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寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(試合会場にて2)

2025-05-11 17:44:16 | 連続小説

 レフリーが両者を呼び寄せる。グローブを合わせてゴングが鳴った。この時、アオイのカラダに電気が流れたような痺れが駆け巡った。その電流は最後に脳に戻ってきた。
 ようやくこの場所に戻ってきた。何ごとにも代えがたい至上の時間だ。アオイはこの時を過ごすために生きていると言って過言でなかった。
 逆に言えば、日常の自分は仮の世界を生きているのに等しかった。どんなことも感情を揺さぶらない、痛みも、快楽もない。すべてが誰かが作り出した夢の中で端役を演じているようだった。
 普段からの見かけでは、とてもボクシングをやっているような風采ではない。歩く姿は気が弱そうに猫背でトボトボと、人ごみに埋もれてしまうようなアオイだった。
 学生時代から目立つ存在ではなく、授業を休んでも気づかれもしない。いても、いなくても、誰かに気に留められるこもとない。いなくても、いても。
 人生は何がきっかけで変わるかわからない。友人に無理やり付き合わされた見学会に行ったことで、アオイの人生が開かれていった。
 友人がどうしてもボクシングジムに入会したいと言い出し、ひとりでは心細いので一緒に付いてきて欲しいと言われ、その流れで無理やり入会させられてしまった。
 ところが、その魅力に憑りつかれてしまったのはアオイの方だった。友人はキツいし、全然楽しめないと言って一か月も持たずにすぐに辞めてしまった。
 もともと、ひとつのことに執着するタイプだった。大概が人に誘われてやりはじめたことも、一番最後までやり続けたのは常にアオイだった。
 子どもならば飽きやすくて、すぐに次の興味に引き寄せられるのは当然だ。逆にいつまでも同じことを続けているアオイをバカにする者の方が多かった。
 アオイはそんな外野の言葉を気にすることなく、やりはじめたことをとことんまで全うしていく。こんなに面白いことをまわりのコたちは、どうしてすぐにやめてしまうのか理解できないぐらいだった。
 ただ、継続はできても、その道を極めるまでには至らない。それがアオイの日頃の自信のなさにつながっていた。どれだけ努力しても一番になるにはほど遠かった。
 ボクシングも同じようになってしまうかもしれないと、気にしながら続けていた。これまでと違ったのは人の目がそこにあることだった。ひとりで黙々とおこなってきたこととそこが違っていた。
 ジムでの練習では、スパーリングで人の目が集まると、自分にも理解できない力がカラダに漲ってきた。別の人間になったようだった。そんな自分がいることを知りえたことが嬉しかった。
 普段の個人練習ではパッとしない。それなのにスパーリングではいいファイトを見せる。そんなアオイに兄は目を付けた。コイツは面白い。モノになるかもしれないと、練習にも付き合うようになった。
 そしてアオイもリングに立った時の高揚感を一度味わうと、もう虜になっていた。兄から出された練習がどれだけハードな内容であっても、これまで通りに途中でやめることなくこなしていった。
 オトコ用のメニューしか持っていない兄も、それをオンナ用にディチューンすることはしなかった。オトコがやるようなメニューを、アオイもそれが普通なのだと、兄に言われた練習をこなしていった。
 両者の思惑が一致し、アオイの能力は乗算的に向上していった。そしてリングで闘っている時だけが、自分を取り戻せることに徐々に気づいていった。
 その場に立つためにすべてを犠牲にすることを厭わず、そこになんの疑問も起きなかった。自分の居る場所に戻るために。それは同時に自分の死に場所を探している行為と同等であった。
 兄はそのアオイの特性をうまく利用していた。何時まであるかわからない生き場所を求めることは、破滅に向かっている等しい。アオイがそれに気づくまでに、どこまで登りつめられるかが兄の勝負所であった。
 ゴングの音を耳にしたアオイは、一気に脳内ホルモンが沸騰してきた。自分の現実がはじまる。くだらない他人の夢の中から抜け出して、自分の意思の中で生きはじめる。
 目の前の相手を倒す。それを遂行することだけがアタマを支配していく。感情的にカラダを動かし、そして論理的に試合をコントロールする。相手の目を見た時の恐怖心はもう消えてなくなっていた。
 相手との間合いを取るように、相手の足先との間隔を5cmにキープする。今日は5㎝でいい。アオイは右利き、相手も右だった。がっぷり四つの態勢でお互いを牽制し合う。
 身長はアオイより10㎝ぐらい低い。リーチも15㎝は短いだろう。その分、内部には弾力性に満ちた筋力が備わっているはずだ。アオイは相手より筋力が少ない。
 相手は慎重な動き出しだった。アオイがどんな攻撃をしてくるか、ある程度予習しているとはいえ、実際にグラブを交えると、相手の力量をアタマに入れるまでは慎重になる。
 低い身長と短いリーチ。懐に入り込ませないようにすれば、腕が伸び切った状態でパンチを貰ってもダメージは少ない。
 アオイは手を伸ばして相手との距離を取る。そしてすぐにスウェーバックする。こちらの優位性を誇示するように。
 相手は誘いには乗ってこない。深入りせずに細かくステップを踏んで、左右に移動する。これでいい、序盤は様子を見ながら、自分のペースに巻き込んでいきたい。
 そして相手の得意のパンチが何なのかを、同時に見極めていかなければならない。想定できることは、自分のパンチが当たらず腕が伸びたところに、懐に入いられてのフックが危険だ。
 相手の顔を見る。焦っているのか、余裕なのか。気負っているのか、手順通りなのか。それも探りつつパンチを出していく。そして自分の感情を表情を出さずに能面のようにしておく。
 高い位置でガードを構える相手のその奥の瞳も同じだった。何を考えているのかわからない。何も考えていないのかもしれない。深い闇の中にすべての感情を閉じ込めている。
 吸い込まれそうな眼から視線を切り、カラダ全体の動きを俯瞰で捉えるようにする。目だけではなく、自分のカラダ全体で相手の動きを捉えるように切り替える。
 時折伸ばすアオイのグラブに、軽くジャブを当ててくる。アオイが引くと。少しだけ前のめりになり、すぐに引いていく。
 相手は正確にそれを繰り返した。こちらが試しているようにみえて、自分は計られているようだった。相手のリズムにカラダが奪われていく。
「間合いを取れっ!」そんなアオイに焦れたのか、セコンドの兄の声が届いた。
 それに先に反応したのはアオイではなく相手側だった。何かを察し取るように後ろに引いた。アオイも同じように一歩引いた。何か危険だと直感した。
 自分の強みは相手と適度に距離を取ったうえで、中間距離からL字にした腕をしならせるフックだ。それが一番力があると自信があった。それを打ち出すための伏線も張っていきたい。
 それなのに中に入れないことだけを注意して、いつもより遠めの位置にいてはそれもままならない。相手の術中にはまっている。
 相手は更に間合いを取ってきた。届かない位置から牽制するように、軽いジャブを2~3回繰り返しては引いていく。
 そこがアオイには引っかかった。その距離ではつねにアオイには安全ゾーンだ。膝を見ていても一向に踏み込んでくる気配がない。
 ただ、それに付き合って、アオイもいつまでも入り込まないわけにはいかない。遠目から打っても決定打にはならないのはアオイも同じことだ。
 膠着状態をいつまで続けていてもキリがない。無茶と無理の狭間を読み解きながら、闘う手段を考察していかなければ相手の戦略にはまってしまう。
 人の目が力になるアオイは、まわりの期待に応えられない自分を続けることがストレスになる。誰かが見ていることが自分を支えになる。それを裏切ることはできない。
 そのためには勝たなければならない。負けたら二度と同じ生活はできない。世の中から見捨てられたも同然だ。生きるためには目の前の相手を倒すしかない。
 そんな至極あたりまえの、そして生存をかけた人としての本能的な行動に従ってるだけだ。それを一秒でも長ぐ続けたい。アオイのカラダが軽くなった。
 足をスイッチしようとする相手の足が目に入る。思い切って踏み込むアオイ。突然、左のジャブが飛んできた。条件反射のように顔をズラした。不随意筋が勝手に反応していた。観客が沸く。
 アオイは観客の声に押し出された。引いた左腕を右膝を折りながら鋭く振る。相手は少しだけ目を見開いた。グラブが相手のアゴ先をかすめた。
 続けて右をボディに向ける。ガードした肘に当たりながらもそのままボディを押し込んだ。突然に訪れたチャンスだった。相手はすぐにあの目つきに戻っていった。
 前傾になった相手の下がったガードの上からアオイは左のフックを打ち出す。遅れてガードしてきたグラブの上にパンチは当たり、すべるようにして相手の額を上ずっていった。
 更に観客の声が高くなった。コーナーまで下がった相手に、追い打ちをかけようとしたところでゴングがなった。アオイは足を止めた。そこで1ラウンドが終わったのだ。
 相手は右手を伸ばしてきた。アオイも応えるように右手を当てる。相手の表情に変化はなかった。やられたとか、この程度かといった印象を残さない。
 かすめていった相手のアゴと額に、擦り傷ができていた。もう3㎝でもズレていればとも思うが、それがボクシングであり、自分の実力だ。
 そして同時に、もしかしたら自分の得意のパターンを打たされたのかもしれないとも考えた。かすめたのは見切られたとも言える。
 アオイも感情をあらわさずに、踵を返して自分のポストに引き上げる。軽快に見せることもなく、重い足取りでもない。普段の生活のようにトボトボと歩いていく。
 自分の人生であと何ラウンドが残っているのか。このゴングの音を聞くたびにそう考える。生きながらえている。3分を消化する度に自分の寿命が延びたことを知る。
 自分のような人間は誰かの役に立つことで生きていくことができる。それが終われば、その価値がなくなれば生きていくことはできない。そう思うと観客を味方にできる気がする。
「いいぞ、大丈夫だ。相手はまだ、オマエに疑心暗鬼になっている。オマエの得意な中間距離で勝負できるのも、コッチに有利だ」
 水を含んでうがいをする。相手のコーナーに目を向ける。相手は両腕をロープにかけて、すでにコチラに目を向けていた。椅子に座っている自分はいったい相手にどう映っているのだろうか。
 この1ラウンドで自分は丸裸にされてしまったのだろうか。それに対して自分は相手のことをどこまで解析することができたのか。
 兄の言葉はアタマに入ってこない。ただわかったように肯くのは条件反射のようなものだ。アオイは本当はもっと戦略的な意見が聞きたかった。そこまで兄に求めるのは酷であり、自分からも進言することはしない。
 それを自分だけで闘いの中で構築していくのは好きだった。ただ今回は簡単ではなさそうだ。1ラウンドを終えて、ここまで考えさせられた相手ははじめてだった。
 同じ手は使えないかいもしれない。次はそれをダミーにしてボディを責めるの効果的かもしれない。開始のゴングが早く鳴って欲しかった。相手のスゴさを知ったことで、早くグラブを交えたくなっていった。


 継続中、もしくは終わりのない繰り返し(試合会場にて1)

