private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

商店街人力爆走選手権

2016-03-20 10:29:11 | 連続小説

SCENE 25

「あーら、ほんとに来てたのね」
 背後から声をかけられ、慌てて振り返る戒人。腕を組んで首をかしげている恵がそこにいた。白いスラックスが人ごみの中でもひときわ華やいで見えるのに、残念ながら戒人にはそれが目に眩しく、うまく正視できない。それはけして容姿だけではなく、充実している生活や仕事ぶりから湧き出ているため、戒人には余計に眩しい見えるのだろう。
「でっ、どうするの? 人力車でどこ行くの」
 それだった。自分の… と言うより悠治との共同… と言うのもはばかれるほど、ほとんど悠治に言われるがままに作り上げた成果について自慢したいものの、乗せてどうするかまではノープランなのは戒人ならではだ。そして、それをいままで考えていたけれど、なにも思い浮かばないまま時間がすぎ、いまに至り、目の前には結果をコミットさせようとするやり手の部長が、今や遅しと待ちかまえている。
 何かを生み出すときは無理やりでもその状況を追い込み、逃げ場をなくすことで、クリティカルヒットが生まれると、啓発本で読んだはずなのに。そんなアドバイスを何度も耳にしていたのに、良いアイデアを考え出せる人間は、そんなことしなくても湯水のように出てくるし、追い込まれたら追い込まれたで逆転の一発を打つこともできる。
 自分だって追い込めばできるものと、ひそかに期待していたのに、やはりなにも出てこない現実を見せつけられれば、おのずと自分の限界を知らされ、なりなんともやりきれない。本気を見せないのは、本気になれば自分はもっとできるという、最後の生命線を残しておきたいからでしかない。
「こっちでしょ」
 業を煮やしたふうの恵は、勝手に西口の方へ歩いて行った。戒人もしかたなくついていく。
 目の前を自分の理想が歩いている。自分のやりたいことがわかっている。ゴールが見え、そこへたどりつくために方法がわかっているしアイデアもある。人をどう動かせば力になるかわかっている。自分には何ひとつ持ち合わせていないものを彼女はすべて持っている。そういう人間になりたいなんて思って生きてきたわけじゃないはずなのに、いざそんな人間をまのあたりにすれば、自分はただ、見たくない現実を避けていただけで、相手の大きさと自分の小ささが否応なく比較され、上っ面だけでものごとを判断して知ったかぶっている自分を目の当たりにする。
 人力車はひとつ先の曲がり角の奥に留めてあった。恵は人力車のまわりを一周してなにか変ったところを見つけようとする。引き手にペダルのようなものが付いていて、そこからチェーンが車軸の方につながっていた。
「ふーん、これが改良のあとね。どんな効果があるのか見えないけど、乗ってみればわかるってことかしら? タコス屋にでも連れてってもらおっかな」
「ダメっス。アイツのとこには行けないっス」
 突然、強い口調で否定をするので、恵はたじろいでしまった。仁志貴のタコス屋に行けないのも数少ない戒人の選択肢を狭めている原因のひとつだ。
「なに? どうしたのよ。ケンカでもしたの?」
 そういいながら、瑶子のことでゴタついたのだと察しはついた。どんな諍いになったのかまでは知らないものの、三人の緊張がくずれ不協和におちいっているといったところか。
「いえ、何でもないっス」
 ふーんと、とりあえずは関心なさそうにして人力車に乗りこんだ。
「あらっ、乗り心地いいじゃない。こないだよりなんか、ゴツゴツしてないっていうか」
「板バネの代わりに、エアサスつけたんス」
「へーっ、よくわかんないけど、空気圧で振動を吸収してるってことね」
「木の輪っぱも外して、自転車の車輪付ければもっとよくなるんスけど、間に合わなくて来週ぐらいならできると… 」
「それはやめた方がいいわ。見た目はいまの状態をキープした方がギャップが面白い。この見た目なのに速く走れるってとこに魅力があるでしょ。そうね、せいぜい自転車のタイヤを木輪の周りに貼り付けるぐらいが適当ね」
「廃タイヤならいっぱいあるし、それぐらいならすぐにできるかも」
「それで充分。そのペダルも、チェーンもできれば見えないようにしたいわね。まあいいわ、商店街を流してみて」
