private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 7

2022-08-28 16:08:58 | 連続小説

R.R

「ああ、そうだよな。だけどさ、言い訳じゃないけど… 言い訳でいいけど。直前にタイヤ変えたんだ。さすがに山の中で滑らせるような走りじゃタイム出ないから。なるべく中ブルの選んだけど、それが予想以上にグリップして、それなのにそこを使った走りをした。旨みが多かったから。それが駆動系に負荷をかけていった。最終コーナーを回るころはそんなことアタマの片隅にもなかった」

 クルマに関しての論理的な説明はできないナイジでも、感覚的な説明はいくらでもできる。それを消化してくれる安ジイが聞いていることで安心して話ができる。
「タイヤの質を落すのは対ロータスを考えた場合、かなり厳しいし、次はこのタイヤを想定して、走り方を組み立てたい。立ち上がりで少しでも早く蹴り出さなきゃどうしても後手にまわっちまう。はじめは自分の感覚より早くコーナーの途中で突然グリップするから、コース幅を有効に使えなかったんだ。自分の想い描いた走りをするのに手間取って、ずいぶんタイムをロスした。だけど、最後の連続コーナーを考えれば、もうワンランク上げたいんだ。あそこで、目いっぱい踏み込めなきゃ… 自分の感覚じゃ、もう5メートル手前から踏み込んでいきたいし、3つめのコーナーでアウト側のギリギリまで膨らまないと4、5とスピードをノッけていけれない。ロータスを出し抜くためには、そこまで攻めなきゃ、勝つためには絶対に引けないところだ」
 ナイジの言葉を聞き、安ジイは席を立って何度か拳で腰のあたりを叩くと、オースチンのタイヤに向かい、その場で膝をついて触診をはじめた。
「ふうん、このコンパウンドで駆動系に負荷が掛かるか。もう少し質のいいタイヤじゃあ難しいな。無理なく走れるようにしとかんと」
 不破が馬庭から言い使って持ち込んだ新しいタイヤのことを、安ジイもナイジもまだ知らない。
「えっ、いいのか、そんなことしちゃって」
 ナイジも安ジイのすぐ後ろまで来て、驚きの言葉と共に中腰にかがむ。
「あのなあ、ナイジ。最初はオマエの腕と当時のタイヤに合わせて調節しておいたんじゃが、オマエの走りの腕も上がったろうし、より強い相手とやりあうためには案配が悪くなってきたな」
「そうなんだ。だからリアの流れの収まりが自分の感覚とズレてたし、コーナーの立ち上がりでグリップしてから次の挙動が固かったんだ。いちいち蹴飛ばされているような感じは、かなり不快だった。もっとスムーズに加速して行かなきゃ時間を無駄に使ってしまう」
 あっけらかんと話すナイジだが、半周でクルマの挙動を読み取って理解し、それを乗りこなしてしまい、しかも最終コーナーまでトップタイムに近い走りをしたことがどれだけ大変なことか。まるで気に止めていない様子には、さすがに安ジイも鼻から息を抜き脱力した。
「タイヤはもう少しまともなのにせんと。そうすると足回りに少し幅を持たせた方がいい。いくらヘタっていたとはいえ、何度も強い蹴り出しを駆動系がまともに受け止めたらそうなるだろ。今回の二の舞にならんように見直しをせんとな」
 手持ちのコマだけでトップレベルの走りができるのは、ある種の特別な力を持っている証なのであろう。安ジイにはナイジにそれをわかったうえで言っておきたいことがあった。
「なあナイジ、オマエはどんなクルマであっても、その限界を見極めて速く走る力を持っている。これはなかなかできるようなことじゃない。そして、それはもろ刃の剣だ。限界を知ってしまえばそれ以上を追い求めることはない。自分で限界点を線引きしてしまうからだ。だが、どうもそれだけじゃなさそうだな」
 意味深げな話の終わり方にナイジは顔をしかませる。
「なあ、ナイジよ。クルマも痛みを感じるってわかってるか?」
「 …イタミ?」
 ナイジはそんな突拍子もない言葉にすぐに反応してしまう。不具合を感じることはあっても、それがイコール痛みであるとは理解しがたい。弱った個所があったとしても、それをいったいクルマがどこで感じると言うのだろうか。
「そう、痛みだ。いいか、ドライバーが突き詰めようとするものなんて際限ないだろ。手頃なところで止めておこうとする自制心なんかハナッから無い。当たり前だ、オマエもそうだろうが、自分より速く走るクルマを放ってはおけんだろからな。だがな、自然の摂理では何かを足せば、別の何かが引かれる。そうやって帳尻が合うようにできとる。高すぎる要求はどこかに無理が生じる、コーナーでの旋回速度をひとつ上げるために削る体力、それはドライバーだけの話しじゃない。当然、もの言わぬクルマにだって負荷は掛かることになる。車体はねじれ、タイヤは擦れ、サスはたわみ、無理するほどに可動部分のすべてに痛みが走ることになる。どこか一箇所の痛みが増せば、そこを補わなければならないから、庇うように別の部分にも負荷が伝達していく。そこは人間と一緒だ、痛いだの痒いだの言わないが、それをわかってクルマと一緒になってスピードを上げてやらないと、怪我するのは人だけじゃないんだぞ」
 ナイジはなにか安ジイに見透かされたような気持ちになり、さり気なく左手を後ろのポケットに突っ込んだ。
「スピードを上げた分、何かを引いてやらなきゃいけないってことか。いや、オレ、自分のことばっかりでそんなこと考えもつかなかった。誰より速く走りたいって思うのは、ドライバーなら誰だってそうだろうけど。速く走ろうとすればするほど、神経も身体も張り詰めて走ることになる。どこかで抜いてやらなきゃ、そんな集中力が続くわけない。 …そうか、キツイのはドライバーだけじゃないんだ」
「そう言うこっちゃな。本当にうまいドライバーはな、うまくクルマの痛みを逃しながら走ることができるんだよ。無理をする前、もしくは無理をした後、手なずけるように、たたえるように」
 肩を落として安ジイの言葉を咀嚼するように考え込む。自分は自分の欲求だけを満たしている走りをしてしまった。それは単にクルマに無理を強いるだけの自分勝手なドライビングであった。
 マリに言われた言葉を思い出していた。いつかは限界に達してしまうし、永遠にタイムが縮まることはありえない。そんな当たり前の言葉の真意はそんな一般常識でなくて、もっと内なるモノの見方であった。
 ナイジが黙り込んでいるのを安ジイは静観していた。正しいも間違いもない、自分で何を判断するかだけだ。走りと共に、考え方も一皮むけるいいチャンスだと見ていた。
 走ってる限りそんなところに線引きするようなドライバーはいない。どのような状況であったも時間と空間に余裕を見つけ出して攻めつづける。しかしそれはドライバーの都合だけであり、実際にはそんなものは無いのかもしれないし、勝手な妄想なのかもしれない。
 それで無理を強いられるクルマにしてみればいい迷惑であり、あくまでもクルマと一緒になって突き詰めていかなければ、クルマが悲鳴を上げるところを見逃しドライバーが大怪我する。
 コーナーの途中で蹴り出された感覚は、オースチンからの警告であった。ねじられて歪んだ車体が真っ直ぐになろうとぶり返しを起こしていただけであった。それであるのに蹴り出しからの加速を利用して、コーナーを立ち上がってタイムを詰めていた。
「アンじい。オースチンはオレの代わりにイタんだんだな」
 工場の中にも緩やかな風は流れているようで、窓際に止めてあるバンプラを覆っているシートが緩やかに揺れる。それは湖の水面のように波打っている。音も無く。
「そうだな。ワシらはクルマに手は入れられる。だがな、それで何でもできると思ったら大間違いだ。わかった上で走らないと修理屋は神様じゃない、できる範疇ってものがある。まあ、オマエはオマエで自分にできる仕事をやっとけ」
 あごをしゃくりバラされたエンジンパーツの方を指す。
「あっ? ああ、昨日、寝ちまったな、一瞬で。ハハッ、やることやっとかないとな、オッサンに偉そうなこと言った手前さ」
 そう言うと、ナイジは立ち上がりカラになったマグカップを安ジイに戻し、パーツが並べられたバットの方に向かった。改めてクランクシャフトを手にして、空き箱の上に放置されたウエスを拾い上げ、汚れを掃って、掃除を再開した。
「予想以上だな、きれいに磨耗しとる。うまく乗ってきたもんだな。なあ、ナイジよ、知っての通り、ワシは余計な肉付けは好まん、だから、このクルマも余分な贅肉は何ひとつ付けておらん。それは、オマエの判断を鈍らせないためでもある。ドライバーを助けるために、クルマの性能を補う様な部品をひとつ付ければ、それだけ、人間の持つ潜在能力、秘められた感性がひとつ失われていくだけだ。クルマの素性を活かしてやれば、ちゃんと応えてくれるし、人は乗りこなすことが出来るのにな」
