private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで3)

2024-06-30 14:58:42 | 連続小説

 店の扉を閉じて振り返るケンシン。道の中ほどでマオは立ち止まっていた。まだ言いたいことがあったのか、このまま引き上げて良いのか、彼女が逡巡しているようで心が痛んだ。
 アタルのようにいつまでも目を離せずに見ていると、ケンシンの心配は的外れだったようで、マオは左手側から誰かが来るのを待っているだけだった。
 そうであれば会長が言い忘れたことでも思い出したのか、それとも念押しに戻って来たのか。気になってのぞき込もうとしても扉の窓では小さくそこまで見えない。ショウウィンドウの窓はすでにブラインドが下ろされている。
 マオは軽く手を上げて会釈をした。店で客に接する時と何ら変わりのない柔らかな動きだった。それを見れば、どうやら知った人がマオに近づいているようだ。
 その相手が扉の窓に現れ、ケンシンの視界に捉えられた。上下スポーツウェアで、キャプを被っている。パッと見たところは中高生の男子に見えた。
 ランニングの途中らしく、マオに近づくとスピードを緩めた。マオが何やら話しかける。穏やかな表情だ。カレはその場で足踏みを続け、今度は身を持て余すようにステップを踏みはじめた。
 マオは目を見開き口を手で覆い驚いたしぐさをした。何の話題を話しているのか、そのあと首を振って手を開いて制止する動きに変わった。
 カレは肩をすくめて気に留めていな様子で、今度はマオのまわりをステップを踏んで回り出した。マオはそれにつられて首を回したり、身体の向きを変えたりしてカレを追っかけ、しきりと話しを続けている。
 ケンシンは覗き見に罪悪感を感じながらも目が離せなくなっていた。これでは今後はアタルに文句を言えない。いったいふたりがどんな関係なのか、気になってしまい判断する情報を欲しっていた。
 想像する中では姉と弟という構図が一番しっくりするが、それはケンシンがそうであればいいと望んでいるだけで、それ以外の選択肢では余りしりたくない関係性となってしまう。
 それを確認してどうなると踏ん切りをつけて仕事に戻ろうとした次の瞬間、ケンシンの目に飛び込んだのは驚愕の光景だった。
 ステップを踏みながらダランと下げていた両手が目にも止まらぬスピードで、右、左とマオの顔面に飛んでいった。
 それは例えではなく、本当にケンシンの眼には腕の動きが見えなかった。そのためにカレの拳がマオにヒットしたのか判断できない。ただ、マオは倒れるわけでもなく、顔は困ったような笑顔であるので、当たってはいないのは間違いない。
 そうではあっても放っておくわけにいかずケンシンは店を飛び出した。自分に何ができるかわからないまま突っ走った。いくら知り合いだからといっても、このままにしておくわけにはいかない。
 事実カレはマオの回りを移動しながら何度もパンチを放ち続けている。いつ本当に当たってもおかしくないはずだ。
「なにしてるんだっ!」ケンシンはカレの腕をつかもうとした。その行為を嘲笑うかのように、またそうなることを予感していたかのように、ケンシンが伸ばした手からスルリと身をこなした。そして見えない右のフックがケンシンのアゴ先を捉えた。
 ケンシンは尻もちをついてしまった。当たってはいないのに。
 それなのにマオとは異なりケンシンは腰から崩れ落ちていったのだ。そして首筋に冷たい汗が流れた。
「エマさん! やめて!」マオは慌ててそう言ってエマを制止て、すぐにケンシンを心配した。
「カミカワさん大丈夫ですか?」あっけにとられ地面に座り込んでいるケンシンに、マオは両ひざをついて寄り添った。
 ケンシンは恐る恐るアゴ先に手をやった。痛みはない。それなのに何かカミソリにでも切られたような感触が残っている。ホッとするのと同時に嫌な汗と、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ごめんなさい、あのコ、フザケてただけで、本気じゃないんです。そのう、つまり、いつもの挨拶みたいなもので、、」マオは申し訳なさげにそう言った
 ケンシンが驚いたのはパンチを食らわずに倒れたことだけでなく、男のコに見えた相手をマオがエマさんと呼んだことだ。
 深くかぶったキャップと、短い髪の毛でわかりづらくはあるが女性に見えなくともない。それがあの身のこなしと、ケンシンを圧倒した寸止めのパンチ。それが本当ならますます立つ瀬がなくなる。
 低姿勢のマオに比べ、エマは尊大な態度のままだ。鋭い眼光をケンシンに向けてくる。ひとに簡単に気を許さないタイプの人間のようだ。
 さらに言えば、男という人種を信じていない。そんな目つきだった。それがマオとを結びつける精神的なキズナになっているようにケンシンには思えた。
 エマは口には出さずに、マオに、誰? コイツ、と言ったような態度を取る。普段からそんなやり取りをしているのか、マオはその仕草に応える。