 恵は前のめりの状態で試運転を急がせた。戒人はひょいと引き手を片手で持ち、ゆっくりと歩き出した。
「なに? すごく軽そうね。こないだとは大違いじゃない」
「車軸にベアリング噛ませてあるんで、転がり抵抗が少ないんス。それに、無段階ギアのおかげで走り出しは少しの力で動くし、スピードが乗ってくればこのレバーを引いていくと… 」
 説明しながらスピードを上げて軽快に走りだした。
「同じ力で、進む距離が延びるんス。ペダルを手で回すのも、少ない回転で前に進むから一歩の距離が稼げるというか… 」
 悠治に言われた言葉を、よく意味もわからず、右から左へと説明しただけだった。膝についた両腕で頬杖を付いた恵は目を細め、戒人の説明と乗り心地を楽しんでいた。機械的な意味はわからなくとも、戒人の努力と、周りの協力を得る人間性が伝わってきた。あの運動能力ゼロの戒人が、これほどテンポよく走れているのは奇跡に近い。
「 …やるじゃない」
「えっ?」
 小さくつぶやいた恵の声ははっきりとは戒人に届かなかった。聞き返されてもほくそ笑むだけで同じ言葉は繰り返さない。今の段階で調子に乗せるのもしゃくだ。
「ねえ、あれはナニ屋だったの?」
 ページをめくるようにして流れていく商店街の街並み。戸板でとざされていても、外観で店の印象は伝わってくる。古めかしい風情も郷愁を誘うし味わいもある。
「あれは、畳屋っス。あととりがいなくて5年前に店じまいしました。あととりがいたって、いまどき誰も高い金出して手作りの畳買わないっスよね。大手の住宅メーカーが海外から安いビニール畳取り寄せてますからね」
「そう。店主はご健在なの?」
「健在も、健在。ヒマと体力、持て余してるもんだから、ほうぼうのマラソン大会とか出まくってるらしいっス」
「へーっ、マラソンね。あなたも、ぜんぜん息切れないわね。体力持て余してんるんじゃないの」
「少しの力でラクラク進むからっス。あっ、ここは肉屋だったっところで、あげたてのコロッケがすっげえうまかったんですよ。その向こうは、花屋。一度だけ、決死の思いで母親にカーネーション買ったことがあって、店のおばちゃんにからかわれて、小っ恥ずかしかった思い出があるんス」
 そんな調子で戒人はひととおり商店街の店屋を紹介して回った。これで、人力車を引く間が持ち、助かった思いだった。恵にとっても、改めて商店街の概要がよくわかり、戒人が話すひとつひとつのエピソードもなかなか味わい深く、子供のころの思い出をよく覚えていると感心しつつ、自分の中で新たなアイデアが芽生える予感があった。
 商店街の端まで来ると人力車は静かに止まった。そこは普通よりも大きめの時間貸しの駐車場があり、そうなるまでは広い建物があったと思われる。
「そしてここが、ポルノ映画館と、ストリップ劇場が併設されてたところなんス」
――なぜ遠い眼をする? 子供の時の思い出に。
 少しでも戒人を見直したことを後悔した。それをこらえ、素直に商店街を見て回った感想を述べることにした。
「昔はさぞ賑やかだったんでしょうね。あなたの話しを聞くと、それが映像のように甦ってくるわ。大切な思い出がいっぱいね」
「そうっス」
「それがいつまでも続くと思っていた… 」
「思ってたっス」
「それがこの商店街の、みんなの当然の未来だったはずなのにね」
「でも、そんな未来は来なかったっス」
「でしょうね。消費者の目は厳しいものよ。誰だってもっと良い未来を望んでいるし、自分が望む未来を具現化してくれる何かを求めている。それを夢見させてくれるのは代り映えのしないここではなく、常に変化していく新しい場所なのよ。そんなものはみんな虚像でしかないのにね。でもいいのよ、それで。代り映えのしない現実を見ているより、よっぽど楽しいのは間違いない。新しいものは正義で、変わらないものは悪みたいな風潮は、どうしたってわかりやすい構図でしょ」
「セリフが長いと、合の手が打ちづらいんスけど。どのみちよくわからないから、合の手が打てないスけど」
「漫才じゃないんだから。オチつけるとこじゃないし」
「でも、ほんとに楽しかったっんスよ。子供の時、オレにとっては、ここはすべてが遊び場で学び場だったから。いまでいうところのアミューズメントパークとか、学習体験型エンターテイメントとか… 」
 恵の目が鈍く光った。――つながった!
