private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

a day in the life 8

2017-02-18 08:43:56 | 連続小説

 病院の扉を押して外に出ると、運よくタクシーが停車していた。中から女性が降りて来たので空車になるはずだ。マサルは小走りにタクシーに近づき手を挙げると右手に痛みを感じ、なんだろうと右手の甲を見たら赤く腫れている。その理由がわからず、記憶をさかのぼろうとして思いとどまった。それよりもいまはタクシーをつかまえる方が先だ。運転手はこちらに気づいているのか、その表情には変化がなく不安な気持ちになる。
 自宅に一度戻ってから自分のクルマで実家に行くのは億劫だった。手持ちの荷物も多く、昨夜からのゴタゴタ続きで睡眠不足だ。それほど遠い距離を走るわけではないにしろ、この状況ではクルマを運転する気にもなれない。タクシー代の出費は財布に優しくはなくとも、安心、安全には替えられないし、いっそ代金は母親に肩代わりしてもらえばいい。なににしろ、これからいろいろと物入りになるので、これを機に親の金の管理を引き継いだ方がいいだろうという思いもあった。
 タクシーを降りた女性は、その沈んだ表情を隠そうともせず、うつろに歩いて行く。病院に元気満々でくる人間がそれほど多くはないとはいえ、どんな心配事を抱えているのかと気になった。そんな表情で病院に駆けつけるわりには服装が軽すぎ、これから女友人か、彼氏と、話題のお店で待ち合わせといったほうがしっくりくる。それでも出先から呼び出されることだってあるかと、ひとり納得しつつ、マサルもひとのことを心配している状況ではない。
 マサルを受け入れるつもりかだったのかわからないまま、ドアが開いた状態のタクシーに乗り込み声をかけようとすると、運転手は愛想なくバックミラー越しに目先を向けて、どちらまでと行き先を訊いてきた。マサルは遠慮しながら、少し遠いんですけど… と言ってみても、それに対する反応は一切なく、相変わらずミラー越しの目だけがそこにある。客の方である自分がなぜこれほど卑屈になっているのかと思いながらも、至急母を迎えに行きたいので、八事の霊園の方まで飛ばしてもらえますか… と向かう先を告げたとたんに運転手は飛ばすんですねと嬉しそうに応え、勢いよくスロープを飛び出して行った。
 マサルが記憶しているのはそこまでだった。正確に言えば、走り始めて、あまりのスピードに目がまわりはじめるところの映像はあるが、それが現実であったのか正確に伝えることができない。気がつけば、運転手に膝を揺り動かされて、お客さんつきましたぜ。と声をかけられていた。
 そこは八事霊園の前だった。放心状態のままあたりを見回す。
「あのー、八事ですね… 」
「そうだよ、八事だよ。八事霊園でいいんだろ?」
 なにか不都合でもあるのかと言うように、運転手はぶっきらぼうに言い放った。
 たしかに八事霊園の方とは言ったが霊園の前で降ろされてもどうにもならないので、そこから実家のある方向までお願いした。こんどはゆっくりと行ってくださいと付け加えるのを忘れずに。
 運転手の返事は先程とはかけ離れ、つまらなそうな返答に聞こえた。ウインカーをあて、滑り出すように発信すると、今度は自宅のソファにでも座ってくつろいでいるような乗り心地だ。ようやく落ち着きを取り戻して、時計を見ると、あれからまだ15分しか経っていない。もう一度あたりを見回し、時計を二度見していた。
「あのー、15分で着いたんですね… 」
「遅かったか?」
「 …いやあ、早すぎですね。何キロ出したんですか?」
「そんなには出してない。街中だからな」
 運転手はそう言って言葉を濁した。
「はあ… 」
 自分のクルマで自宅から実家に帰るときは、どんなに急いでも1時間をどうにか切れる程度だ。それじゃあ通常の3倍。赤い彗星か!?と、突っ込みを入れたくなる。興味本位に掲示してあるネームプレートを覗き込むと、コバヤシと名字は平凡な名前が書き込まれていた。名前は??? なんと読むのかわからない、お経にでも書かれているような文字がみっつ並んでいた。
 実家の近所にあるコンビニの看板が目についたので、そこの駐車場で降りると伝えた。マサルはのどが乾ききっており、なにか飲みたかった。運転手はわかったように二度、三度うなずいて、駐車場にクルマを止めてくれた。メーターを見ると通常の金額だったので安心した。これで3倍の金額を請求されても文句は言えないと思っていても、事前になにも言われないまま、なんの協議もなくやっておいて、はいそうですかとは出せない。
 運転手は何でもないことのように表示通りの金額を読み上げる。マサルはせめてこれぐらいはしないといけないかと思い、切り上げた枚数の千円札を渡し、お釣りは結構ですから、早く到着できて助かりました。とお礼を言ってみた。運転手は、少し口角をあげて(あげてなかったのかもしれないが、マサルにはそのように見えた)そりゃどうも、とだけ言って、お金を受け取った。
 コンビニの駐車場に立ち降り、来た道を引き返していくタクシーを見送りながら、必ず半分の時間で目的地に到着できるという触れ込みで売り出せば、倍の金額を払っても乗りたい人はいるのではないかと、あたまをよぎり、心臓の悪い母親と一緒でなければ、帰りも乗っていきたいところだと、無茶な考えを一笑していた。
 マサルはコンビニに入って、ドリンクコーナーに向かう。幾種類ものソフトドリンクが並んでおり、新製品とか、お薦めの品が目に付きながらも、やはり普段から愛飲している商品にしようかと、とめどなく思案していると、目端にいぶかしげな行動をとる人の影が映った。
