private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(出会いの広場で 2)

2024-07-28 18:06:10 | 連続小説

 アキは今日の接客中に起きた嬉しかったことを思い出しては頬が緩んでいた。夜になって新しいアロマの抽出をしている手が何度も止まってしまう。
 夕方に度々コーヒーを飲みに来てくれる年配の会社員風の男性は、入店する時は疲れ気味に見えても、コーヒーを飲み店を出るころには元気を取り戻している印象があり、気になっていた。
 そんな姿を見ると、何だか自分の淹れたコーヒーで、その人を元気づけられているようで嬉しかったし、漠然とではあるが常連さんになってもらえそうな予感があった。
 今日も夕方に現れ、店に入って来たときから気にかけていた。その人はいつもと同じカウンターの席に陣を取り、いつもと同じオリジナルブレンドをオーダーした。
 いつもごひいきにしていただき、ありがとうございますと、思い切っていってみた。実は少し前から今度来店したら声をかけてみようと、アキは密かに考えていたのだった。
 そういう心構えでいると、そのタイミングが来た時に自然と声がでるもので、変に気取ることなく、席に着くと同時にスッと言葉が出てきて自分でも驚いてしまった。
 その人は、最初は少し驚いた表情をするも、すぐに柔和な表情になり、外回りで疲れた時にココのコーヒーで一服すると、心持がスッキリしてきてね。もうひと踏ん張りと元気づけられるんだよと、アキにとっては最高の誉め言葉を言ってもらえた。
 キッチンに戻ったアキの耳に高校時代によく聞いていた曲が届いた。先ほどの高揚感も手伝い、思わず口ずさみそうになってしまい口に手をやって抑えた。
 アキの店ではインストロメンタルのBGMを流している。クラシックやジャズの定番の曲から、演歌からロックまで、様々な曲がスローバラードにアレンジされるチャンネルを選局している。
 たまに自分のお気に入りの曲が流れると、ついハミングしてしまうこともあり、滅入った気分の時は気分転換にもなる。今日のように良いことがあった時であれば、増々気持ちがノッていける。
 アキの店のようなコーヒーのチェーン店ではない独立店舗では、気軽に一見のお客が入ってくることは多くない。気まぐれで入店した客や、ちょっと休みたいと思ったところで、たまたまそこにあったから寄ってくれた客をリピーターにするぐらい、他の店にはない独自の店の雰囲気とか、味とかで勝負しなければ経営が成り立たない。
 何度も通ってくれるのを期待しているだけの待ちの姿勢ではいけないのはわかっている。三度来てもらえるのを二度に、二度を一度にと、提供するコーヒーの精度を高めていく心構えで取り組んでいる。
 初めての客であっても、今の体調や心理状態を観察し、好みを読み取って、それに見合う唯一無二のコーヒーの抽出をすることを最終的な目標と理想に掲げている。
 それであるのに何度も通ってもらえていることに気づいていても、声がけするべきかどうか考えているうちに、タイミングを逸してしまうことも何度かあった。普段からの心掛けがうまくいった好事例となり、今後の自信にもつながる出来事だった。
 常連さんになってもらえれば、何気ない会話をする中で、ここのコーヒーやお店に何を求めて来店しているか、そういったヒントも見えてくる。それをヒントにお店の色付けをして行けたらと夢は膨らむばかりだ。
 今夜はモールの夜警の当番日に当たっていた。居抜きで借りた店舗には、以前は建物の1階を店舗として使用されていた造りで、そこをコーヒーショップに改装した。2階の住居は今は使われていなかった。
 日頃は自宅に帰っているアキも、毎回この夜警当番の日だけ、そこに布団を敷いて泊っている。夜にひとりでいても手持無沙汰で、かといってこの日だけすぐに寝られるものではないので、この時間を利用して新しいアロマの試作をするようになった。
 夜警の当番があると会長から聞いて、アキは驚いたと言うより呆れてしまった。いったい自分に何ができると言うのだろう。そう言うと、会長はなにかあれば警察に電話すればいい、そこまでが仕事だと言われ、それ以上に言い返すことができなかった。
 要は防犯カメラ代わりということで、体のいい費用の削減を担わせているだけだ。それにしてもこの広範囲の敷地をひとりでカバーするには無理がある。
 外見は新しいショッピングモールでも、元は古い商店街をリメイクしているだけで、モールの運営には少数ながら昔からいる者が影響力を持っており、これまでの風習を変えようとしない。
 以前はほとんどの店舗が住宅兼用になっており、商店街全体で防犯機能を持っていた。いまではそのよう老舗はなくなり、アキのように自宅から通い、仕事が終われば帰宅するのが通常だ。
 夜になるとゴーストタウンになってしまうモール内で、人もクルマもいなくなった通路を大音量のオートバイが走ったり、酔っ払いが『出会いの広場』と呼ばれる中央の広場で大騒ぎをはじめ、警察沙汰になったこともあったらしい。
 そのようなこともありモールのほどんどの店が閉まる10時には、外部からの侵入ができないように、モールへの通路の入り口が閉鎖される。
 夜遅くまで営業をする種類の店が数件あるが、その店のためだけに通路を開けておくわけにもいかず、店の裏口を利用するなどする妥協案に応じ、この運営方法を受け入れた。
 そういった意味では安心安全で健全なモール運営にもつながり、それを売りにする方向転換も図れ、以前は少なかった若い女性の客も増えたようで、アキのような店にも恩恵があるのであまり文句は言えないのも確かだ。
 アキが何度目かのニヤケ顔をしたところで、何か音が聴こえた気がした。作業を止めて耳をすましたところ、それからはなにも聴こえない。気のせいかと思い直し、新しいブレンドの抽出が途中になっているカップからアロマを手繰る。
 アキが声がけしたその人は帰り際に、でももう年だから、コーヒー飲んで頑張るのもほどほどにしておくよと言われ、せっかくお近づきになれたのに、来店の回数が減ってしまうのかとドキリとした。
 そのあとすぐに、これからは、ここのコーヒーでスッキリして、自分の楽しみに時間をつかえるようにしないとねと言ってくれた。アキは、いつでもその力にさせてくださいと返すと、ニッコリ笑ってうなずいていた。
 たったそれだけのことでも、昨日と世界が変わったぐらいの心境にあるアキであり、いつしか自分でも知らないうちに、例の曲をハミングしていた。
 あのタイミングで流れてきたのは奇跡的で、映像で振り返ればドラマの挿入歌ぐらいに出来た状況にも思え、気持ちが高揚していった。
 高校時代によく聴いていたお気に入りで、カセットテープに録音して、何度も繰り返し聴き、歌詞をヒアリングでノートに書き起こしたほどだった。
 どういう内容の歌詞なのか知りたくて、辞書を引いて翻訳もした。その時の自分の不安な気持ちを代弁しているかのようで、さらに好きになっていった。
 何者でもない自分は、世界の片隅の小さな存在でしかない。それでも諦めなければ夢は叶うのだと信じていたい。その歌詞に励まされてここまでこれた気がする。実際にそうでないとしても、弱気になった時に踏みとどまれた遠因にはなっていたはずだ。
 あのタイミングでこの曲が流れたことに、なにか運命めいた一日を感じぜずにはいられなかった。そう思えば今日一日はいい事が重なり、夜警の当番も苦にならない。むしろ新しいアロマが生まれそうで、そちらのほうが楽しみであった。
 いつまでも成功体験にしがみついていては停滞してしまうだけで成長にはつながらない。これまでもそんな成功事例にすがって失敗を重ねていた。その度に失敗の原因を自分の都合のいい理由に置き換えて無理やり納得させていた。そうしなければバランスが保てなかったからだ。
 本当の理由はそこではないとわかっていても、自分が早く楽になるために、それ以上を考えないようにしていた。真の原因を取り除かない限り、今のような幸福感は一時的となり、望まない悪事が突然やってくるものだ。
 この日に夜警の当番だったのも運命だ。次の一歩を踏み出すためにもアロマのバリエーションを増やしておきたい。気持ちを引き締めると、再び音がした。今回は間違いなく、この音はピアノの音でメロディを奏でている。
 アキは暗澹たる気分になった。言った傍からこの始末だ。いいことがあったと浮かれていたのと、コーヒーの試作に熱を入れ過ぎて、ピアノにカギを掛に行くのを忘れていた。あの夜の悪夢がよみがえってくる。
 あの時も同じように試作をしていて、カギを掛け忘れていた。慌ててピアノのある広場へ向かうと酔っ払いに絡まれてひどい目にあった。
 何かあったら警察にと言われても、そうそう安易に110番はできなかった。自分のミスが原因でもあり、まずは状況を確認しなければならず、そこから自分で対処するか、通報するのかを線引きしなくてはならず難しい判断を強いられる。
 会長から預かっているカギを持ち出し、とにかく駆け出すアキであった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(出会いの広場で 1)

