private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over22.21

2020-01-25 08:20:40 | 連続小説

「いまチューニングしているの。ほったらかしで置いてあるから、弦が伸びちゃってる。楽器チューニングするの上手じゃないんだけど、だいたいはあわせられる」
 細く柔らかくしなった指がギターの弦を抑えた。それは指にとって過酷な労力にみえる。いくつかの音を鳴らしはじめた。ピックをはじくとビーン、ビーンと響く。指先が弦を滑らせるとさらに痛そうで、これじゃ指の皮がこすれて割けたり、経常疲労で厚くなったり、常駐化してタコになったり、、、 なんてよぶんなことばっかりアタマに浮かぶ。
 ギターなんか握るよりもっと違うもの握って欲しいとか、爪とか傷つけるよりキレイに磨いてマニキュアとか塗るといいのにとか、、、 でも、これまで朝比奈の顔やスタイルばかりに目をとらわれていたけど、、、 高校生男子としては普通だな、、、 けど、指先見るとけっこう使い込んであったりして、、、 ナニに?
「バンドのひとに、ひととおり楽器は教えてもらった」
 朝比奈はギターをつま弾きながらそう言った。だから爪なんかにおしゃれせずにギターやベース、ピアノを弾くのに不都合ないようにしているんだと言わんばかりに。それだけに真剣度がつたわってくる。
 昨日、バンドの演奏を見た時にあらためてそう思ったんだけど、右手と左手が別の動きをしていろんなメロディを奏でていくってほんと手品見てるみたい。おれにはなにがどうなっているのか、まともにあたまで考えてやったらうまくいかないだろう。もう左右の手がひとつの生命体として勝手に動いているみたいだ。
「何度もね、繰り返し練習していると、たしかにね、自分の思考からははずれて考えなくても、弾けちゃったりする。ホシノだってさ、走ってるときここで右足出して、右腕出してっていちいち考えてるわけじゃないでしょ。そう思うと簡単にやってることってほんとはすごいことなんだって、われわれ人間もすてたもんじゃない」
 なんてあいかわらずいろんなメロディを演じながら話をつづける姿をみると、たしかにあたまと手が別もんだと納得したりして。それって走るなんかよりよっぽど高度な技だろな。その時のおれは楽器の何たるかをまだなにも、こんなことも、あんなことも、なあんにも知らなかったんだからしかたない。
「いまから簡単なのひとつ弾くから。指の押さえかた見てて。コード進行というのがあるんだけど、言って覚えるより見て覚えたまえ」
 えっ、さっきは自分の感性でヤレって、そう言ったはずだけど、、、 それになんで“たまえ調”?、、、 なに、教えてくれるの? それならはやく言ってよ。
「キホンはね。基本は教えてあげる。歯をみがくのは好きなようにしていいけど、歯ブラシの持ち方は教えてあげるわ。指でみがくのもいいけど」
 またまた、深いのか、意味不明なのか、よくわからない例えばなしをして。朝比奈のその白魚のような指なら、みがいてもらいたいぐらいの発想しかできなかった。
「指より、コッチでしょ。ちゃんと見ててよ」
 と言われておれが見ている先は、組んだ脚にギターをのせた朝比奈の身のこなしと、スラッと前に出た長いおみ足。そこからやわらかそうな太ももとお尻につながる曲線美、、、 曲線美ってこのためにある言葉だとおれは確信した、、、 
 朝比奈は一度、右手のひらですべての弦を押さえて音を止めた無音を作り出した。防音設備がされている部屋はまわりの音がすべて吸収されてしまうかのようで、耳から音が吸い取られていく。さらに朝比奈が昨日と同じように、スッと息を吸った。こんどはおれの魂が抜かれた。https://youtu.be/i2RK3NZk7vE
 それはやはりよく耳にする曲だった。“アメージングレース”たしか『ドナドナ』を歌っているひとの歌だ。朝比奈のプリプリとした唇が艶めかしく動いている。そしていい声だ。耳障りがいいっていうのか、心地いいっていうのか、聴いていて幸せな気分になってくる。その感情はひとによって違うだろうから、そうでないって言われてもしかたがないんだけど、だとしてもそれを越えて一度は聴いてみるべきなんじゃないだろうか。