どうしても小ぎれいとは言い難い年配者が、まわりを気にしつつ、棚に並んでいる惣菜パンを無造作に手に取り品定めをしている。それを不穏と決めつけるのは良くないとわかっていても、胸騒ぎが止まらず、いつのまにか目が釘づけになっていた。あっと思った瞬間、心にも釘が刺さった。
 その男はためらうことなく、手にした総菜パンを、左右のポケットにそれぞれねじ込んだ。そしてまわりを気にして伺い出すと、最初に目があったのはマサルだった。おどおどとしたその目は、万引きになれているとは思えなかった。その男よりも驚いたのはマサルの方で、すぐに視線をそらし、あいかわらず商品を選んでいるフリを続け、その男のしたことはあずかり知らぬそぶりを続けた。商品を選ぶ以上に目が泳ぎまくる。気持はそれどころではなく、あたまの中に多くの思惑が交差していた。
 やめるように声をかけるべきか、店員にこのことを伝えるべきか、いや、変に関わってあとからトラブルに巻き込まれるかも知れない。あとからだとは限らない。ナイフとかの凶器を所持していて、バラされた腹いせに反攻してくることだって考えられる。
 そうであれば、自分が可愛いだけだ。気づかないフリをすればいい。大手のコンビニチェーンだ。防犯ミラーもあるし、防犯カメラだってある。一日の出納を確認すれば金額が合わないのがわかるはずだ。いまコトを起こさなくても、後からだっていくらでもやりようがある。逆にそれができなければ、これまでも幾つもの万引きを見逃していることになり、そんな店などどうせ長くは続かないと、責任転嫁の言い訳は増幅していった。
 自分が動かないのは自分の責任ではなく、このシステムのせいであり、人々に不満や不平があっても動かないのは個々の責任でなく、大きな権力の責任であると言えば逃げを打てれる。
 どれだけ頑張っても何かが足りないと感じていた。それはどうしたって止められずに、いまでもそうなのかも知れないけど、自分のことを認めるのは簡単ではない。他人から言われてそう思えるのもなんだか素直になれないし、そこにすがりついてしまう自分を止められない。正義の味方がヒーローだった時代はもう終わっており、最後に勝ち残った者がヒーローになる時代なのだ。

「アナタは、いま海の中を潜っている」
「なぜ? オレって海、そんなに好きじゃないけど」
 マサルは初っ端から問いかけの内容が腑に落ちずに、すぐに言葉を挟んだ。
「仮定のハナシです。それをイメージして答えを出してもらえればいいんですよ。これが、このテストの要点なのですから」
 医者は、さっき説明したばかりだろうと言いたげに冷たい微笑み返す。その態度にマサルもついつい反抗的になってしまう。
 初めておこなう心理テストで、あうんの呼吸で医師の期待に沿える患者がいったいどれほどいるのか。権威者の立場で物事が推し進められていくことはいつだって、どこにだって蔓延しており、さげすまれる弱者になるのか、物言う被験者になるのかで、診断内容もかわってくるはずなのにと、すでにこの診断の真偽に疑問をだいていた。
「ああ、そういうものなんだ。そう言われても、実際に経験のないことを答えるのは簡単じゃないだろ。ああ、それもテストの内か?」
「まっ、そういうことになりますかね」
「それがそっちのルールってわけか… 」
 マサルはいまさらという感じで語尾を濁した。医者はその言葉を聞いても、つまらなそうなそぶりを続けている。
 誰だって、自分のこころの中は読まれないと思っているはずだ。だが、こころの中は読めなくとも表情を隠すことはできない。眉や目やまぶたの動き、鼻孔、口元、表情筋。手も足も、そのすべてが言葉の真偽を物語ってくれる。知っている者と、知らない者の差は、ここでも大きな格差を生みだしている。おおよそ専門的な分野で働く人間は、相対する凡人を良いように扱える。学校の先生からはじまって、社会と関わりを持っている限り、幾人もの人から教えを請うことになる。その最たる人である医師と名がつく者たちから指摘されれば、一般人は否定できないだろう。
「ルールだとか、例えば約束事などなにもないのです。すべては虚実だと思えばいいのですよ。そうすればずいぶんと楽になれるはずです」
 精神鑑定士と名のつく医者はそう言った。さして深い意味も持たなそうに。恐れなどというもは自分で作り出しているだけなのだと言い出しかねなかった。

 マサルは、純水とラベルに書かれたペットボトルを取り出してレジに向かった。多くの荷物を抱えて移動するのがうざったい。ポケットを膨らました男はやはりレジには立ち寄らず、からだを丸めてすでに外に出ていく姿を目端で追っていた。止めておいた自転車に乗り、振り返ることもせずに立ち去っていく姿は、他の買い物客にまみれ、なんの違和感もなく溶け込んでいた。そんな男の行動からは、いまはもうなにひとつ疑わしさを見出すことができない。
 マサルは自分が見たものが本当に起こったことなのかと、にわかに信じられなくなっていた。たしかにあの男は、自分の目の前でパンを万引きしたはずだ。その時のおどおどとした灰色の目を忘れることはできないのに、それが見間違いだというのなら、自分の記憶を完全否定となってしまい、簡単に受け入れることはできない。
 周囲の人たちが何の動揺もせず、買い物を進めている姿を見ると、自分だけが疎外されたような気になってくる。もしかしてマサルと同様に、妙なことに関わり合いたくないゆえ自然にふるまっているとも考えられるが、変にそわそわとあたりを気にしているのはどうみても自分だけで、なんとも曇った不安に身体が覆われていく。
