、ありがちなモノだからガッカリするってえ、誰だって歴史の証言者になることを望んでも、そううまいこといくわけねえんだよ。
 人々の甘い夢を粉砕するつもりで、タケシタは茶色い物体を根こそぎ掘り起こそうと、クワを力いっぱい土の中に放り込む。テコの応用で、力を入れると、茶色の物体がその容姿を白日の下にさらした。
「なんなのよ、アレ!?」
 顔をしかめた女性が、いかにも汚らしいもの見たようにして声を上げた。
 夢を見るのは誰にでも平等に与えられた権利だ。かわいい植物が健気に生きている姿を見たかった。そうしてみんなで心が温まり、そんな植物を排除しようとする作業員を非難しようと手ぐすね引いていたはずなのに、残念ながら現実はそれほど予定通りに進まない。でてきた植物は、たぶん植物だと思われる物体は、見るも気色の悪い『キノコ』? そう、キノコ的な菌糸類の、そしてそれは異様に大きな、どうみても可愛らしいとはかけ離れた、いってしまえば吐き気をもよおすぐらいのグロテスクな物体が人目に晒されていた。
 ひとの心は移ろいやすく、冷めやすい。昨日までの親友が一瞬のうちに敵になるのは珍しくはない。熱愛して添い遂げた結婚相手であってさえも細かい日常の差異が、いつのまにか価値観の違いとなり、離婚の大義名分となっていく。そもそも初めは自分と異なる価値観に魅力を感じていたはずなのに、同じ理由が別れる理由に成りえるは言葉は使いようというやつか。それならば予定調和で迎え入れ、当人同士が納得できていれば、まわりがとやかく言ってもはじまらない。
 なんにしろ、さっきまでお菓子の家がこの世界に存在していると信じて疑わなかった人々は、手のひらを返すように眉間にシワを寄せ、一刻も早くその奇妙な物体を視界から取り除いて欲しいと訴えかける目に変わっていた。
 ウサギを見れば、やはりウサギであって、ウサギという言葉には、すでに可愛らしいというイメージが付いてまわる。ゴキブリは、どうしたったゴキブリであり、口にするだけで顔が歪んでくる。ウサギという動物がもともとゴキブリという名前であったとして、人々の印象にゴキブリという言葉自体に可愛さを感じてしまうのなら、これほど滑稽な事実はないだろう。
 イルカの数だって、クジラの数だって、それを利用したいひとたちが都合よくでっちあげた数字にすぎない。事をうまく運ぼうと考えた故に導かれた数字が、良識も愛情もましてや正義があるわけでもない。あるのは権利を守ろうとする私利私欲だけだ。
 相対的な愛情も、数による守護も、これまでの常識の中で人が種族を保持していくために刷り込まれていたことが、自らの安泰が確保されれば、それを他に求めている欲求のはけ口と変化していることに気付けない人々の暴走なのだ。
 ウエッと、吐き捨てる言葉とともに、まずは野次馬的に集まっていた通りがかりの人々が遠巻きに去っていった。高まった熱は容易にまわりに感染し、しばしそれは人から冷静な判断を奪い取ってしまう。そうであれば冷静な判断の所存こそが不確かでもある。
 最初からいた団体は、目にしたものが毒キノコのような得体の知れないモノで、自分たちが意を決して守ろうとしていたものがこんなとんでもない植物と知っても、振り上げた手を下ろすところも見つからずに、ただお互いに目をくばせ、だれの責任にするべきかと腹の探り合いをしている。
 自分からはなにも行動を起こさず、波に乗り、風に身を任せる。信念のない者は先導者の熱に侵されて正義を大義として、それが弱者だろうとなんだろうと、敵として叩きのめし、踏みつけ、ひざまつかせなければ気が収まらないところまで突っ走ってしまう。突っ走ったあげく、天と地がひっくり返れば、自己保全に走ることしか考えられない。波が止まり、逆風が吹けば関係者外として安全地帯に身を置く。自らを守る手だてをなくした者は、大勢の中のひとりとして秘匿性を発揮する。
 掘り出されて天日にさらされた物体は、あと数時間もすれば乾燥して半分ぐらいの大きさになってしまうだろう。ただ、空気に触れたことでなにやら悪臭を放ち始めたものだからたまらない。このタイミングを逃すまじと思った連中は鼻をつまんだり、せき込みながら口を押さえて、その場を離れていった。
 その場にひとり取り残されたかたちとなったタケシタは、それは本来の自分の作業に戻っただけで、ひとときテレビのニュースで取り上げられる世界に放り込まれていた感覚にとらわれ、まさか自分にそんなことが起こるなんて思いもしていなかったのに、潮が引けばなんだかものたりないような気分にもなった。
 ますます悪臭を放つキノコ的な物体を古新聞でくるみ、市指定のゴミ袋を2枚重ねにして突っ込んだ。大きく開いた穴にこれでもかと除草剤を撒いていると、どちらかといえばこの行為の方が非難されてしかるべしではないだろうかと苦笑いする。レンガをはめ直して水平を出し、養生をほどこして作業は終わった。
 軽トラの荷台にトラ柵や工具とともに、いまや粗大ゴミ以外の何物でもないヤツらの夢を積み込んでいると、焦った様子のクルマが後ろからクラクションを鳴らすものだから、手を挙げて軽トラを移動させる意思表示をする。
 人が必死になって守ろうとしているものなんて、実体を見ればしょせんそんなものなのだ。そもそも人間が自然の何かを守ろうなんておこがましい話だ。生きてく上だけではなく、より快適な生活を求めていく中で、現在の環境が成り立っているわけで、被害の一部分だけを切り取って、それをさも自分が救わなければならないとする錯覚か、もしくはせめてもの懺悔なのか、どちらにしろ身分不相応な話しだ。
 タケシタは移動した車内でタバコを一服ついた。特別な一日であり、しばらくは話のネタになるような出来事で、数少ない友人にしばし感嘆を浴び、悦に浸ることもあったがそれだけで終わった。学習することのない人々の、それも単なる人生の一日。
 今日もまた人生の一日。
 これもまた人生の一日。