 そしてギターの音色。ギターがうまいのかおれにはわからない。それなりには弾けているんじゃないか。それよりギターの縁にのせたオッパイが良い感じに盛り上がり、指をくわえるより、せっかくならそっちのほうがいいかなと腕を伸ばしたくなる。その先に質感のいい手触りや、吸いつくような握り具合が容易に想像できるぐらいで、一度握れば離し難いのはまちがいないだろうな。
 いやいやそうじゃなく、見るべきは朝比奈の左手のうごきで、それはいろんな形に変化して弦を押さえ、そのたびに音色が変わっていく、明るい音、切ない音、少し変調した感じ、それがコード進行ってやつなんだろう、それらがつながっていき曲が完成する。これまで楽器に興味のなかったおれの本能が目を覚ましたようだ、、、 ほんとか?、、、
 最後にギターをジャジャンッとやって曲をしめた。
「ちょっとなにその手。なにつかもうとしてるわけ」
 あっ、音は聴きながらついつい、手が勝手に、これはどうだろ、いわゆるアタマと手が別の生き物として、、、 あっ、イテっ。
「さっきね。受付のおねえさんに言われたの。密室に男の子と二人きりで大丈夫? って」
 ええ、それで。
「襲われたら、蹴り飛ばしますからって言ったら。やりそーって笑われた。それであとで見に行くねって言ってくれた」
 おれのみぞおちに朝比奈の長いおみ足が突き刺さっている。できればおねえさんが来る前に抜いて欲しい、、、
「どう、いい感触でしょ。これまでにない、ああ、初めてだったわね。はじめてでこれじゃ、今後は舌が肥えるから、他のじゃもの足りなくなるかもね」
 なんの話をしているのか、演奏のことなのか、キックのことなのか、演奏だよな。そういうもんなんだ、はじめて口にした食事が高級ステーキなら、もうあとからどんなニク食っても安っぽく感じられるみないな。
「高級ステーキとかって、例えが貧困。でっどうだった? はじめて触れた感じは。自分の思いでコントロールできるっていうのは、なんにしろいいことだわ」
 そんな、簡単に言っちゃってくれちゃって。単に見惚れていたわけじゃない。太ももが描く有機的な曲線があまりにも美しすぎて目を奪われていただけだし、盛り上がったムネのラインに吸い寄せられるのは、街灯に集まる夏虫みたいなもんじゃないか、、、 いいかたを変えても助平心は変わらない、、、 だな。
 なにしろ、おれのスケベ心が功を奏して、その動きだけは脳裏に焼き付いている。遊び半分でドラムをたたいた時の、あのギクシャクとした感じが思い出される。ああいったのはあたまで考えちゃダメなんだ。カラダが勝手にやってくれるまで染み込ませて何度も繰り返すしかないんだ。
 そんなことよりもう一曲聴いてみたくなった。こんどはちゃんと聴くからさ。なんて信頼性の低いお願いをしていたら、ドアをたたくノックの音がした。
「どう、仲良くやってる?」
受付にいた美代ちゃん似のおねえさんが顔を出した。
「あら、演奏するのは朝比奈さんのほうだったの」
 いろいろな常識的判断は、常に覆されるために存在して、そのたびに仰天するのは一般小市民であるおれたちで、そうやって物語は続いていくわけだ。日常を破壊して、はじめて世の中に出られる。あの感じが忘れられずになんどでも求めてしまう。
「彼氏に押し倒されない抑止力として同席させてもらっていいかしら。わたしね、いま昼休みに入ったの、よかったら一緒に聴かせてもらえる?」
 なんだか最初の理由が気にかかるおれだけど、朝比奈は面白がっているようだ。
「澤口さんはどんなジャンルが好きなんですか?」浅田さんではなく澤口さんというらしい。なんで朝比奈は知ってるんだ。知り合いだったのか、、、 ああ名札見たのね。
「わたしジュリーが好きなんだけど、そういうのは演奏(やん)ないわよね。フォークだったら、S&Gとか、PPMとか、CSN&Yとか… 」なに、その暗号文、、、
「ああ、澤口さんはそういう方向性なんですね」ええっ、それでわかるんかい、、、
「じゃあ、こんなのどうですか?」朝比奈は低音のリフを奏ではじめると、澤口さんはこの曲大好きと手を叩いて喜んだ。これはこれで疎外感。おとこだけでなく、女性にも嫉妬してしまうおれって、だいたい想像はつくとおもうけど、あまりいい思い出にはなりそうにはない。


Starting over.22.11

2020-01-18 08:42:37 | 連続小説

「どう、まだ続けるつもりある? それとも止めとく? 巻き込んでおいてなんだけど、やるんなら最後までつき合って欲しい」