 自分の目に映ったものだけが、現実でなかったのかもしれないと思ったことはこれまでにも身に覚えがある。たしかに実体験しているはずなのに、そんなことはなかったと、まわりからは一笑に伏される。時に親であったり、友人であったり、仕事の仲間であったり。一斉に周囲からそんな事実はなかったと突きつけられれば、いくら自分が主張しても、そんなものは妄想のひとつとして処分されるだけだ。そうやって自分の歴史の中で欠損した部分がいくつもの巣のようになっていった。
 防犯カメラを見上げても、もうそこに自分が信じている事実が映っているとは思えなくなっていた。自分などが見られるはずはないが、実際に目にして本当になにも起きていなければ、その衝撃は計り知れない。それどころか、いつしかそこには自分が万引きしている映像が記憶されているのではないかと思い始めていた。
 すべては虚実だと思えば楽になる。あの医師が言った言葉は正しいのかもしれない。虚実だと言っているのに正しいという言い方も変なはなしだと、知らないうちに自分を笑っていたらしく、会計をしている店員は怪訝な顔をこちらに向けた。あわてて真顔になり、とりなすようにお礼を言って釣銭を手にした。
 なんだか以前にもこんなことがあったような気がする。いつのことだったのか思い出そうとすると、なにかあたまにモヤがかかったようになり、からだがふらつく。やはりずいぶんと疲れているのだと、タクシーにのって正解だったと今さらながらに胸をなでおろす。
 駐車場に出るとそんな思いもあり、乗って来たタクシーのことを思い出していた。通常の3倍の早さで到着したのもなにかの間違いなのかも知れない。いまどきそんなスピードで走れば、ありとあらゆるカメラに捕らえられ、距離と時間からスピードを割り出せば動かぬ証拠となってしまう。タクシーとして商売しているなら、それがどれぐらいハイリスクであるかなどわかっているはずだ。そう思いはじめると、余分にお金を支払ったことがやけに口惜しくなってきた。覗き込んだ時計は止まっているわけでも、時間が遅れているわけでもなく、どうやら止まっているのは自分の意識だけだとあたまを振った。

「あなたには兄弟がいます。兄は日頃からあなたに対して横柄な態度を取っています」
「オーヘー? ああ、横柄ね。オレには兄弟はいないけど… いると仮定しての話しだったな」
 言葉を遮られるたびに医師の目端が震える。なるほど、心のゆらぎは顔にあらわれるのだと変なところで納得してしまう。
「欲しいと思ったことはありますか?」
「いや、ないね。面倒だ」
 なるほどと医師はあごを引き、質問を続けた。
「その兄と言い合いになると、あなたは最後にかならず暴力で服従させられます」
「ほらな、やっぱり面倒だ」
 今度は、マサルの言葉には反応せず、神経質に手にしたペンでこめかみに抑える。
「あなたは、それがこの先いつまでも続くと思い、なんとか状況を変えたいと考えます。どのような手段をとりますか?」
「そうだな、アニキを殺すな。 …とか言えば先生に喜んでもらえるんだろ?」
「わたしを喜ばすための回答をする必要はありません。正直にあなたが最初に思いついたことを言ってもらえればいいのです」
「正直に言っているかどうかなんて先生にはもうわかってるんだろ。そのための検査だ。だったら、答えがどうかなんて関係ないんじゃないのか。オレが言った言葉に対して、それはウソ。それはホントと選り分けてくだけだ」
「なるほど、それもそうですね。つまりあなたは、自分の障害になるものは排除する… たとえそれが、血を分けた兄弟であっても。もしくは… 」
「もしくは… それは誘導尋問かな? そんなものは証拠にならないはずだ。なんだよ検査なんていって、廻りくどいかと思ったけど結構直接的じゃないか。もうすこし楽しめると思ったのにな」
 医師の顔が大きくひきつっていた。今度はイラついたせいではなく、すぐ目の前にある恐怖におののいているのだ。

 実家に向かって歩き出したマサルに、背広姿のいかついふたり組の男が寄りついてきた。それぞれがマサルの両方の腕を取り、駐車場の脇へと引っ張っていく。なにが起きたのか理解できないマサルは、ふたりの顔を交互に見て、「なんだ、なんだよ」と、しどろもどろで繰り返す。手に持った多くの荷物が不安定に揺れ、そのたびにバランスをくずす。
「カトウマサルだな。幼児監禁殺害の容疑で署まで同行してもらう」
 ひとりに壁に押しつけられ、もうひとりは、あたりを伺いながら携帯で連絡を取っている。いったいどうなっているのかわからず、反論する言葉も出ない。
「まったく、ノコノコと実家に戻ってくるとはな。大胆というか、無計画というか。まっコッチはその分ラクになった」
 押しつけられた男がそう言うと、連絡を終えたもうひとりが、余計なことを言うなと小声で制した。腕を後ろにまわされて、前を向かされると、前方からふたりの警官が走って来る。
「ちょっと、まってくれ。オレじゃないよ。万引きしたのはオレじゃなくて。汚い身なりの年寄りだって… 」
 マサルが必死に訴える。ふたりの私服刑事は顔を見合せて、おたがいに苦々しい顔つきになる。寄って来た警官に引き渡され、マサルは引きずられるように歩く。手にしていた荷物が散乱する。中からは大きなキノコや、おんなモノのストキング、電球が2個と、食べかけのハンバーガーに、革靴のメンテナンスキット、そして紫色のブラジャー。
周囲の人々もこの騒ぎに気づいたらしく、コンビニの中からも人が出てきて、なにごとかと集まってくる。
 多くのひとの目に自分がさらされているのがわかる。みんなが自分を見ているのだ。
「オレはなにもしていない、水を買っただけじゃないか。防犯カメラを確認してくれ。そうだ、それを見ればアイツがパンを万引きしている映像が映っているはずだ」