商店街人力爆走選手権

2015-11-29 12:17:45 | 非定期連続小説

SCENE 17

「もしもーし。おひさー。このあいだはどうもぉー。やってくれたわねえ、あの企画書にはブッ飛んだわ。取り方によっちゃ社長をコケにしてるようにもみえる。してるんでしょうけど。ずいぶんかけたわねえ...
――ちがうわよ。誉めてるのぉ。やっつけにしては予想以上だったかし、でき過ぎててさすがにどうしたもんかと迷いがあるまま始めたら、会長さんに見透かされてパニックになったぐらい。あれはあれで活用できたから結果オーライなんだけどね...
――うん、うん。そうよ、今回のはやっつけでやんないでね。そうね、最初の導入部はそれぐらいにしといて...
――そーよお。誰だってね。嫌々やる仕事より、やりたい仕事の方が楽しいでしょ。社長がムチャ振りするから、カオを立てるためにとりあえずカタチにしただけでしょ。時間もなし、ハキもなし。なんて思ってたら、こんなどんでん返しが待ってるんだからねえ...
――そう、火がついちゃった。なにがきっかけになるか、わかんないものよね...
――いいのよ、お飾りなんだから。誰も私のこと部長あつかいしてないし、内容も見てないのに私のハンコ押してあるなんて日常茶飯事。いままでだって、いなくたってちゃんと仕事は回ってるでしょ...
――でしょ。だから私が思うのはね、みんなもそうすればいいのよ。イヤイヤやらされるぐらいなら、それ以上を自分から提案するしかないんだから...
――もちろん、その点はラッキーだったと言えるわね。見えざる神の手が働いて挽回のチャンスも与えられた。見えざる神の手も、フタを開けたらお約束の面子だったからガッカリだったけど、ああそういうことか、って。私もついにお払い箱...
――そこで中見出しね...
――どうかしらね。社長に押し付けられたのも、会長にあしらわれたのも、ある意味では計画通りでしょ。そう思えばその先のストーリーは想像つくからね。いつの世も冷静で正確な判断だけが勝利と栄光を掴むのよ。情熱やら第六感で勝利を納めれば刺激的ではあるけど、一過性であり、あとからの代償の方が高くつくだけだからね...
――まあね。だいたい何が描かれているか見えてきたからそれに乗っかって。失態もあったけど、リカバリーのチャンスもできた。重室がこらえきれずに話の出どころを匂わしてくるし。ところでアナタはどこまで知ってたの...
――違うわよ。そうじゃなくて。私より知ってたのかどうか聞いてみたかっただけよ。それによって今後の評価額が変わってくるでしょ。株価みたいなものね。つねに更新していかないと、知らないあいだに大暴落してたら目も当てられないじゃない...
――私のはもう、電池切れ寸前。でもね、充電すればまだなんとか持ちそうだから。そういうわけで今日も嫌なヤツからいっぱい充電させてもらったから...
――えっ? あのボーヤ? そうね、本人だけじゃ使えないけど。まわりの関係と組み合わせれば使い様はあるわね。会長にとってもキーパーソンになってるし。利用価値があるうちは使えるだけ使わせてもらうわ。今はまだ、そのレベルってとこだけど、使いようによっちゃ大バケするかもね。そこが私の腕の見せどころかもね...
――しょうがないわよねえ。そういう人間もいて世の中が回ってるんだから...
――ううん。画像はいらないわ。固定観念を押し付けるより、いまはまだ広げたいから。あの年代は言葉の方が響くのよ...
――私? 回してるつもりはサラサラないわ。それほど自惚れちゃいないし、だいたいね、そんなふうに思っているヤツに限って、結局は自分が使われているだけでしょ。重室がいい例じゃない。だったら私なんてカワイイものよ。実物も可愛いし。そこは自惚れていいでしょ...
――えっ? ちょっと聞いてる? 誰? 知らないわよそんなコ。先週? そう、辞めたの。残念だったわね、狙ってたんでしょ。つまみぐい...
――いじめてないわよ。そもそも眼中にないし...
――それは、向こうの主観でしょ。知ったこっちゃないわよ。向こうがそう思うのは勝手だけど、いちいち同情してたらきりがないわ。別に自分の経歴が精錬潔白だなんて思っちゃいないし、彼女に限らず誰もキズつけずに伸し上がってきたなんてキレイごと言うつもりもない。誰かの失意の上でいまの立場にいるのも事実とすれば、それを世の中や他人のせいにできれば楽なんだけどね。上に行けば行くほどその感覚は鈍ってくる。下に留まっていると誰かのせいにできないかと粗探ししたくなる。アナタはどうなの? 自由気ままで居心地よさそうだけど、恨みに転化するのはやめてね...
――あっ、そこはまだ伏せといて。その部分は私にとっての切り札になるかもしれないから。会長がうんと言わなきゃ、別に持ってくことも視野に入れている。その時はこの会社にはいないだろうけど...
――大丈夫よお。もしリークがあったとしたら出所はアナタしかいないんだから。その状況でやるほどヌケてないでしょ。それとも、それ自体が伏線だとか?...
――ハイハイ、わかってるわよ。You wanna play. You gotta pay.でしょ。大丈夫よ。私はまだアナタにとって利用価値がある人間だから、まだ切ろうとは思っていない。そう思わせられるうちはまだ私の手の内でしょ...
――それでクローズといきましょ...
――うーん。その感覚が鈍らないうちに結論が出ればいいんだけど...
――ヒットミねえ? うーん、100パーないとは言えないわよ。そこら辺はシビアだからさ。私にまだプライオリティがあるうちは従順だろうけど、そうでなければ自分のファイルにストックする可能性はあるでしょうね。逆にそうだからこそ信頼して仕事が頼めるってものよ。アノ子も変な馴れ合や情だけでつながっていられるほどウブじゃないし、私だって友達だとか、仲間とか、そんなものにたよって仕事するほど落ちぶれちゃいないわ...
――そうみたいね。私が独立したら、アナタもついて来る? それはないわよねえ。今回のプランを持って旭屋堂に売り込むのもアリよね。二階級特進して重室こきつかってやるとか? って調子のりすぎ?...
――えっ、そうなの!? だから動きが早いってわけ。あっそう。じゃあ、ウチも吸収されて、どのみち私の居場所はなくなるってことじゃない。さっすが、いい情報持ってるわね。っていうか早く言いなさいよ。いいかげんしゃべらされた後でこれじゃ、私もいいように扱われてるんじゃない。やっぱり回してるのはアナタの方でしょ...
――ソッチはそのセンでいいわ。明日の朝イチに見せてもらえる? とはいえ出来栄えには充分期待してるわ。やっつけでもあれだけの内容に仕上げるんだから。期待しない方が無理でしょ...
――リップサービスはそれぐらいにしておくわ。それもわかった上でオーダーしてるんだからね...
――そうかもね。だから、それはコッチにもいえるからね。じゃあ、あした。例の店でモーニング食べて待ってるから。コーヒーのお代わりしなくてすむようにヨロシク...
――なに言ってるのよ。私なんかより、もっと若い娘がいいんでしょ。いいコ見つかるといいわね...
――今日はダメだからね。お先にオヤスミー。ガンバってねセキネさん」