 ナイジが聞いていようがいよまいが、安ジイは気にせず話を続ける。
「だいたいクルマは、多少やりづらい部分があった方がいいんだ。少しの毒は人間の抵抗力を活性化させてくれる。良い部分と悪い部分が棲み分けることによって、人は偏ることなく、その中で最大限の能力を発揮することができるんだ。温室で育った人間には外敵から身を守ることもできんようになる。クルマの安定性が高ければ高いほど、ヒトはクルマに乗せられちまうんだ。そうするとな、ドライバーのアタマや、身体は鈍くなる。とっさの事に反応できない。そこで、軽く不安定な方向へ振っておく。これは口で言うほど簡単なことじゃない。正に技術屋の腕であり、微妙なサジ加減なわけよ。するとどうなるか、ドライバーは常にクルマと向き合って正の方向へ持っていこうとして、自分でクルマを御することに集中する。そのお陰で、鋭利になった神経が想定外の出来事にも対処していくわけだ」
 ひとつのシャフトを仕上げたナイジはそれをバッドに戻し、次のシャフトに取り掛かる。
「アンじいの実体験は戦闘機からきてるからな。オレなんか想像もつかない」
「フン、戦時中の戦闘機は、そういう造りをしてあったんだ。不安定な機体に全神経を研ぎ澄ませて長距離を操舵し、相手と一戦交えて帰ってくると披露困憊でフラフラになっとった。それでも生きて帰ってきた。帰還率が尋常でなく高かったのは、常に極限の集中力で戦闘機と対峙していたからだ。若くして多くのエースパイロットが生まれ、戦闘機もしっかりと整備をすれば何回でも飛ぶことが出来た。それが、軍の放漫を増長させる皮肉な結果となった。いつまでも旧型の戦闘機を飛ばし続け、エースパイロットを使い捨ての駒ように損耗していき、弱体化の一途をたどっていった。終戦間際の学徒動員兵士じゃどうにもならんかった。ふん、どのみち行ったっきりの飛行しかせんから、それでも困らんかったようだがな。こうしたら勝てたとかそんなことを言うつもりはない。戦争は悲惨で辛い記憶しかない。それでもあのパイロット達は、ワシにとっては国を護る神様みたいなものだった… 」
 安ジイが組み立てたオースチンに乗るようになって、真剣勝負をしたあとに、どっと疲れが出るのはそのせいなのかと妙に納得してしまう。
 当時から優秀な整備士であり、その時の経験が、今のクルマのセッティングにも応用できているという話しは聞いたことがあった。戦争の実体験を聞いたのは初めてで、あまりにも非現実的な話から見えたものは、せめて自分が整備した機械で人を死なせたくないという強い想いだった。
「あの日、オマエの隣に乗ったワシは、小さいながらも可能性を見ることができた。まだ、芽も出てなかったがな。オマエはクルマを選ぶドライバーじゃない、クルマを生かす走りができる人間だ。たいしたクルマでなくとも自分の走りができるように持っていける。それがオマエだ。だからこそ、このオースチンを仕上げる気にもなった」
 こそばゆいナイジは自分の頬を指で掻くと、そこにオイルの黒いあとが残った。
「この頃のドライバーは自分が楽するような装備を競って付けている。それに、まがい物のようなオイルやガソリンまで造られる始末だ。クルマの進化は止められん、ワシもそれを否定はせんが、多すぎる援助装置は同時に危険を察知する判断も鈍らせる。薬に頼りすぎる人間が、病気の本質をぼかしてしまい自己再生能力を消失してしまうのと同じようにな。だが、本当に怖いのはそれだけじゃない」
 シリンダーヘッドに取り掛かっているナイジも興味があるのか聞き耳を立てている。
「ナイジよ、人間ちゅうもんは適当なところで満足を得ることを知らん。すべては『過ぎたるは、及ばざるが如し』。ワシの若い頃に比べれば、今は何でも便利になったもんだ。湯をそそげばコーヒーも淹れることができる。だがな、そこだけが追及され、それだけが価値を持ってくるとな、人がひとつ便利を手に入れることで、多くの幸せが奪われていくことに誰れもが気付かんくなってくる。それが、一番恐ろしいことなのにな。この先、いったいクルマがどこに行ってしまうのか、つまらんことにならんといいが。まあ、新しい技術について行けん年寄りの戯言だ… 」
 ナイジは汚れだしたウエスを広げ、汚れの無い白い部分を探していた。安ジイは正面だけを見据えていた。手頃な白い部分を見つけ出すと、その部分を使って磨きはじめる。
「オレとアンじいとでは、出発点が違うから。オレ達はあるのが当然の世界に生まれてきた時点で、既に比べられない差がそこにはあるんだ。時間や便利が金で買える時代がはじまっていた。その分知恵が足りないもんだからアンじいには物足りなさや不安がある。常に今がスタートラインでオレ達は生きてるんだ。楽しみが欠落していくのはしかたないんだろう。アンじいが言うそれが自然の摂理ってヤツなら、オレ達はなにか便利を手に入れるたびに、目に見えない何かを失くして、それに気づいた時にはもう取り返しがつかなくなっているんだ」
 安ジイは悲しそうな笑いを含んでいた。
「クルマの進歩の差で速さに優劣がつけられるようになったら、ドライバーの本質は今とは違うところに行ってしまう。そうやって、自分達が知らない間にエレベーターにでも乗って、違う価値観の場所へ大勢で運ばれていくんなら、そりゃ、受け入れがたい話だ。それが、世の中を動かしていると自負している一握りのヤツラの企みなら尚更ね」
「ふっ、ほらまた、ソッチへ持ってくなオマエは。まあ、わからんでもないが、若いうちは体制に対し穿った目を向けるもんだ。いいか、そうは言ってもな野に放たれ自由になった羊は、しばらく自由を謳歌するが結局は不安になり帰属を求め、ほっといても自ら檻の中へ戻ってくる。人もこれと同じだ。その結果、一握りが羊を支配し、野生を求めた羊は屍となる、これもまた自然の摂理だ」
 “それでオマエはどうするつもりなのか”と選択を求められている気分になった。檻に戻るのか屍になるのか、羊であれば、その二択しか用意されていない。羊以外なら自分もまた同じ穴の狢である。妙に絡まる空気がわずらわしくなってきた。
「それはある意味、いまのオレには消化できず、そしてある意味すでに消化済みになっている。オレは自分で選択しておきながら、決められた行動パターンを繰り返しているだけだから」
 うつむいた顔から灰色の瞳がナイジを見上げた。
「そんな、目で見ないでくれよ。これまで生きてきて染みついたタチは簡単に抜けるもんじゃないだろ。ただ、それをわかった上でやってくのと、知らないまま踊らされるのじゃあ雲泥の差だ」
 安ジイの思考は過去と現在とを行き来していた。ナイジの青臭さが自分を若かった頃へと引き戻してく。そうでありつづけたかった自分、もうそれを止めようとしている自分。知らない内に二面性を造り出していることに気付いていない。それを若さという括りで終わらせるのもしかたないのだろう。
「オマエがそれでいいならワシはなにも言うことはない。オマエも気付いていると思うが、多くの人間がオマエの、まだ見えざる才能に期待し神輿に担ぎ上げようとしとる。そうすると、聞きたくない言葉も耳に入ってくるし、利用しようとするヤツも出てくる。上手く立ち回ることができんオマエは引きずり込まれるだけだぞ」
「オレは何も世の中をひっくり返そうだなんて思っちゃいない。ただ、世の中をいいようにかき回してるヤツらのコマにはなりたくないだけだ。オレがあのサーキットの鍵になるのだとしたら、どこでオレの手中にあるその力を見せつけるか決めることができる… 」
 ナイジの顔は決して欺瞞に満ちたものではなく、言葉からは真逆で寂しげであった。神輿に担がれるのも、引きずり降ろされるのも自分の範疇ではない。勝手にまわりが動いているなら、それをやめさせる権利だけは行使したかった。
「ワシはこれまでにも、力があってもそれを出し切れなかったヤツ、無いなりの力で精一杯やり切ったヤツ、そして、有り余る才能を存分に発揮したヤツと、多くの範例を目にしてきた。そいつはすべて、ソイツ等の人生だ。他人のせいにすり替える気持ちもわからんでないが、乗り越えれんヤツは、結局はそれだけのモンでしかない。オマエが自分をどうするのかは自分次第で、どんな結果が出ようともそれがオマエの人生だ。それを受け入れられないならば、何をしても成長は無い。それは留まりつづけることより無意味なことだろう」
 ナイジは何も返事をすることはなかった、ヘッドカバーを磨くリズムが時折不協和音を起こす。しばらく経ってから小さくうなずく。深く刻まれた皺の奥から覗く安ジイの消耗した瞳が優しく受け止めていた。