 このタイミングでまた微妙な問いかけを。この状況になって、なにを選択させるっていうんだ。そりゃハラだってなんだってくくるに決まっているじゃないか。これでケツまくって逃げだそうもんなら、マリィさんやケイさんに顔向けできない、、、 その場合、再会できるのか知らんけど、、、
 プロデューサーとやらに認められなかった場合、朝比奈はどうなってしまうんだろうとか、なにひとつコントロールできるはずもない状況で、シロウトのおれなんかにゆだねてしまうなんて、、、 そのすべてがおれのせいになるなら、この先穏やかに生きていけないしなあ、、、
 いつだって舞台に乗せるのは朝比奈の方で、おれが望んだわけじゃ、、、 ああ、そうだね。だから、それを求められたおれが、いったいどこまでできるのかってとこを見極めたいからだ。それも朝比奈の算段に入っているんだ。
「最初はホシノなんだって、それだけの理由じゃないんだけど。一度見ただけでそうなる人であったり、何度逢ってもきっかけがないまま離れていったり。自分が誰と出会って、そこになにを求めるのか。自分で選択するよりも、偶然性に意味を求めて成り行きに身を任せて、それもいいんじゃないかってこともある。めぐりあいって特にそういう傾向におちいりやすいから。ここにいるべき理由があり、ここで同調する理由がある。その先の未来を夢見て描き、未来への想像とともに溶け込んでいく。それがホシノだなんて、ちょっと面白いかもね」
 面白がられているのか、偶然性にまかせられているのか、言ってることの半分もわかんないけど、おれが絡むのにそれなりの理由を見出しているなら、がぜんやる気が出ちゃうじゃないか、、、 マゾかな、、、 いい意味で言えば女王様を救おうとする王子効果とでもいうんだろうか、、、
 単純だからな、おれ。王子様とはほど遠い見てくれなのに変に勢いづいたおれは、朝比奈の胸の内をじかに感じたく、熱がまだ残っている場所にまで伸ばして前に倒していったんだ。そこは甘い香りが一緒になっていた。
「急がなくていい。ひとつづつ段階ってものがあるんだから。こなさなきゃいけないステージをとび越えても結局は足踏みをするだけで、瞬息の快楽は永久の苦痛の元になるだけだから。そんな失敗はね、これからの人生のあらゆる場面でよみがえり、思い出すたびに痛みを伴なってきだでしょ」
 急がないでって言われても、もう終わってしまったのは取り戻すことはできず、これまでのおれの失敗の数々が、苦い思い出が痛みとともにあることを的確に指摘している。だからもう朝比奈は、器用にこねくり回していた芯部から手を離してしまったんだ。
 飲みほしたあとの朝比奈はそれを手のなかでもてあそんでいた。おれのコーラも残り少ない。蝶がヒラヒラとまわりを飛びはじめた。朝比奈は何か言い出すわけでもなく、なんだかつまらなそうな顔をして蝶の動きを追っている、、、 授業中に窓の外を見ている時と同じように。おれの席から外を向く朝比奈の表情はいつもそんな顔をしていた。
「そんなふうに見てたんだ。べつにつまらないわけじゃない。つまらなそうな顔をしてるんじゃなくて、ホシノがそう見えてるだけでしょ。自分の不安を他人の顔に映しこんでいる。そうして猜疑とか、怒りを作り出してしまう」
 そう、おれはおびえてるだけだ。朝比奈の期待に応えられるのか。家族の期待に、学校の期待に、世間の期待に、、、 世間は期待してないな、、、 で、自分以上を出そうとして、でも、そんなことはできないことにおびえて、ひとの顔色をうかがっている、、、 すべてお見通しだ。
 できないのはその経験をしていないから、できているのは経験済だから。それだけのことをよく見せようとして躍起になっている。赤ん坊はなにも出来なくてもみんなから可愛がられるのに、大きくなるにつれその特技を失っていく。そのかわりに自分で出来ることを増やしていかなきゃならない、、、 これもそのひとつ、、、
 だいたいおれなんかギターのコードもろくに知らないのに、ましてや弾いたこともない。それで朝比奈を、その音楽観を表現しろとかムチャぶりを通り越して、自殺行為に近いような。少しはそういった概略をふまえたやりかたとか、コツくらいは教えてもらえてもいいような。
「ホシノが知らなさ過ぎるんだよ。あたしみたいな平凡な女子高生だって、ギターぐらい弾けるから」
 平凡って、、、 誰が平凡な女子高生なんだ、、、 あっ、イテっ、スイマセン。
