private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over17.1

2018-04-29 18:41:19 | 連続小説

「残念だったな。さっさと家に帰ればよかったのに、いつまでもこんなところでとどまっているから見つかっちまうんだ」
 ヤツラだった。そして、ヤツラの言うとおりだった、、、 おれも言ったけど、、、 そんなのんきなこといってる場合じゃなく、おれもいつまでもクルマの中に残っているわけにはいかないので外に出た。
 朝比奈はニーナナに背中をあずけて腕を組んでいて、最初に見た時は映画のポスターかと勘違いするぐらいで、群がる悪いヤツラもいいアクセントになっている。
「オマエ、今日の… 」
 あれっ? アイツ、アイツがそこにいた、、、 名前は知らない、、、 そりゃそうだ。今日おれたちがこうして、一緒になってクルマに乗り込むことのなる元凶をつくった、あのオトコだ、、、 ガソリンかぶった、、、 そういや少しガソリン臭い。少しですんだのは、きっと速攻で家に帰って、風呂に入って着替えたからだろう、、、 それを想像すると少し笑えた、、、 もちろん笑ってる場合ではない。
 ただ、このオトコ、いまはあの時の勢いは無かった。どちらかといえば少しバツが悪そうで、言葉に歯切がない。
「どうしたんだ? ヤザワ。今日のなんなんだよ?」
 最初に声をかけて来た男がそういった、、、 リーダーだなコイツ、、、 今日おれたちとトラブったヤツはヤザワと呼ばれた。名前がわかるとソイツがようやく人間として成立してくるから不思議だ。名前が同時にその人間に歴史と領域を作り出すんだ。
 それにしても付属部位がない。ふつうは『君』とか『さん』とか、もしくは『様』とか『殿』とかって、、、 それはないか、、、 同い年とか、年下って呼び捨てにされるのが普通だから、きっとそういう間柄なんだろう、、、 おれも朝比奈も、お互いに呼び捨てしてる、、、 名前に付属部位をつけるは、その地位を固定し格差を自分にも他人にも再認知してもらうためにあるから、そういった順位は必要ないってことは同位であるか従属であるかのどちらかだ。
 おれはこうして、この先出会う予定のなかったひとりと、マリイさんに引き続きこうして自分の前に現れた今日という日がなにか運命的な一日であると思えてきた、、、 あとふたりいる、、、 覚えられそうにない。
「いや、そのう、スタンドで… そうガソリン入れにいったときのバイトで、生意気なヤツだったから、だから覚えてただけだ」
 だいたいの想像はついた。このヤザワってヤツは、今日のことを仲間内には話していない。それは、ヤツのプライドを傷つけるに十分な内容だから。オンナに声かけたら、ガソリンかけられて、腰抜かしかけて、すこしチビりかけた、、、 朝比奈曰く、、、 そんな事実をツレに話せばバカにされ、仲間内での自分の地位にも影響してくる。
 
それに信号のめぐり合わせとはいえ、オンナの、、、 朝比奈の運転に、、、 ついていけなかったのも強く出れない要因のひとつだ。オンナにあれだけの度胸を見せられ、自分は引いてしまった。同じ状況下でないとはいえ、自分はできなかったという悔しい思いは捨てきれないはずだ。
 オトコって変なこだわりを勇気だなんて勘違いして争いだしたが最後、吐いた言葉を飲み込めなくなって、ムダな戦いをしては、しなくてもいい傷をおうだけだ。それは子どもの諍いから、世界を巻き込む大戦まで言うに及ばない。
 
おれは子どものときに、遊び仲間と誰が階段の一番高くから飛び降りられるか競いだし、どうみても無理な高さになって、みんなももうやめたかったけど、やめるにやめられない雰囲気になっていて、そこで根性無しとか、勇気がないなんて言われるのが嫌で、、、 みんなもそれが嫌で、、、 やり続け、最後はおれが足をくじいて終わりになり、みんなはホッとしてたけど、おれは泣きながら家に帰った、、、 泣いたのは足の痛みより、遊び仲間で一番最初にリタイヤした悔しさだった。
 