 引っ張っていく警官は不思議そうに顔を合わせる。うしろについた口の軽い方の刑事がうさんくさそうに、「いいんだ、言わせとけ。ソイツは精神分裂症なんだとよ。ふたつの人格があるとかなんとか。オレは信じちゃいないけどな。そう言っとけば裁判とかでいろいろと有利になるって弁護士に吹き込まれたんだろ。近頃は令状とるのも手順を踏んでいかんとあとで面倒になるから困ったもんだ」とぼやく。警官はそんなもんですかと、わかったような相づちを打っている。
「そうかわかった。スピード違反のことだろ? アレもオレじゃない。タクシーの運転手が勝手にやったことだ。カメラに映ってるだろ。調べればわかることじゃないか」
 パトカーの後部座席に押し込められ、両脇を刑事がかためた。
「見たよ」
 
口が軽いほうの刑事は、しかめっ面でそう吐きだした。
「そうだ、カメラにバッチリ映ってたんだよ」
 マサルは、うれしそうにもうひとりの刑事に、それみたことかと顔を向けた。
「オマエが、小さい子供をスポーツバッグに押し込んでいる姿がな! ひでえことしやがって!」
「 …!?」
「そうそう、精神鑑定医からも、傷害罪で訴えられているぞ。こっちもパソコンに録画されている。診断中はモニターすると約款に書いてあってな、オマエの署名もしてある。もっとも患者の個人情報は診断以外には使用しませんと書かれてるがな… 心配するな、取り調べ室にもモニターがついてるから、昔のように闇の中で罪状に署名させることはない。よかったな、カメラが見守ってくれてよ」
 マサルは刑事の軽口に笑う気にもなれずシートに身を沈めた。ここで来たのかと、自分を呪った。まわりのヤツらが悪いことしても誰も信じてくれない。自分だけが何もしていないのに、でっちあげられた事実に翻弄されていく。この世界のルールはつねに誰かに監視されている。この先にルールも約束事もない。あの医師はそう言った。マサルはこんな平凡な人間であってもお目こぼしはないのだと毒づいた。
 小さい頃から言われ続けていた。それを忠実に守って生きてきたのに、なにも報われない人生だったと今さらながらに悔恨していた。宿題をしても、風呂に入っても、寝る前にキチンと歯を磨いても、良い子にはなれないのだ。
 これがマサルの人生の一日。


a day in the life 7

2017-02-05 08:20:32 | 連続小説

 リサコはスマホを覗き込みながら階段をのぼっていく。生徒から回収した夏の課題の添削を溜めこんでいて、昨夜は遅くまでかかってなんとかやり遂げたものの、朝はなかなか起きられず、家を出るまでにずいぶんと時間を要してしまった。
 この春に大学を卒業して念願の小学生教員になり、なんの因果か自分の卒業した小学校に赴任することになった。当時から教鞭を振るっていた古株も何人か残っていて、立派になったものだと冷やかされるはめになる。
 友人からは夏休みが長期に渡ってあるから羨ましいと言われ、自分では謙遜しながらも期待感を持っていたのに、実際は毎日職員室に顔を出し、とくに新人は雑用を言いつけられ、一日中なんやかんやと仕事に追われることになる。生徒の登校日の度に、夏の課題や、作文、工作の進捗具合を確認して、期限のある提出物を受け取る。次の登校日までの準備をしていると土日もろくに休めずに、あっというまにカレンダーに×印が付いて行くのは、小学生の時の夏休みとなんら変わらなかった。
 近頃では会社の仕事を家に持ち帰って土日も仕事なんてことは、セキュリティの面からも、労働基準法の面からもできなくなっているというのに、学校の先生なんてものは、いくらでも仕事を家に持ち帰れる。遅くまで学校に残っていれば、冷やかな目で見られるために、そうなさざるを得ない。それでいて、もし生徒関連の個人情報を漏らしてしまえば、自己責任において処分されるのでやり損だ。
 盆休みに入って、今日は大学の友人たちと近頃話題になっているスイーツの店に集合することになり、溜まりに溜まったグチを聞いてもらおうと、自由な一日を作り出すために、溜まりに溜まった仕事を昨夜に片づけたのだ。
 遅くに入ったベッドの中でも云いたいことを考えていたら、目が冴えてなかなか眠りにつけなくなってしまった。昼前になんとかベッドから脱出することができたものの、働きはじめていない脳では判断も鈍りまくり、出かけるまでに時間がかかるは、忘れ物を取りに二回も来た道を引き返すわで、さんざんだった。
 前日にスマホのマップでブックマークしておいた画面を確認して、待ち合わせのスイーツの店をもう一度道のりを思い浮かべる。最寄りの駅はここであっても、歩いて行くにはまだ距離がある。どうしたものかと思案しながらも、画面から目が離れていないため、まわりの状況がおろそかになっているリサコは、突然に推進力が堰止められ、上体がややのけぞってしまった。腕に何かが引っかかり、手にしていたスマホを危うく落としそうになる。何が起きたのかすぐには理解できず、スマホを握り直して、圧力がかかった右腕に目をやると、こちらも驚いた顔のお年寄りがあわてて手を離していた。
「ごめんな、お嬢ちゃん。おどかすつもりはなかったんだ… 市役所に行きたいんだけど、どこから外に出ればいいか分からず… あれ? リサちゃんじゃないか? イシダさんとこの」
 お年寄りの表情が、がぜん親近感を増してきた。リサコはとまどいながらも、必死に記憶を呼び覚ましていた。たしかに自分の名字はイシダだし、小さい時はリサちゃんと呼ばれていた。実家の近所にはお年寄りが多く住んでいる。というか、今となってはお年寄りしか住んでいない。近所の誰かなのだろうがこんな場所で声をかけられるとは思っていなかった。
「ワタシだよ、ワタシ。タケダだよ。ほら、小学校の時、学校の脇の交差点で、毎朝、旗当番していたタケダのおじさんだよ。いつも元気にあいさつしてくれたよねえ、リサちゃんは」