商店街人力爆走選手権

2015-11-15 11:04:02 | 非定期連続小説

SCENE 16

「おまえ、何をかくしている? なんだ人力車って? 祭りの時に使っていたヤツか? あんなものをいまさら引っ張り出して、なにやらかすつもりだ」
「えーっと、それは… 」
 戒人の目が右へ左へ、上へ下へと縦横無尽に動いている。
「バカタレ! 言い訳考えてるのが見え見えだ。どれだけおまえの父親やっていると思ってるんだ!」
「えーっと、ニジュウゴ年… 」
 会長は手で目を覆った。素直に答える息子が情けないやら、やはりと納得してしまうやら。そんなことよりもどうしても確認したくなる。
「時田さんの差し金か」
「そっ、そう、そう。そうなんだ。もう、無理難題ばっか言ってきてホンと困っちゃって。そう、ホンと」
 渡りに船と、早速なびく。自分が楽になる状況にはあとさき考えずに飛びつく。
「何なんだ。その無理難題って」
 会長が聞くであろう当然の質問も、戒人には想定できておらず、この段階にきて、さてどこまで話していいものやらと、さすがに自制心が働いたのは、自分の体裁に関わってくるからで、それ以外の打算はいっさいなかった。
「それはその… 人力車で駅まで送っていけとか、ニシキのタコス屋で朝まで付き合わされたり。それで朝風呂に入りたいとか、風呂入ってるあいだにコンビニに下… 舌平目のムニエルを買わせに行かされたとか。アサメシに… とか、とか」
 危うく女物の下着を買わされたと言い出しそうになり、すんでのところで思い留まった。会長はいぶかしげな顔をしつつも、いまどきコンビニに何が売っているかなど知りはしない。
「とにかくさ、もう、そんな感じでやりたい放題、言いたい放題で、いくら会社の上司だっていってもやりすぎなんだよなあ。しかも他の部署だし… 」
――そうか、あれからすぐ商店街の現状を見て回ったというわけか。それをコイツはただ振り回されただけだと。
 なんとか父親としては息子に名誉挽回のチャンスを与えたかった。背中で語っても通じあえないのならば、次にできることといえば背中を押してやるぐらいだ。もしあの女部長が少しでも戒人に目をかけてくれるなら、そのあいだにつないでおきたいと思うのはただの親バカなのだろうか。
「時田さんと一緒に一晩明かして、おまえは何も感じなかったのか?」
「カンジ、ナカった? ああ、感じなかった… って、やだなあオヤジ。朝まで一緒だからって、なんにもなかったから。あるわけないし。それにオレに… 」
「バカモン! そんな話をしているんじゃない。時田さんと商店街を見て回って、なにか気になったことはないかと聞いているんだ」
 会長は大きく天を仰ぐ。親の心子知らず。10年後の戒人が、少しでもいまの自分の気持ちを理解してくれるのかと懐疑的にならざるをえなかった。
「うーん。別に… 」
「彼女、時田さんはな、それなりに収穫があったみたいだ。現にさっきのように人力車について訊いてきた人もいる。タネを蒔くから収穫ができる。なにもせずに芽を出すようなモノは、簡単に毟り取られ消費されるだけだ」
「そんな、タネをまくだなんて、直接的な。だから、なんもしてないってオレ」
 商店街の現況を見極める能力はなくても、ソッチの話に持っていく才能は人並み以上にあるらしい。会長は閉口しながらも、せめて20年後にはと考えを改めていた。
 これまでなら黙りこくってしまうか、一方的に持論を述べて終わりの父親であったのに、今日は少し様子が変だと感じた戒人から、普段なら決して口にしない言葉が飛び出してきた。一度堰を切るとすべてを出し切らずにはいられないほどに。
「オレだってさあ、そりゃ商店街が昔みたいに、オレらが子供ん時ぐらいとかに盛り上がっててくれたらいいなあって思うよ。楽しかったもんな。だけどどうしたら良くなるかなんてよくわかんないし、あったとしても誰に何を言えばいいのかもわかんない。それにどうせオレの考えたことなんか、誰も相手にしてくれないだろうけどさ。仮にその案が通ったとしても成功するわけじゃない。逆に失敗すればああやっぱりとか、変に怨みをかったりするかもしれない。未来への希望が持てないのは商店街だけじゃない、そこで育った子供たちだって同じだよ」
 深刻な内面の辛さを切々と語る割には、口笛でも吹いているかのような口調と表情だった。そうだからこそ会長は、戒人の他人任せで、大勢の中のひとりが楽であると逃げているだけの生き方がたまらなかった。そんな大人に育ってしまったのは間違いなく自分の責任であり、多くの若者達が大なり小なり同じような方向を向いているのは、自分たちの世代が残した負の遺産のひとつなのだと歯噛みした。
 咎めるわけにもいかず、なんとか前向きな言葉をかけてやりたい。恵との話し合いがなければそんな気にはならなかったはずだ。
「なにか考えがあるなら、言ってみろ。月並みかも知れんが、なにかして負けた方が、なにもしないよりよっぽどいいだろ」
 先に歩を進めている戒人が右手を煽った。
「そうじゃないんだよ、オヤジ。オレはたしかに情けなくて、臆病な人間で、同じ年代の中でもイケてない部類に属する人間だよ。でもさ、そういうのって、そういう人間をつくりだす必用があるからだろ。意見を持たず大勢に紛れてなびくような人間。権力者ってやつは戦争がしたきゃ屈強な人間をつくりだすし、画一的な歯車だったり、従順な犬だったり、必要に応じて適応する人間が必用なんだ。まわりが固まればそこからはみ出すのはよっぽど能力のあるヤツか、空気を読めないただのバカでしかないよな。だからオレはね、何者にもなって欲しくない今の社会が求める人間になった。それがいまの世代に求められているから。そういったヤツラが目立って非難もされる。それはある意味動かす側には好都合だろ。それにオレは別に嫌なわけじゃないよ、そういう生き方も」
 会長はもうなにも言葉がなかった。なんの考えもないと思っていた息子が、自分以上に世の中の流れを読み取っていた。なにも知らないと浅はかさを憂いでいるのは、本当に何も知らない親の方であったのに。いつまでも手の中にあると思われていた戒人はもう、自分の手の届かないところいる。ぶざまな言い訳だとわかっていてもこれだけは言わずにいられなかった。
「それが国や社会が望んだことだと、そうでなかろうと、わしらの若い頃は脇目もふらず、一心不乱に働いて、少しでもいい生活をするために、家族や子供に不自由な思いをさせないようにと。それが間違っていたとは思わんぞ」
「間違ってるとか、正しいとかじゃないよ。オヤジを悪く言うつもりもない。プールの中で大勢が同じ方向に進んで行く中で、自分だけ別の方へ行くのは不可能なんだ。選んだって錯覚させるような巧妙な手口はいくらだってあるだろし、それが当時求められていたことだったんだから。それが回りゃあ、会社や、世間が、社会や、国が望んだ方向に向かって走るように仕込まれていく。意思を持てるのは強い人間だからじゃないよ。回りの期待に鈍感なだけだ。そいつらがのさばりたいならそうすればいい、どうせ誰かが世の中を動かしてかなきゃならないんだし、大多数のモノ分かりのいい民衆も必要だ。でもね、そうして指導者となった者が、その先も民衆の支持を得られ続けるってのは歴史上ありえないんだよねえ」
 家路を進む二人のあいだに距離ができはじめた。前を進む戒人にどうしても追いついていけない自分がいる。戒人はきつい言葉は避けて話していた。なんの抗いもできなかった自分たちの世代に対し、親であることを差し引いて寛容であった。やる気のない若者や、傍若無人な振る舞いをする若者に、自分たちの理論を押しつけて、不満を口にしてしまうのは自分が丸め込まれた人生を正当化するためでしかなかったのか。
 差が開いた父親の方を振り向きもせず、戒人は自分のペースで歩きつづけている。その差はこの先もずっと開き続けていった。


