private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第17章 5

2022-11-27 18:31:07 | 連続小説

 すでに西野には、なすすべがなかった。
 今となってはそれをどのように指摘しても、安藤の気持ちを変えるなどできるはずもなく、変なコトを言えば余計な怒りを買うだけだ。
 目に見えて譲ることはしないだろうが、最終的には1コーナーは相手に先行させるだろう。もはや頭の中では山間部でどうやって抜くかを考えているはずだ。それも『できるだけ、効果的に』。
 もうこの時点で、心理戦をついてきたナイジの目論見は達成されており、その手法に西野も舌を巻く。あの若造がどこまで安藤を知ったうえで吹っかけてきたのか疑問であり、こうなった時の安藤が爆発的な速さを発揮できると、西野は他の誰よりそれを知っている。
 とにかく変に注意を促がして機嫌を損ねられるのだけは禁物であり、このままの気持ちを保った状態でレースにのぞませたほうが効果的だ。
 それは同時に、西野にかなりの負荷を強いられることを意味し、早くもシートベルトを握り締める手に汗が滲んできていた。
 不破はそのままオースチンの前も素通りしていく。我ながら上出来だったと自画自賛しているのか、ほくそえみながらナイジの目の前では、こっそりと親指を立ててサインを送るほどだ。特に山間部の辺りのくだりではアドリブでよくできたものだと自画自賛していた。
 それとは別に、本来の目的であるナイジがなぜ隣にオンナを乗せることになったのかについては、なにひとつ情報を得ることはできないままであった。
 あの時の不破は、八起から説明を聞いて自分の耳を疑ってしまった。
『オースチンには志藤先生のところの看護助手を乗せている。その件については社長は承諾済だから止める必要はない』と八起から言われた。理由としてはケガをしているドライバーの状況が悪化すれば、つまりレースができない状況と判断すれば、レースを中止する判断をするためだとも。
 不破の疑問、反論を聞くこともせず、八起はそれだけを伝えて立ち去ってしまった。そこまで釘を刺された不破は、西野が呼ばれてピットを離れたどさくさに紛れてナイジの元へ向かって、すこしでも状況を把握しようとした。
 素人にケガでもさせたらどうするつもりなのか、不破が一番心配した部分はそこであった。いくら社内の従業員とはいえ、対外的に聞こえが悪いのは間違いないはずだ。何よりも安全を重視してきた馬庭にしては安易な決断と思えた。
――馬庭さんも思い切ったもんだ。いくら志藤先生の身内だとはいえ、同乗を許可しちまうとは。――
 ナイジのケガについても自分はなにも知らされていない。どこをどうケガしていて、どれだけレースに影響するのか。そんなことを本人聞いても、なにも答えるはずもなく、いまとなっては、ただ大事にならないことを願うしかなかった。
 上機嫌を装うそんな不破がピットに戻っていくのを見て、本意を知らないナイジは首をひねっていた。
「なにやってんだか。こりゃ、あんまり期待できそうにないな。不破さん舞い上がっちまってるぜ」
 ステアリングに手を組み、あごを載せた体勢で、ナイジは失笑していた。それでも、自分の蒔いたタネが1コーナー争いにどのように影響を及ぼすのか楽しみであり、選択肢を広げるためにあれこれとアプローチの方法を思い描いていていた。
「それにしてもさ、よかったよな。ロータスの助手席のヤツより体重軽いから幾分は有利になったし」
 満足そうにひとり納得して言うナイジに、一度ならずとも、二度目のデリケートな話題にマリは片目を細める。
「 …えっ、今度こそマリの方が重いのか…?」
「ナ・イ・ジ・ィー、こんどは左手つねって欲しい?」
「いえ、いいです… 」
 もはや隠れる必要がなくなったマリは、シートを元に戻してシートベルトをした。ロータスの方をチラリと見て口をつく。
「これで本当に1コーナーで譲ってくれるのかしらねえ」
「そりゃさ、数メートルも差をつけられて譲られれば八百長になっちまうし、オレもそんなこと望んじゃいないよ。それよりね、ここで大切なのは1コーナーで無理をして絡んだり、オーバーランしてそこでレースが終わっちまわないようにすることだ」
 ナイジの真の意図はそこにあった。誰だって1コーナーを取った方が有利になるとわかっている。特に相手の力量を知っていればなおさらのことで、アドレナリンが高騰して周りが見え無くなれば、例えインをキレイに差しても、アウト側から焦って覆いかぶさってくることは往々にしてある。
 ナイジの言葉で、ここで無理をせずにスペースを開けてもいいという選択肢を増やしておけば、変な意地を張らずに1コーナー以降の闘いを視野に入れることができる。
 それは、同時に自分も冷静にさせるためでもあり、何にしろ、それを実行するためには相手と競った状態で1コーナーまで行くことが条件だ。
「あのさ、多分こんなこと言うと変なヤツだって思われるだろうけど… 」
「大丈夫よ、もう十分変なヤツだって知ってるから」
「 …うっ、そこは、そんなことないよとか言えよ」
「はいはい、そんなナイジが好きよ。 …これでいい?」
「・・・」
「なによ、そこで黙らないでよ。言った方が恥ずかしくなるじゃない」
 そう言ってマリは手をバタバタさせて顔を扇ぐ。ナイジも照れ隠しもあり顔を下げてしまう。