「このひとは、あのベーカリーで働いているカミカワさん。アナタがふざけてあんなことするから、ビックリしたのよ、、 」きっと… マオはケンシンの顔を覗いて、間違いでないか確認したつもりだ。
 そんな大仰なモノではない。偉そうに助けに出て、いとも簡単にやり返される。一番みっともないパターンを披露しただけだ。やはり身の丈に合わないことをすれば、こういうことになるとあらためて認識していた。
 はやとちりと尻もちの照れくささをごまかそうと、ケンシンは立ち上がってアタマを掻くしかない。
「そんな、結局、何の力にもなれず。余計な手出ししてハジをかきに来ただけみたい、、」そう自虐的に言って笑いを誘おうとする。
 声が上ずらないように必死に落ち着いて話そうとするケンシンに、エマはニコリともしない。マオを見てイヤな笑いをする。このオトコも同じだと言っているように見えた。
 別れの合図がわりのつもりか、マオだけに軽く手を上げてロードワークを再開した。自分はもうここにいたくないという意思表示にケンシンには映った。すれ違う時も目を合わせなかった。
 その顔つきは確かに女性に見えた。マオとは正反対といってよく、すべて敵対視した目つきで、薄く荒れた唇は冷淡に見え、動きのない表情からは何も読み取ることができない。多くのオトコが気に留めることがない外見の女性だ。
「さっきのコ、ボクサー 、、ですよね?」ケンシンは思わず、マオの友達かもしれない相手に、そんな訊きかたをしてしまった。
「あの、わたしもそれほどよく知らなくて、、 以前、男の人にしつこくされていた時に、助けてもらって、、」
 言いづらそうに説明するマオをみて、触れて欲しくない案件であるのがわかる。ケンシンは手をあげて、それ以上言わなくていいと制止した。
 なにか男を代表してマオに謝りたくなった。そんなことをしても何も変わりはしない。彼女の生きづらさがヒシヒシと伝わってくる。
 自分の思うところと別の要因で、常に何かと戦っていかなければならない。寂しげな顔にいくつもの疲弊の痕跡が滲み出るマオが不憫だった。
「あれからは、たまにこうして出会うぐらいで、それに込み入った話をするほどでもなくて、その時は、ただ話しを聞いてもらったっていうか、一方的に話したっていうか、、 」
 歯切れの悪い言い方をするマオだった。つまりそれほど深い間柄でないことを示したいのであろうし、嫌な記憶をケンシンに話すほどの間柄ではない。
 日頃のマオを見ていれば十分に想像がつくケンシンとしては、無様に倒された理由を明確にしておきたかっただけだった。そうでなければ自分があまりにも貧弱と認めなければならない。自分を正当化するためにマオに無理強いをさせていては本末転倒だ。
「ゴメン、いいんだムリに答えなくたって。それに、いろいろとわかった気になるつもりはないよ。ただ、カノジョに、エマさんに、興味が湧いただけなんだ」そう言って、マオの件とは切り離そうとした。
 それでもマオは下を向いて申し訳無さそうにしている。
「いやね、カノジョがボクサーであり、それなりの能力を携えていて、今後、頭角を現していく存在ならと、期待してみただけだだから」
 それはマオを安心させるための方便でしかない。たまたま偶然出会ったアスリートが有名になるなんてことは、宝くじが当たるぐらい起こる可能性は低いはずだ。
「そうね、エマさん、強いから、、」
 マオの言う強いには、複数の意味が含まれているように聞こえた。自分のやられぶりをみれば、マオを助けた時の立ち回りを想像してしまう。見てみたかったとさえ思った。
 マオは口を閉ざして首を振ってみせた。今の言葉を否定するように。
 なにか自分たちは、自分に無いものを、欠けているものを、常に探して追い求めているようだった。何が備わっているかではなく、何が足りていないか。
 そして、その実、足りないものを正しく捉えられていなかった。永遠に見つけられない宝の在り処を探し続けているだけのようだった。ケンシンは勝手にそう決めつけていた。
「エマは、ほとんどしゃべらないんだけど、あの時は、ひとつだけわたしに忠告してくれた」
――すべてを制御するな。
 エマはいつも通り、表情に感情をあらわすことなく、オトコたちと立ち回りをして追い払ったあとだというのに、息ひとつきらすことなく、そう言った。
「その時はなんのことか全然わからなかった。混乱してたし、エマさんが支えてくれてたから、身に詰まっていたコトを吐き出してしまったから」そう言ってマオは少し笑った。
「なんだか変ですよね。エマさんもそうだけど、カワカミさんも、なんだか安心していろんなことがしゃべれちゃう。こんなこと言ったら迷惑かもしれないけど、、」
 今度はケンシンはクビを振った。自分に何ができるかわからないが、少しは役に立てているならば心も楽になる。エマのようにマオの心に響く言葉は出てこない。
