private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第14章 7

2022-06-26 13:43:07 | 本と雑誌

R.R

「いいよ、もう、わかたっから。ひとりでいけるからさあ」

「そうは言ってもなあ、オマエのあんな姿見せられた後じゃ、コッチだって気が気じゃねえだろ」
 不破は今までになく大袈裟に思えるほどナイジを心配していた。こそばゆい思いもあるのか、ナイジも余計にぶっきらぼうに対応してしまう。
「そんなこと言われても、オレ、全然覚えてないし。今はこの通り平気だから。わかってるって。医務室行って検査受けてくればいいんでしょ。規則だからってわかってますって。はあー、メンドクセイの」
 そこへ、リクオがガレージに飛び込んできた。息を弾ませて、大きく肩を上下させている。不破と話しているナイジを見つけると。
「あっ、いた。ナイジ、大丈夫かオマエ。あんまり遅いからよ、気になって迎えに来たんだけど… 」
 リクオの姿を目にした不破は、好都合とばかりにナイジの付き添いを命じる。
「おう、リク。いいとこに来た。オマエ、ナイジを医務室まで連れてってやってくれ、今日2回目だし、お手のものだろ。ホントはオレが同伴したいところだが、どうもそういうわけにいきそうになくてな。頼んだぞ。あれこれ聞いてくるヤツラがいてもな、余計なこと喋るんじゃねえぞ」
「あっ、はい、わかりました。オイ、ナイジ、行くぞ」
 リクオはナイジの腕をつかみガレージの外へ引っ張り出した。ナイジは面倒くさそうに身体を反りかえさせて渋々ついて行く。思い出したように不破が呼び止める。
「あーっあ、ナイジ、ちょっと待て。ひとつ聞いておきてえことがある。オマエ、アイツと、ロータスのヤロウともう一度、やりてえよな?」
 不破の言葉に、ナイジは何をいまさらとばかりに振り向き、不破の顔を見返す。不破の真意を探るような眼差しが厳しく突き刺さってくる。
「 …だろうな、バカな質問だった。じゃあ、どう戦いたい?」
 不破が不敵に笑った。ナイジを試すように。
「オメエなら、オレが何を言いたいかわかるだろ? タイムアタックも、アツくなれるかもしれんが、いまいちまどろっこしいんじゃないか。本当は対面でやりたいんだろ?」
 これには側にいたジュンイチの方が驚いた。
「不破さん、そんなこといっても、レギュレーションで決ってることですから。変にナイジに期待を持たせても、実現できないこと言ったって… 」
 正論を述べるジュンイチに対して、言うべきことは言っておかなければと、わずかなチャンスに賭けるようにナイジが押してくる。
「率直に言わせてもらって、タイムアタックの戦いで勝負がついても納得できない。以前から、気にはなっていたんだ。やっぱり、やってみてわかった。たぶん、アイツも一緒のはずだ。最速ラップが出るのはタイムアタック方式だけど、どれだけ完璧な走りをしても、結局はひとりっきりだ。闘ってる感触が鈍くって、不完全燃焼を繰り返すだけだ。本当に白黒つけたいと思えば、やっぱり対面でやらなきゃ… 別にアイツとの勝負をここでつけなきゃいけない訳じゃない」
 不破にはナイジがそう考えているとは、うすうす感じていた。それを吐き出させ言葉にさせてやらないと、ナイジはひとりで突き進んでしまうだろうという危惧があった。
「まあ、そうくるだろうとは思っていたが。そんな面白そうなレースをヨソでやられてもかなわんし、それを見てみたいと思うのは、多くの人の望むところだろうし、オレも見てみたいと思っている」
 ナイジは挑むような目つきになる。
「だったらさ、逆にそれを実現できなきゃ多くの客は失望するだろうな。そうなれば興行としてレースを続けていく価値はないはずだ。不破さんよりそれを深刻に受け止めてるヤツが手ぐすね引いてるぜ。やる側の論理だけじゃ、人を集めたり、興味を持たせたり、感動させたりすることはでないんだよ」
 不破は顔をしかめる。そんなことをサラッと言うナイジに気後れするわけにはいかない。
「オメエ、そんなとこまで考えてたのか。今回の件でこんなオレでもそれぐらいはわかるようになったってえのによ。そこまでハラ括ってんならいいだろ。どう転ぶかわからんが、オレにその件あずけとけ。あせって無茶するんじゃねえぞ。わかったな。さあ、医務室行ってこい」
 最後は不破の得意のセリフでまとめられ、いいように言葉を吐き出させられたナイジは、先手を打たれたこともあり、よろしく頼むとばかりに素直に頭を下げてリクオと伴に大人しくガレージを出て行く。
「まったく、変わり者つーか、素直じゃねえつーか。自分がやらかしたことの大変さを全然理解しとらんなあ。まあ、俺ら凡人とは感覚がそうまで違うってことか。あっ… 」
 不破はそこまで言って、傍らにいるジュンイチには余計だったとそこで言葉を切った。その気持ちを読み取りジュンイチは。
「不破さん、いいですよ、気にしないで下さい。僕だって自分がどれだけの人間かぐらいはわかってますから。今のところ、けしてアチラ側の人間でないのは確かです」
「でもよ、ジュンイチ」
 自分はさておき、ジュンイチのことまで凡人扱いして、なんとも、気まずい気分の不破だった。
「走り終えたナイジが言ってたでしょ。コース攻略方を。あれを聞いていて自分でも試してみたいアイデアがでてきました。僕は僕にできるやり方や、不破さんの力を借りて少しでも速くなって見せます。僕にはそれぐらいしかできませんから」
 謙遜して言いながらもジュンイチの顔には力強い決意が漲っていた。不破にはそれが焦りのようにも感じた。同年代のライバルに差をつけられたことを認めるのは簡単ではない。
「ナイジだって何もせずに速かったわけじゃないはずです。彼は彼なりのやりかたで速く走る力を手に入れていった。ナイジの話しを聞いていてわかったんです。不要と思えるものをそぎ落とし、実戦とその経験値を分析する中で、コース状況を読み取り、最善を選択できる判断力を身に付けていった。これはすべて彼のやり方で、彼なりの努力の賜物なんですよ。きっと才能とかの符号だけで片付けられるのは本意じゃないと思います」
「ジュンイチ、オマエってヤツは… 」
 ジュンイチの態度を前向きにとらえてやらなければならないと不破は、これをいい機会だとして、ジュンイチの持つ潜在能力を引き出し、一皮剥けるように手助けしてやるのも、自分がやらなければならない重要な仕事だと再認識した。
 この若いふたりが一人前に成長して、お互いに切磋琢磨してこのサーキットを盛り上げてくれればと、自分にも最後の大仕事として変な功名心まででてくる。
 そこに自分の立場の復権も含めて。膨らむ期待感に満足している不破に、早くも冷徹な一撃が飛び込んできた。もちろん出臼だった。
「不破さん、話しがあります。緊急のGM会議を開きますので、5分後会議室に来てください」
 苦渋に満ち溢れた表情を露わにし、こめかみを引きつらせて、唐突に不破の視界に現われた。
 遅かれ早かれ顔を出すと、ある程度予想はしていたとはいえ、このタイミングでの登場に、言葉の準備が出来ていない不破であり、鼻を明かしてやったという気持ちと共に、言いようのない不安も同居していたために、動揺を悟られまいと、きわめて冷静に対応することだけを考える。
 もし、ここで引いていては、これまでと同じ蚊帳の外の扱いを受けるだけで、期待をしていなかったナイジが自分を奮い立たせてくれたと思えば、それに応えられないようでは、幸運は二度と自分の人生に訪れはしないだろうと、背水の構えで堂々と出臼の前に立ち上がった。
「わかった、コッチも言いてえコトがある。方法がひとつだとは思わんことだ」
 思わぬ強気な発言を受け、顔を紅潮させ口を開きかけた出臼は、開いた口からは何も言葉は出ず、きびすを返すとその場から立ち去っていく。
 不破のいつにない強気な態度を見たジュンイチは心配になりながらも、これもナイジという現象を手札に納めた心理的優位の範疇なのかと感じ取った。
「さあてと、えれえこと言っちまったかな?」
 膝を擦り、もう一度席に腰を下ろした不破は、口をついて出た言葉に反して何やら楽しげな様子だった。