 これまでの自分であればもっとピリピリとした状態でレースに臨んでいた。それが当たり前だし、自分の力が発揮できると思っていた。
 無理やり引っ張ってきた手前、マリに主導権を取られても良いように言わせて、気が抜けるほどのリラックスした中で闘いに入っていくことで、いったいどんな変化が起きるのか、それを楽しめている自分がおかしかった。
「あっ、あのう。オレが言いたかったのはね。誰も前にいないストレート走ると、なんだか別世界にいるような、それでいて普段では味わえないような快感に包まれるんだ。なんかね、この道を自分のモノにしたような気になって。自分の能力が無限に増殖していく感覚になって、新しい細胞が生み出されてては新たなチカラが宿っていく。だから練習走行でもそんな状況を作り出し、何度も練習を重ねた。それがまた再現できれば、オレはきっと… 」
 顔を上げてそう言うナイジがキラキラとした顔になって、マリはなんだかおかしくてしかたなかった。顔に出して笑えばきっと馬鹿にされていると誤解されると思い顔を伏せる。
「 …オレは、ロータスより前に出られるんだ。やっぱり変なヤツだ」
 おかしく思えたのは、めずらしく自分の気持ちを素直に口にするナイジの姿が新鮮だからであって、そうだからこそ、それは本心であり、本当に実現できることなのだと思えた。
「それをスキになるアタシも相当変なヤツね」
 ナイジはニヤリと笑い、肯定するように首をタテに振る。
「そこは、そんなことないって言いなさいよ」
 マリはそんなナイジの言葉を聞きながら、ナイジは毛嫌いしているあのタワーの王である馬庭と、実は同類であると思えていた。あれほど忌み嫌うのは、それはあの男が自分が求めているモノがまったく同じで、それを自分よりうまく手にしているからだと。
「そうだな。そんなマリが… 」
「はいはい、言わなくていいから、言い訳できないぐらいに1コーナーが取ってそれを証明しなさい」
 そんなことは決して口にはできず、ただレースの無事を祈るしかない。
「おうっ」
 そこで場内にアナウンスが流れる。
”ご来場の皆さま。大変長らくお待たせいたしまして申し訳ございません。今回のエキシビションレースは十数年ぶりの対面レースとなります。安全性を考慮するため甲斐ツアーズからコ・ドライバーの同乗を要請されており承認しておりましたが、ロータスのドライバーからも公平を期すために同様に同乗するとの申し出があり、それを承諾することになりました。”
 コ・ドライバーの同乗の理由が安全性に対してどう必要なのかよくわからないまま、ただ自分の有利を捨ててまで公平にするロータスのドライバーの男気に観衆は盛り上がっていった。
 そこに余計なことを考えさせるまも与えず、”それではスタートまで、1分前となります”と続いた。
 スタンドからはレース前の最後の確認でもしている思っていたところに、ロータスのナビに誰かが乗り込み、どういうことかわからないままだった。
 グリッド上で行われいた人の動きはそういうことだと納得がいき、いよいよスタートが近いと緊迫感が増してきた。
 不破に目線を合わさないまま出臼が近づいてくる。もちろん不破もすんなりいくとは思っていない。
「不破さん、いいんですか。何かあったら馬庭さんだけじゃなく、不破さんも責任は免れませんよ」
「へっ、どうせ、もともと短かった命だ、これだけデケえアングルが打てたんだ、それでヘタうっても仕方あるまい。オレにあずけといてくれ」
 最後は得意の言葉を吐いたが、ほとんどやけくそに近かった。その言葉だけを待っていたかのように、出臼は薄ら笑いをしながら自分のピットに戻っていった。どちらに転んでも旨みのある出臼は、不破の言質さえ取れれば良かったのだろう。拍子抜けの不破は首をすくめる。
「なんでえ、えらく簡単に引き下がったな。よっぽどうまく立ち回れる自信があると見えるが、あのよそ者達に寝首を掻っ切られんといいがな。まあ、コッチの状況もさして変わんねえか。オレの首がつながるも、切れるもナイジ次第ってことだ。しゃーねーな、アイツに賭けたのはオレなんだからな。やっぱりジュンイチにしとけばよかったかなあ」
 そんな中でも西田の言動や、安藤の動きを見て、このふたりの刺客は案外出臼とうまくいっていないと不破は薄っすらと感じており、そこが案外最後に利いてくればいいと密かに思っていた。


第17章 4

2022-11-20 17:30:05 | 連続小説

 ホームストレート、アウト側に待ち受けるロータスの内側のグリッドにオースチンを停止させる。安藤は待ちくたびれた様子で助手席側のウインドウに身を乗り出し話し掛けてくる。
「よう、よう。後から登場とはいい気なもんだぜ。シャレたタイヤ履いてきて、それで走るのか? へっ、サンドイッチマンのバイトも掛け持ちするとは器用なヤツだな」
 なにしろマリのこともあり早くスタートしたいところであるのに、いやでも目立つ真新しいタイヤに興味を示して、安藤が声をかけてきた。ムダに時間を掛けたくないので相手にすることなく無視を決め込むナイジ。
 その態度がかえって気に入らない安藤は、わざわざクルマを降りてオースチンに近寄ってくる。そんな安藤の動きを見て西田も、不破も、何事かとピットレーンから身を乗り出す。
「なんだよ、とっととはじめりゃ良いのに。プロレスじゃあるまいし、なんか言い合わないと走れないのかよ?」
「クルマの中から見るとこんな風景なのね」
  ナイジがひとりごとのようにつぶやいていると、マリがシーツから顔を出して周りの様子をうかがっている。