 ”すべてを制御するな”とは、捉え方によれば肯定的であり、否定的であり、どちらでも引用できる言葉だ。
「それをどう解釈したの?」ケンシンはマオの眼を見た。マオは今度は目を逸らさなかった。
「うまく言えないんですけど、自分がどれだけ抗いても、身に降る全てを排除することはできないんだから、自分ができることだけに専念するしかないのかなって。それを後ろ向きに捉えなくてもいいんだから」
「掃除当番も制御できる案件ではないしね」
 マオは驚いた様に目を見開いてから手で口を押さえて笑った。まわりの雰囲気を変えられるような素敵な笑顔だった。
 一体エマは何をマオに伝えようとしてその言葉をで選んだのか。
 過去の世界では、情報は無料で誰にでも開かれたものであったはずなのに、それが高度化するとコストを持つようになる。
 そしてそれはいつしかビジネスとなり、費用をかけることですでに知識を得たと錯覚してしまったり、逆に意図した結果が得られないと、費用として放棄してしまったり。本来の情報の伝達とは別の使われ方が本流となってしまっている。
 ケンシンはエマのパンチモドキで尻もちをつき、マオはエマの言葉で倒れた心を立ち上がらせた。
「これまで本を買ったり、学校で勉強したりしたけど、本質的にわたしを救うものはなかった。エマの言葉で落ち着けたのは、カノジョ自身が持つエネルギーが説得力を孕んでいたんだと思う」
 ケンシンもその風圧で吹き飛ばされたのかもしれない。
 マオはケンシンに自分と近い感覚を見出していた。彼もまた異なる周波数の中でチューングに苦しんでいるのだと。
 自分達には不要なものが、この世の中には多く存在している。それを取り除こうとすればするほど、接点が増えていく。先の見えない道を歩き続けるのは限界があるのだ。
 お互いに思うことはあっても、初対面でそこまで気持ちを開示することは憚られた。
 ケンシンは、もはや恥の上塗りでもいいと腹を決めた。空回りでも、的が外れていようとも、それを今しなければ、ここまでの時間がすべて無駄になってしまいそうだった。
「あのう、実は、、」「はい?」マオは首をかしげた。
 なんの抵抗も感じさせずに、髪の毛が一本づつ肩に移動していく。
「実は思い出したことがあって、オレ、明日の講義が昼からで、そのう、つまり、、」
 マオはケンシンの辿々しい、いかにも言い訳じみた説明を、優しい眼差しで聞いていた。これでは多くの男たちが勘違いしてしまうのも無理はないと、双方に同情していた。
「あした、掃除出るから。オレもわかんないことばっかりだけど、ひとりよりマシだと思う、、んだけど、」
「ホントですか!うれしい! すっごく不安だったんです」マオは満面の笑みに変わっていた。
 ケンシンはその笑顔を凝視することはできなかった。下心があるわけでなくとも、他の男たちと対して代わりはしない。きっかけのあるなしで対応が変わるだけだと、自分に言い聞かせていた。そうでも思わなければ調子に乗って誇大妄想しそうになる。
「アナタはいつも朝から掃除してるから、そんな心配いらないでしょ。あっ、別に覗き見してたわけじゃなくて、その、、」
「ふふっ、カミカワさん気をつかい過ぎですよ、お店正面だから、見えますよね。わたしも何時も見てますよ。男のひと、ふたりで楽しそうだなって。今日は年配の方に優しくされていて」
「カワカミです」「エッ?」「名字、カワカミなんです」マオは目をクルッとまわしてから、合点がいったらしくうなずいた。
「そのまま、ムラサワです」そう言って笑った。ケンシンもつられて笑った。
 それほど力を入れる必要はない。ふたりは肩の荷を下ろしていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで2)

2024-06-23 15:26:12 | 連続小説

「来たぜ」
 アタルが目線だけで示した先には、ピンク地のスーツ姿でビシッと決めたショッピングモール会長が、こちらに向かって歩いて来る姿があった。
 ケンシンも顔は上げずに目端で確認するだけで気づかないフリをして、そのままレジ締めの作業を続ける。目の前に会長が止まったところで顔を上げる。間近で見たそのスーツはピンクの格子柄がちりばめられたジャケットであった。
「ちょっと、今日が期限だって言ったでしょ」
 ケンシンは、いま気づいたという体で顔を上げ、驚いて見せる。アタルはすでに奥に引っ込んでしまった。
「はあ、」「はあじゃないでしょ、明日のモール一斉掃除の担当、提出するように頼んでおいたでしょ。今日一日待ってたのに、出てないのはアンタんとこのパン屋と、向かいのブティックだけなんだから、大体ね、、」
 ブティックと言われたところから、ケンシンは次の言葉が入ってこない。
 今どきブティックと言う店長の感性に驚いていた。ケンシンもそれほど通じてはいないが若い女性ならショップと呼んでいるはずだ。よくそれでモールの会長がつとまると感心してしまう。モールと言っても中身も関係者もまだまだ商店街と変わりない。
