private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

A day in the life 10

2017-03-19 11:21:23 | 連続小説

 白いシャツに黒のスカートは膝上まで。ボルドー色のショートタイがアクセントになって、モスグリーンのエプロン。サトミがこのレストランでバイトをすると決めた理由のひとつが、その店のフロアサーヴィス係りの制服にあった。あの服を着て颯爽とオーダーを受け、料理を優雅に運んでいる自分を想像し、それが自分のライフスタイルとして、一日の中にはめ込まれると思うと気持ちがたかぶった。ひとが職業を選ぶ動機として、それほど高い志が誰にでもあるわけではない。
「いらっしゃいませーっ。2名様ですか?」
「ありがとうございましたーっ。またのご来店、お待ちしておりますーっ」
「おまたせしましたーっ! 煮込みハンバーグセットになります。ワインを注ぎますね」
 そんな言葉を一日に何度、繰り返しているのだろうか。実際には颯爽でも優雅でもなく、あれはその人の持つスキルの問題で、なれないあいだはバタバタと駆けずり回っているうちに一日が終わっていた。
 昼食時と夕方からのピーク時には、ミスをしないように客を捌くのが精いっぱいで、客として来店したときに、こんなふうに接客サーヴィスしてもらえるといいなと考えていたことは、なにひとつできなかった。それどころか、少しでもラクをしようと考えはじめ、自分だけが忙しいようにふるまって、他のフロアサーヴィスをヘルプする場面から逃げまくっていた。
 昼のピークタイムが終わると、店内の片付け、清掃、備品の確認と発注、食材の補てんと、客が少ないからといって一息つけるわけではない。そもそも人が余るようではバイトを雇わないだろうし、人件費を考えれば、近頃ではどこもギリギリか、少し足りないぐらいで仕事をまわしていくのがあたりまえだ。
 人件費が一番のコストに跳ねかえると経営者はわかっている。実績や経験の積み重ねが重要視された時代は終わり、誰もが同じように、そこそこ仕事ができる環境と手順書の整備に一度投資しておけば、どんなバイトが来て、短期で辞めようが、店は平常運転できるしくみになっている。世界の富が上位2パーセントの人間が寡占していても、世の中がとどこうりなく回っていくのは、それがきっちりと機能しているからだろう。
 夕食時のピークが落ち着いてきた。夜は夜で、洗い場に放り込まれていた大量の食器をキッチンの担当者と分担しておこなわなければならないし、明日のための仕込みと、欠品の発注。そして溜まりに溜まった一日分の廃棄食材のゴミ出しが待っている。自分の理想のバイトライフに雑用や、ましてやゴミ出しという項目は入っていなかった。
 少しでも早くあがれるように、いつまでも残っている客へのサーヴィスは後回しにして、新しい客が来ない限り使われないカトラリー類のかたづけをしはじめたところに、いらっしゃいませーっ。という声が発せられていた。この時間帯に新規の客かと、うんざりして顔をあげると、ランニングシャツにディバッグを背負い、ポケットがはちきれそうになっている短パンをはいたビーチサンダル姿の男が扉のところに立っている。これが日本人なら、ヤマシタキヨシかっ、と突っ込みをいれるところだが、その男はどうみてもアングロサクソン系の外国人であった。
 サーヴィススタッフのあいだに緊張が走った。誰があの外国人のサーヴィスを受け持つのか、互いに目を配らせ、そしてすぐに目を伏せていた。そうなると、自然にチーフの方へ目線が集まる。25才のこの男は、その視線を感じているのか、あえて無視しているのか、レジで今日の売上の計算にますます力が入り、いつもより大きなタッチ音を響かせて、レジのボタンを操作していた。その姿からは、オレは忙しくてそれどころじゃないんだと、無言でまわりに伝えているつもりのようだ。
 責任者というものは、自分の担当の責任を取る人間ではなく、その責任を誰に押しつければ自分がラクすることができ、かつ、上司に評価されるかを考える役職であるのだとは、このバイトでサトミが学んだことのひとつだった。就職する前に知る社会の真の姿は、予定調和であるインターンとかではなく、バイトの就業の中ではじめて体験することができるのだ。
 カトラリーをワンセットだけ残して、奥の食器入れに戻そうとしていたサトミの前に古株の女性サーヴィスのマサコが横から立ちはだかった。前につんのめってなんとか接触をかわして、おどろいた顔を上げるとマサコは困った表情で話しかけてきた。
「ねえ、サトミちゃん。あなた大学生でしょ。現役なんだから英語、イケるわよね。あのガイジンのサーヴィスお願いね」
 困った顔はしていても、懇願ではなく、命令だった。わたし、理系なんですとは言えずに、そう言われればしたがうしかなく、はあぁと、どっちつかずの言葉をもらしていた。
 まわりを見渡しても、みんな、なにやら忙しそうにゴソゴソとやっていて、誰一人積極的にサーヴィスをしようとするつもりはなさそうだ。それは、いつもサトミがしている行為であり、まわりまわって自分に戻ってきてしまった。