「ワッ、ウワッ、なに? なに?! 隠れてろってっ」
「人が一杯だけど、あんまり見られてるって感じじゃないのね。別の世界を覗いてるみたい… 」
「マリ、オマエなあ… はーっ、どうする」
 覗き込まれれば安藤の目に留まる状況に、さすがにうろたえる。あたまを抱え込みたくなりそうなナイジが、なんら手を考える間もなく、時すでに遅く安藤の視界にはしっかりとマリの顔が捉えられている。
 マリを目にしても、その状況にたいして驚いた様子もなく、ひとりわかった風な体裁で何度もうなずいている。
「フーン、あの時も隣に乗ってたオンナだな。最初にやりあった夜、下り坂でルノーを挟み込んでかわしときに見た顔だ」
 安藤はあの瞬間、ルノー越しにオースチンの車内をそこまで明確に見切っていたようで、ナイジにはそれほど余裕があったわけではなく、その言葉は圧迫を感じさせた。
 異変を感じた西田が動こうとするのを、安藤は手を上げて制止する。オースチンを前から回り込み、ピットに背を向けてマリの存在を隠すようにして話しはじめた。
「でっ、どうすんだ。レース止めてこれから海にでもドライブに行くつもりか? 負けてハジかくよりそのほうがいいな」
「彼女は乗せて走るよ、必要なんだ」
 ナイジはいつも変わらない口調でそう言った。それがかえって言葉に力強さを与え、いったい助手席のオンナがどう必要というのか、その言動の意味を探っていく安藤は、ピクリと眉毛を動かす。
「オマエが言う、あの時だって条件は同じだったんだ。シングルシートでなきゃ闘えないわけじゃないだろ」
 ナイジに挑発されて安藤はなにか第6感に触れたらしく、頭をよぎる打算をすぐに言葉にしていく。西田がいれば状況は変わっていたはずで、そこはナイジに有利にはたらいていった。
「なるほどいいだろ。ワケありなのは察してやるぜ。オンナが必要な理由がなんであろうとオレにはどうでもいいことだ。西田っ!」
 さきほどまで制していた西田を呼びつける。西田は安藤が何かを勝手に進めているのではなないかと気が気でなかった。問題があれば正さなければならない。出臼が鋭い目つきで見てくる。なにかあれば責任を取れといわんばかりだ。
 それを見て不破もナイジの元へ行こうとピットを離れようとするのを目にして、ナイジは舌打ちをする。安藤を懐柔して一安心というところに、不破の目に留まれば話が更に進まなくなるのは目に見えている。
 ナイジの元へ駆けつけようと動き出す、そんな不破に声をかける者がいた。
「不破さん、ちょっと」「オマエ!?」そこに立ちはだかるのは八起だった。


 グリッドに着いたクルマからロータスのドライバーが降りてきて、何やらオースチンのドライバーと話しをしたと思えば、ピットから誰かが呼び出された。レース前になにが取り行われているかわからないスタンドがザワつきはじめる。
 呼び出された西田も思いがけず注目を浴びてしまって居心地が悪い。「どうしたんだ?」
「オマエも乗れ。ナビゲーター付きのレースだって別に珍しいことじゃない。仕切り直しさせてもらえて光栄だよ。それに、これで最初と同じ状況だ。こいつが俺らの闘いのルールと思えばな」
 いったい最初と同じになると、どう光栄なのか、ナイジには理解できなくとも、妙なこだわりに執着する安藤がその気になって乗ってきたいま、気が変わらないうちに後戻りできない状況を作り出すためにさらに挑発を続ける。
「野郎を乗っけて走るのはソッチの勝手だけど、コッチより重くなったことを負けた言い訳にするんじゃねえぞ」
「へっ、言うじゃねえか。だがな、コイツが重いのはこの頭でっかちなデコだけだ、身体は針みてえにガリガリなんだぜ。そっちのおネエちゃんの方が重いんじゃないのか。ハッハッハッ!」
 西田は安藤がこうして自分を追い込み、気持ちを高めていき、闘いの中へ入り込んでいくスタイルを好んでいると知っているだけに、へたに意見でもすれば逆効果となり、レースへの流れを堰どめしてしまうので口出しができない。
 それにしてもそんなことを勝手に決めてしまっていいのか判断しかねていた。出臼が西田が呼ばれたのを止めずに一任したのも、そういったところを含めて責任を持ってもらうという意図なのだろう。
――勝てばいいんだ。その確率が上がるならば、やるべきことはすべてやるだけだ――
 ようやく到着した不破が両手で窓を叩きながらなにやら喋っている。ここまできたら、もうジタバタしても仕方ない。
 マリが言うように車窓から眺める光景は、音の壊れたテレビでも見ているようで、自分たちとはまったく関係のない世界に映っている。
 それが実際には自分達についてウダウダとなにやらやり合っているのだから、よけいに滑稽に見えてくる。放っておいたら不破が窓を叩き出したので、しかたなくサイドウインドウのノブを回す。
「ナイジ、オマエってやつは。まったくどれだけ手間かけさせりゃ気が済むんだ」
「不破さん、ゴメンよ。いろいろあってさ、こうするしかないんだ。理由は、言えないけど、オレを信じて好きにやらせてよ。今回はさ」
「今回もだろ、今回も。いつも好き勝手やってるじゃねえか。どうせなに言ったって聞かねえくせに」
 思いがけない柔和な言葉にナイジは拍子抜けした。どやされると思い下手に出たにもかかわらず、なにやら穏便に済ませられそうな気配さえある。
「なんだか知らんがこの件は馬庭社長も承知しているようだ。さっき八起が… 知らんか、その社長の伝達者がオレんとこにきて、このまま進ませろと言ってきた。オレにはなにがなんだかサッパリだが、これだけ人を呼んでおいて止めるわけにもいかねえ。ホントに信じていいんだな?」