「遊び場が、学び場ねえ… 」
「それと同時にね、人生の光も影もあったと思うんスよね。いまだったら、見ちゃいけないものだっていっぱいあったけど、誰もそれを隠そうとはしなかった。どうせいつかは知ることだから、隠し立てしたってしょうがないのに、そんないつまでも夢の国の子供ってわけにはいられないのに… 」
「あー、そう、そうね、それはつまり、規制の中できれい事だけ見せられた世界ではなく、何時かは知るであろうダークな部分も、子供の時から目にする人生勉強の場でもあったと考えればいいのかしら」
 こんどは人力車から降りてゆるめに腕を組み、前方に広がる商店街を見渡す。
「あなた、その割にはスレてないというか、悟ってないというか、言うほど人生経験の役立ってないみたいね。やっぱりおバカさんだから? それとも内面はずいぶん歪んでるとか?」
「いやいや、自分はオモテに出さないタイプなんで、奥ゆかしいというか、秘めたる思いを持つ影のある男っていうか。どうっスか、そんなの」
「うーん… 自分で言ってる時点で、ないわ、それ。でも、まあなんも考えずに生きてるわけじゃないってことだけは、あらためることにするわ」
「なんスかー、それ。部長さんも見る目がないっスよ、それじゃあ。ガツガツと意欲ばっかり前面に出して、オレはやってるんだと見せかけているヤツが、すべてイイってわけじゃないんですよ」
 恵の脳裏に重堂の顔が浮かび、頬が軽く痙攣した。
「だからかしら? なにごとにも関心を持たず、積極的にかかわらず、目立たず小さく生きているのは。いわば父親の反動… 」
「あのですね、それは反論しませんよ。親を見て育ったんだから、あんなふうになりたくないと思っても、なりたいって思っても、それに関わりたくないと思ったところですべて影響下にあるんですからね。そう思えばどんな親から生まれてくるかってことも、どんな環境で育っていくかって、実はすんごく重大なことなんだって。残念ながら親も場所も選べないのは不運でもあり、幸運でもあると思いません? かたや家の都合で学校にも行けない子がいると思えば、自動車の送り迎えで行く子もいるのが現実だし」
「あなた、取り合えずネガティブな面から入るのが問題かしらね。それはそうとして、つまりは、この商店街の盛衰とともに自分の成長期があり、その舵取りをしてきた父親の姿を見て、こんな自分になってしまったというエクスキューズが成り立つって言いたいわけなんでしょ」
「えっ、ああ、ぜんぜんそういう意味じゃなかったんスけど、それカッコいいから今度から使わせてもらわせます」
 いいフォローができたと、したり顔で腕を組んでいた恵の右肩が落ちた。
「でも、この商店街でいろんなことを覚えたのは事実っスよ。さっきも言いましたけど、子供の頃から人間のダークサイドな話にはことかかなかったス。店番してるのに寝てばかりいるおばあちゃんの駄菓子屋で、ちょくちょくニシキたちと万引きしたんスけど、実はぜーんぶバレてて、ひとりで行ったときにぼそっと、そんなことしちゃダメだよって、ひとことだけ言われてそれが身に染み、もう二度としなくなったこととか。電気屋の親父とクリーニング屋のおばちゃんが浮気してて、本人たち以外はみんな知ってたとか。繁盛してる八百屋の店先に、繁盛してない八百屋のオヤジがこっそり犬のフンを蒔いてたこととか。あと… 」
 戒人がひとつずつダークなエピソードを話すたびに、恵のあたまが沈んでいった。
「たしかに、普通に子どもには見せたくない多くのサンプルには、こと欠かないようね。そもそも最初の話はあなた自身の子供の頃のダークな話しだし… 」
「あっそっか。でも、それ以外だって、いま思えばすっごくいい経験だったし、でも、そんな大人がイヤだなんて思わなかったっス。選挙運動の街宣車で、皆さんのために働かせてくださいなんていうヤツより、よっぽど信用できたような。アミューズメントってのはなにも商店街の雰囲気だけじゃなくて、そこに住む人たちのキャラも相まみあっての話なんスよね」
「キャラねえ… 」
「オレたち、子供の時にはこの商店街でほとんどの職業体験してるんですよ。たとえばお使いで、肉屋でコロッケ買いに行ったりすると、おばちゃんが急にキャベツたりなくなったからとか言って、八百屋に買いに行っちゃって。そんで、そのあいだオレに店番頼んで行っちゃうから、仕方ないから待ってて、おばちゃん帰ってくると、メンチ一個おまけしてくれたりして。悠治の自転車屋も、新型の子供用の自転車が入ると必ず試し乗りさせてくれるから、感想言うと、おっちゃん、こんどそれメーカーに伝えとくとか言ってくれて。そんなことが一事が万事で、いまじゃ考えられないでしょ。ショッピングモールでそんなことできないし。だから… だからですねえ、こんないい場所が無くなっていってしまう、この国の進歩っていったいなんなのかなって思うと… どうにも… 」
 今度は恵は、なんの遠慮もなく力強く腕を組み、仁王立ちをする。戒人はそれに気付かず自分の仕事体験の続きを語っていた。
――この子、なんだかんだといって、使いようがあるわね。というか私との相性がいいのかしらねえ。本人は一切意識してないはずなのに、会う度に、いいイメージを投影してくれている。
「 …なかでも、ここのストリップ劇場で掃除当番すると、キレイなお姉さんが素敵な衣装で通りかかったりして、たまに、胸の谷間サービスとかあったり、こんないい場所が無くなるなんて… 」
――あーっ、ひとこと多いというか、やっぱそこ?