第15章 6

2022-08-21 15:57:01 | 本と雑誌

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R.R

「おい、ナイジ。いつまで寝とるんじゃ。そろそろ起きろや」
 懐かしい声を耳にして覚醒をはじめる。陽の入らない工場内では、照明が落されていれば朝になっても薄暗いままで、まわりの様相もうかがいづらい。
「どこでも寝れるのは変わっとらんのう。器用なやっちゃ」
 ナイジの目覚めはオースチンのシートで迎えた。さすがに座ったままでは長いあいだ眠ることはできず、自分でも無意識のうちに助手席を倒してもぐり込んでいた。
 なんとかできたのはそこまでで、背もたれに体をあずけたままドアを閉めることもせず、それだけを見れば、不気味に飛び出た二本の足に遭遇することになり、殺人現場を思わせる光景だ。
 スルスルと足が引っ込んだかとおもえば、アタマからゆっくりと姿を現す。霞む目を擦ると、コーヒーを入れたマグカップを持つ安ジイの姿が目に入る。久しぶりの対面で、あいかわらずのしわくちゃな顔は表情もなく、きっとそれはあきれた面持ちをしているのであろう。
「アンじい、なんだ、まだ生きてたんだ」
「朝イチにからその言い草か、減らず口も変わらんな。せっかくコーヒーまで淹れたやったのに、やらんぞ」
「年寄りが二杯も飲んだらカラダに悪いから。もらっとくよ」
 手元に引いたマグカップを奪い取るようにして手にすると、ひとくちふたくち流し込み一息ついた。
「あー、うめえや。アンじい、コーヒー淹れる才能もあったんだな」
「ぬかせ、ただの即席だ。近頃は便利になったもんでな。湯さえ入れりゃ、ワシのような老いぼれでも、うまいコーヒーが淹れられる。そんなことよりオマエ、昨日、えらく活躍だったそうだな。ワシのとこまで伝わってきたぞ。まったく、レースに出るなら出るって連絡ぐらいしろや。オマエのオースチンはワシが最後に仕上げた大仕事だ。これでようやく日の目を見ることになった。半分諦めかけとったが、オマエも少しはやる気になったみたいだな」
 両手でマグカップを囲い込み、口につけたまま、しばらくその状態で止まった。コーヒーから上がる湯気が優しく顔をなでていく。やる気になった動機はいろいろあっても、それがよこしまなものでは口に出しづらい。ついつい憎まれ口と、言い訳に終始してして安ジイの訊きたい部分をはぐらかしてしまう。
「なんだよ、サボんないでレースの日ぐらい足を延ばせばいいだろ。年寄りが家にこもってても、いいこと無いぜ。今回は突然だったからさ、オレが不破さんに無理言ったんだ」
「ふん、そうらしいな。しかし、オースチンを壊したのは旨くなかったな。なにやらかしたんだ?」
 そこを言及されると当然想像がついていた。安ジイであっても自分の特異な体験をどこまで理解してもらえるか自信はない。
「やらかした… それはレースの前のことで、走る前に気にはなってたんだ。それなのにとどまることができなかった。コイツには悪いことした。理由や原因は色々あるけど、それはすべて自分が飲み込まれていたからなんだ。サーキットに覆い尽くされた流れの中に。やらかしたことより、オレにはそれがどうにも… 」
 安ジイは深く目を閉じた。多くのシワと一緒になって、どこが目のあったシワなのか探すのが困難なほどだ。
「ふんっ、らしくないのう。オマエはいつだって、そういうものから一歩引いた場所に身を置いとった。何があった? こんな老人を引っ張り出したのは、あながちオースチンを壊しただけの理由だけじゃないはずだ」
 ひとつひとつの出来事が、頭の中で写真がめくられるように映し出される。それらは時の流れとともに、記憶の映像が薄まっていき、やがて彩度を失ってしまのに、忘れたくないものに限って鮮明に残ってしまう。そうなれば、ふるいに掛けられ底に溜まった残滓は、振り返りたくない記憶だけになっていく。
 そんな経験を継続していくことなど誰も望んでいない。ナイジがこの状況から一日も早く脱出しようとしているのは明らかで、安ジイもクルマのことだけでなく、そこにも手を貸してやりたいのは山々だ。
「 …なんだかいろんな人と関わった。この二日間はそれが集中したんだ。暗躍する何者かの的になったみたいに。ある意味それはオレのために用意されていたようでもある。オレがもう行き場がなくなってなんともならなくなっていた時に、それは現れたんだ… 」
 その起因になったのはマリとの遭遇であった。だからこそ引けない想いもある。自分がそこを拠り所にしたのは否めない事実だ。
「いつのまにか危険な領域に入っていると感づいていたけど止められなかった。何者でもなかった自分が、何かに変わろうとした。これが最後のタイミングなのかもしれないって焦ったとこもある」
 誰かに胸の内を聞いて欲しかった。しかしそれが誰でもいいわけではないし、正解や助言なんてものはいらず、ただ聞いてくれるだけでよかった。
 その部分をマリに託すのはお互いに荷が重く、とはいえ安ジイにその役目を担って欲しいと口に出すのも言いづらい。向こうから振ってもらえたことでタガが外れたのか、思いは一気に流出する。
「オレはそんな状況をまったく求めていないわけじゃなかった。もうそろそろ、なんらかの結論を出さなきゃって機をうかがっていた。そうでなきゃ、もう身体の中の澱みがそのまま腐っていくだけだ。自分でも驚いてる。動きはじめたら連鎖反応が起こったみたいに扉が開いていくし、何か行動を起こせば次々と誰かに関わり、誰かが関わってくる。まるでビリヤードのホールショットだ。ひとつの出来事が次の事象を呼び、それが次の展開へつながっていく」
 安ジイの顔を見る。最小限の動きで息をしているその表情は、話しを聞いているのか、いないのか。それでもナイジは構わない。
「そうしてオレは最後にはレースに出て、どうやら多くの人に影響を与え、次の思惑へと乗せられようとしている。不思議じゃないか、オレがもし何かひとつでも別の判断をすれば、例えば、あの土曜の夜、ロータスとやりあわなきゃ、今とは違う世界が進んでいたんだ。オレはあいかわらずリザーブやってて、オースチンもこわれることなく、アンじいと次に合うのは… どうかな、葬式の日とか」
 安ジイは表情も変えず、葬式に来る気あるのかと訊いた。ナイジはどうかなとあいまいに答える。
「例えだよ、例え。だからさ、大なり小なり世の中はそうやって回っていくんだろうけど、自分を中心に振り返っていけば、そういうことになる。他のヤツラからみれば、オレの判断はなんの意味も持たないし、かえって迷惑な関わり合いでしかない。リクさんだって、ここのオヤジだって、安ジイだって、 …そうだろ?」
 安ジイは2ミリほど眉をあげた。孫ほどのナイジに人生を知ったように語られても、それを軽んじたりするつもりはない。それをみてナイジはコーヒーを口にする。昨日からの流れを反芻しながら、翻弄されているちっぽけな自分を披露するのは安ジイだからこそ言えることだ。
「自分がどこかで求めてたんだ。だから、呼び込まれて、迎え入れた。乗っかるつもりはあったけど、飲み込まれちまったのは自分でも意外だった。一線を引いているはずだったのに、そうじゃなかった。結局、オレも、誰かが仕組んだサーキットの歴史の一部に組み込まれるたったひとつのカケラなんだ」
 ナイジの言葉が出きったところで、安ジイの顔の、シワの下の部分から言葉が漏れてきた。
「ナイジよ、現実ってヤツは、ひとつっきりだ。あーしてたら、こーしてたらなんて、ワシぐらいになってから後悔してればいい。すべてには理由があって今につながっている。オマエが判断してきたことは、そうしなければならない理由があり、それ以外は在り得ないはずだ。周りで関わったヤツラだって同じことだ。選択できる道はいくつもあるがたどり着く場所は、誰にだってひとつだけだ」
 安ジイの言葉だけを耳でとらえて、ナイジはマグカップに揺れるコーヒーの表層を見つめていた。安ジイの言うように割り切らなければならないのはわかっていても、いまはまだ素直に認められない。
「せっかく、開けた扉だ、結論を出せ。そして、オマエ自身の行動がサーキットの歴史に刻まれるようになれば、ものの見方も変わってくる。不思議だがいまその手札はオマエの手の中にあるんだ」
「 …そう言われてもな。オレにはなにひとつ実感できていない。次の闘いでそれが実感できるなら、オレにはもうその選択肢以外なにも考えられない。オレの手の中にあるのは手札じゃなくて手詰まりだ」