 ナイジはごちゃごちゃと説明するつもりは甚だない。自信ありげにうなずくだけだ。馬庭が承諾しているという件は気にかかったがいまは幸運だと思うしかない。
「そんなことより、アチラさん、かなり気分良くしてるぞ。お前の無理を聞き入れて、なお自分の方が不利な状況を作り出し、レースへの気持ちを高めていく。どうやらそれがアイツのやり方だみたいだ」
 自らの経験から相手の心理を読み取った不破が、安藤のレース前の気持ちの入れ方をナイジに諭す。
「それを自分の力に変えていくと考えてるなら、それもイイさ。それで墓穴を掘ることだってある。もう少し気分よくさせて、コッチの戦略に協力してもらうつもりだし」
 なにやら自分の術中に手繰り寄せる計画を持つナイジの、その深みを持った瞳の奥に、不破は飲み込まれそうになる。
「なにするつもりだ?」
「オレ、必ず1コーナーでアタマ取るから、絶対に1コーナーで引かない。でないと、その先勝負にならないから。そうヤツに伝えて欲しいんだけど」
「誰が?」ナイジはこともなげに不破の顔を指差す。
「不破さん、たのむよ。これは不破さんに言ってもらったほうが効果があるんだ。オレの最後のわがままだと思ってさ」
 それだけ言うとウインドウを閉じてしまった。不破はしばらく顔を歪ましたまま、何やら考えたあとロータスの方へ歩いていった。あたまを掻きながらロータスへ向かうその姿は、まさにイヤイヤという風体があふれ出している。
――頼むぜ不破さん。うまいこと伝えてくれよ。そう言っておけばアイツの性格だ、必ずオレに1コーナーへのスペースを用意する。勝負にならないと言われた勝ち方で勝つようなヤツじゃない――
 ゼロスタートからの加速と伸びを重視して、安ジイに頼み込んで権田に調整してもらってはある。そうであっても結果をより確実なモノにするためには、ひとつも残さずやるべきことは抜かりなく押さえて、後でやらなかったことを後悔するのは避けなければならない。
 レースに勝つために、スタート前からの事前の段取りを抜かりなくおこない、綿密にすべてのやるべきことを潰し込む必要性を感覚的に察知していた。
 最後の一手となる陽動作戦は自分の口から言うより、不破を介したほうが効果的だ。はたして不破が自分の意図を汲み取ってくれたか気にはなるが、弓を放った以上、自分ではもはやどうすることもできない。うまく安藤がノってくることを祈るしかなかった。
――何が、最後のお願いだ。まったく、どんな神経してんだ、ここまで迷惑かけといて、オレをパシリに遣うとはよ。それで相手を揺さぶろうとは。へっ、たいしたヤロウだぜ。 …最後って、どういう意味だ?――
 愚痴りながらも不破は、自分の言動が安藤にどう影響を及ぼすのかが気になりはじめた。安藤をその気にさせるような立ち回りが必要であっても、それほどの腹芸ができるタイプでもない。なんとかナイジが望むような結果を引き出したいが、もはや出たとこ勝負で開き直るしかない。
「おい、なんか来るぜ、あのオッサン。何か言い足りないことでもあるのか?」
 西野が横目で確認し、あごを突き上げる。不破はロータスの前を横切り安藤の側まで回り込む。顔をこちらに向けないところを見ると、何か含んでいるのはあきらかだ。安藤がサイドウインドウを下げて不破を邪険に扱う。
「なんだ、もう話しはついたろ。そろそろ、おっぱじめねーとお客が騒ぎ出すぜ」
 そう言われても不破は極力、無表情をよそおうよう努めた。変に感情を作って喋っても自然でないし、逆に深読みされるだけだ。
「そのことじゃねえ。あのな、ウチの若いヤツがよ、1コーナー譲らねえってよ。山間部に入る前にオマエさんを前に出したら、追いついても追い越せねとさ。だから、絶対に1コーナーで引かねえとよ。オマエさんもそのつもりで走るんだな。オレはその方が恥じかかなくて良いんじゃねえかって言ったんだけどな。そうだろ、1コーナー取っときながら、山間部でかわされりゃみっともないことになる。まあ、そういうことだ。せっかくの対面対決だ、1コーナーで終わっちまっちゃあもったいねえしな」
 それだけ言うと、サッサとロータスの前を横切って、来た道を折り返していった。
「なんだ、ありゃ?」安藤は唖然と見送っていった。
「あれで、エサでも蒔いたつもりか? 1コーナーを譲れってことだろ。安藤、オマエ、あんな言葉に乗るんじゃないぞ」
「さあな、それは、そん時の状況だ。それより、山間部で抑えられる自信があるほうが気に入らないぜ。こないだと同じだと思うなよ」
 安藤は自分で言っておいて、その意味がわかってきたようで、顔が見る見るこわばってくる。西野は半ば諦めかけていた。
――だから、それが、オマエにそう思わせる陽動作戦だって… ――


第17章 3

2022-11-13 13:24:16 | 連続小説

 スタンドでは多くの観衆が遅れて登場してきたオースチンに一斉に視線を向ける。誰もがそのタイヤが特異であることに気付きはじめ指を差し、声を上げる。
「何だよあれ、あのタイヤ! 白く、何か描かれてるぞ」
「おおっ、白いラインが入ってんのか? どうなってんだ?」
「あっ、止まった! タイヤのマークだ。ああ、それが白くペイントされてるんだ」
「なんか、カッコイイな。あんなタイヤ売ってんの見たことないけど」
「新製品なのか? あんなの売ってたらオレも欲しいな」