 しゃがみこむ恵に対し、懲りもせず少年時代の甘酸っぱい思い出を語り続ける戒人だった。


商店街人力爆走選手権

2016-03-06 19:00:48 | 連続小説

SCENE 24

「遅かったわね… 」
 扉を少しだけ開け、恵の様子を伺おうと覗きこんだところで、すかさず声をかけられた。パソコンの操作したままなのに、空気の動きだけで仁美の存在を認識したのか、それともいまや遅しと仁美の帰りを待ちかまえ、つねに扉が開くのを気にかけていたのか。
――両方ね、たぶん。
 仁美が来るものだと思っていたのに、とんだ闖入者の戒人に時間を取られていたのを仁美は知らない。
「なにがあったかのか、どんな手を使ったのか、そこまで細かく聞くつもりはないけど、結果の報告だけは早く知りたいからね」
 仁美は恵の言葉に思わず、衣服の乱れがないか手を伸ばしてしまった。すぐに恵の顔を見ると、恵はあいかわらずモニターから目をそらさないままキーを打ち込んでいた。ゆっくりとなんでもないように見せかけ、手をおろした。一連の動きは見られてはいないはずなのに、目ざとい恵のことを考えれば油断はならない。ドアを開く前に身だしなみは見直しているのに、いざ前面に立てば、そんなことも忘れてしまうほど恵の眼力を畏怖しているし、一目置いている。
「あっ、えーと… 」
言葉を探している仁美の目が泳いでいる。恵が髪をかきあげ、足を組み直してからようやく目を合わせた。涼しい笑顔が逆に怖い。
「ふーん、そうなの」
――えっ、なにが?
 腕を組んで、わかったような表情をに変わる。
「なんかいいわねーえ、若いって。あーら、嫌味じゃないわよ。よかったわねえ、タコス屋のおにいちゃんで。私もさすがに会長とはねえ。まあそれもアリかもしれないけど?」
――間違いなく、イヤミっしょ。
「あのう… 」
 言葉を発そうとする仁美に、遠慮なくかぶせてくる。
「なんだかねえ、ニシキくんだったっけ? ふーん。なんかC調を絵に描いたようなコだったけど… あーいうのがタイプだったけ? 別にね、私が行ってもよかったんだけど、会長のところにアナタをやるわけにもいかないし。そりゃ会長と間違いがあるとも思わないけど… ふーん、ああそうなんだ。私は全然タイプじゃないから、気にしないでいいのよ。熱量が高いのよね、若い人たちは。私はもう下がっちゃってるからね」
なんだ、かんだと、言いたいことだけ言って、すっきりしたのか再びパソコンに向き合い出した。
――何があったか追及してますよね、これって。そのわりには私の話し聞く気ないですよね。つーか、どうして分かった? これって単にカマかけられてるだけとか? ハッタリ利かすのは恵さんの専売特許だし。だったら、コッチも強気で出るけど。えっ? それともアイツからリークしてるんなら、ヘタなこと言えないわね。
 恵は入力した文面を黙読しながら、あいた右手でペンを手にとり、手持ち無沙汰に指のあいだを通し始めた。
――ペン回しはじめちゃった。マジで機嫌損ねてる。で、わたしの報告は聞く気あるのかしら?