2025-05-05 08:51:14 | 連続小説

 大事なことはだいたい後からわかってくる。それは凡人なら誰にも平等にやって来る。どうして今のままいられないのか。どんなに自分が望んだとしても、それは叶うことは少ない。
 好きだったモノは何故か手のひらから零れ落ちていく。いつもそれは変わらない。いつの時代でも。そしてそれもまた、平凡な人間には平等にやって来る。
 アオイがそんなことまで考えられるぐらいの、長い長いコンマ数秒だった。相手が右腕を引くのがわかる。長い時間に思えるのに、そのあいだに自分は何もできない。
 弓の弦が最もしなったところから放たれる矢のように、右フックはキレイな放物線を描き、自分のテンプルに命中する。
 そこまでわかっているのに、それなのに避けようもない。それが人と人とのあいだで、同じ時間が流れていない証拠なのだ。
 いつかのこの国のサッカー代表が、初めての世界大会出場をかけた決勝戦で、相手の緩いシュートを全員がボールウォッチャーになっていたように。
 アオイにはもうわかっていた。自分はこの相手には勝てないと。そしてこれは相手であって、自分自身であるのかもしれないと。自分の出生がここでも響いてきた。
 闘いのなかでそんなことをふと思い出した。すべて思い出していないくせに、思い出したようにしている。いつだってそうだった。
 事前のスカウティングでは、自分の方が有利だと聞いた。仲間内なら誰だってそう言うだろう。今回の場合はそんな簡単な話しではなく、むしろバカバカしいぐらいにはた迷惑な出来事だった。
 相手だって無策ではない。戦う前から自分の手の内を晒すはずはない。同じぐらいの力か、それ以下だと思わせておく方が相手は油断する。
 油断とまではいわないが、アオイの気持ちが緩んだのは間違いなかった。あの時の感覚、少しでも楽になりたかった自分がいたのは間違いなかった。
 張りつめたまま試合を迎えて、コンディションを崩したことは何度もあった。そんな自分を思って言ってくれたのもわかっている。すべてを含めて弱かったのだ。
 アオイのジムはニシナ兄弟がオーナーと、トレーナーで仕事を分担している。設立当初は協力してジムを盛り上げていたのに、今では口もきかないほど仲が悪いのは、ジムにいる誰もが知っている。
 それなのに本人たちは誰にも知られていないと思っている。本人たち以外はみんな知っていても、そのように振舞っているだけだった。それがジムにとっていい影響を及ぼすはずはなかった。
 オーナーの弟は、選手たちが自分よりも兄に懐いていることが気に入らない。自分の存在感を示したいし、このジムが誰のおかげで成り立っているのか知らしめたい。
 トレーナーである兄は、金儲けを優先するそんな独善的な弟のことを信用していない。お互いにビジネスとして、メリットとデメリットを量りにかけて、なんとか今の状況を継続しているに過ぎない。
 いまやこのジムのアイコンになりつつあるアオイを育てた兄に対して、ゆっくりと自分の存在感が薄れていくことに弟は危機感を持ちはじめた。
 そんな弟は、自分が少しでも役に立つ人間だと思われたく、次の対戦相手を調査することにした。それでケチで有名な弟が、カネを遣うことも厭わなかった。
 それなりの人物を使って相手のジムに忍び込ませたらしい。その成果はニシナ弟にとって実のあるもでなければならなかった。
 納得する情報を得た弟は、兄のいない時を見計らって、ロードワークから帰ってきたアオイに声をかけた。ニタニタと笑っていた。
「これさ、次の対戦相手の資料なんだけど、、」
 弟はそう言って、資料をアオイの手に握らせた。湿った手が離れた時、すぐに拭いたかったが目の前ではできなかった。
 兄はボクシングに興味はあるものの、それは金儲けの手段でしかなかない。しかし花形ボクサーを生み出さなければ儲かるビジネスではない。
 練習生を多く取れば、それだけ指導も充実させなければならない。本格的にボクシングを目指す者が多いと儲からなかった。幸運なことに、ほとんどが途中で、そして直ぐに止めていく。
 行き詰っていたジムに銀行からの指導が入って、女性や子供などでもできる軽めのメニューを作って、専門的な指導者が居なくても練習ができるコースをつくった。
 最初はそんなので儲かるのかと訝しがった弟も、予想以上に実入りが増えてほくそ笑むとともに、若い女性がジム内で躍動している姿を観ることができるのも、楽しみのひとつになっていた。
「 、、笑っちゃうよ」弟は引き際に手を伸ばしてアオイの腰の下を触っていった。キャッとでも言えば悦ぶのだろうが、あいにくアオイはそういう感じ方はもうしなくなっていた。
「ありゃ、お遊びだよ、オアソビ。ダンスしながらシャドウして、ピカピカのライトの中でステップ踏んでる。あのミタムラが育てたオンナボクサーだっていうから心配して調べさせたし、それが本当かどうか自分でも見に行ったよ。何てことはない。大丈夫だ、オマエが負けるはずない。安心しろ、オレが保証する」
 弟の保証には、なんのあてにもなかった。相手の練習を見ていたモグラの報告は面白みがなく、弟にとって都合の悪い内容だった。
 何も見なかったことにして、表舞台のフィットネスジムの情報だけをかいつまんで報告書にさせた。モグラはカネのために言われた通りにでっちあげるのも厭わなかった。
 それに弟はそう言ってバカにしながらも、あちらの方が儲けが良いだろうなと、臍を噛んでいた。兄にウチも同じようにしようと言えば、絶対に反対されることもわかっていた。
 あとで、このやりとりを見ていた兄から、弟とナニ話をしたのかと聞かれた。アオイは対戦相手のことは言わなかった。次の試合のガウンを新調してもらえるらしいと嘘をついた。
 アオイが言わなかったのは、弟を庇ったからではない。ふたりの軋轢に挟まれるのが嫌であり、その情報で自分が安心していることを知られたくなかったからだ。
 弟が最初にアオイを見た時は、ジムの経営のために広く浅く、練習性を募った中にいた十把一絡げのひとりだった。
 しかたなく練習を見ていると、他にはない独特のセンスを持っていると気にかけはじめた。これまでにも数回そういったタマゴを見てきた。アオイの中にそれを見つけた時の弟はもう止まらなかった。
 日ごと、週ごとメキメキと力をつけていくアオイに兄はのめり込んでいく。それは彼にとって作品を作り上げる作業に近かった。
 ボクサーを育てるというよりも、自分の理想をリング上で表現するアーティストを作り上げていく感覚だった。それが兄が本当にやりたかったことだった。
 ボクサーとして成長していくアオイを見て、兄はすぐにアオイが抱える弱点に気がついた。彼流に言うならば美しき石像の欠陥部分である。
 それはボクシングだけに関わらず、生きていくうえでも多くの場面で遭遇する難儀な部分であり、これまで何度もアオイを苦しめていた。
 極度の心配症であるアオイは、すべての不安点を排除できないと安らぎが得られない。そしてそんなことはこの世に生きていいる限り決して起こりえない。それはアオイ自身でもわかっていた。
 それがリングに上がってしまえば、すべての不安が消え去り、自分の生のすべてを表現できる最良の時間が待っている。それだけがアオイを奮い立たせる要因になっていた。
 たぶん兄にはバレていたはずだ。アオイの顔から厳しさが薄らいでいたのを見逃すはずがない。その翌日は、ジムに向かう電車の中で足をケガした人に席を譲るなど、普段ならしないようなことをしていた。
 それだけ周りが見えていた。変に余裕ができていたのだ。これまでの試合前のこの時期なら、自分のことで精いっぱいになっており、まわりのことに気を配るような余裕など有りはしなかった。
 そのあとの痴漢の件は余分だった。すぐにでも自分のコブシで叩きのめしてやりたかった。あの女子高校生は気丈にしていたが、心中やその後の生活に影響が出ないわけではないはずだ。自分の無力さが怨めしかった。
 すぐにでも行動に出たかったのに、そこにどんな理由があろうとしても、アオイはそうすることができずに、耐えて言動で対処するしかなかった。それが精一杯であっても悔しい気持ちは残ってしまう。
 自分が持った武器を発揮できる場所は限られている。それがリングのうえでしかないことも。
 控室で兄に同じじゃないかと言われるまで、アオイはガウンのことをすっかり忘れていた。慌てて弟はケチだからと取り繕った。兄には、ちげえねえとハナで笑われた。
 それはガウンが云々ではなく、アオイが精神的に落ち着いていることを含んでいた。弟に大した相手じゃないと言われて鵜呑みにしたわけではない。ただ、それに乗っかってみただけだ。
 楽な相手だととことん思い込んでみることで、いったい自分にどんな変化があるのかが知りたかった。思いのほか、いい仕上がりでここまでこれたことは収穫といってよかった。
 リングではじめて顔を合わせた時のその瞬間に、アオイは相手の眼に見たこともない光を見ていた。このひとは自分とは生きている世界が違うようにみえた。
 例えて言うなら戦場から帰ってきたばかりかとか、いま人を殺してきたぐらいの血走った眼をしていた。それなのにどこか冷静にアオイのことを見ている。見ることでアオイというボクサーを値踏みしていた
 アオイは肝が縮んだ。冗談ではない、そんなお気楽なファッションジムで練習してきたような風体ではない。これまでの安心度が高かっただけに、ここからの新情報は急転直下といってよかった。
 さらにジャケットを脱だあとの白日にさらされた相手のカラダには、なにひとつ余分なものが見当たらない、極限まで研がれた痩身だった。
 そのカラダにも顔にも、幾つもの内出血のあとがあった。実戦を何度もこなしてきた風貌だった。さすがに兄も危険を感じたらしくアオイの耳元でささやいた。こりゃ、イの字だぞと。
 いわれなくてもアオイもわかっていた。世代のせいなのか、イロハで三段階を表しているらしく、兄の初見での見立てがその最上級ということだ。
 一瞬で危険度を嗅ぎ分ける兄は、事前に相手の情報を知ろうとしない。余計な情報が初見での精度を鈍らせる。
 そして兄は、アオイも相手と同じような目つきをしていることに驚きを感じながらも、それは口にしなかった。
 兄の警告の言葉がアオイの気持ちを取り戻させた。アオイはこの時を待っていたのだ。リングに上る前までは考え過ぎる面があり、どうしても弱気になってしまう。自分の都合のいい情報を探してしまうだけだった。
 リングに上がってしまえば弱い自分は消えてなくなる。そして最強の自分が現れる。それがアオイが闘うための最大の武器であった。それがこれまでにも増して増強しているように見える。
 それをよく知る兄は、アオイへのスイッチの入れ方を知っている。アオイの目に生気が戻ってきた。兄は背中を叩いてさらに気合を入れる。
 アオイがいつもより楽な気持ちで試合に臨めたことで、その増強度がいつも以上に上がっているようであった。
 最前列の席で余裕の笑みでビールを飲んでいる弟は、自分がどの部分に貢献していたのかわかっていない。ある意味弟の戦略は成功したと言えた。当日までアオイの精神状態を平常に保てたメリットを知らない。
 相手にこれまでに、どれほどの人生の背景があるかは知らないが、自分もここまで何年もボクシングを続けて、ここまでランクを上げてきたのだ。デビュー間もないポッと出に、見た目だけで尻込みしてはいられない。
 アオイには、これまでになく戦いへの闘志がわいてきた。自分でも高まっているのがわかるほどに。兄もそれを見てニヤリとほくそ笑んだ。これは瓢箪から駒だ。風はコチラに吹いている。そこまで確信していた。
 レフリーチェックが入って、ふたりはコーナーに戻った。兄はその少しの時間に耳打ちする。今のオマエは最強だ。そうつぶやいた。それは相手が簡単ではないことの裏返しだ。アオイにも十分それはわかっている。
 勢いだけでは勝てない。気を引き締めるアオイは、放り込まれたマウスピースを噛み締める。8オンスのグローブを力強く叩いて見せた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(軍基地から帰り道10)