 そんな声が飛び交うなか、スタンドの一角に陣取っている濱尾は、難しい顔をしたまま両腕を組んだ姿勢を崩さない。安田は周りの反応を聞きながら、そのひと言、ひと言を耳にしては濱尾の顔をうかがう。
 濱尾の元へ今日のレースの招待状が馬庭から送られてきたのは2日前のことだった。気が進まないまま安田に押し切られるようにレースを見に来てみれば、まさかこのような趣向が隠されていたとは思いもよらなかった。
 好反応を示す観衆の声が濱尾に届かないはずもなく、安田の口から濱尾の発言を促がす言葉はかけずとも、濱尾が何かを言い出すのを心待ちにしている態度が見て取れる。
 馬庭からタイヤのカラーリングの打診を受けた安田は、試してみる価値ありと踏み、濱尾に許可も取らず計画を進めてしまった手前、なんとしても直接の顧客となる観衆の評価を上げ、販売に結び付けなければならない。
 今後は新製品のテストインプレッションとタイヤのマーキングを並行に行うことで、馬庭の会社へ共同企画費を発注することで、ビジネスの継続と拡大の足がかりにもしたかった。
 実際そこまでの企画立案を持ってきてくれたのは馬庭からだったが、形式上は安田の提案企画ということで会社には稟議を出していた。安田がそれほどまでにして勝負に出たのも、今がまさに越えなければならない壁に立ち向かう時期と捉えていたからだ。
 大きく肩を張り、そこから息を吐き出す。首を左右に振ると、相変わらず面白くなさげな固い表情のまま、やれやれといった表情で濱尾はようやく口を開いた。
「これがアイツの回答というわけか。まったく、一手も二手も先を行かれたな。タイヤのテストだけでなく、新製品の広告宣伝まで受け持ってもらえるとはな。それにしても上手いやりかたを考えたもんだ。注目度の高いレースに合わせて、今までにないタイヤの見せ方を披露するとは。クルマメーカーの裏方的な存在である我々タイヤ屋が、自分から名前を誇示するようなデザインを選択することはやりずらい。しかし、イベントの一環としてのお披露目であったり、お客からのオーダーであれば大手を振ってやることができる。ああ、あと、限定生産品なんて手もあるな。もしあのクルマが良い走りをしてくれれば、タイヤの評価にもつながるだろ。ふん、それじゃなにか、私達はアイツに商売のやり方まで教えてもらったというのか」
 安田は濱尾の言葉をハラハラしながら聞いていた。ふしぶしには賞賛するような言葉がちりばめられているものの、全体の声調としてはそれが気に入らないとも取れる言い方をしているため、納得してもらえたのか計りかねている状態だ。
 だが、犀が投げられた今、いつまでもご機嫌伺いをして仕事をしていくわけにはいかない、勝機ありと踏んだ安田は思い切って濱尾に進言した。
「あのう、濱尾部長。部長からはこのあいだの打ち合わせで、下請けとの付き合い方を提言をいただきました。もちろん私も概ねそのお言葉に賛同しております。しかしながら、もう一歩踏み込んだ関係を築こうとするならば、より能力があり展開力を持つ会社を相手に、こちらからの一方的なオーダーだけで仕事を終わらせるのは、お互いにとって不利益と考えます。実際に馬庭さんは私たちには考えつかないようなアイデアをお持ちです。しかも、今回その陣頭指揮に当たった方は、馬庭さんの側近を務めている春原さんという女性の方です。まだ女性の社会進出が難しい状況である昨今で、馬庭さんはその能力を見抜いて抜擢し、女性ならではの視点を大いに活用しています。それを包み隠すことなく堂々と彼女の成果として私に報告してくれました。これはウチのような頭の固いメーカーでは実現不可能な事例だと思います」
「もういい! お前の馬庭信仰は腹一杯だ」
 声は荒げたものの、その表情は穏やかなものだった。安田は、どんな反応をすればいいものか考えあぐねている。
「わかっておる。もう、そこまで言わなくたって、私にもアイツの商才を嫌というほど見せつけられた思いだ。それに、お前の下した判断もな。だいたい、ここまでやっておいてよく言う。時代に逆行していたのは私の方だったのかな、大きい小さいは問題ではないのかも知れん。これからはお互いの利益につながる事案に対して、それぞれの強みを持ち合って商品化してく時代になるならば、今回の件はひとつの先例となるだろう。オマエが時代をそう読んだなら、自分の責任において、やり遂げてみるんだな。わたしから言うことはない」
 最後はビジネスマンとして、上司として厳しい表情に戻っていた。
「 …部長」
「しかし、実際に現場に来てみて、あれこれ感心させられることばかりだ。オマエが馬庭さんに傾倒するのもわからんでもない。地方の草レースにこれだけの人を集め、多くのパーツサプライヤーとも良好な関係を継続する手腕。ビジネスは規模ではなく智慧であることをあらわしている。私たちが社内で机上の論理を述べているだけでは気付かないことが、ここには溢れている。じかに買い手の意見や批判を耳にすることが、どれだけ重要なことかあらためて教えてもらったよ。お前がここに入り浸るのも無理はないな。いい勉強をさせてもらっていると思うならば、それを会社に還元することも必要だ。くれぐれも飲み込まれんようにしろよ、あくまでも仕事は仕事だ。さあ、いいレースを期待しようじゃないか。最後の打ち合わせも終わったみたいだな、関係者がピットに引き上げていくぞ」
 スターティンググリッドでおきたドライバー同士のやりとりは、スタンドからはレース前の最終確認でもしているように見えたのだろう。