「○○×□△△!」
 そうしているうちに、その外国人は店先でなにやら声を上げ始めた。
「ほらあ、いそいで。カトラリーのかたづけなんか、まだ早いでしょ。みんな忙しいんだから、あなたが一番適役なのよ」
 それはあなたがいちばんヒマしてるのよ、の言い換えだ。客の状況を見て、早めに片付けられるものは片付けて。いつまでもダラダラやって、無駄にバイト代稼ぐんじゃないわよと、教えてくれたのはアナタだったではないか。そう反論したところでこの先自分の立場が悪くなるだけだ。
「お願いね」それが最後通牒だった。
 突然のムチャ振りをされ緊張から心臓が高鳴り、手が震えだし、持っていたカトラリーがガチャガチャと音を立てる。もう一度それらを元の場所に戻して、シルバーに水と氷を入れたグラスをのせ、いつもなら片手で持っていくのに、両手でしっかりと保持しないと落としそうで不安だった。外国人の元へ向かう気持ちは、死刑囚が壇上へ上がるぐらいに気が滅入り、一歩一歩を慎重な足取りで進んで、永久に到達しなければいいのにと、ありえないことを願いはじめていた。
 近づいていくと、熊のような体格に圧倒される。
「あのー、メイ アイ ヘルプ ユー?」
 たしかこんなことを言えばいいはずだと、発音が合っているかどうかもわからないままに、とりあえず巻き舌で言ってみた。
「アノデスネ、ワタシハ サンドウィッチ ヲ イタダキマス」
 カタカナでしゃべったわけではなくとも、そのように聞こえてきたのは、子供のころ読んでいたマンガの影響か。なににしろ日本語が通じて良かった。その外国人は有名な日本の小説家の本を持ち上げて指を差した。
 サトミも中学の時に背伸びをして読んだもので、カバーに見覚えがある。たしか隻腕の男性が器用にサンドイッチを作るエピソードが入っているものだ。三つ年上の姉が絶賛するものだから受け売りで、同級生に自慢げに、いま熱いのはこれだよねえ、なんて話してしまったものだから読まないわけにはいかなかった。
 姉は、論評は述べるものの本は貸してはくれず、いわくこの大切な本に人の手が触れ、目で汚されるのが許せないと、ひどい断り方をしてきた。しかたなく、夏に友達と海に遊びに行くために貯めていた小づかいの中から捻出して買ってしまった。そのおかげで、旅行先では節約するはめになり、楽しくなかった方の夏の思い出により分けられることになった。
 その後も、言い触らした友達の手前、新冊が出るたびに買わないわけにはいかず、途中で自分にはハードルの高い内容だと気がついても、残念なことにその友達は自分よりもハマってしまい、話しを合わせるのに四苦八苦した。わかったような顔をして姉からの受け売りの論評を述べるのに終始することになる。
 一度あげた手をおろすのは容易ではないと気づいたのはそんな経験からだ。持ち上げられた作家もそんなことで、上げ下げされたらたまったものではないだろう。無理をして読んでも、あたまに入らず、他の読者のような評価を持つこともできない。高校を卒業してからは、いつしか本棚に納められたまま手に取ることもなく、当然のように、その先の新刊を買うこともなくなり、多くのひとたちの賛否だけが耳に入るだけの存在になっていた。
 難解だとか、作風が変わったとか、昔の方がよかったとか、それはすべて作家のせいではなく自分自身の気持ちの在りようであるはずなのに、いつしか群衆の中で正当化されていくのを潮流からはずれて見ていると、なんら自分と変わりないのではないかと、馬鹿げた論争の輪の中にいないことに安堵していた。
「アッ、コチラニ、ドウゾ」
 なんだか、自分もカタコトになってしまうのは、影響されやすいのか、相手に気を使った結果か。席に余裕があることもあり、大柄な外国人を4人席に案内した。奥側のソファーを進めたら、大きな身体をねじ込みながらなんとか座ってくれた。
 グラスとおしぼりをテーブルに置き、メニューボードを指さして。
「あのう、何サンドにします?」
 なにがいけなかったのか、外国人は突然声を荒げた。
「ノーッサンド××○○◎△▲!!??」
 最初の方はなんとか聞きとれたが、あとはスピードが増して何が何だかわからない。サンドイッチが食べたいと言ったはずなのに、聞き違いだったのだろうか。
「エーッ ホワット ドゥ ユウ ウォント?」
 たしかそんな聞き方をすればいいはずだ。しかし指した先は、対外国人を想定しておらず、写真もなく日本語の文字しか書かれていない。しかたなく英語に変換していく。
「うーんと、ハム or エッグ or ベジタブル or カツ」
 最後のカツは英語ではないと気づき、合っているのか知らないがフライドポークとでもいってみようかと思う前に外国人が、オー! ベジタブル □◆■…… とりあえず喜ばれたようだ。
 ベジタブルあたりは聞きとれたので、それではベジタブルサンドイッチでよろしいですねと念押ししてみたら、NO! NO! NO! サンドウィッチ、サ・ン・ド・ウ・ィ・ッ・チと連呼された。どうやら発音がイケてないようだ。両手を上げ下げしてオーケー、オーケーとなんとかとりなして調理場に戻って来ると、興味しんしんでみんなが待ち構えている。