2025-04-27 18:45:34 | 連続小説

 基地の手前から軍事車両が先導に付いた。段取りが良い。そのクルマは道を塞いで待ち構えていた。窓から覗いてマリイのアルファを確認すると、ヒューっと感心したような口笛をふいた。
 手を上げて着いて来いと合図する。マリはそのクルマについて行った。リアウィンドからドライバーと助手席のふたりのやり取りが見える。ドライバーが助手席の兵士に何枚かの紙幣を渡した。
 もう時間的には問題ない。あとは気絶しているふたりをこのまま運ぶだけでことは済む。どの飛行機に搭乗するか知らないので付いて行けばいい。マリイも少しは気が楽になった。
 このタイミングで代理人から連絡が入った。基地内に入れば通信はできなくなる。
『エイキチ、マリイ。よくやった。任務は完了だ。あとは向こうの指示に従って行動すればいい』
 それだけだった。先導車がつくことは知っていたようだ。そして、運んだ者が本人だかどうかを説明するつもりはないらしい。
 エイキチたちが勝手にオトリかもしれないと推測しただけで、代理人からは本人として依頼されている。今回は変に勘ぐり過ぎたのか、それで普段は遣わない神経を変に使って疲れを感じていた。
 そしてなにも知らされていないエイキチは状況がわからない『マリイ。もう大丈夫なのか。基地に着いたのか?』。
 いちいちそんなことを説明するのもはばったいマリイは、あとでな、と言って通信を切ってしまった。
 着いて行った先には、軍基地には似合わないプライベートジェットが待ち構えていた。先導車が止まった。高い位置にあるテールランプがマリイの目に煩かった。
 数人の兵士がアルファを取り囲む。無造作に後部ドアが開けられる。ふたりはまだ気絶したままだ。何か言われるのかとマリイは身構えた。
 その兵士は振り向いて何か指示を与える。女性士官だった。すぐに複数の兵士がタンカを持って来た。慎重に運び出していくと、そのままジェットに搬入していった。
 本人は知らずとも、彼らはこの状況を予測していたのか、それともどんな状況であっても、任務の遂行を優先しているのか。
 ふたりがジェットに収まったのを見届けた女性士官が、後ろのドアからマリイに顔を近づけてきた「グッジョブ」。そう言って手を伸ばしてきた。
 まさかの展開に、マリイはなんだか照れくさい気持ちがありながら、右手で握手をした。手が離れるとマリイの肩を2度たたいてドアを閉じた。
 ジェットが離陸していく。時計を見ると8時半ちょうどだった。あとを追うように戦闘機が一台離陸していった。
 護衛するほどの人物なのかと考えたあと、首を振るマリイ。それほどの対応をされているとは思えない。別件だろう。
 お役御免となり、マリイはアルファをUターンさせて出口へ向かう。女性士官はサムアップをして見送ってくれた。感謝されたのだろうか。少なくとも文句は言われなかった。
 不平等な条約を締結しただの、報道陣に追いかけられるだの、そんなことよりどうしてもこの時間に、この国を発つ必用があったのではないか。
 代理人もこの時間がリミットだと言っただけで、エイキチが勝手に報道陣の餌食になると言わされただけだ。マリイにとってもギリギリの走りであり、幸運なところもあって間に合ったに過ぎない。
 この場の雰囲気を知ったマリイだけが感じることのできる、得体のしれない気味の悪さがこみ上げてきた。余りも出来すぎている。作られた空間がここにはあった。間に合わなかったときに一体何が起きたのか。何故かマリイも肝が冷えてきた。
 この国の人々には知ることのない特別な時間が流れている。知らなければ何も気にならずに過ごしてしまったあいだに、普段なら起きないような事象が起きたかも知れない。
 帰りのゲートはアルファ1台だけだ。お付きのクルマはいない。入る時は愛想の良かった詰め所の門番は、無表情で事務的にゲートを開けると、すぐに端末をいじりはじめた。他に気になることがあるらしい。
 何も特別ではないように。日常の一部のように。それがマリイを余計に嫌な気分にさせていった。一刻も早くここから離れたくなった。
『マリイ、なにかあったか?』基地を出て、通信が回復したところでエイキチが堪えきれずに訊いてきた。
「さあな、、」これではエイキチも話しを続けようがない。訊きたいことは山ほどあった。
 マリイはもはや悠々とナイトドライブを楽しむことにした。エイキチに話しをしたくても、実際に何が起きたのかマリイにもよくわかっていない。
「結局は、アタシたちは代理人に踊らされていただけだ。ハナを明かしてやろうとか、期待を上回ってやろうとか言っても、それはやっぱり代理人の思惑通りだ」
 それぐらいが精一杯だった。現実は知らないところで勝手に動いている。どうしたって自分達でできることは限られている。
「そうかも知れないけど、代理人だってそこに賭けるのはリスクが高いだろう。オレたちを煽ったからって必ずうまく行くとは限らないし、失敗したとき責任を取らなきゃならないのは、代理人であり、オーナーだ」
「だからだよ、、」マリイはそんなふうにわかったような口をきいた。エイキチは何もつかめない。
 だからこう言うしかなかった「何が?」。
「保険をかけているんだ、、」つけっんとんにマリイが言う。
「保険?」それはエイキチも気にはなっていた。ことが大きくなればなるほど、仕事にかかるリスクは高まるばかりだ。
「運んでみてわかった。迎え入れた兵士の様子をみてわかったんだ。あれはオトリだ。今ごろ本人は、高級ホテルでゆっくりくつろいで、明日にはファーストクラスでご帰還だ」
 確かにエイキチもそのスジは予想していた。マリイが何かをみて、それを確信したのだろう。
「でも、9時キッカリに飛んだんだろ」そこがポイントになるはずだった。
 走行音が続いた。それが途切れると信号待ちだ。気の抜けた息もれだけが届く。
「どうだかな、9時キッカリでないと困るのはアチラさんじゃないんだ。上ばかり見てると下が疎かになり、下ばかり見ていれば上に隙ができる」
 マリイはそんな禅問答のような言葉を吐いた。それではエイキチは何も答えようがない。
 事務所の部屋で寝転がった時に、天井のダクトが汚れていた事を思い出して、それにかけて言ってみただけだった。
「この国の閣僚が困ることになるから、仕込んだってことか?」
 エイキチもマリイが何処まで確信を持って言っているのか疑心暗鬼だ。これでは自分の領分が侵されてしまう。
「エイキチ。心配するなよ。すべてわかって言ってるわけじゃないから。そういうニオイがするって、それぐらいのものだ」
 そういう感覚的な部分は馬鹿にできない。理論で固めるタイプのエイキチには特に弱いところであり、これまでも何度も痛い目をみている。
 マリイは、そういったひらめきを持ち合わせている。エイキチもそれには一目置いていた。当の本人は当てずっぽうで言っているので、それほど記憶に残っておらず、得意げでもない。
 アルファは軽快に夜の街を快走していく。マリイは窓を少し開けて空気を入れる。甘い香りがした。車内に残っていた嫌な毒素が浄化されていく。
 エイキチが見るモニターに気になる一文が目についた。自国のエアバスが他国のプライベートジェットとニアミスを起こしそうになったとある。
 プライベートジェットの飛行計画は提出されておらず、目下、原因を解明中とまで表示して直ぐに消えた。エイキチもモニターを見ていなければ見逃していただろう、一瞬の出来事だった。
 この場合考えられるのが、介入不可のお達しが出たということだ。エイキチはすぐさまエアバスの予定航路を調べた。
 先のプライベート機が、1分毎に進む飛行空域を割り出し当てはめる。5分遅ければ衝突していたのがわかる。
 自分の中に溜まった毒素もなくなっていけばいいと、マリイはクルマを走らす。いくらスピードをあげてもそれは消えないようで、単なる気の紛らわしにかならなかった。
 どういうことだ。エイキチが訝しがる。もちろん航路が重なるとしても、必ず衝突するわけではない。回避行動は取るだろうし、民間機が路線に侵犯してくること自体あり得ない。
 プライベート機のあとを追うように同じ基地から戦闘機も離陸している。要人を守るためという名目で軍機が護衛し、航路のさまたげになるエアバスを仕方なく撃墜する。そんなストーリーがアタマに浮かんだ。
 有り得ない。エイキチはアタマを振った。表舞台にでるのは皆、なにも知らない者達ばかりだ。実際は要人でなくてかまわない。そう設定された人物であれば名目は立つ。
 権力者がその地位を護るために、もたらされた力を継続するために、いつだって犠牲になるのは、そんな名もなき人々だ。
 マリイとエイキチが護ったものは何だったのか。それは同時に、どこか別のところの、多くのものを護れなかったことになる。
 エイキチの脳裏に今日の文字起こしが思い浮かんだ。”ホントに、やるのか?”。”おかでは溺れんだろ”。地上で撃墜すれば溺れることはない。
 いくら走っても、マリイの気は晴れなかった。いくらモニターを凝視しても、エイキチの疑問は晴れなかった。それでもまた明日も同じことを続けている。誰にも逃れられない。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(神社~幹線道路~軍基地への側道で9)

2025-04-20 22:00:19 | 連続小説

 9時キッカリになって、何人かのSPに囲まれたふたりの外国人がクルマに乗り込んできた。男と女だ。男は紺のボルサリーノハットを深く被り、女はエルメスのスカーフで顔を覆っている。
 外国の要人と言われても、マリイは顔を見ても誰なのかわかるはずもなく、本物かどうかを知ることもできない。事前に確認しておけばよかったのかとアタマをよぎる。
 SPがクルマのサイドウィンドウを叩いて何か言っている。ウィンドウ越しに口がパクパクと動いている。聞こえたとしてもマリイに外国語がわかるはずもない。
 手を前に振っているので、早く出せということなのだろう。動作で示してもらった方が早い。言われてなくても時間との勝負だマリイも1秒でも惜しい。
 直ぐにエイキチにピックアップした合図を送ってからクルマを出す。早く出せという割にはいつまでもSPがまわり囲んでいるのが鬱陶しく、大きく空吹かしをしてからクラッチをつないだ。
 爆音の後にスキール音を鳴らして裏口を飛び出た。乗り込んだ男女は、声をあげて驚いてから、何やらまくしたてている。どうやら乗り心地は度返しで、時間優先の言質は取れていないようだ。
 それを試す意味での急発進でもあった。バックミラーにはこちらを指さしてわめきたてているSPが見える。これを見る限り本人である可能性が高くなった。
 エイキチが言うように、知ってしまっては、どうしても走りに差が出るだろう。であれば本人だとして運転したほうがいい。緊張感も高まる。
 代理人がそこについて、なにも言及していなのも気にかかる。あれ以来、音信は途絶えたままだ。エイキチたちが疑心暗鬼になっているのはわかっているはずだ。
 公道に出ると案の定何台かのクルマや、バイクが後ろに着いてくる。裏手から出るのがバレているのか、それともリークしておいて、あえてマリイを裏手に配したのか。
 だとすれば今度はオトリの可能性が高まってくる。「どっちだと思う?」マリイが訊く。
『どっちもまだ有り得るな、、いいよ、もう気にすんなって。戦略の遂行に集中しろ。神事の時間は押してる。交通規制のギリギリで通過するには都合良いが、基地までの時間が足りなくなる』
 言うのは簡単だがやるのは難しい。なるべく追走車を引きつけて、規制が入るタイミングで、一気に突き放して分断したい。
 エイキチが一番懸念しているのはそこだった。神社までは時間調整の走りになるのでスピードは出せない。かと言ってチンタラ走っているわけにはいかない。
 神社を越えて報道陣を振り切ってからは遅れた時間を取り戻すために、かなりのスピードで走らなければならない。信号ひとつの引っかかりが命取りになる。それこそ秒単位での行動計画が必要となる。
 幹線道路にでると交通規制の案内も行き届いているようで、他の一般車両は少なく3車線の道路は自由につかえそうであった。
 まずは身軽なバイクがアルファの両側のサイドウィンドウに寄ってくる。後ろにまたがるカメラマンが身を乗り出してシャッターを切る。
 フラッシュは焚けないので、窓にできるだけ寄りたい。バイクが邪魔で近くに寄れない数台の報道車は、何度もクラクションを鳴らし、助手席から身を乗り出しテレビカメラを向けてくる。
 そんな集団が走れば当然のように幹線を警備している警察が黙ってはいない。サイレンを鳴らして追走してくる。すると報道者は大人しく隊列を整える。
 マリイが派手な走りをしなくても、十分にまわりの目を引いている。警察も整然と走れば文句は言えない。持ち場を離れるわけには行かないので、いつまでも追走することもできず離脱する。
 そうするとまた、バイクがアルファを取り囲んでを繰り返す。左右をバイクに固められ走りづらいはずなのに、マリイは顔色ひとつ変えずに、ステアリングを固定して直進を続ける。
 それだけアルファのアライメントが正確に取れており、更にマリイの強いメンタルも加わって、驚異の安定性を保った走行を可能にしている。
 エイキチの判断でバイクを盾がわりにするのは計画通りだった。報道者のドライバーの腕では、さらにその外側を並走する度胸はないようだ。
 そして交通規制のふたつ手前の信号で、エイキチから『”3B”』の指示が飛ぶ。ブレーキング強度の数値化で、マリイはまだ青のタイミングで急減速してバイクを先に行かせる。
 信号で止まることができず信号を渡ってしまったバイクは脇道で待機するしかない。好都合とばかりに今度は報道車が左右を固める。3車線の道路は、信号の先頭となるアルファと数台の報道車で埋め尽くされた。
 ここまで来ると、一般車両は皆無になった。この道の先で足留めになるのは確実なので、あらかじめ迂回するのは当然だ。
 バイク陣は、青になったらアルファの前を押さえようと、虎視眈々とエンジン音を唸らせる。報道カメラが左右から向けられ、助手席ではリポーターが、マイクを手に何やらまくし立てている。
 それと合わせるかのように、後部座席のふたりが時計を指さして騒ぎだした。いかにも高級そうな時計だった。今日運んだお年寄りも、同じような時計をして、自慢げに話していたことをマリイは思い出した。
 こんなことしていて間に合うのかと言いたいのだろう。マリイは「シートベルトして、口を閉じてろっ!舌噛むぞ!!」と大声を出した。通じたのか定かではないが、ふたりは目を見合わせて大人しくなった。
 ところが今度は青になってもアルファは発進しない。事情を知らない後続の車両から、クラクションが浴びせられる。
 折角脇を押さた報道者は、先行してみすみす他社に側面を譲るのは勿体ない。前にはバイクが控えている。ならばと右側にいた報道車が先行して、アルファの前を抑えようと試みた。
 正面から後部座席のふたりの絵を撮るつもりだ。これではバイクも何時までも待ち構えているわけにもいかず、トロトロと動き出した。
 それがトリガーだった。マリイは先行した右側の報道車がいた車線に、後続車が来る前にアタマを突っ込みスタートダッシュをする。
 交差点内では反対車線まで膨らみ、そのクルマと横の並びになる。バイクからは先行した報道車が死角になりアルファが見えない。
 その状況で後続の報道車が何台も折り重なって来るので、バイクは行き場所を失い、再び脇に追いやられていく。
 ごった返す報道陣を置き去りにして、交差点の反対車線から、3車線の一番内側に飛び込んでくるアルファだけが猛加速していく。
 我先にと交差点内で横に伸び切った報道車は、バイクを押しのけるように先陣争いをして、数台がまとまって3車線になだれ込んだため接触しそうになり、急ブレーキをかける始末だ。
 これで報道車は分断できた。マリイの目の前では、神社の直前の信号が封鎖されようとしている。次は規制時間との戦いだ。2速で引っ張るだけ引っ張って3速に入れる。
 グンッとアルファが加速する。これまでのドライビングとは異次元の走りだ。マリイに釘を刺された後部座席のふたりは、顔面を蒼白にして後部座席に張り付いている。
 徐々に歩道側から警官が警告灯を振って制止を促しだした。マリイは減速することなくそこに突っ込んで行く。
 当然スピードを落とすと思っている警官は、驚いて後ずさりしてスペースを開けてしまった。マリイはそのスペースにアルファをねじ込んでいく。
 引き返す警察の尻をかすめるようにしてアルファが駆け抜ける。ざわめき出す警官たち。ホイッスルを吹きながら警棒を抜く。封鎖が終わった50メートル先の交差点からも何事かと警官が寄ってくる。
 向かってくる警官に対してスピードを殺さないまま直角ターンを見せる。瞬時にタイヤが焼ける匂いがあたりに広がっていく。
 まさに間一髪、警官から見ればあんなところに道があることも知らず、側面に衝突すると思われた。そうしてアルファはスッと消えゆくように脇道に入っていった。
 唖然とする警官たち。今の普通車の車幅では絶対に通ることができない道だった。旧車のアルファだからこそ、そしてエイキチの出したセッティング。そしてマリイの超絶テクニックが重なってできる走行であった。
 追いかけることもできず脇道の位置口で立ちつくす警官たち。アルファのテールランプが細かく揺れながら遠くなっていく。
 ここまでは計画通り、予定通り。ここからは時間との、自分との闘いだ。脇道は神社のまわりを囲むように通っている。
 突き当りを再び直角ターンする。狭い道幅でスピードを殺さずに90度曲がるのは簡単ではない。イン側はサフロントのオーバーハングを擦るぐらいに切り込んでいく。
 リアをブレークさせながら石垣にリアバンパーを当て、火花を散らして旋回していく。車内にもビビり音や振動が響いてくる。
 後ろのふたりはシートベルトを両手でつかみ、両足で踏ん張っている。目を開けられない。硬直したままだ。それでも予定時間から遅れている。
『マリイ! 5秒遅い!』エイキチから𠮟咤とも言える指示が飛ぶ。
 それはあくまで結果であり、マリイも1秒でも詰めるための走りをしている。いま遅れているなら、これからできることをするだけだ。
 脇道を抜けて幹線道路に戻った。まだクルマは増えていない。いつもより走りやすいのは幸いだ。
 すでに何秒でこの区間を走れば、信号が青のタイミンで通り抜けられるか割り出してある。そのために、時速何キロで走る必要があるかを区間毎に設定し、マリイに伝え続ける。
 基地まで残り10分で着く必要がある。あとはマリイの腕次第だ。5秒を取り戻すために予定より速度をあげる。加速する。
 ひとつ目が黄色に変わる。止まってはいられない。フルスロットルで交差点に飛び込む。右折をしようとした対向車が動き出したところでブレーキをかける。
 3車線の一番内側を走っていたアルファは、そのクルマをよけながら真ん中の車線に移動する。さらに法定速度で走るクルマたちを縫うように走り続ける。極力速度を落とさないようにスムーズにスラロームを繰り返す。
『あと2秒!』3秒詰められたのは大きい。次の信号は少し余裕を持って通過できた。
 3つ目の信号は基地へ向かう側道に右折しなければならない。右折車線に3台クルマが並んでいた。行儀よく後ろに並んでいる場合ではない。
 信号が黄色に変わり、続いて右折専用の矢印信号が灯る。マリイは真ん中の直進車線からブレーキを踏むことなくその3台をパスして、サイドブレーキを引きリアを滑らせてクルマの向きを変える。
 対向車線から右折してくるクルマのフェンダーを避けながらも、パスした右折車の先頭車両のアタマを押える。
 突然目の前にクルマが横滑りしてくるのに驚いた運転手が、慌ててステアリングを深く切ってアルファとの接触を避けた。
 交差点内の混乱をしり目に、マリイは悠々とひとり側道を行く。『よっしゃー!』エイキチの叫び声が聞こえた。マリイもステアリングを叩いて感情をあらわす。声には出さない。
 声を出しても、後ろのふたりにはとどかない。ふたりは目を回して気絶していた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(マリイとエイキチのあいだで8)