 タケダと名乗るお年寄りは屈託のない笑顔を向けてくる。困惑する心を読み取られないように、笑顔で驚いた顔を見せて取り繕いながら、いつまでもここで話し込んでいる時間もなく、市役所所ですねと言って、タケダの腕を取り階段をのぼりだした。思いもよらぬ行動に驚いたのはタケダばかりか、まわりの目にも以外に思われたようだ。年寄りに親切な若者を演じるつもりもなく、なんとか自分の形勢を整えることに必死なだけだった。とりあえずタケダの気を別の所にやっておいて、どうするかを考えていた。タケダはあのリサちゃんと、腕組んで歩けるなんて夢みたいだねえなんて、いい気なものだ。
 たしかに小学生の時に学校前の交差点で、信号が青になると旗を出して、みんなが安全に横断歩道を通るよう誘導してくれた年配の男性がいた。『タケダのおじさん』という呼称にも、顔立ちにも一致するところはなく、どんな人物だったかもはっきりしない。
「本当に、なつかしいですね。お元気そうで、 …久しぶりですもんね」
 小学校の高学年の記憶がこれほど曖昧なのも釈然とせぬままに、リサコもいまさらどちら様ですかとも言えず、適当にはなしを合してしまうのは自分の悪い癖だ。相手が親しげに話してくればくるほど、こちらが知らないと悪いように思え、ついつい良い人を演じてしまう。そんな見栄の張り方にしかできず、記憶にないと正直に言えば楽になれるのに、そのひとことが言えないままに、タイミングを逸したあとは、もう嘘がばれないようにひたすら言葉尻を合すことに困窮してしまう。ましてや今は、自分はあの学校に教師として働いている。ひとり暮らしの賃貸住宅から通っているので実家からは離れているが、タケダに対して失礼な態度をすれば、近所でなんて噂されるかわかったものではない。
 タケダはまだ自分があの小学校の先生だとは知らないようだし、バレないにこしたことはないので、極力その話題には近づかないように気を配る。
 リサコは、引きつった笑いを見透かされないように懸命だ。こうして過去の呪縛から逃れられないまま重い気持ちを引きずる。
「 …タケダさん。市役所だったら、ここからならタクシーの方が早く着きますよ。よかったら一緒に行きませんか? ワタシもちょうどそちらの方向へ向かう途中なんです。市役所まで行って、そこから歩いてすぐなんです。ここから歩いて行くと約束の時間にギリギリで、困っていたんですよ」
 リサコは喜ばれると思っての提案だったが、タケダは少し困ったような顔をした。何かを言い出したいようで、口を開きかけては結び、唇を舌で舐めたりしているので、首をかしげてタケダの顔を覗き込んで見る。どうしたのかと問いかけるように。
 街角地に立ったふたりに微妙な時間が流れていく。リサコにとってはひと匙ほどの優しさを遠慮する必要はないとはずなのに、タケダの人生において、これまでどれほどの約束が叶い、さして孤独な記憶しか残っていなければ、この先もなんの約束の地があるとは信じられない。おしつけがましい提案は、不用意に相手の胸を打ち続ける諸刃の剣にもなりうる。
「すまんが、ワシは、持ち合わせがなくて、市営の地下鉄は無料パスがあるから一番近い駅まで来たんだけど。だから、歩いて行くつもりで… 」
 どうやらタケダは降りる駅を間違えてしまったのだと、リサコはすぐにピンと来て、ここの駅で乗り換えて、もうひとつ先の駅である「市役所前」で降りないと、歩いてはいけないと伝えた。やはりタケダは、大勢が降りてくから、ここでいいかと思って、一緒におりてしまったと、恥ずかしそうに答えた。
 そこまで聞いておいて、いまから地下鉄の駅まで追い返すのも非情だ。ここから駅まで戻るのも、先ほどの階段ののぼりかたから考えれば楽な距離ではない。きっと市役所への用も、お金に関係することなのだろうと、勝手に決めつけ、自分もここからタクシーを使うついでだからと強調して、お金のことは気にしないでと伝えた。それに、ここまできて地下鉄の駅に追い返せば、余計に心証が悪くなってしまうだろう。しがらみのない関係になれているいまの生活になじんでしまったあとで、実家のあたりのように逐一、誰かの目にさらされていた時代はやはり面倒でしかない。
「さあ、一緒に行きましょっ」
 カラ元気を出すリサコは、タケダの腰を押しつつ、タクシーを止めようと手を振る。普段、乗る用がない時にあれほど見かけるタクシー群は、いざ乗りたいときに限って、一向に見当たらないのは、いったいどういった原理が働いているのか。ようやく見つけたタクシーも数メートル手前の別の待ち人に取られてしまい地団駄を踏む。心配そうな顔のタケダを勇気づけるような笑顔をみせながらも、意味のない仕事を負い、走り続けている自分が良く分からなくなってくる。
 ひとつのきっかけから、抜けられないドロ沼にはまっていくこともある。ただ、自分の幼いころを知っているというだけの老人に、いったい自分は何をしようとしているのか。一度でも良い人を演じてしまえば、その価値を下げることは最初から悪人であることよりもダメージは大きいのだ。そんな思いが自分の首を締め始めているのに、断ち切るすべがない。それを受け入れられる人は、なにも自分だけではないはずだと、無理やり納得させる。
 しかたなく、リサコはタケダの手を引いて、放送局のビルへ向かった。あそこなら常時、数台のタクシーが客待ちをしているはずだ。気は焦っても、タケダの足に合わせなければならないので時間がかかる。時折り振り向いては様子をうかがう自分は、けして親切な若者の顔をしていないだろうと、申し訳なさそうなタケダの顔がそれを物語っている。
 そんな中で、漠然と思い出していたのは、あの通学路を歩いた姿。聞こえてくる、あの校舎で勉強した日々とクラスメートの笑い声と、そのウラにある駆け引き。