2024-07-21 15:36:56 | 連続小説

 ピアノがそこに置かれていた。
 ショッピングモールと、入り口にサイネージされていた場所だった。どうひいき目にみても商店街とのハイブリッドにしか見えない通りの、その中央付近にそれはあった。
 ピアノのまわりには幾つかのベンチが設置されており、日中ならば多くの人が休憩をしたり、食事を取ったり、思い思いにくつろぐ場所になるのだろう。
 ベンチから前方に向かって中央に、誰もが自由に弾くことのできるストリートピアノが置いてあった。9時を回った時間では人影は見当たらず、静まりかえった空間にカバーが開いたままのピアノは、誰かを待っているようにも見えた。
 いいじゃないか、ダイキは嬉し気にベンチに向かった。
 ダイキは呑みすぎたアルコールを抜くために、あてもなくこのモールをブラついていた。そして意図せずにここにたどりついた。
 ロールプレイングゲームでダンジョンを徘徊したあげくに行きついた、秘密の大広間に出た気分になった。足も疲れてきて、ちょうど腰をおろしたいと適当な場所を探していたところだ。
 この状態で家に帰ることは避けたいダイキは、それにしても長く歩き続けて、携えていたペットボトルの水もずいぶん前に空になっていた。
 ベンチの奥におあつらえ向きに自販機があった。ポケットの小銭を探り、緑茶を買った。
 ベンチに腰をおろして空を見上げた。薄い雲が張り出しておぼろ月夜になっていた。何度目かのため息をつく。誰か気の利いた楽曲でも引いてくれないかと、ありえない状況に笑ってしまい首を横に振る。
 今回も結果が出なかった。自信を持って望んだレースであったのに、最後は自滅のように失速していった。30キロを過ぎた時点で足が止まってしまった。息が上がったわけでもないのに、突然に脚に力が入らなくなった。誰かに栓を抜かれたように力が失われていった。こんな経験は初めてだった。
 30キロからキツくなるのはめずらしことではない。そこからどれだけ粘れるかがマラソンの戦い方だ。それなのに今回は粘ろうと気持ちを入れても、地面に力を伝えられない。骨盤から下が自分のカラダではないような感触だった。
 レース後の失意の中で、身体は飲み屋に向かっていた。悔しさを紛らわすために量が進んで、気づけばこんな時間まで飲んでいた。酔ったまま家路を辿るダイキは、自分の弱さを再確認するだけだった。
 年を重ねるにつれ酒量も増えていき、妻には何度も釘を刺されていた。自分でもタイムが伸びない原因はそこにあるかもしれないと、今回に備えて好きなビールを控えるために半年前から禁酒を続けていた。それであるのにこのザマだ。 
 妻には合宿所で今後の身の振り方を相談してから帰るので遅くなると伝えてある。それでこの酔いで帰れば言い訳ができない。できれば先に寝ていてくれればと願うばかりだ。
 購入したペットボトルのキャップを外して、ひと口含む。爽やかな緑茶の香りが口に広がった。最初のひと口は、そのまま口をゆすぎ後ろの草むらに吐き出した。
 コーチにも太鼓判を捺され、当日までのピーキングの持って行き方も万全で、あとはレースに集中するだけだった。自分でもいけるという感触があった。5年前のベストタイム出したあの時の流れをトレースしているようだと思えた。
 それは自分を奮い立たせるための方便でしかなかった。
 5年後の自分は、5年前の自分とは同じでなかった。言い訳はいくらでも出てくる。あの時の感触も、時の流れも、成功体験にしがみつこうとする自分の弱さの現れに過ぎなかった。
 自分でもわかっていたはずなのに。だがそう考えなければ、次の一歩を踏み出せなかった。所詮自分にはもうあの時の力は失われているのだ。
 レースペースで伴走してくれた仲間内での練習で、付いていくことができた。まわりも良い仕上がりだと何度も声をかけてくれた。過去の栄光に傷をつけないように気を遣っていただけだ。
 本番では、ペースを上げ下げするライバルと闘いながら、30キロオーバーになってからが本当の真価が問われる。そこで、まざまざと自分の今の実力の地点を思い知らされていた。
 ダイキはおもむろに立ち上がり、アップライトのピアノに備え付けてあるイスを引いて腰かけた。白と黒の鍵盤や、黒塗りの本体にライトが映えた夜のモールの風景が映し込んでいる。
 人差し指でアイボリーのキーを押し込んでみる。軽やかな音が鳴った。静寂に包まれているモールに音が吸い込まれていく。
 初めてアコースティックのピアノを鳴らした。耳に心地よい中音が伝わって、その余韻はいつまでも続いていた。
 ピアノの余韻に浸りながら、自分はもう一度、あの場所に戻れるのかと問いかける。いや戻らなければならなければならないと叱咤する。いやもう無理だ。これ以上何度やっても同じことだ。それですべてを打ち消してしまう。
 それほどに決心して挑んだあげくに、言い訳できないほどに打ちのめされてしまったのだから。
 ダイキは高校の時に陸上部の仲間とバンドを組んで文化祭に出た。TVでバンドブームが取りざたされており、誰も彼も楽器を演奏して目立とうという流れに、日頃地味な練習ばかりの日々に変化を求めていた陸上部仲間が乗っかった。
 そして当時深夜に放送されていたMTVで見た、アメリカのロックバンドの楽曲をやろうということになった。
 ダイキは兄から譲り受けたギターを持っていて、そこそこ弾けたのでギターを担当すると手を上げた。それなのに、部長がヨソからギタリストを連れて来た。
 陸上部でバンドを組むことに意味があったはずなのに、その暗黙のルールはいとも容易く放棄された。たしかにヤツは断然に上手く、とても片手間でやっているダイキには太刀打ちできる相手ではなかった。
 所詮高校生が目立ちたいがためにやっているバンドだ。更に言えば女子にモテるために文化祭に出るといっても過言ではなく、誰だってうまいヤツと一緒にやりたい。それで自分もバンドの一員として喝采をあびたい。そんな下心が誰にでもあった。
 ダイキは代わりにキーボードを勧められた。音に厚みが出るとかなんとか言いくるめられて、部長が自分の姉が持っていた持ち運びできるキーボードを持ってきた。
 ピアノのコード位置をいちから覚えなければならす、アタマに入っているギターのコード進行を、指の動きに置き換えられるように、ひたすら何度も繰り返し練習しかなかった。
 そんな中でも、音がつながってくると面白くなってきて練習にも身が入った。四連打だけではつまらなくなって、少しづつオカズを入れられるようにまでなっていった。
 メンバーで集まって音合わせの練習でも様になっていた。当時のバンドと言えば、ボーカルにリードギター、ベースにドラムが標準仕様で、あってもサイドギターがつくぐらいだ。
 ダイキの男子校ではキーボードがいるバンドは他になく、それだけで差別化ができた。これで他のバンドよりアピールできて、よそから来た女子への売りになると盛り上がった。
 それなのにそのギターのヤツは、上手いだけあってあちらこちらのバンドと掛け持ちしていたらしく、文化祭の直前にダイキ達よりレベルの高いバンドに鞍替えしてしまった。
 ヤツにとってはその方が費用対効果が高いのでしかたない。名前も、顔も今は思い出せない。
 ダイキは結局、元のギターを担当することになった。やはりギターがいなくてはバンドの体をなさないのでしかたない。
 キーボードに愛着も湧いてきており、アレンジもできるようになっていたのに、部長の一存で振り回されることになったことにはわだかまりが残った。
 付け焼刃のギターではヤツとの差は歴然で、ストロークで弾くことはできても、リードのリフを覚えるのは一苦労で、ましてやテクニックを駆使して聴く者を引き付ける演奏など、数日でどうこうなるものではない。
 前日からひとりで練習を重ね、ほとんど睡眠もとらず、出演の直前までそれを繰り返した。指先が痛くて感覚がなくなっていった。
 出演順はヤツのバンドの次になっており、派手なソロギターのパフォーマンスで大盛り上がりになったあとでは、途切れ、途切れで、なんとか音が出ているというダイキのギターでは、座席から失笑が聞こえ、途中で席を立つ者が次々と出た。
 女子にモテるどころか、苦い思いでしか残らなかった。
 そう思えば自分はいまだに何も変わっていない。なにをするにしても人任せで、中途半端でしかない。付け焼刃でなんとかしようとして、勝負所に弱い。そしてどこかにできないことの言い訳を用意していた。
 ダイキは当時を思い出しながら、コード進行を押さえてみた。ダイキたちがコピーした曲は、アメリカのハイスクールの若者群像を描いたテレビドラマの主題歌であり、テンポのいいサウンドで大ヒットして誰もが一度は耳にしていた曲だった。
 久しぶりであるのに指先は覚えているもので、自然と次のコードに指が動いていく。ただ、ロックだと言うのにバラードのようなリズムになってしまうのはお愛嬌だ。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで3)