「おいおい、通してくれよ。ダメだよ、医務室行かなきゃならないんだから。ほら、どいてどいて」
 不破の予想通り、ガレージ裏の通路は甲洲ツアーズの新星を一目見ようと、黒山の人だかりとなっていた。声を掛けてくるものも少なくなく、映画スターの警備員よろしく人垣を掻き分け歩を進めるリクオ。
 好奇の目で見てくる連中を目にしたナイジは、これまでにも経験してきた暑苦しさを感じていた。レース前までは振り返られもしなかった自分が、今や我先に、どんな男か確認しようとこちらを見ている。そんな物見遊山な気分で集まっている、他のツアーズのヤツラの、憧れと、驚きと、妬みが混じったような顔が、いつもと違って見えてくる。
――こりゃ、珍獣にでもなった気分だな――
 人込みを通り抜けオフィス側の通路に入る扉を閉じると、ようやく一息つくことができた。ここからは医務室に用事のあるものしか入れないようになっており、リクオのように仮病でもつかえばそのまま入ってこれても、さすがにそこまでしてついてくる者はいなかった。
「見たかナイジ、あいつらの顔。現金なもんだぜ、いきなり見る目が変わってやがる。オレなんか、昔からオマエの実力知ってたから、ようやくそのチカラを表舞台に出してくれたって嬉しくてしょうがないのに。でもさ、オマエ、スゲエよ。いや、オレ鳥肌立っちゃったもん。スタンドもすごかったぞ、帰りかけたヤツラが戻ってきて、みんなして食い入るように見てさ。いやー惜しかったな、もう少しだったのに。つーか、トラブルなかったら、いったい何秒出てたんだってそれが気になって仕方ないよ」
 いまや時の人となったナイジに独占インタビューできていることもあり、興奮して捲くし立てるリクオだったが、ナイジはその話しに応える気が無いのか、それとも、もう触れられたくない過去のことなのか、平静のまま話をすりかえる。
「リクさん。何で2回目なの? 医務室」
「はああ? なんだよ、それ。オマエがオレの代わりに出るって言うから、仮病つかって診断書取ってきたんだろ。不破さんがオレにそう言ってたの聞いてたろ。あーあ、やんなっちゃうな、オレの決死の努力を忘れるなんざあ。いやいや、そんなことよりさ… 」
 話しを戻そうとするリクオにかぶさるナイジは。
「ハハ、そうだったっけ? しかし、リクさんの仮病も見抜けないような医者ってどうなんだよ。ちゃんと診断できるのか? オレ大丈夫かな」
「なんだよ、そっちの心配かよ。オレをほめろ、せめて感謝しろ。まあ、その話しには、ちょっとした幸運があってさ」
 ここで、リクオの表情が神妙になり雰囲気が変わった。ナイジの話しの流れに乗せられるうちに、マリの関わりを説明をしなければならないと思い出したのだ。
 いい話しではなさそうなリクオの前置でも、ナイジは聞かないわけにもいかない。
「ナイジ、オマエ、怒らないでオレの話し聞けよ、ああ、怒るっていってもオレにじゃないぞ。オレになら平気で怒るしな。いやいや、そんなことはどうでもいい。まあそのなんつーか、マリ… ちゃんのことだ」
 取り急ぎ、マリがここの医務室で働いていること、スタンドから見たナイジの走りに魅せられて、近づきたい一心で色々と聞いてまわったり、待ち合わせの駐車場に顔を出したいきさつを説明し、そして最後に2000円の件で、あの男とケリをつけたことを付け加えた。
 なんとかナイジがマリのことを悪く思わないように、リクオにしては精一杯気をつかった説明だった。
 ナイジはリクオの話しを押し黙ったまま聞いていた。特に感情の変化を見せるわけでもなく、不快感を表すこともなく、無表情のままだったため、リクオにはナイジがどう考えているのか計り知れない。
 ナイジはマリが自分にどうして興味を持ったのかを人づたいに聞くのは、照れくさくてそこには触れたくはない。あとでじっくりとマリから訊き出してやろうかと脇に置く。
 それよりマリは自分のあずかり知らないうち、馬庭の画策の中に組み込まれていたことを、まるで自分もその一端を担っていたようにナイジに思われることを怖れていた。
 それについては自分で収束させるしかなく、くすぶる不安感から開放してやりたいと、ナイジはあえて突き放したつもりだった。そうした複雑な思いをリクオに語るわけにもいかず、心情を悟られないように口を閉ざすしかなかった。
「なんだよ、黙っちゃって、これからマリちゃんに会うっていうのに。よせよ、これがきっかけでなんてことになったらオレ、もう目も当てられねえよ」
 通路を先に進むナイジの目線の先には、医務室のドアの前で、うつ伏せがちに立っているマリがいた。リクオはナイジの肩を叩き送り出し、ここで引き返す。ここからはふたりが話し合うべきで、自分が出る幕ではない。
「 …ナイジ」
 なんとか声を掛けるマリ。ナイジの、いままでと変わらない顔がそこにあった。
「マリ。なんか久しぶりだ。数時間だったけど、なんか途方もなく長い間、顔を見てなかったような、ずいぶん遠くへ行ってたような気がする」
 マリは何と応えたらいいのかわからなかった。たぶん優先順位としてしては正しいと思える言葉を、ひとつづつ口にしていく。
「えっ? ええ、そうね、そうかもね。ナイジ、カラダ大丈夫だった? 惜しかったね、もう少しだったけど。でも、すごく良かったよ。とても速かった。 …あのね、そのう、アタシ、いろいろとアナタに言わなくちゃいけないことが… 」
 ナイジはマリを咎めるつもりはないのに、心苦しそうなマリを見るのは辛かった。
「白衣、似合ってるな。なかなかいいよ、先生って感じだ」
「……」
 マリはナイジが自分のために、この話しを終わらせようとしているのは理解できても、それでは楽な方へ逃げてしまうと思い、けして上手く言える自信はないとしても、何とか言葉にしてナイジに伝えたかった。それをあえて不要なことだと言わんばかりにナイジはマリの先手を取った。
「あのさ、いいじゃん、マリは自分の望みを叶えようと行動しただけだろ。やましいことしたわけでも、ダマそうとしてたわけでもない、利用されたように感じてしまったことで、自分が許せなかったなら、どうやら、自分で決着つけたみたいだし。オレはいいよ別に、そんなの気にならないし」
 そして、強くマリの瞳を見て言い放った。
「オレはさ、今と、これからのマリしにしか興味ないからさあ、そんなんならいいだろ? マリもさ、オレのこれからを見ててくれよ。いままで、ロクな生き方してないから、これまでの悪事はとても口にできない。まあ、一緒にされても困るだろうけど。ってことで、この件はおしまいにしようぜ」
 マリはナイジに身体をあずけた。
「 …ありがと。ナイジ」
 ナイジもここはそうするべきだと手を回そうとすると、そこへ医務室から大きな声が響いてきたので慌てて手を引っ込める。
「おーい、マリィーッ! 患者はまだこんのか。ハライタの次は、事故ってケガしたマヌケ野郎とは、どうせロクでもないヘタくそだろう。もう帰るところだったのに、まったく、今日は厄日かいな。だいたい… 」
 途中から愚痴に変わっていった。
「あら、ドクの機嫌が悪そうだわ。早く行きましょ。ケガしたおマヌケさん」
 行き所の無くなったナイジの両手はマリの背中から空を舞っていく。
「へい、へい、ロクな言われ方しねよなあ。まあ、そっちの方が落ち着くけどさ。今日はやけに、みんな、おだてるからさ、ちょっと居心地悪かったんだ」
 ナイジが自ら成し得たことが、どれほどのものであっても意に関していないのは、いかに過去において成果があろうとも、次への何の保証にもならないことを知っているからなのだろうか。そうして、マリにようやく笑顔がもどってきた。