 誰もみな、同じように学校へ行って、一緒に勉強をして、同じ時間を過ごしてきた。学校というのは、みんな仲良くいっしょに勉強しなさい、運動しなさい。遠足だって、学芸会だって、展覧会だって。みんなで協力してやりましょう。なんていいながら、テストの点、通信簿の評価で、そんなものは木っ端みじんにされた。
 クラスでの班替えのとき、体育でのグループ分けのとき、理科の実験チーム。なんだっていい、つくられた枠組みのなかに押し込んで、だけど本当は誰かが失敗するのを待っていた。そうすれば自分がラクになる。それは単にひとつの学校の、ひとつのクラスの中だけの順位だというのに、誰かがけつまずけば、誰かが一段上がれるという簡単な構図を子供にもわかるように示していた。けして誰も口には出さず。
 自虐的な思いに、さも同意しているというように、片方の頬をあげてしまった。まったく世の中ってやつは、という定型句を最後の落としどころにして、自分の意見などこれまでまともに話したことはなかった。そんなふうに考えながら、教員の道を進んだのは、何か少しでも変えられればいいと、あいまいな考えがつけ込まれる要因になってくとは思いもよらないまま。
 この半年間はやらなければならない仕事に忙殺されて、誰かに自分の考えを示せるような働きかけは何もしていない。友人にグチるネタを探すぐらいなら、前向きな提案のひとつでも考えたほうが、よっぽど自分のためになるはずなのに、こうして意思を持ちながらも長いモノにまかれる方をこれまでも選んできたのだ。
 生まれた時から手にして物を夢とか希望と呼ぶ者はいない。それは遠い昔に、まだなにもなかったころの子供たちが、未来に在るはずの物体や生活を良いものにしようと努力を重ねていた時に有効であった言葉だ。夢からさめても目の前に夢が転がっているなら、この先になんの努力や、苦労が必要なのか。これ以上の夢がやりすぎだと、ひそかに感じているなら、希望を持つこと自体が罪だと嘲笑ったとしても、それを叱責するだけの未来がそのひとには見えているのだろうか。
 なんとか放送局が見えるところまで来て、遠くから止まっているタクシーに手を振り、乗車の意思を伝えた。タクシーの運転手はそれを知ってか、知らずか。どちらにせよ一向に動く気配はなく、少しは気を利かせてこちらに向かって来てもよさそうなものだと、心の中でボヤいても、タクシーの運転手には通じるはずもなく、ふたりがたどり着くのをのんきに待っている。歩道を打つリサコの足音だけが大きくひびいた。
 ようやくタクシーの脇まで来ると、つっけんとんにドアが開く。有無を言わさぬ勢いでタケダをタクシーの後部座席に押し込んで、そのあとに自分も続き蓋をした。タケダのこともあり、大したスピードで歩いたわけでもないに、汗がにじみ出してきた。ハンカチを取り出し、そっと汗をぬぐう。胸元に汗染みでも残したまま遅刻したら友達に笑われそうだ。
 運転手はきわめて事務的に、慎ましさ、謙虚さ、勤勉さを少しも感じさせない声音で、どちらまで? と尋ねてくる。近頃の機械音声の方が、よほど温かみがあるのではないかと、運転手に対してさらに印象が悪くなっていく。すぐさま市役所まで。と言おうとする前に、リサちゃん。悪いんだけど… とタケダが口をはさんできた。
「 …!」
 この場に及んで何を言い出そうとするのかと、眉間にしわが寄りそうになるのを必死にこらえて、どうかしました? と、なんとか口に出した。ターミネイター運転手はビクとも動くことはなく、行き先が告げられるのを待っている。
「あのう、急いでいるときに悪いんだけど。市役所に行く前に、ちょっと病院に寄りたいんだ。そのつもりで歩いていく予定だったんだよ。そこでの支払いもあって、だから持ち合わせがね… 」
 勝手に思い込んだのは自分のせいで、悪い癖でもある。ずいぶん年下の自分にタクシー代を持ってもらうことにも気が引けるように見せながらも、何か巧妙に仕掛けられたワナにはまっていくようにも思える。早く立て直さなければならない。自分は窮地に立っても乗り越えられる術を知っているし、これまでも間違いなくやってこれた。これからも、やっていける。そう強く言い聞かせていた。
――そうですよ。ボクはわかってましたよ。イシダ先生がボクと同じ考えをしている強い人間だって。
 同期の男性教員は、そうやって、満足そうなしたり顔で話しかけてきた。
――イシダ先生は立派ですよ。まだ教壇に立って半年にもならないのに、これだけのことができるんですからね。ボクなんか担任もしてない体育教師で良かったですよ。お子さんがいらっしゃられないというのに… スミマセン、これは余計でしたね。でもこうして、子供たちのこころをつかんで信頼感件を築いているんですからね。ウチの学校って、こんど県から教育刷新特区に指定されるでしょ。どうせ年寄り連中は、あたりさわりのない手しか打たないでしょうから、これからの世代であるボクらがけん引していかないとね。
 リサコは、この男の意図がどこにあるのか量れないでいた。悪意があるのかないのか断言できずとも、言葉巧みに自分を取り込もうとしているのは感じられた。
「そうだったんですね。途中にある市民病院でいいですね」
 そうなら早く言ってよと、心の中で悲鳴をあげ、相手の話しを聞かない自分は棚上げしておく。TVニュースで見かける、お年寄りが巻き込まれた事件と、お年寄りが起こした事件。その多くは、互いに理解しあっていない言葉の祖語が発端となっているのかもしれない。遠慮は勘違いを生み、脅威となり、親切は押し付けを生み、恐怖を植え付ける。
「運転手さん。最後は市役所に行きたいんですけど、そのまえに、市民病院の駐車場に入って、そこで一旦止めてください」
 身を乗り出して運転手にそう指示する。ここまでの話しの流れを聞いていれば、気を利かせて、クルマを出せばいいのにという思いも含ませ、早口でまくし立てた。