2024-06-30 14:58:42 | 連続小説

 店の扉を閉じて振り返るケンシン。道の中ほどでマオは立ち止まっていた。まだ言いたいことがあったのか、このまま引き上げて良いのか、彼女が逡巡しているようで心が痛んだ。
 アタルのようにいつまでも目を離せずに見ていると、ケンシンの心配は的外れだったようで、マオは左手側から誰かが来るのを待っているだけだった。
 そうであれば会長が言い忘れたことでも思い出したのか、それとも念押しに戻って来たのか。気になってのぞき込もうとしても扉の窓では小さくそこまで見えない。ショウウィンドウの窓はすでにブラインドが下ろされている。
 マオは軽く手を上げて会釈をした。店で客に接する時と何ら変わりのない柔らかな動きだった。それを見れば、どうやら知った人がマオに近づいているようだ。
 その相手が扉の窓に現れ、ケンシンの視界に捉えられた。上下スポーツウェアで、キャプを被っている。パッと見たところは中高生の男子に見えた。
 ランニングの途中らしく、マオに近づくとスピードを緩めた。マオが何やら話しかける。穏やかな表情だ。カレはその場で足踏みを続け、今度は身を持て余すようにステップを踏みはじめた。
 マオは目を見開き口を手で覆い驚いたしぐさをした。何の話題を話しているのか、そのあと首を振って手を開いて制止する動きに変わった。
 カレは肩をすくめて気に留めていな様子で、今度はマオのまわりをステップを踏んで回り出した。マオはそれにつられて首を回したり、身体の向きを変えたりしてカレを追っかけ、しきりと話しを続けている。
 ケンシンは覗き見に罪悪感を感じながらも目が離せなくなっていた。これでは今後はアタルに文句を言えない。いったいふたりがどんな関係なのか、気になってしまい判断する情報を欲しっていた。
 想像する中では姉と弟という構図が一番しっくりするが、それはケンシンがそうであればいいと望んでいるだけで、それ以外の選択肢では余りしりたくない関係性となってしまう。
 それを確認してどうなると踏ん切りをつけて仕事に戻ろうとした次の瞬間、ケンシンの目に飛び込んだのは驚愕の光景だった。
 ステップを踏みながらダランと下げていた両手が目にも止まらぬスピードで、右、左とマオの顔面に飛んでいった。
 それは例えではなく、本当にケンシンの眼には腕の動きが見えなかった。そのためにカレの拳がマオにヒットしたのか判断できない。ただ、マオは倒れるわけでもなく、顔は困ったような笑顔であるので、当たってはいないのは間違いない。
 そうではあっても放っておくわけにいかずケンシンは店を飛び出した。自分に何ができるかわからないまま突っ走った。いくら知り合いだからといっても、このままにしておくわけにはいかない。
 事実カレはマオの回りを移動しながら何度もパンチを放ち続けている。いつ本当に当たってもおかしくないはずだ。
「なにしてるんだっ!」ケンシンはカレの腕をつかもうとした。その行為を嘲笑うかのように、またそうなることを予感していたかのように、ケンシンが伸ばした手からスルリと身をこなした。そして見えない右のフックがケンシンのアゴ先を捉えた。
 ケンシンは尻もちをついてしまった。当たってはいないのに。
 それなのにマオとは異なりケンシンは腰から崩れ落ちていったのだ。そして首筋に冷たい汗が流れた。
「エマさん! やめて!」マオは慌ててそう言ってエマを制止て、すぐにケンシンを心配した。
「カミカワさん大丈夫ですか?」あっけにとられ地面に座り込んでいるケンシンに、マオは両ひざをついて寄り添った。
 ケンシンは恐る恐るアゴ先に手をやった。痛みはない。それなのに何かカミソリにでも切られたような感触が残っている。ホッとするのと同時に嫌な汗と、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ごめんなさい、あのコ、フザケてただけで、本気じゃないんです。そのう、つまり、いつもの挨拶みたいなもので、、」マオは申し訳なさげにそう言った
 ケンシンが驚いたのはパンチを食らわずに倒れたことだけでなく、男のコに見えた相手をマオがエマさんと呼んだことだ。
 深くかぶったキャップと、短い髪の毛でわかりづらくはあるが女性に見えなくともない。それがあの身のこなしと、ケンシンを圧倒した寸止めのパンチ。それが本当ならますます立つ瀬がなくなる。
 低姿勢のマオに比べ、エマは尊大な態度のままだ。鋭い眼光をケンシンに向けてくる。ひとに簡単に気を許さないタイプの人間のようだ。
 さらに言えば、男という人種を信じていない。そんな目つきだった。それがマオとを結びつける精神的なキズナになっているようにケンシンには思えた。
 エマは口には出さずに、マオに、誰? コイツ、と言ったような態度を取る。普段からそんなやり取りをしているのか、マオはその仕草に応える。
「このひとは、あのベーカリーで働いているカミカワさん。アナタがふざけてあんなことするから、ビックリしたのよ、、 」きっと… マオはケンシンの顔を覗いて、間違いでないか確認したつもりだ。
 そんな大仰なモノではない。偉そうに助けに出て、いとも簡単にやり返される。一番みっともないパターンを披露しただけだ。やはり身の丈に合わないことをすれば、こういうことになるとあらためて認識していた。
 はやとちりと尻もちの照れくささをごまかそうと、ケンシンは立ち上がってアタマを掻くしかない。
「そんな、結局、何の力にもなれず。余計な手出ししてハジをかきに来ただけみたい、、」そう自虐的に言って笑いを誘おうとする。
 声が上ずらないように必死に落ち着いて話そうとするケンシンに、エマはニコリともしない。マオを見てイヤな笑いをする。このオトコも同じだと言っているように見えた。
 別れの合図がわりのつもりか、マオだけに軽く手を上げてロードワークを再開した。自分はもうここにいたくないという意思表示にケンシンには映った。すれ違う時も目を合わせなかった。
 その顔つきは確かに女性に見えた。マオとは正反対といってよく、すべて敵対視した目つきで、薄く荒れた唇は冷淡に見え、動きのない表情からは何も読み取ることができない。多くのオトコが気に留めることがない外見の女性だ。
「さっきのコ、ボクサー 、、ですよね?」ケンシンは思わず、マオの友達かもしれない相手に、そんな訊きかたをしてしまった。
「あの、わたしもそれほどよく知らなくて、、 以前、男の人にしつこくされていた時に、助けてもらって、、」
 言いづらそうに説明するマオをみて、触れて欲しくない案件であるのがわかる。ケンシンは手をあげて、それ以上言わなくていいと制止した。
 なにか男を代表してマオに謝りたくなった。そんなことをしても何も変わりはしない。彼女の生きづらさがヒシヒシと伝わってくる。
 自分の思うところと別の要因で、常に何かと戦っていかなければならない。寂しげな顔にいくつもの疲弊の痕跡が滲み出るマオが不憫だった。
「あれからは、たまにこうして出会うぐらいで、それに込み入った話をするほどでもなくて、その時は、ただ話しを聞いてもらったっていうか、一方的に話したっていうか、、 」
 歯切れの悪い言い方をするマオだった。つまりそれほど深い間柄でないことを示したいのであろうし、嫌な記憶をケンシンに話すほどの間柄ではない。
 日頃のマオを見ていれば十分に想像がつくケンシンとしては、無様に倒された理由を明確にしておきたかっただけだった。そうでなければ自分があまりにも貧弱と認めなければならない。自分を正当化するためにマオに無理強いをさせていては本末転倒だ。
「ゴメン、いいんだムリに答えなくたって。それに、いろいろとわかった気になるつもりはないよ。ただ、カノジョに、エマさんに、興味が湧いただけなんだ」そう言って、マオの件とは切り離そうとした。
 それでもマオは下を向いて申し訳無さそうにしている。
「いやね、カノジョがボクサーであり、それなりの能力を携えていて、今後、頭角を現していく存在ならと、期待してみただけだだから」
 それはマオを安心させるための方便でしかない。たまたま偶然出会ったアスリートが有名になるなんてことは、宝くじが当たるぐらい起こる可能性は低いはずだ。
「そうね、エマさん、強いから、、」
 マオの言う強いには、複数の意味が含まれているように聞こえた。自分のやられぶりをみれば、マオを助けた時の立ち回りを想像してしまう。見てみたかったとさえ思った。
 マオは口を閉ざして首を振ってみせた。今の言葉を否定するように。
 なにか自分たちは、自分に無いものを、欠けているものを、常に探して追い求めているようだった。何が備わっているかではなく、何が足りていないか。
 そして、その実、足りないものを正しく捉えられていなかった。永遠に見つけられない宝の在り処を探し続けているだけのようだった。ケンシンは勝手にそう決めつけていた。
「エマは、ほとんどしゃべらないんだけど、あの時は、ひとつだけわたしに忠告してくれた」
――すべてを制御するな。
 エマはいつも通り、表情に感情をあらわすことなく、オトコたちと立ち回りをして追い払ったあとだというのに、息ひとつきらすことなく、そう言った。
「その時はなんのことか全然わからなかった。混乱してたし、エマさんが支えてくれてたから、身に詰まっていたコトを吐き出してしまったから」そう言ってマオは少し笑った。
「なんだか変ですよね。エマさんもそうだけど、カワカミさんも、なんだか安心していろんなことがしゃべれちゃう。こんなこと言ったら迷惑かもしれないけど、、」
 今度はケンシンはクビを振った。自分に何ができるかわからないが、少しは役に立てているならば心も楽になる。エマのようにマオの心に響く言葉は出てこない。
 ”すべてを制御するな”とは、捉え方によれば肯定的であり、否定的であり、どちらでも引用できる言葉だ。
「それをどう解釈したの?」ケンシンはマオの眼を見た。マオは今度は目を逸らさなかった。
「うまく言えないんですけど、自分がどれだけ抗いても、身に降る全てを排除することはできないんだから、自分ができることだけに専念するしかないのかなって。それを後ろ向きに捉えなくてもいいんだから」
「掃除当番も制御できる案件ではないしね」
 マオは驚いた様に目を見開いてから手で口を押さえて笑った。まわりの雰囲気を変えられるような素敵な笑顔だった。
 一体エマは何をマオに伝えようとしてその言葉をで選んだのか。
 過去の世界では、情報は無料で誰にでも開かれたものであったはずなのに、それが高度化するとコストを持つようになる。
 そしてそれはいつしかビジネスとなり、費用をかけることですでに知識を得たと錯覚してしまったり、逆に意図した結果が得られないと、費用として放棄してしまったり。本来の情報の伝達とは別の使われ方が本流となってしまっている。
 ケンシンはエマのパンチモドキで尻もちをつき、マオはエマの言葉で倒れた心を立ち上がらせた。
「これまで本を買ったり、学校で勉強したりしたけど、本質的にわたしを救うものはなかった。エマの言葉で落ち着けたのは、カノジョ自身が持つエネルギーが説得力を孕んでいたんだと思う」
 ケンシンもその風圧で吹き飛ばされたのかもしれない。
 マオはケンシンに自分と近い感覚を見出していた。彼もまた異なる周波数の中でチューングに苦しんでいるのだと。
 自分達には不要なものが、この世の中には多く存在している。それを取り除こうとすればするほど、接点が増えていく。先の見えない道を歩き続けるのは限界があるのだ。
 お互いに思うことはあっても、初対面でそこまで気持ちを開示することは憚られた。
 ケンシンは、もはや恥の上塗りでもいいと腹を決めた。空回りでも、的が外れていようとも、それを今しなければ、ここまでの時間がすべて無駄になってしまいそうだった。
「あのう、実は、、」「はい?」マオは首をかしげた。
 なんの抵抗も感じさせずに、髪の毛が一本づつ肩に移動していく。
「実は思い出したことがあって、オレ、明日の講義が昼からで、そのう、つまり、、」
 マオはケンシンの辿々しい、いかにも言い訳じみた説明を、優しい眼差しで聞いていた。これでは多くの男たちが勘違いしてしまうのも無理はないと、双方に同情していた。
「あした、掃除出るから。オレもわかんないことばっかりだけど、ひとりよりマシだと思う、、んだけど、」
「ホントですか!うれしい! すっごく不安だったんです」マオは満面の笑みに変わっていた。
 ケンシンはその笑顔を凝視することはできなかった。下心があるわけでなくとも、他の男たちと対して代わりはしない。きっかけのあるなしで対応が変わるだけだと、自分に言い聞かせていた。そうでも思わなければ調子に乗って誇大妄想しそうになる。
「アナタはいつも朝から掃除してるから、そんな心配いらないでしょ。あっ、別に覗き見してたわけじゃなくて、その、、」
「ふふっ、カミカワさん気をつかい過ぎですよ、お店正面だから、見えますよね。わたしも何時も見てますよ。男のひと、ふたりで楽しそうだなって。今日は年配の方に優しくされていて」
「カワカミです」「エッ?」「名字、カワカミなんです」マオは目をクルッとまわしてから、合点がいったらしくうなずいた。
「そのまま、ムラサワです」そう言って笑った。ケンシンもつられて笑った。
 それほど力を入れる必要はない。ふたりは肩の荷を下ろしていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで2)