「ふん、オマエも相当に追い込まれてたんだな。追われるようにあがき出したら、ここまで来たがそこに自分の意思がどれほど関わっていたのか疑心暗鬼だ。オマエは従属されることに対して、過剰に反応しすぎるきらいがあるからな。どこかで根強く植え付けられたのか、もともとがそういうタチなのか知らんが、余り深く考えるのも善し悪しだ。人の業は複雑だ、一面では計り知れん。張り巡らされた無数の意図がからみあって現実を形成していく。オマエもその一部なのは間違いない、もちろんワシもだ、かなりフチの方に追いやられたけどな。今のオマエがなんの干渉も無い日々を過ごそうとするには、その才能がジャマをするだろう。手の内に置いておきたいとする、鼻の効くヤツラが放ってはおかんだろうからな」
「才能って… だからオレは自分の才能なんか信じちゃいないんだよ」
「それでいい。そんな奴は身を亡ぼすだけだ。ただな、人と絡むのが怖いのなら何もするな、そうすれば世間はあっという間にオマエを死人にしてしまう。それはまだ無理なハナシだろう。そう思えば、何かに組み込まれていけばいいだろ」
 丸まった言葉で多く伝えようとする安ジイに、ナイジは抵抗しながらも心は落ち着いていく。必要以上に言葉を補填しなくても会話が成り立つことがさらに口を軽くしていく。
「そうだな、縁側でアンじいの茶飲み友達になるにはまだ早過ぎるし遠慮しとくよ。オレもアンじい以外にかみ合う相手がいないけど… いや、ここのオヤジとは全然かみ合わなかった。それどころか、かなり嫌われっちまった」
「権田か、アイツは一本気で真面目なヤツだからな。もう少し遊び心があってもいいんだが、オマエのようなクソ生意気な若造は相容れんのだろ。しかし、腕は超一流だ、ワシが目をかけて直々に仕込んだんだからな。まあ、後のことはワシが上手いことやっとく。手は出さんが、口は出すのが老人の悪いところだ」
「頼りにしてるよ、アンじい。どのみちオレじゃクルマのこと何の言葉にもできないし、あの人を動かすすべもない」
 安ジイにお礼を言ってすぐにアタマの中は別のことを考えていた。深くアタマを下げたかと思えば、顔を上げ横目で何かを探している。そのまま、しかめっ面になり再びアタマを下げる。
 安ジイは変に焦らせることも無く、ナイジの表情を観察し、心の動きを注意深く読み取って、口が開かれるまで静寂で応えた。何度も開きかけた口から、ようやく空気を震わせ安ジイの耳に伝わってきた。
「あのさ、オレがレースに出たのは、自分のこと以外に、いやそれ以上にもうひとつ理由が… 理由っていうか。オンナなんだけど」
 ナイジが言いあぐねた言葉でも安ジイは微動だにしない。言いづらそうにしているのは未だ自分の中でも整理がついていないからだ。安ジイの眠っているような表情は静かに時を待った。
「アンじい、昨日、アンじいを頼らずにすんだのも、そのコがいたからなんだ。取ってつけたような言い分だけど、突然、ほんとに突然、彼女が現われて、オレはかなり救われたんだ。オレも彼女の言い分が良くわかったし、彼女にも自分のことを話せた。オレの言いたい言葉が吸い取られていったんだ。もう少しで腐蝕してしまうところだったオレは、つい、いい気になって自分の膿を放出していった。そうしてくれるマリを、彼女の善意だと決め付けて… なんだよ、アンじい、笑うなよな」
 照れくさいナイジではあるが続けないわけにはいかない。
「まあ、それで、オレはずいぶんと楽にはなれたんだ。勝手な思い込みなんだろうけど、しょせんはそうやって延命を繰り返していく、彼女に自分の引き鉄を任せたんだ。そうでもしなきゃ、どっちに進めばいいのかわからなかったのも事実だったし。ずるい考えだ、結局、大事なところを人に委ねている」
 口の中の水分が一気になくなり、コーヒーの残りを飲み干す。
「その娘、志藤先生の親戚の娘みたいで、医務室でパートして働いてるんだって。知ってる?」
 最後は照れを隠すつもりか、どうでもいいような情報を継ぎ足していた。安ジイはゆっくりと首を横に振り口元のしわを伸ばした。
「へっ、そりゃよかったな。老人とおるよりオナゴとイチャついとった方がええに決まっとる。男が何かやろうとする唯一無二の理由はオンナだ。オマエもご多分に漏れんと見えて安心したぞ。ワッハッハッ、しかしオマエの言葉を受けるたあ、なかなかのオナゴだな。なるほど、それで、随分と埃も払われたみたいだし。ただクルマに関してはそうはいかんからワシを引きずり込んだな。随分と簡単に使いまわされる身になったもんだ」
「妬くなよ、週末までピッタリ一緒にいてやるからさ」
「たわけ、老体なんじゃから、そんなに働けるか。ほっときゃコキ使おうとするなオマエは。まあいい、それでクルマの何が気になった?」
 そうしてナイジは、やはりレース前の感じた引っかかった感覚について話さなければならないと意を決した。
「さっきも少し言いかけたんだけど、ああ、ここのオヤジさんにも伝えたら、変人でも見るような目でみられて寝言扱いされたけどね。オレ、いつも走る前にさ、オースチンのことを脳内に浮かべてみるんだ。いろいろとね。そうするとあらゆる接地点から今のクルマの状態が伝わってくるんだ」
 安ジイのシワがピックっと動く。ナイジは言葉を止めても安ジイは続けろとばかりにアゴをしゃくる。
「ステアリングから伝わるときもあるし、スロットル、ブレーキやクラッチの場合もある。シフトノブ、シートの奥からだって。あのときはどこからか忘れたけど、リアのデフかドライブシャフトの辺りでほんの少し、引っかかる感じがあった。継続的じゃなかったし。そこで、クルマを出すタイミングになっちゃって。オレもいつも以上に入りこんでたんだ。不破さんに急き立てられ、頭が走るほうに切り替わっていた。それで、そのことを閉じ込めてしまった」
 横目でチラリチラリと、それからの安ジイの反応を確かめながら話していった。最初の反応以外は微動だにしなかった。
「厄介な話しだな。普通なら気付くこともなかったことをオマエは気付いてしまった。そいつはな、結果が出なきゃ、結論は出ないハナシだ。自分以外、誰もまともにとりあっちゃくれねえよ」
 素直にうなずくナイジ。それは安ジイがなんらかの結論を導き出してくれるという信頼感があるからだ。
「なあ、ナイジよ、この歳まで生きてるとな、大概のものは目にしてきた。なにが起きても不思議じゃあない、すべてが現実だった。ワシは人の持つ能力には、突き当たりは無いと思っとる。どうやら、凡人では本当に使える能力の1割も使かっとらんそうだからのう。この奥に秘めた能力ってやつは、繰り返し鍛練していくうちに尋常ではない力を発揮するらしい。そのくせに普段から無意識のうちにやっとることを、ひとつ順序を変えただけで同じことができんようになるからおかしなモンだ。頭で考えようとすることで、多くの経路を伝いその分抵抗が増え、瞬発的な力に変わらんくなるんだろう」
 何度も相づちを打ち、聞き入るナイジ。
「なんかわかるよ、それ。リクさんの電話番号とか回す時なんか、いちいちアタマで考えなくても手が勝手に動くのに、番号を教えてって誰かに言われたとき、数字が出てこなかったんだ。空でダイヤル回す真似して、番号思い出して。そんな感じ?」
「フッ、ややこしい例えだが。まあそんなようなもんだ。自分の持つ能力の最初の熱量を減らすことなく、全身に行き渡らせることができれば、人間の可能性はもっと限りなくなるんだろ。それとは別になるが、オマエもまだまだだったな、自制心が欠落しちょる。危機回避能力がドライバーに取って何よりも優先されるんだ。そこを切り捨てるようじゃあ、その能力も宝の持ち腐れだな。せっかくクルマが教えてくれたのに、それを活かせれなんだとは」
 そう言って嗜める安ジイではあるが、そこまで行きついている能力には舌を巻いていた。自分でも機械の声が聞こえるようになったのは晩年になってからだ。ナイジが出来ている範囲がどれほどまでかは知らないまでも、この若さでは驚異的な能力といっていい。
 日ごろからの反復練習の繰り返し、果敢に攻めることで失敗してもそこから導き出した次なる一手、そして極限まで高めた集中力が身を削ることになろうとも突き詰めていく。そういった学習経験がナイジに他人よりは数段速くその能力を植え付けていったのだろう。
――本人はそれをふつうのことだと思ってやってるだけだろうがな。――