仲間っていうのはある意味、一番のライバルでもある。そういうつもりでなくても、優劣がつけば、グループの中でおのずと上下関係が成り立ってしまうもんで、そんなものを勇気とは呼ばないってわかっていても、当時はそれがすべてだった、、、 子供の世界は狭いんだ、、、 高校になってもさして大きくなるわけでもない。
 ヤザワの説明に納得したのかどうかわからないけど、リーダー格らしき男は、もうそれ以上は追求せずに、こちらに、、、 朝比奈の方に、、、 向き直った。生意気と評されたおれのことなどどうでもいいみたいだ。
「ニイナナ。オマエが運転してたんだよな。まったく、いいオンナだし。どうゆうことだ。コイツはな… 」と、ヤザワの方を親指で指した。「オレらの仲間内じゃ腕が一番立つんだ。気にいらねえな。このヤワなオンナの腕が良いのか、それともニイナナによっぽど手を入れてあるのか」
 といいながら、リーダーは朝比奈のヤワな、、、 ヤワじゃないけど、、、 腕をつかみあげた。なに、なれなれしくさわってるんだ、おれもまださわってないのに、、、 さわれんけど、、、 おれはその手を振り離そうと一歩前に出ようとしたところで、それよりも早く朝比奈が手を振り払った、、、 さすが、、、
「どうしたいの? 自分で調べてみる。クルマでも、わたしでも」
 朝比奈が煽っても、リーダー格のオトコはムっとすることもなく、口角を上げ、振り払われた手をポケットに突っ込んだ。そして朝比奈のカラダを下から上へとイヤらしい目で舐めるように見た、、、 見て舐めれるわけはないんだけど、そいうのがありがちな表現だから、、、 おれもまだイヤらしい目で見たことないのに。
「えれえ自信だな。コッチとしちゃ、そりゃ、クルマの中身見るより、アンタのカラダを調べたほうが楽しいんだけどよ。そこまで言われて引き下がるわけにいかねえな」
 そりゃそうだろ。おれだってそうしたいぐらいだ。それにしても朝比奈って話しの持っていき方がうますぎる。ホントそうだ。そこまで言われて朝比奈に手ぇ出したら、男がすたるだろ、、、 すたるヤツもいるけど、、、 これがいわるゆオトコの虚しい見栄なんだ。
「センパイ、まどろっこしいこと言ってないで、やっちゃいましょうよ。誰れも見てないし。こんなとこで見つかったコイツらが悪いんだからさ」
 そしてすたるヤツがここにいる。プライドのかけらもないエロ男子の代表のような顔をした、いかにも下っ端ぽいヤツが、いかにも下っ端ぽいセリフのわりには『まどろっこしい』なんてシャレた言葉を吐いて、主役たちを盛り上げていく、、、 おれは主役でいいんだよな。
「さっきから聞いてりゃ、ソッチが見つけたと喜んでるみたいだけど、わたしたちが待ってたとは思わないわけ?」
「なにっ! どういうことだ?」
 なに? どういうこと、、、
「お気楽なものね、自分に主導権があるときほど、相手を深く観察しないと痛い目をみるわ。目にした世界はひとつだけだじゃない、角度を変えれば違った景色が見える」
 おいおい、ほんとか? 啖呵切る姿もカッコいいけど、どうみてもさっきまでコイツら待ってるって雰囲気じゃなかったはずだ。
 朝比奈の
言う言葉がなんであれ、言葉ってさ、口にしたときから生を受け、その時の感情に左右されて生み出されるはずで、同じ状況下でなければ同意することもままならず、時にそれは生まれの不遇につながって、言葉の真実はひとつでも受け入れ先には多岐に拡がってしまったりする。
「なんだよネエチャン。どんな世界見せてくれるんだ」
 リーダー格の男のイヤらしい目を無視して朝比奈は、ヤザワを指差していた。そうして人々は翻弄され、いいようにつかわれ捨てられる。その言葉は鍵穴に入り込み新しい扉をひらくキッカケにもなる。
「ちゃんとした勝負をしましょう。それでわたしたちが勝ったら、もう二度とわたしたちに関わらないでくれる? コッチもいろいろとやらなきゃならないことが多くてね、いちいち人と関わっていられないの。悪いけど、わたしたち、そんなに時間ないんだ」
 わたしたちだって、おれもか。時間がないってのが朝比奈のキーワードになってる。なぜ時間がないのかおれにはピンと来ていない、、、 ちゃんとした勝負? なにするの?


Starting over16.3

2018-04-22 19:11:14 | 連続小説

「おい、見ろよ! オンナが運転してるぜ。ニイナナをオンナだよ。しかもスゲエ。いいオンナだ」
 信号待ちでとなりを並走していたクルマが運悪く横並びになり、そこから届く耳障りな言葉だった。バックミラーでその存在をすでにつかんでいた朝比奈は、ウンザリしたように髪の毛をかきあげる。
 
おれのばかな話しの相手をしながら、薄暗くなっていくこの時間帯に気づいていたとは野性的な危険察知能力だ。それがいままでになんども体験させられているために培われた能力だと思うと不憫でもあり、もっと別のことで時間をつかってもらいたい。そうして朝比奈の言う時間がないという不満が、より際立って重くのしかかってきた。
「なあ、なあ、一緒にドライブしようぜ。オレたちとよ」
「いや、ニイナナ運転させてくれよ。それでどこか行こうゼェ、へへへっ」
 朝比奈は相手の存在を空気だと思い込んでいるみたいで、その表情には一分の動揺も伺えない。相手のオトコたちもおれの存在を空気だと思っているから、そういうものの見方をされるのが、えらくプライドを傷つけられるといま知るところとなり、、、 おれのプライドの価値がどれぐらいのものか知らんけど、、、 だから当然のようにこんな言葉が飛んでくる。
「オマエ、スカシてんじゃねーよ! エラそうにしやがって」
「オイ! コッチ向けって!」
 言葉の矛先にいないおれでもジットリとした嫌な汗が出て、血流は脳に集まって、カラダの動きが制限されるあのいやな感覚にとらわれていくっていうに、当の朝比奈はお雛様のようなすまし顔で、前方をぼんやりと眺めている。それでいて肩から下はなにやら熱い血が流動しているらしく、シフトノブを右、左に移動させてから奥に押し込んで、足先でタイミングをはかっている。行きの運転を経験しているおれは小さく胸の前で十字を切るしかなかった。
「オマエ! 今日の!!」
 奥の運転席のオトコが顔を突き出してきたとき、信号が青に変わった。
 