2024-06-23 15:26:12 | 連続小説

「来たぜ」
 アタルが目線だけで示した先には、ピンク地のスーツ姿でビシッと決めたショッピングモール会長が、こちらに向かって歩いて来る姿があった。
 ケンシンも顔は上げずに目端で確認するだけで気づかないフリをして、そのままレジ締めの作業を続ける。目の前に会長が止まったところで顔を上げる。間近で見たそのスーツはピンクの格子柄がちりばめられたジャケットであった。
「ちょっと、今日が期限だって言ったでしょ」
 ケンシンは、いま気づいたという体で顔を上げ、驚いて見せる。アタルはすでに奥に引っ込んでしまった。
「はあ、」「はあじゃないでしょ、明日のモール一斉掃除の担当、提出するように頼んでおいたでしょ。今日一日待ってたのに、出てないのはアンタんとこのパン屋と、向かいのブティックだけなんだから、大体ね、、」
 ブティックと言われたところから、ケンシンは次の言葉が入ってこない。
 今どきブティックと言う店長の感性に驚いていた。ケンシンもそれほど通じてはいないが若い女性ならショップと呼んでいるはずだ。よくそれでモールの会長がつとまると感心してしまう。モールと言っても中身も関係者もまだまだ商店街と変わりない。
「、、でしょ!?」「はあ、」そのあとで何を言われたか知れず、何と返答すればいいかわからない「、、でも店長いないし」
「店長なんてほとんどいないないでしょ、コックは不愛想だし。あんたに話しといたんだから、あんたが答えなさいよ」
 さすがに店の状況はよく把握している。それにしても洋食屋でもあるまいし、笑いをこらえたのはコックはないし、チーフのコモリにベーカーという言葉は似合わないことだった。
「はあ、でも、オレ、バイトだし」
「バイトだろうが何だろうが、お金の計算して、お店任されてるんでしょ。もういいわ、あんたで」
 そう言うと会長は、ケンシンの胸にあるネームプレートを見てカミカワと、リストに書き込んだ。ケンシンの名字はカミカワではない。店用の通り名だった。そんなことは会長はお構いなしで、ケンシンの名字が何であろうと、この店の掃除担当者が決まればいいのだ。
「近頃じゃ、どの店も高齢化しちゃってね、あんたみたいな若い人が頼りなのよ、、」
 ここにも憂国の高齢化の波が押し寄せており、ご多分に漏れず、若者にそれを負担させようとしている。高齢化で人手が足りないなら。今までと同じことを無理にするのではなく、できる範囲で行うとか、アウトソーシングするとか、別の代替え案を検討しようとはしないのは何故なのであろうか。
 ケンシンは会長が何かこれまでの方法を踏襲することだけが正であり、それが継続できない自分が、悪であると思い込んで、正しい解に向かっていないように見えた。若い人に頼ることで、その人たちの時間と労力をどれ程奪っているのか考えたことはないように。
「、、私たちが若い頃はねえ、声がかかれば、どんな用事があったって、一目散に駆けつけたもんよ、、」
 あなたたちの若い頃は、成長する将来にまだ希望があり、同じことをしていても飯が食える時代だったんだろうと、うそぶくケンシン。
「、、いまの子はみんな自分勝手で、自分さえよければって感じでしょ、自分の子供より自分が楽しむことを優先するんだから、イヤになっちゃうわよ。ウチのヨメなんてね、、」
 と、ついに家庭の愚痴まで言いはじめた。今日の売上げの計算もまだなのに、やりながら話を聞くわけにもいかず、手は止まったままだ。
 だいたい、お互いの方向性も確認しないまま、これまでの慣習を立てにして、それがさも正義だと言わんばかりに振りかざされても相手は閉口するばかりだろう。
 共通の利益を手にするために、どこが問題点で、その課題を克服するために、お互いがどうすれば最大利益が得られるかを意見を出し合って、解決策を見つけ出すことが必要であると、ケンシンは先日受けたばかりの講義内容を思い起こし、ここに生きた教材があると感心していた。
「、、なんだから」言いたいことを言ってスッキリしたのか会長は時計を見て「あらやだ、もうこんな時間、もい一軒行かなきゃイケないのよ。時間食っちゃたじゃないの。じゃあ必ず来てね」と、チラシを押しつけて店を出て行った。まるでケンシンが時間を取らせたような口ぶりにあたまを掻く。
 押し付けられたチラシは丸めてポケットにねじ込んだ。店のゴミ箱に捨てるのはどこで目につくかわからず、家に帰ってから捨てるつもりだ。行かなくても店長のせいにすればいい。文句を言われても今みたいに、聞き流していればいい。
 途中になっていた、売上げの計算の続きを急いではじめる。会長のけたたましい声が、前の店から聞こえた。会長が言う所のブティックでは例の彼女が対応していた。困った顔をしているのがここからでもわかる。
「おっ、ようやくいなくなったか」嵐が去ったのを嗅ぎ付けて、アタルが中から出てきた。
 ようやく売れ残りのパンを片付けはじめだしても、彼女が会長と話している姿を見逃すはずはない。
「なんだよ、あの店も狙われてたのか。うわあ、カノジョ、めっちゃ困ってるな。そりゃそうだよな、来たばっかで、何もわかんないから」
「おまえさ、そう思うんなら、助けてやったら? キッカケ作れるかもよ? 」
 思った通りのアタルの言動に、ケンシンは計算機を叩きつつ、つれなくそう言った。
「だよなあ、でもオレ、あのおばちゃんホント、ダメなんだわ」
 店の看板を置いた場所のことで、たまたま居合わせたアタルはさんざん説教をくらい、その後も何かあるごとに目をつけられていた。ケンシンもそれを知って楽しんでいる。
 売れ残りの片付けを終えても、まだ恨めしそうにふたりのやり取りを眺めているアタルは、じゃあオレ先にあがるわと、店をあとにした。後ろ髪を引かれる思いがひしひしと伝わってくる。
 そんなアタルにお疲れとだけ声をかけて、ケンシンは遅れを取り戻そうと表計算ソフトに打ち込みをする。計算が一致して、店長にメールを送るまで帰れない。
 調理場の片付けも終わったようで、厨房から顔だけ出したチーフが、戸締まり頼んだぞと一言残して、裏口から帰っていった。
 レジの日はだいたい遅くなり、今日は余計なジャマが入ってさらに時間がかかっている。そんな日に限って計算が一発で合わず、何度か見直しして入力をやり直している。
「あのお、」画面に集中していたため、声をかけられたことに気づかない。
 人の気配と、何か声がしたようで思い出したように顔をあげた。彼女が目の前にいた。白い肌、クリッとした大きな目、プックリとした柔らかそうな唇。近くで見ると、さらに美しさが際立ってくる。
 映画の巨大スクリーンで女優を見ているようだ。イヤミのない甘い香りがホンノリと漂ってくる。ケンシンは計算が合わず四苦八苦していた険しい顔のまま硬直していると、申し訳なさそうにもう一度声をかけてきた。
「あのお、お仕事中、申し訳ありません、、」
 テレビのアナウンサーのような良く通る声だった。それでいて何か甘えたような、頼りにされて、つい聞き入ってしまう声だ。ケンシンは一気に心拍数があがり、脇から汗が出た。
 何か言わなくてはいけないのはわかっているが、言葉が出てこない。
「、、明日の掃除の件で、教えていただきたくて。わからないことがあったら彼に聞いてと言われて、、」
 ケンシンと同じように、彼女も会長に掃除当番を押し付けられたのだ。彼女しかいないからそうなるだろう。どこを見ていいのかケンシンの目は泳ぎぱなしである。そして胸元のネームプレートに目が止まった。ムラサワと書かれている。
 名前だけを確認して、直ぐに視線をずらした。胸を凝視していると彼女に見られたくなかった。ニット地の効果は至近距離ではそのパワーを最大限に発揮して、丸々と膨れている胸部のその迫力に圧倒されてしまう。
 気づかれないように用心して覗き見ていても、女性には丸わかりだと聞いたことがあり、ケンシンは必要以上に警戒してしまう。
「あのう、ムネ、、」そう彼女に言い出され、ケンシンは真っ赤になって否定した「見てません、見てませんよっ!」。それではかえって怪しまれるほどに。
 彼女は一瞬大きく目を見開いて、そして口をおさえて吹き出した。ケンシンは何がどうなったのかわからずオロオロしてしまう。
「大丈夫ですよ、わかりますから、ムネ見られてる時って」彼女はニッコリと笑って言った。
「胸のネームプレート。カミカワさんって言うんですね。私はムラサワです。ムラサワ マオ」
 そう言って、ムネのプレートを突き出した。大きな膨らみが一層強調されるので、プレートを見ながらのけ反ってしまう。続いてマオは、ケンシンのプレートを指さす。
「すいません、初対面なのに名も名乗らずに、ちょっと、動揺しちゃって」とケンシンはあたまを下げた。
 たぶん、マオにいきなり話しかけられれば、男はたいてい動揺するだろう。いったい自分になんの用事があるのかと、いぶかしがってもおかしくはない。それほどに平凡な男にとっては次元の違う存在だ。
 気さくに話しかけられてケンシンは少し気持ちが落ち着いていた。
「ああ、そう、あっ、イヤ、これ本名じゃないんだ。ショップ名って言うか、店だけで使ってる名前。顔と名前、バイト先で覚えられるのイヤだから」
 名前のことを人に話すのは初めてだった。アタルは同じ学校に通っているのでケンシンの本名を知っている。ケンシンがそれをマオに伝えて、流れの中といえ余計なことを言ってしまったと後悔した。
 そんなことを言えば、マオも本名じゃない場合、カミングアウトを強要しているように取られても困るし、ケンシンに本名を訊いてこられても困る。
「へー、そうなんですね。 知らなかった。私もそうすればよかったかな」
 マオは、複雑な表情をしていた。自分のようなわかりやすく、名前を変えて身を守った気になれるぐらいの、単純な人生を歩んでいてはわからない気持ちがにじみ出ていた。
 本名だったと喜んでいいのか、これだけ仕事で気苦労している彼女のことだ、本名と思わせておいて、実はそうでない可能性も考えられると、推測をしているうちにいったいどちらが正なのかこんがらがってきた。
 そんなことより、この状況をどうにかしたいケンシンであった。いまの自分が彼女の役に立たないことを知ってもらわないと、どんどん泥沼にハマっていきそうだ。
「ごめん、おれバイトだから、モールの規則とかよくわかんないし、今日は店長いないから、取り敢えず話し聞いといたけど、明日は大学もあるし掃除は来れないんだ」
 彼女は難しいそうな表情で話を聞いていた。そんな顔をされるといたたまれない、アツシだったらどうするだろう。調子の良いこと言って、一緒に掃除するだろうか。
「そうなんですね」彼女はポツリとそう言った。そんな表情を今日も何度か目にしていた。外見が良いだけで、厄介事がひとより多く発生するのも有名税と言っていいのだろうか。
 ケンシンはどうすればいいかわからない。気になりながらも、なにもできなかったから今がある。何時だって、何処だって。たぶんこれからも。
 身の丈以上のことをして何度も失敗してきた。その不成功事例に囚われている。たまに成功した事はアタマに残り、何時までも有効だと信じて、消費期限を過ぎていることに気付かない。
 自分では彼女を救うことはできないのだ。ならば関わっても仕方ない。
「わかりました。そういう事情でしたらしかたないですよね。なんだかご迷惑かけちゃったみたいで、申し訳ありませんでした」そう言ってアタマをさげた。
 自分の方に否があると下手に出て気を遣っている。大袈裟でもなく、礼儀的でもなく、ケンシンには丁度いい加減の振る舞いだった。
 多くの意にそぐわない男たちと接していく内に身についた、相手を不愉快にさせない所作なのか。ケンシンも気の利いた言葉でもかけられればいいが、そんな器用さは持ち合わせていない。
 人生はままならないもの。一部の成功者が取り立たされるのも、その秘訣を知りたい大勢の人間がいるからで、全員が成功者になれば、誰もその秘訣を知りたいとは思わない。世にあふれる啓発本はこうして増えていることがそれを現している。
 この女性も、マオも、ひとが羨む容姿をしていても、幸せではない。むしろ余計な外因に時間を割かれ、好意的だったひとを敵に回し、いわれのない暴言をはかれることもあるのだろう。
 だったら自分ぐらいは、そっとしておいてあげたほうがいいような気がするケンシンだ。それが自分の身をわきまえた行動だと納得させる。アタルにも気を遣わせていた。
 マオは失礼しますと、お辞儀をして店に戻っていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パン屋と服屋のあいだで1)

