R.R
「 …ス、ボス。もうすぐ着きやすぜ」
八起に促され目を覚ませば、マセラッティはサーキットまでの最後の傾斜を登っているところだった。
「ボス、だいぶお疲れのようですね。近頃、よく、うなされてますぜ。さっきのひでえ夕立のせいかもしれませんがね。ええ、あたりが暗くなったかと思ったら、案の定、あっというまに降ってきやがった。どうでしょう、30分ぐらいは降ってたんじゃないですかね。天井を叩く音もかなり、けたたましかったんですが… 気付かれなかったってことは、そりゃ、よほど悪い夢にでも引き込まれてたんでしょう」
気を遣ってくれる八起の言葉を耳にし、目を覚まそうとしても、なお頭を持ち上げることは困難だった。
八起に云われるまでもなく疲れが蓄積し続けているのは間違いなく、それと関係があるのか、昔を思い出すことが増えていた。
自分がいま、成し遂げようとすることは当然として過去からつながっており、無意識の内に回顧するのは当たり前のことなのかもしれない。未来を進めるにあたり、過去への思いを断ち切ろうとする心情が、逆に多くのあやまちを思い起こすことになる。
「なあ、八起。服屋が多くの服を持っている客にさらに服を買わせるには、どうしたらいいと思う」
「はあ? やめてくださいよ、アッシに小難しいハナシは無理ですぜ。とは言え、ボスの口ぶりには興味を惹かれますがね」
突然、何を言い出すかのかと面喰いながらも馬庭のことを思えば、ここは聞き役に回る必要があると判断した。八起だからこそ言える話もある。
「難しく考える必要はない。答えは簡単で、膨れ上がったポケットには何も入らないってことだ」
「はあ、アッシにはとても簡単に聞こえませんが、問答ですかい?」
馬庭は鼻から息をこぼして続ける。
「問答なんてものではなく単純な論理だ。いっぱいになったポケットにモノを入れるには、今入っているモノを外に出さなければいけいない。それで言えば、お客にいま持っている服を捨てさせる。つまり、押入れやタンスに仕舞いこんで着なくなった服を捨てさせなければ、客の置かれた精神状態では新しい服を買おうとはしないということだ」
「へえ、でも、どうやって捨てさせるんです。いちいち客の家に行って、これはいらないだの、着れないから捨てろだの、お節介やくんですかい」
八起はウインカーを左に当てて、サーキットの入場門をくぐる。警備員の一礼に右手を挙げて応える。
「ふふ、それじゃ経費過多で儲けが出ん。それに、他人からああだこうだ言われれば逆に拒絶するのが人というものだろう。対処策はとすれば手持ちの不要となった服を安く買い上げる。もしくは店まで持ってきてもらえれば、代わりに処分するというサービスを行う。これは、実は服屋に喚起されながらも、自分で判断を下している錯覚におちいるため抵抗なく実行してしまう」
「へえ、なるほど、ボス、次は服屋にでも転身するつもりですかい?」
馬庭はぐるりと首を回して口角をあげる。
「それもいいが、これは金額の差こそあれ、クルマの話でもあるんだ。八起、いいか、我が国もやがて豊かになり、そのうちひとりに一台クルマを手にするようになるだろう。今の主要客である男性客が飽和すれば、次は女性や老人といった新しい購買層に目を向け、それにあわせたクルマが必要とされる。重いハンドル・アクセルにブレーキ、面倒なミッション車なんてものは選択肢から外される。そして、最後には手足も使わず考えるだけで、クルマが勝手に動くようになる。まあ、それはまだ先になるだろうが… 」
「はあ、手足を使わずにですか」漫画の一場面を想像する八起には現実的ではなかったらしい。
「極論だがな。横道にそれてしまったが。では、一通りにクルマが行き渡ったら、次にクルマを売るにはどうする? 今のクルマを手放さない限り、ほとんどの人は新しいクルマを買わないだろ?」
「そりゃ、そうですね。よほどの金持ちじゃなきゃ、ひとりで2台も3台もクルマを持つことはできねえですし。じゃあ、クルマを安く買い上げるなり、処分するなりして次々と新しいのに買い換えさせるってことですかい。それこそ服じゃあるまいし、いうほどうまくいくとは思えませんが」
マセラッティは地下駐車場への下りのスロープに進入する、ヘタな運転なら嫌な浮遊感が身体に伝わるものだが、八起はクルマのノーズが下がったことを、まったく感じさせず走らせる。
クルマを駐車位置に停止しても、馬庭は降りようともせず会話を続ける。
「ふつうはそう考えるだろうな。だが、常識というヤツは必ずしも、いつまで経っても常識では在り続けんのだ。同じような毎日を過ごしているつもりでも、そいつは少しづつ変化していく。そして、いつのまにか世界は変わってしまい、昔からそうしていたかのように受け入れられていく。気付かないんだ、誰も、キサマも、わたしも」
馬庭はここでこめかみを手で抑えた。話しを進めさせていいものか八起は戸惑っていた。そうではあるか馬庭を止めさせる言葉は見つからない。
「時代の潮流は作り出すことができる。望む者の力が強ければ余計にその傾向は強まってくる。どこかの強国のように、政府が国の成長戦略を後押しするならば、買い換えざるを得ない状況を意図的につくることも可能なのさ。まだ乗れる、愛着がある。そういった情緒的なものと、便益と世間の動向ををハカリにかけて、無くしちゃいけない大切なものを失っていく。最初は負い目も感じるだろうが、そのうちに麻痺して、やがては消費こそが美徳と割り切ることができる」