2025-04-13 16:23:37 | 連続小説

 アルファはすっかりと暗くなった幹線に戻っていた。交通量は少なめだ。件のホテルからはまだ遠いのに警察車両がそこココに張っている。それが原因か、交通規制の事前告知が行き届いているのか。
「あのさ、エイキチ。アタシたち、外国の要人を運ぶと思うか? ホントーに」
 そこはエイキチも気にはなっていた。マリイには言わない方がいいと黙っており、マリイから言われることも想定はしていた。
 モニターを操作する手がキーを空打ちしている。作業が形而上になっており意味を持っていない。いくつかの文字がモニターを横切っていく。読み解けなければ何の意味もない。
 人差し指の第二関節を噛んでエイキチは思いを巡らす。集中していくときにそうなってしまう癖だった。せっかくマリイが作ってくれたサンドウィッチが干からびていく。
 時間通りに着く代償として、どのような運転になろうとも承諾してもらう。この国の政治家や官僚であれば、それでも受け入れられる。海外の要人にその言質がとれるのか。
 ならば、そんなリスクを冒さなくても、ひと目を引くことになってしまうとしても、警察に先導させるなり、合法的な方法がいくらでもあるはずだ。
 最初は代理人の言葉からミスディレクションを起こしていたエイキチは、それ前提の思考に収まっていたのも確かだった。
「裏口からオトリを乗せて、報道陣を引きつけて、本人は正面から反対側にある国際線へ向かい、誰の目にも触れることなく悠々と国外退去する。それが妥当な方法だな。おれたちの仕事にもお似合いだ、、 」
 そんな中で、自分の不甲斐なさもさることながら、エイキチのたちがオトリだと気づくことは、代理人には予定通りであるとも考えられる。
「マリイが色々なことを気に入らないのはわかる。悪いとは思ってるけど、それも考えの内だ。ウラのウラで、当事者が乗り込む可能性もゼロじゃない。それを考えれば、代理人がそう言っている限り、フラットな状態で臨んだ方が良いと判断した」
 オトリであれば、あえて目立つ走りで報道陣の目を引くこともできる。それを代理人が選択しようとしないのは、どちらでもあり得る状況で運ばせたいからだ。
 向こうから撃つことはできる。だが、こちらから撃つことはできない。それがどうにも釈然としない。考えないようにしていたのに、またぶり返してきてしまった。
 エイキチの言い訳じみた言葉に反応はなく、しばらくは走行音しかその耳には届かなかった。なにかを考えているのか、エイキチの意見に否定的なのか。静かな雑音だけが耳に鳴り続けていた。
「あのさ、エイキチ。オトリだろうが、ウラがあろうが、アタシたちがやる仕事はひとつだけだろ、、 」
 いつだってエイキチを元に戻してくれるのはマリイだった。
「 、、約束の時間までに、依頼人を運ぶ」
「それが、誰だろうが関係ない。それでこの国がどうなろうがアタシ達には変えられない、、 そうやって世の中はまわっていくし、良いことをしているつもりでも、それが誰かにとって悪いことにもなり、その罪はどうしたって拭い去ることはできないんだ、、 」
 エイキチはここでようやくマリイがゴンぎつねの話しを持ち出してきた意味を知った。マリイが気にかけていたのはそこであった。
 代理人に敵対心を持っていたわけでも、この仕事の先行きを気にしていたわけではなかった。それをわかってやれなかったこともまたエイキチの失態だ。
 マリイは吹っ切るつもりのようだが、このジレンマはどんな仕事においても同じだ。真っ当な仕事で得た金の出所がどこからか知ることになれば、誰だって一時は冷静でいられない。
 背負う必要がなくても背負ってしまう者。それとは逆に、自分のせいで多大な迷惑をかけているにもかかわらず、一向に気にしないどころか、皆のためだと豪語する者もいる。
 そしてこの世界を動かしていくのは後者であると誰もが知っている。
「アタシたちが闘うべきは代理人じゃないだろう」マリイは少し笑っていた。
 届かない場所で多くの決まりごとが定まっていく。それを行使するために、なにも知らない人たちが仕事の一環として働いている。
「そうだけど、、マリイがそこに引っかかってると思ってた」つられてエイキチも困ったように口角をあげる。
「どいつも、コイツも、腹に含んでオモテに出さないから」代理人と、エイキチのことを言っているように聞こえる。マリイ自身のことなのかもしれない。
「良いように使われるのが嫌なら、期待を超えるしかない。それではじめて対等になれる」
「マリイ、、 」マリイは冷静だった。
 ある意味エイキチより代理人と正しく向き合っている。手札に切り札を収めるには、他の誰かではできない何かを身にまとうしかない。
「余計なこと考えてるから、アタマがまわらないんだ。とっとと、自分の仕事をしろ。いつまでもボケたことしてると、次はホントにハゲ作ってやるからな」
 余計なことを考えさせるようなことを言って、気を散らしてきたのはマリイだ。
 ただマリイが言っているのはそれに限った話ではないので、エイキチも反論できない。大事な仕事の最中に今後のことばかり考えている。今回がうまくいかなければそもそも次はない。
「ハゲがあっても、困りゃしない。どうせオマエにしか見られないんだから。もう少し効果的な方法考えろ」
 全面降伏するつもりはないという意思表示だった。確かに余計なことにうつつを抜かして臨めるほど簡単な仕事ではない。

「グルコースが足りてないからアタマが回らないんだ。サンドウィッチ、まだ食ってないだろ」
 言われる通り、まだ皿の上だった。ヤケ食いとばかりに、食べそびれていたサンドウィッチを頬張った。とたん、アタマがシビレるぐらいの衝撃が走った。
「マリヒィ、、 てめへぇ、、 」
 サンドウィッチには、マヨネーズの代わりに大量のマスタードが塗られていた。口から火を噴く勢いのエイキチは、そのあとの言葉が続かなかった。
 めずらしくエイキチの分まで準備してくれたと思ったら、こんなウラが用意されていた。やはり腹に含んでいるのはマリイも同じであった。
 エイキチがこの反応をしていなかったので、サンドウィッチを食べていないのがわかる。食べさせようとタイミングを見計らっていたマリイに、まんまとハメられた。
「、、効果的だろ。少しはアタマが回るようになったか?」
 エイキチはコーヒーを口に含んでなんとか回復に向かった。いつもならブラックのコーヒーが、今日は糖分が入れられていた。マリイがこの事態を想定して仕込んでいたのだ。
「代理人がアタシたちに何を望んでいるのか、どうすれば期待を超えられるか」
 マリイの優しさも含めて、なにからなにまで先手を取られて形なしのエイキチは、痛む口内に冷えた空気を送るのが精一杯だ。
 そうはいっても確かにアタマは冴えてきた。マリイにやられっぱなしでは面目が立たない。
「わかった。それじゃあ今から最適解を導き出ふっ、 す」まだ口内は回復していない。
 どうしたって報道車を引き連れながら、ホテルから基地まで走るのは様々なリスクが考えられる。より確実に仕事を遂行するには振り切っての単独走が必要になる。
「マリイは”フタマル”キッカリに裏口に着くように調整して、流してるあいだに目視で何か気になることがあれば報告してくれ。ああ、神社の辺り調べてたけど、使えそうか?」
「地形見れるか? 脇道があるだろ。これ、どうかな」
 エイキチはマップを表示しているモニターをのぞいた。続いて神木を運ぶ経路のデータを当てる。交通規制になる前にそこに飛び込めば、追走する報道車をその前で分断することができる。
 そのまま神社の裏手をまわって行けば、基地への主幹道に抜けられる。仮に報道陣に行き先が基地だと知れていても、規制がはけるまで動けないので追いつけない。
「使えるが、簡単じゃない。いけるのか?」
「いけるだろ。エイキチが指示してくれれば。これまでもそうしてきた」
 そこまで言われて奮い立たなければ、バディとしてどうなのかと突きつけられたと同様で、やってみせるしかない。これまで後手に回ったことへの償いもある。
「わかった。ホテルに着くまでに何とかする」
「下のタマゴサンドは、カラシ入ってないから、ソッチ食って考えろ」
 そうは言われても、先ほどの衝撃はまだ残っており、大丈夫だとわかっていてもカラダが拒絶している。最初に口にしたハムサンドの残骸を見れば、それをさらに増進させる。
「おれ、今後、オマエが出す食事に恐怖心を拭いされそうにない」
「エイキチの目を覚ましてやろうとしただけだから。そんなに心配するなって。それよりさ、これからもメシ作ってもらう気でいたのか?」
 またしてもマリイにやり込められている。余程の戦略を考えない限り、このヒエラルキーは当分続きそうだ。それもまた、良いプレッシャーだと思えばいい。
「そうだな、気が向いたら作ってやるからさ、期待せずに待ってろ」
 このひとことがエイキチを一番駆り立てることになった。ひとの気持ちでカラダが動くなら、罵倒や脅しよりよほど有効であるといえるだろう。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(事務所から幹線道路で7)