朝比奈のきれいな左脚がピクッと動いたかと思ったら、右脚がスラリと伸びきり、エンジンが爆発するんじゃないかってぐらいの音を轟かせた。車体の前が持ち上がると同時におれの身体がのけぞるほどの圧力が加わり、派手にタイヤを鳴らして絶妙なスタートを決める。エンジンを煽ることなく、一瞬にして最大のパワーを引き出して加速したもんだから、ヤツらはあっ気に取られて出遅れる。あわてて追いかける姿がバックミラーで確認できた。
 
朝比奈が、本心にある苛立ちを押さえて、ポーカーフェースを装って準備していたのはこれで、ヤツラを一気に撒いてしまうつもりだ。おれは行きの運転で少しは免疫ができているのではと淡い期待をいだいてみたが、日も落ちて暗くなってきた、いわゆるもっとも事故が多発する薄暮の状況で恐怖心もさらに増幅しただけだった。シートベルトを掴んで必死に耐えるおれだけど、朝比奈はいっこうに手を緩める気配はなく、、、 緩めないだろう、、、 その顔はコトがうまく運んでいないのを表していた。
 
そう、ヤツらもこのクルマに付いてきている。スタートで離したはずなのに、少しづつ詰められている。いわゆる走り屋のウデを知らないおれが、ただ朝比奈の運転をうまいと思っているだけで、もちろん世間にはそれぐらいの、それ以上にクルマを操るヤツだっているだろう。いたっておかしくはない。
 さらに悪いことが重なり、直前の信号が黄色になろうとしていた、、、 そりゃズッと青であるわけがない、、、 それなのに先行車がスピードを緩めるなか、朝比奈は空いていた右折車線に舵を切り、さらに加速して交差点に進入していった。やめてくれこれじゃあ対向車と正面衝突だ。
 けたたましいクラクションと共に
対向車線の右折のクルマが横切ってくる。対向車の運転手の恐怖に引きつった顔が目に飛び込み、おれは口からいろんなものが出そうになるのを必死で抑えていた。その車体と折り重なるようにして右、そして左とハンドルを切って、あっというまに交差点をすり抜けた。
 外から見ていれば、蝶をつかまえようとする人の手を、ひらりひらりと優雅にかわして見えるぐらいの運転も、
すこしでもタイミングが狂っていればまちがいなく激突していたはずで、実際は、なにもできないように座席に縛り付けられた状態で、車内の限られた視界の中に映り込む映像は、映画館で観たこれまでのどのスプラッタ映画より迫力があった、、、 あたりまえ、、、
 自信をもってやったとは思いたくない。行動したことで結果がついてきたんだって。おれの目にはそう見えた。ただ、誰もがその一歩を踏み込めるわけじゃない。それなりの経験と成功体験を踏んできたからこそやれると判断したんだ。だからって、どれほど自信があるからって、100%成功するとは限らない。自分だけの動きではなく相手の想定できない動きも考慮する必要があるからだ。それをやるかやらないか、それで人間の器ってヤツが決まってくる、、、 やらないよな、、、 おれはやらない、、、
 そしてヤツラも踏み込めなかった。いやその時にはすでに後続の右折のクルマが次々と進み出し、もう交差点に進入することすら難しかっただけだ。バックミラーには追いかけてくるヤツらクルマは見えなくなった。朝比奈は見事なドライビングと勇気が呼んだ強運でヤツラを振り切ったんだ。
「そう考えるのが普通だけどね。こうだからできないじゃなくて、こうしたからできると強い想いがそこを二分している。わたしならアイツらの状況でも踏んでいけた。運にまかせるのも、運を引き寄せるのも、人間のもつ能力のひとつでしょ」
 でしょ。っていわれても、ですよねえ。ってこたえられるほど簡単ではない、、、 でしょ、、、 本当に見えていたのか懐疑的だ
。右折のクルマを紙一重でかわしながら、ヤツらが交差点に侵入するタイミングと右折車の動きを。最初にヤツらに気づいた時といい、一般の人間では知ることのない微量な刺激を感じ取る特別な能力を持っているのか。
 大通りをはずれスピードを落として小道に入って行き、2度ほど角を曲がり暗がりにクルマを止めた。
「残念だけど、これで終わりにできそうにない。どうやらこのクルマ、結構名が売れてるみたい。27とかいって型式で呼ばれてるぐらいだから。ああいう連中には目につくんでしょう。捜す気になればすぐに見つけられるわ」
 そうなのか、名前が、、、 マサトが言っていたけど、つまり、トヨタのなんとかがどうとか、ニッサンのなにやらがどうだって話しみたいに、有名なクルマなわけだ。おれにとってはスポーツカーって括りでしかないけど、ああいう厄介なヤツらに取っては目立つ類いのクルマだなんて、まったくキョーコさんもえらいモノをおれによこしてくれたもんだ、、、 朝比奈に運転させて乗り回して、まわりの目を考えない おれのせいか。
 朝比奈は疲れたのかぐったりとしてシートに横たわり目を閉じている。あれだけの運転をしたからしょうがないと思うけど、いつまでもこうしてるわけにはいかないんじゃないのかと心配が先に立つ。ヤツラが執念深く追いかけてくるかもしれないし、これ以上時間が遅くなるのもお互いにまずいんじゃないの、、、 おれはいいいけど。
 朝比奈は目を閉じたままだったけど、口を開いてくれた。
「そうはいってもね。あれだけの大立ち回りしたんだし、のこのこ出て行けば警察からも声をかけられる可能性があるからそれは避けたい。ホシノはいいかもしれないけど、わたしはいろいろとあってね。あまりお近づきになりたくないのよ」
 昼間にあれほど爆走しておいて、さっきの一件で、突然、警察が動き出すほど事態が急変するとも思えないけど、、、 ちなみにおれだって警察とかかわりたくはない。
 右手を挙げてヒラヒラとさせる朝比奈は、きっとおれがお門違いのことを言っているのでこの話を止めにしようとしているんだ。そこでなにかを察したようにからだを起した。
「来たようね。案外早かった」
 そうつぶやいてドアを開いた。なに? どこいくの。おれをおいてかないで、、、 って逆だろそりゃ。