「やりかたとか、コツとかって言われてもねえ。私も自分で見よう見まねで理解してっただけだからうまく伝わるかわからないし、変に横からゴチャゴチャ言うより、自分でつかんだ方がいいんじゃないの。やり方もそれぞれだし。共感が動機づけになることもあれば、個性からそうなることもある。一度その枠に収まったら、どうしても楽な方を選んでしまいがちだから、まずは自分でやってみれば」
 そうまで言いきられたあとで、朝比奈に反論できるほどの弁も、体力もありゃしないんだから、おれはもっと遠い目をしてしまった。それじゃあやってはみるけど、本当にそこまでおれに丸投げして大丈夫なのかって、おれはそこが一番心配なんだけど。
「そうねえ。わたしもほかりっぱなしじゃ悪いかなって、ひとつ準備してきた。もう一回、図書館にもどるよ」
 立ち上がる朝比奈。空になったカンを持っておれも続く。通りがかりのゴミ箱にそれを放り投げる。こりゃ悪魔の森の中で姫と同行する勇者のような気分になってきた、、、どう見ても勇者じゃないけど、、、 下僕程度だけど。
 図書館のなかは、勉強にはげんでいる学生の数が増えていた。もう席は満席でおれたちが座る余地はない。カツカツと鉛筆が走る音が館内に響いているのは、一歩引いてみると異様な風景だ、、、 一歩引く立場じゃないけど、、、 そのなかにいなきゃいけない立場だけど、、、
「異様よ。受験勉強も大切だけど、本来の目的からズレてるんじゃない。多くの問題を解くことや、早く解くことを重要視している集団心理におちいってる。なんのために知識を得ているのか、それが受験のためだけなら、その時間ははたして有益だったのか。違うことに、たとえば自分のやりたいことに割いたなら、新しい自分だったり、新しい技術や、理論が生まれたら面白いのにね。だれだって、一緒に走り出したレースから横道にそれるのは勇気がいる。それを十羽一からげにしちゃう国家の望むとこでもあるから仕方ないの」
 仕方ないのね。そこで朝比奈はコースをはみ出す方を選んだんだから。コースをはみ出せないおれたちは迷える羊でしかなく、野生と化した朝比奈は受付に向かった。なんだろう、席を準備しろとか強要しに行ったんだろうか、、、 十分考えられる、、、 おれが受付担当なら、勢いに圧されて速攻で新しい椅子を運んでくるな。
 受付の美代子ちゃん似のおネエさまは、朝比奈の問いに笑顔で応えている。なにやら書類を準備して、それに書き込むとカギを手にした朝比奈が戻ってきた。なんだ、これはまさかのVIP室待遇とか、、、 ここまで引き出すとはスーパー高校生だな。
「なんか、バカな妄想してるでしょ。コッチついてきて」
 朝比奈は地階に行く階段へ向かった。なんだろう悪魔の森を抜けたら、こんどはダンジョンを冒険だろうか、、、 勇者ホシノは地下に入った。
 階段を下りていくとヒンヤリとしてきて心地いい。1階は窓が開いてるし、ところどころで扇風機が回ってるから涼もとれるけど、下は暑いんじゃないかって心配していた、、、 勇者、へなちょこだな。
「地階のほうが、温度が一定だからね。夏は涼しく、冬は暖かい。意外と穴場だったりする。いろんな意味でね」
 どんな意味なのか、朝比奈はドアノブをつかみカギを回す。ギイっと扉が開けて、真っ暗な室内灯のスイッチを入れた。蛍光灯の音がジーっと低い音を鳴らす。なんどか照明がついたり消えたりして目に厳しい、目を細めてるとようやく明かりが安定した。
 そこにあるのは防音壁が施された音響ルームだった。レコードやカセットを聴くことができるコンポが設置されてるし、ギターやベースの音を出すアンプや、ドラムセットまで用意されている。
「こういう施設もあるんだけど、お役所でしょ、とくに告知もしないし、知っている人は限られている。それでも税金が投入されて保守運用しているんだから、そんな施設がほかにどれぐらいあるか調べてみる? 受験勉強の替わりになる有効な時間活用として」
 いえ、結構っス。朝比奈はおれの回答を聞くこともなく奥に進み、ケイさんが使っていたのと同じギターを奥から取り出してきた。
「こんな楽器も置いてある。昨日の夜思いついたから、予約もできずムリかと思ってたけど、朝一で来て訊いてみたら当日予約でいけた。それで1時間タダで使いたい放題」
 ギターを持って足を組んで座り、弦をはじいて高い音を出し、そのたび先っちょのねじを回している。おいおいこれじゃ、おれがギターのことを言い出すと予定いていたぐらいな用意周到な準備じゃないか。