2025-04-06 17:33:41 | 連続小説

「あのさあ、エイキチ。ゴンぎつねの話し知ってるか」
 そんなこと、今言わなきゃいけないハナシなのかと、エイキチはため息をつきそうになる。それでもつき合ってしまう。
「それって、手袋買いに来たヤツだっけ、、」
 ハアぁと、マリイは大きくため息をつく「言うと思ったけど、ソッチじゃなくて、最後に親切にしてやったヤツに銃で撃たちまう方だ」。
 マリイの言い方に苦笑いしつつも、思いを巡らすエイキチ。確かに小さい時にそんな話しを読んだ記憶がある。教科書に載っていたはずだ。
 その時は、せっかく食べ物を持ってきたのに、撃たれたキツネがかわいそうだな、というぐらいしか印象がなかった。それで終わっていた。
 少しづつアタマを使って思い出すことにした。パソコンで検索しようとして止めていた。他人の意見が入っては情報が歪んでいく。
 そんなつもりもなかったのに、結果的に村人を困らせることになっていたキツネが、ひとの死をキッカケにして自分の行動を改めて、迷惑をかけた人に匿名で善行を続けていく話だったような気がする。
 どうしてマリイがこのタイミングでそんなことを言い出すのか、その意図が知りたかった。マリイが意味もなくそんなことを言うとは思えない。
 人に迷惑をかけるより、誰かの役に立っている方が、存在価値を実感でき、生への喜びを身をもって知ることができる。そうわかっていてもなかなかできないことだ。
 マリイが今さらこの仕事にその価値を見い出したいのか、それとも誰かのために続けようとしているのか。結局カマをかけるような言い方しかエイキチにはできなかった。
「なんだマリイ。自分の仕事が誰かの役に立っているって、ようやく気付いたのか? それとも何かに報いるために、この仕事をしてるとか?」
 エンジン音が高くなった。否定されているような気になる。
 さらに無言のままで、エンジンを吹かす音が繰り返されると、何か気に障ったのかと気になってしまう。
「出るぞ」マリイがそう言った。
 そしてそれを合図にしたように、マリイは自分の想いを口にしはじめた。
「誰かのためとか、報いるにしても、自分自身の考えなら、それでいいはずなのに。それなら誰にでも優しい世の中が、過去から未来まで続いている。そうじゃないから、今の世の中があり、未来に希望が持てないんでしょ?」
 少数の善意は踏みにじられて、多数の利益が優先される。自分の都合のいいように、誰かの未来をねじ曲げていく。希望が持てないのは、エイキチもマリイも、その中に含まれていると言っているように聞こえた。
 最後に撃たれてしまったことをマリイは問題視しているのだろうか。悪いことをしたら、いったい何時までもその尻拭いをしなければならないのかと。
 誤解を招くようなことはしないようにしましょうと、子どもになら言い聞かせられる。しくじった大人なら、身を持って体感し、多くの後悔と、少しの糧にする。ひとに迷惑をかけたと実感できていればの話しだ。
 一度の失敗でやり直しがきかなくなることで、抑止力を働きかけるのは行き過ぎなのか。現実をみれば失敗した者が更生したくても、それはなかなか叶わないということで実証してしまっている。
 意図せず犯罪者になったとしても、一様にその呪縛に囚われる。工程は興味を持たれず、結果のみが知れ渡っていく。あの人は犯罪を犯したという偏見を剥がすことは簡単ではない。
 そんなことを漠然と考えていた。エイキチも失敗したわけでも、悪いことをしたわけでもないのに、そんな経験は何度もしてきた。身体的な面に置いて同等に見られていない。
 それがエイキチの側から感じる線引であった。コチラからは越えようもない線がそこにあった。やり直しを望む者たちも同じようにそんな線やら、壁が見えているのだろうかと。
 誰かひとりが勇気を持って、その人を庇ったとしても、同調圧力の前に埋没してしまうことはよくあることだ。失敗しない人生をおくれる人間が果たしてどれだけいるのか。
 それが重荷となったり、あえて挑戦することを恐れたり、そして犯罪を繰り返すことになれば、やっぱりとなり、それは当人だけでなく、更生や、やり直しを望む大勢を巻き込むことになるのだろう。
「そういうもんだって、慣れていった。誰かに圧しつけるものでもないだろ、、 誰だって異質なモノを受け入れるのには勇気がいる」
「たいがい、そういうのって、何の悪意もないところかはじまってるから。お互いにそうでしょ。それがいつしか大きな溝になってしまう。端から見ていれば滑稽でしかない」
――おれは、マリイをキズつけたのか?
 その立場にあるとも思っていないのに。
 モニターを見ると、マリイはホテルへの道を遠回りするようにクルマを進めている。時間に着けば問題はないとはいえ心が落ち着かない。試されている気がする。
 ふつうに行けば、ホテルまでは30分もかからず着いてしまう。そうなると30分ぐらいは現地で待機することになる。
 いまのクルマの状態では、エンジンを切るとすぐに走り出せない。エンジンを切らずに待つか、その時間に合わせて着くようにする必要がある。
 多分マリイは、それに合わせて時間を調整しながら走っている。例の神事が行われる神社の辺りまでやってきた。
 そこは運ぶ時には使えない道なので、別段下見をする必要もない。それなのにマリイは、神社を中心に何度も周回を繰り返しだした。
 神事が行われるほどの神社だ。一周するのに2kmぐらいの広さがある。
「どうした?気になるのか」堪えきれずにエイキチが訊いてしまった。
「ココって何時から交通規制がはじまるんだ」マリイがそのことを知っているのは意外だった。
「なんだ知ってたのか」どこで知り得たのかエイキチは訝しがる。
「プリント、見た」おもわず仰け反るエイキチ。
 サンドウィッチのプレートを置いたときに目にしたのか、目ざといというか、エイキチの不覚か。本当ならマリイに余計な情報を入れたくはなかった。
「フタマルサンマルだ。主要道路だからな。規制は短時間に収めたいようだが、時間がカブるから使えねえぞ」
「使えないのなら、使えるようにするのがエイキチの腕の見せどころだろ」
 自分の仕事をしろと尻を叩かれている。確かに使い道がないわけではない。オプションのひとつに組み込んでおくのも悪くない。
「キツネを撃った男は、あとでキツネの真意を知ることになるだろ。それで男が悔やんで終わるんだ。誰も幸せにならない。キツネの善意を知らずに、親の仇を取ったと思っていたほうがよほど幸せかもな。世の中にはそんな掛け違いはいくらでもある」
 何かはぐらかされている。マリイは追っかけて、そう言ってきた。かけ違えは二重の意味を持っていた。
 教訓など、どのようにも後付けすることができる。多くの人々に迷惑をかける愚行を繰り返していた者が、ある日を境に改心して善行を積んだとしても、それでこれまでのおこないがチャラになったわけではない。
 まだ自分の意思で動くことが出来た子どもの頃、一緒に下校していた友達は、野菜の無人販売のお金入れから毎日お金を盗って見せた。エイキチはそれを傍観していた。
 エイキチは止められなかった。やめろと言ってやれなかった。その友達は強がってやっていたように見えた。ホントは悪いことだからやめろと言って欲しかったのかもしれない。
 友達はその行為が見つかった時に、悲しそうにエイキチを見ていた。最初はふざけていただけかもしれない。それがその範囲に収まらないこともある。残念ながら、いつだって気づくのはあとになってからだ。
 同等に考えるのはおかしいのかもしれないが、戦争をやろうと言い出した国のトップは、強がっているだけで、本当は誰かに悪いことだと、とめて欲しかったのかもしれないとさえ思えてくる。
 本人が夢中になっている最中には、誰かを追い詰めているなど思いもよらない。誰かが気づいてあげることができればよかった。
 あとで改心しても、せいぜい迷惑をかけなくなったことが評価され、善行は当たり前と思われる程度だ。
 その愚行のせいで、どれほどの人が悩み、苦しみ、もしかすれば死に至ったかもしれないことだって有りえるのだから
「今日さ、乗せて来た女のコ。エイキチ、あれ、誰か知ってるのか?」
 どれほど真っ当な仕事でも、誰かが行っている仕事は、大概誰かのためにもなっていと同時に、誰かの迷惑になっている。それは誰にとって、何が正義かと同じで、永久に相容れない。そして最初から人の迷惑を考えていては、どんな行動にも制御がかかってしまう。
「どうした。気になるのか?」
 それを償おうと考えるのも間違いじゃないし、自分の所為ではないと遠ざけてしまっても非難されることではない。誰だってそこまでの責任は負えないのだから。
「別に、、、」マリイは何故だか彼女にもう一度会える気がしていた。マリイが乗せた客にそんな印象を持つことはめったになく。今でもムズムズとしたほぞがゆさが残っている。
「オーナーからの依頼だから、ワケ有なんだろうけど、、 」
 エイキチにはそれぐらいの回答しか持ち合わせていなかった。
 オーナーの人脈は幅広く、様々な業種から職種に及んでいる。それは自分から広げていったわけではなく、多くの者が人伝いにオーナーを頼って来るので、知らぬ間に増えていってしまうのが実情だ。
 そんな中で、オーナーの眼にかなった者は、なんらかの支援を受け、誰しもその道を極めていった。それがまた新しい才能を運んでくる要因になっていた。
 そうであればマリイが運んだ彼女も、何かしらの特別な才能を持っているのだろう。今でさえ後部座席から、あの時のある種独特な雰囲気がマリイを刺激し続けている。
「アタシだって、ここで終われば限界を知るだけだ。知ったうえで、そのまま償いとして続けてもいい。だからって、最後にトドめを刺されるのはごめんだけどね」
 マリイもエイキチも、その例外ではない。特別な才能を保持しているのは間違いなかった。それを開花させられるか、燻ったまま終わるのか。ふたりは岐路に立たされているような気がしてならなかった。
「だからって、髪の毛切るのに職替えするつもりもないだろ?」そんなことは微塵も思っていないのに、マリイを煽るように言ってみる。
「あっ、後頭部にハゲ作ったけど、ゴメン」
「はあ!?」咄嗟にエイキチが触った感じでは、極端に刈り取られている箇所はないようだった。
「いま、後頭部触ったろ?」読まれている。エイキチはそのままの流れでアタマを掻いた。
 最初の判断を間違えれば、その先の思考は引っ張られたままだ。エイキチがそうなっているとマリイは示唆していた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(事務所の中で6)