第14章 6

2022-06-19 10:09:05 | 本と雑誌

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R.R

「通して! 通して下さい!」
 懇願するマリの心痛を知る由もない群衆には、マリも単なる野次馬のひとりでしかなかった。そこにはホームストレートで止まってしまったオースチンを少しでも近くで見ようと、人がたかりだしていた。
 なによりも心配なのは、酷いクラッシュでもないのにナイジがクルマから出てこないからだ。彼らのように、ロータスを凌駕しかかったリザーブあがりの無名のドライバーをひとめ見ようと集まっているのとは違い、マリの狼狽ぶりはただ異様に見え、相手にされない。
 どうすることもできず人垣の外でうろたえるマリに、あとから追いかけたリクオが声を掛ける。
「マリちゃん。落ち着け。医務室に行こう。ここじゃあ何もできない。どっちにしろ戻んなきゃいけないだろ?」
 涙で顔をクシャクシャにしているマリは、まだリクオの言っている意味が理解できずないままに、人波に逆流して、今度はリクオに引っ張られて階段を上り出口に向かって行った。
「医務室って、そんなに… 」
 マリはオースチンから目を離すことができず、ストレートで止まってしまったオースチンは、もう二度と動かないような、そしてその中にいるナイジでさえも、そんな気がしてならなかった。
「ケガしてるとかどうかじゃなくて、事故があれば必ず検査しなきゃいけないんだ。久しくこんなことなかったからな。マリちゃんがピンとこないのもしかたないよ」
 リクオが何気なく言った言葉に、このサーキットの問題点が隠れていた。安全性が重要視される中で、知らないうちに走りが小さくなって行くのを気づく者は少なかった。それがサーキット自体の興行にも直結していったとも言え、さりとて能力の伴わない思い切った走りは無謀でしかない。
 そのバランスが良ければ、激しい走りのなかでレベルの高い闘いがおこなわれ、そうでなければ、その逆の状況下に陥り、それでもその環境の中で闘っていれば、自分たちのレベルがどこなのかはわからないままだ。
 馬庭はいち早くその問題点に気づいたものの、一度施行した安全性をないがしろにすることもできず、その中で抜きにでるドライバーを待ち望んでいたが、出臼のアングルということでついに外部の血を入れることを決断したのだった。
 そして今回、ロータスが走ったために自分たちのレベルを知ることとなる。そこで終わるはずだったシナリオがナイジの登場で、馬庭はもう一度、自分の手に収めるために書き換えようとしている。なにもナイジの力を利用しようとしているのは不破だけではなく、馬庭にとっても同じであった。

 フェンスを飛び越えてピットレーンから甲洲ツアーズのドライバー達が、息の止まったオースチンに駆け寄って来る。クルマの目立った外傷は右後部の衝突痕ぐらいだ。車内を覗き込むと難しい顔をしたナイジが、ドライビングポジションの姿勢のままに、なにやらブツブツと独り言を言っていた。
「あそこ、あとタイヤ半分。内側を通れば、次のコーナーのインにもっと早く切れ込めたはずだ… 」
 最初に声をかけたのはミキオだ。
「ナイジ! オマエ大丈夫なのか?」
 ナイジは呼びかけの先に目線を動かし、ミキオの方を向いても瞳孔が定まっておらず、スタート前より更に興奮状態になっているミキオの顔をぼんやりと眺める。
「それだけ外側に流れたのをこらえきれなかった。判断とステアリング操作が遅く、甘くなった。まったくザマアねえな」
「ナイジ! オマエ、自分が何したかわかってんのか? とんでもないことしでかしたんだぞ!」
 ミキオの背後には、一目でもドライバーの顔を拝んでやろうと、集まってきた観衆がフェンス越しに鈴なりの人だかりになっている。状況が把握できていないナイジには、それはサーキットのひとつの風景にしか映らず、以前目にした事があるような、それが現実ではないような既視体験の状態にあった。
「それより、1コーナーのインの寄せは、もっと外からのほうがよかった。内に寄り過ぎて、そのせいで次のコーナーへの進入が思ったよりきつくなっちまった。その次のS字区間で… 」
 虚ろなナイジのもとへ、助手席側のドアからジュンイチが乗り込んできた。冷静に助手席に右膝をつきシートベルトを外しながら言葉をかける。
「大丈夫かい、どこか痛いとこは? 驚いたよ、走る前には、キミがここまでやるとは思いもよらなかった。ボクの予想の範疇を越えてしまった。凄いな、この大舞台で。しかも最後の最後で、自分の能力をすべて出すことができたんだからね。いや、まだ、すべてではないのかもしれないけど… 」
 ナイジの能力を見切ったような言い方をするには語弊があると思い、かまを掛けることも含んで言葉をかけても、シートのナイジは、ただ遠い目をしている。
 ジュンイチの賞賛がその耳に届いているとはとても思えない。どこか夢見心地で昼寝から起きて間もない状態にみえるほど、無意識と現実のあいだを揺らめいていた。そんな状況のまま、遠い日の思い出話しでもする口ぶりで、ナイジは自分の走りを振り返りはじめた。
「惜しかったよなあ。5連コーナーの4つ目、3速全開で行けたんだ。インラップじゃあ、そこまで踏み込めなかったのに、描いたラインと実際の進入角がドンピシャだった。あれ以上か、以下だったら、あそこまで踏めなかった。あとは真っ直ぐ走るだけだったのに… 」
 シートベルトを外したまま、ジュンイチの手が止まってしまった。
――最後の5連続コーナーを全開だって?――
 ジュンイチとミキオは驚いた顔をお互いに見合わせる。ナイジは自らのラップをスロー映像でも見ながら解説していると思えるほど正確に自己分析していた。それらの問題点を修正した走りをして、一体あと何秒縮めるつもりなのか。同じドライバーながら空恐ろしささえ感じ、悪寒とも武者震いとも判別できない震えが身体を走る。
 それは自分が言った賛辞の言葉をまったく無意味なものとする、尋常でないこの男の才能を見せつけられ硬直していた。さらに、追い討ちをかける話しは、そこで終わらない。
「タイヤが良すぎたんだ。グリップがあり過ぎて調子に乗っちまった。それが駆動系にムリをかけた。せっかくオースチンが教えてくれてたって言うのに。オレも気が張っていたんだ」
 事も無げにクルマの破損部分を指摘し、自分のミスをあげつらうナイジであるが、ジュンイチは最後の言葉に耳を疑った。
 そこへ、不破がようやく到着した。ジュンイチはその言葉に意味を問い返すことはできなくなったいた。
 若いドライバーと同様にフェンスを飛び越えるわけにもいかない不破は、ピットの入り口から回り込んできたので、どうしても時間がかかってしまった。それなのにナイジが未だに車外へでてこないので気が気でなかった。
「おい、なにしてる、ナイジは大丈夫なんだろうな?」
 不破の声に弾かれ、ミキオとジュンイチがナイジを車外へ引っ張り出す。ナイジは相変わらず誰に話し掛けるでもなしに、自分の走りを言葉にして振り返っている。不破にはその姿が異様にも孤高にも見えてしまう。
「いきなりトルクがタイヤに伝わらなくなって。デフかシャフトが逝ったんだろ。調べてみなきゃわかんないけど。タイヤのグリップ力が増したから、ロールと加速の荷重がかかり過ぎたせいで、駆動系が耐え切れなくなったんだ。調子に乗ってクルマに無理を強いたオレが悪かったんだ」
 ナイジが正気に見えない不破はナイジの口を塞ぐ。聞かれてはならないことまで話しかねない状況だ。ジュンイチが何かのためにと持ってきたタオルをナイジのあたまにかぶせて、ふたりに抱きかかえられようやく観衆の前にその姿を現した。
 生まれたばかりの熱き新星に対し、フェンス際の観衆を中心に拍手の輪が広がっていった。不破もジュンイチもミキオも思わず動きを止め、揺れるスタンドを呆然と見上げる。ナイジはかぶったタオルの隙間から片目だけ光らせていた。
 クラシックコンサートのスタンディングオベーションにも似た静寂の後の拍手。誰一人声を発することなく、ただ、拍手の音だけがサーキットに鳴り続けた。
 不破たちが驚いたのは、観衆だけではなく、他のツアーズのドライバー達も、ピットフェンス越しに惜しみない拍手を送っていたことだ。
 日頃のレースシーンでは考えられない。それは、外様のロータスに対し一矢報いてくれた同胞への感謝の気持ちだったのだろうか。不破はその光景を目にし身体の芯から湧き起こる熱いものが喉の奥までこみ上げてきた。
「見ろよ、このヤロウ、あのワンラップで全ての人の心を掴んじまいやがった。まったく、恐れ入ったぜ。結果が必要な時に望んだ結果を出せるヤツは多くいねえってのに、ましてやそれ以上を成し遂げるなんざ奇跡的だ。ヘッ、結局タイムを上回ってもいないのにこの騒ぎってところがナイジらしいがな」
 それが結果的に余計に群衆の期待感を煽ることになっていた。意図してやれることではなく、時流に乗った者にはそんな運めいたモノまで自然とついてまわってくる。
 そんな不破の言葉を一番敏感に感じていたのはジュンイチだった。不破の見解からは真逆の立場に置かれることになる自分の不甲斐なさがなんともやりきれない。
 ただ、抱きかかえているナイジが、大観衆の扇情が自分のせいで起きているとも思わず、不思議そうに何度も何度も周囲を見回している姿を目にすると、そんなくだらない嫉妬心も何処かへ消え去っていく。
 ナイジの姿がガレージに入っても、他のツアーズのドライバー達はガレージの入り口を囲み、見えなくなってもなお、拍手の音は止むことのないスタンドと同様にいつまでも続けられていた。