2024-06-18 07:45:04 | 連続小説

「ホント、可愛いよな、カノジョ」
 アタルがそう言った先には、半月前から向かえのブランドショップに勤めはじめた女性がいた。
 女性物を取り扱うファッションショップなだけに、着こなしも、着ている服装も様になっている。カラダを動かす度に明るい髪がサラっと、なんの抵抗もなく流れてそよいでいる。
 毎日、準備万端で10時の開店にそなえるために、こんな時間から店のまわりの掃除をしている。そのあとはシャッターを半分開けて、店内の清掃からショーウィンドのマネキンの服の取り換え、配置を調整したり、服の入れ替えや、新入荷された服を開封して確認して、ショーケースに並べたりとテキパキ働いている。
 ケンシンはいつもその様子を見ていた。アタルとは大違いの働きぶりである。
 顔立ちは、女優の誰かに似ているようで、それでいて、その誰にも似ていない。そんな印象がかえって、直ぐに人目を引く美しさとなっている。
 レジを担当しているケンシンも、アタルとは別の理由で彼女のことを気にかけていた。
 アタルはそう言ったきり、焼き上がったパンを配膳する手を止めて彼女に見とれている。
「オマエさ、いつまでそうしてるんだよ。早くそのパン並べないと、焼き立てのうたい文句が偽りになっちまうだろ。次のパンもチーフの前で大渋滞で、そうだな、これは確実にドヤされるぞ」
 ケンシンが呆れてそう言うと、アタルはまだ開店前だからいいだろとボヤキながら、渋々と配膳をはじめる。それでも目線は彼女に釘付けのままだ。
 白い薄手のセーターは首の部分が緩やかになっており、花が開いた様な感じに見える。黒のパンツとのバランスも良く、一層長く見える脚を引き締めており、自分のストロングポイントをおしみなく強調するコーディネートだ。
「あのさあ、、」アタルが未練がましく口を開く。
 ケンシンは、つり銭用に準備してあるパッキンされた小銭を、バラしては所定の場所に入れる作業をしており、視線を上げられない。
「セーターいいよなあ、カノジョの大きいオッパイが、さらに1.5割り増しって感じで」
 そこはケンシンも気になっていた。丸々とした胸部と、キュッとしまった胴回りまでのピッタリとしたラインに、嫌がおうにも目線が吸い込まれていく。
 道路の清掃をするとどうしても前かがみになり、ホウキでゴミを掃くことになる。その態勢で重力にあらがうこともせず、丸いふくらみはユラユラと揺れて、アタルのような好き者にとってはたまらない光景だろう。
「先週はさあ、ガバッと開いたVネックで前かがみになったときは最高だったけどさ、この時期にセーターっていうのもいよなあ。オレ、あんとき5回はイケたけど、今回もそれぐらいイケそう。想像力をかき立てられるって言うか、その方が盛り上がったりするんだよなあ」
 そう言ってケンシンに同意を求める目線を送る。それを感じてケンシンは顔を上げる。だらしない顔をしたアタルがパンを配膳しながら、もう一度彼女を見つめはじめる。
「オマエの盛り上がりはどうでもいいからさ、想像したくもないし、見たくもない。ほら、次の取りに行けって」
 それは食品を扱う店には適さない顔で、ケンシンが客だったら絶対に入店しないだろう。アゴでシャクって次のパンを取りに行くように促す。
 アタルの顔つきを見るだけで、アタマの中で何を考えているのかケンシンには想像がつく。白くふんわりと焼けたパンでも見ようものなら、彼女の素肌の胸と置き換えているに違いない。
 しぶしぶ次のパンを取りに戻るアタル。今日もチーフの焼くパンは完璧な焼き上がりを見せている。アタルの変な妄想がまとわりついていようが、香ばしい風味が負けじと店内に広がっていった。
「あんなコ、彼女になったらいいのになあ」戻って来たアタルがぼそりとつぶやいた。
「声かけてみれば?」ようやくレジの準備も終わって、ケンシンはしかたくアタルの相手をした。
 首を振るアタル「オレなんか無理だって。彼女と釣り合わない。アピールできるとこ何ひとつ思い当たらない」
 自分も含めてケンシンもそんなことはわかっていた。せいぜい端から見てワイワイと冷やかしている立場の人間だ。そうでなければ半月たったいまでも同じことを続けていない。
「そう言う、ケンシンはどうなんだよ? キライじゃないだろ。いやむしろ好みだろ。いつも関心ないみたいなフリしてさ」
 アタルにそう言われるのも無理はない。必要以上にアタルが推しまくっているのも、ケンシンが一向に乗ってこないからという理由もある。
「あーっ、オレ? そうだな、必要じゃないんだ」ケンシンはそう言った。
 ケンシンにしてみればアタルの異常ともいえる高揚振りに、食傷気味であるのもいなめない。どんなに焼き上がりの香りが最高のチーフのパンも、毎日食べていれば感動も薄れ、今日はもういいかなとなることと近いのかと、変な例えに首をひねる。
「はっ? ナニ? おかしいぞ、オマエ。誰が見たって可愛いだろ。必要とかそう言うの抜きにしても、お近づきになりたいだろ?」
 自分以外の考えを一切考慮しない無茶苦茶なアタルの言い分だ。ケンシンはそう言われると踏んでいた。そうなれば次は、どういうコならいいんだとか、やれもう彼女がいるのかとか、あげくにはオンナに興味がないのかとかと下衆な詮索をしてくる。
「オレさ、あのコが不憫でしかないんだ」というわけで、口を開こうとしたアタルの先を押えた。
「どうゆうことだよ、フビンって。あんなカワいかったら人生バラ色でしょ。何だってできるし、どんな男にも好きになってもらえる。そいつが大金持ちなら、好きなことだって放題じゃないか。そう考えれば増々オレなんか選ばれるわけない、、 」
 最初は景気よくまくし立てていたアタルは、自分の立場を再認識するとともに声がしぼんでいった。
「オマエの言い分はよくわかるけど、それで地球が回っていれば、世の中は美しい女性と金持ちだけが生き残ることになる。そうじゃないから、オレがいてオマエがいる」
 ドアが開いて今日最初の客が来店した。ケンシンが時計を見上げれば8時を回っている。年配の女性の客はトレーとトングを取ってパンを選びはじめる。よく開店とともにやってくるなじみの客だった。
「やけに哲学的じゃないか。そんなの授業でならったか?」
 客が来た手前、一応声をひそめてアタルは続ける。
「そうだな、オマエみたいに考えている男たちが1000人ぐらいいて、そして彼女を見ているだけで諦めている。もしかしたらその中に、彼女の好きなタイプがいるかもしれないのに、誰にも声を掛けられず、一歩引いて遠くから眺めているだけで終わってしまう」
 ケンシンはそう言うと、トングとトレーの準備が少ないのを見て、補充をしようとストック置き場に向かってしまった。本来はアタルの仕事だ。
「だから、フビンなのか?」アタルは手伝うでもなくケンシンの後についてくる。ふたりが調理場に入ってきたので、チーフがチラリと目をやるが、すぐにパン生地に目を落とす。
「オマエがさ、本気なら声かければいいだろ。ただ、見た目だけで、すぐヤリたいとかだけなら、やめといた方がいいんじゃないの」
 調理場の右手にあるバックヤードに入っても、チーフの耳に入らないようにケンシンは声を潜める。
「ケンシンはさ、そういう気にならないのかよ、、」その続きに、おかしいんじゃないのかと言われるのを遮るために言葉をかぶせてくる。
「どうかな。彼女はとびきりに可愛いのは間違いないよ。きっと、何人もの男にこれまでも言い寄られてるだろ。その度にしなくてもいい謝罪をしている。何のためだろうな、、 」
 レジに戻ってくると、最初の客が店の奥を覗き込んでいた。会計をするために声をかけようかとしていたところだったらしい。
 ケンシンは失礼しましたとアタマを下げ、トレーに載せられたパンを見てキーを打つ。横でアタルがパンを袋に入れる。会計を済ませるとふたりで揃って、いつもありがとうございますと礼を言って、あたまを下げる。
「オマエってさ、とにかく超悲観的な未来を想像するタイプなわけ。いやー、知らんかった。今日の今日まで、ひとってわからんもんだな」
 出会ってまだ半年しか経っていないのに、バイトの時間だけの付き合いなのに、長い付き合いがあったみたいな言いかたをされて、苦笑するケンシンだった。
 次に女性のふたり連れの客がきた。ここのパンおいしいのよと、もうひとりに伝える。自分の目利きを知って欲しく連れて来たようだ。そう言われて大した味じゃないと言う友人はいないだろう。
「そうなんだよ。なんか楽しみがあっても、もしこうなったらどうしようって考えるタイプなんだ。だからいままで自分からなにか言い出したことはない。だいたい人に頼まれて、仕方なくやるって言うか、それを理由にようやく決断できたことばかりだ」
 自傷気味にケンシンはそう言った。
「バイトも?」「バイトも」「大学も?」「大学も」あと、数十回にわたるアタルの問いを答えたケンシンだった。
「あー、おいしそう、これも、これも、これも食べたい」
「ふたりでシェアすればいいから、気になるのは買っちゃいましょ」
 ふたりは楽しそうにパンを選んでいる。 
「オマエさ、そんなんで人生楽しいのか?」けげんな顔をして、アタルは最後の質問のように言う。
「どうだろ、オマエには楽しくは見えないだろうな。なんかさ、そもそも、人生を楽しめる人種はそれほど多くはないだろ」
 女性客は大盛り上がりで、ふたりでは食べきれそうにないパンをトレーに載せてレジに来た。食べきれなかったら冷凍庫で保存すればいいと話し合っている。
 ケンシンは、沢山お買い上げいただきありがとうございますと、営業トークをする。アタルは大きめの紙袋を擁してい包んだパンをひとつづつ入れていく。
「レベルの問題だろ。ああやって楽しんでればいいんじゃないの。オマエの考えって哲学的すぎて、わけわかんないけど」アタルは感心しているのか、呆れているのか。
「だろうな、オレも理解してもらえると思って話してないよ。じゃあ、何のために生きてるのかって言いたいんだろ? オレもよくわかんねえ。常に何かを心配して、なにも起こらないことだけを祈って、平凡な日々に感謝してるだけだからな」
 それからは、立て続けに数人の客がやって来た。ふたりは無駄口をたたくことなく接客をする。商品棚のパンがなくなると調理場に行って、次に焼き上がったパンを配膳する。チーフは今日の売れ筋を読みながら次に焼くパンを考えてく。
 この店の売れ残りが少ないのはチーフの読みの正確さからきており、アタルは売れ残りのパンが少ないことにいつも嘆いている。
 客足が途絶えたところでアタルが言った。
「あのさ、オレもホントはさ、ムリして楽しんでるフリしてるだけなんだ。ああやって、オンナの話しとか、若者っぽい話ししてないと、みんな相手してくれないだろ。ケンシンもそうだと思ってたし、、」
 彼女をキッカケに、野郎がふたりなら、そういう会話になるかと話しただけだった。アタルに合わせてそれっぽいことを言うこともできた。
「そうか、悪かったな、つまんない話して」
 ケンシンは今回はそれをしなかった。それは彼女を気遣ったことでもあり、自分に重ね合わせたことでもあった。
「ああ、ううん。ケンシン、オレさ、思うんだけど、それでもいいと思うんだ。それで小さな幸せを感じて、よかったなって。何かの比較じゃなくて、自分がそう感じれるだけで」
 ふと彼女を見ると、今も男に声をかけられていた。女性物のファッションショップに似つかわしくないヤロウがふたり、彼女にまとわりついていた。
「カノジョ、また声かけられるぜ」アタルも気づいてそう言う。
 客相手の商売ではあからさまにイヤな顔はできない。彼女は笑顔で対応しながら陳列されている服をセッティングし直したり、マネキンの服を整えたりしていた。あきらかに不要な仕事をしてはぐらかしている。
 今まで何度も目にしてきた光景だ。ガッカリする男、残念がる男、茫然とする男、悪態をついて去っていく最悪なのもいた。
 どうであろうと彼女は深々とアタマを下げて見送っている。服を買いに来た客でもないのに。
 無限の可能性を信じることは大切だ。特に若いうちは。やってみなければわからないとか、馬券も、宝くじも買わなきゃ当たらないとか。
 それで成功する確率は高くはなく、ほとんどの人はなにも起こらない人生に、何かを期待しつつ年だけ重ねていく。
 いつのまにかお年寄りの女性がトレーにパンを載せてレジに立っていた。遠くの彼女にはすぐ目がいくのに、近くの老婆に気づかない。ケンシンも自分に呆れるしかなかった。
 アタルとふたりで手早く会計を済ませ商品を渡す。
「ありがとうございます。こちら、商品になります」アタルが大げさに言う。
「ありがとね。アナタたちみたいな若いコから買うと、パンも倍おいしくなるわ」
 お年寄りの女性は嬉しそうにそう言った。ケンシンたちをおだてるわけでなく、自分の素直な気持ちで言っているのがわかった。
 ケンシンとアタルは顔を見合わせて笑顔を見せた。そしてお年寄りのために店のドアを開けて、普段ならしない見送りをした。向かいの店ではその光景を見た彼女が微笑んでいた。
 見栄えが特権になることもあれば、若さが特権になることもある。他人はうらやましがっても、本人はそうでないこともある。その価値を見出すのは自分ではなくまわりであることも。
 ケンシンはアタルの肩をたたいて店内に引き上げていった。