第15章 5

2022-08-14 18:52:05 | 本と雑誌

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R.R
 

 事務所から出かけたところで思い直し、事務机に戻ると、もう一度受話器を取り上げそのまま電話機の上に縦に置く。これでもう邪魔が入ることはない。権力者達のお願いのオンパレードにはほとほとウンザリしていた。
 そうすると権田は事務所を出て、真っ直ぐにナイジの元へ歩を進めた。上目遣いで権田を見つづけるナイジ。その瞳は変に突っ張ったり、大人びたマネをするためだけに権田をけし掛けたとは思えなかった。冷静で澄んだ深い瞳がそこにあった。
 自分が望む目的を遂行するために、未熟ではあるがヤツなりの一途な行動だったのか。そうだとしてもそれをすぐに受け入れて、話しを聞いてやる気にはなれなかった。
 ナイジの前で立ち止まる権田。左手をやけにダランとしているのが気にかかる。手のひらで受けただけのはずで、それほど強い衝撃があったとも思えない。
「みんなどうして今週末にこだわるんだ? そうでなければ、時間に追われる必要はないだろ。別に次のチャンスを見据えれば、オマエだってやりようは幾らでもあるはずだ。オレとつまらん駆け引きする必要もない」
 一度深く目を閉じ、ナイジはどこまで話すべきか考える。
「そうじゃないんだ。すぐ次じゃなきゃダメなんだ。大きな流れが、すべてそこに集結しつつあるのが誰もがわかってる。決められた範囲で結果を出すことでしか何もはじまらないし、終わることもできない。そんなニオイを感じてるんだ。ロータスのヤツだって、不破さんも、それにサーキットの黒幕、マニワだったか? だからみんなそこに照準を合わしてる。アンタだって薄々感じてるはずだろ。これにノラなきゃどうにも落ち着かないってことに。だから尚更なんだろ… 」
 ナイジは大きく肩をおろして息をつく。権田は首を左右に振った。
「ふん、洒落た言葉を使ってりゃ、それなりに大人の世界に首を突っ込んで悦に浸れるつもりか。自分が何でも知ってると言わんばかりだな。オレがマヌケなバックマーカーだと知らしめて、焦らせようという魂胆か?」
 ナイジはこの先、わかり合うことは無いほどの大きな隔たりを権田からかぎとっていた。自分の物言いが悪いのは承知の上でも、このときばかりは歯がゆさが身につまされていた。
「オレはっ! …感じたことを包み込むほど人間が出来てる訳じゃないし、事実を捻じ曲げるほどヒネちゃいない。それに、したいことを誰かの目を伺ってガマンできるほど『それなりの大人』でもない。ただ、それだけなんだ、 …そうだろ?」
 何故そこで自分に賛同を求めてくるのか、権田は笑いそうになるのをこらえる。自分が言っているように確かに物言いは悪く、年配者がそれに賛同すれば自分が折れたと認めなければならない。そんな雰囲気を作ってしまう自分にも納得がいっていないのは御愛嬌というところか。
 安ジイぐらい年が離れていれば、血気盛んな若者の言葉として扱うこともできるのだろう。権田は自分にはまだその器量がなく、相手を立ててまでも事をうまく運ぶ方を選ぶことはできない。
「そんなことは、知らんよ」
 ナイジにそう問われれば、そう返すしかない権田であった。そうであれば自分はもうヤツの手の中であることを認めているようで苦々しかった。
――気に入らねえヤロウだが、レーサーとしての気概だけは買ってやれるがな。――
 そして空白の時間だけが過ぎていった。先に口を開いた方が負けのような雰囲気がそこにはあった。
 ナイジはクルマをドライブすることへの関心はあっても、仕組みや構造には疎く、他のドライバーならそれなりに自分達でカスタマイズしているのに、自分では何もわからないためヘタに手出しもしなかった。
 安ジイが手を掛けたっきり、ロクに整備もしていない状態で、これまで走り続けれたのは、安ジイの初期セッティングのレベルの高さと、クルマの現況を読み取り限界点で走ることができるナイジ。このふたりだからこそなしえた協業でもあった。
 例えどんなクルマであっても、その特性を瞬時に把握し、弱味を消して、強みを活かせる走りができる。走行前にクルマとツナガる、ナイジ独自のセッティング方法がそのドライビングを可能にしていた。
 タイヤを代えてグリップの良くなったオースチンをあっという間に手なずけて、ジュンイチの心配もヨソに、2周目の本ラップで早速、最速タイムを出しかけたことがそれを物語っている。
 それだけに、タイヤを変えたばかりのオースチンの駆動系に負荷をかけて、壊れるまで走り続けてしまったのは、レースに勝つという別のバイアスに自分が飲み込まれてしまっていたと認めざるを得なかった。
「しかし、こんなんなるまでコキ使われて。オマエも災難だったな」
 権田が、オースチンの後部を手でなでて覗き込む。自分の失敗の度合いを検分されていくことに、ナイジは歯がゆい思いだ。つい言い訳のように走る前のあの違和感を、そんな話しはけして権田に受け入れられるはずもないのに口にしてしまった。
「レース前に感じてたのに… いつもやってるんだ。シートに座ってクルマの隅々まで神経を張り巡らせて探っていく。あの時、後ろの方で嫌な感じがあった。微かな痛みの声が伝わってきたんだ… あの時の感じを意識の片隅に残しておけばよかったのに、自分自身が昂ぶっていたし、なんとかなるだろって、甘く考えてもいた。そのタイミングでピットアウトを余儀なくされたことも言い訳に過ぎない。それに、どれだけ準備をしていても、あの状況でスロットルをコントロールできたのか。そう思えば自爆は、ヤツに勝つためにわずかな奇跡に賭けてしまった自分への報いなんだ」
 ナイジと会話を交わすほどに権田の反目は強くなるばかりだ。一度ずれた会話の掛け違いから元の軌道に戻るのは難しいといえた。
 ナイジが何かを伝えたい思いは感じられる。しかし権田にはナイジの話しをまともに取り合うことはできなかった。それを丸ごと飲み込んでしまえば、この若造の特異な能力を認め、自分の仕事を否定することになってしまう。
「オマエ、何を言ってるのか自分でわかってんのか? そういう話しは布団の中でひとりでやってろ。やっぱりあれか、気違いとナントカは紙一重だな」
 ナイジの力量をまだ目にしていない権田は、見てもいない能力を認めるわけにはいかないため、あえて『天才』の方をぼかした。
 ナイジはしばし、押し黙る、言うべき言葉を慎重に模索している。工場に染みついたオイルの匂いに身体が慣れてきたらしく、ようやく気にならなくなっていた。
「ひとりよがりなのはわかってる。それでもアンタなら受け止めてくれるのかもと思った。オレは感じたことをそのまま言葉にすると、その感覚が身体から抜け出てしまうんだ。自分でも不思議と思えることを言えば、誰も信じるはずもなく、かわいそうにその感覚が宙で行き場を失っていく。じゃあどうやってそれを相手に伝えればいい? オレには何も見えていないし、見ることもできない。でも、感じることはできる。何を使えばいいか、どれが使えないのか。そこでは、正しいとか間違っているという判断は何の意味も持たない。だからヤツより速く走ることができるって後押しが欲しいだけなんだ。アンタからその言葉が聞きたいんだ。その自信があるんだろ? これは、皮肉じゃない。そうだろ、不破さんがアンタに頼んだってことは、アンタにはそれだけの能力があるってことだ」
 権田は顔を歪ませる。
「アンタ、アンタって、馴れなれしいんだよ。それに、あいかわらず禅問答のような言葉をならべて、ケムにまこうってハラか。そういったシャレた言葉あそびはヨソでやってくれ。誰も彼もがそんな機知にとんだ会話を好むわけじゃないんだぜ」
 精一杯の厭味を言ったつもりの権田だったが、ナイジは何が気に入らないのかが理解できていない。これまでに経験してきた言葉の壁を再び味わう。
 いままでも言うべき言葉を選んで話すようにしてた。変に理屈を捏ね繰り回すつもりも、言葉で相手をねじ伏せるつもりない。ただ、本心をそのまま言葉であらわそうとすれば、誰もが変わり者だと色眼鏡でみてくる。そして結論的にはを相手を不快な思いにさせてしまう。
 やはり権田にもそれがうまくつたわらない。これまでならそこで線引きをしていたが、今回は簡単に断ち切るわけにはいかなかった。戦うための手段は少しでも持ち手に加えておきたい。それなのに、喘げば、喘ぐほど泥沼にはまっていくようで簡単には次の言葉が出てこない。
 なぜかマリには自分の気持ちを10言わなくてもそれ以上に理解してくれる。あの言葉のやり取りに随分助けられ、楽になっていたところが今は裏目に出ている。
 だんだんと痛々しい表情に変わっていくナイジに、権田も気勢がそがれていった。この若者が多くの大人の気持ちを捉え、勝ち馬に乗ろうという思惑を背負わされているのかと思えば、少しは不憫にも感じられる。
 権田は、もはや、なんでもいいから、仕事に取り掛かるキッカケだけが欲しかった。