――ヤツは、あのタイヤじゃなかったのか――
 馬庭は展望デッキに立ち、双眼鏡を覗き込み、ホームストレートに止まったオースチンを確認した。
――意図的なものなのか、見る目がなかったのか知らんが。なににしてもコチラに頭を使わせるとは、面白いヤツだ。期待以上だよ――
 いままでに目にしたことのないスタンドの様子に負けず劣らず、サロンでもまた、顧客の面々は興奮し、展望窓に張り付いたままだった。いつもとは違う状況に一番驚いているのは、サロンで顧客の相手を務める女性ホスピス達だった。
 席を立ち、今もなお窓際から離れようとしない担当顧客に対し、どう接していいかわからず、ひとかたまりになって皆で様子をうかがっている。こんなことは初めての体験であった。すかさずレイナが担当の顧客の言葉を聞き漏らさないようにと助け船を出した。
「馬庭さん。いやあ、今日は大変面白いものを見せていただきました」
 顧客の古参である國分が馬庭に近づき、満面の笑みをたずさえて眼下を見下ろしながら話し掛けてきた。
 普段ならテーブルに付く女性ホスピスに薀蓄を述べているのに、なにやら、いても立ってもおれず、腰を上げ馬庭の傍に寄ってきたのは、今回ばかりは走りのことはよくわからず聞き役に徹する女性ホスピスではなく、内面から湧き出る言葉を馬庭に聞いて欲しかったのだろう。
「まったく、貴方の懐の深さ、持ち駒の豊富さにはほとほと感服しますよ。まだ、あんな光る原石をお持ちとはね。たしかに、指宿君や坂東君、それにあのロータスの外様ドライバーも腕は確かで速いドライバーではある。しかし、我々の目を留まるのは魅せることができるドライバーです。あたかも水中をなんの抵抗も感じさせず泳ぎ回るイルカのようであり、地上から低空で飛来していくタカのようでもあり。彼の走りは野性的な運動力に満たされ、余すところ無く放出されていた。自然の地形を駆け巡る美しさを伴った走りを、野性の動物ではなく、機械物質である自動車でなされるのを初めて目にしました。まさに『オールド・コース』を走るにふさわしいドライバーですな」
「國分さんに最大限の賞賛をいただけて、彼も喜んでいると思います」馬庭が丁寧に頭をさげた。
「しかし、この終わり方は傑作ですな、最高の結末を迎えようと誰もが確信を持ったあの場面で、クルマの不調でしょうが、楽しみにしていた映画のフィナーレを、突然消されてしまったような気分です。そこまで、貴方が仕組んだと思いたくありませんけれども、結果的に大作映画の予告編でも見せられたような終わり方は、多くの人に更なる成長を期待させ、強い関心を持たせることになるでしょう。だから、観衆も惜しげも無く喝采を贈ったのでしょう」
 馬庭は笑みがこぼれそうになるのを抑えた。自分が感じたことを國分が言葉にしていたからだ。
「まだまだ荒削りで危険と紙一重のドライビング、区間最速ラップ、ゴール前でのストップ。馬庭さん下ごしらえは充分といったところでしょ。これで次回が本当に楽しみだ。あなたが、次にどんな物語を描いているのか。いや、実に楽しみだ、まだまだ、楽しませてもらえそうですな。是非、彼には出資させていただきますよ。これまでの倍出してもいい、彼の最初の出資者ということで、一行目に名前を書かせてもらいたい。その権利を得ることができるのなら、それぐらい安いもんです」
 一気にまくしたてる國分、若いドライバーを温かい目で見つめる好々爺は、久しぶりの感動を堪能していた。馬庭は手を後ろで組み、目を閉じて國分の話しに耳を傾ける。時折笑みを浮かべ、うなずく仕草は、國分の思い入れへの敬愛か、してやったりの自分への報酬か。
「いいえ、國分さま、私にできることなど、たかが知れております。よいドライバーが育つのはツアーズGMの努力の賜物でしょう。それに、ドライバーが成長できるのは、國分さまをはじめとする、ここサロンにおられる皆様の目です。厳しい目に晒され、ご意見をいただき、現場に落とし込み、一人一人が求められているものを理解して初めて、ドライバーとして成長していくのです。あの若者に未来があるとお感じであれば、どうぞ、厳しいご意見をいただけますようお願いいたします」
 そう言うと、深々と頭を下げる馬庭。サロンのほかの客達も一体何が起きたのかと、視線を集める。
「あっ、馬庭さん止めてください。そんな、頭を上げて。私達はただ、レースを見させてもらい好き勝手言っているだけの過去の人間に過ぎません。自分達ではもはや叶えられない夢や希望を彼らに託しているだけなのですから。そんな、夢の舞台を用意できるアナタのお役に立てるならと、ここに馳せ参じさせてもらっているだけです」
 サロンでもまた、一斉に拍手が起きた、國分の言葉は我々を代弁しているという意思を馬庭に伝えたかったのだろう。馬庭は手を胸に当て会釈をした。
「皆様、ありがとうございます。この拍手は私というよりここにいるホスピスの女性陣および、本日のレースを盛り上げてくれた各ツアーズの面々へ戴いたもとの理解しております。サーキットは再び活況を取り戻すでしょう。『オールド・コース』の復活と共に。成熟したエースクラスと新しい力が融合して、見ごたえあるレースをこれからも続けていく所存です。次回も皆様の期待に応えるマッチアップをご用意いたします。是非ともお楽しみにしていてください」
 そして、また一段と大きな拍手が沸きあがると、馬庭を中心に人垣が形成され誰もが我先にと馬庭に握手を求めるのだった。
 力強く両手で顧客の手を握り締める馬庭。一つの計画はヤマを越え順調に事を終えても、そこで立ち止まることは許されなかった。
 膨らんだ容積を埋めるためには、さらに多くの仕事が待ち受けていると知っており、果たして、自分自身がいったいどこまで速く走っていられるのか、何のために体に鞭打って、目の前にぶら下がった餌を獲得しようと邁進しているのか。
 その答えは出ることもなく、しょせん自分も、あの若いドライバーとなんら変わらず、行く当ての無い不毛地帯を走りつづけているに過ぎないことを思い知らされていた。