 おれが感心だか、驚嘆だかしているのに、朝比奈はそしらぬ顔でギターをいじくってるし、どうやらなにも見えていないのはおれだけか、、、


Starting over21.31

2020-01-11 15:24:51 | 連続小説

 周回コースを5回まわったところで朝比奈はスピードをゆるめて歩きはじめた。1週2㎞で10㎞。はじめからそうしようと考えていたぐらい規則的な行動だ。
「ちょっと待ってて」
 そう言って、そのまま図書館に戻っていった。朝比奈は満足したかもしれないけれど、おれはなんだかまだ走り足りないぐらいで、走れないはずだったのに、いざ走れると知ればこんなもんだから自己チューすぎる。
 おれが無意味に足をバタつかせていると、朝比奈がバックをかかげてタオルで汗を拭きとりながら戻ってきた。図書館のロッカーに入れておいたんだ。さすがいろいろと用意周到。
「何? もの足りなかった?」
 若気のいたりでいろいろとモノ足りないことが多くて。朝比奈はタオルをもう一枚バッグから出しておれに渡した。すいません、おれなんかの毒にまみれた汗をふかしていただいて。そしておれたちは木陰のベンチに腰をおろした。
 木々のあいまからこぼれおちる陽光が、路面のあちらこちらをキラキラと輝かせている。夏の風物詩って感じに、芝生のうえでシートをひいた家族連れ。愛犬の散歩にいそしむ人。虫取りアミとカゴを持って走る子供たち。おれたちみたいにジョギングをする数人の男女。
 まわりが明るく浮かび上がって、別世界として目に入ってくるのは、おれが望んでいる世の中を植え付けるための夢想なのか、、、 同じ場所に居るはずなのに、、、、 そうして青空がますます突き抜けていく、、、 暗くなれば星が煌めいているってえのに、いまじゃ太陽のせいでなにも見えやしない。
 朝比奈はクールダウンの余韻を楽しんでいるのか、両ひざに肘をつけてその様子をながめている。間断なく草木にふれて冷やされた空気がおれたちのからだを通り抜ける。だから火照ったあたまが冷やされてすっきりとしてくる。
 少しはあたまを冷やせということなんだろうか。結論を急ぎ過ぎるのはよくないのは、これまでの経験でもわかっていた。それなのに毎回、すぐに判断したり、選択を強いられたり、その能力ができるオトコの基準とされて、もたもたと先延ばしにしているようなヤツは、煮え切らないオトコとしてダメな烙印を押されてしまう。
 そんなオトコの無意味な価値判断でこれまでの世の中が回っていたんだから、これは大いにあたまを冷やすべきだ。
「だいじょうぶよ。そんなに都合よく問題を解決できるわけないし、その結果が自分たちの意にかなったものになるのも稀なのに、そんな映画やドラマはもとより、物語や創られた歴史書ばかり見たあげく、最低ラインがそこに設定されてしまっても現実化しないでしょ」
 そうまでわかっているなら、今日のところは考えをまとめさせる時間をくれないかな、、、 おれの場合、熟考するというより、なんとか時間をかせいで、そのあいだに誰かがなんとかしてくれないかと切に願うばかりだ、、、 ケイさんとか。
「わたしは、それでもかまわないわよ。別にね、ホシノは、どうしたいの?」
 いやどうしたいって言われても、そりゃ朝比奈にそう言われれば、おれはなんだってやるつもりはある。ただし、それにはいろいろと越さなきゃならないハードルがあるわけで。
「まだ大丈夫だよ。夏休みはまだ続いてるんだから。わたしね、なんだかこう思えるの。夏休みって魔法がかかってる時間なんだって。だからそのあいだは、いろんなことが起きる。不思議なこと、普通じゃ考えられないことが。夏休みってさ特別なんだよ。春休みとか、冬休みでは感じることができない。だからみんな夏休みになにかしたくなり、なにか別のモノになりたくなる。もうそんな時間もなくなるんだよね。それが大人に守ってもらう立場からの脱却になる意味なんじゃないかな」
 夏休みの記憶っていつだっていいものだった。これからなにか無限の楽しみがはじまる。そんなワクワク感がいまだってよみがえってくる。それこそが不安定な記憶。それだけが自分の拠り所になっている。そんな不確実でおぼろげなものにしか頼ることができないんだからおれたちは儚い生き物なんだ。