Starting over16.2

2018-04-15 19:42:28 | 連続小説

 おれと朝比奈は店を出ることにした。本格的に開店の準備を始めるから長居しては迷惑だって、朝比奈もいつもリハが終われば早々に失礼するそうだ、、、 リハって、これでおれも業界人か、、、
 マリイさんはクルマが止めてあるところまで見送ってくれて、扇子であおぎながらまだ暑いわねえと、顔をげんなりとさせた。陽が落ちても空気が動かず、その分だけ温度が積み重なったみたいで、おれも暑い車内を想像するとうんざりする、、、 朝比奈はどんな環境下でも平静だ。
 
おれは一応、ごちそうさまでしたとあたまをさげた。お金は払わないぞと念を押したつもりだっんだけど、すかさずマリイさんは、今度来る時はお金もらうわよと言って口をツンとさせた。さすがに役者が違うというか、おれの行動など子供騙しにも劣るぐらいで、それは客として来いと言っているのか、それとも朝比奈を送って、、、 に送られて、、、 来た時はということなのか。
 だからってそんな理由を確かめる必要なない。どうせ知ったからって、次の行動をどうするか考えられるほどあたまがまわらないんだから。いろんな仮定が錯綜するなかで、なにも判断せずこれまできたし、だからおれはマリイさんに軽く会釈しておいた。そうするとも、しないとも、どっちにとらえられてもおかしくないように、、、 それが精いっぱい、、、
「マリイさん、それはムリよ。ホシノ、バイト辞めさせられて、ただでさえ厳しいんだから。それに高校生がかようお店じゃないでしょ」
 そんな観点の違ったフォローを朝比奈はしてくれた。断る理由はそこじゃなくて、おれの経済活動の範囲外ってとこが重要なんだけど。でも、それでいい、理由がとんちんかんでも、相手が納得してなくても、他人が自分を説明するするってのは、つまりはそういうことだ。おれもこうして無遠慮に関係したひとたちを解説している。
「あら、そうなの。だったらウチでバイトする? ウエイター足りてなくてね。一石二鳥じゃない?」
「なにが一石二鳥? ダメよ。そうやってなしくずしにわたしまで巻き込もうとしてるでしょ。卒業まではリハで終わり。ねっ」
「あーら、わかっちゃった。いい案だと思っただけどね」
 なんだか、おれの知らないところで、利用したり、されたり。自分のあずかり知らないところで事が運んでいるなんてよくあることだ。いつだって自分の手の中にあるものは数少なく、それもその実は、自分のものではなかったりして。だけどいいさ、朝比奈とセットで考えてもらえるなら光栄だ。
 朝比奈はあたりまえのように運転席に乗り込み、そしてまたまた一発でエンジンをかけた。おれもあたりまえのように、、、 あたりまえだな、、、 助手席に乗った。シートベルトも忘れない。
 
マリイさんは朝比奈の側の窓を覗き込んで、アンゼンウンテンで帰るのよと声をかけ、ニッコリとほほ笑んでクルマからはなれた。安全運転を啓蒙するより、免許もないのに運転しちゃダメでしょっていうのが正しいはずだ。だからって、それでクルマ取り上げられたら、ここから帰るのにどうすればいいか困ってしまうだけで、おれはあいかわらずただニヤニヤとあたまを下げるしかなかった。
「そうね。アンゼンにするわ」そうして朝比奈はクルマを出した。
 帰りの朝比奈の運転は、行きを思えば平穏そのものだった。マリイさんの言葉が効いたのだろうか。ただ喋ってないとスピードを上げる傾向にあるので、おれはいろいろと話し掛けていた。なにぶん質問事項にはことかかない。とはいっても、そこは朝比奈で、まともな答えが返ってくるはずもなく、そう、まあね、でしょ、そんなことないって、てな言葉を使い分けて、なかなか真意の奥にまでは入り込めない、、、 奥に入ってみたいのに、、、 まだまだ障壁は高い。
 そうして
おれは、ステージを見て思い出した。あの夏休み前の教室で、窓の外を見ながら微妙に動いていた朝比奈の口元からアゴとノドにかけての曲線を。あの時も唄っていたんだって。ひとのカラダの曲線が織りなす、自然で自由なラインと躍動が、美としておれたちに植え付けられていて、それを称賛することが人としてのあるべき判断基準であるならば、それに見惚れるのはしかたがない、、、 ってことにしておこう、、、 それをステージで見たときは、朝比奈の顔はこれまでになく生き生きとしていた。
 