T.T.F~F.M.M

2024-04-14 14:03:37 | 連続小説

「みてえ、おとうさん! すっごい、おおきなお月さま!」
 幼少の女の子が指さす先は、照明が消えた後のビル群の上、その比較効果のなかで大きく見える満月が明々と浮かんでいた。
 水曜日の午後9時。まだ3歳の小さな娘と散歩するには、いささか適した時間とは言い難いなか、手を引く父親は何かを含むようにして答えた。
 それはあどけない娘に語る言葉に適してはいても意中は別にある。
「そうだね。大きいね。もっと大きくなるといいね。そうすれば菫鈴の大好きなポテトグラタンがいっぱい食べられるかな… 」
「ホントー。うれしいー! スミレ、お月さまに行ってみたいなあ」
 風にあおられてブランコがギィーと、サビた金具が擦れる音とともに揺れている。
 父親は娘のあどけない望みに思わず言葉も詰まってしまう。何も知らないというのはそれだけで幸せなことだ。それが何も知らないまま大人に成ることを約束されたわけではない。
「ハッ、そうか。でもね、お月さまには行かないほうがいいかな。あそこにはね。うーん、そうだな、富士山と一緒だよ。遠くから見ていた方がキレイなんだよ」
「えーっ、フジさんじゃなくて、お月さま。行きたい、行きたい」
 父親は、困ったような、それでいて嬉しそうな、娘の成長を喜びながらも、いまのままでいて欲しいふたつの相反する思いがそこにあった。
 寂しそうな顔をして懇願する菫鈴を見ると、どうしても取り繕う言葉をかけてしまう。
「それじゃあ、大きくなったらお父さんと一緒に行こうか」
「うんっ! 約束だよ」
 そんな日が来るはずはないと父親はわかっていた。それは自分の今後の働きに関わってくることであり、同時に自分の力だけではどうしようもない部分でもあった。
 娘はテーマパークに遊びに行くぐらいの感覚しかないはずだ。『月に行く』その言葉の真の意味を知らないままでいて欲しいと願うばかりで、それは誰にでも起こりうる可能性があり、その時になり、はじめて真の意味を知ると同時に理解の範疇を越えることになるだろう。
 父親は単身赴任の命を受け、この地を離れることになる。次に娘に会えるのがいつになるのかわかず、妻にムリを言いこうして夜中の散歩に出かけた。
 その妻でさえ今回の赴任の本来の意味を知らない。もし説明したところで夢想家か、気が触れたとしか思われないであろう。
 そもそも、もし身内であっても誰かに漏らしたことが官庁に知れ渡れば、自分はもう二度と社会復帰できない。最悪には家族をも巻き込んでしまうかもしれない仕事であり、自分はそういった立場に足を踏み入れているのだ。
 毎日のように新聞を賑わす理不尽な殺人事件や、偶然の悲惨な事故で大勢が死んだり、行方不明になったりした記事を目にして、そのような目にあった人たちを慮ると同時に、ひとの運命だとも割り切ってきた。
 それなのに、この世界の食糧の生産は、そのよう消えていった人たちの労力で確保されていると知り、それを知らされた時には愕然とした。 
 子供の頃に、流行りのテレビ番組の影響で、宇宙を飛び回る仕事を夢見ていた。大きくなるにつれそんな未来は、まだまだ先のことと現実を理解していった。
 官庁に勤め、仕事になれはじめて結婚もした。そこそこの出世街道に乗ったつもりでいた。そんな矢先、まだ先のはずの未来はもうすでに過去のことであったと気づかされる。
 この世界は自分が思っていたよりも進んでおり、世間は自分が思っているよりも現実を知らない。知らないというよりも知らされておらず、知った者は二度ともとの世間には戻れないだけなのだ。
 夜の公園を駆け回る菫鈴は好奇心でいっぱいだ。昼間に遊んでいる時とは違う景色と未知がそこにはあり、誰も知らない自分だけが知った世界が、子どもにはたまらなく魅力的であり続ける。
 見えなかったモノが見えた時、それは落胆に変わるだけだといつかは知ることになる。いつまでもここを離れがたく、ポケットに手を突っ込んだままブランコを揺らし、菫鈴の走りまわり続ける姿をいつまでも見ていられたらと願わずにはいられなかった。

 スミレは目を開いた。カズさんがそこにいた。優しい顔にスミレは胸がしめつけられ、期せずして涙がこぼれてきた。
 子どもの頃の父との思い出は、何度も夢でみることもあったし、ふとしたことで思い出しもした。単身赴任の父親とは、これ以降、ほとんど接点がなくなってしまった。
 母親に聞いても、おとうさんはお仕事忙しいのよと言うだけで、スミレの前では冷静さを保っていた。夜遅くに電話で言い合っている声を聞いたのは一度や、二度ではなかった。あれは父親と言い合っていた。
「カズさん、わたし、、 」
 カズさんはスミレを抱きしめて髪を優しくなでた。何度も、何度も。
「辛い思いをさせたね。でもね、あなたにはもっと厳しい現実が待っている。それを乗り越えるために今回の経験をしたのよ。さあ、いきましょう」
 スミレはうなずいた。うすうす気づいていた。カズさんも自分自身だと。自分の居るべき場所に戻らなければいけない。これは通過点なのだ。
「この世界の未来は、あなたにかかっているの、、」

 