商店街人力爆走選手権

2015-11-01 10:29:42 | 非定期連続小説

SCENE 15

「敵情視察ですか? 時田さん」
 夏、真っ盛りの暑いさなかにダブルのスーツを着ている、いかにもやり手の実業家然とした男が恵の後ろから声をかけてきた。声だけで誰なのかを察した恵は、男の方を振り返ることなく、あえてショップのショーウインドに映りこむ姿に言葉を返した。
「あーら、重室さん、こんな暑い中、わざわざプロジェクトリーダ自ら現地視察ですか? さすが、できる広告代理店ビジネスマンは違いますねえ。ここまでやって、いまだ改善に余念がないとは。それとも… 自分が出した成果を見回して、眺め回して、舐めまわして、堪能して、自己満足にでも浸っているところに負け犬を見つけたもんだから、気分も盛り上がって、てとこでしょうか?」
「ハハハッ、そこまでイヤミがスラスラと出てくるとは、よっぽど根に持たれているみたいですね。まるで、今日この日のために蓄えてきた怨みつらみを、すべて吐き出さんばかりの完璧なセリフ。まさか台本まで用意してたとか?」
「そうですねえー、一日千秋の思いでこの時を待っていましたわ。なんて言ってやり込めてやろうかと毎晩考えてたら、暗記してしまったようです。人の怨みが持つ陰の力を身に染みて感じてしまいましたわ。なるほどそれらが幾つもの歴史を変えてきた理由がよーく理解できたところです」
「ハッハッハ。まあ歴史云々のハナシは置いておいて、アナタのような素敵な女性が毎晩ぼくのことを思っていただなんて大変光栄ですよ。もっとお話しを聞かせていただきたいですね。どうですか、今晩一緒に食事でも? もちろんそこで、これまでのボクへの怨み節を話されても喜んでお聞きしますよ」
――マゾかっつーの! 喜ばれるなら言わないって。
「あーら、ご関心があるのは仕事と、この商店街だけだと思ってましたら、意外と女性にも興味がおありとは。仕事中毒で浮いた話しのひとつもないって評判ですんで、普通だとここでソッチかもしれないなんて下衆な勘繰りをするものですけど、私はそうは思ってないから安心してくださいね」
 恵は否定することにより、あえて口に出せる方法で重室を挑発した。食事の時間を待つまでもなく、いつでも、どこからでも、どんな体勢でも嫌味は出てくる。
「なにをおっしゃるかと思えば… 他人の成功は普通の人間にとっては、やっかみの原因になるものです。そんな話しをいちいち気にして相手にしていたら身が持たないし、時間の無駄です。言いたいヤツラには言わせておけばいいし、そんな人間は所詮、それ以上の何者にもなれない… まあ、なるつもりもないでしょうけどね」
 恵はようやくカラダを向き直して、重室と対面した。満面の笑顔で腰に手をあて、腰をくびれさす。室河の視線がウエストからヒップ、そして太ももをなぞっていった。
「あなたと意見が一致して残念ですけど、私もまったく同感です。他人を貶めるのは、自分を貶めると同じことで、なんの利益になりませんからね」
「はっはっはっ。利益ですか。いやー時田さん、いいですね。わたしはね、常々あなたとは方向性は同じだと思っていたんですよ。言葉の端々にトゲがありますけれども、それもまた刺激的で小気味いいほどです。これまではライバル会社として何度か遣りあってきましたけれど、いつか一緒に仕事をしてみたいと思っていたんですよ。どうです、そのような話しをもう少し詰めていきませんか? お互いの意思を疎通できる素晴らしい空間を提供しているお店があるんですよ。私の親友がやっているイタリア料理の店なんですけどね」
――なにスカシたこと言ってんのよ。アンタが女をおとす時、必ず使う店でしょ。店長を取り込んで飲み物に混ぜモノしてるってハナシですけどお?
「ゴメンなさい。ぜひご一緒したいんですけどお、今日中に駅裏の会長に提出する企画書をまとめなきゃならないんです。アナタのような人生の成功者にはわからないと思いますけど、才能がない人間は他人が遊んでいる間に努力しないと、いつまでたっても追いつけませんからね」
「だからですよ。だから、私と一緒に人生の成功者になればいいんです。しょせん成功を手にできるのは一握りの選ばれた人間だけなんですから、無駄な努力をするよりも同じ神輿に乗ったほうが早いと思うんですがね。あんな見込みのない駅裏の仕事は貴女には似合わない。さっさと見切りをつけた方がいい。つまり、私にノッからないかってことですよ。いろんな意味で。ハッハッハッ。食事のあとでさらに親交を深められるんじゃないでしょうか。ハッハッハッ」
――出た。エロオヤジ炸裂。無駄な努力ってどうよ? ふんっ、調子にのっててくれてたほうがコッチも都合がいいけどね。
「あらあら、重室さんとしてはえらく下世話な発言ですねえ。どうでしょうこれは充分に、セクハラのパワハラの、モラハラに該当すると思いますけど? 知り合いの弁護士さんに相談したら何というでしょうか? 一度、聞いてみます?」
 恵は、端末を取り出して片手で起用に操作し始める。余裕を見せていた重室も、これにはさすがに顔をこわばらせ、焦った表情でとりつくろう。
「ちょっ。ちょっと待って!」
「エアーよ、エアー。そんなメンドーなことに関わってる暇ないですから。やはり、エリートサラリーマンもさすがに訴訟ごとは避けたいようですね。世間体も悪いし」
「まったく、悪いヒトだな… っと、これじゃ余計なことしゃべれないな。つまりは手を出すなってことですか。いいでしょ、まだ、降参してないというのなら、どんな手で巻き返してくるのか楽しみにさせてもらいますよ。いつまでそれが続くのかわかりませんが、早めに降参してもらえるとボクも助かるんですがねえ。時田さんが言うように時間は大切だ」
――私落すのに時間かけられないってこと? ずいぶん安く見られたモンね! 出来レースでしか勝てないヤツがよく言うわよ。みてらっしゃい次はそのまんま、アナタに地団駄踏ませてやるから。
「たとえ負けたとして降参はしません。アナタにアタマさげるぐらいならこの業界に残るつもりはありませんから。それともうひとつ、忠告させていただけるのなら、アナタの価値がいつまで続くのかいささか懐疑的でもあります。あまり自分の能力を過大評価してると、知らない間に消えていなくなるなんてことも… 上昇志向もいいですけど、先に何があるのかも知らず、自分が何になりたいのかも決められないまま、どこまでも突き進んでしまうのはアタマの良い人間はしませんよね。私とどちらが先にいなくなるか楽しみですね」
 穏やかで端正なマスクが少し歪んだのは、少なからず身に覚えがあるということになる。恵のカマかけは自信満々に言い切りるために、相手が簡単に翻弄されていく。
「ふーっ、いまの言葉は聞き捨てなりませんね。いいでしょう、おとなしく私の軍門に下ればその先もあり、いい目が見れたものの。そこまで言われれば、コチラも徹底的にやるだけです。ボクはまだ消えるつもりはありませんのでね」
「手に入らなければ、抹殺したほうがいいと? わかりやすくていいですね。これで私も張り合いが出てくるわ。私ね戦う相手が悪けりゃ悪いほど燃えてくるタイプなんです」
「悪けりゃ? 強よけりゃの間違いでしょう。あまりいたずらが過ぎるとケガをしますよ。ボクはあなたがキズ付く姿は見ていられそうにない。武士の情けでけで、これだけは忠告しておきましょう。見えている敵がすべてでなく、どこに見えない敵がいるのかも充分に考慮しておくべきだとね」
 いいようにあしらわれた状況に、少しでもまだ自分に余裕があるところを見せたいのか、含ませながら強がっていた。それによって恵が貴重な情報を得られたとまではアタマがまわらない。
――わかってるわよ、そんなこと。見えないところで敵がうごめくもんだから、ハマってるんでしょ。
「これは、ごていねいにありがとうございます。世の中の人間がみんな、アナタみたいに素直で、わかりやすいと楽なんですけどねえ?」
 恵は笑いながら、ハンドバッグを振りかざし、踵を返した。今夜の獲物を失った重室は、小バカにされたままの状態で別れることとなり顔をしかめて悔しさを現す。
「あのオンナ… 必ずひれ伏させてやる… 」


商店街人力爆走選手権

2015-10-18 13:33:12 | 非定期連続小説

SCENE 14

「やっべーなあ、どやされるな。まちがいなく。どーする」
 駅の改札口でひとり待つ戒人は気が気ではない。結局、想い出のままのノリで野球観戦を口実に会長を駅まで引っ張り出そうと電話をしたまではよかったけれど、会長からのひと言は『今日、野球やってないぞ』で、プランBを用意しているはずもない戒人はあえなくパニック状態に。それじゃあ、たまには一緒に飲もうなんて、それぐらいしかあたまに浮かばず、とにかく屋上での待ち合わせを強要していた。
 飲みに行くのに駅で待ち合わせは理解できるとしても、どうしてわざわざ屋上まで行かなきゃいけないのかを突っ込まれても、聞かれるであろう問いに対し、やはりなんの準備もできておらず、答えに困窮し『いいから、いいから』で押し切り、ボロがでないうちにすかさず電話を切ってしまった。
 屋上に上がるエレベーターが見える場所で隠れて待っていると、会長が向こうからやってくるのを見てホッと胸をなでおろした。だが、今度は、あの部長と何を話すのか、いや、そもそも話し合いに応じる気があるのか、気になりだしたら、居ても立ってもいられなくなり、後から来たエレベーターで自分も屋上に上がっていた。
 柵にもたれかかり、駅前を見下ろしている二人を発見しても不用意に近づけず、お決まりのように草植えの影から挙動不審丸出しで覗き込んでも、表情も会話も垣間見ることができるはずもなく、よけいにストレスがたまり、これじゃあ下で待っていたほうがよかったぐらいだと舌打ちをしていた。
 ただ、二人が会話を続けているのは間違いなく、その点に関しては無理やり仕事を押し付けられたとはいえ、自分も少しは役に立ったのかと安心しつつ、いいように使われただけなのかと微妙な感じも残る。
 しばらくすると話しが終わったらしく会長が振り返り、部長が深々とあたまをさげる。どういう話しで決着ついたのか考える暇もなく、腰を落したままダックウォーキングで非常階段へ向かった。エレベーターで降りる会長より早く1階の改札で待っていないとまずと思い、戒人は本日二度目の階段落ちを決行した。
 昨日、人力車を引いたために、ふくらはぎや太ももに痛みと張りがあり、ただ普通に階段を降りるのも簡単ではない。途中で階段を転げ落ちながらも手すりで身体をささえて、なんとか1階まで到着した。
 防火用の扉を開けエレベーターを見ると、ちょうど開いた扉の奥に会長の顔が見えた。間に合ったのはいいが息を切らして、額に汗した姿で顔を出すわけにもいかないので、深呼吸して息を整えながらハンカチで汗を拭いた。
 会長はまだ戒人には気づいていない。新しく改装された駅を物珍しそうに見回しながらゆっくりと歩を進めていた。自らの体勢が整え終わったところで、もう一度息を飲み込み会長の肩をたたく。おどろいたように振り向いた会長は戒人の姿を認めてホッと息をつく。
「なんだ。おまえか… 」
「遅かったから、だいぶ待っちゃったよ」
 会長は大きく溜め息をついて、なにか言いかけたが口にすることはなかった。恵と話したあとで息子のヘタな芝居に付き合う気にはなれないが、もどこまでやりつづけるのか見とどけなければならないように感じていた。
「ああ、そうだな、いま付いたところだ。どうするんだ、本当に飲みに行くのか?」
「へっ? ああ、せっかくここまで出てきたんだし。って、わざわざ金払って外で飲む必用ないよな。帰るか。やっぱ」
 フンッと鼻で笑う会長は、初めからそうするつもりだったかのようにして、さっさと戒人の前を通り過ぎ駅裏へ進んだ。戒人もあとを続いて歩くが、声をかけようにも何を話したらいいのかわからず、手持ち無沙汰についていくだけだ。
 