「どうだった?」「通じた?」などと聞いてくるのをかいくぐって、とりあえず野菜サンドのオーダーを通す。
「はいよ、野菜サンドひとつねーっ」
 フロアの状況を知らずに、単なるオーダーの一つとして調理場のカワカミが大きな声で復唱した。サトミはこころの中で、NO! NO! NO! サンドウィッチ、サ・ン・ド・ウ・ィ・ッ・チ、と言って少しでも気を晴らしていた。
「あなた、なかなかやるじゃないの」
 マサコが歩み寄って来た。他のみんなも連なってくっ付いてくる。状況報告は必須らしい。
「日本語で通じましたから… 」
「へーっ、ヒッチハイクでもしてきたような感じだけど。何しに日本に来たのかな」
 テレビの突撃レポーターじゃあるまいし、そんなことまで聞けるわけはない。
「さあ、きっと、聖地巡礼ってヤツじゃないですか」
「セイチジュンレイ?」
 合唱部のように声を合わせてきた。
「ほら、小説とか、映画とか、アニメでロケ地に来て、主人公たちと同じ場所に立ちたいって。たぶん、きっと… 」
「えっ、ここのレストランってなんかのモデルになったんですか?」
 同い歳のサオリが、少し考えればそんなことありえないはずなのに真顔で聞いてくるので、マサコがすぐに否定した。最年長のマサコがそう言えば間違いはない。そうすると今度は疑いの目がサトミに向けられる。好きな作家の国に来たのだから、広い意味での聖地巡礼で間違いはないはずだ。それをいちいち説明するのも面倒なので、自分の勝手な思い込みだと訂正しておいた。
「それにしても、アナタって、人見知りしないタイプの人だったのね。意外だったわ」
 自分から押しつけておいてよく言うわと、文句のひとつでも言いたかったし、それよりも嫌な気持ちになったのは、人見知りしないというサトミにとっての嫌忌だ。もちろんマサコは誉め言葉としてそう言ってくれているのはわかっているけれども、サトミはゆがんだ顔になるのをこらえるのに必死だった。
『オマエは、人見知りしない性格だなあ』
 担任の先生にそう言われた時、小学校低学年のサトミは、自分から進んでいろんな人と話したり、助け合ったりすることができる子供だと誉めてもらえたと思った。大学の専攻で脳科学を勉強していたらしく、したり顔でクラスメイトの前で話し始めたのは、ここぞとばかりにウンチクを披露したがる下衆な人間のそれであった。
『赤ちゃんが、はじめて自分以外の別の人間と知るのがおかあさんで、そこから世の中とつながりがはじまる。おかあさんの顔をおぼえていなくても、ほかの女の人では本能的に安心できないそうだ』
 子供の興味をそそることを言いはじめ、流れ的にサトミは自分の人見知りのなさをさらに持ち上げてくれるものだと思った。事態が変わったのはそこからだった。
『そうして安全な人間と、安全でない人間を赤ん坊でさえ本能的に区分けしていくのに、誰が近くに寄って来ても不安を感じず愛想良くするのは、ある意味その危険を感じる能力が低いのかもしれないなあ』
 笑顔で聞いていたサトミは心臓が飛びはね、恥ずかしさのあまり身体をちぢこませるしかなかった。クラスでお調子者の男の子たちは、指を差して大笑いして、テーノー、テーノーと囃し立てはじめた。バカにする男の子たちより、そんなことをこの場で自慢げに言う担任のデリカシーのなさに涙が出てきた。
 さすがにまずいと思ったらしく担任も、これはあくまでも先生の考えだから正しい論理であるわけじゃないとか、どっちがどうなのか、ハッキリとものごとを言いきらない立場を悪くした政治家の釈明のようなフォローを入れてもあとのまつりで、サトミはしばらくのあいだテーノーというあだ名で呼ばれることになった。
 そんな過去の話しを持ち出しても迷惑なのはわかっている。そうらしいですね。自分ではそう思ってないんですけど、まわりからは小さい時からよく言われましたと、応えておいた。いったい誰に向けての皮肉なのか自分でもよくわからない。
 ウォーターポットの水を空けて、かたずけをはじめ不機嫌な態度を隠そうと必死だ。マサコは、あら、そうお… と、なにか悪いことでも言ったかしらというように遠慮気味だ。
 フロアは当の外国人を含み、3組の客が残っているだけになった。外国人はページをめくりながら、廻りを見回しなにやら満足げなようすだ。それほど珍しい店でもないはずなのに、なにが彼をそこまで楽しませているのかわからない。その姿を見てスタッフのみんなは、なんか気持ち悪いわねとか、いい年してあのカッコウはないわとか、オタクっぽいとか非難の言葉が絶えなかった。
「ねえ、ねえ、マイケルが、アナタ呼んでるわよ」
 サオリが嬉しそうに、あご先でしゃくってみせた。例の外国人は、サオリの仲間内でマイケルと名づけられていた。サトミはわずらわしげに「はあ?」と言ってみる。
「なんかさあ、マイケルって感じじゃない? ほらあ、理屈っぽい映画撮ってるアメリカのぉ」
 マイケルと言われればキング オブ ポップスを連想するサトミは、なにか一致しない。