するとようやく、あいづちっぽい言葉以外の会話をはじめてくれた。
「自分の居場所があるっていいものよ。それだけで、他のことはガマンできる。ガマンってほど、ガマンしてるわけじゃないけど、居心地が悪いってのは間違いないわよね。そんなのもどうでも良いと思えるのは、自分の居場所がちゃんとあってこそだから」
 おれは多くの人と絡みたくないもんだから、ひとりでいる方がラクだって自分の居場所は限られてくるんだけど、だからってあまりひとりで居つづけると人恋しくなるもんだから、へんに誰かにからみたくなったりして、つまりは単に自分勝手なだけなんだけど。
「どうも私は年上の方が、相性がいいみたい。可愛がってもらえるのになれちゃうのもあまりよくないんだろうけど、年齢が近いとなんだかしっくりこなくって、そういうつもりじゃなくても、冷たくあしらってしまう」
 そう? おれも同い年なんだどなあ。おれは朝比奈の中ではどういうあつかいなんだろうか。朝比奈はフフフッと笑っていた、、、 笑われただけか、、、 冷たくあしらわれているのはまちがいないけどな。
 朝比奈はフロアシフトに手をかける前に、指先でトントンと叩いて、それがギアチェンジをする合図になっている。手首の回転だけでスルッとギアを替えて、加減速をくりかえす。おまえはレーサーかって突っ込みたくなるぐらいのこなしで、マサトがえらそうにスポーツカーなんて買おうと画策してるけど、どれぐらいの運転技術があるのか見たことないし、これを見せられたらあのやかましい口も静かになるだろう、、、 マサトには見せたくないけど、、、 これは役得だったな。
「ねえ、どうする?」
 どうするって、なにを? 唐突にそんな質問されても、心の準備もできてないし。そりゃあ夏の夜はまだ長い。せっかくクルマもあるし、このまま別れるのもなんだか物悲しい。クルマの運転を委ねるってこうゆう気分になっていくのか、人の心理をそこに見た気がして、これが公共交通機関であれば、こういった人間関係のアンバランスさは生まれないんだろう。過去から未来へと続く男女間の力関係はいまはこうして成り立っているらしい。
 
さて、どうしたものか。断るのもなんだし、、、 なにを?
「スタンドにスクーター置いたままでしょ。取りに戻らなきゃいけないけど、ホシノの家にも、わたしの家からも遠回りになるし。だからあ、このまま帰りたいんだけど、ホシノはどうする? 私の家からクルマと一緒に帰れる?」
 そんな、帰れるかって。ひとりで? ああ、そうゆうこと。盛り上がったおれは馬鹿丸出し。いやいや無理でしょ。だいたい、なんで朝比奈は運転できるんだよ。訊いちゃいけないかと思ってこれまで黙ってたけど、、、 ホントは怖くて訊けなかっただけだけど。
「お父さんクルマ運転するの子どもの時から見てたから。なんかね、手元とか足元見ずにガチャガチャと操作して、クルマを走らせてるのが不思議でね。どうしてそんなことできるのか、それでどうしてクルマが動くのか知りたくて。だから自分でやることにした。中学になった時に無理いって何度か教えてもらったの」
 やることにしたって、、、 とんでもないことをサラッと言いながら、右手でハンドルを固定して、左手でシフトノブを転がすと、脚が、、、 かわいらしいスラリとした脚が、、、 クイッと動いた。なんとも堂に入っている。つーか上手すぎだろ。どれだけオトーサンに教えてもらったんだよ。おれも父親の運転見てたけど、そこになんの興味もひかれなかった。万が一やりたくなったとして父親に頼んでも、一笑に伏されるだけだ。そこがなにかしら未来に展望がある人と、そうでないひとの差になるんだ。
「そんなにしてないよ。2、3回、かしら。コツさえ掴めば、あとは応用。なんだってそうでしょ。だからそれからは自分で勝手に練習してた。そうするとね、そこそこできるようになっちゃって。でっ、もう不思議でも、非日常でもなくなってしまった。こうしてね、なにかをひとつづつ手にするたびに、大切なものをなくしてくようで、これからもそれは繰り返されていくのはなんだかつらい」
 そう言って寂しい影を顔に落とした。言葉にはできない多くの思いがそこに隠されているみたいだ。
「チッ!!」
 あっ、ごめんなさい。知ったような口きいて。
「来るわ。また」
 運転手側の窓にクルマが並走してくるのが見えた。好奇の顔が並んでいる。昔ながらの男女の関係を共生してくる者たち。どうみてもこのまますんなりと家に帰れそうもない、、、 帰りたくなかったからいいのか、、、 いやいやこれは別問題だろ。