「そんな、もんですか。アッシなんざ、このクルマを懇切丁寧に乗って、一生連れそうつもりでいるんですがね。ボスが買ってくれた大切なクルマだ、もう、車体の隅々まで知り尽くして、自分と一体になってる気がするほど、あ・うんの呼吸で動いてくれる。それを乗り換えて、じゃあ次って気持ちには、ほとほとなれませんがね」
あきれ返って言う八起に、馬庭は自嘲気味に、そして声のトーンを落として搾り出すように話しはじめた。八起は馬庭のその独白に心音が高鳴った。
「そう、そんな馬鹿野郎が、そのまま、これまでのわたしの人生だった。手の内にあるモノを捨てるということは不安との戦いだ。だが、捨てなければ新しい能力を手にすることはできず、今度は手に入れられない不安と戦うことになる。一度、捨ててしまえば次々と新しい能力を手にするために、同じことを惰性のように続けていく。大切な何かが身から削ぎ落とされていくのがわかっていても、もう止められない。実は手にした能力なんてモノは、無くした大切なものに比べれば、なんの価値もないってことを、自分でもわかっているのに。一度、転がりだした坂では、もう誰も止めることはできないんだ」
「 ……」
八起は、もはや言葉を閉ざすしかなかった。馬庭が見た悪夢の正体がおぼろげに見えてきた。おいそれと自分から言葉をかけることはためらわれ、馬庭から言葉にして吐き出せることができるなら、少しは好転するではと甘い期待をするが、悪い流れを断ち切るのはやはり、この女性しかいなかった。
地下駐車場に降りる階段の陰から、レイナが顔を見せると辺りを窺うため顔を左右に振る。馬庭が到着したはずなのにいつまでたっても社長室に戻ってこないので、心配になって様子を見に来たのだ。
マセラッティの陰影を見つけると、不安げな表情のまま、すぐさま小走りに駆け寄ってくる。スタイルの良い体躯は大きく揺れ、胸が波打っても気に止める余裕もないのは、すこしでも早く馬庭の様子を確かめたいからなのか。そんなレイナの純真な姿は八起には眩しすぎて、とても正視することができず目をそらした。
急ぐように焦るように、マセラッティのドアがレイナの手をかけるので、あわてて八起がロックを外す。開かれたドアのすぐそばで、馬庭は鉛のように重くなった身体を懸命に持ち上げて、なんとか車外に出た。
レイナに心配をかけないよう何事もなく立ち振る舞う馬庭に、その姿に無理を感じたレイナはすぐさま手を回し、馬庭を支える。
「大丈夫ですか、社長。私の前では無理なさることはありません。よろしければ、志藤先生に診ていただいてはいかがでしょうか」
すかさず運転席から回り込んできた八起も、反対側から馬庭を支える。これほど弱々しい姿の割に、やけに体重が重く感じられる。それは、自分で身体を支えきれていないなによりの証拠であった。しかし、馬庭はそこでスッと背を伸ばし、両手でふたりを遮ると息を吐き出し再度、身体に活力を取り戻した。
「心配掛けた。だが、大丈夫だ。何がまずかったかは自分でもわかっている。ただ、志藤先生には診てもらうよ。玲那さん、10分後に行くから、話しをつけておいてくれないか。そうしなければ玲那さんが安心できなさそうだ。八起もな。あぁ、八起、今日は早めに仕事を切り上げるから、このままクルマは待機しておいてくれ。一度、仕事場にもどるよ」
そう言い残し執務室に戻る専用エレベーターに向かっていった。レイナは八起に一礼すると医務室への通路に足を向けた。
「あっ、玲那女史… さん」
思いもよらず八起に呼び止められ、驚きと共に振り返る。紺のジャケットに、白いスカートの裾がふわりと広がる。均整のとれた体型は、美術品の女性像でも見ているほどで、目を潤わせてくれる。
「はい?」
「ああ、すんません、急に呼び止めちまって。アッシがしっかりしてないもんだから、ボスを気遣うことができません。運転するぐらいしか能がなくて。もっとボスの力になれるといいんですが。玲那さん、あなたは聡明で気も回るお人だ。どうか、ボスの力になってやってください。いや、アッシがそんなこと言うのもおこがましいですが。それぐらいしかアッシにはできません。どうか、ボスを支えてやってください」
言葉はたどたどしいが、実直で上司思い、馬庭のことを心から心配している八起の気持ちを、レイナは素直に受け止めることができた。
自分も馬庭を支えたい思いは誰にも負けないと自負していても、いまだ足手まといになっているのが歯がゆい。一度、八起の場所まで戻りスウェードの鳥打帽を握り締める手を両手で優しく包み込む。
「八起さん。私だって半人前で、何ひとつお力になれるようなことはできていません。でも、少しでも社長のお役に立ちたいとは思っている気持ちは一緒です。私たちの出来ることで、お互い社長を支えられるよう頑張りましょう」
穏やかな笑顔で、しかし、はっきりと語るレイナを見て、語られる言葉より強い女性である印象を受けた。だからこそ余計に自分の無力さが情けなく思え、そんな自分にも屈託の無い態度で応対してくれるレイナに感謝の思いがこみあげてくる。
「それでは、私は、医務室へ向かいますので。八起さんも、帰りの運転、どうぞ御気を付けて、社長のこと宜しくお願いいたします。それでは、失礼します」
「へえ、こちらこそですが、およろしく、おねがい、いたしますです。はい」
レイナに手を握られ、丁寧な挨拶に舞い上がり、でたらめな敬語を使う八起に優しく微笑み、再び会釈をして医務室へ向かい歩き出す。
両手で鳥打帽をクシャクシャにして、その場で感激に浸る八起、女神でも見つめるような視線でレイナの後ろ姿を追いつづけていた。
「はあー、八起さんだってよ。どうしよう… って、どうする?」
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