「ほーい、サトミちゃん野菜サンドあがったよ!」
 とタイミングよくキッチンから声がかかった。ハーイと、返事をして皿を受け取る。
 マイケルは…(まあマイケルでいいか)不審げに、スタッフがいる方に顔を向け、何度か手を挙げている。サトミがフロアに出てくると、大きなゼスチャーをして、手で引き寄せる。呼ばれなくたって行くわよと、含みながらも顔は笑顔のままで、さして待たせてなくとも、お待たせいたしましたと、言う日本文化の奥ゆかしさを披露して、つとめてあかるく振る舞って見せた。
「お待たせ… 」
「アノー、デスネ ワタシ ベバ××○○△△…… 」
 最後まで言いきる前にマイケルがかぶさってきた。サトミはとりあえず野菜サンドをテーブルに置き、他になにか御注文ですか? と言ってから首を振って アナザー フード ユー ウォントと言ってみた。あたまを掻いたマイケルは、大きな動きで口に流し込む動作を繰り返す。お冷はさっき置いたしと、眉間のしわがとれないままのサトミにごうを煮やして、何度か両手をひろげるポーズをする。待てということらしい。指を立てこめかみのあたりに持っていき、名探偵が良くするポーズになる。電球に明かりがついたらしく、突然目が見開き、左手でなにかを持ち、右手でその先をめがけ手首をひねりタイミングよくポンと効果音を入れる。サトミはマイケルワールドに引き込まれウンウンと首を縦に振り、次のヒントを促しはじめる。いつしか店に残っている客も、スタッフもふたりの行動に釘づけになっていった。
 マイケルも調子づいてきたらしく、両手で押さえて落ち着けと言わんばかりだ。次に左手でコップを持つ仕草をして、右手でつかんだものを傾ける。トクッ、トクッ、トクッと舌を鳴らす。サトミもだいたい何を意図しているか察しがついているが、面白いのでそのままやらせておいた。思った通り、左手に持ったジョッキを(もうジョッキでいいでしょう)、口元に近づけて、いかにもという聞きなれた音をたてる。グビッ、グビッ、グビッ。ダーッと感嘆の声をあげた。そこまで待ちに待ったサトミが、イッツ ア ビアー!! と声を上げると、Yeah! とマイケルが手を上げるので、それにサトミも応えて、ふたりはハイタッチした。パーンっという大きな音が店内に行きわたる。そこではじめて悪乗りしている自分に気づいた。固まった他の客の目と、冷やかなフロアスタッフの目と、レジに立つマネジャーの厳しい目が突き刺さった。
 マイケルも状況を察したらしく、優しいまなざしを向けて、首を振って気にすることはない、と大きな手を広げていた。サトミは、ままならない自分をなんとかするべきだと思った。アリガトウとマイケルに声をかけ、調理場の冷蔵庫へ向かった。やはり真っ先に駆け寄って来たのはマサコで、「アナタ ホカノ オキャクサマニ ○○◎◎××… 」途中からマサコの言葉が理解できなくなっていた。母国語が理解できないってどういうことなのか。それを解明するより、この状況がおかしくなってきて声をあげて笑い出してしまった。マサコはギョッとして目を剥いて一歩足を引いていた。
 サトミは笑いながら冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出し、サーバーのコックを引いてビールをそそぐその肩が上下している。心配げにサオリが声をかけてきた。たぶん大丈夫かと、訊いてきたのだろう。肩が上下したおかげなのか、きれいに泡立ちしたビールをシルバーに乗せて「大丈夫よ、わたしが人見知りしないのは、低能だから」サトミはどんなにまわりからの冷たい目にさらされても、なんだか身も心も軽くなった気がした。つまらない過去にとらわれていたのも、すべて自分のこころの持ちようだけだった。
 誰だって、自分のやりたいように生きていたいと思っている。誰だって、ひとの目を気にせずに生きていきたいと思っている。その境目というのは、それほど遠くはないし、その壁だって、それほど高くもない。それなのに、多くのひとは躊躇し、我慢することが大人の証明であるかのように振る舞っている。

 サトミは風采のあがらないあの外国人がこの店に、日本にこなければこんな感覚を持つことはなかった。
 マサノリは連続犯が捕まり、特別報道のテレビを見なければ、見かけだけの女と打ち解けることはなかった。
 マサルは、リサコがあのタイミングで病院に来なければ、超高速のタクシーに乗り、昼間のコンビニに顔を出すこともなかった。
 リサコが寝過ごさなければ、階段で老人にすれ違わずに、人目を気にして優しくすることもなく、タクシーを使うこともなった。
 かずみがショーウィンドウから夏木の不可解な行動を見なければ、ノガミへのサービスも変わっていたのかもしれない。年配の男がそのあとに来客しなければ、ノガミはもっと早く店を出て、リサコとすれ違うこともなかった。
 ユウコが店先の電球が切れたのに気づかなければ、夏木がユウコを助けることも、遅い昼食がハンバーガーになることもなく、アケミが新たな選択肢を手に入れることもなかった。