「まったくよ、大人びてんだか、成長しきれてないのかよくわからんヤツだ。オマエだってオレと不毛な言葉のやり取りしたってしかたないとわかったろ」
 ナイジはしばらく体を動かさずに権田を斜に見ていた。そして絞り出すように一言を発した。
「オレにチカラを貸して欲しい… 」そう言って少しアタマを下げた。それがナイジにできる精一杯であった。
 権田はカラダが痺れる感覚を抑え込むようにアタマを振って、そんなナイジを押しのけるとオースチンのドアを開き、ボンネットのロックを外す、軽く浮き上がったボンネットとボディーの隙間に手を入れ、エンジンルームを開く。
 つい立になる治具でボンネットカバーを固定し、大腿部にあるポケットからペンライトを取り出すと口に咥え、内部を繁々と見回しはじめた。
 軍手を外した両手でエンジンルームにある機器をひとつひとつチェックしていく。当然のようにヒーターが外されており、剥き出しになったエンジン周辺は綺麗に経年劣化している。
――なるほどな、そうゆうことか、外観からは考えられないほど、きれいに消耗しているな。意識してそうしたわけじゃないだろが、正しくクルマをドライブしたことで、自然とこうなった。もしくは、ヤツのドライビングスタイルが元々クルマに優しい走りだということか。――
 権田は腰を立て、両手を組んだ。ナイジはあごを引いたまま権田の動きを眺めていた。
「何か、気になるとこがあるのか?」
「いいや、別に。ただ、こんなもんだろうと。なあ、オレは依頼された仕事は手抜かりなくやる。オマエがもし、プラスアルファを望むのなら、つまりゼロスタートからのアドバンテージが欲しいなら、それはオマエの領分だろ。オレが手をかけるにはやれる範囲ってモンがある、オマエは気に入らんだろうが、時間との兼ね合いってやつだ。ひとにそれだけ意見するんなら、少しは自分で汗かいてみろ」
 ナイジはキツネにつままれたかの如く、キョトンとする。
「オレが? オレにできることがあるのか?」
 呆れたとばかりの権田は肩をすくめる。
「あのな、クルマの内部なんて基本的にそれほどたいしたモンじゃない、しょせん金属が組み合わさって駆動につなげているだけだ。加速を良くするには、そう、駆動を邪魔する抵抗を徹底的に少なくする、その小さな積み重ねをおろそかにしなきゃ、最後のひと伸びが変わってくるだろう。天からのおすそ分けってやつだ」
 ナイジは鼻を掻いた「似合ってないけど」。
 権田はムッとしながらも「オマエに合わせてみただけだ… いいか、エンジンを降ろすぞ、手伝え」。
 手際よく天井から吊り下げられたクレーンを引っ張ってくると、エンジンをくくり付ける。ドライバーなどの工具がサイズ別に並べられたトレイをエンジンの上に置いて、一つ一つ接続部分を取り外していきナイジに手渡すとそれをパンの上にボルト・ナット・ワッシャーなどの治具を整然と並べていく。
 ナイジは初めて見る光景ではあるが、それがかなりのスピードで行われていると容易に想像がついた。ひとつの無駄もない動作、的確な工具を選び、錆付いたり、山の欠けたネジを魔法でもかけたかのようにあっというまに外していく。
 ナイジにクレーンを曳かせエンジンを持ち上げる。権田は接続部分を丁寧に切り離し無理が無いかを確認しながら接続部分をパージしていく。
 持ち上がったエンジンをベンチの上に移し固定するとエンジンヘッドをはずす作業にとりかかった、中からクランク・シャフト・シリンダーヘッドを取り出しバットの上に並べる、最後にカーボンがこべりついたチャンピオン製のプラグを外した。
「このウエスを使って、汚れを落すんだ。どこまでやるかはいちいち言わない、オマエが納得するまでやればいい。軍手は使うなよ、素手でやるんだ、糸くずが付着する。ただし、手を切らんように気をつけろ。オレは仕事の続きをやらなきゃならんから、もう邪魔するな」
 ナイジにウエスを手渡すとイタリア車に向かってしまった。しばしウエスを手に状況の把握に努める。とりあえず汚れが一番少ないシャフトを手にして汚れを拭ってみた。しかし、思ったとおり簡単には汚れは落ちない。転がっていた空き箱を持ってきて椅子代わりに腰掛けて、ウエスのきれいな部分を使って何度も拭うと多少は汚れも落ちてきた。
 しばらくの間は身体が無意識のうちでも一連の動作を繰り返すことができたが、腰掛けたことで疲れが一気に押し寄せ脳内の血流は鈍り、しだいに意識が遠くなっていく。
 その中で昨日からの出来事が何の連続性も持たずコマ送りされていくのは、脳が勝手に記憶を整理したがっているからなのだろうか。
 フラッシュバックする映像に吸い込まれていくと、気付かないうちに目は閉じられ何度も頭が落下する。その内に脳が機能の停止を求め、身体は行動を拒否しはじめる。
 壊れて動かなくなった細胞は排除され、その空間を埋めるように再び生まれいずる細胞は、今日の経験を含んだ新芽として力強く頭をもたげる。再生に取り掛かる身体が余分な熱量を使うことを拒み、ナイジの意識は遮断された、同時に左手に握られたシャフトは静かに地面に横たわった。
 深く前のめりになり、動かなくなったナイジを目にすると、権田はゆっくりと側へ近づいてきた「おい」と一言声を掛けるが、何の反応も示さない。
「まったく、どういう神経してるんだよ、すぐ寝ちまうとは」
 横たわったシャフトを手にし、あらためて見回してみる。汚れは取りきれていないことを確認しつつ、やはり接触部分がきれいに均一に磨耗しているところに目がいってしまう。
「どうした」
 一瞬驚きをもって、声の方に目をやった。そこに不破の姿を捉えると硬直が消えた。
「早かったですね。よっぽどお気に入りのようだ。そのボウヤはオヤスミ中ですよ」
「ああん、そのようだな、あいかわらずたいしたタマだ。オマエとやりあったっんだろ。言いつけられた作業してる中に寝ちまうとはな、それとも単なる無神経か。ハッハッハッ。どっちでもいいか、そんなこと」
「不破さん見てください、このシャフト、まあ他の部分もそうなんですけどね」
 シャフトを手渡すと不破も一瞥する。
「なんだ、悪くないじゃないか。もっと、酷でえのかと。10年オチだろ、上手いこと乗ってるな。ってか、これで、レースしてたんだろ。いや、たしかに、そんなには走ってねえけどよ。それでも、これはなあ… たしか、2年前に安ジイがオーバーホールして、それが最後の大仕事だったよな。去年の点検はそれほど手を入れてないはずだ。そうはいってもな」
「たしかに、安ジイとは気が合いそうですね、整備に手間を掛けさせない、楽させてくれるドライバーですよ。本人が意識しているのかどうかはわかりませんけど、この状態でここまでこれたのは奇跡的ですがね。そんなこと言ったらますますハナが高くなる。 …さっき本人が妄想みたいなこと言ってましたよ、運転席からクルマの不具合を見つけ出すことができる… みたいなことをね。オレはそんな与太話は信じちゃいないですけど」
「ナイジがか?」そこで、不破は大きな溜め息をついた「はあーっ、 …オレは昔、同じ事を言われたことがある」。
「えっ、不破さんが? 誰にですか?」
「出走前に突然言い出すんだ、右のリアに引っかかってるのがあるから取ってくれって、覗き込んだら、ネコが飛び出してきやがった、ネコにも驚いたけど、それを言い当てたことの方がよほど腰を抜かしたぜ。誰だと思う、 …そう、舘石さんの、最後の出走前のことだ」
 権田は胸のポケットを探りはじめた。半分以上がクシャクシャになっているラッキーストライクをようやく手にとる。その中から拠れた煙草を口に咥え、先程の事務室の中での光景を再現するようにマッチの在りかを探しポケットを一巡し手を突っ込む。そうして最後に胸ポケットにあるマッチを取り出して風を避けながら火をつけた。
「不破さんは、コイツが舘石さんと同レベルだと?」
「さあな、そこまではわからん。次にオマエが手にかけたクルマで走ればわかるかもな。オレもオマエも」
 大きく吸い込んだ煙を一気に吐き出す権田「だから、仕事しろと?」。
「どうとるかはオマエさん次第だ。勘違いするな、舘石さんの話しを持ち出したのはそのためじゃない、オマエがいまのことを言いださなきゃ、思い出しもしなかったことだ。ああ、馬庭さんからな、タイヤ、預かってきた。履かせろとよ。新品だが、丁寧に慣らしてあって状態もいい。これだけでも充分新戦力になる。それに合わせてセッティングもして欲しい。変なところに過重が加わらんようにな。悪いが面倒見てくれや」
「わかってますよ、もう、腹決めましたから。それより、コイツどうします?」
「夏だからな、カゼひくことも無いだろ、でも、まあ、羽織るもんぐらいは掛けといてやるか」
 権田は、事務所のロッカーからいつも自分が使っている仮眠用のシーツを取り出してきて、座った状態で両膝の上に伏せているナイジに掛けてやった。
 自分はこの若者に嫉妬心を持っているのだ。自分が持ちえない能力、そして多分、自分が手を加えた仕事を超越しクルマを乗りこなしてしまうであろうこのオトコに、技術屋としてのプライドが余りにもはかなく打ち砕かれることを予感していた。