「はい」
 堅物だった部長が、自分と同じ目線で今回の案件を評価してくれたことは嬉しかったが、しょせんはまだ馬庭の手の中で遣われているに過ぎないのは自分でもわかっていた。
 ここから一歩でも社会人として前に進もうとするならば、こちらからも意見をぶつけて双方が発展できる立案をまとめていかなければ、いつまで経っても馬庭の小間使いでしかない。
 その状況は、引いては馬庭にも会社にも迷惑をかけることになる。安田は濱尾に一礼すると席を離れ、まずは周りで語られる生の意見を収集するために通路を歩きはじめる。
 次なる展開をこちらから馬庭へ提案できるように、会話やひとり言の中から何気ない言葉を一言一句聞き漏らさないよう注意深く耳を傾ける。
 その姿を目を細めて見守る濱尾には、口には出さなかったがもうひとつ感心していたことがあった。この商品企画は何か新しいモノを作り出したのではなく、いまあるモノを有効に活かしたという点だ。
 ひとケタ生まれの濱尾には、商品が次々と新しく開発されていく今の社会情勢に疑問を持っていたところに、こうして考えかたひとつで、あるものを活かして効果的なアピールができることに感銘を受けていた。
 それが若い女性の感性から生まれているならなおのことで、馬庭の懐の深さを認めざるを得なかった。
 それとは別に、ひとつだけ気になる懸念も同時にあり、レースにおけるタイヤの役割は重要なものだが、タイヤのおかげでクルマが速くなったと認められることは少ない。
 そのくせタイヤにトラブルがあれば、間違いなく悪い印象を与え、外的要因であってもすべてがタイヤの品質や構造のせいにされがちだ。
 ましてや大事故につながる不具合でも発生させようものなら目も当てられない。タイヤメーカーがレース場で目立った広告を打ちたくても二の足を踏んでいるのは、そういった諸刃の剣をかかえているためで、最初から大風呂敷は広げずに、結果がともなった時に名前を売るといった後出しジャンケンのような宣伝活動を行い、これもまでもレースシーンの中では地道な下支えをするに留まっていた。
 濱尾自身もこのままではいけないという危機感は持っており、安田がまんまと乗せられているこういったアピールの方法も打っていかなければいけないとは理屈ではわかっていた。
 いままでと同じことを、他の競合企業と同じように、ただ、惰性のようにおこなっていては、知らないうちに誰からも見向きもされなくなり、気付いてから手を打っても後の祭りであろうと。今はまだ、どちらへ転ぶか読み切れないが、矢が放たれてしまったかぎり、安田とオースチンの健闘を祈るしかなかった。


第17章 2

2022-11-06 16:24:13 | 連続小説



R.R
 人込みを掻きわけたナイジは、その開口に沿ってさながらスターティンググリッドに誘導されていく。通常であればピットアウトしてコースを一周してからスタートラインに戻ってくるルーティンも、今回は緊急用に使われているピットフェンスの開口部を開き、そこから直接スタートラインに着くこととなっていた。

 グリッドにはオースチンに先立って入場し、多くの歓声をあびていたロータスがいた。まるで草むらで獲物を待ち構えている猟犬のごとく低く喉を鳴らして静止している。
 後に続いたオースチンは猟犬の標的となり、狩猟者の餌食となるラビットになってしまうのか。それとも、たちどころに姿を眩ませ、大空から急転直下の攻撃をする荒鷲となり、狩猟者の喉笛をかき切ることができるのか。
 観衆にそんな図式を連想させるオープニングシーンとなったようで、大きな拍手喝さいがスタンドに広がっていった。それは広まったウワサから期待されたレースへの流れを現実化した成果であった。
「いい演出になったな、玲那さん、お見事だ。一台づつ、ゆっくりとスターティンググリッドにつく姿は、見る者の期待を大いに引き出してくれる。先にロータスを出したのも効果的だ。落ち着き払った風格のあるツワモノが、若くて勢いのある挑戦者を待ち受ける。ふたりの関係を誰もがそんな絵面で捉えただろう。それを現実として目にすれば、わかりやすくレースへ期待を増幅することができる」
 ふたりは確認するようにサロンの展望窓からグリッドに付く2台のクルマを見つめていた。横並びになったクルマのあいだからはヒリヒリとした緊迫感が溢れており、関係者の立場であってもこのレースへの好奇心がかき立てられるほどだ。
 レイナは内心、どれほどの効果をもたらしてくれるのか、不安をたずさえたままでオープニングシーンを迎えていた。実際に目にした光景が想像以上の演出効果をもたらしており、安堵するもつかのま身体に快感が走り、体毛が総毛立っていった。
「ありがとうございます。ラップタイムを争うレギュレーションであれば、クルマが順番に出走していき、計測がはじまるのが順当ですが、今回は1対1のレースなので、戦う両者を並びたてた方が見た目もよく、観衆への訴求度も強くなると考えました。お客様はきっと、それぞれのストーリーを自分の中で創り出して、グリッド上で並ぶ二台から、戦いの前哨戦をより楽しんでいただけることと思います」
 馬庭は双眼鏡を外すとレイナの顔を見た。裸眼で眼下を凝視するその表情には、ついこの間までの何かの庇護を頼っていたものではなく、自分の仕事に対して責任と結果を受け止める覚悟ができていた。