 商店街の夏まつりが盛況で終わらなければ、レンガの隆起を直す工事を依頼することもできず、タケシタが現れることもなかった。
 タケシタのクルマが道を塞いでなければ、アケミは法務局の駐車場に無事クルマを止められたのかもしれない。
 この世の中は複雑に絡み合っている。誰かがしたことが、知らない誰かに影響を与え、人生を少しづつ違ったものにしている。自分で選んだと思った道も、実は自分の選択ではなく、誰かの肘打ちによって動いた少しの変化が大きく自分に跳ねかえった結果なのかも知れない。
 この世の自然の摂理は、絶対にプラスマイナスでゼロになることだ。どこかでプラスになればどこかでマイナスを受け入れている。気づかないまま人生を終えていくのがほとんどで、知らないのもまた幸せの内なのかもしれない。人をうらやんで、自分をさげすんで、自分はもっとやれたはずだし、アイツの評価は実体とは乖離しているとか、不満をためこんでいる。だけど本当は、大きな成功を得た人は、その分の代償をなにかしらで払っていて。大きな損害を被った人は、実はいくつもの小さな幸せを手にしていたりする。
 自然はすべての人間に公平で、マイナス以下にはならないし、プラス以上にはならない。それを信じる人はまわりの人に優しくできるようになり、自分も幸せになれる。優しさをつないでいけば世界はもっと優しくなれる。
 それが、今日の一日。
 それが、この世界の一日


a day in the life 9

2017-03-04 10:02:42 | 連続小説

 テレビは緊急報道番組を映し出していた。レギュラーの情報番組を差し替えしているらしく、しきりにお詫びのテロップが流されている。世間を騒がしていた連続殺人事件の犯人が捕まったと、よくテレビで見かける男性アナウンサーが何度も繰り返し同じコメントを連呼している。
「バカのひとつ覚えみたいに、ほかに言うことないのか… 」
 とにかく大事件だと、いまテレビを付けた人が、ほかのチャンネルに変えないように。スイッチを消さないように。考える暇を与えず、思考停止にさせるための作戦とでも思えるような演出だ。
 マサノリの隣には、下着姿のオンナが、あぐらをかいた膝のうえに頬杖をついて、その番組を細めた目でつまらなそうに見ている。わざわざテレビを見るためにここまで来たわけじゃないはずだと言わんばかりに。
 窓のない部屋は、イメージライトが幾つか灯っているだけで薄暗く。お互い匿名を守るには丁度いい。化粧映えしない顔でも、素顔が見れたものでなくとも、肉体がそうであればすべての問題を吸収してくれる。
「ねえ、しないのお?」
 何度目の問いかけだっただろうか。マサノリが払うように手を動かすと、もうおっ! と声を荒げベッドの中にもぐり込んだ。少しだけ目線をそちらに向けたマサノリは、すぐにテレビに向きなおり、番組を凝視しはじめた。
 犯人は母親が住む実家に戻って来る途中に寄った、コンビニの駐車場で取り押さえられた。手に持っていた紙袋の中には、これまで亡きものにしてきた人間達の遺留品が、戦利品のように入っており、生々しさを強調していた。なによりも最後の事件となった幼児殺害は世間に大きな衝撃を与えており、それがここまで大々的に臨時番組を打つ要因になっている。
 コマーシャルあけに、殺された幼児の父親が沈痛な面持ちで画面の前に立っていた。報道陣からは、矢継ぎ早に質問を投げかけられる。この世のすべての悲劇を背負い込んだ面持ちの父親は、なにを聞かれても、はい、はいと、泣き入りそうな声で答えるだけだ。そうすると報道陣も心得たもので、今度はそれにあわせて質問をかぶせてくる。
「お父さんにとっては、本当につらい日々となりましたね」「はい」
「犯人が逮捕されて、本当に良かったですね」「はい」
「これで、お子さんも無事に成仏できますね」「はい」
 子供のことを言われたところで泣き崩れる父親。それを見たマサノリはあたまの後ろで手を組んで、苦々しく笑みをこぼす。なんだよ、よくできてやがる。ひと通りリハーサル済なんじゃないのか、と毒づいていた。肩を大きく震わせて泣いた父親は袖で涙をぬぐい、嗚咽交じりになにかを言おうとし始めるのに気づいた各放送局のマイクが一斉に父親の口のそばに寄った。
「今日はぁ、みなさん、本当にぃ、ありがとうぅございましたぁ。うちの子はぁ、わずかぁ、5年しかぁ、生きられませんでしたがあぁ、これも運命とぉしてぇ受け止めぇたいと思いますぅ。犯人にはぁ、ぜひぃ、事件のぉ重大性をぉ認識してもらいぃ、更生してぇくれればぁとぉ思いますぅぅー。うううぅ」
 そして、画面はふたたび泣き崩れる父親を映し出し、無音のまま画面が引いて行く。それを見てマサルはゆっくりと柏手を打ち始めた。
「すごいじゃないのか、完璧だ。ホントに素人なのか?」
 突然の拍手に、オンナはフトンをめくって、テレビに目をやった。
「なに、なにがあったの?」