第15章 4

2022-08-13 07:09:09 | 本と雑誌

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R.R
 ナイジがサーキットの裏にある修理工場に着いたのは午後の9時を回っていた。ホームストレートで別れたきりのオースチンに大きな外傷は見当たらず、工場内の天井から吊り下げられたオレンジ色の電球に照らされ、静かに回復の時を待っていた。
 静まり返った工場内に足を踏み入れ、オースチンの前に立ち止まったその時、不意に右肩をつかまれ、そのまま身体を硬直させた。
「なにしてる」
 灰味だったはずのツナギは油とホコリにまみれ、灰色の濃さを増している。同じような色をした軍手がナイジの右肩を抑えたままだ。ナイジは目線だけを男の姿に向ける。その男はナイジを睨みつけていた。
「そうか、オマエ、あのクルマのドライバーか? ずいぶんと… 」
 そこで言葉を止めたのは、いま感じたことを直接的に口にして、会話を続けることに危険がよぎったからだ。突き放すようにして手を離し、他のクルマに寄って行く。
 ナイジはそのおかけで少しよろめくことになった。ふらついてしまうほどの力が加わったわけでもないのに、二日続けて酷使した身体は思ったよりも疲弊がはげしく、その代償として通常の平衡感覚も保つのが難しかった。
 今朝、新たに再生したばかりの細胞は、まだ定着されないまま、すぐに破壊されてしまった。不安定な状態の身体で果たして、次の細胞が萌芽をはじめるのはいつになるのか、これまでこれほど無理を強いたことがなく想像がつかない。
 ナイジは弱った身体を悟られまいと、顔をしかめながらもすぐさま体を立て直す。ただ、この場から動くことははばかられ、その男の次の行動、もしくは言動を待つしかなかった。
 男はわざと見せつけるようにそうしているのか、オースチンには目もくれず、先に修理に入っていたと思われるイタリアの小型車に手を掛けはじめた。
 最初の接触以後はナイジの存在など無かった様な振る舞いで、ナイジの気持ちをいたぶるように作業は続けられ、しばらくのあいだ工場内には金属の擦れる音だけが鳴りつづいた。
 ナイジは自分が焦らされているのか、それとも試されているのかと考えた。それがどちらであっても、いつまでもこうしているわけにはいかない。時間が経てば経つだけ、打つ手の選択肢とともに自分の価値観も消えていく。完全に存在を消失させられる前に行動に移す必要があった。
 それがその流れで行きついたナイジの行動だとしたら、あの男にとっては想定外の成り行きといえ、まさに自ら招いてしまった失敗であった。
 踏み込んだ足に地面の砂と一体化した金属紛や油砂の音が軋み、動きの少ない空気中に乾燥した粒子が舞い上がると、オレンジ色の灯りの中で乱反射してふたたび地表へ落下していく。
 オースチンの前で振り返ると、以外にもその男は作業を止めて立ち上がりナイジの方を見ていた。右手に持ったレンチが鋭く光っているのが一種の狂気を含んでいるのは出来過ぎであった。それがナイジの行動を止める要因にはならなかった。
「オレ、次の週末、このクルマを走らせなきゃならない。だから、すこしでも早く直して欲しい。それに… 」
 『カーン』と、乾いた金属音が響いた。近くにあるパイプ椅子をレンチがかすめる。こみ上げる怒りを音とともに分散させなければ、平常な気持ちで話しをすることも難しいとでもいいたげに。
「もう止めな。オマエが何を言おうが、どんな望みがあろうがオレの範疇じゃない。仕事は受けた、不破さんから話しは聞いている。受けた仕事だから約束通り仕上げさせてもらうがそこまでだ。それ以上、どうのこうの言われる筋合いはない。オマエがこのクルマの所有者だとしてもな。わかったら帰ってくれ。この時間まで仕事があるぐらい立て込んでるんだ。邪魔されると仕事が進まん。そうなれば… アタマの悪いガキだってわかるだろ」
 それだけ言うと再び作業に取り掛かりはじめた。あのクルマは不破どころか社長の馬庭からも直々に連絡があった。唯でさえ、急ぎでやるように言われたことで、自尊心をないがしろにされ、不満を感じていたところへ本人の登場。しかもそれが、まだヒヨっ子にしか見えない、ひねくれた若造に生意気な口のきき方をされれば、なおのこと苛立ちが増幅していく。
「オレ、勝ちたいんだ。あのロータスのヤツに。勝つことになんの価値があるかなんていまはわかんない。 …最初のコーナーまでに頭を取りたい。だからいろいろ試しておきたい。それには時間がないんだ。クルマを直したって性能が今より上がる訳じゃない。その部分でドライバーにできることはごく僅かだろ。 …クルマをイジッてるなら、バカでもわかるだろ」
 ナイジは真剣な目つきで男を見据えていた。あきらかに何らかの意図を持って、男を怒らせようともかまわない決意が見て取れる。
 男は深く目をつむり、大きく深呼吸をした。優しくいってわからないなら、身体に教えてやろうかとも考えた。しかし、それでは若造の仕掛けにはまってしまう。
「オマエな、さっきオレが言ったこと… 」
「できないのか? もう安ジイはもう仕事してないし、アンタがやるきがないなら、他当たるよ」
 変に自分を抑えていたため、その反動は予想以上になっていった。もはや思考を飛ばして身体が動いていた。
「なんだと! キサマ! 何言いやがったっ!!」
 濃灰色のツナギがナイジに迫ってくる。微動だにしないその体躯めがけて、大きく振り下ろされるレンチ。しかし、大袈裟なその動きは見切っていた。すると、もう一方の左の拳がナイジの腹部をめがける。すんでのところでナイジの左手がそれを阻み、それが痛めた左手に更なるダメージを積み重ねた。
「ちっ。コイツどこまで… 」思わず悪態が口をつく。
 ナイジの読みではさすがにレンチで人は殴らないと踏んでいた。それをエサにして腹を狙ってくるとも予測していた。腹に入れようとしたのはその方が意識を保ったまま痛みが長引くからだ。興奮したように見せかけても手加減はしていたようで、かろうじて防御することはできた。
 そのままの勢いを持ってふたりは身体をぶつけ合った。ナイジは、すかさず、その男の手首をつかみ身体を密着させ耳元に顔を寄せる。
「こうでもしないとさ、話しも聞いてもらえそうになかったから。オレのこと嫌いでかまわない。でも、オレはどうしても勝ちたいし、そのための時間がないのは事実だ。ソッチにその時間が持てないのなら、お互い無駄を浪費するようなことは止めたほうがいいだろ。ハナッから『誰かに頼まれたからって時間通りに仕事やります』なんて思ってないだろうし。それが、特に服従を強いられる相手なら尚更だろ」
 充血した男の目がナイジを見据える。その時、工場内の事務所から電話のベルが鳴り始めた。男はナイジを見すえながらも電話を放っておくわけにもいかず、目と意識をそちらにもっていかれた。
 ナイジは身体を離し、事務所の方に目を向け、出ないのかとばかりに首をひねる。男は苦々しい顔でナイジに一瞥をくれてから事務所の方へ向かって行く。
 男にとってはとんだ失態となってしまった。ヘタに冷静に対処しようとしたばかりに、かえって無様な姿をさらし、腹を探られるような言葉を浴びることになった。頭に昇った血が治まらないまま取った電話にきつく出てしまう。
「権田だ!」
「なんだ、なんだ。権田。機嫌悪そうだな。仕事中だったか、何度も電話してすまんな」
 相手は、不破だった。
「あっ、不破さん。なんですかあの若造は、てんで口の聞き方も知らない。コッチが仕事中なのに、自分のを先に直せだの、スタートで前に出せとか、あげくにできなきゃ他持ってくなんてほざきやがる。上等ですよ、勝手に自分で探すといい。不破さん、悪いけどこの仕事降ろさせてもらいますよ。不破さんに頼まれようが、馬庭社長に言われようが… 」