 答えのある問題には取り掛かることができるし、正解を出すこともできる。解くことができなくても、必ず正解はあるし、教えて貰うことだってできる。あたりまえだけど人生は必ずしもそうではなく、答えはないし、正解があっても正しいとは限らない、、、
「少年よ。過去にとらわれるな。前にも言ったでしょ。正しいことなんてこの世にはないって。どうやらあるのは正しいことをしなきゃならないって観念だけ」
 クルマの運転を教えてもらったときもこうしてベンチに座って話してた。昨日のことなのにもういつのことなのかと記憶をたどっている。あのとき朝比奈はアイスを食べたいと言った。今日だってこれだけ走ったんだ。きっと冷たい飲み物をご所望のはずだ。
「じぶんひとりで生きていくにはそんなものは必要ないんだけど、どうしたって大勢の中に組み込まれて流されていくのなら、わたしたちは正しいといわれるルールに従うほかはない。いきましょうか」
 察した朝比奈はそう言って席を立った。まっすぐ進むその先には自販機がある。ここはおれがとポケットから小銭を取り出して何を飲むか意向をうかがう。朝比奈の細くてきれいな指が湾曲を描いて示したそのさき、、、 やっぱりコレか、、、
「組織で生きるにはある意味、自分の身柄と大切なものを人質に取られているようなもの。自分の勝手な行動が組織に迷惑をかければ自分が糾弾されるだけではなく、まわりにいる大切なものに被害が及ぶように組み込まれてたりするんだから」
 おれは大好きなコーラのボタンを押した。激しい音を立てて落下してくるんだから、栓を開ければ吹き出すんだな。ひととの関わり合いが増えれば喜びと悲しみが増えていく。それを朝比奈は受け止めてくれるんだろうか。
「集団生活をするうえでの担保が、人の生き方を決め、可能性を停滞させている。これからのひとたちが自由である生活を手にしたときに、その使いみちを誤ってしまったら、それはかなり悲しい未来になりそうで。だけど、しかたない。本当に手に入れたいモノが、かならずしも望んだ人の手におちるわけじゃないから。そう思うと、わたしたちは不完全な自己完結の中でしか生きていけない」
 世間という枠から外にでるということは、つまりそういう世界に足を踏み入れ、自分で納得できるかどうかの判断を繰り返している。自ら関わっていく時も、まわりから関わりを持たれる時も、その都度に、先走った行動か、熟考のうえでの行き当たりばったりの言葉の上で成り立っていった結果がその後を形成していくだけで、どこに作為があったかなんてなんの検証をされるわけでもない。
 それなのに、いつだって朝比奈は手際よく、おれの中心までなんなく手を伸ばし、スルッと大事な部分を取り出してくれたんだ。おれのほうから手慣れてるとはいいづらく、そう断定するのはあまりにも失礼であるし、もちろんそうでないほうがおれの気も休まる。
 おれの迷いもよそに、朝比奈は外界に解放されたおれの芯部を優しくほぐしてくれていた。自分では味わえない感覚を他人に委ねるのは自分を否定してしまうことになるのか。だったら自分が何者かなんて永遠にわからないままなんじゃないだろうか。
「『自分が何者か』、なんてのは、自分自身で決められるものじゃない。大勢がアイツはいい人だという。そうだから自分はいい人であり続けられ、大勢があいつは悪いヤツだといえば、自分は悪い人間になる権利をえられる」
 朝比奈はそれを開けて、唇を小さく動かして吸い取っていった。細く長い首がコクコクと動き、のどを通って流し込まれていく。
「だからね、ホシノがわたしを嫌がってなければ、わたしもホシノを嫌がることはない。まわりがわたしを嫌っているから、わたしは大勢に嫌われてもかまわない行動をとる。周りとの関係があってはじめて自分が何者かを決めることができる。歪んだ考えだけど、それもまた真実」
 おれはつい、皮肉めいた言葉を思い浮かべる。じゃあ朝比奈は人間じゃないのかもしれなと。そして同時におれにとっては天使なのかもしれない。おれは汗をふいたタオルを使ってきれいにした。申し訳ないので洗濯して返すってことわった。
「オトコができることも、オンナができることも限られたことがある。どちらかの領分を羨ましがったうえで侵犯したり、奪ったりしても、一瞬の心地よさを得られるだけじゃないのかな」

 そうだよなあ。一瞬の心地よさを感じてしまったおれは、朝比奈からいわれるがまま次の行動を起こすのは簡単じゃない。ここまでおれの気持ちを読まれ、そのうえ、おれが動きやすいように心理や、身体の動きまでに言及してまで求められるなら、それにノコノコと乗っていけば、主導権はつねに朝比奈の手の中だ、、、 いまでもいろんなモノが手の中だけど、、、