 オンナの言葉は無視して、マサノリはあごに手を置き前のめりになる。まったく被害者の親という者は、生まれながらにして聖者なのか、それともこの状況が彼らをそうしてしまうのか。もし自分があの父親の立場だったなら、考えうる限りの悪態をつきまくり、犯人を罵り、自分の置かれた状況に神をも呪う発言をするだろう。だとすればテレビで放送することはできないわけで、逆説的にいえば、それが被害者を選ぶ法則なのだろうか。
 神という言葉で、これまで見た被害者の親近者がおこなった一番傑作だった記者会見を思い出していた。ある宗教団体が引き取って養育していた子供が殺害された事件で、そこの責任者は涙ながらに語ったのは、あの子は神に選ばれたのだ。悲しい事件だったが、少しでも早く母なる神の元に行くことができて幸せである。信心深いあの子はきっと天国で永遠に幸せに過ごせるのだと。まるで宗教団体の広報会見を見ているようで、そのあとのCMで宗教団体のコマーシャルが流れてもおかしくないと思えるものだった。
 いくら悲劇の主人公であっても、それを前面に押し出せば視聴者の同情は得られない。自分の気持ちを押し殺し、冷静に相手を思いやるところに誰もが共感して涙するのだ。だとすれば今日の父親は100点満点の出来で、テレビ局受けすること間違いなしのキャラクターを演じていた。
「そう、ここまで完璧に演じられるとは、まったく恐れ入る。もしかしたら、構成作家でも雇って、台本を書いた上での中継だったりしてな。まったく、だからマスコミってやつは視聴率取れればなんだってやりかねないなんて言われるんだ… 」
「なあにぃ、これってヤラセなのお?」
 オンナは初めてマサノリが返答したくなりそうなセリフを吐いた。コイツに言ってわかるのかと疑心暗鬼ながら、自分の考えを聞いて欲しい気持ちがなくもない。
「まあ、どうだろな。この世の中の報道で、作り込まれた部分が全く皆無だなんてものはあり得ないじゃないのか。誰だって自分の得を第一に考え、損失を拒む。それがある程度の力を持った人間や、会社が絡んでいればそうなるのがあたりまえなんだよ」
「力を持った人間とか、会社って誰のことよぉ?」
 まあ、その程度のもんだろ。特に期待もせずに言ってみたら案の定の回答で、あきらめてマサノリはテレビに向きなおる。コマーシャルがはさまり、アナウンサーは事件の悲劇性を繰り返し強調し、次はこの犯行の背景になにがあったのか、取材結果をお伝えしますと言い残し、そしてまた異常にお気楽なラーメンのコマーシャルがはじまる。人の心理として、悲惨なものを見せられたあとに、気の休まるものを見ると、安心したい欲求からその商品に興味を持ち、購入意欲につながるらしい。
「あっ、わかった。番組のスポンサーでしょ。だってさ、タダでテレビ見れるのって、スポンサー様のおかげでしょ。だったら、スポンサー様がいなればどんな番組も流せないもんねー。せーかーい。ハハッ」
 オンナは指先で大きな丸を空に描いた。マサノリはそれで正解と言ったのだとわかった。遠からず、近からず。まったく外れというわけでもない。少しは手ごたえが出てきたというのはマサノリの都合で、本当は自分の考えの続きを話したい欲求に勝てなかっただけだ。それは人間であれば誰でもよかったというそれだけの理由でしかない。
「簡単に言えば、そういうことだな。世論に一番敏感なのはマスコミだ。自分たちが常に時代を先導していると自負している。そうじゃなければ、だれも新聞を取らなくなる。世の中の関心がどちらに向いているか、素早く察知して、それをいかにも自分たちの見解であるようにして流していく。それを見た人々はやっぱり自分たちの考えは正しい。だってテレビで言ってるんだから。それがこの国のルールで、大企業がスポンサーしているテレビ番組が間違ったことを言うわけがない。だからこれが正しいものの考え方だと、脳停止状態になっていく。戦前、戦中となんら変わってないんだから困ったもんだよな」
 自説をぶちあげて、得意顔でふりむくと女はいつのまにか布団の中に再びもぐりこんでいた。やれやれ、いったいどこまで聞いていたのか。聞いていたとしても、どこまで理解できたのか。どうせなにもわかってるはずはないと、マサノリは決めつけていた。
「せーかーい」
 女は満面の笑みで、布団の中から上半身を起こしてそう言った。やけにタイミングのいい返答に、マサノリも少々たじろいでしまった。とはいえ肯定されれば嫌な気はしない。しかたなくといった体裁を保ちながらマサノリは続けた。
「時の権力者に対して、無策だとか、今の政策は間違った方向に舵を切っている。というデバイスを与えるのがいまの報道のありかただ。有識者なるものを巻き込んで、いかにも真実味を帯びさせ、一般人に不安を押し付けるとともに、無知であると危惧させることで成り立っている。泥棒の犯罪を防ぐ手立てを考えるより、泥棒が入りやすい環境を作って、泥棒をおびき寄せ、そのうえで捕まえた方が注目度も高いし、世間受けもいい。事件が解決するとか、しないとか、そんなものはどうだっていいんだ。ようは、その事象によってどれだけの利益を誰が手にすることができるか。そこにしか興味はないんだ」
「なんだか、ずいぶんややこしいはねえ。別にいいじゃない。事件は事件なんだからさ、どうやって解決したって。だってさあ、泥棒に入られるような不用心にしてる家が悪いんじゃないのお」