2025-03-30 15:45:18 | 連続小説

 立場が弱い者でも、やり方次第では勝てる方法があるはずなのに、それを放棄しては権力者の下僕として生きるしかない。それがイヤなら闘うことを止めないことだ。
 多くの人たちは、それを放棄しているのにもかかわらず不平不満だけを綴ることで、闘っていると勘違いしてしまっている。
 それが権力者の思うツボだと理解できている者は少ない。いたならそうなるはずはないのだから。
 エイキチは迷っている。代理人がチラつかせる問いかけのような指示に反応すべきなのか。疑問を解決して代理人のハナを明かしたとしても、自分はいったい何と闘って勝利したというのか。
 よく出来たとホメてもらいたいわけではない。そうして有頂天にさせておいて、エイキチを通じて情報がリークしている実態や、軽々しい会話をする官僚たちの実情を暴く材料に使われているだけだ。
 何にしろ、もうそういった時期は過ぎたのだ。だからマリイもそろそろケジメをつけようとしている。そうだと思いたいのはエイキチも、もうその手前まで来てることの裏返しだからだ。
 論理的に考えれば今回の大国との会合で、この国に不利な条約なりが締結され、共同発表されれば、報道機関がこぞって相手国の強権を非難しつつ、我が国の日和り見な政策を罵倒するだろう。
 報道陣が相手国にカメラを向けて非難するような問いかけをすれば、その後の関係性も悪化し、ますます現政権の立場は悪くなる。非難の目は我が国の腰抜け政府に向けさせなければならない。
 それには相手国の関係者を即刻に国外に出してしまいたい。相手国の要人もそんな報道陣の相手をする義理はない。
 軍基地を選んだのは、防衛上の理由からと、治外法権が行使でき、軍事的理由からスクランブル発進が可能だからだろう。
 ホテルから軍基地に直行して運んで、軍用機で離国させればいい。次の予定が前倒しになったとか、急遽に新しい会合が決まったとか理由はなんでもつけられる。
 攻め込む相手がいなければ、いる者に襲い掛かるしかない。その方が報道機関もやりやすい。相手国に食い入ってコメント取るには、それなりの力量と、親会社の腹を括った対応が必要となる。
 無理してスクープでも狙おうと、ヘタな行動にでれば逆に餌食にされ、やり込められて、親会社から切り捨てられればこの業界で食っていけなくなる。
 だったら、この国の政治家をしぼり上げて、庶民の留飲を下げるような記事を書けばいい。すでに仕込み済みだ。困り顔で汗を拭きながら、不細工な言い訳をする政治家の映像を流せばそれで幕引きとなる。
 どうせそんなところだ、すでに描かれている絵の評価をして、自分の存在を知らしめてなんになるのか。代理人の空拍手が聞こえてきそうだった。ただ、マリイが運ぶのはそちら側か、コチラ側かはわからない。
 真実を訴えればすべてのひとが幸せになるわけではない。誰かを踏み台にしなければ生きていけないひともいる。それを甘んじて受け入れてるのも優しさであり、現実から目を背けさせる原因にもなっている。
 奥の部屋の扉が開いてマリイが出てきた。もう少しすれば午後の7時になる。今日着ていた服のまま横になっていたのか、あちらこちらにシワができていた。口にサンドウィッチを咥えている。
「おいおい、これでも客商売なんだから、、」エイキチが眉をひそめて窘める。たぶん通じていない。
「客商売って、、 短いスカートでも履けって?」遠からず、近くもなかった。
「あっ、いや、それで客が増えるわけでもないから」
 エイキチはつまらない返答だと、渋い顔をしてモニターに向かった。マリイはエイキチに寄ってきてアタマを叩いてきた。
 エイキチが言いたかったのは、流しで客を拾うわけではなく、すべて代理人から回ってくる仕事なので、客足に支障がないという意味だった。マリイがミニを履いても魅力がないという意味に取られた。
「エイキチも、ナンか食うか?」とはいえ根にはもっていないようだ。
 いま腹に入れとかないと、食いっぱぐれるだろうからと、頼むよと返答すると、マリイは台所に戻っていった。フウと息をついて肩の力を抜く。ひとりで考え事をしていると妙に力が入ってしまう。
 マリイとの他愛のない会話で身が解されていく。きっとそれがいまの自分にとって、最も大切なことであると実感できた。こういう時に、マリイとの関りなしで生きていくには辛いだろうと感じる。
 マリイが戻ってくると、先ほどとは別のサンドウィッチを咥えていた。少しずつ口の中に収まっていく。プレートを片手で持って運んでくるカチャカチャと小気味いい音がした。
 プリントアウトした資料が何枚も置かれたテーブルの上に、マリイはプレートを遠慮なく置いてきた。
 プレートに置かれた皿の上にはハムとチーズのサンドウィッチ、もうひとつはレタスとタマゴだ。マグカップにコーヒーが入っている。
 エイキチがありがとうと礼を言う。見ていた資料はトレーの下だ。それについて文句は言わない。
 マリイが咥えていたサンドウィッチは、すべて口の中に納まった。そのまま冷蔵庫に向かい炭酸水を取り出してコップに注いでいる。
 滅多にひとに会わないと、却ってひととの付き合いの感覚が研ぎ澄まされていくようだった。このひとはいったい何を考えて、この行動をしているのか。エイキチには見えてしまう。
 少しの息遣い、言葉の発し方や順番、一緒にいれば目や口の動きや、表情であったり仕草は、言葉以上に雄弁にそのひとの心内を語ってくれる。
 それが自分だけの能力なのか、みんなが持ち合わせているものなのか、近くのサンプルはマリイしかおらず、たまに来る訪問者だけで証明するには少ないエビデンスだった。
 そして当のマリイは顔や言葉にまったくと言っていいほど感情を表さない。それがまたエイキチに刺激を与える。マリイとの接触はエイキチに新たな興味を植え付け続ける。
 それがいつまで続くものなのか、そんな刹那的な関係が、自分を余計に昂らせているとは信じたくなかった。まったく見えないマリイの気持ちも考慮しなければいけない。
 マリイは炭酸水を飲みほし口からガスを抜き出す。その明け透けな行動にエイキチは脱力した笑みをこぼす。自分の前で何の気負いも、てらいもないマリイに愛おしさを感じている。
「悪りいな。こんなんで。いまさらだけど、、 」そう言ってエイキチの背後にまわる。
 そのままエイキチの肩に手を置く。そしてその手をスルスルと胸の辺りまでおろしてくる。心音を確かめるように。エイキチは戸惑っていた。やはりマリイは特別だった。
 表情からも、行動からも、言動からも、それがどうして結びついていくのか、自分の理解の範疇を超えていた。これは代理人とのやりとりより解読が難しい。
「食えよ。早く。うまいぞ、たぶん、、 」
 そう言われてエイキチが手を伸ばそうとすると、アラートが鳴った。マリイはエイキチから離れインカムをセットし、そのまま事務所を出てガレージに向かう。出動がかかるのは間違いない。
 アルファに乗り込みエンジンをかける。この頃は始動にムラがある。なだめすかせるようにして暖気を行う。少しずつカブレターにガスを送り込み、プラグの発火が安定するまで待つ。
 明日にでもエイキチに見てもらわなければならないだろう。マリイのウデだけでエンジンを動かすのも、そろそろ限界に来ているようだ。それも次があればの話しだ。代理人とエイキチの会話は続いていた。
『マリイはホテルにやってくれ。”フタマル”キッカリに出発するから裏口で待たせるんだ』
「てことは、運ぶのはあちら側か」その質問だけで、すべての答え合わせをしようとしていた。代理人は少しだけ間を置いた。
『そうだな。軍専用機が飛ぶのが”フタマル、サンマル”がギリギリだ。受け入れ側の都合があって、そこがリミットになる。超えると今夜は飛べない。そうすると、、 』
「メディアが軍基地周辺で騒ぎ出す、、 」そこまで言ってしまってから、言わされたことに舌打ちする。
『誰だって昨日より明日の方が幸せになると望んでいる。それも自分の手を使うことなく。そんな民衆が大多数を占めているこの国を、その幻想の中で生きていかせるためには、どうしても仕方がない、、 エイキチならわかるだろ』
 心がまだやめていない。それを認めたくはない。認めたほうが楽になるとわかっているのに、そうしたとたんに自分自身が空になってしまう。
「エイキチ、大丈夫だ。オマエはまだ堕ちるタイミングじゃないから」マリイがささやく。
 エイキチとマリイのあいだだけで通じる通信で言ってきた。それでエイキチは自分を保てた。
「代理人。そんなおだてを聞いている時間はないですから。マリイを出します。何かあったら連絡ください」
 そう言って、エイキチは一方的に通信を切った。それがせめてもの反抗心だった。そんなものと闘ってなんになるのか。無駄だとわかっているのに行動にでてしまう自分の小ささに舌打ちする。
 他人であろうと、仲間であろうと、忠義も誠意も損得勘定の範囲内だ。いつ、何が、どちらが有利なのかアタマが良いヤツは即刻に、そうでなくともそれなりに判断できる。
 そうして下した判断によって、自分の一生と、まわりとの関係性が構築されていく。その先に損だったのか、得だったのかは見えてくる。
 大概が自分の思い通りにはなっていない。損得はその時の感情に左右される。誰かのためにしたことは、自分の満足度も向上させるし、そのひとからの思わぬリターンを得ることもある。
 最終的にはそのほうが効果的だとわかっていても、ひとは目先の儲けに目が行ってしまう「マリイ、出れるか?」。マリイを使いこなせてこそ自分の存在価値があると思い直す。
「エンジンきついから、もうちょっと時間かかる。 、、あした、見てくれ」
 エイキチはため息を漏らす「早く言えよ、髪切ってる場合じゃないだろ」。
「いいんだよ、次で、、、」そんな含んだ言葉にエイキチは笑みを含んでしまった。
 終わりにするにはまだ早い。そう尻を叩かれている気がした。


 継続中、もしくは終わりのない繰り返し(トウジロウの家5)

2025-03-23 16:56:37 | 連続小説

 蒲団の用意をしておくから台所で待っていてと、エマは部屋から追い出された。フトンがしまってある場所を教えてもらえれば、自分でやると言い出そうとして、他人の家の流儀に口をはさむものではないとやめた。
 それよりもトウジロウの胸の内を訊いておく必要がある。台所の食卓でトウジロウはコップ酒を呑んでいた。
「おう、手当てしてもらったか。メグの部屋着は、オマエにはちょっとデカかったな」
 適当に相槌をうって、エマはトウジロウの対面に座る「まあな、、 」。
 そんな話しをするために来たのではない。自分のトレーナーになるつもりがあるのか、明確な返事が欲しかった。それともこういった、なし崩し的なやり方が、この年代の特長なのか。
「娘さん、大変そうだ。自分のやりたいこともあるだろ」ならばエマも別の話題から切り込む。
「不憫に見えるか? 今どきの若い娘が、自分のしたいことも我慢して、オヤジの言いつけを訊いている」
 肩をすくめるエマ。それがおかしなこととは理解しているらしい。
「オレも悪いとは思っとるが強要はしとらん。嫌だったらやめてもいい、成人してるんだ、この家を出て自分の良いように生きると言っても止めやせん」
 そこにフトンを敷き終えたメグが顔を見せた。
「なに、話してるの、お父さん。今日はめずらしく多弁ね。エマさんと気が合うのかしら?」
 エマはちらりとメグを見あげた。
「どうかな?」トウジロウはあいまいにこたえた。
 メグに聞かれていても心配はしていない。トウジロウが普段から言っていることだった。メグは風呂に入ると行ってしまった。多分気を利かしたのだろう。
 もしくはトウジロウに、こういう場面は身を引くように言われているのかもしれない。エマの方に向き直って言う。
「オマエはどうなんだ? 高校にも行ってないんだろ。親は知ってるのか?」
「説教するために呼んだのか」エマは気を害した訳ではない。幾度も訊かれたことだ。
「ハッ、なんだか世の中は変わったようだな。そんな男たちはこれまでも大勢見てきた。家を飛び出して、着の身着のままチャンピオンに成りたいってのが舞い込んでくる。大抵、ちょっとシゴクと直ぐにケツまくって逃げ出したがな」
 エマはつまらない昔話しだとばかりにソッポを向く。
「いいだろう。条件がある。1週間ここで暮らして、オレの作ったメニューをこなせ。そのあとでどうするか決めさせてもらう」
 黙って聞いていたエマが、いいのかと、風呂の方に向ってアゴをシャクる。メグのことを訊いているのだ。気にするなと首を振った。
「裏の物置に道具はひと通り揃っている。ただし、久しく使ってねえ。掃除や片付けも自分でやるんだ。見込みのあるやつらは、何人かこうして、自宅に住まわせて練習を見てきた。オマエがそうなるかは、これからの出来次第だ」
 そう言ってトウジロウはコップ酒をあおった。エマは何を聞いても顔に表情を表さない。喜怒哀楽を表情にしないのは、勝負事をするうえで大切なことだ。
 もっと言えば、逆の表情ができることの方が重要だ。パンチが効いていないのに、効いたフリをする。疲れていないのに、疲れたフリをする。今の状況であれば、不満なのに喜んだ顔をするといったところか。
「コッチも条件がある、、 」澄ました顔を見せてエマはそう言った。言っている口調と表情が一致しない。
「おう、なんだ。言ってみろ」
「 、、明日からは、その倉庫に寝泊まりさせてもらう」
 トウジロウはニヤリと表情を崩した。そのセリフを言ってきたのは、移籍してチャンピオンになったアイツ以来だった。
「若いうちはよ、オレもそれこそ怖いもの知らずだった。何でも自分の思いどおりになると思っていた。そしてそうなるように自ら動いた。それがどうだ、歳をとる度に、何をするにも怖っかなくなっていく。何も自分で決めきれねえ。それが衰えってやつかもしれねえ。怖いもん知らずのオメエを見てると、なんだか羨ましくもあり、危なかしくもあって気が気じゃねえ」
「それが、テストをする気になった理由か? 年寄りの夢物語に付き合うつもりはねえぞ」
 目を細めて、嬉しそうな顔をするトウジロウ。このグイグイとくる感じは嫌いではない。
「オメエみたいな跳ねっ返りは何人も見てきた。最初はみんな、そうやって威勢が良い。オレに言わせりゃ本当の怖さを知らないだけだ。そのうちオメエも闘いの怖さを知ることになる。そこまでたどり着ければの話だが、、な」
 そういった経験論を語られても、今のエマには響いてこない。経験は良い面もあれば悪い面もある。活かすも殺すも自分次第だ。
 恐怖心だけを植え付けようとするトウジロウに反発したくなる。それはそれでトウジロウの思うツボだ。今はまだその恐怖を知る必要はないと、トウジロウにも十分わかっていた。
 誰だって今できることしかできない。だから経験ある者が、そうでない者に、必要とあらば助言をする。恐怖心も必要であることを。
「朝メシと、夜はメグに頼んでおく。なあに、ひとり分増えたって大した手間じゃねえ。ヒルは自分で何とかするんだな」
 多分以前は奥さんがやっていたのだろう。自分ではやっていないことを手間ではないと言い切るとこが、メグの気持ちをわかっていない。
「その条件で、いくら出せばいいんだ」
 エマは値段の心配をしているわけではなく、それをオーナーに報告しなければならないので訊いている。
 オーナーの腹づもりでは、トウジロウが受けることがあれば、金のことは言ってこないと踏んでいた。その場合は直接エマのトレーナー代として払うのではなく、今の仕事の昇給として適量を上乗せにするつもりだ。
「今はカネは要らねえ。その先は、、 まあ、オマエ次第だな」それが自分の価値だとエマは判断する。
「金払う前に、稼ぐようになってるんじゃないか」「ぬかせ」トウジロウは最後のひと口を流し込んだ。
「ひとから聞いた話なんだがな。フグは毒を持ってこそフグであれる。毒のないフグは、自分を守れないことのストレスから身を病んで、毒を持っている普通のフグに喰いつくそうだ」
 エマは何の話かと首を捻る「毒のないフグ、、か」。トウジロウは目を伏せて首を振った。
「これは、フグの話しじゃなくて、ヒトの話しだ。弱いヤツほど、自分を守る強い武器を持っていないと安心できない。そう思えば戦争をおっ始めるような国の主君がどんなモンだってわかるだろ。オメエは何を護るために強くなるんだ?」
 エマは目を見開いてトウジロウに寄って言った。
「”信じる者のために命を託すは、もののふの本懐なり”」
 トウジロウは高笑いをする。
「オレを驚かせてみせろ。オレの老後から、怖さを消し去ってみろ。そうすりゃ、、」
 エマは鋭く拳を伸ばした。最後まで言わせない。トウジロウは瞬きもせず、避けることもしなかった。これがエマの返事だった。
 風呂の中でメグは、大きくため息をついていた。エマに言われた言葉は、予想以上に後からジワジワと効いてきた。
 ボディブロウは後から効いてくると父親は言っていた。エマの前では平静を装っていたのも、そうしなければいけないと、強がっていただけだった。
 エマの言葉のボディブロウあびたことで、メグはもうノックアウト寸前になり、カラダを支えていることさえ辛かった。
 脱力しながら、ブクブクとアタマまで湯の中に沈み込んでいく。自分でもわかっていたはずなのに。キツイのは何も自分だけではない。エマだけが特別な訳でもない。
 自分の楽な方へ流れていることをやめなければいけない。自分でもわかっていた。エマはキッカケになっただけだ。本当は自分がそれを望んでいたはずなのだから。
 トウジロウには、新しいビジネスを生み出すための勉強がしたいとか、ことあるごとに、それらしい将来絵図を口にしていた。
 そう言っておけば、大学生活を全うしていると印象付けられるし、ジムでバイトをする意義も示すことができる。それだけだった。
 どうせ言っていることの半分も理解していないからと、そう言っておけば父親を安心させられると、偽善的な言動でしかなかった。トウジロウだってわかっていて聞き流しているはずだ。
 本当は自分のやりたいことは見つかっていない。周りの風潮がそうだからとか、そう言っておけば周りも納得したり、感心するといった基準で言葉を選んでいた。エマが羨ましかった。
 自分のやりたいことが明確で、それを成し遂げるために明確な行動を取っている。失敗したらとか、ネガティブな要素は入りこまない。成功するためだけに何をするべきかを考えてやっている。
 そんなエマを見ていて、ひとつ気になることがあった。エマのカラダはまだ成長過程だ。身長も伸びるだろうし、女性的な肉付きも変わってくる。
 メグも高校のときに、体育系の部活をやっていたから経験がある。体つきの変化に戸惑った。体力はアップしても、持ち味としていた敏捷性は失われた。
 何より自分の思い描いた通りの動きができなくなった。それは特に微細なところで顕著となり、より高度な戦いになれば、そこが勝負の分かれ目となってくる。
 アタマで考えているカラダの動きと、実際のズレが生じて気持ちの悪さが残る。
 それを克服するために、カラダの動きから見直した。そのおかげで可動範囲が拡がるというメリットにもつながった。
 エマも高いレベルのアスリートであるはずだ。その壁に当たる可能性は高いだろう。実際に体つきが変わってこなければ、わからないことだ。そしてそれはトウジロウにはない経験値だ。
 ジュニアで活躍していたアスリートが、うまくシニアに順応できず、それまでのまわりからの期待に応えられず消えて行くのはよく聞く話だ。
 カラダの使い方を知らないのは、ジムで汗を流す女性たちを見ていても気になっていた。メグもそれほど専門的に理解しているわけではなく、部活の専属トレーナーに聞いて多少かじった程度だ。
 それでもまったく知らない者よりは目につくことが多い。カラダを動かし慣れていないひとの動きを見ていれば顕著に目に付く。あの動きでは腰に負担がかかるとか、あのパンチングでは手首を痛めるだろうとか。
 本社からの雇われスタッフはメニュー作りと、プログラムの進行しかしないので、パーソナルトレーナーのように、ひとりひとりに寄り添った指導はしていないし、この人数相手にはできない。
 それに生徒もそこまでは望んでいない。流行に乗ってボクシングのマネごとをして、少しでも日常の煩わしさから解放されるためにやってくる者が大多数だ。
 ついでにダイエットでもできて、健康増進につながれば良いといったところか。それが結果的にカラダの不調を促し、早期にジムを退会することになっては、どちらにも不利益と思えた。
 メグには生徒を指導する権限はないし、その提言を上げる立場にもない。そもそもが素人意見で、いかほどの説明責任も伴っていない。
 ならば、はじめるところはそこからだ。誰かのためだけではなく、自分自身がやりたいこと、それをすることで、誰かの助けにもなる。
 ミタムラ家の中で小さなムーブメントが起ころうとしている。『TEAM EMA』が密かに動き出そうとしていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ボクシングジム~トウジロウの家4)