第14章 5

2022-06-12 11:48:12 | 本と雑誌

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R.R

 ピットの出口に待機したナイジの前には、コースインを知らせるためのマーシャルが、ひとりせわしなく動いている。5thレグの状況が気になるのだろう、手持ち無沙汰にフラッグを何度も持ち替え、クルマがホームストレートに戻ってくるのを今かと背を伸ばし、ラップ中のアルピーヌのタイムが掲示板に更新されるごとに、背と首を伸ばし目で追っていた。
 ナイジが待機する場所からはスタンドも後方に位置し、声も遠い。目に映るものは落ち着かないマーシャルと、1コーナーの先に並ぶ雑木林だけで、風になびく木々の方向からするとホームストレートには向かい風が吹いている。それは、トップスピードが伸びないことを示し、非力なオースチンには不利な状況といえた。
 浮かんでは消えていく取り止めのない陰鬱な思考を寸断して、さらに目線の先を木々の上にずらしていく。抜けるような青い空が目に染み込む。
 こうしていると自分がこれから行うべきことが現実とかけ離れ、この場にいることと何の接点も見出せなくなってくる。
 いつもと同じ一日、人生の中の単なる一日、それが、決定的に今後の岐路を決めてしまう一日となることを、それらは他人事にしようとしている。
 自分にはもう後がなく、不破はB・Jや自分を切り札にして、自分の立場を覆すために勝負に出ようとしている。そんなことはミキオに言われなくてもわかっていることだ。
 自分に出来ることは限られている。それ以上を望むのは運任せでしかないと思いたい。
――なんか、想像以上に、オレも平常じゃないのか――
 ナイジは自分の思考やら、感情の振れが、許容範囲内を越えていると漠然と感じていた。
 普段通りクルマを走らせる行為に何ら変わりはないはずなのに、見えない外圧が自らの精神能力に影響を及ぼしている。
 普段から周りの連中に強く感じていたドライバーとしての心の弱さが、自分にも同じように存在している。そういう場に立たなければわからなかったことで、それを認識したくなくて逃げてきたともいえる。
 どれだけレースに甘ったるいロマンチシズムや、アマチュアリズムを求めようが、いつだってタイムは冷酷に人を選別してく。
 たいしてクルマの性能に差があるわけでもなく、ドライバーも普段の力が出せれば横並びのタイムで走れるはずであるのに、いざレースとなればみんな一様にそれなりのタイムに納まってしまう。
 それが、個人の持つ力量であり、精神的な弱さでもある。今日のレースでもそれが顕著にあらわれ、初めてのコースを走るという根本的な変更があっても、それが一定のタイム差となってハンで押したように分布する現象は滑稽でもある。
 稀に番狂わせも起きるが、そもそもそれを番狂わせと言っている時点で、自分達の定位置を決め込んでいるだけだ。そんな既定路線に自分も取り込まれている。
 ミキオ達が、変に他人に期待を寄せ、自らその場所へ進んでいこうという概念がないことに、交われない温度差を感じていたはずなのに、いまの自分の状況は、これまでとの間に、どれほど隔たりがあるのだろう。
 一番最初に眺めた位置が違うだけで、これほどまでモノの見方が変わってくることを実感すると、今まで自分が否定していた他人と変わりばえがなく、情けない自分が現実と希望の間を行き来しているにすぎない。
 悶々とした疑問を抱えながらもゼンマイ仕掛けのように動くマーシャルを見るでもなしに眺めていると、そのマーシャルはこれまでよりあからさまにフェンスから身を乗り出してクルマが通り過ぎるのを見送った。
 ナイジは漠然とロータスがタイムアタックに入ったと認識した。スタンドもにわかに喧騒をおびて、ワントーン歓声があがった。目の前のマーシャルはロータスが視界から消えるまで追い駆けていたのだろう、名残惜しそうにようやく向き直るとナイジに向けて旗をクロスする。ピットアウトを促す指示だ。
 その指示を受けると、不思議とこれまであたまの中を巡っていた様々な思考はさっぱりと消えてなくなり、オースチンと一体化していった。心拍数も徐々に収まっていき、いま行うべきことを冷静にこなしていく。
 タイヤの食いつきを確認するため、高めの回転数でクラッチをつなぐ、タイヤは軽く空転し、白いスモークを上げるとグリップを取り戻し、クルマを蹴り出す。
 もう、10分もすれば総てにケリがつく、それで今後のサーキットで行われるレースの方向性も、ツアーズの趨勢も決まるといっても過言ではないだろう。
 それは誰かが考えた計画通りシナリオの中で、期待はずれと共に尻つぼみで終わるのか、それとも予想以上の成果を得ることになるのか。
 その中で自分がどれほど関与しているのか想像もできず、今はまだ、何も起きていない無の状態であることは間違いなく、空白の時の流れに自ら描き出す歴史は、今この時点からはじまることが何よりの動機になった。
――さあて、少しは誰かさん達を満足させられるのかな――
 ナイジはそう思いながらも内心では、自分がいったいどこまでやり切れるのかを誰よりも楽しみにしていた。
 スタンドは今日一番の盛り上がりを迎えつつあった、一向に縮まることのないタイム差が僅かではあるが濱南ツアーズの指宿、そして甲洲ツアーズの坂東純一と続けざまにコンマ数秒づつ縮めている。
 そして最終5thレグ、外部招聘のロータスが走行をはじめると、全観衆の期待は否がおうにも高まっていく。その圧巻たる走りは、ジュンイチが最速ラップを出して喜んでいたリクオとマリを黙らせるのに十分であった。
「こういうレースの見方は、良くないってわかってるけど。B・Jさんのタイムを破られたくないと思うと、あのクルマ、 …ロータス? が失敗することをどこかで望んでいる。でも、あのクルマ。とても自信を持った走りをしている」
 マリはリクオだけに聞えるように小さな声で言った。しかし、そんな心配も無用なほど、スタンドはロータスの走りに魅入られて、他人の会話など気になっていない。
 あきらかに今まで走っていたクルマとは動きが違い、一台のクルマの走りによってサーキット自体の風景が一変した。
 今まで目にしていたのが田舎の草レース場なら、この走りは明らかに国際レースの舞台が舞い降りていた。と同時に、オープニングの時は、静まり返っていた陥没していた場所で他を圧倒するほどの声援がおきていた。
 1コーナーを軽々とクリアしたあとも、山間部でも吸い付くようなコーナーリングを繰り返すと、それぞれの計測ポイントでジュンイチのタイムをコンマ5秒づつ削り取っていった。
「なんだよ、あの走り、今日初めて走ったとは思えないじゃねえか。たしかによ、上手いヤツはコースを選ばねえって言うけどさ。これじゃあ、ここのツアーズの立つ瀬がねえ。ちくしょう、どこでもいいからミスしやがれってんだ」
 マリはナイジが今朝、言っていた言葉を思い出した。『誰かが走っている』それがロータスのドライバーである証拠はどこにもなくとも、そんな詮索をしてしまうほど完璧にコースを攻略していく。この走りを続けられれば、次に走るナイジに一体どれだけの勝機があるといえるのか。
 ロータスが最終コーナーに姿を見せると歓声は一段と大きくなってきた。手堅く5連コーナーをまとめてきた黒い車体はあっという間にホームストレートに戻ってくる。スタートフィニッシュラインを越え、歓声は一旦やんだ。
 それは誰もが確信し間違いのない事実だった。念を押すようなラップ表示は舘石のタイムを1秒ほど更新する《3分52.2秒》のニューレコードを打ち出す。地鳴りのような拍手と喝采、怒号と化した唸り声はスタンドを駆け巡った。
 ボディサイドに貼られたコンペティションサークルのすぐ上に、これ見よがしに付けられたオイルメーカーのロゴマークが目に焼き付けられる。
 スタンドのすべての観衆が立ち上がり、いつまでもロータスの流麗なフォルムに釘付けになっている。すでに1コーナーを過ぎてクールダウン走行にはいっている車体に向けて賞賛の眼差しで見送る。
 歴史の扉が開かれた現実を目の当たりにすることは、敵味方を越え、人を骨抜きにしてしまうほど見えない力が作用する。すべての観衆が圧倒的な走りに酔いしれ、目の奥に刻み込まれた映像を言葉で反芻している。
 それは同時に、最終走車で走る甲洲ツアーズのリザーブドライバーであるナイジに、誰も何も関心などないことを物語っていた。
 ようやくマリの目端に白い車体が引っかかり、リクオの袖を引っ張りナイジが来たことを伝える。しかしその他の観衆には、主役が降りた後の舞台に上がった裏方の作業員ぐらいにしか見えないようだ。
 スタンドの騒然とした雰囲気はなかなか消えることはなく、もはや今日のレースは終わったものだと、誰もがすでに帰りの渋滞を心配して席を立つ者があとをたたない。
 そんな中、最終コーナーを立ち上がってくるオースチンは、さきほどのロータスの走りとは違った加速を持っていた。少なくともマリとリクオの目にはそう映った。
 直前のロータスより加速が鋭く感じられ、その勢いのままホームストレートを走る。ナイジ特有のつなぎ目を感じさせないシフトチェンジには僅かな手詰まりもなく、さながら野鳥が超低空飛行からそのまま空へ舞い上がる姿を連想させるほど鋭く疾走していく。
 瞬く間にホームストレートを疾駆し1コーナーに突っ込んでいくと、見た目では減速したとは思えないぐらいのスピードを保ったまま鋭角にコーナーリングをしていく。ロータスの姿を見送っていた大勢の観客も、なんとなくこれまでと異なった空気の振動を感じていた。
「なんか、凄くなかった? いまの… 」
 動きかけていた人の波が一度は止まった。観衆は席を立ち山間部を走り出したオースチンを少しでも目にしようとする。やがて、第一計測地のタイムが掲示板に書かれた。
《0:48》
 ロータスのタイムより1秒遅かった。
「やっぱり、ダメだな。いい走りに見えたけど、タイムにはつながっていない」
 そのタイムを見て再び人の流出が始まる、ロータスのタイムより1秒も遅ければ仕方のない話だ。この先2つの計測ポイントでそれぞれ1秒づつ遅れれば、最終的には舘石のタイムからは3秒落ちの平凡なタイムとなることは明らかだ。
 マリは不安気にリクオを見上げる、リクオは山間部を走るナイジから目を離さない。木々の間を縫い白い車体はフラッシュ映像を見ているように細かく目に映る。
 ナイジの予想通りホームストレートは逆風だったため、最終コーナーからの力強い加速も、無駄のないシフトアップもロータスを上回るほどのタイムにつながらなかっただけで、山間部に入ってからは自分の強みを存分に活かし、思い通りのコーナーリングを繰り返していた。
 時折スキール音を鳴らしながら次々とコーナーをすり抜けて行く姿は、リクオの目にはいつもの印象とはは違って見える。
 タイヤを替えたことを知らないリクオは、いつも目にするオースチンのリアを流しながらのコーナーリングとは違い、路面に食いつくほどの高いグリップ力と、コーナーの抜け出しから尻を蹴飛ばすほどの加速の良さに目を奪われていた。
 自然とリクオの両手は強く握られたり、開いたりを繰り返している。「違う、なんか違ってる。これはタイムを出す走りだ」呆然として目を見張りながらも、期待感が溢れるリクオの表情に勇気付けられたマリも再びナイジの走りを追っていた。
 半官贔屓と思われるかもしれないが、マリにもナイジの走りは今日見た中で一番切れが良く、誰よりも速く走っているように見え、なによりこれまで見てきた、どのナイジの走りよりも美しさのうえに力強さがあった。
「 …キレイだわ、流麗なほどに。ストップモーションを見てるみたいに、速い… 」
 ふたりの見解が証明されたのは第二計測ポイントのタイムが掲示された時だった、ナイジが叩きだしたタイムはロータスより1秒落ちのまま、つまり、第一から第二までの間はロータスと同じタイムか、もしくは若干早いタイムで通過したことになる。
 スタンドの出口で混雑し行き詰まっていた人々は、スタンドのどよめきに振り返り、歩を止める。コース上で何が起きているのか確認しようと列をはずれる者さえ現われた。
「 …リクさん、リクさん。ナイジが」
 観衆のおののく声にかき消され、自分もナイジの走りに集中していたこともあり、マリの呼ぶ声がなかなか届かなかった。
「ああ、マリちゃん。こりゃ、大変なことになってきた。もしかすると、もしかするぞ。オレの目にはナイジが今日一番の走りに見える。やるかもしれないって、いや、やってくれって密かに願ってはいたが、実際目の当たりにすれば、ホンと、シビレるぜ」
 リクオの目は充血し声が震えている、興奮の度合いが自分の許容量を越え自制が効かない。マリも知らないうちに涙腺を刺激されており、全身が麻痺している。
 信じがたい光景を目にしていることに心を揺さぶられ、まぶたに溜っていた涙は溢れ出さんばかりだ。
――ナイジ、アナタって人は… 本当にできるじゃない。ガンバって――
 最後は両手を合わせ、硬く目を閉じた、ロータスに勝てる見込み、それに最速ラップが出せる見込みが出てきたとたん、今までと同じようにナイジの走りを見守ることはできそうにもなく、心も張り裂けそうに痛み続けている。
 続いて発せられたリクオの歓喜の叫びも、ナイジに何か起こったのではないかと危惧してしまうほどだった。
「おーし、出たぞ! すげえ、すげえぞ、区間新だ! 見ろよ、この区間、最速ラップだ。ロータスより速かったんだぜっ」
 ついにナイジは第3計測ポイントでコンマ5秒落ちまで詰めてきた。隣でマリが怯えているのも知らず、リクオはあえて、周囲を煽るように大声を張り上げていた。
 それに呼応してスタンドもオースチンの走りに見入っていく。ロータスが手堅く最終コーナーをクリアしてきたことを考えれば、アタックラップ前の周回でオースチンが見せた最終コーナーからの加速ならば、同じように。いや、もうひと踏ん張りしてくれれば十分に逆転が可能なタイム差といえる。
 サーキットにいる誰もが、今日の主役はロータスで疑う余地はないと思っていた。最高の走りと最速ラップを見れてよかった。外部ドライバーだけど速かった。今後の他のツアーズの巻き返しはあるのか。そんな話題を帰りの夕食の席で語り合おうかと思っていた矢先の出来事だ。
 いま目の前で起きていることは、名も知れないリザーブドライバーがその全てを引っ繰り返そうとしており、そうなれば未知なるスターの誕生を同じ時の流れの中で体感できる。
 人はこういった状況展開に弱く、あたかも自分が最初にそのドライバーを見出したような錯覚に陥ってしまう。5番目の走車を表わすコンペティションサークルに描かれた『5』のナンバーが、甲洲ツアーズのカラーである赤で塗られており、それがやけに格好良く観衆の目に映える。
 いみじくも5年前の舘石のクルマに貼られたものと同じ数字、同じ色であることを知る者は少なかったが、今日、このサーキットで歴史の目撃者となれば、のちにそれを新しい観客に自慢げに語るだろう。
 クールダウン走行を終えてピットに戻ってきた安藤は、明らかに現在の注目が自分で無くなっていることに気付く。
 それはイコール、甲洲の最終走者、あの若造が何かをやらかしているということになる。すぐさまクルマを降りると駆け寄る西田を振り切り、ピットフェンスから掲示板を見上げた、白いオースチンは自分のコンマ5秒後ろまで接近していた。
 西田が近づき毒づく。
「アイツ、どこまで俺達のじゃまするつもりだ、これでオイルが売れなかった久遠寺さんにどやされるぞ」
 安藤にとってはそんなことはどうでもいいことだ。ピットフェンスから最終コーナーを見据え、オースチンが、あの若造が立ち上がってくるその時を待つ。
――やるじゃねえか、下りの山間区間で俺より速いたあ、とんだ赤っ恥かかせてくれるぜ。どうせなら俺を抜いてみろよ、それでしがらみなしでキサマと闘えるってもんだ――
 遂にオースチンが最終コーナーから姿を見せた。安定感のあるロータスの走りに比べると対照的に、速いが危うさを伴い、危険と隣り合わせの限界ギリギリで必死に持ちこたえているオースチンの走りに誰もが目を奪われ、心をつかまれていた。
 勝負どころの5連コーナーは前の周回よりさらに加速良く見える。全開のコーナーリングでアウト側の路肩すれすれのラインを通って横っ飛びしてくる。誰もがかたずを飲んだ。
 どのドライバーであってもひとつ前のコーナーでスロットルを戻して、コースオフのリスクに備えていた。それなのに、このリザーブドライバーは独自のコーナーラインとスロットルワークで、加速が止まらない走りをしている。
 直線のラインに乗り、あとはフィニッシュラインを通過すだけだ。ロータスの最速ラップをさらに更新すると皆が確信した。