 マサノリは嬉しそうに、女に向けて指を差した。見当違いの回答も、たとえばなしの領域ならつじつまも合ってしまう。
「そう、そうだろ、そう思うのが普通だ。そこに逃げ道がつくられている。自分が被害にでも遭わない限り、誰だってマヌケな被害者を笑える立場にいる。それと同じなんだよ。政府や大企業の不正や、誤った政策や、施策をあげつらうことはしても、その時点で打つべき手も、問題点を修正に向かわせる提言もない。それこそ有識者を集めて世論を動すことだってできるのに、その時点で声をあげれば防げたことだって多くあるはずなのに、そうはしない。事態が決定づけられなんともならなくなったら、最後通牒のようにとどめの報道をする。あのときこうしてれば良かっただの、実は破滅への分岐点はここにあっただの、権力者の横暴はこの時点から始まっていただの。後出しジャンケンで負けることはないからな。国民は対岸の火事でも見ている気分で、困ったもんねと言うぐらいのもんだ」
 女は、ポカンと口を開けたままだった。せめて困ったもんねぐらいは言えばいいのに。まあそれでいい。別にわかってもらわなくても、言いたいことが言えただけで、これまでの鬱憤を排出できただけで。
 オンナはベッドを抜け出し冷蔵庫の方に向かい、扉を開いてビールを取り出してプルトップを開ける。プシュッと炭酸が抜ける音とともに、やおら口にして喉を鳴らしながら、一気に半分ぐらいを開けたようだ。これだから教養のないオンナは、とぼやいてみる。
「ねえーえ、ほんとにしなくていいの」
 勝手に自分だけビールを飲んでおいてよく言う。
「いいんだよ、そのままで。このまま、そこにいるだけで。心配するな、お金はちゃんと払うから… 」
 言い終わるが早いか、風呂上がりのように腰に手をあてたまま、残りのビールを飲み干していた。
「ふーん、別にわたしはいいんだけどねえ。お金さえもらえれば。そのほうがラクでいいしぃ。あっ、そうか。お金さえもらえれば誰だっていいんだ。ラクな方が誰だっていいもんね」
 得意顔で言うオンナをハスに見ながら、返答を真似てみた。
「はははっ、そう、その通り。正解だ」
 マサノリはこの女と話すのが楽しくなってきた。余計な口をはさまない、自分以上に知ったかぶって語ることもない。それでいて、いい感じで、ノッかってくる。
 ベッドに戻ったオンナは手をのばしてテレビのリモコンを手にする。薄手の肌着の下から派手な色のブラジャーが目に入っても、そこに何の色気も色欲も感じない。断りもなく次々とチャンネルを替えていき、歌番組にヒットしたところで手を止めた。好みのグループらしく、メロディに合わせて口ずさみはじめた。
 マサノリもオンナを抱きたくないわけではない。そこになんの恥じらいもなければ、なんの色情も感じず、行為におよぶ状況にならなかった。恋愛感情もないオンナにそれを求めるのはお門違いなはずなに、いったいなにを期待しているのか自分でもおかしくなってくる。
「でもさあ、どうなんだろうねえ。テレビに踊らされてるのか、テレビ見てる人たちに踊らされてるか。その関係性ってビミョーよねえ」
 そのグループの唄が終わると、オンナはMCのコメントには興味はないらしく、ぼそっとつぶやいた。そのわりには挑発的な言葉で、マサノリの瞼は神経質に震えた。
「だあって、そうでしょ。どんなにマスコミがこうしたいって報道しても、誰も関心を示さなきゃ、誰も見ない。ってことはシチョーリツ取れないよねえ」
「だからっ! それは最初に言ったように、ちゃんと求めるものをリサーチした結果っ… ?!」
 マサノリはムキになって、おもわず失言をしていることに気付く。こんなオンナにと、ほぞをかむ。
「だからあ、求めてないことはしないんでしょー」と、スルーしてもらえなかった。
「誰も求めてないような放送してもしょうがないもんねえ。いわゆるう自慰行為。あなたとおんなじね」
「なっ! なに言ってんだ!?」
 マサノリの顔色がみるみる変わってきた。従順だと思って油断していた犬に、まさかの牙を剥かれ、餌を与えた手に噛みつかれた気分だ。どこまでわかって言っているのかわからないとも、ここは言い返さなければならないだろう。
「下衆な言い方してオレを怒らせようというつもりか? オレをどうしたいんだ。オマエなんかに言ってもしかたないが、古今東西、大衆によって革命が成功した史実はあっても、結局、最終的には新しい権力者が生まれただけだ。情報を操作され、操り人形のように動かされる。大衆には組織も、統率もない烏合の衆だ。せいぜい集団略奪で金品を与えられて満足している。一般人の心理として人より良い目はみたいし、人より悪い思いはしたくない。だからみんなバスに乗り遅れるわけにはいかない。たまにはへそまがりや、つまみ出されるヤツもいるだろうがな」
 それはオンナに対する精一杯の皮肉を込めたつもりだ。それなのにサイレンはいっそう高まるばかりだった。