 不機嫌な時に恵がよくするクセだ。そしてまだ言い足りないらしく、ひとり言のようにつぶやき始めた。
「あのコ、ホンとにやる気あるのかしら。ヒットミさん。ちゃんと話ししたんでしょ。ニシキ君の役回り。それなのに、瑶子ちゃんオトす前に、別の女をオトしてどーすんのよ。だったらその前にオトすべき人がいるんじゃないかってハナシよねえ」
――えーっ、めんどくさくなってきた。これはいわるゆるネコも喰わないってヤツでしょ。ウマだったっけ。それは蹴られる方か。恵さん、不満タラタラ状態? いやあ、それもフリの可能性大よね。
「セキネさんもセキネさんよね。なあにが適材適所よ。私なんか会長から重堂のどっぷりオヤジコースなんだから。そりゃあ、あれぐらいの年代になれば、落ち着いた雰囲気も必要だし、私が出張るしかないのはしかたがないけど、会長はまだセンスがいいけから話してても面白いからいいとして、重堂なんかもう眼つきが嫌らしいだけで、アーっ思い出しただけで背中が寒いわ」
――あーっ、そういうこと。それも不機嫌な理由のひとつか。このあいだも、さんざん飲み屋でグチられたし。きっと、ああいうタイプの男と昔なにかあったんだわ。まるで親のカタキみたいに罵ってたし。あっ、あのときのお勘定、私が立て替えたままだった。って、いま言い出すわけにはいかないか。
「そうは言っても、ちゃんと、仕事してきたわよ。アイツがちゃんと話しを聞いてたかどうかは、うかがわしいところだけど。契約書は取ってあるから、聞いてようが聞いていまいが知ったことじゃないけどね。だってね、契約書見てるのか、スカートの裾見てるのかわかんないんだからね」
――でも、それを見越してミニ履いてますよね、恵さん。計算? このあいだの打ち合わせもそれ履いてたし。もしかして会社に常備? 不意の不幸に対応するための黒ネクタイ状態的な? それこそ適材適所に使える最強アイテムじゃないですか。セキネさん、ナイス。
「そんなんだからね、話しもそこそこに飛びついてきたわよ。私にじゃないわよ。もし、私に飛びついてきたら、ローリング・ソバット食らわしてやるつもりだから。一度、飛びついてこないかしら?」
――そのミニで、ローリング・ソバットしたら、逆に相手を喜ばしてしまうんじゃないですか… それで、結果ノックアウトさせても、どうなんでしょう?
「ヤツったら上機嫌で、『そんなムチャして大丈夫ですか?』だって。その言葉そのまま返して、さらに今回の夏祭りでは駅前のお客さま根こそぎカッさらわせていただきますからって。そう言ってやったわよ。そうしたら何て言ったと思うアイツ」
――もし、動員数で駅ウラが負けたら、ボクと結婚しませんか? 仕事はもう辞めて。 …とか。
「だったら、動員数で負けたら、仕事を辞めてボクと結婚しませんか? だって。それしかアタマにないのかしらねえ」
――おしい! だって、それしかないでしょ。えっ、受けちゃったとか?
「だから言ってやったわよ。絶対に負けませんから、受けて立ってもかまいませんわ。って」
――受けたんだ。しかも上からで… ああ、そのかわり、恵さんが勝ったら、重堂に代理店辞めさせて、この会社でセキネさんにでも、こき使かわせるとか。
「でね、そのかわり、コッチが勝ったら、アナタが会社辞めて、私のドレイになってもらいますから、って言ってやったの」
――さすが! まだ私は甘いわ。でも、それもある意味、喜ぶでしょ、アイツじゃあ。
「アイツ、あいかわらず気持ちの悪い笑い声を上げて、すでに勝ち誇ったような態度で、よろこんで貴女の奴隷になりますだって。喜ばすつもりはないつーの。あったまきちゃう。だからね。絶対に勝たなきゃいけないのよ」
――よろこぶでしょ、そりゃ。自業自得だし。考えようによっては向こうの思うつぼというか、それもアリ的な…
「はい、私の報告はおしまい。次どうぞ」
――あ、順番だったんだ。しかも、重堂のほうだけ? あいかわらず大事なところは胸の内ってことですか。
 両肘を付き、手の甲にあごをのせるポーズは楽しんでいるようにしか見えない。
――ちょっと、なにを聞こうとしているの? 仕事の話しでいいんですよね。まさか自分みたいに、いろいろとモリ気味にして楽屋オチ期待しているとか?