 そこで一瞬の永遠が終わりを告げた。
 
 目に飛び込んできた光景に誰もが凍りつき、聞きたくもない耳障りな異音はスタンドまで届く。
 突然にナイジのオースチンは不自然にリアを振ると、ピットフェンスに向かってコースを外れる。急ブレーキをかけたタイヤからは白いスモークが上がり、なんとかリアフェンダーをしたたかにぶつけるにとどまれた。
 最後は力なくホームストレートに戻ってきたものの、エンジンは掛かっているがタイヤにパワーが伝わっていない。ゆるゆると惰性で走りつづけフィニッシュラインを通り過ぎる。
 その光景に観客は肩をうな垂れ、力なく腰をおろし高らかな歓声は失意のため息に切り替わったのもつかのま、掲示されたタイムを見て怒号のような声がスタンドに響いた。
 ロータスのものよりコンマ5秒落ちのタイムがそこに刻まれた。あのままフィニッシュしていればロータスのタイムを更新していたのは明らかだ。
 それにもなにも、コースアウトしながら舘石のタイムをコンマ2秒上回っているのだ。
 その光景を最後まで見ることなく安藤は舌打ちをしてピットレーンを後にした、西田が軽くガッツポーズをしているのが目に入り、なんとも腹立たしい気持ちになっていた。
「結局、あんなもんだ。最終コーナーで無理してオーバーレブでもしたんだろ。ヤツはタイムアタックのプレッシャーに勝てなかったんだ。エンジンを回し過ぎて、まともにフィニッシュできないなんてプロとは言えない。一時はどうなることかと思ったが、これがヤツの偽らざる実力なんだよ。安藤、お前がトップだ」
 肩の荷が下りて饒舌になる西田の気持ちもわかるが、安藤は手放しで喜べるほど現実を楽観視してはいない。あの挙動はエンジンブローとは考えられない。それが証拠に態勢を立て直した後もエンジンはかかっていた。
 クルマのコントロールを失っているあいだはエンジンがストールするのを防ぐために、クラッチを切ってギアをニュートラルに入れるのは常識だ。
 しかし、態勢を立て直したあとエンジンが掛かっていればそのままニュートラルを続ける必要はない。フィニッシュラインを越えるために駆動を伝えればいい。
 エンジンが掛かったままクルマに加速が戻ってこなかったのは、駆動系のどこかが破損したからだ。
――コースに戻ってきても惰性で走ってたな。てことはそもそもコースアウトの原因が駆動系の故障ってことだろ。アイツ最終コーナーを全開で回ってきやがって。オレがスロットルを戻したってのに開けっ放しだと。ふざけやがって。気にいらねえぜ――
 安藤は突然笑い出す。西田も安藤が勝利を喜んで笑っているのだと思い、一緒になって笑い出した、腕を組んで待ち構えていた出臼もまた、これですべてが上手く行くとほくそえんでいた。