 馬庭からこうあって欲しいレイナ像を突き付けられたことにより、ひとつ殻を破ることができ、新しい自分と創造力を見出し成長できていることが馬庭には何より嬉しかった。
 そのふたりの傍らに國分が寄って来る。どうしてもひと言伝えたい気持ちを止められない様子だ。
「いやあ、素晴らしい仕掛けですなあ馬庭さん。ひねりを加えてきましたね。言うなればボクシングのタイトルマッチを見ているようだ。花道からリングに上がる両選手というところでしょうか。待ち構えるチャンピオンに挑戦者の若きチャレンジャー、いい緊張感につつまれている。既にふたりの間には駆け引きがはじまっているようで、こちらに向かって心理戦を投げつけられている気にもなる。姿は見えなくても並んだクルマのあいだからそんな神経戦を読み取れと言わんばかりだ。と、そこまで言っては賛美しすぎですかな。ハッハッハッ」
 ふたりは顔を見合わせ、そして國分に向けて微笑み合った。見る目が厳しく常に辛口の意見を述べる國分が、レイナの狙いに見事にはまっている。彼から上々の評価を得たことで、このオープニングの成功を確信できた。
「さすがと言っては失礼でしょうが、この構図からそこまで読み取ることができるのは、國分さんの知見の深さがあってこそでしょう。感服します。実を申しますと、このアイデアは國分さんもよくご存じのこちらの女性。私の右腕として、その手腕を振るっている春原からの提案なのです。私はただ彼女の提案を許可したにすぎません」
 あらためて國分に紹介されたレイナが会釈をする。少々驚きの様子の國分に、馬庭はさらに畳み掛けるように続ける。
「もうひとつ、見ていただきたいものがございます。ご覧下さい、あのオースチンが履いているタイヤを。ふつうタイヤにはメーカーと、商品名のロゴマークがエンボスに抜かれています。そう、ロータスのタイヤのように」
 馬庭はそこまで言うと、双眼鏡を國分に手渡した。手にした双眼鏡でオースチンを覗き込むと、ロゴマークの部分が白くペイントされ鮮やかに浮かび上がっている。言われてから見直せば双眼鏡を外しても、くっきりとしたロゴマークが遠目でも確認できた。
「なるほど! これで、合点がいった。どうしてこれほど、後から出てきたオースチンに洗練された雰囲気を感じたのか、自分でも不思議に思っておったのです。締まった足回りからは俊敏さと、力強さが伝わってきますな。なによりもマークが綺麗に目に映えて見栄えがいい。これはスタンドで見ている観衆に、大いにアピールできる。このタイヤでストレートを駆け抜ければ、白い輪が残像となり実際以上にスピード感を演出し観衆を釘付けにするでしょう。うむう、2台を見比べてしまうと、ロータスの方は、いささか野暮ったくも見えてくる。おっと、口がすぎましたかな。しかしこれはタイヤメーカーが放っておかないでしょう。商談のいい材料になる。素晴らしいところに目をつけましたな」
 馬庭は大きく頷いて肯定する。
「ありがとうございます。これも、春原のアイデアです。費用はサロンの皆さまからの出資によって賄わせていただいております。最終的に費用対効果を算出してご報告いたしますが、その前にこれまでの経緯を春原から簡単にご説明させてください」
「ふふっ、あいかわらずツボを突いてきますな。これほどまで効果的な場面を目の当たりにした後で、そんな言い方されるとこそばゆいですわ。まだまだ私たちの財布から引き出そうとしとりますな。ハッハッハッ」
 馬庭は笑みを含み、軽く会釈をしてレイナを前面に促がした。当のレイナは馬庭からの振りに臆することなく、國分らに対面して説明をはじめようとした。
 グリッドについてからスタートまで、5分の時間を取るようにレースディレクターに伝えたてある。少し長引くことを考慮して八起に合図を送る。音もなく馬庭の影に回りこむと耳打ちされたことに小さく肯き、周囲に気付かれることなくエレベーターへ向かった。
 馬庭は何事もなかったかのようにサロンにいる他の数人の客達にも、レイナが説明をしているところに注意を引かせるように、展望窓から目線を誘導するようにレイナの立ち位置を調節し。さらには、しばらく顧客の目をコースから離すように、ホスピスの女性たちに合図を送った。
 それを見た渚沙らのホスピス達が、レイナが馬庭に提案したときのイメージボードを用意して、展望窓とは反対側に掲げて並びだす。そこにはクルマのイラストにロゴが白く抜かれたタイヤが描かれ、引き出された線の先には流麗な文字で解説文が書かれていた。
 客の目は嫌がおうにも大きなボードに向けられ、さながらレース前に最新情報をリリースする事前発表会場と化していた。
 日頃からレイナを中心に危機管理を徹底されているサロンは、そのレイナが当事者として指示を出せない場面でも、馬庭からの指示を汲み取り実践できる応用力を発揮する。
 サロンの顧客たち全員に最高のサービスを提供するために、仕事に取り組む高い意識が備わっていることが、この場に落ち着きと風格を与え、顧客にとって特別な場所としての価値を作り出している。
「単純に見栄えだけのことなんですが、以前より私の目線で見ていると気になっていたところでした。車体は色鮮やかに配色され、サポートパーツ会社の社名などが貼り込まれているのに、どうしてタイヤやホイールなどを含む車体の下部は、黒くすすけているようで華々しさがないのだろうと。いみじくも國分様がおっしゃられた“野暮ったい”といった印象がどうしても拭い去れませんでした」