昨日、今日、未来24

2024-03-31 17:37:17 | 連続小説

「だからって、わたしにナニができるの? わたしだっておかしいと思うことはあるけど、わたしひとりじゃ何もできないよ。みんなだってそうやって何もせずに過ごしてきたんでしょ。それをわたしに押しつけられたって、、 」
 スミレはベソをかきそうだった。普段でさえ面倒くさがりと自負しているのに、急にそんな試練を言い渡されても全うできる気がしない。
「いまはそうかもしれないけど、、 そんな高望みを押し付けるつもりもないから。でもね、アナタのどこかでその想いが生きつづけていれば活かせる時が来る。スミレのもとに人が集まり、情報が集まって来るようになる。そのとき、スミレにはどんなことでもできるようになる」
「そんな、、 」さらにハードルがあがっている。いままで出された中で一番大きな宿題だ。
 カズさんに励まされても、そうなれば良いねぐらいしか言える気がしないし、何ができるかなんて約束できるはずもない。ただ、これまでよりは少し前向きになれたかな、ぐらいの範疇だ。
 カズさんが自分に伝えたかったことも、キジタさんの本心も、おやじさんの無念も、通りすぎた誰かの単なるエピソードではなくなってしまった。
「あたしなんかより、もっとできそうな子に頼むべきなんじゃないの。どうしてわたしだったの?」
 スミレは先をいくカズさんの服の端を引っ張って止めた。カズさんは振り返る。夕日が顔にあたりオレンジ色になっている。スミレは固唾をのんだ。
「あのね、スミレ。キツイ言いかたなのはわかっているけど、あえて言うね、、」
 聞きたくない。スミレは耳を閉じようとした。カズさんの皺だった細い手がそれを遮る。
「 、、できない前提で何かを解決しようとするから何も解決できない。できる前提で考えはじめることで思考が動きだす。誰も限界を超えることは望んでいない。自分の限界値を引きあげて欲しいの」
 スミレは手を振りほどいた。からだ全体を使ってアピールする。
「でも、だって、わたしはまだ子供だよ。小学生なんだよ。今日一日の出来事が特別なのはわかるけど、だからってすぐになんでもできるようになるわけ、、 ない」
 人通りの中で、こどもとお年寄りがなにか言い争っている。それなのに道行く人はなんの関心もなく通り過ぎていく。自分たちが透明人間にでもなった気分だ。それともここはまだ現実の世界ではないのだろうか。
「そうやって思い込んでしまうから自分の限界値がおのずと固定されてしまう。今できなくても、今からはじめればいい。なんだってできると信じれば、いろんなひとがスミレを応援してくれる。昨日まで不可能だったことが可能になる」
「だから、誰にだってその可能性があるのなら、私以外の誰かがしてくれてもいいじゃない! どうしてカズさんは、わたしにそれをして欲しいって望んでるの?」
 そう訊いておきながら、スミレにもその答えがわかっていた。これまでなんども聞かされてた言葉、自分が望んだのだ。そしてそれは同時にカズさんが望んでいるのだ。
「親とか、権力者とか、いくらでも言い替えができる言葉ね。自分が何に囚われているのか、それでよくわかる。スミレは自由であっても、その自由に囚われている。多くの選択肢から決めきれないために、結局は自由でなくなっている。自由の中で選んだ結論で失敗すれば、誰かのせいにすればいいとする、言い逃がれは通用しない。その誰かをスミレの親であり、現状で支配している人に置き換えればいい」
 カズさんの言っていることはスミレの心の中に在る疑問に対しての回答だった。遠回り過ぎて何を言いたいのかスミレは理解ができない。今はまだ。
「カズさんは自由じゃなかったの?」
 スミレの精一杯の反抗だった。カズさんは遠い目をした。何を思い出しているのか、思い出したくないのか。
「期待していた人や、信頼していたことが期待通りでなかったとき、何か裏切られたように感じて、一気に熱が覚めてしまうことがある。勝手に期待しておいて夢を膨らませて、そうでなければそれ以上に憎悪を持たれた人の身になってみればいい迷惑でしかないのにね」
 カズさんはもはやまともに回答をするつもりはないらしい。なにか示唆することを言い、スミレの気づきを待っている。
「期待通りでなければ、自分ならどうしたかを考えるきっかけにすればいいし、そこに気づかせてくれたことに感謝すればいいの。それなのにその人のせいにして自分は関りないと知らん顔をする。若いうちは頭ではわかっていてもなかなか実行までには及ばない。特にスミレの時代ではそれが捌け口になっている。その浄化作用で日々を乗り越える。でもねえ、そんなものは上っ面だけで、根本を変える訳ではないでしょ。もちろん本人たちもそんな気はサラサラないでしょうけど」
 カズさんはナニか核心に迫ろうとしている。スミレはそう感じ取っていた。
「カズさんは、自分が過ごした辛い時期をわたしたちの時代に繰り返さないように、教えてくれているの? それともわたしたちがそんな時代をつくらないように教えてくれているの?」
 カズさんはまたトボトボと歩きはじめた。スミレもあとを追う。街灯に明かりがつきはじめた。いくつもの影がふたりのまわりに現れる。
「過去もそうだったし、今もそう。そして未来もそうなってしまう。これから変えられるのは未来だけだよね」
「未来、、 未来って?」
 スミレも事の重大さを理解しはじめていた。自分のまわりにあるいくつもの影は、自分の未来の可能性を映し出している。
「スミレは賢いわね。これは、いつかは言わなきゃいけないことだったの」
 カズさんは少し疲れた表情をして、近くにあったバスの停留所に据え付けられているベンチに腰をおろした。その前をスミレと同世代の子どもを連れた親子が歩いていく。
「あのオモチャみんな持ってるんだよ。ボクだけ持ってないんだ。だからさ、買ってよ」
「ダメよ。こないだもそんなこと言って。ミキくんは持ってなかったじゃない。買ってあげたらミキくんに自慢したでしょ。ミキくんのおかあさんがミキくんにねだられて困ったって言ってたわよ」
 男の子はチッと舌打ちをした。そんなやりとりを見ていてスミレは、そのコに感情移入していた。
 そうなのだ、スミレはまだそのレベルの年代なのだ。急にいろんな大人からああしろ、こうしろと言われてすぐにできるわけがない。もっと子供であるべき時間を過ごしてもいいはずだ。
 スミレのそんな表情を見て、カズさんは少し間をとるように話題を変えた。
「スミレが他の子たちと同じようにしてたいのはよくわかるよ。そういうのってまわりがそうだから自分がそうでもいいってラクしてるだけでしょ。ううん、キツイこと言ってるのはわかってる。人ってね、うーん。大人でも子どもでも、自分の居場所で自分がどのレベルにいるのか必死に探そうとする、それでまわりが低ければもう安心してしまう」
「高ければ?」スミレは恐る恐る訊いた。
「 、、その場にとどまれば底辺で我慢するしかなく。他の生き場所を探すんじゃないの?」
 突き放された。スミレは却って反発したくなくなる。それがカズさんの狙いだったのか。
「そこで一番になるってこともできるんじゃないの」カズさんはニヤリとした。