第14章 4

2022-06-05 12:06:22 | 本と雑誌

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R.R

「うわぁー、すごい。こんな風に見えるんですね。オールドコースまで見えますね」
 コントロールタワー側のメインスタンドに続く薄暗い階段から通用門を見上げれば、額縁に納められた絵画を思わせるほどの青い空と、山間部に萌える樹々。そして、いつも自分が座っていたピット側のホームスタンドが、立体的で奥深い雄大な自然を背景にその姿をふたりの前に現わしてくる。
 ホームスタンドとは対照的な奥行きと眺望に包み込まれ、リクオとマリはメインスタンドに立ち上がり、しばしその雄大なパノラマに見入っていた。
「だろ、いいだろ。こっからが大切だ。いいか、前の方に行くヤツぁシロウトだぜ。クルマを間近で見たいって気持ちはわかるけどな、こっち、こっち。上で見るとさ」
 マリはリクオに引き連れられステップを駆け上がっていく。息せききって登り切った最上段で振り返れば、対面するホームスタンドの上から山間部の奥のコーナーまで見通せた。
 あちらこちらが木々で覆われて完全にクリアな状態ではないにしても、十分にクルマの走りを追い駆けることができる景観だ。
 それにもまして驚いたのは、この頃では5~6分入りのホームスタンドが8分程は埋まっており、今日解放されたメインスタンドも既に半分以上が埋まっている。
「なっ、最高だろ。もう、5年も使ってないから、いま来てるような連中はほとんど知らないんだ。だから、アッチに行っちゃうんだろうけど。やっぱり、オールドコースを見るならここが一番だなあ」
「すごい。リクさんに連れてこられなけりゃアタシ、いつもどおりアッチで見てました。とっても得した気分。それにしてもいっぱい入りましたね。今日はいつもと違うってこと知ってるみたい」
 5年も使っていないこのスタンドが、客を受け入れるのに十分な状況であることを不審に思うも、それをリクオに問うてもしかたなく、そんな言葉になってしまった。
 リクオもスタンドの客入りを目にし、腕を組み感心していた。
「うーん、そうかもな。なんだかんだ言って、人のクチコミってヤツは広がるのは早いからなあ。外部ドライバーの参加にオールドコースでのレースだろ。それに、メインスタンドの開放と。どうやら、知ってるヤツ等はちゃーんと知ってるんだな。たぶん、アラトみたいなヤツがどこにでもいて、ウワサがウワサを呼んで、アッという間に広まっちまうんじゃないの」
 リクオは思いつきで言ったぐらいの話しだろうが、ウワサの効力についてはありえることだ。それにも増して、これほど見晴らしの良いメインスタンドを何故、何年も開放していなかったのか。5年前の事故や、タイムアッタック方式へのルール変更。それに『オールド・コース』の閉鎖。すべてはひとつの目的の為に綿密に操作されていたとしても、当時を知らないマリにはそこまで読むことはできない。
 久しぶりに開放したスタンドの足元や、ベンチが小ぎれいになっており、それが1日やそこらで準備できるとも思えず、それなりの段取りを踏んでいるのだろうという思うに留まっていた。
 リクオに対しては当たり障りのない相槌を打って、目線を落としていたマリが顔を上げる。
「きっと、そうですね。あっ、クルマが動き出したわ」
 マリが指を差すとほぼ同時にピットレーンにサイレンが鳴り響く。今日のレースが開始される合図だ。同時に今日の第一走者となるアウトビアンキがピットロードを飛び出した。観衆は立ち上がり拍手が沸き起こった。
 いつもより人が多いので相乗効果もあり、スタンドは一体化し集まった歓声は一層の盛り上がりを感じさせる。ただ、メインスタンドの一部は静まり返っており、まるでそこだけがぽっかりと沈み込んでいるように見えた。
「さあ、スタートだ。最初は玖沙薙のビアンキだ。何にしろコイツのタイムが基準になるからな、いったい舘石さんが残した最速ラップにどこまで近づけるんだろ? うわあー、ドキドキしてきたぜ。最速っていったってもう5年も前のことだぜ。クルマもパーツも進歩したし、それぐらいのタイムは出ると思うけどなあ」
 ビアンキの走りに集中しはじめたリクオの気をそぐように、真顔のマリから発せられた言葉に耳を疑う。
「あのー、すっごく初歩的な質問なんですけど。これってどうやって勝ち負けを決めてるんですか?」
 リクオの眉毛が伸び上がり唖然とする顔に、みるみるマリの頬が紅くなっていく。
「へっ、知らんかったの? それもまた… すげえな。今までなに見て楽しんでたんだ?」
 わかっていたとはいえ、相当に頓珍漢な質問をしてしまったことに照れ笑いで応じるしかなく、リクオへの答えも話がズレていってしまう。
「えっ、ああ、そのう、順番にいろんなクルマが走っていくなあとか。今日のタイムはこれぐらいなんだなあとか… 周りが盛り上がっても、何が凄かったのか良くわからなくて。あっ、でも、クルマが走ってるのを見るのは本当に楽しくって、キレイな走りをしてるクルマはタイムも良かったりするから。それを見てるととっても幸せになれるから、それが楽しみだったんです… けどぉ」
 話すほどに目を輝かせはじめるマリも、最後には再び恥ずかし気な表情に戻っていく。リクオは冗談でしかめっ面をする。
「へい、へい、そんで一番キレイな走りして、幸せの絶頂にしてくれたのがナイジだったんだよな。しかもそれ練習走行だぞ。そこまで言わねえだろうけど。さすがにそれぐらいオレでも察するよ。ははっ、はーあ」
「えっ、えっ、そんな、別にそんなつもりじゃ、…でも、そうだったかな。あっ、あっ、そうじゃなくて」
 両手を交互に振り必死に弁解する。
「いいよ、いいよ、そんなに気ぃ遣わなくても。わかってっからさ。やっぱり、光るものがあるんだよなナイジのヤツ。ルールも知らないシロウトが見てもそこまで感じれるんならさ。それとも、わかる人にはわかるってことか? そうなると、マリちゃんも結構スルドイ目してるかもね。だけど、それが、実際にタイムとして目に見えるものになるのか、夢のままで終わっちまうのか、今日次第ってとこだな」
 すこし、リクオはさびしげな表情をした。
「おっ、戻ってきた、タイム計測に入るぞ。ああ、そうそう、レースの勝ち負けのことだけど、ツアーズって4つあるだろ。ああ、4つあるんだよ。それぞれ、5台づつエントリーするんだ。第一走者、ファーストレグって呼ばれてるんだけど、そいつが走って、タイム計って出したタイム差がポイントになるんだ。10分の1秒で1ポイント。だから、簡単に説明すると、ファーストレグが終わって1位から4位まで1秒づつ差がつけば10ポイントづつ差がついていくってわけだな。それ5台の合計で足していく。いってみれば、見えないバトンをつないでくリレーをしてるみたいなもんだな。だから、いくら自分が失敗したからって途中で諦めるわけにはいけないんだ。レース全体の勝負を考えれば少しでもタイムを削れば次につながるし、そうしなきゃ自分とこのツアーズに迷惑がかかっちまうからな」
 言いながらも目線は1コーナーの方へ向かって行く。マリも同じように目線を持っていく。
「これが結構うまいこと回るんだよ。更新したパーツや消耗品のテスト結果を考慮して、戦略を立てて出走順を毎回変えてくるから、そのレグで何秒差をつけるか、つけられるか想定しなきゃいけない。それにエースが必ず最後に走るわけじゃないから、誰と走るかでタイム差が毎回変わるから、途中で思いもよらない差がつくこともある。それでもだいたい最終出走までもつれていくから、最後まで順位がどう転ぶかわからないんだ。だからさ、オレ達ドライバーは禁止されてるけど、スタンドで見てるヤツ等は食事とか、飲み物を賭けたりして楽しんでるんだ。わかった?」
 自信満々に問いかけるリクオであるのに、こわばった笑顔のマリは理解するのにもう少し時間を要するようだ。
「はあ、何となく、ハハッ」
「ハハッ、じゃねーよ。なんだよ、これじゃあ、早くも解説者失格じゃねえか? まあ、マリちゃんの場合そこまで深く見なくても、楽しんでるからいいけどさ」
「えっ、はあ。 …あのう、ところでそんなに大ぴらに賭けなんかしてるんですね?」
 よくわかっていないマリが引っかかったのは別のところにあり、リクオは肩を落とす。
「はあ? ソッチが気になるのかよ。意外とギャンブラーだったりしてなマリちゃんは。ナイジのこともだそうだけど。まあ、いいか、そんなハナシは。あっ、帰ってきた。おーっ、3秒落ちかー、うわー、なんだよ、なんだよ、5年前の舘石さんのタイムってそれほどスゲエっのかよ」
 スタンドの反応も同じようなもので、一様に落胆と、賞賛の入り混じった声が沸きあがる。続いて、駿峨ツアーズのカーマン・ギアが完熟走行を経て、計測に入っていった。
 次走車は前走車がタイムアタックに入ったタイミングでピットアウトをし、チェッカーと共に次のクルマがアタックラップに入るように計算されており、観客を飽きさせないタイムスケジュールとなっている。
 第一計測ポイントで、カーマン・ギアが前走のビアンキよりコンマ5秒早かったが、それが掲示されるとスタンドは一瞬だけどよめきを起こした。しかし、例えコンマ5秒づつ削ったとしても、トータルでは2秒しか縮まらず、舘石のタイムにはまだ1秒及ばない。
 結局、続く、第2・3ポイントではさほどタイムは詰めることはできず、トータルでビアンキよりコンマ9早いタイムでフィニッシュしたに留まった。山間部の途中でミスがあったらしく、それを立て直すことができなかったことが最後まで響き、それ以上のタイムアップにつながることはなかった。
 続く濱南ツアーズのプジョーも甲洲ツアーズのミキオが乗るローバーも似かよったタイムに留まりファースト・レグが終了した。
 次のレグまでに10分の休憩があり、スタンドでは多くのにわか解説者が感想を述べはじめる。リクオも同様に自分の中に蓄積していった持論をマリに語り出す。
「まあ、どこもまだ、エース級が出てないし、これからだよ。うーん、でも2秒は縮まらないだろうな。これじゃあ、舘石さんの伝説がますます脚光を浴びるだけになっちまう。いや、もし志登呂からきたロータスにしてやられたら、ウチらここのツアーズの立場が無くなっちまうぞ」
 マリにはそれも想定内であるとピンと来ていた。それもまた、展開としては運営側としては面白いことになるはずだ。ストーリーが今回で終わらず次につながっていくことになる。
「ですよねえ。あと2秒詰めるのはかなり難しいんですよね? 距離が長いからもう少し詰めれる気がするんですけど?」
 周囲の会話もだいたい同じような見方がほとんどだった。あらためて舘石の偉業が見直されるものの、誰もがなにやら物足りない印象を持っているのは間違いなく、しだいに重たい空気がスタンドを覆っていった。