 レースにおいてタイヤは重要なパーツの一部であり、タイヤメーカー各社も技術競走には余念がない。ところがどこの何というタイヤなのか、というのはガレージで作業している一部の者しか知らないのが現状だった。
 そこに目をつけたレイナは、社名・商品名を目立つように、それ自体が広告塔になるように白くペイントして、周囲に一目でタイヤの持つブランドイメージを浸透させようとした。
 今回は、一文字、一文字マスキングテープで覆い、耐水性・耐候性があり、薄塗りを重ねて白がハッキリと見栄えるように仕上げてある。
 タイヤメーカーより効果のご賛同が得られれば、多ロット生産に対応するべく、マークの形に打ち抜かれたマスキングシートを用意して、量産化にも対応できるように考えている。
 ただ、ペイントがタイヤにどれほど影響を及ぼすかは、長期に渡りデータを取っていかなければならず、インク会社と協力関係を持ちながら開発する必要があった。
「ただいまご覧いただきました、両車がピットガレージからそのままスターティンググリッドに向かう手順も、実を申しますと、あのタイヤをスタンドのお客様に効果的に見ていただくために捻り出したものなのです。残念ながら今回は濱南ツアーズのGMには承諾を得られませんでしたので、甲洲ツアーズのオースチンのみに施行してあります。しかしながら、ただいま、皆さんもご覧いただきましたたように、待ち構えるロータスの従来通りの足元に対し、颯爽とホワイトマークを携えたタイヤを履き登場したオースチンは、足元も引き締まり、チャレンジャーとして若々しさを醸し出しており、2台を比較対照できたことで一層の効果が得られたと感謝しております」
 レイナの説明を聞き終えたサロンの顧客達は、お互い口々に感想を述べ、強い納得と満足感を得て、次第に賞賛の拍手が湧き起こっていった。
 レイナは自分の中で膨らんでいく達成感のようなものがひしひしとつたわってきた。普段から気になってきた細かな疑問や問題点を、どのようにして具体的な事案として展開していけばよいのかわからず、それ以上に、はたしてそこまで口出ししていいものか二の足を踏んでいた自分が、馬庭の後押しにより提案にこぎつけ、そして今ここで、多くの賛同を得る結果を手にすることができた。
 馬庭からの指示を待っている受動的な態度から、ひとつのアイデアを元に、多くの問題点を解決し、さらにメーカーを含めた顧客へ還元するところまで昇華できたことが何よりも嬉しかった。
 嬉しそうに何度も肯きながら聞いていた國分は、渚沙に促がされるようにして自分の席に戻り、今の説明に付いての感想と気になったところをいつもの口調で話しはじめていた。
 渚沙は聞き役に徹しながらも國分の生の声をレポートとして報告するために、聞き漏らすことのないようにさりげなくテーブルの下でメモをする。席についてからポロリと漏らす本音。それこそが、レイナが一番望んでいる貴重な情報となる。
 説明では自分が提案した部分のみの発言に留めたレイナは、実際にタイヤにペイントするなどの実務も行っていた。普段の仕事を終えるのが夜遅くなっても、それから作業用のツナギに着替えて、ワーキングキャップをかぶりガレージに向かい、廃タイヤをテスト用になれない手作業を額に汗して、試行錯誤を繰り返しながらペイントの練習を行った。
 そうなれば当然のように、その姿は渚沙も、馬庭にも知るところとなり、一緒になって手伝うようになった渚沙と、レイナをサポートするように八起に指示をして見守る馬庭がいた。
 それに応えるようにしてレイナは3人3様の方法で、ペイントのやり方を代えることにより作業効率のアップを図り、短期間で最善の方法にたどり着くことができた。
 一番綺麗に仕上がったタイヤを見本として、例のボードと共に馬庭に提案を行うと、すでに八起を通じて詳細を把握していた馬庭は、事前に改良点や問題点をそれとなくレイナに伝えるように指示をしておいたので、当日は簡単な疑問点や改善点を手短に伝えただけでゴーサインを出した。
 一週間の限られた時間の中で提案を実現させるのは、馬庭にも大きな不安とリスクがともなっていた。ただ、時間をかけたからといって良いものができる保証もなく、高い集中力を持った今のレイナに、まずひとつ成果を上げさせなければ次につながっていかないと判断した結果であった。
 そのためレイナからの説明を受けてから、問題点に手を打っていては遅きに帰すると思い、先手先手を打ったことで上手くまわったのは、レイナの持つ強運もあったのだろうと馬庭はほくそえんだ。
 頬に白いペンキを付けたままの、レイナの安心しきった喜びの表情は眩しく、影から支えていた渚沙も八起も自分のことにように嬉しがった。
 特にレイナに対し、雲の上の存在としか思っていなかった八起にとっては、一緒に作業をする中で、レイナの仕事に対しての一途な思いが中途半端なものでなく、馬庭に対する感情うんぬんより、自分への挑戦ともいえる戦かう姿勢が見て取れ、強く心に感銘を受けていた。
 八起自身、はたして自分は、これほどまでに仕事に対して真剣に取り組んでいただろうかと反省させられるとともに、こんな自分にも真摯な態度で接してもらえたことで、知らぬ間に感情移入をしたところを馬庭に見透かされるといった思わぬオチもつけてしまった。
 何にしろ、この一週間に凝縮された自分たちの努力が報われたことで、さまざまな思いがレイナの頭をよぎり、本当なら爆発させたいほどの喜びと、気を許せば溢れ出しそうな涙を、小さく小さく何度も拳を握り締めることに代え、少しずつ開放していた。