「、、でしょ!?」「はあ、」そのあとで何を言われたか知れず、何と返答すればいいかわからない「、、でも店長いないし」
「店長なんてほとんどいないないでしょ、コックは不愛想だし。あんたに話しといたんだから、あんたが答えなさいよ」
 さすがに店の状況はよく把握している。それにしても洋食屋でもあるまいし、笑いをこらえたのはコックはないし、チーフのコモリにベーカーという言葉は似合わないことだった。
「はあ、でも、オレ、バイトだし」
「バイトだろうが何だろうが、お金の計算して、お店任されてるんでしょ。もういいわ、あんたで」
 そう言うと会長は、ケンシンの胸にあるネームプレートを見てカミカワと、リストに書き込んだ。ケンシンの名字はカミカワではない。店用の通り名だった。そんなことは会長はお構いなしで、ケンシンの名字が何であろうと、この店の掃除担当者が決まればいいのだ。
「近頃じゃ、どの店も高齢化しちゃってね、あんたみたいな若い人が頼りなのよ、、」
 ここにも憂国の高齢化の波が押し寄せており、ご多分に漏れず、若者にそれを負担させようとしている。高齢化で人手が足りないなら。今までと同じことを無理にするのではなく、できる範囲で行うとか、アウトソーシングするとか、別の代替え案を検討しようとはしないのは何故なのであろうか。
 ケンシンは会長が何かこれまでの方法を踏襲することだけが正であり、それが継続できない自分が、悪であると思い込んで、正しい解に向かっていないように見えた。若い人に頼ることで、その人たちの時間と労力をどれ程奪っているのか考えたことはないように。
「、、私たちが若い頃はねえ、声がかかれば、どんな用事があったって、一目散に駆けつけたもんよ、、」
 あなたたちの若い頃は、成長する将来にまだ希望があり、同じことをしていても飯が食える時代だったんだろうと、うそぶくケンシン。
「、、いまの子はみんな自分勝手で、自分さえよければって感じでしょ、自分の子供より自分が楽しむことを優先するんだから、イヤになっちゃうわよ。ウチのヨメなんてね、、」
 と、ついに家庭の愚痴まで言いはじめた。今日の売上げの計算もまだなのに、やりながら話を聞くわけにもいかず、手は止まったままだ。
 だいたい、お互いの方向性も確認しないまま、これまでの慣習を立てにして、それがさも正義だと言わんばかりに振りかざされても相手は閉口するばかりだろう。
 共通の利益を手にするために、どこが問題点で、その課題を克服するために、お互いがどうすれば最大利益が得られるかを意見を出し合って、解決策を見つけ出すことが必要であると、ケンシンは先日受けたばかりの講義内容を思い起こし、ここに生きた教材があると感心していた。
「、、なんだから」言いたいことを言ってスッキリしたのか会長は時計を見て「あらやだ、もうこんな時間、もい一軒行かなきゃイケないのよ。時間食っちゃたじゃないの。じゃあ必ず来てね」と、チラシを押しつけて店を出て行った。まるでケンシンが時間を取らせたような口ぶりにあたまを掻く。
 押し付けられたチラシは丸めてポケットにねじ込んだ。店のゴミ箱に捨てるのはどこで目につくかわからず、家に帰ってから捨てるつもりだ。行かなくても店長のせいにすればいい。文句を言われても今みたいに、聞き流していればいい。
 途中になっていた、売上げの計算の続きを急いではじめる。会長のけたたましい声が、前の店から聞こえた。会長が言う所のブティックでは例の彼女が対応していた。困った顔をしているのがここからでもわかる。
「おっ、ようやくいなくなったか」嵐が去ったのを嗅ぎ付けて、アタルが中から出てきた。
 ようやく売れ残りのパンを片付けはじめだしても、彼女が会長と話している姿を見逃すはずはない。
「なんだよ、あの店も狙われてたのか。うわあ、カノジョ、めっちゃ困ってるな。そりゃそうだよな、来たばっかで、何もわかんないから」
「おまえさ、そう思うんなら、助けてやったら? キッカケ作れるかもよ? 」
 思った通りのアタルの言動に、ケンシンは計算機を叩きつつ、つれなくそう言った。
「だよなあ、でもオレ、あのおばちゃんホント、ダメなんだわ」
 店の看板を置いた場所のことで、たまたま居合わせたアタルはさんざん説教をくらい、その後も何かあるごとに目をつけられていた。ケンシンもそれを知って楽しんでいる。
 売れ残りの片付けを終えても、まだ恨めしそうにふたりのやり取りを眺めているアタルは、じゃあオレ先にあがるわと、店をあとにした。後ろ髪を引かれる思いがひしひしと伝わってくる。
 そんなアタルにお疲れとだけ声をかけて、ケンシンは遅れを取り戻そうと表計算ソフトに打ち込みをする。計算が一致して、店長にメールを送るまで帰れない。
 調理場の片付けも終わったようで、厨房から顔だけ出したチーフが、戸締まり頼んだぞと一言残して、裏口から帰っていった。