Starting over16.1

2018-04-08 16:50:09 | 連続小説

 おれにはあの朝比奈にそんな弱い部分があるなんて思えなかった。あったとしても見たくない。イメージは大切なんだ。朝比奈はこうであるべきと、そんなまわりからの決めつけが余計に朝比奈を苦しめていた。こうしておれは誰かを傷つけながら生きている。きっといつになっても、いくつになって。
「そうね、一方通行な思い込みが、いつしか誰かを傷つけているなんて、よくあることだから、本人にとっては厳しい状況だけど、それを無視して生きてけるものでもない。そういう無言の圧力にも立ち向かわなければならないけど、そこまで強い人間はいないんだから。そうであるのに強く見せているのか、見られているだけなのか。だけどね、たまには、楽になりたいときも、話しを聞いて同意して欲しいときだってあるでしょ、それは誰にだって例外ではないわ」
 そんなこと、ああでもそうか。ひとにあこがれたり、好きになったりするのはみんな自分の誇大妄想で、なにひとつこちらから押しつけるもんじゃない。でも、だったら、おれが朝比奈のためにできることってなんだろう。そりゃ、そんなに大それたことができるとは思えないけど、なんだか、実は少し前から思っていたことではある。朝比奈もムリしてるんじゃないかって、、、 勝手なはなしだ、、、 そう思うのはおれの勝手なんだ。あのキャラクターがそれをオモテに出すことを許さなかった。だから、それには道化になる者が必要なんだって。だったらそれがおれに期せられた役割なんじゃないか、、、 道化でいいのか、、、 最初はイヌだったから少しはマシになったな。
「あんがい、まじめなのねえ。近頃のコは、変に生真面目で、遊びの部分が少ないみたいねえ。エリナちゃんもそう、誰も彼もみんな、時代の落とし子なのよねえ。あなたもね、そんなに気張ることないのよ。エリナちゃんが望むようにしてあげればいいだけ。そうすればエリナちゃんも、あなたも次の段階に進めるんじゃないの」
 おれも、朝比奈も、次の段階って。おれたちには登るべき決められた階段みたいなのがあるんだ。のぼり続ける階段を休むことなく、その先にあるものと、その途中で見るものと、のぼるのをやめたときに決めらる自分の階層と、そうして生きてくうえでの自分の定位置を知る。ムリして登るのも、そこから降りるのも自分次第だ。
「エリナちゃんは、唄ってる時がいちばん輝いてるもんね。自分を出せる場所があるっていいわよ。自分がつかみ取った場所で。だけど、いまのままじゃダメ。彼女もそのことをわかっている。あなたは、あなたを出せる場所があったはずだけど、いまはもうない、それも自分でつかみ取ったものじゃないでしょ。ひとにいわれてなんとなくその気になって、ダメならやめて。せめるつもりはないわよ。誰だってそんなもんだしね。だけど、後悔したくないなら、なにかを犠牲にしても、自分を出せる場所をつかみ取るべきだったのかもしれない。どちらを選ぶかは自分次第でしょ」
 ジャバの、、、 マリイさんの言いたいことがすんなり身体に入ってきた。おれは大人への反発を大義にして、素直に自分のやりたいことをやらずにいた。そこで頑張ることがみっともないことだって決めこんで、雑に日々を過ごす方を選んでいた。とりかえしのつかない日々。絶望を感じるほどでないとしても、限りある時間を捨ててきたのは間違いない、、、 限りある時間に気づけるのは、その立場にたってからだ、、、
「文化ってものは、広い意味でいえば労働者階級に変な考えを起こさないように、時間を消費させるために生まれて、進化していったとも言われている。そうやって知らないあいだに毒抜きされて、また単純作業に戻るための栄養を補給していく。この店だってその一端を担っている。飲食店も、芸能も、スポーツだって、非日常を演出して、その熱狂の中に身を置き、また同じ興奮を得るために、一日の終わりを、週末を求めて労働を続けられるようになる。そこに未来図が描けなくたって、少しでもマシな場所が用意されていれば、人は流されていくものなのよ」
 ああ、そうなんだ。実際自分から好んで趣味として楽しんでいるようで、いいように気分転換させられているに過ぎなかったんだ。そう思えば思い当たるふしはいくつかある。おれはそんな少しの亀裂とズレに侵入したり、出したりするのに不快な感覚に囚われて、どうしても素直になれなかった。だったら、いったいおれたちはどちら側に重きをおいて生きていけばいいんだろうか。
「わたしの敬愛するビートルズは、スタジオを抜け出し、ビルの屋上でライブをはじめた。なんの許可も取らずにやったから、まわりは大騒ぎになって、警察官が止めに入ったんだけど。わたしには、屋上までの道のりがつぎの段階へ行くための、抜け出さなきゃならない道に見えた。いわば新しく生まれ変わるための産道だったんじゃないかってね。新しい生が必要とされるとき、必ず通りぬけなきゃいけない道がある」
 マリイさんの話を聞いていると、
ひとの生きざまなんて本当に不思議なものなんだってつくづく思い知らされた。もしこの夏スタンドでバイトしてなかったら、もし朝比奈との関わり合いがなかったら、もし今日、あんなトラブルが起きなかったら、おれはマリイさんと出逢うこともなく、こんなに親しげに話すこともなかった。
 