恵からのムチャ振りから、やむなく父親に電話したものの、親子の会話をしたのも久しぶりだったといまさらながらに思い出していた。
 戒人が大学に進学した頃から今まで、朝起きる時には父親はどこかへ出かけているし、帰る頃にはもう布団に入っている。休日は昼過ぎまで寝いる戒人が夕食に茶の間に降りてきて、食事を終えた会長とすれ違うぐらいで、ろくすっぽ会話もないまま、何年も同じ家で暮らしていた。
 昨日は商談もあり、思いもよらず顔を合わせることになり、なにか話しをされるかと思ったが、恵に振り回され、それどころではなくなった。
 さて今日はどうなる? なんて思っていると父親の方から声をかけてきた。
「オマエのとこの女部長… そういう言いかたは今はよくないのか。あの部長さん。なかなかの策略家だな。一日でいろいろと巻き返してきおった。それとも最初からそのつもりだったのか、なにかひらめいたのかは知らんがな」
――なんかひらめいたんだよ。きっと。
 戒人はあの腕組のポーズを思い出しながらつぶやいていた。そしてしらじらしく父親に問い掛ける。
「あれ? 部長とあれから話ししたの? やだなあ、オレを通さずに勝手にオヤジと会ってたなんて」
「ふんっ… さっきな。たまたま声をかけられた。また会うつもりだ。次はどんなことを言ってくるか、楽しみだよ。オマエにもそのうち連絡がくるだろ」
――うへっ、死刑宣告だなそりゃ。
 あたりまえだが、父親にとって息子はいつまでたっても息子だ。大人になってうまく立ち回れるようになったと自分では思っていても、すべては見透かされている。夜中にカップラーメン食べて深夜番組見ていても、親父のビールを一本くすねて部屋で隠れて飲んでいても、ベランダでこっそりタバコをふかしていても、気づかれずにいると思っているのは自分だけで親はみんな知っている。気づかれずにいることを信じている限り、親から先に口にするのは無粋だから言わないだけなのに。戒人に限らず、子供にそんな親心が伝わるはずもない。
「あのう、すいません。少しお伺いしたいのですが」
 戒人はよく人に声をかけられるタイプの人間だ。なぜ自分なのかはわからない。街頭アンケートだとか、様々な種類の勧誘だとかのたぐいも例外でない。よほど暇そうに見えるか、こいつならうまく丸め込めると思われやすいのか。たぶん両方だ。そうであっても、道を聞かれても役に立ったためしはない。見事に地図は読めないし、方向音痴もはなはだしいにもかかわらず、初めて行った場所でも尋ねられる。
 
困った顔で聞かれればなんとかしてやりたいと思っても、いかんせんまったくわからないし、さっき通ってきた場所でさえうまく説明できない。なんとなくそれらしい説明をして方角を指差し、その場を離れると聞かれた場所に自分が到着しているなんてこともある。へたな親切心が逆に迷惑をかける典型例だ。
 さすがに地元の商店街では間違えることはないので安心と構えていた。ところが初老の男は意外な問いかけをしてきた。会長も立ち止まって戒人の方に目をやる。
「昨日の夜分に、ここらを人力車が走っていたと聞いたのですが、どこかに乗車場とかあるのでしょうか?」
「はっ? ええーと、それは、ありましたかねえ?」
 戒人は知ってるだけに、言うべき言葉につまってしまった。会長は質問の意味がわからず戒人の顔を覗き込むと、なにやら隠し事をしている顔つきをそこに見つけた。戒人はあいかわらず下手な芝居を打ち、隠し事をしていると気づかれないように必死になり、余計にしどろもどろになってしまう。
「いやあ、身内の話しでお恥ずかしいですが、新婚旅行で松山の方に行ったとき二人で乗りましてね。また乗ってみたいなんて話してたら、たまたまネットで駅裏で見かけたって書き込みを見つけまして。駅も新しくなったと聞いてましたんで、二人で出かけてきたんですが、駅員に聞いても知らないといわれて。駅裏に向かわれているので、地元の方と思いまして… ご存知ないですか?」
 どんどん顔が引きつっていく戒人に父親が追い討ちをかける。
「どうなんだ。なんか知ってるのか」
「えーっと、なんかあ、聞いたところによると、近々の営業に向けて準備中とかどうとか、まだー、今日はー、乗れないと思います… うん、きっと。たぶん」
 戒人は、こうして流される性格が嫌になるといつも思っていた。会長は人力車の話しなど一切聞いておらず、今回の件でなにやら陰で動いているのではと察した。
 ただ、その中で戒人が、はっきりと否定できずに、相手の希望にできるだけ沿おうとうする回答のしかたは、気持ちの弱さでもあり、心の優しさでもあり、子供の頃から変わらない性格に嬉しさ半分、心配半分といったところだった。このときはまだ。


商店街人力爆走選手権

2015-10-03 14:08:05 | 非定期連続小説

SCENE 13

「やっぱり、あんただったか」
 恵は総合駅の屋上に作られたオープンデッキの柵に手を付き、駅前の商店街を見おろしていた。会長の姿を見とめて振り返る。
「おかしいとは思ったんだがな。あいつも、いきなり飲もうなんて言い出すから」
――フーン、そうきたか。まあ無難なところだけど、プレゼントの案は却下されたみたいね。私じゃ役不足ってこと? 明日にでも真相を問い詰めてやるから。
 恵は思わず会長の言葉に、少し不機嫌な表情を浮かべてしまった。会長にはそれが不適な笑みとして捉えられる。恵は表情を隠すようにしてもう一度、柵の方へ向きなおす。会長もそれに倣い、駅前の商店街に対して二人で向き合う。
 西日が総合ビルの窓ガラスに映りこんでいるらしく、反射した光が駅前の商店街の道路を照らしていた。駅へ向かって歩いてくる人々は、眩しさを避けるため一様に手をひさし代わりにしてしのいでいる。
「あんたは他の仕事でも、こうやって先様をどこかに呼びつけたりするのかね」
 昨日とは打って変わって、言葉少なく落ち着きはらっている恵に、会長は揺さぶりをかける。
――ありえないでしょ、そんなの。息子のツテがあるからよ。
 今日は、自分のペースで相手を受け入れる余裕がる。急ぐ必要はない。こちらの意図をつかみかねている状況で、会長が探りを入れるために勝手に自分から口を開いているあいだは。
「会長。昨日はいろいろと失礼いたしました。安易な企画を持ち込んでしまい、貴重なお時間を無駄にすることとなり、大変申し訳ございませんでした。本日は… 偶然、このような場所でお会いでき、昨日の失礼をお詫びできてなによりです。少なからず、ある種の運命を感じてしまいますね」
 会長は顔を伏せ、手ではねつける。
「はっ、ぬけしゃあしゃあと。いや、いいだろう。そうならそうで。それでなにか建設的な時間を過ごせる話しでも聞かせてもらえるのかな」
 会長は早く結論を出したがっている。それは駅前のこの盛況具合に目にして最後の一太刀をあび、観念したかに見えてしまう。
「私なりに、昨夜と、今日と、双方の商店街を拝見させていただきました。会長のおっしゃるとおり、いかに自分が勉強不足かを痛感させられた思いです」
「そんな、おべんちゃらはいいよ。それこそ時間の無駄というものじゃないか」
「そうですか? 会長はもうすでに駅前をご覧になっていたとばかり思っておりましたが?」
 揺さぶりをかけられたのは会長の方で、入念に段取りを組んできた恵を、物理的にも、精神的にも見直していた。昨日の行き当たりバッタリというコメントや、いかにも押し付けられた仕事をしているという感じはどこにもない。
「ふっ、そういうことか。いかにもそうだ。改装されてからまともに目にしたのはこれが初めてだ。あんたに現場を見もせんと言っときながら、わたしも敵情視察をしとりゃせん。一本取り返されたのかな、これは。そんなにもの珍しそうな目で見とったかね。それともカマにでもかけられたか?」
 恵はゆっくりと首を振った。それは肯定しているのか、否定しているのか、どちらでも取れるしぐさで、つまりは会長の取りかたひとつだ。
「まさに光と影。象徴的な光景です。人が集まるところにはお金が落ち。それでまた新しいお店ができ、新しい人が集まる。好転していくとはこのような状況をいい、何をしても失敗しない、失敗さえも成功の元となる。うらやましいかぎりの発展ぶりですね」
「そして一方の駅裏は客足も途絶え、流行らなくなった店が次々と閉店していき、生きがいを失った老人が孤独になっていく。暗い影が広がってますます活気がなくなり、人が寄り付かなくなっていく。まあ、見てのとおりだ。死にゆく体に栄養を与えて生きながさせてもな、苦しみが続くだけで、再生するわけじゃない」
「貴重な栄養剤なら、必用な人に回したほうが無駄がないし、死に体ならいっそ、その時期を早めた方がいいのかもしれません。倫理の面から言えば必ずしも万人の納得いくところではないでしょう。倫理を楯に利益の優先をゴリ押しするという方法もありますけどね」
 会長は少したじろぐような仕草をし、すぐに体裁を整える。
「何の、話しをしているんだ?」
「もちろん、会長の、商店街の話しですけれど… 」
 あえて、一区切りする言い方に、会長は苦笑する。
「短時間の内にいろいろと調べたようだが、そう何度も引っかからんよ」
「わたくしの商売柄といたしまして、あまり適切な表現ではありませんでしたけれども、真意としては、古くなり、終焉を迎えようとする商店街を無理やり活気づかせようとしても限界があり、痛みをともない、そしてその先にもつながっていきません。ならば… 」
「ならば… か。そうかもしれんな。最後に一花咲かせるのもいいだろう。わしも、商店街もな」
「そこにやるべき仕事が残されている限り、誰にも止めることはできないと思いますよ。例え神であろうとも、仏でも。それをどう捉えて、なにを選択するのかも自分達次第なんじゃないでしょうか。人任せにするのはいつだってできますよね。息子さんに託したいのなら、やりかたも幾様にあるはずです。今はもう、背中で語るだけじゃあ若い人には伝わらないでしょう」
「ふん。大きな世話だ」
「そうですね」
 会長はズボンのポケットに手に突っ込んで天を仰いでいた。恵の言葉を深く考えさせられているのか、それとも別のことを考えているのか。今度は会長が時間をつかう番だった。恵も必要以上に追い込みはしない。やるべきことはやり、言うべきことは言った。デッキに肘を付き、顎をのせて遠い目をしている。
 目を開いた会長の口も開く。
「今日は有意義な時間が過ごせたようだ。次に会うときは含んだ言葉より、具体的な話しを聞かせてもらいたいな。時間は限られている。早いほうがいいだろ。これはもちろん商店街の話しだ」
 会長の方を向き直って深々とあたまを下げる恵。
「次回のお約束をいただき、ありがとうございます。早急に企画書を起こして、近日中に馳せ参じますので、その節はよろしくお願いいたします」
――時間が限られているのは、私だって同じよ。すでにアリ地獄にスッポリとはまってるんだから。
 傾きかけた西日が映り込んだガラスの照り返しは、さきほどより細長くなり駅の入り口へとさらに近づいていた。