 レジの日はだいたい遅くなり、今日は余計なジャマが入ってさらに時間がかかっている。そんな日に限って計算が一発で合わず、何度か見直しして入力をやり直している。
「あのお、」画面に集中していたため、声をかけられたことに気づかない。
 人の気配と、何か声がしたようで思い出したように顔をあげた。彼女が目の前にいた。白い肌、クリッとした大きな目、プックリとした柔らかそうな唇。近くで見ると、さらに美しさが際立ってくる。
 映画の巨大スクリーンで女優を見ているようだ。イヤミのない甘い香りがホンノリと漂ってくる。ケンシンは計算が合わず四苦八苦していた険しい顔のまま硬直していると、申し訳なさそうにもう一度声をかけてきた。
「あのお、お仕事中、申し訳ありません、、」
 テレビのアナウンサーのような良く通る声だった。それでいて何か甘えたような、頼りにされて、つい聞き入ってしまう声だ。ケンシンは一気に心拍数があがり、脇から汗が出た。
 何か言わなくてはいけないのはわかっているが、言葉が出てこない。
「、、明日の掃除の件で、教えていただきたくて。わからないことがあったら彼に聞いてと言われて、、」
 ケンシンと同じように、彼女も会長に掃除当番を押し付けられたのだ。彼女しかいないからそうなるだろう。どこを見ていいのかケンシンの目は泳ぎぱなしである。そして胸元のネームプレートに目が止まった。ムラサワと書かれている。
 名前だけを確認して、直ぐに視線をずらした。胸を凝視していると彼女に見られたくなかった。ニット地の効果は至近距離ではそのパワーを最大限に発揮して、丸々と膨れている胸部のその迫力に圧倒されてしまう。
 気づかれないように用心して覗き見ていても、女性には丸わかりだと聞いたことがあり、ケンシンは必要以上に警戒してしまう。
「あのう、ムネ、、」そう彼女に言い出され、ケンシンは真っ赤になって否定した「見てません、見てませんよっ!」。それではかえって怪しまれるほどに。
 彼女は一瞬大きく目を見開いて、そして口をおさえて吹き出した。ケンシンは何がどうなったのかわからずオロオロしてしまう。
「大丈夫ですよ、わかりますから、ムネ見られてる時って」彼女はニッコリと笑って言った。
「胸のネームプレート。カミカワさんって言うんですね。私はムラサワです。ムラサワ マオ」
 そう言って、ムネのプレートを突き出した。大きな膨らみが一層強調されるので、プレートを見ながらのけ反ってしまう。続いてマオは、ケンシンのプレートを指さす。
「すいません、初対面なのに名も名乗らずに、ちょっと、動揺しちゃって」とケンシンはあたまを下げた。
 たぶん、マオにいきなり話しかけられれば、男はたいてい動揺するだろう。いったい自分になんの用事があるのかと、いぶかしがってもおかしくはない。それほどに平凡な男にとっては次元の違う存在だ。
 気さくに話しかけられてケンシンは少し気持ちが落ち着いていた。
「ああ、そう、あっ、イヤ、これ本名じゃないんだ。ショップ名って言うか、店だけで使ってる名前。顔と名前、バイト先で覚えられるのイヤだから」
 名前のことを人に話すのは初めてだった。アタルは同じ学校に通っているのでケンシンの本名を知っている。ケンシンがそれをマオに伝えて、流れの中といえ余計なことを言ってしまったと後悔した。
 そんなことを言えば、マオも本名じゃない場合、カミングアウトを強要しているように取られても困るし、ケンシンに本名を訊いてこられても困る。
「へー、そうなんですね。 知らなかった。私もそうすればよかったかな」
 マオは、複雑な表情をしていた。自分のようなわかりやすく、名前を変えて身を守った気になれるぐらいの、単純な人生を歩んでいてはわからない気持ちがにじみ出ていた。
 本名だったと喜んでいいのか、これだけ仕事で気苦労している彼女のことだ、本名と思わせておいて、実はそうでない可能性も考えられると、推測をしているうちにいったいどちらが正なのかこんがらがってきた。
 そんなことより、この状況をどうにかしたいケンシンであった。いまの自分が彼女の役に立たないことを知ってもらわないと、どんどん泥沼にハマっていきそうだ。
「ごめん、おれバイトだから、モールの規則とかよくわかんないし、今日は店長いないから、取り敢えず話し聞いといたけど、明日は大学もあるし掃除は来れないんだ」
 彼女は難しいそうな表情で話を聞いていた。そんな顔をされるといたたまれない、アツシだったらどうするだろう。調子の良いこと言って、一緒に掃除するだろうか。
「そうなんですね」彼女はポツリとそう言った。そんな表情を今日も何度か目にしていた。外見が良いだけで、厄介事がひとより多く発生するのも有名税と言っていいのだろうか。
 ケンシンはどうすればいいかわからない。気になりながらも、なにもできなかったから今がある。何時だって、何処だって。たぶんこれからも。
 身の丈以上のことをして何度も失敗してきた。その不成功事例に囚われている。たまに成功した事はアタマに残り、何時までも有効だと信じて、消費期限を過ぎていることに気付かない。