それは随分と不思議な時間でもあり、前もって仕組まれていたと言われても否定はできなかった。選択のその先につねに存在し続ける体験。ドアを開けるたびに準備されている空間。どれもおれにとって必要で、通らなければなら産道なんだ、、、 どこを抜けて、どこへ行こうというのか、、、 選択の集合体が人生であるし、それは同時に『もし』がつりく上げた連続性の到達する場所なのかも知れない、、、 だとしたら、これが本当に自分の望んだ生き方だなんてどうして言いきれるのか。
「お待たせ。なんか、まわりがうるさくって、いつもより時間かかったわ。悪かったね」
 朝比奈は不機嫌そうに目を細めて、そのまま椅子に腰かけ両手で頬杖をついた。マリイさんはテーブルにがぶり寄り、、、 がぶり寄って、寄り切りするぐらいの勢いで。本人は小声で言っている風で、でもまわりにも届いているはずだ。
「エリナちゃんが、彼氏連れてきたって、ウラじゃもう大騒動よ。ボク、ライバル多いから夜道とか気をつけたほうがいいわよお。まあ、そこれ、これも、エリナちゃんがあんなに気合い入れて唄うからよ」
「そうよね。ちょっとチカラ入れすぎた。それに少し違う時間の流れだった。意識する必要ないのに。自分の意志とは違うチカラに奪われていく自分は、不快で新鮮だった。バンマスも喜んでたし。そうねえ、これからは毎日送ってもらおうかしら。ボディガードを兼ねてね」
 ボディガード!? そんな、おれにもっとも不似合いな役回りを、、、いったい何をガードさせるつもりなのか、、、 ボディか、、、 喜んで、、、 だいたい、おれ送ってないけどな。どちらかというと強制輸送されたけどな。毎日朝比奈の運転に付き合わされたら寿命ちぢむか、それこそ事故にまきこまれて御陀仏になる、、、 どちらにしろ、長生きできそうにない、、、
「もう、あてつけちゃって。コーラの代金、貰わないつもりだったけど、エリナちゃんのバイト代から引いとくから」
「あっ、財布は別々ですから。2000円のコーラ代払えるほどもらってないし。ホシノが自腹切りますんで」
 朝比奈が男前に切り返すと、マリイさんはアハハと笑い、冗談よと言っておれを解放してくれた。どうやらここではコーラ一杯2000円するらしい、、、 そのあとのコーヒーの値段は訊かないことにしよう、、、 請求書が家に届かないことを祈りたい。母親が目にしたら、さすがにかくれてバイトの比じゃないしな、、、 おれもひとつ階段を昇ったのだろうか。


Starting over15.3

2018-04-01 19:23:35 | 連続小説

「ボク。わたしはね… 」
 マリイさんの口調が変わった。おれはなにか気にさわることでも言ったのだろうか、、、 言ったに違いない、、、 ふだんからさして物事を深く考えずに、気のまま思いのまま口に出しているのでそういったことはままある。おれ自身に悪意があろうとなかろうと、感じた側が不快に思えばそれは真と成るわけで。おれはまたやっちまったのかと、こわごわマリイさんの顔を見る。
「 …こう思ってるの。天才なんて人間はどこにもいないって」
 最初の言葉とうらはらに、マリイさんの顔はおだやかで、発する声も元に戻っていた。なんにしろおれは胸をなでおろしマリイさんの言葉に耳を傾けた。
「あえて言うなら、生まれ出でた人間はすべて天才の質があるってことぐらいかしらねえ。わたしたちはふいに、抜きに出た者を天才と軽んじて言葉にするけど、その陰でどれほどの苦労があり、得た対価の代わりに多くの大切なものを失くしていったのかわかっちゃいない。エリナちゃんは努力して自分の能力をみがいた。そしてなにを手放していったか、ボクも知ってるでしょ」
 自分がバカなのは先刻承知。ただこの場合、そういった自己分析するのもおこがましく、これまで自分が努力することもなく、なにかをなくすのをおそれて安穏と生きてきたかをまざまざと宣告されたんだ。
 誰にだってひとより秀でるチャンスはなんどもあるはずで、もうひとつの努力、もうひとつの汗を拒んだために、手に入れられなかったこともあったし、それより大切な平凡な毎日を選んだのかもしれない。有能を得るにはそれより多くの平凡を断ち切る必要があるらしく、どちらを選ぶかは自分にまかされている。
 