 ゆっくりと呼吸をあわせて、うえへ、したへと揺り動かされていくから、おれはもうすぐに限界までいきついてしまい、この世に放出するしかない。おれがどこで行こうが行こまいがそんなことはおかまいなしだ。
 朝比奈は不機嫌になるわけでも、冗談として受け止めてくれるわけでもなく、柔らかく目を閉じたその表情はまったくの自然体であり、次への行動がなにも読めない。つまりこれはおれの言葉を肯定しているという態度なのであろうか。
「ホシノが私を人間ではないと言えば… 」
 ああそういうこと、悪かった、悪かったよ。いま人間でない自分を演じてたんだね、、、難しいって、、、
「 …人間ではないし、天使だと思えば、ホシノにとっての天使になれるのかもしれない」
 芝生の家族づれはボール遊びに興じている。おれはまわりの視線を気にして、目が泳いでしまい、その度に不自然に目線をそちらの方向に向けていた。その場に収まっていない状況にあきらかに戸惑っている。柔肌の感触と香り、温かな熱量と心音が押しつけられてきて、、、 もう身動きがとれない、、、


Starting over21.21

2020-01-04 08:12:37 | 連続小説

「この公園ね、周回コースがあって、木陰に覆われているからそれほど暑くないでしょ。この時期でもけっこう走れるの」
 朝比奈は着ていた薄手のウインドブレーカーを脱いで腰に巻いた。そう、下は膝丈までのフィラのショートパンツにハイソックスで、ルコックのジョギングシューズは図書館ではいささか不釣り合いだった。その理由がいま明らかになった。
 それはいいとしよう。それなのに上はピッタリとフィットしたNikeのランシャツ。困ったなあ、それじゃあ胸が揺れておれは目が離せないじゃないか。それよりもそれを見るまわりの好奇の目が気になってしかたないし、、、 暴徒と化す群衆を制する力はおれにはない。
 立ち上がってストレッチをはじめる朝比奈。屈伸したり、腕を伸ばしたりと、ひととおりしたあと、立ったまま前屈してシューズの紐を締めなおしはじめた。それもストレッチのひとつなのか、朝比奈の肢体はなめらかにしなる。その脚はおれとおなじ人間のものと思えないほど、、、 長い。
「なにもたもたしてるの。いくよ、ホシノ」
 えっ、おれ、走るの? ムリでしょ。腰治ってないし。春先からこっち運動したことないし。
「できないって決めつけて過去にしばられたまま、なにもしないのは愚か者。未来だけを夢みているのは楽観思考のお調子者。だったらさ、どうせできなかったんだから、やってみたって失うものはないでしょ。できたらラッキーぐらいでいいじゃない。わたしは過去の失敗に学べないより、未来の自由な空間に想いを馳せるほうがいいと思うんだ」
 それがなにかにつけてできない言い訳をしているおれと、そうでない朝比奈とを分けるひとつの指針なんだろうな。そう言ってとっと走り出してしまったから、おれは運動するなんてひとつも考えてこなかった普段着のままで、、、 そりゃ夏だから、部活の時に穿いていた短パンと普段着のTシャツで、靴といえばこれしかもっていないプーマのシューズ穿いている、、、 だから運動できない状態ではない。
 おれは恐る恐る一歩、二歩と、足を動かしていった。恐怖心がないわけではない。あのときの衝撃が、いつ自分のからだに訪れるのか。そればっかり気にして。でもそんなものはいつだって同じだ。ふつうに生活してたってそれが安全地帯ってわけじゃない。いつなんどき痛みがおこるかなんてわかりゃしないんだから。ひとにかならず訪れる死とおなじで、、、 朝比奈をまねて大げさに例えてみた。
 朝比奈にはなかなか追いつけなかった。さして速いスピードで走っているわけじゃないのに、おれが思った以上に自分の脚が動いてないだけだ。たまにうしろを振り返り、小ばかにしているのか、心配しているのか、、、 今回もまた、前者だな、、、 あの時の感覚に近づけるならもっとスピードも増していくはずだ。
 うしろについて走るのも悪くなく、そのフォームはやっぱりキレイだった。あのとき、夏休み前のあの日、下校する生徒のなかを回遊していた朝比奈の歩く姿を見て、キレイな歩き方だと感心していた。あのときは俯瞰からみてたけど、やっぱりそれは見誤りではなく、そのまま走りに直結していて、それこそ朝比奈が思っているよりもっと速く、どこまで速く、走っていけるはずだ。
