private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

T.T.F~F.M.M

2024-04-14 14:03:37 | 連続小説

「みてえ、おとうさん! すっごい、おおきなお月さま!」
 幼少の女の子が指さす先は、照明が消えた後のビル群の上、その比較効果のなかで大きく見える満月が明々と浮かんでいた。
 水曜日の午後9時。まだ3歳の小さな娘と散歩するには、いささか適した時間とは言い難いなか、手を引く父親は何かを含むようにして答えた。
 それはあどけない娘に語る言葉に適してはいても意中は別にある。
「そうだね。大きいね。もっと大きくなるといいね。そうすれば菫鈴の大好きなポテトグラタンがいっぱい食べられるかな… 」
「ホントー。うれしいー! スミレ、お月さまに行ってみたいなあ」
 風にあおられてブランコがギィーと、サビた金具が擦れる音とともに揺れている。
 父親は娘のあどけない望みに思わず言葉も詰まってしまう。何も知らないというのはそれだけで幸せなことだ。それが何も知らないまま大人に成ることを約束されたわけではない。
「ハッ、そうか。でもね、お月さまには行かないほうがいいかな。あそこにはね。うーん、そうだな、富士山と一緒だよ。遠くから見ていた方がキレイなんだよ」
「えーっ、フジさんじゃなくて、お月さま。行きたい、行きたい」
 父親は、困ったような、それでいて嬉しそうな、娘の成長を喜びながらも、いまのままでいて欲しいふたつの相反する思いがそこにあった。
 寂しそうな顔をして懇願する菫鈴を見ると、どうしても取り繕う言葉をかけてしまう。
「それじゃあ、大きくなったらお父さんと一緒に行こうか」
「うんっ! 約束だよ」
 そんな日が来るはずはないと父親はわかっていた。それは自分の今後の働きに関わってくることであり、同時に自分の力だけではどうしようもない部分でもあった。
 娘はテーマパークに遊びに行くぐらいの感覚しかないはずだ。『月に行く』その言葉の真の意味を知らないままでいて欲しいと願うばかりで、それは誰にでも起こりうる可能性があり、その時になり、はじめて真の意味を知ると同時に理解の範疇を越えることになるだろう。
 父親は単身赴任の命を受け、この地を離れることになる。次に娘に会えるのがいつになるのかわかず、妻にムリを言いこうして夜中の散歩に出かけた。
 その妻でさえ今回の赴任の本来の意味を知らない。もし説明したところで夢想家か、気が触れたとしか思われないであろう。
 そもそも、もし身内であっても誰かに漏らしたことが官庁に知れ渡れば、自分はもう二度と社会復帰できない。最悪には家族をも巻き込んでしまうかもしれない仕事であり、自分はそういった立場に足を踏み入れているのだ。
 毎日のように新聞を賑わす理不尽な殺人事件や、偶然の悲惨な事故で大勢が死んだり、行方不明になったりした記事を目にして、そのような目にあった人たちを慮ると同時に、ひとの運命だとも割り切ってきた。
 それなのに、この世界の食糧の生産は、そのよう消えていった人たちの労力で確保されていると知り、それを知らされた時には愕然とした。 
 子供の頃に、流行りのテレビ番組の影響で、宇宙を飛び回る仕事を夢見ていた。大きくなるにつれそんな未来は、まだまだ先のことと現実を理解していった。
 官庁に勤め、仕事になれはじめて結婚もした。そこそこの出世街道に乗ったつもりでいた。そんな矢先、まだ先のはずの未来はもうすでに過去のことであったと気づかされる。
 この世界は自分が思っていたよりも進んでおり、世間は自分が思っているよりも現実を知らない。知らないというよりも知らされておらず、知った者は二度ともとの世間には戻れないだけなのだ。
 夜の公園を駆け回る菫鈴は好奇心でいっぱいだ。昼間に遊んでいる時とは違う景色と未知がそこにはあり、誰も知らない自分だけが知った世界が、子どもにはたまらなく魅力的であり続ける。
 見えなかったモノが見えた時、それは落胆に変わるだけだといつかは知ることになる。いつまでもここを離れがたく、ポケットに手を突っ込んだままブランコを揺らし、菫鈴の走りまわり続ける姿をいつまでも見ていられたらと願わずにはいられなかった。

 スミレは目を開いた。カズさんがそこにいた。優しい顔にスミレは胸がしめつけられ、期せずして涙がこぼれてきた。
 子どもの頃の父との思い出は、何度も夢でみることもあったし、ふとしたことで思い出しもした。単身赴任の父親とは、これ以降、ほとんど接点がなくなってしまった。
 母親に聞いても、おとうさんはお仕事忙しいのよと言うだけで、スミレの前では冷静さを保っていた。夜遅くに電話で言い合っている声を聞いたのは一度や、二度ではなかった。あれは父親と言い合っていた。
「カズさん、わたし、、 」
 カズさんはスミレを抱きしめて髪を優しくなでた。何度も、何度も。
「辛い思いをさせたね。でもね、あなたにはもっと厳しい現実が待っている。それを乗り越えるために今回の経験をしたのよ。さあ、いきましょう」
 スミレはうなずいた。うすうす気づいていた。カズさんも自分自身だと。自分の居るべき場所に戻らなければいけない。これは通過点なのだ。
「この世界の未来は、あなたにかかっているの、、」