 本心ではないにしろ、少しは文句を言って、自分の不満を晴らさなければ気がすまなかった。
「なんだい、馬庭さんからも連絡あったのか? あっ、いやいや、そんなことより、ナイジのヤツもう着いてたのか。いやな、オースチンのドライバーが行くからよろしく頼むって、連絡入れようとしたとこなんだが。アイツもよっぽど心配だと見えるな。いやいや、これが、見ての通り変わりモンでよ、オマエが頭に血ィ昇らないように前もって伝えとこうとしたんだが。どうも、間に合わなかったようだな。それにしてもなあ、ストレートでアタマ取らせろとは、ずいぶんな注文つけてくるもんだ。で、どうだ、できそうなのか?」
 怒りの矛先を背けようと、クルマの話しに持っていく。いくら頭に来ていても、そこは職人肌の気質があるため、どうクルマをイジればどうなるかは常に考えているし、安ジイが仕上げたクルマに興味がないわけがなかった。
「そりゃ、まあ、まだ、運ばれたままで、中まで見てないからなんとも言えないですが。クラッチ板を換装してレスポンスを上げて、エンジンの内部磨いて、後は駆動関係の抵抗を最小限まで抑えて、無駄に空転しないように喰い付きのいいタイヤを用意して… いや、いや、そうじゃないくて、オレはもう、やらないって… 」
 不破の思い通りにはならなかったが、まったく脈がないわけでもなさそうだ。
「なあ、権田、聞いてくれ。ヤツに問題があるのはオレも重々承知してる。そのことでオマエに迷惑かけたならあやまる、オレが変わりに謝るから。いや、たぶん、そういうオレの態度もオマエは気に入らないんだろうが、それでもな、ヤツに走らせたいんだ。ロータスと真剣勝負させたい。これは何もオレひとりの欲望じゃない、今日、レースを見に来た誰もが、そんな想いを持ってるんだよ。でなきゃ、馬庭さんがいちいち電話してくるはずもない。そうだろ」
 権田は、馬庭を出されると辛らかった。だからこそ不破もそれを切り札にはしたくなかった。大企業の修理工場でくすぶっていた権田に、安ジイの工場を紹介したのは馬庭だった。安ジイの目にかかり修行を積んであとをつぐことができた。
「オマエはレース見てないからピンとこねえだろうが。5年振りに舘石さんのコースレコードが破られたんだ。そのロータスの男に、 …ああ、そいつが出臼が連れてきたヨソモンだ。ウチらのツアーズで唯一、そのロータスと互角に渡り合って、第3計測所では最速ラップを出しやがった。最終コーナーでデフかシャフトが… たぶんドライブシャフトだろうけど、壊れなきゃロータスのタイムを上回ったかもしれないんだ。いや、間違いなく削れたろ。あの、最終コーナーの抜け出しは、見た目にわかるぐらいにスピードがのっていた。今日初めて走るコースでその中の誰よりも速く走っちまいやがったんだよ、アイツは、突然にだ。いいか、驚くのはそれだけじゃねえ、クルマを、オースチンをよく見ればオマエも腰抜かすぞ、タイヤは中ブル、エンジンだって、駆動系だってそのまんまドノーマルだ、そりゃそうだろ、安ジイの仕上げたクルマだからな。おまえだって知ってるはずだ」
 安ジイが過度なチューニングアップを好まず、クルマの特性を活かすセッティングを優先する。リクオに連れられてフラっと訪れたナイジは、多くのクルマが置かれたバックヤードからこのオースチンを選んだ。それは安ジイが、アタリの車体であると目をつけ、ひそかに手を入れていたクルマであった。
「今までずっとリザーブで、本戦に一度も出たことがないヤツがな。それが今回、走りたいって言うから試してみたらよ、とんでもない走りしやがって。それに走ったすぐ後に、自分の走行状況を語りだして、その通り走ったら一体何秒出してたんだって、みんな呆れてたぐらいだ。まあ、口でいうように全てがうまくいくわけはないが。でもな、ヤツの走りにオマエの手が加われば、見るものを魅了する最高の走りができるとオレは信じてる。それがわかってて何の手も打たないわけにはいかないだろ」
 一気にそこまで話したのは、権田に口を挟む隙を与えたくなかったからだ。はたして、いま言ったことが、どれだけ耳に届いているか不破は不安のままだ。
 権田は、技術屋としてドライバーの望むクルマを作りこんでいき、実際に走らせてぐうの音も出させない、完璧なセッティングでドライバーを唸らせるのが何よりのやりがいであり、打てば響くような走りをするドライバーを好んでいた。
 一度なりともナイジとそのような経験があればと不破は悔やんだ。そうすれば権田もナイジのことを認めるだろうと。なににしろ、権田の首を縦に振らせる理由はいくつあっても多すぎることはない。たたみかけるようにして続けた。
「それによ、どうやら、ロータスのヤツ三味線引いてたらしくってな。ヤツも、もう2~3秒は現状で詰められるらしい。添加剤入りの胡散臭いオイル使ってるって話しも耳にした。そのオイルメーカーが後ろだてして、出臼とよろしくやってるってことだ。このままヤツラのいいようにされるのもどうにも収まらねえしな。どうだい、力かしてくれねえか」
 不破の説得が功を奏したと思われるのは癪だが、トップタイムと遜色のない走りをしたあの若造が、いったいこのクルマに何を求め、どういじってやればどれぐらいの走りをするのかは興味がある。それはクルマをいじる者にとっての偽らざる本能だ。
 しかし、このまますんなりとあの若造の前でオースチンに手を出せば、現状では屈服を意味し、今のままではどうしても受け入れることができそうにない。
 悶々としている権田の心を読み不破は、なんとか気持ちを入れさせようと泣き落としにかかる。馬庭社長に逆らって本気で仕事を断るとは思えないが、いい仕事をしてもらうためにも、お互い納得できる着地点を見つける必要はある。
「なあ、頼むよ、権田。オマエの腕に勝るヤツをオレは知らない。安ジイにイチから叩き込まれたその技能は、そこらの修理屋とは訳が違う。ロータスとやりあうためにはオマエの力が必要ないんだ… いいや、キレイごと言うのはよそう。本音を言っちまえば、多分、ナイジこそ、オレの立場を救う最後の切り札なんだ。オレが今の立場を覆すことができる、これが最後のチャンスかもしれない。どうやら、それは馬庭さんも同じらしいんだ。やけに、からんでくから気にはなっていたんだがな。あの人も、それなりにラクじゃないってことだ。とんだ下世話な話しでオマエには関係ないことだがな、それだけ、オレは… オレたちがアイツに真剣に賭てるって事はわかってくれ。オレも今からソッチへ向かう。ナイジにはもうゴタゴタ言わせねえから、ここはひとつオレに預けて、クルマの面倒を見てくれ。な、頼んだぞ。馬庭さんからの頼まれたモノも持ってくから。癇癪、起こすんじゃないぞ」
 そこまで言うと、勝手に電話を切ってしまった。中途半端な状態で放置されたままの、権田は受話器を何度も見直し、しかしそのままにしていても埒があかないので、放り投げるようにして受話器を戻すと安っぽい音を立て納まった。
 胸ポケットからラッキーストライクを取り出し、口に咥え、ズボンのポケットを一通りまさぐったあと、最後に別の胸ポケットに入っていたマッチにようやくたどり着き火を点けた。
 一気に紫の煙が事務所内に広がり、モヤの向こうにはオースチンにもたれかかり、権田が戻るのを待っているナイジの線の細い影が見える。
 次はどんな手で自分を揺さぶろうと考えているのか想像すると、すこし笑ってしまう。権田は自分自身が望まないうちに、いつのまにか回りはじめた渦の中に取り込まれていることを感じていた。
 不破の話を聞き、オースチンもさることながら、そこまで言わしめるあの若造にも関心がでてきたのは確かだ。手段のために自分をも翻弄しようとした言動は、そう捉えれば確かに若いわりにはなかなかのやり手ともいえる。
 ただ、それが鼻に付くのはいかんともしがたい。数回吸っただけの煙草を、点火部分だけ丁寧に揉み消しすと灰皿の溝に横たえる。