おれが走れなくなったのは、結局は自分がそれを望んでいたからで、それがケガを呼び、事故を招いたんだ。そうあらためて言い含められた気がした。
 
ひとの成功をうらやむのは簡単だ。それを安易に持って生まれたものとして決めつけるのは、自分の弱さであったり想像力の欠如でしかない。ただ、平凡なおれにとって、ごく平凡な言いかたしかできずに、これは努力の賜物だというのも立場がちがうわけで、だったら黙ってそのすばらしい能力を堪能すればいい。
 朝比奈は曲の途中で音を確認しながら止めたり、再びそこから歌い始めたりして合計3曲を唄い、もう一度ピアノの男と声を掛け合ってステージを降りた。降り立って、コッチ向かってくる、、、 終わりか。
「どうだった? 本番じゃないから、通しで唄ってないけど。でも、それなりに楽しめたでしょ? あの人がバンマスの鮎川さん。今日は彼氏が見に来てるからいつもより声に艶があるって言ってくるから。そうよって言ってやったら、やけに素直だなっておどろかれたわ。わたしはいつも素直なんだけどね」
 朝比奈はおれの向かいの椅子を引き、座ったかと思えば、何事もないようにおれが口にしたコーラをラッパ飲みした。そんなことしたら、ますます彼氏だと思われてしまうじゃないか、、、 いやあ、困ったなあ、、、 と全然困った顔にならないから、よけいに困ってしまった。
ところでピアノの男はバンドウマスオとかいうんだと思っていたけど、鮎川さんだということで、じゃあ、バンドウマスオなる人は誰なんだろう。
「なに? 誰のこと言ってんの? バンドウマスオなんて人はバンドにいないけど」
 コーラの炭酸が効いたらしく、顔をシュワっとさせてから目を見開いた。やっぱり朝比奈はしわしわのおばあちゃんになっても可愛いんだってわかった。ピンと来たらしいマリイさんが大笑いした。
「やっだー、名前を略して呼んでる訳じゃないわよ、バンマスっていったら、バンドマスターの略で、バンドの責任者のことよ」
 おっ、略してるのは正解だったな。なんて低次元で悦にはいっていると、ツボだったのか朝比奈はおなかをおさえ、息を殺して笑っていた、、、 たぶん、、、 なにかにすがりつきたかったらしく、おれの右腕を握りしめたんだけど、ツメが喰い込んで、、、 ああ、イタきもちよい、、、
「ホシノ、おもしろすぎ、なにそのビギナーっぽさ。ハーッ、ひさしぶりに大笑いした」
 涙を指先で押さえながらそう言った。期せずして大ウケを取れたらしい。ここはたたみかけて、じゃあ、ぼいとれというのは、あのマリイさんのお友達が講師をしてるってことは、きっとあのすごい体型からすれば、、、
「ボク。ボイトレっていうのはね、ボイストレーニングの略よ。簡単に言えば唄の学校ね」
 そ、そうか。自信をもって思いついた予想を口にしなくてよかった。あのスイカでもつっこんだようなマリイさんの胸をみたら、ボイトレといったらてっきりボインになるトレーニングかと思っていた。朝比奈も十分に豊かに発育してるから、これ以上トレーニングしてマリイさんみたいにならなくてもと、危険極まりない忠告をしそうになっていた。
「なに、ホッとしたような顔してるのよ。わたし着替えてくるから待ってて。残りのコーラ飲んでいいから」
 氷が溶けて薄まりかけたコーラを飲み干すと、ほんのりと朝比奈の香りがしたような気がした。それがどんな香りかと聞かれてもうまく説明できないし、できたとしてもするつもりはない、、、 このコーラはふたりの共有物だったのか、、、
 
マリイさんがトレーを持って現れて、カラになったグラスをかたずけダスターでテーブルを拭いて、こんどはコーヒーカップをふたつ置いた。そうしてもう一度席に着いて、いい香りがたつコーヒーを口にした。
「ほんとにねえ、おどろいたわ。エリナちゃんが男の子つれてくるなんて、全然そんな気配なかったのよ、今日の今日まで。それがあのステージでしょ。ボクははじめて聴いたからわからないだろうけど、バンマスが言うように、声の張り、艶が五割増しだったわね。ボクに聴いて欲しかったんだと思うわ」
 そんなもんなんだろうか。おれにはまだピンと来ない。あの朝比奈が、おれが聴いてるからってうたい方が変わるだなんて、どういう反応がいいんだかわからない。それに、、、 朝比奈はやっぱりここでも、すべてをさらけ出せていなかったんだ、、、
「あのコはねえ…」
 ちょっと困ったような、物悲しそうな、それでいて笑みを浮かべて話しを続けた。
「本当はもっと自分のことを知ってもらいたいの。みんなに大声で叫びたい。『わたしはここにいるのよ!!』って、それをカラダの内側に隠している」
 カラダの、、、 内側、、、 に?
「そうよ、見てみたいでしょ。エリナちゃんの内側」
 いやーっ、、、 見て見たいっす、、、 内側までいかなくいいかな。
「イヤラシーっわねえ」
 マリイさんは大きな手と、おれの太ももぐらいある二の腕をじゅうぶんに効かせておれの肩をはたいたもんだから、関節が外れたかと思ったが、逆に肩のコリが取れてすっきりしたなんて言ったら、もう一度はたかれそうなので止めておいた、、、
「ボクの存在で、エリナちゃんも少しはラクになれるといいんだけどね」
 と、またまたその言葉のほうがおれのカラダを大きく打ちのめした。マリイさんもわかっているんだ。素直になれない朝比奈の不憫さを、、、 これはやはりおれに課せられた使命なんだろうか、、、