商店街人力爆走選手権

2015-09-20 11:37:10 | 非定期連続小説

SCENE12


 なんとか昨日と今日の仕事を終わらせた戒人が、階段を転げ落ちるようにして1階のフロアに降り立った。17時を少し回っている。
 関根はちょっかいを出すだけで最後まで一切手伝うこともなく、戒人も自分に都合のいいときだけそれにつきあいながら、それでも定時にはすべての仕事をかたづけられたのは、しょせんはそれぐらいの仕事量だったからにすぎず、急いで階段を降りたのは恵に対するあてつけで、無理して時間に間に合わせたと見せつけようとする小ざかしい小芝居だった。
 わざとらしく激しい息継ぎまでしたけれども、残念ながら駆け下りた先に恵の姿は見当たらず、ここまで仕組んだ労力が報われなかったのも手伝って、文句の言葉がふつふつと浮かんできた。
――ハーッ、なんだよお、時間厳守といか言っておいて自分は遅刻じゃねえか。フーッ、まったく部長はいいよなあ。ああ、だから重役出勤って言うのか… んっ? っ出勤じゃないな。いや、いまから打ち合わせに出勤するからそれでいいのか。
 激しく息継ぎの演技をしていたら本当に息ぐるしくなるほど、運動不足をあからざまに露呈してしまい、しかたないので深呼吸をして息をととのえて、バカまるだしでひとり問答をくりかえしてから、あたりをうかがいながらスマホを取り出して着信をチェックする。
 悪態をついていたら、どこからか恵が見張っているのではないかという不安にかられていた。画面が表示されると見慣れないナンバーから着信がある。もしやと思い後先考えずに折り返しにタップした。
「もしもーし、遅いわよ。時間厳守っていったでしょ」
 案の定の声の主に、戒人はビクつきながらスマホからの声を聞きながら、恵の存在を確認しようとあたりを見渡していた。どこかでこちらの姿を見ながら通話しているのではないか思うほどのコメントに、戒人はそれほどまで恵の監視下に置かれているように思えてならず、ついつい下手にでてしまう。
「スンません。走って来たんスけど、少し遅れたッス。ところで部長は今どちらに?」
「相変わらずねえ。約束の時間に遅刻したらモバイルのチェックするのは社会人としてあたりまえの行動だけど、知らないアドレスになんの躊躇もなく折り返しするのはセキュリティの観点からすれば失格ね。自分のおかれた状況を俯瞰できないまま行動してるとそのうち痛い目見るわよ。私はいま総合駅の屋上にいるから。アナタはここまで会長をつれてきてちょうだい」
 何の脈略もなくビジネスマナーから危機管理ときて、最後にはいつものムチャ振りになっていた。当然、戒人にはムチャ振りしかアタマに残っていない。
「はあ? 親父を。で、どうやって?」
「どうやって? いい質問ね」
「あっ、そうスか?」
「イヤミで言ってんのよ。なに喜んでんのよ、おめでたいわねえ。ちなみにこれも揶揄だからね」
「ヤユ? ヤッユーッ? ヤル?」
「わけのわからないオノマトペ言ってないでいいから! 親子なんでしょ。どうとでも理由つけて。オヤジさん引っ張ってらっしゃいよ。たまには駅前で一緒に飲もうとか、敵情視察に行こうとか、プレゼントしたいものがあるから付き合ってとか。心配しないで、この場合のプレゼントは私のことだから、本当に用意する必要はないから。わかった? わからなくてもいいから即行動に移って。到着時間がわかったら折り電してね。ちゃんと私のナンバー登録しておくのよ。じゃ、よろしく」
 そうやって一方的に言いたいことだけを言いい、恵は通話を切ってしまった。スマホを耳にあてたままの戒人は、なにをどうしたものかと考えるものの、恵から例えられた3つの選択肢がグルグルとあたまの中を回っている。
――親父を連れ出す?
 親父とどこかへ出かけるなんて中学生以来じゃないのかと、遠い記憶を呼び覚ます。
 たしかあの時は神宮球場にプロ野球を見に行った時で、そのチケットも商店街の景品のあまりモノで、当時のヤクルト対横浜戦を見に行った。
 巨人がらみのゲームならまだしも、Bクラス同士のチームの試合を景品に出しても、喜んでクジを引きたがる客がいるとも思えないと中学生ながらに思っていた。すでに、あの時から斜陽は始まっていた。さらに言えば優勝が決ったあとの消化試合と時期も考慮なしで、当然のように景品が余り、捨ててしまうのももったいないと、半ば強引に親父と出かけるはめになった。
 スタンドはガラガラだし、指定席の場所に律儀に座らなくてももっと見やすい場所があったのに、親父は今と変わらずあのとおりの一本気で、そんな状況でも三塁側の上の方の席で、二人でポツンと座っていた。
 あの日は風も強く、ジャンパーに首をすくめて、よく知りもしない選手が野球をやっているのを観ていた。それは通りがかりに草野球を眺めている行為に等しく、違っているのはどれだけつまらなくても席を立つわけにはいかない点だった。
 あのとき親父となにか話をしただろうか。たぶん腕を組んでむっつりした顔のまま、真面目に野球を観ていたと思う。オレは下を向いて、早く試合が終わらないかとばかり考えていたはずだ。ちょうど学生の時に、早く授業が終わらないかと5分おきに時計ばかり見ていた時と同じように。
「あれーっ、瀬部。今日も定時か? いいよな総務は、ノルマがなくってよ」
 同期の営業が得意先からの帰りらしく、すれ違いざまの戒人をあてこすりエレベーターへ乗り込んでいく。
 いつまでもこんなとで立っているわけにはいかないと、とりあえずロビーを後にした。いつも定時に帰っているわけじゃないのに、たまたま二日続けて定時退社しなければならない仕事を言いつけられただけなのに、かといってそれをいちいち言い訳にして説明するのも面倒だと、プライドより無駄な関わりを拒む方を優先するのは一本芯が通っている。
 どうせそんな説明をしたところで自分の評価なんてものは、これまでの積み重ね以外のなにものでもなく、まわりの評価や見方がそうであれば、どれほど言葉にしようとも、それ以上になれるはずはないと、変に自尊心がないところが潔いともいえるが、それよりもなによりも評価を上げる必要を感じていないだけとも言えた。
――さあて、なんて切り出すか。
 駅への道に歩を進めながらスマホを見つめていても、なにか案が浮かんくるはずもなく、いまさら面と向かって親父とどうやって会話すればいいのか。そう思うたびに足が止まり天を仰ぐ。いきあたりばったりで実行すれば間違いなく話しのウラを読まれてしまうだろう。
 それを危惧するほど戒人にもはや余裕はなく、恵をいつまでもまたせるわけにいかないプレッシャーから、3つの中から選択するしかアタマにない。それはすでに恵の術中にハマっているだけで、それをしないという選択肢は見事に消去させられていた。
――まあ、なんとかなるかな。
 どのみち脳回路が複雑にできていない戒人は、そう判断した時点で成功のイメージができあがったらしく、気持ちの切り替えだけは大物然としている。