 自分では彼女を救うことはできないのだ。ならば関わっても仕方ない。
「わかりました。そういう事情でしたらしかたないですよね。なんだかご迷惑かけちゃったみたいで、申し訳ありませんでした」そう言ってアタマをさげた。
 自分の方に否があると下手に出て気を遣っている。大袈裟でもなく、礼儀的でもなく、ケンシンには丁度いい加減の振る舞いだった。
 多くの意にそぐわない男たちと接していく内に身についた、相手を不愉快にさせない所作なのか。ケンシンも気の利いた言葉でもかけられればいいが、そんな器用さは持ち合わせていない。
 人生はままならないもの。一部の成功者が取り立たされるのも、その秘訣を知りたい大勢の人間がいるからで、全員が成功者になれば、誰もその秘訣を知りたいとは思わない。世にあふれる啓発本はこうして増えていることがそれを現している。
 この女性も、マオも、ひとが羨む容姿をしていても、幸せではない。むしろ余計な外因に時間を割かれ、好意的だったひとを敵に回し、いわれのない暴言をはかれることもあるのだろう。
 だったら自分ぐらいは、そっとしておいてあげたほうがいいような気がするケンシンだ。それが自分の身をわきまえた行動だと納得させる。アタルにも気を遣わせていた。
 マオは失礼しますと、お辞儀をして店に戻っていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで1)

2024-06-18 07:45:04 | 連続小説

「ホント、可愛いよな、カノジョ」
 アタルがそう言った先には、半月前から向かえのブランドショップに勤めはじめた女性がいた。
 女性物を取り扱うファッションショップなだけに、着こなしも、着ている服装も様になっている。カラダを動かす度に明るい髪がサラっと、なんの抵抗もなく流れてそよいでいる。
 毎日、準備万端で10時の開店にそなえるために、こんな時間から店のまわりの掃除をしている。そのあとはシャッターを半分開けて、店内の清掃からショーウィンドのマネキンの服の取り換え、配置を調整したり、服の入れ替えや、新入荷された服を開封して確認して、ショーケースに並べたりとテキパキ働いている。
 ケンシンはいつもその様子を見ていた。アタルとは大違いの働きぶりである。
 顔立ちは、女優の誰かに似ているようで、それでいて、その誰にも似ていない。そんな印象がかえって、直ぐに人目を引く美しさとなっている。
 レジを担当しているケンシンも、アタルとは別の理由で彼女のことを気にかけていた。
 アタルはそう言ったきり、焼き上がったパンを配膳する手を止めて彼女に見とれている。
「オマエさ、いつまでそうしてるんだよ。早くそのパン並べないと、焼き立てのうたい文句が偽りになっちまうだろ。次のパンもチーフの前で大渋滞で、そうだな、これは確実にドヤされるぞ」
 ケンシンが呆れてそう言うと、アタルはまだ開店前だからいいだろとボヤキながら、渋々と配膳をはじめる。それでも目線は彼女に釘付けのままだ。
 白い薄手のセーターは首の部分が緩やかになっており、花が開いた様な感じに見える。黒のパンツとのバランスも良く、一層長く見える脚を引き締めており、自分のストロングポイントをおしみなく強調するコーディネートだ。
「あのさあ、、」アタルが未練がましく口を開く。
 ケンシンは、つり銭用に準備してあるパッキンされた小銭を、バラしては所定の場所に入れる作業をしており、視線を上げられない。
「セーターいいよなあ、カノジョの大きいオッパイが、さらに1.5割り増しって感じで」
 そこはケンシンも気になっていた。丸々とした胸部と、キュッとしまった胴回りまでのピッタリとしたラインに、嫌がおうにも目線が吸い込まれていく。
 道路の清掃をするとどうしても前かがみになり、ホウキでゴミを掃くことになる。その態勢で重力にあらがうこともせず、丸いふくらみはユラユラと揺れて、アタルのような好き者にとってはたまらない光景だろう。
「先週はさあ、ガバッと開いたVネックで前かがみになったときは最高だったけどさ、この時期にセーターっていうのもいよなあ。オレ、あんとき5回はイケたけど、今回もそれぐらいイケそう。想像力をかき立てられるって言うか、その方が盛り上がったりするんだよなあ」
 そう言ってケンシンに同意を求める目線を送る。それを感じてケンシンは顔を上げる。だらしない顔をしたアタルがパンを配膳しながら、もう一度彼女を見つめはじめる。
「オマエの盛り上がりはどうでもいいからさ、想像したくもないし、見たくもない。ほら、次の取りに行けって」
 それは食品を扱う店には適さない顔で、ケンシンが客だったら絶対に入店しないだろう。アゴでシャクって次のパンを取りに行くように促す。
 アタルの顔つきを見るだけで、アタマの中で何を考えているのかケンシンには想像がつく。白くふんわりと焼けたパンでも見ようものなら、彼女の素肌の胸と置き換えているに違いない。