「急ぎますか… 」
「いそぎます!!」
 運転手がいい終わらないうちにかぶせてやった。運転手は特になんの感慨もなく、いまどきは珍しいフロアシフトを操作してクルマ動かした。急発進したわけでもないのに、まえのめっていた身体がシートに深く押しつけられた。
 放送局を左折すると右側に大きく振られて、期せずして無防備な身体がタケダに折り重なってしまった。夏向けの薄手のキャミソールから、胸の感触が直に伝わったはずだ。ゴメンなさいと言って、すかさず身を離すリサコは、粗い運転をする運転手を睨みつけようとするが、急げと言った手前それもはばかられる。タケダは腕を組んだ時とはうって変わって申し訳なさそうに縮こまっているのを見ると、なんだか自分が情けなくなる。
 起こりうるあらゆる悲劇を勝手に想像して、その火を鎮めるために何故か悪戦苦闘している。自分を肯定するために。自分の行動を正当化するために。タケダの話しはすべて、つじつまが合っている。市民病院も通り道だ。なにも心配することはない。自分を安堵させようと必死だ。
――これはボクの持論です。おしつけるつもりはありませんけどね。ただ… ただ、イシダ先生ならわかってくれると思ったんです。それともボクのひとりよがりですかね? 以前、学年ビリの女の子が、一流大学に受かるドラマ仕立ての本が話題になったじゃないですか。ボクも読んでみましたけど、あれでね、一番感心したのは彼女が努力して大学に受かったっていうプロセスではなく。学校という形態を活用せずとも、個人契約した塾講師によって合格に導いたことですよ。女生徒の頑張りにフォーカスされていて、なぜかそこには触れられない。それは、そこがフューチャーされれば困る人達がいっぱいいるからです。この世の中はおかしなことがいっぱいあるけれど、誰も変えようとしない。それはみんなが贅沢はできないけど、生きてはいける状況にあるからです。学校を変えようとするより、ケータイでゲームしたり、情報を共有するのに忙しいし、役所を変えようとするより、テレビでアイドルを応援してコンサートを追っかけるのに忙しい。結婚はできないし、子供はつくらないけど、みんながやっていることはやれている。それが時の政府の思惑だとしても、誰も何も… 
 走りはじめる車窓に目をやり、気持ちを落ち着かせよう努めようとすると、クルマはすごい勢いで右へ、左へ、空いている道を求めて車線を行き来している。信号で止まりかける前のクルマがいれば、右折車線まで入り込んでそのまま交差点を通過していった。目を剥くリサコはいくらなんでもやりすぎだと、運転手に抗議しようとすると、ドアの上についているハンドルを握っているタケダは首を振ってそれを制した。
 たしかに運転マナーは誉められたものではないのに、不思議と乗り心地が悪いわけでもない。最初の左折の時でこそ、身体を振られて失態を見せてしまったものの、ちゃんとシートに座っている限り、身体を持って行かれるようなことにはならないのは不思議だ。目の前に現れるクルマがあっという間に後方に飛び去っていく。急ぐからといって法定速度以上で走れば違法であることには変わらず、自分の身内ならすぐにでも止めさせる行為であるのに、自分の身が保障されていて、時間内に目的地に付ければサービスの範疇だと、何故かそう思えてくる。
 クルマは左折のシグナルを鳴らし、あっという間に市民病院のアプローチへ滑り込んでいく。リサコが予測していた時間の半分で到着した。
 正面玄関の前でブレーキをかけ、自動ドアが開く。止まる時には何の衝撃もなく優しすぎるほどだ。運転手がここでいいかという具合にバックミラー越しに向けてくるのは、これだけ早く着けてやったんだという目がついてきた。
「申し訳ないね。リサちゃん。所用を済ませくるから、クルマの中で待ってよ。運転手さん。五分で戻りますので、お願いします。それじゃあ」
 そう言って、右手を挙げて病院の中に入って行った。スマホを取り出して、時間を確認する。着信が5件も入っていて。みんなはもう店に到着したらしく、自分がいつ来るのか問いかけていた。手早くあと10分ぐらいで付くと拡散しておいた。ここが5分で済めばあとの段取りを考えても約束の時間には間に合う。どうせなら、タケダだけ市役所でおろして、自分はそのままタクシーで店に横付けしてもいいと、タケダの後ろ姿を見送りつつプランを練り直していた。
 タケダは病院に支払いがあると言っていたが、何の支払いなのだろうかと、ふとあたまをよぎった。知人か家族の誰かが入院しているとか、それともクスリでも貰いに来たといったとこだろうか。なんにしても立ち入った質問をするわけにはいかないので、想像の域は越えない。
――ボクが考えていたのは、普通の家庭の、普通の子供が、あえて人と違う道は選ぶはずもなく、であれば道を外れた子、普通の生活ができていない子、普通の家庭で育っていない子など、いわゆる世間からみた異端児を集めて試験的に新たな教育制度を試してみればいいと思うんですよ。偽善者たちは言うでしょうね。子供を実験材料にするとはなにごとかと、彼らの将来をなんだと考えているのかと。では、聞かせて欲しい。これまで生徒を実験的に扱わなかった時代があったのかってね。戦後に大国から小麦の輸入を押し付けられて、それを消費するために給食がパンになったことも、安上がりに建物を建てるために、その後、劣化した化学繊維が落ちてくる中で運動させられたり。そのなかで精神論だけで人格が語られ、多くの落伍者と、多くの若者の将来が亡きものになってしまったことだって、すべてが修正の対象であり、調整がほどこされ、そして元に戻っていった。あとどれだけすればそういった歴史に終止符を打てるんでしょうかね?