商店街人力爆走選手権

2015-09-05 14:48:18 | 非定期連続小説

SCENE11

「あー、お腹すいちゃった。ランチまだやってるんだ。これにしよっ」
 仁美が指示された仕事を終えて、恵に報告に来たのは午後1時より少し前になってしまった。恵は礼を言うとともに、遅めのランチの方が空いているから、ちょうどよかったと仁美をねぎらった。
 たとえランチの約束をしていても、仁美はそれに合わせて仕事を切り上げたりはせず、最後までやりとおして納得のいった報告を持ってくる。それがあたりまえであり、変に恩着せがましくなることもない。
 店先の手書きの看板に書かれたランチメニューは14時までと書かれており、時間に融通の利く会社員が恵たちのほかにも入店してくる。
「いいわよ、好きなモノ食べて。仕事に見合っただけの報酬はだすわよ」
「いいですよお、そんなあ。ちゃんとお給料貰ってますから。恵さんの仕事は面白いからやってるだけです。課内の仕事なんか、適当にやっててもできるぐらいだから、こっちの方がやりがいがあるんです」
「そんなこと、私の前で平然と言わないでよね。仮にもその課をまとめてる部長なんだから」
 窓際の席に座り、コードを引っ張ってブラインドを閉める。すぐに店員が水とおしぼりを持ってオーダーを取りに来た。
 二人はランチのAとBを頼む。当然のように二人で分けあって、しっかりと2倍楽しむ手はずだ。
「でも、課長が楽するために、わたしが居るようなものですよ。あんな仕事ぐらい自分でやればいいのに、ぜえーんぶ、わたしに押し付けて、日中なにやってんだかって感じですよ」
「それを管理できてないんだから、私も… 」
「そうはいっても、しょせんは自分自身の考え方ひとつですよね。いい年して、ひとに咎められたら直すって、どうなのって話しだし。でも、恵さんの立場を悪くしようと思えば格好のネタですよね。わたし恵さんの仕事してると会社の裏までわかっちゃいます。会社の秘密諜報部員になれるかも?」
「方々で弱みを握って恐喝まがいの行動にでも走るつもり?」
「親孝行はするのは難しいですからね」
「あーら、自分の主義を押し付けるのはらしくないんじゃない」
「上司とともに泥舟に乗るつもりはないだけです。もしくはタマよけって可能性もありますからね」
「最低ね」
「最低ですね」
 二人は真顔のまま沈黙し、そして笑った。
「恵さん、独立とか考えてないんですか。別にウチ会社でなきゃできない仕事ってわけじゃないですか」
「そうね。最終的にはそれもアリかと思うけど。あなた、付いて来るつもりなんでしょ。ダメよ。自分だけ楽しようったって」
「あっ、わかっちゃいました? でも純粋に恵さんと仕事したいってのは本音ですよ。さっきも言いましたけど、何か起こりそうでワクワクしちゃいますもん」
「それは光栄だわ。でも泥舟かもしれないわよ」
「ありえますね」
「言うわねえ。それでこそヒットミだけど。でもねえ、今はまだかしらねえ。バカみたいに働いて、いいようにおだてられて、やれ管理職だ、部長だって奉られて、女性の社会進出を後押しする会社の広告塔みたいに扱われ、いい目も見たし、悪い目にもあった。そしてどうやら煙たくなってきたみたいで、そろそろお払い箱にされそうになっている。それじゃあ、あまりにもって感じでしょ」
「でもお、それこそ会社の思うツボじゃないですか。もし今回の件がうまくいっても実績だけは会社のもので、恵さんは切られるんじゃないですか。さっきの話しじゃないですけど、切るための状況はいくらでも作れますよ」
 店員が運んできたのはレモンが絞られた炭酸水で、気づかず飲んだ恵は、仁美の言葉とともに少し胸を詰まらせた。
「だから、あなたねえ、私の前で平然とそういうことを言わないの。それにねえ、あなた。そこまでわかってて、私がいいとこ取りされると思う?」
「うーん、そうは思いますけど、あの商店街に活気が戻るような企画があると思えませんし、どちらかといえば、失敗もろとも葬り去られる方が、確率が高いんじゃないですか。だったら、どっちに転んでもいい目がでそうにありませんよね。深入りする前に、辞めて独立した方が名前にキズがつかないと思いますけど」
「いいわ。それなら、商店街に活気が戻り、私の企画が賞賛され、それが会社の利益に結びつき、晴れてその実績を看板に独立すれば文句ないでしょ? あなたを引き連れて」
「それじゃあワタシの思うツボですね」
「悪いわね」
「わたしですね」
 ここで二人のランチが運ばれてきたので、ふたりは笑いをこらえるのに必死だ。配膳を終えた店員は、首をかしげてテーブルを離れる。
 恵の方は魚のフリッターにタルタルソースが付いており、仁美は鶏の胸肉のソテーしたものにバルサミコ酢で味付けされた料理だ。そして二人ともライスではなく胚芽パンを選んだ。
「これはね、あなたの言葉に煽られて反発しようとか、意地とかプライドとかじゃなくて、不思議と私自身が関わりたくなっているの。やれないリスクもあるけど、それに勝る好奇心もある。それに仕事においての先見性がどれだけあったとしても、使い方まで見通せる指導者はいないものなのよ」
 胸肉をひとくち食べた仁美は、次は恵のフリッターにタルタルをかけてまたひとくちしたところで「あっ!」と、小さく声を漏らし、そして目を細めた。
「そういうことですか。だからあの… ふーん、彼もこき使おうと?」
「察しがいいと言いたいところだけど、遅いわよ。まあ、あのボウヤにもそれぐらいは働いてもらわないとね。流れがあるうちにその先に手を打っておかないと、流れが止まってからじゃ遅いのよ。あなたも気お付けなさい」
 すまし顔でパンにソースを付けて口にする。
「あーあ、それに社長もかわいそうだわ。あとから、クスリにも、毒になるかもしれない。よく解かってない人間が旨味だけいただこうとしたら、ひどい負債を背負わされることにもなる… ってことだもんね」
「ふふっ、使い方次第よね。何かを選択するということは、その他のすべてを選択しないってことだとは誰も考えない。考えるのかもしれないけど、見てないふりをする。そうしなければ選択できなくなってしまう。そこんとこわかった上で仕事しているかどうかでその先もずいぶん変わってくるでしょ」
「恵さん、悪い顔になってますよ。きっと時限爆弾仕掛けてる犯人って、そういう顔してるんでしょうね」
 今度は恵が、ソテーをいっきに二つ取り寄せる。
「ああら、失礼なこといわないでよ。会社を捨てる前提ならもっと直接的にわかるようにやったっていいのよ。向こうが裏で工作するなら、コッチは乗っかったように見せかけてその裏をかくのは常套じゃない。知らない人たちは知らないうちに不幸に流されていくだけなんだから、それがいやなら対抗しうる力を持ちなさいってとこよね。私のあずかり知るところじゃないわ。それに使い方を間違えなければ会社の利益になるんだから、親切な話しでしょ? 天使と言って欲しいぐらいだけど」
 仁美は残ったソテーを手前に囲いながら言い返す。
「天使は天使でも、堕天使ですねえ」
「あなたもそうとうに悪い顔してるわよ」
 二人はそうして、細い笑みを浮かべあった。