 仁美がこれまでの恵の話しぶりや、表情から何を気づき、何を知っているのか読もうとしても、ポーカーフェイスは崩れない。これまでの経験上、変に隠し立てしようとすれば、却ってネチネチといたぶられるのがオチだ。追い詰めたネズミを玩ぶ時のようにして、傷口を広げられるのは遠慮したい。しかたなく大外から回り込むような問い方をした。
「あのう、恵さん。いまの話しからすると、もう木崎さんからその件について聞かれてるようですが? でしたら言い訳するつもりは… 」
 恵は満面の笑みをたずさえ、首を傾けた。
――しまった! やっぱりカマかけ!? そのポーズ、カワイくない!
「あなたも、まだ甘いわね。それぐらいで動揺してちゃ。駆け引きにならないわよ。ちょっとね、妙に落ち着きがないし、いつもと様子が違ったから。なんとなくって思っただけなんだけど。大丈夫よ、私は別に。ちゃんと仕事さえしてくれれば、ナニしたって」
――いや、それ、ちょっとストレート過ぎだし。
「でっ、レスポンスはどうだったの」
「はあ、それは、見た感じのがさつさとは打って変わって、気遣いのある言葉とか、繊細な手のつかいかたというか。手だけじゃ… 」
「ちょっとお、なんの話ししてんの?」
――なんのって。ああ、そっちのレスじゃなくて。って、あたりまえか。
「ああそれは、見た目のがさつさとは裏腹に、気遣いや繊細な面もあり、こちらの手の内も把握してるようですし、下調べしたとおり折原さんには思うところがあるものの、瀬部さんに対して無理はできないのは明らかですね。木崎さんは当方の思惑は理解してもらえたようです。カレにとっての思惑ではないでしょうけど、そういった大義があった方が動きやすいでしょうから」
「そう、まずまずね。でもね、目指すところは100パーだから、完璧なストーリーを描いてもらわないとね。駅ウラのお祭りの企画の出どころは私だけど、この部分のアイデアはあなたなんだし、結果が出ればあなたの成果にもなるのよ。勝負がかかってるのは私だけじゃない。あなたが私とこの先も一緒に仕事を続ける気があるのなら、絶対に越えなきゃならない壁なのかもしれない。やりかたにどうこう、いちいち言わないけど、結果は100%しかありえない。わかるでしょ」
「はい、わかってます。この件は、恵さんに託されているんですから。私の責任でこの計画が成功するよう遂行します」
――せっかく私を一本立ちさせてくれようとしているんだから、ここで期待を裏切るわけにはいかないわよね。
「そうでないと、私が重堂と結婚しなきゃいけなくなるでしょ。絶対ありえないから」
――ああ、そっちの心配ですか。それにしても恵さんは、今回の件で、いったいどれだけの人間を動かそうとしてるのかしら。これだけ大きなところを見せられると、とても敵に回す気にはなれないわねえ。
 恵の眼が鈍く光っていた。それも手札の内のひとつだと言わんばかりに。仁美は内心ヒンヤリとした寒気を感じていた。
「ヒットミさん。席に戻る前に化粧室行きなさい。口紅が取れてるわよ」
 条件反射的に、右手が唇を覆う。身だしなみばかりに気が行って、化粧のことがあたまからこぼれていた。
「恵さんっ。えっ、いつから気づいてたんですか?」 
「あなた、服装整える前に、顔も見直しなさい。若いからってノーメイクってわけじゃないんだから。それこそ、あたま隠してシリ隠さずよ。ああ、あたま隠してないか、お尻かくしたかどうかも疑わしい… 」
「なんの、話ですか。もうっ! せっかくだから、このまま休憩室でコーヒーでも飲んで気分変えてきます。それから化粧直ししますから」
「はい、はい、細かい報告はいつものテンプレートに落とし込んで、メールで送っといてね。パスまで付け忘れないでね」
 仁美はべそをかきそうな顔で一礼して部屋をあとにした。
 1時間ほど経つと仁美のメールが届いた。添付ファイルは暗号化されているので、二人で示し合わせてあるパスワードで開封すると、報告にプラスしてスクープ情報が盛り込まれていた。しばらく腕を組んでその文章を何度も読み返してみた。
「あのコもタダじゃ起きないタイプね。口紅のついていないコーヒーカップで偽装するとはいいじゃない。あえて口紅を残すというのも手だけど、社内じゃ効果ないからね」
 まんざらでもない表情をする。
――さて、どうしたものか。手札は多いにこしたことはないから、あとは使いようよね。知らないふりをしてヘタを打たすもよし、いざとなれば効果的なタイミングで正面突破してもおもしろい。ヒットミさんには、なんかお礼しないとね。
 その前に飲み代の清算が先だと言われるだろう。