「だとしてもぉ、権力者に都合のいいことばっかり起きたとは言い切れないんじゃないの。ほらあ、西洋の島国で、共栄圏の離脱が決まったのって、意図しない方向に行っちゃったしね。あれってさ、ほら、学級委員決めるときに、どうせ成績が良くて、まじめなコになるからって、面白半分でクラスのお笑い担当に入れちゃえばって言ってたら、本当になっちゃったみたいな。へへへっ。なにもすべてが決められたまんまで動いてるわけじゃないわよねえ。あんまり良く考えてない人間が、自分の一票をカルーく考えて、その場の空気になじんでいった。それを神のしわざだと言うのはテイのいい言い訳でしょ。最終手段。話題になった大統領ってまさにそれだよねえ。お笑い担当がまさかの当選って感じで、マジ、ウケる。でもねえ、その年のクラスは面白かったわあ。お笑い委員長って、やっぱり、ふまじめでいいかげんだったけど、イベントごとは好きみたいで、そんときは力入れるんだけど不器用だからうまくいかなくて。そのぶんみんなで何とかしてあげなきゃって、クラスの結束力が高まっちゃって。運動会も、学芸会も、音楽発表もいい成績取っちゃったのよねえ。なんか他のクラスからも羨ましがられたし。先生も面白がって、好きにやらせてたから。だからさあ、けっこうその大統領もうまくまわっちゃったりするんじゃないのお」
 肌着の肩ひもが両肩かたら落ちて、二の腕の部分にかろうじて引っかかっている。オンナのたあいもない例えばなしになんの反論もできない。それどころか感心して聞き入っていた。マサノリは主導権をオンナにしっかりと握られてあせりを感じていた。自分の意に反して膨張するオモイは抑えられない。
「いや、あれは、大手メディアがヘイト番組ばかりやっていたから、逆にいい宣伝効果になって… 」
「それってさ、ふつうに報道されてる情報だよね。誰かの考えではなく、みんなの考えにすり替えられていてもミンナ気づかないまんま。後出しジャンケンで負けないようにしてるのは、そんな意思のない人たちなんじゃないの? 別にさ、みんながマスコミを動かそうが、マスコミがみんなに影響を与えようが、どーだっていいんじゃない。どうせ未来はひとつしかないんだから。そうなった方にノっかってた人たちが勝組になって、そうでなければ敗組になる。そんだけのハナシでしょ。大げさに世の中を動かしてるってヒガンでてもしょうがないんじゃないの。だってさ、現状にどれだけ不満があったって食べ物があるうちはボードーは起きないんだから。だからさあ、口に出しづらい不満を自分になり代わって手っ取り早く言ってくれる人って重宝するわよね。それがイケメンとかキレイな女子アナが言うとウソ臭いけど。キワモノタレントなんかがいうと面白がっちゃうのって、あるいみ人のダークサイドだわあ。アナタが言うように、自分が人より良い目をみれないのは誰のせい? とかって独裁者がつけ込むスキなんだよねえ」
 オンナはマサノリをじわじわと包み込みはじめていた。それを拒否する意思は徐々にそぎ落とされる中で、また少しだけ抵抗を試みた。
「オレはただ、マスコミが弱腰で倫理感もなく、この国を堕落させていると… 」
「それって週刊誌とかがよくやるヤツだわ。先週まではアッチ側だったけど、今週はコッチ目線でいってみましょうって。そうするとさ、反対意見を言いたかったけど、言えなかった人だったり、アッチ側にいたけど、早めに乗り換えることで、自分の存在を強く打ち出そうって考える目立ちたがりとかがね、これまでの支持層の上にのっかって、おもわぬ反響を呼んじゃったりね。あーっ、それって大統領選挙と同じだー。なによ、学級委員も、大統領も同じことやってんじゃないの。やっぱ、人間の学習能力なんてそれぐらいのもんなんじゃないの」
 オンナの舌先は止まることなく、マサノリの人生観を舐めまわしてマヒさせていった。そのたびに中枢をよじり、漏れそうな意思を抑える。唇を這わされただけで、たえがたい羞恥の種が一気に噴射しそうだった。
「オマエ… 」
「なに? ヤリたくなってきた? 別にいいわよ。お金さえもらえれば、二時間延長でお願いしまーす」
 見透かされたように言われても、マサノリは無言で押し倒していた。
 緊急報道番組は暗い表情のアナウンサーが、われわれはこのような犯行を生んだ現代社会のひずみにも、もう一度目を向ける必要があるのではないでしょうか、などともっともらしい問題定義をして終了していった。ディレクターはしてやったりと親指を立てているに違いない。次に始まった情報バラエティ番組は、そんな凶悪な犯罪が起きた同じ国と思えないほど、能天気なノリで始まった。空港に降り立つ一人の外国人に、いきなりぶしつけな質問をはじめる。
 カメラを向けていれば何をしても正当化されるとでも言わんばかりの行為を、偽善者態度であげつらえば、またこのオンナに一蹴されるだろうし、自分のしている行為が正当化されると思うのは自分の勝手でしかなく、それではいったいこの世の中は誰かが回しているのかと、安易な逃げ場所にもぐりこむしかなかった。
 そして、このオンナはこともなさげに言うのだ。「せーかーい」
 それがこのオンナの人生の一日。
 それがマサノリの
人生の一日。
 これもまた人生の一日。