2025-03-16 14:19:46 | 連続小説

「ところでよ、オメエ。そんなナリしてどうすんだ?」
 やはり、こらえきれなかったのはトウジロウの方であった。
 乱れた前髪の奥から、三白眼の目が覗きこんでくる。白目は藍白色をしており、黒目はグレーだった。濁りのない澄んだ目に、コウジロウはドキリとした。妙に明るい月明かりがそうしているのかもしれない。
「知らねえ仲じゃねえし、そんなナリしたムスメっ子を、ほかっておくのも寝つきがわりいからよ。オレんとこに来い。ケガの手当てもしないとな」
 仕方なくという体で言ってくるトウジロウだが言葉に無理があった。知ってる仲なのかと、エマは突っ込みたくなる。反応のないエマにトウジロウは気を回す。
「なあに、心配するな。オレの娘が一緒に住んでる。オメエとそんなに年差はない。オメエに手え出そうだなんて思っちゃいねえからよ。ケガはメグに診てもらう」
 さらに上をいく言葉にエマは笑ってしまいそうになり、顔を伏せて左右に振ってごまかした。例え寝込みを襲われたとしても、返り討ちにできる自信がある。
 それに、そもそも自分に女として、トウジロウの対象にあるとは思っていない。自分にそういった感じ方をしてしまう前提で、真顔で気を使っているのが可笑しかった。
 悪い人間ではなさそうだと、トウジロウの提案を受ける意味を込めて、ポケットに手を突っ込み、エマはアタマを下げてみせた。
「おお、そうか、そうしろ。ここからすぐだ。ついてこい」
 エマには寝泊まりしている場所があった。このモールに来てから、そこを定宿としていた。別に1日帰らなくても問題はないだろうと、トウジロウに厄介になることを決め込んだ。
 どちらにせよ自分で宿代を払っているわけではないので懐も心も痛まない。そのホテルを準備してくれたオーナーと呼ばれている人物からミタムラを紹介されていた。
 自分の目で見てトレーナーになって欲しいと思えたら頼んでみろと言われた。そしてそうであればホテルと同様、金のことは心配する必要はないと。
 オーナーに直に会ったのは、それが最初だった。ホテルというより、宿屋と言ったほうがぴったりくるような場所だったことを考えれば、トウジロウのことも最初はかなり胡散臭そうに見えた。
 自分では個人トレイナーなど雇えるはずもなく、寝場所と同様にオーナーが持ってくれるなら、頼んでみるかぐらいの考えだった。
 それで身にならなければ、何時だってやめればいい。まだトウジロウからは、ハナシを受けるとは言われていない。家に来いというのが、そのままその返事なのかもしれない。
 相手の素性がわからないまま飛び込んでいけるのも、エマには、どんなことであっても好転させる自負があったからだ。
 トウジロウから盗めるモノは、すべて吸収して自分のモノにすればいい。そうでない部分は従わなければいいだけだ。
 これまでエマが間近で目にしてきた者たちは、すべてを他人に押し付けて、その責任を転嫁していた。自分がうまくいかないのは他の誰かの所為であって、自分は何ひとつ悪くないのに成長できていないと。
 自らを省みることなく、やり方や、方法を模索することなく、すべてを丸投げして、ダメなら他人に押し付ける。そんな口先ばかりの者たちを何人も見てきた。
 エマは家の都合もあって中学もまともに行けていない。その流れで高校にも行けず、バイト暮らしではまともなジムに通うこともできない。
 独学でこれまでやってきたが、それにも限界がある。仕方なく無料の体験入学などを使って、ほうぼうのジムを回って腕試しをした。
 自分よりも年上や、大きな相手を圧倒して、ねじ伏せてみせた。どこのジムのトレイナーたちから入会を勧められても、先立つものがなければそれは叶わない。
 エマが密かに賭けていたのは、それでも入会してくれというオファーだった。さすがにタダで受け入れてくれるところはなかった。
 トレイナーたちに惜しまれながらもジムを後にした。結局は恵まれた者は優位に立てる。その分、そうでない者は自分で何とかしなければならず、エマが能動的でなければならない理由にもなる。
 そうであれば、どんな能力であれ、環境が伴い、かつ能動的であれば、それを伸ばすことができる確率が高まることになる。それをしない恵まれた者たちに、エマは憤っている。
 何にしろこれまでの状況はエマに有利ではない。どうしたって得られる情報量を高め、それらを最大限まで引き伸ばせるように、研ぎ澄ましていくしかない。できない理由をひとの所為にしている時間などないのだ。
 このモールのオーナーがエマにコンタクトを取ってきたのは、惜しみながらもエマの入会が叶わなかったジムのトレーナーからの進言があったからだ。
 エマはどこからか舞い込んだこの幸運を冷淡に受け入れていた。これまでの苦労が報われたとか、どこかに神様がきっと見ていてくれたのだとか、そんな夢物語の中に納まるつもりはない。
 自分にはその権利があり、後押しを受けるのは遅すぎるとさえ思っている。これでようやくまわりと闘える準備ができる。
 勧められたトウジロウにアタマを下げたのは、そのオーナーの顔を立てるためだけだった。ナイーブなエゴを隠すつもりは毛頭なかった。時間はあるようで、まったくないのだ。
 エマはメグという娘にも興味を惹かれた。この父親の元でどんな娘が育つのか。ボクシングが好きになるか、毛嫌いするかのどちらかだとは想像がついていた。
 自分がもしその立場なら、ボクシング漬けの日々を過ごせたのかもしれない。その環境で果たしてボクシングに渇望したのかはわからない。持てないものを求め続けるのが人の定めなのかと思える。
 エマの予想したメグの実像は、いい意味で裏切られた。ボクシングが好きというほどではないが、そこまで嫌っているわけでもない。
 エマのことを異端視するでもなく、家族の一員でも迎え入れるように接してくれた。自分よりもエマに先に風呂を譲り、小ぎれいになったところで、ケガの手当てを始めた。
 寝間着はメグの洗い替えを用意してくれた。汚れたジャージや、下着は洗濯して、明日の朝には着れるようにしておくと言われた。それは今から洗濯をして乾かすということだ。
 寝間着から甘い優しい香りがした。落ち着かなくとも今日だけは仕方がない。食事も勧められたけれども、すでに時間も遅く、軽く済ませていたこともあり断った。すると明日の朝は食べてねと笑って言った。
 自分のことを後回しにしてさえ、世話をやいてくれるメグに感心してしまう。
「わけの分からない他人が寝泊まりしても平気そうだ」エマはそう訊いてきた。いや言葉にしただけだ。
「アナタは、悪い人に見えないけど? 父が判断したんだから大丈夫でしょ」
 エマが座っている場所の畳の縁が、破けてササクレだっている。エマは首を振った。
「そうか、わかった。今日は世話になる。ありがとう」
 多くの女性が男が主導することを前提に、自分の行動を決めてきた。もしくはその範囲内で出来ることしかしなくなっている。
 はじめからそんな枠組みはなかったものと認識できていれば、そのアプローチは随分と変わったモノになっていたのかもしれない。
 さらに自分たちが主導したならば、置かれた状況さえもまったく違ってくるはずだ。その準備はできているはずなのに、あと一歩を踏み出すことを躊躇している。
 それとも異なった方法を取ってしまい事態をややこしくしていくこともある。手の挙げ方を間違えば、余計な労力をかけるだけだ。
 変にそこにしがみついてしまえば、戦う必要のない相手と無駄な時間をかけることになる。エマはそんな立ち回りをする同性を幾人も見ていた。
 時には近頃の風潮として話題になり、報道されるのを目にすることもあった。物事を難しくすれば、既得権を持つ者の思うツボである。
 もっと単純に自分のやりたいことを、ストレートに表現すればいいはずだ。逆にエマはそうしかできない。それでうまく行かなければ、もはや自分の範疇ではないと割り切れる。
 同性であっても想いは相容れないことは、いくらでもあるものだ。それがメグの選んだやり方であればそれでいいとするしかない。
 一方のメグには、エマの何やら腑に落ちない様子を見て取っていた。自分のしていることに疑問を持っているようだ。
 それでも言葉でなにか言うつもりはなさそうだ。そんな気持ちになるのはメグ自身が、自分のしていることに自信を持てていないか、疑問を感じているからなのだろう。
 変に否定されれば、かえって意固地になってしまうようで怖かった。肯定されればされたで、逆に本当にこれでいいのかと疑ってしまう。自分の信念がそこには欠けていた。
 それはこの家に生まれて来た、メグにかけられた宿命であり、背負って生きていかなければならない。それで思わず言葉に出してしまった。
「エマは、強いのね」今日2回目の言葉だ。
 そうではないのだ。強いと思われる人に依存している状態でいいのかを考えて欲しかった。
「強いとか、そう言うんじゃねえ。オレはただ自分の思うように生きていたいだけだ。それが強いって思うなら、それはそれでいいよ。あんたの勝手だ。だけど必要以上にそれを押し付けるなら、話は別だ。アンタだって、例えば、優しい人とか、良い子だとか、一面をみただけで言われても、何も知らないくせにと思うだろ。そうやって周りから、そうであることを強要されて、そうしなければならないようになっていく。それを望むなら良いけどな」
 メグは笑みを携えて肯いている。エマが自分をバカにして言っている訳でないと、表情を見ればわかる。今のままででいいのかと叱咤されている気がした。
「わかっていても口に出すのは、勇気がいるものよ。ああ、エマには勇気でもなく、当たり前のことなんだろうね」
 それが当たり前にできない人間だっている。その方が多いはずだ。そうであることを認めて欲しくて、そしてそれを誰かに同意してもらいたい。
「誰かに話すことで気持ちを落ち着かせたいときもある。それ自体が悪いとは思わない。それで完結してちゃ、何も変わらない。変えたければ、自分が変わらなきゃ同じことがずっと続くだけだ」
 メグは不思議な感覚にあった。エマは何も押し付けてこない。自分がどうあるかを語っているだけだ。それなのに不思議と前向きな気持ちになれた。
 しかしそれだけではいけない。そこで止まってしまえばこれまでと変わらない明日が来るだけだ。少しづつでも自分の信念に近づけていくにはどうすればいいかを、自分で決めていかなければならない。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ボクシングジム~マオとエマ3)