 しぶしぶ次のパンを取りに戻るアタル。今日もチーフの焼くパンは完璧な焼き上がりを見せている。アタルの変な妄想がまとわりついていようが、香ばしい風味が負けじと店内に広がっていった。
「あんなコ、彼女になったらいいのになあ」戻って来たアタルがぼそりとつぶやいた。
「声かけてみれば?」ようやくレジの準備も終わって、ケンシンはしかたくアタルの相手をした。
 首を振るアタル「オレなんか無理だって。彼女と釣り合わない。アピールできるとこ何ひとつ思い当たらない」
 自分も含めてケンシンもそんなことはわかっていた。せいぜい端から見てワイワイと冷やかしている立場の人間だ。そうでなければ半月たったいまでも同じことを続けていない。
「そう言う、ケンシンはどうなんだよ? キライじゃないだろ。いやむしろ好みだろ。いつも関心ないみたいなフリしてさ」
 アタルにそう言われるのも無理はない。必要以上にアタルが推しまくっているのも、ケンシンが一向に乗ってこないからという理由もある。
「あーっ、オレ? そうだな、必要じゃないんだ」ケンシンはそう言った。
 ケンシンにしてみればアタルの異常ともいえる高揚振りに、食傷気味であるのもいなめない。どんなに焼き上がりの香りが最高のチーフのパンも、毎日食べていれば感動も薄れ、今日はもういいかなとなることと近いのかと、変な例えに首をひねる。
「はっ? ナニ? おかしいぞ、オマエ。誰が見たって可愛いだろ。必要とかそう言うの抜きにしても、お近づきになりたいだろ?」
 自分以外の考えを一切考慮しない無茶苦茶なアタルの言い分だ。ケンシンはそう言われると踏んでいた。そうなれば次は、どういうコならいいんだとか、やれもう彼女がいるのかとか、あげくにはオンナに興味がないのかとかと下衆な詮索をしてくる。
「オレさ、あのコが不憫でしかないんだ」というわけで、口を開こうとしたアタルの先を押えた。
「どうゆうことだよ、フビンって。あんなカワいかったら人生バラ色でしょ。何だってできるし、どんな男にも好きになってもらえる。そいつが大金持ちなら、好きなことだって放題じゃないか。そう考えれば増々オレなんか選ばれるわけない、、 」
 最初は景気よくまくし立てていたアタルは、自分の立場を再認識するとともに声がしぼんでいった。
「オマエの言い分はよくわかるけど、それで地球が回っていれば、世の中は美しい女性と金持ちだけが生き残ることになる。そうじゃないから、オレがいてオマエがいる」
 ドアが開いて今日最初の客が来店した。ケンシンが時計を見上げれば8時を回っている。年配の女性の客はトレーとトングを取ってパンを選びはじめる。よく開店とともにやってくるなじみの客だった。
「やけに哲学的じゃないか。そんなの授業でならったか?」
 客が来た手前、一応声をひそめてアタルは続ける。
「そうだな、オマエみたいに考えている男たちが1000人ぐらいいて、そして彼女を見ているだけで諦めている。もしかしたらその中に、彼女の好きなタイプがいるかもしれないのに、誰にも声を掛けられず、一歩引いて遠くから眺めているだけで終わってしまう」
 ケンシンはそう言うと、トングとトレーの準備が少ないのを見て、補充をしようとストック置き場に向かってしまった。本来はアタルの仕事だ。
「だから、フビンなのか?」アタルは手伝うでもなくケンシンの後についてくる。ふたりが調理場に入ってきたので、チーフがチラリと目をやるが、すぐにパン生地に目を落とす。
「オマエがさ、本気なら声かければいいだろ。ただ、見た目だけで、すぐヤリたいとかだけなら、やめといた方がいいんじゃないの」
 調理場の右手にあるバックヤードに入っても、チーフの耳に入らないようにケンシンは声を潜める。
「ケンシンはさ、そういう気にならないのかよ、、」その続きに、おかしいんじゃないのかと言われるのを遮るために言葉をかぶせてくる。
「どうかな。彼女はとびきりに可愛いのは間違いないよ。きっと、何人もの男にこれまでも言い寄られてるだろ。その度にしなくてもいい謝罪をしている。何のためだろうな、、 」
 レジに戻ってくると、最初の客が店の奥を覗き込んでいた。会計をするために声をかけようかとしていたところだったらしい。
 ケンシンは失礼しましたとアタマを下げ、トレーに載せられたパンを見てキーを打つ。横でアタルがパンを袋に入れる。会計を済ませるとふたりで揃って、いつもありがとうございますと礼を言って、あたまを下げる。
「オマエってさ、とにかく超悲観的な未来を想像するタイプなわけ。いやー、知らんかった。今日の今日まで、ひとってわからんもんだな」
 出会ってまだ半年しか経っていないのに、バイトの時間だけの付き合いなのに、長い付き合いがあったみたいな言いかたをされて、苦笑するケンシンだった。
 次に女性のふたり連れの客がきた。ここのパンおいしいのよと、もうひとりに伝える。自分の目利きを知って欲しく連れて来たようだ。そう言われて大した味じゃないと言う友人はいないだろう。