 知らぬ間に肩に力が入っていた。ふうと、大きくため息をつくと、時計の針があれからもう5分を過ぎていることに気が付いた。出入り口をなにげなく伺ってみたがタケダの姿は見当たらない。リサコはすーっと目を閉じた。これから市役所に向かうのだ、と自分に言い聞かせていた。いまさらなにを警戒するというのか。首を左右に振ったところで目を開けると、運転手が嫌な顔をしてこちらを覗きこんでなにか言いたげだ。
「すいません。少し手間取っているようですね。もう少し待ってもらえますか?」
 運転手は口角を少しだけ上げた。もしかしたら上げていないのかもしれない。リサコが勝手にそう感じただけなのか。
「お客さん。さっきの人は戻ってこない。よくあるハナシだ。病院に急ぎたい、かといってタクシーを使う余裕もない、身内が長く入院していれば、いろいろと物入りだしな。ひとの良さそうな人間を捕まえて、同情させてしまえばコッチのもんだ。あとはどうとでも云い訳がつく。もしかしたら、病院の裏口からぬけだして、本当に行きたい場所に行っちまったのかもしれないな。ひとの良さそうな年寄りだったけど、アンタもそれに輪をかけたお人よしみたいだな」
 運転手の得意げな言葉を聞いても、それが真実とは到底思えなかった。タケダは自分の名前も名字も小学校の時のこともよく知っていた。リサコは逆に勝ち誇った表情で薄ら笑いを浮かべて首を横に振った。
「昔からよく知っている知人なんです。わたしも同じ方面に行く途中だったし、タクシー代を持つとも話してありました。ここで姿をくらます理由がありませんけど」
 ありえないはなしだと、ついつい小馬鹿にした口調になる。
「そうかい、オレはかまわないぜ。こうしてる間もメーターが上がってくんだ。ラクなもんだ。いっそここまま一晩越したっていいんだ」
 思わずリサコはドアロックに手をかけたがもちろん開かない。
「冗談じゃないぜ、お客さん。御代を払ってもらわなければ、ドアを開けるわけにはいかないよ。しめて、千八百円だ。これで済んでよかったよな。感謝してもらいたいぐらいだ」
 リサコは財布から現金を取り出し、運転手に叩きつけてやろうかと身構ようとして、なんともやりきれない虚しさを感じ、そのままあたまを抱え込んだ。
 なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか、自分なりの答えが見つからない。市役所が分からなければ案内するし、急いでいるならタクシーに相乗りしたってかまわない。ご近所さんで、昔からの知り合いではないか(もっともリサコの記憶は定かではないが)。タケダにとってこの行動になんの意味があるのか、むげにできないリサコの立場と、親切を踏みにじったタケダの立場の差に、憤りを感じていた。たとえ母親にこのことを告げても、一笑にふされるだけだ。
 音声が切れたテレビを観ていて、そこに映し出されるすべてが滑稽でしかなかった記憶が思い出された。この運転手から見た自分たちはきっとそうだったのだ。敵を憎むと判断力が鈍るだけだ。
――担任を持つのは大変ですよね。ボクなんかも貧乏ヒマなしで働き通しですけどね。イシダ先生とは仕事の質が違いますからね。学校では困っている生徒にひとりひとり声をかけ、休みの日に提出物を家に持ち帰り遅くまで目を通す。天はその人にしか解決できない困難しか与えないといわれますが、イシダ先生を見ていると確かにそうだと思いますよ。ほら、ボクなんかこれぐらいのことしかできない。
 そういって、同期の男性教師は両手を広げた。つくづく芝居がかった人間だった。だいたい、これぐらいのこととは、どれぐらいのことなのかと、この男の正体のなさになんとも落ち着かない思いにさせられた。同期で、席がとなりでなければこんなふうに目を付けられることもなかったのかもしれない。まるで自分が時代の革命者であるかのようにふるまい、迷える羊を導くように語る。正しい考えなのかもしれないが、リサコにはついていけそうにもない。
 そんなリサコの心情をもてあそぶようにして男は喋りつづけた。男は話しをしていると毛穴が開き、慟哭が激しくなってくる。自分の考えは間違っていないし、イカレタ与太話でもない。ふたりで日本の教育者の目を覚ましてやろうと鼓舞してくる。
――ボクはね、いつだって先見の明があるんだ。それなのに、なにか言い出せば、既得権に溺れたヤツラが、いまはまだ早いとか、少しエキセントリックすぎると抑え込んでくるでしょ。最初は名案だと言っていたヤツラだって、手のひらを返したように、気がふれた人間を見る目で遠巻きにしていく。近頃じゃ、やたら成功者が書く自伝的な啓発本の類が話題に上り、本屋でも売れ筋になっているけど、それを読んで成功する人間はいないんですよ。つまり人間には二種類の人間しかいない。成功をして本を書く人間と、成功者の本を読む愚か者だけなんです。
 男性教員は成功して本を書く側で、リサコはその本を読む愚か者だと聞きとれた。
 運転手は傍観者然で、フロントウィンドから正面を見据えながら、時折バックミラー越しにリサコを確認している表情に変化はない。
 音のでないテレビはまだ続いているのだ。
それも単なる人生の一日。
 今日もまた人生の一日。
 これもまた人生の一日。