 ガレージ出口で静かにその時を待つナイジに、ここまで盛り上がりが少なかったスタンドが、にわかに活気が出てきたのが伝わってきた。
 そこに、さらに大きなどよめきが届くと同時に、甲州ツアーズの連中の声が響く「ジュンイチがやったぞ、一番時計だ!」そんな声が聞えてきた。
 ジュンイチがどれほどのタイムを出したのかナイジにはわからなくとも、ここまでの最速タイムが出たことで、甲洲ツアーズのピットに歓声が沸き起こったのだ。
――やったな、BJのヤツ。地道な練習もダテじゃないな。あとは、あのロータスがどんなタイムを出してくるか。筋書きどおりなら、最低でもコースレコードは出してくるだろうし――
 これで第4レグが終了した。最後の第5レグを走る4台のクルマがピットレーン出口に待機する。ロータスと、濱南ツアーズのピットに順番に目をやると、そこには余裕の表情の出臼が時折笑顔を交えて回りと談笑をしている。ロータスに何ら指示をする様子も伺えない。
 ジュンイチのタイムを見てもなお一向に動揺もしないその態度からは、これから走る安藤の出すタイムに余程自信があるからなのだろう。想定内の出来事と言わんばかりの出臼の得意げな顔に気分が悪くなりナイジは目を閉じた。
――BJのタイムなんか屁でも無いってことか――
 そこにノックの音が耳に入る。瞳を開ければミキオが窓際に立っていた。しきりにサイドウィンドを開ける仕草をしている。何か言いたいことがあるのだろう。
 ナイジはこのタイミングで人と話しをする気にはならないのに、放っておくわけにもいかず仕方なくウィンドを下げる。
「B・Jがトップタイム出したんだ。コースレコードにはコンマ5秒届かなかったけど、今日の最速をマークしたぞ。ひとつ前を走った指宿さんよりコンマ3秒早い、不破さんも大喜びだ!」
 テレビ画面に映る興味のないニュースでも見ているように、ナイジの表情はとろけるほどに眠たげだった。
「なんだよ、ほんとに関心ないなオマエ」
 興奮気味に話し出したミキオは、ナイジが何の反応も示さず顔色ひとつ変えないので徐々にトーンダウンしていく。自分ではビッグニュースをナイジに話し、感動を共有したいというより反応が見たくて、仲間を出し抜いてわざわざ教えに来たのだった。
 そんなミキオの自己満足的なお節介よりも、ナイジが気になるのは別のところだ。
「そうか、まだ届いてないんだ」
「なんだよ、そっちが気になるのか。 …それで、どうなんだよ、行けんのか、オマエはさ。オレは期待してるんだぜ、オマエが何かやらかしてくれるって。オマエだってそんな気になったからリクを差し置いて出る気になったんだろ」
 がっくりと頭を垂れる。――こりゃほんとに、賞味期限が切れそうだ――
 そのとき、リョウタがピットから声をかけてきた。
「おーい、ナイジ! 時間だ。ロータスの後ろにつけ」
 ひとつ前のロータスがピットレーンへ向かったので、最終走者である次のナイジはそのあとに続く。ミキオは車体から身体を離し、ボディを叩いてナイジを送り出す。
「みんな、少しでも長く、いい夢見てられるといいな」
「へっ。まあ、それぐらいのことしか言わないと思ってたけどよ。だけどな、このまま、夢のままで終わらせたら、オマエも不破さんもあとがないのが現実なんだぞ」
――ロータスにやられりゃ、みんな同じだろ――
 サイドウィンドを閉める直前に、ナイジは親指と人差し指を立ててミキオに応え、オースチンを点火しピット出口までクルマを運んで行く。
 ミキオも思わず同じように指を立てるが、その合図の意味するところが読めず、指先を見つめ首をかしげてしまう。
――なんだよ、親指と人差し指で立てて。1番じゃないのか…?――
 ミキオが不破の進退を持ち出したのは、別にナイジを脅すつもりも、余計な緊張を与えるつもりでもなかった。もともと、そんなことで圧迫に瀕するナイジでもないことはわかっている。
 この状況下でさえいつも通りの飄々とした受け答えをするナイジを見て、自分とは違う別次元を感じずにはいられず、つい期待をかけてしまう。
 馬庭も、不破も、そしてナイジの内なる能力を密かに知る者たちにとっても、大なり小なり自分の隠し手として利用しようとしている。
 自分がそんな手駒にされているとも知らず、まわりからの喧騒から離れ、ナイジは最速のワンラップを叩き出すことに集中していく。
 これまではそこが自分が自分でいれらる拠りどころであったはずだ。それなのに、ふと思い浮かべるマリの顔にナイジは息を漏らしてしまった。
――オレもなにやってんだか――