「そうなんだよ。なんか楽しみがあっても、もしこうなったらどうしようって考えるタイプなんだ。だからいままで自分からなにか言い出したことはない。だいたい人に頼まれて、仕方なくやるって言うか、それを理由にようやく決断できたことばかりだ」
 自傷気味にケンシンはそう言った。
「バイトも?」「バイトも」「大学も?」「大学も」あと、数十回にわたるアタルの問いを答えたケンシンだった。
「あー、おいしそう、これも、これも、これも食べたい」
「ふたりでシェアすればいいから、気になるのは買っちゃいましょ」
 ふたりは楽しそうにパンを選んでいる。 
「オマエさ、そんなんで人生楽しいのか?」けげんな顔をして、アタルは最後の質問のように言う。
「どうだろ、オマエには楽しくは見えないだろうな。なんかさ、そもそも、人生を楽しめる人種はそれほど多くはないだろ」
 女性客は大盛り上がりで、ふたりでは食べきれそうにないパンをトレーに載せてレジに来た。食べきれなかったら冷凍庫で保存すればいいと話し合っている。
 ケンシンは、沢山お買い上げいただきありがとうございますと、営業トークをする。アタルは大きめの紙袋を擁してい包んだパンをひとつづつ入れていく。
「レベルの問題だろ。ああやって楽しんでればいいんじゃないの。オマエの考えって哲学的すぎて、わけわかんないけど」アタルは感心しているのか、呆れているのか。
「だろうな、オレも理解してもらえると思って話してないよ。じゃあ、何のために生きてるのかって言いたいんだろ? オレもよくわかんねえ。常に何かを心配して、なにも起こらないことだけを祈って、平凡な日々に感謝してるだけだからな」
 それからは、立て続けに数人の客がやって来た。ふたりは無駄口をたたくことなく接客をする。商品棚のパンがなくなると調理場に行って、次に焼き上がったパンを配膳する。チーフは今日の売れ筋を読みながら次に焼くパンを考えてく。
 この店の売れ残りが少ないのはチーフの読みの正確さからきており、アタルは売れ残りのパンが少ないことにいつも嘆いている。
 客足が途絶えたところでアタルが言った。
「あのさ、オレもホントはさ、ムリして楽しんでるフリしてるだけなんだ。ああやって、オンナの話しとか、若者っぽい話ししてないと、みんな相手してくれないだろ。ケンシンもそうだと思ってたし、、」
 彼女をキッカケに、野郎がふたりなら、そういう会話になるかと話しただけだった。アタルに合わせてそれっぽいことを言うこともできた。
「そうか、悪かったな、つまんない話して」
 ケンシンは今回はそれをしなかった。それは彼女を気遣ったことでもあり、自分に重ね合わせたことでもあった。
「ああ、ううん。ケンシン、オレさ、思うんだけど、それでもいいと思うんだ。それで小さな幸せを感じて、よかったなって。何かの比較じゃなくて、自分がそう感じれるだけで」
 ふと彼女を見ると、今も男に声をかけられていた。女性物のファッションショップに似つかわしくないヤロウがふたり、彼女にまとわりついていた。
「カノジョ、また声かけられるぜ」アタルも気づいてそう言う。
 客相手の商売ではあからさまにイヤな顔はできない。彼女は笑顔で対応しながら陳列されている服をセッティングし直したり、マネキンの服を整えたりしていた。あきらかに不要な仕事をしてはぐらかしている。
 今まで何度も目にしてきた光景だ。ガッカリする男、残念がる男、茫然とする男、悪態をついて去っていく最悪なのもいた。
 どうであろうと彼女は深々とアタマを下げて見送っている。服を買いに来た客でもないのに。
 無限の可能性を信じることは大切だ。特に若いうちは。やってみなければわからないとか、馬券も、宝くじも買わなきゃ当たらないとか。
 それで成功する確率は高くはなく、ほとんどの人はなにも起こらない人生に、何かを期待しつつ年だけ重ねていく。
 いつのまにかお年寄りの女性がトレーにパンを載せてレジに立っていた。遠くの彼女にはすぐ目がいくのに、近くの老婆に気づかない。ケンシンも自分に呆れるしかなかった。
 アタルとふたりで手早く会計を済ませ商品を渡す。
「ありがとうございます。こちら、商品になります」アタルが大げさに言う。
「ありがとね。アナタたちみたいな若いコから買うと、パンも倍おいしくなるわ」
 お年寄りの女性は嬉しそうにそう言った。ケンシンたちをおだてるわけでなく、自分の素直な気持ちで言っているのがわかった。
 ケンシンとアタルは顔を見合わせて笑顔を見せた。そしてお年寄りのために店のドアを開けて、普段ならしない見送りをした。向かいの店ではその光景を見た彼女が微笑んでいた。
 見栄えが特権になることもあれば、若さが特権になることもある。他人はうらやましがっても、本人はそうでないこともある。その価値を見出すのは自分ではなくまわりであることも。
 ケンシンはアタルの肩をたたいて店内に引き上げていった。