2025-03-09 18:03:49 | 連続小説

 トウジロウの目はエマの傷跡を見ていた。無意識に顔を逸らしてしまうエマ。直観的にそれだけで色々なことを悟られてしまいそうだった。
「いい打たれ方をしたな」
 わかったように感心した顔をしてくるトウジロウ。面白くないエマではあった。それで何も感じなければ、エマの方から見限っていただろう。
 エマは夜のロードワーク中に、数人のオトコに女性が絡まれているのに出くわしてしまった。咄嗟に助けに入った。あと先考えずに行動に出てしまうのは悪いクセだ。
 男たちは最初はエマを女だと気づかず、こんなガキに何ができると高をくくっていた。すぐに手足を押えられ身動きが取れなくなる。
 エマも1〜2の少数なら寸止めのパンチでも、震え上がらせることができた。さすがにこの人数を、しかも女性をかばいながら相手にするのには無理があった。
 取り押さえられて、袋だたきになりそうになり、そこでエマがオンナであると知れた。ここまで接近すればさすがに性別の判別はつく。
 小さくて、少年のような体つき。やたら目つきが鋭いだけの抑揚のない顔つき。そんなエマは、このオトコ達にとって、最初に絡んだ女と比べればなんの価値もない。
 さっさと痛めつけて、お目当ての女をどこかに連れ込んで楽しもうと、血気盛んに勝ち誇っているオトコたちは、ニヤニヤとエマをイタぶろうとしている。
 余裕が出たのか取り押さえる力が緩んで、エマにでも振り切ることができた。それでもまだ余裕を見せるオトコたちに、素早く胃をめがけピンポイントで軽く打ち込んだ。
 飲み食いしている相手にはそれでも十分で、腹を抱え嘔吐する者もいた。プロのボクサーとして喧嘩沙汰はあってはならない。ただ強面のオトコが拳を振るうのと、小さな娘が女性を庇って闘うのでは印象が違う。
 世間はいい意味でも、悪い意味でも偏見を持ってしかモノを見れない。それが良い方向に向く時も、悪い方の時もエマは何度も見てきた。
 使える手段はすべて使う、それがエマの信条だ。これまでそういった場合に不利に働くことが多かったエマも、その使い所を得てきた。自分に有利に働くように仕掛けていく。
 倒されてはいけないが、大勝ちしてもいけない。敢えて数発のパンチを当てさせる。ヒットの瞬間に顔をズラして力を逃がしてやり、相手のパンチでダメージを負わない受け方をする。
 本来なら素人の、しかも酔っぱらっているような者のパンチなど、かわすことは造作もなかった。それではエマの優位性を示してしまう。
 相手の効かないパンチを受け続け、疲れさせる。エマも顔は狙わずに胃だけを集中して、たまにやり返す。

 そんなやり合いを続けていると人が集まってきた。ケイサツを呼べなどの声もかかる。旗色は悪いし、そもそも数人のオトコが、小娘を痛めつけても倒すこともできず、埒のあかない展開がみっともない。
 オトコたちは声をかけあって、その場を離れていった。どちらもケイサツに関わり合うのは避けたい。エマもその女性の手を引き現場を離れる。
 エマはこうなる展開に持ち込むしかなかった。ならば最初から首を突っ込まなければいいはずだが、そうではあってもどうしても、オンナを食いものにするオトコを許すことができなかった。
 彼らはまた何処かで、同じようなことを繰り返すだろう。そう思うと徹底的に潰して、二度とそんな気を起こさないようにしてやりたかった。それができない歯痒さを何度も味わっていた。
 ふたりはひと気がなくなったバス停のベンチに座った。
 助けた女性はエマの傷を心配した。バックから取り出したハンカチで傷口を拭こうとすると、エマはハンカチが汚れるだけだと拒否をする。
 自分のポケットに常備してあるワセリンを取り出し塗ろうとすると、こんどはその女性が取り上げて、傷口に塗りだした。
「わたしは、マオ。助けて下さって、本当に、ありがとう、ございます」
 目の前にある女性は、エマから見てもキレイで、人気アイドルのような顔立ちだった。声もアナウンサーかと思うほど聞き取りやすく抑揚がある。今は恐怖のあとで、少しうわずってはいる。
 セーターに包まれた状態でもスタイルが良いのがわかる。平ぺったいエマとは雲泥の差だった。
「オレはエマ。アンタ、キレイだから苦労するな」
 マオは首を振った「わたしの所為で、こんなケガさせちゃって。ごめんなさい。なんてお礼すれば、、」。
「よせよ。アホなオトコに絡まれる度に、助けたヤツに礼してちゃ身が持たねえぞ。それより、もっと自分の身を守ること考えるんだな」
 マオはカラダにシビレが走った。こんな言葉をかけられるとは思わなかった。どう見ても自分より年下だ。それなのに自分より確固たる信念を持っている。
「エマさんは、何かやっているの? 凄く強い」意味のない言葉に思えた。それなのに口から出てしまった。
 エマは首を振る。薄ら笑いを浮かべる。何もわかっていない。勝手にそういった縛り事を押し付けてくる。バカにしているわけではない。誰だって見た目でしか物事を量れないのはしかたがない。
「別に、強かねえよ。現にこうして、ヤラれてる。オレはただ、ああいうオンナをくいものにするようなヤツらを許せねえだけだ」
 本当に強くなければ、あの状況で助けに来たりしない。それに殴られていても、どこか余裕があるようにマオには見えた。それは最後には、どんな手を使ってでも勝てるという確信のある戦い方だった。
「エマさん。わたしに教えてください。身を守る方法を」
 ひと通り傷口にワセリンを塗り終わった。ひとに塗ってもらったのは初めてだった。手加減がわからないのは仕方なく、染みて痛かったところもあったが黙っていた。
「オレは、ヒトにモノを教える立場じゃねえんだ。悪いな。それに物理的に身を守ることだけを言っているわけじゃない」
 エマはジャージについたホコリを払いながら立ち上がる。マオも一緒に立ち上がった。もっとエマと話しをしたいと思った。話していると、それで気持ちが落ち着いていく気がした。
「家まで送ってってやりたいけど、オレも用事があってな。駅まで送るから」
 エマはサッサと先を歩く。マオは普通に歩いてもついていける。コンパスの差だ。
 マオはエマの話しを聞いていて、自分の存在とあらためて向き合っていく。こんなことに巻き込まれるために生きているわけではない。
「わたしだって。そういう人と関わりたくないのに、でも、、」
 エマは立ち止まった。寒くもないのにポケットに手を突っ込む。手を差し伸べたいのにできない自分が歯がゆい。
「誰だってそうだろ。何かを背負って生まれてくる。平等なものは何ひとつない。そこに文句つけてちゃ、一歩も前に進めないだろ。だったら、足りないモノが必要なら自分で付け足すしかないし、不要なモノがあれば削ぎ落とすしかないんだ。何かの所為にして生きていくならずっとそのままだ。アンタはそうじゃないだろ?」
 マオは両手を前で重ねて立ちすくんだ。自分の弱さを再認識する。そして自分は何を背負わされて生まれてきたのだろうか。そしてそれをどうすればいいのか。ひとに頼らず考えろと言われた気がした。
 生きるための武器であったり、上手く立ち回るための装備であったのかもしれない。それなのにすべて攻撃の対象になっていた。
 ひとにキレイとかスタイルが良いと言われて、否定すれば何処まで求めているのかと呆れられる。かと言ってありがとうとか、前向きに肯定すればイヤミなオンナと言われる。
 ニッコリ笑って黙っていても、自信過剰とか、オトコに媚を売っていると、冷ややかな目で見られる。おのずと言葉を失っていった。
 男性は普通に話している分には優しく接しているが、マオに期待以上のモノを求め出し、それをやんわり断ると激怒される。好意があるから自分と仲良くしているのではなかったのかと詰め寄る。
 マオはただ分け隔てなく、広く親しくしているだけだった。それを誰にでも色目使う自己中心なオンナだと言われる始末だ。
 マオは自分に足りないものを多く持っていると自覚している。それを別の人が持っていて、羨ましいと言っても、そんな小さなことでと片付けられる。
 時には、そんなことを言い出せば、贅沢だとか、それで十分、どこまでを求めているのかと呆れられる。すべて見た目だけで決めつけられてきた。
 キレイでスタイルもいいのだから、それ以外でそれ以上を望むのは間違いだと、周りから制限をされて生きてきた。
 外観と内面が一致しないままだった。異性からは外的要因で攻撃を受け、同性からは内的要因で攻撃を受け続け、何時しかカラダもココロも疲れ果てていた。
 マオがここまで苦労して生きてきたのだろうとは、エマも察しがついた。自分はそういった類いの経験がなく、好きなように行動し、発言してきた。ひとに好かれようと思っていない。毛嫌いされてそれで十分だった。
 そもそもオトコたちの眼中に収まることはなく、それによってオンナたちの嫉妬にさらされることもない。自分の人生を生きる上で無駄な労力に時間を割く必要はなかった。
 マオはそうではない。普通にしていても、妬まれ、やっかみがられるのだろう。抑圧されている。自分の思いとは違うところで、エネルギーを次々と消費しなければならなかった。
「自分が弱いのが嫌なら、自分でどうにかしないといけないんですよね」
 エマは振り向いてマオの肩に手をやった。
「マオだったっけ、、」マオはゆっくりとうなずく。
「独裁者は初めらか独裁者じゃなかった。群集の欲望がただの指導者を独裁者に作りあげていった。マオはまわりに望まれた人間になりたいわけじゃないだろ。流されれば群集が作り出した人間になっちまう。誰も味方してくれなくてもな、誰かの味方になってやればいい。オレはマオの味方になるから、、」
 そう言われて大粒の涙が零れた。溜め込んでいた感情の堰が切れた。まわりが自分を作り出すことを受け入れてはいけない。ならば自分が誰かの助けになってあげられる人間になった方がいい。
 ふたりはモールの中央通りまで来ていた。まっすぐ行けば駅に着く。エマはマオの涙を見ないようにしていた。
 ふたりの前には店をたたんだ喫茶店の抜け殻があった。これまでに色々な人たちの営みが交わされていた場所なのだろう。寂れた店の看板を見るだけで、それが如実に蘇ってくる。
「エマさん。わたし、ここのモールの服屋さんで働いているんです」
「そうか。オレもここはよく通るから。何かあったら声かけてくれ。じゃあな。気をつけて帰れよ」
「はい、エマさん。本当にありがとうございました」
 エマは後ろ向きで手を振って行ってしまった。マオはしばらくアタマを下げていた。そして思い切って声を張り上げた。
「エマさんっ! わたしは、エマさんの味方になります!」
 行き交う人が不審げにマオの方を見ては過ぎ去って行く。どこにいても、どうしていても目立ってしまう。慣れっこになったとはいえ疎ましいものだ。
 エマは顔だけ振り返り、わかったようにうなずく。
 自分はこの見た目と、これからも生きていかなければならない。そのおかげで別れるひともいれば、出会うひともいる。エマは出会ってよかっと思えるひとだった。