「いつまで、後ろについてるつもりなの。お尻見てへんな気持ちになってるんじゃないでしょうね」
 朝比奈はスピードを落として、後ろ向きに走りながらおれが追いつくのを待った。そんなよこしまな理由だけじゃなく、女性のランナーを見るとボリュームのあるオシリから絶妙な曲線の大腿部に、猛烈なパワーが秘めているんじゃないかっていうのがおれの持論だ。
 そりゃどうしたってオトコのほうが速く走れるわけだけど、見た目から言えば女性の体形のほうが、走るにあったって理にかなっているような気がしてならないんだ。
「そういう見方もあるんだ。見た目で騙されることも多いし、見た目以上ってこともあり得る。ひとが自分のカラダの能力をすべて使いきっているわけもないし、もっとうまく使えるのに、どこかで歯止めをかけているのは自分の意思か、自制する脳のしわざなのか。女性ランナーが男子をうわまわれば、いろいろな普遍がひっくり返って楽しいかな」
 やめてよ、そういうことサラッと言うの。朝比奈が言うとさ、それを自ら実現しそうでシャレになんないんだから。そうしておれたちはようやく並走して走るようになった。いくら木陰だからといって夏は夏。朝比奈の表皮に汗がキラキラと輝きはじめていた。
 おれなんかの汗だとべたッとして気持ち悪いだけなんだけど、同じ人間の汗なのにどうしてこうも違うものなのか。もしかして別モノなのかもしれないなんて、本気で心配してしまう、、、 若い男子は放出するものがいろいろあるんだから。
「運動している時っていいなって思うのは、五感が研ぎ澄まされていく感じ。この世の音だとか、匂いだとか、色とかが、自分のカラダの中に吸収されていく。歌を歌うのはアウトプットで放出だから、こんな自然な感じでインプットできるのがいいんだ。本を読むのも好きだけど、どうしても活字の中だけに身を置いてしまう。そこから感じられる立体的な映像であっても、歪曲の隘路のなかだけの狭い範囲での世界でしかなくてね」
 走って、五感を研ぎ澄まして、少しは良いアイデアでも出せばいい。そんなこと言われたって、おれはこれまでなんにも考えずに走ってたんだから、それはおれがどこまでも能天気な人間の証明ってことなんだろうか。
 股間を研ぎ澄ますならほっといてもできるんだけど、歯を食いしばって、自分以上の成果を求めて、苦しみだけをともなった走りからは、前頭葉に刺激を与えはしなかったんだ。
「やっぱり、違うね。走ってるときのホシノは、クルマを運転してるときより生き生きとしてる。合う合わないってどうしても個人であるんだから。あのとき、慌てて走ってきたホシノを見て、ブレーキをかけているのは他人の言葉に囚われてるだけかなって」
 いろいろと見透かされているとヘコんでばかり居られないから、やり返してもみる。昨日、帰り間際の朝比奈は深刻だった。だからおれはマサトの話を聞いた時、そこに囚われているんじゃないかと直結してしまったから。
「ああ、そうだったの。たまにね、そうなることもある。自分の中でイメージを膨らませていき、多岐にわたってつながりだすとそうなる。ホシノが吐き出した空想がわたしのなかで形成されようとしはじめたから。集中していった」
 二周目のラップに入った。いまだに腰は悲鳴をあげていない。そりゃジョギングレベルのペースなんだから、高い強度で走っているのとはわけが違う。それでもかたくなに走るのをこばんでいた身にとっては、もはや罪悪感にさいなまれるぐらいだ。
「パラドックスとかジレンマとか、ひとりでおちいることも、集団でいるからこそおちいることもそれぞれある。さっきのピアノの話しもそう。望まない状況に流されていく。自分一人がガマンすればみんなが喜ぶだろうとか、自己犠牲の発端がときにみんなをまきこんでより一層の不運を呼んでしまう。“アビリーンの不幸”とか有名なんだけど、小さくは日常にどこにでもあり、大きくは勝てもしない戦争をおこしてしまい、負けるとわかっていて戦い続けてしまう」
 おれに走れというのは酷だとだれもが思っているから、安易にやってみればいいだなんて誰も口にすることはない。その言葉にだれも責任をとれないし、いい思いをするわけでもない。じゃあ朝比奈がどれほどの確証があってやったかなんてわかるはずもない。確証があるからやるのではもう遅いんだろうな。