商店街人力爆走選手権

2015-08-22 11:12:29 | 非定期連続小説

SCENE 10

「やあやあ、なんだか、めずらしく仕事してるねえ」
 消えた課長と入れ替わるようにして、戒人いわく用務員のおじさんこと、総務の古株である関根が席に戻ってきた。禁煙パイプを咥え、椅子の背もたれを前にして、手を組みアゴをのせ、戒人の仕事振りをながめるだけで自分はなにもしていない姿に、あんたにいわれたくないと、戒人は口に含む。
「オマエさんねえ、そんなにちんたらした働きぶりじゃ出世できないよお。給料も上がらないし。いいのかねえ、そんなんで。こう、なんか、将来への展望とかないのかねえ?」
――だからあ、言われたく…
「ないっス。オレはこれぐらいが丁度良いんで、ムリしたくないし、特にやりたいこともないし。つつがなく仕事して給料貰えりゃそれで充分っス。フューチャーへのビジョンをあえて言うならば、可愛い女の子と結婚することっスかね」
 英単語に変換したのは、せめてもの若者の意地か。
「うへぇ、いまどきの男だねえ。それって、昔の腰掛け女子社員の言うセリフよ。それで結婚して、自分がリストラされたら、その女に食わしてもらうつもり? いくら総務とはいえ、広告代理店でそんな考え方や仕事ぶりじゃ、まっさきに肩タタキの対象だねえ。いやあ、そもそもよく就職できたもんだねえ。強烈なコネでもあったのかい?」
 毎日、何しているかわからないような関根や、すぐに姿をくらます課長が肩タタキにの対象になるまで、自分は大丈夫だと戒人は信じていた。もしくはそういった人材が総務に集められているならば安泰だとさえ思っている。
「コネはないっスけど、強力な運があったス。聞いた話だと。内定が出たヤツが病気で入院したらしく、繰り上げ当選ってやつですか? 持ってる人間ってとこっスよね。あと、入社後に言われたんスけど、キミは打たれ強そうだから裏方の仕事に向いてるよ。って誉められました」
 それはたぶん誉めてないと思われるが、何を言われてもポジティブに捉えるか、意に介さず自分のことと思っていないのかのどちらかで、この致命的な鈍さは、それはそれで才能なのかもしれない。
 プリントのキーを押して伸びをする戒人は、用紙が吐き出されるまで手を止めて、遠くを眺めるだけで、うんざりとした口調で言う。
「企画のヤツラとか見てると大変そうですもんね。たくさんの仕事に追いまくられて必死に働いて。終わったそばから、すぐ次の仕事回されて。いつ休憩するんスかね」
「そりゃそうだろよ。アイツ等にとって仕事はある意味、競走なんだから、相手より早くやることに意味があるわけでしょ。同じ内容なら、早く世に出したほうが勝ちなんだからねえ。だったら、休んでる暇はないでしょ。1秒遅れで特許の申請に先を越されたら、それでウン億がパーになることだってあるんだからねえ」
 部屋の奥に置かれたプリンターから用紙が排出された。新しく届いた複合機を設置したとき、とりあえずとして置いた場所が、そのままになっている。仕事の効率を考えれば全員の席から近いほうがいいに決っているのに、不便さを感じながらも誰一人それを言い出すことはなく、プリントするたび、FAXの送受信を行なうたび、スキャンするたびに部屋の往復を繰り返している。戒人もプリントが終わったことを知りつつも腰が重く、そのまま関根との会話を続ける方を選んでいた。
「なんかあ、ソイツらって、いったいナニと仕事してるんスかね。まわりに敵が見えてりゃ、リードしてるとか、もう少しで追いつけそうだとか、ムリだからあきらめた方がイイだとか。相手の状況に応じて、適当な判断ができるっしょ。見えない敵と戦わせられて、時間だけに追われて早くやれったって、何やってんのかわかんないんじゃないっスかね」
――なんだい、めずらしく真っ当なこと言って。そう言う口もきけるんだねえ。この坊や…
それでいいんだよ。それが社会が決めた給料をもらうためのシステムなんだから。まわりがそうなら自分もやんなきゃいけない。その中にいる限り抜けられないよねえ。言葉は自己実現だとか、上昇志向とか、耳障り良さそうだけど、結局はなにか仕事してなきゃ落ち着かない状況におちいってるだけなのにねえ。そうやって会社の方針に従って働いて、ムリだろうが何だろうが、結果を出させるのに都合がいいから、それで、会社も発展するし、見返りとして給料もあがるんってもんでしょ」
「上がるったって、働いた分上がるわけじゃありませんよ。凄い企画を成功させて、会社に莫大な利益をもたらしたからって、その人が他の10倍給料もらえるわけじゃないっスよね。せいぜいインセンティブとして手取りの一割もらえりゃいいとこでしょ。あっ、これ、実話スから。経理のミサちゃんが言ってました。じゃあ、その儲けがどこに行くかといえば、次への投資のために内部留保するなんて話しにしときながら、会社のお金を自由に遣えるひとたちの懐に入っているだけッスからね。これも経理のミサちゃんが、絶対秘密だって教えてくれました」
 そりゃたいした秘密だねえと、関根はつぶやく。席を立ち、戒人の代わりに出力されたプリントを取りに行った。
「だったら、オレ、いわれたことだけ、無難にこなして、使えねえヤツだと思われて、余計な仕事を振られないようにしてる方がいいッス。 …それなのに、なんの因果か、ウチの商店街に白羽の矢が立っちゃって、仕事中毒の女部長にこき使われるわ、課長に仕事おしつけられるわ、あっ関根さん、課長の分の仕事お願いしますよ。こんど商店街の優待クーポン持ってきますから。ねっ、ねっ」
「なんだかねえ。けっこう、あざといモノの考え方するじゃないの。一緒にお手々つないでかけっこした世代とは思えないねえ。ところで、ここの計算違ってるでしょ、あと、この漢字も。あーあ、言われたこともできないようじゃ、給料下げられても文句いえないねえ」
 戒人にプリントを差し出し指摘する。
「大丈夫っス。いわれた仕事はしますけど、その内容と、精度は保証しませんから。完璧な仕事は最後まで取っておかないと、最初から完璧にして自分でハードル上げちゃうと、あとはマイナス評価しかないですからね」
 どこまでが本気かわからない戒人に。せめて課長にどやされない程度に納めておいた方がいいと忠告しようとする関根だが、どやされてもへこまない性格だったと思い直す。
 すると何かを思い立ったように、戒人が真剣な顔をして席を立った、関根はおどろいて身を引いた。
「昼休み5分前になったので、食事に行ってきます」
 引いた身が椅子から滑り落ちそうになった関根が尋ねる。
「12時前だけど?」
「えっ、店で食事を取り始める時間がお昼休みっスよ。そこまでは仕事のうちだから、もし、店まで行く途中で事故にあえば労災おりますよね。あっ、そういえばこの前、昼飯のあと会社に戻ってくる途中で、階段踏み外した時に足くじいちゃってシップ買ったんですけど。これって労災でおちますよね」
「課長のカミナリがおちますよねえ」
「えー! まじっスか。一番高いシップ買ったのに、そうだ、ナカザワが腰痛いって言ってたから、あいつに売りつけてやろう。これで、元金の半分は回収できる。いやまてよ… 」
 ブツブツとひとりごとをいいながら、しっかり定刻内に立ち去る戒人を見て関根がつぶやく。
「うーん、結構な大物だって言いたいところだけど、ただのバカだったねえ」