「スミレ。嫌な思いしたことあるでしょ。学校とかで、理不尽だと、、 つまりこれってどういうことか理解できないようなこと」
 そう言われてスミレが真っ先に思い浮かんだのは、みんなから嫌われているヨースケ君のことだった。ヨース家君は人の嫌がることを平気で口にする。気の弱い女子だと泣いてしまう。ヨースケ君はそんなことお構いなしで、そんなことで泣くなよって言うだけだ。
 ヨースケ君にとっては、そんなことであり、言われた子にとっては、自分の存在を否定されて、生きる意味を見失うほどになる。
「ヨースケくん。人が嫌がることはしないようにしましょう」先生はそう言った。
 ヨースケは反論する「オレ、イヤがることはしてない。みんなと仲よくしたいだけなのに、どうしてイヤか、オレにはわかんないよ」
「ヨースケくん。どうして嫌がられるか、自分で考えましょうね。それと自分のことをオレって言わないようにしましょう」
 ヨースケは膨れっ面をして黙り込んでしまった。スミレもヨースケ君は苦手だった。だから弁護するつもりはない。だが弱く見える女のコたちを守って、言いたい放題のヨースケ君を一方的に咎める先生の判断に一番違和感を感じていた。
 それからも先生は、いろいろなお願いをした。
「みなさんミホちゃんに××と、言わないようにしましょう」
「みなさんタケルくんがお豆を食べられなくても注意しなでください」
「みなさんケンタくんが突然大きな声を出しても、ビックリしないでね」
「カホちゃんが体育を休んでもそっとしておいて上げましょう」
「リュウヘイくんが学校に来たときは、仲間はずれにせずに、一緒に遊んであげましょう」
「誰一人取り残さないようにしましょうね」
 気にかけなければならない子がいっぱいだ。そしてスミレだって完璧な人間じゃない。いや完璧な人間など何処にもいない。自分をそう信じ切っているか。まわりから都合よく使われるために、そうおだてられているだけだ。
 個人特有の個性であればまわりに気を使わなくてもよく、そうでなければその子達に気を使ってあげなければならないのがどうにも納得がいかない。
 だからヨースケくんだけは叱られないといけないのか、スミレにはしっくりこない。本人も悪いことを言っている気がなければ、それはヨースケ君特有の個性なのではないだろうか。他の子と何が違うのかサッパリわからなかった。
 それにスミレ自身も、もっと先生に気にかけてもらいたかった。スミレさんは強くないんだから、もっと優しく接しましょうと言って欲しかった。そうでなければなんともやりきれない。
 そしてその言葉は、同時にカズさんにも向けられていた。
「人類がここまで種を継続できてきたのは、どれだけうわべを取り繕うとも、強い者、賢い者、まわりに順応できる者が勝ち残って来たからよ。弱い者はそれらの者についていくしかなく、不要になればいつだって切り捨てられてきた。どんな人も平等に生きられるのが理想だけど、その許容がこの惑星にあるかどうか。そしてね、スミレ。人間という種族にその寛容さが備わっているか。いくら大義名分を振りかざして正論を述べたって、その資質がなければ歪が生じるだけ。支えられたい人はいくらでもいる。支える人はそうではないわ」
 スミレとしても好きで支える側になったわけではない。全体との比較の中で、そちらに入ってしまっただけとわかって欲しい。私だって支えられたいと声を出したい。そして世の中を変えるのは、わたしみたいな平凡な子じゃなくて、もっと選ばれた人がなるべきだと。
 スミレは涙が溢れていた。カズさんが代弁してくれなければ、もう心がはち切れそうだった。小さくなったカズさんはスミレの肩に手をまわした。同じ背丈のふたりがベンチで抱擁している姿は、おばあちゃんに慰められている子どもを想起させる。スミレはまだその年代だ。
「だけどね、スミレ。それじゃあ今の時代も、強者にすべてを委ねてきた時代となんら変わらない。そしてこの先も強者だけが生き残って、この種族を引き継いでいく。余りにも優しい時代のひとびとは、多くのひとが生きられる世界を作り出した。ただその優しさが自然の摂理にかなっているかどうかは神のみぞ知る。多くなり過ぎた人類であるがゆえに、こんどはその絶対数を制御しようと疫病であったり、心身的弱者が増加したとしてもおかしくはないの」
 スミレは首を振った。それが何への否定なのか、カズさんにはわからない。それでも続けなければならない。
「権力者が弱い者を生かしておく唯一の理由は、そこから搾取できるから。それをよしとしない自然界が見えざる手を振りかざしても、なんら不思議ではないのよ」
 搾取の正確な意味はわからないスミレでも、良くないことだとは予想がつく。
 人類が誰かによって統制されようとしても、自然界はそれをゆるしてはおかない。こうすれば良かったはもういらない。そう後押しされている気がした。
「スミレ。決心がついたようだね。いらっしゃい。私の時代に、、 」
 生まれたことを不幸に思わない誰かを守ろうとするその行為が誰も守ることもなく、声をあげた当人だけが悦に入っている。スミレはそうはなりたくないと子どもながらに心に決めた。


昨日、今日、未来23

2024-03-16 16:20:20 | 連続小説

「さっき食べたおやじさんの料理、美味しかったでしょ?」
 今更ながらにカズさんがそんなことを訊いてくる。カズさんはお年寄りになったが話し口調は若い時のままだ。
「うん、とっても。あんなにおいしいお米や、野菜や、魚を食べたのははじめて。味付けがうすくてちょうどよかった。かめばかむほどおいしさが増していった」
 伝えたい言葉はもっとあった。おやじさんの料理にもっとたくさんの賞賛をしたかった。
「そうよね、わたしもスミレと同じように美味しくいただけた」
 それなのにスミレには、それ以上の言葉が出てこなかった。貧困な語彙が妬ましかった。それでカズさんに訊いた「カズさんも、昔はあんな食事をしていたの?」と。
 やはりカズさんは困った顔をした。その度にカズさんはスミレに何かを伝えようとして、それがうまく伝わらないもどかしさを感じているようにみえる。
「スミレ、あのね、どんな食べ物だって、惑星の大地からおすそ分けしてもらっているの、、 」
 カズさんの言い回しがスミレには難しかった。惑星とはスミレたちが住んでいる地球のことを言っているはずだ。それなのに明言を避けているような言い方をする。
「 、、でもそれって無尽蔵に作れる訳じゃないの。スミレだってカラダを使えばお腹が減るし、アタマを使うだけでも栄養を補給しなきゃいけない。大地だって同じよ。食物を排出するために栄養原が失われていく。それは何も食べ物だけじゃない。この惑星で使っても減らないものなど何もないのよ」
 スミレは以前に友達の家で見た、もしもの世界の本を思い出した。もしも雨が降らなくなったら、もしも氷河期が来たら、もしも空気がなくなったら。それらは子供の恐怖心を煽るに十分な内容だった。
 その中には食料がなくなり、人々が餓死していく内容もあり、オドロオドロしいイラストとともに掲載されていて、そんな世界になったらどうしようかと、今でも心配になることがある。
「そうね。そうやって心配はするんだけど、目の前には食べきれないほどの食べ物が溢れていて、実感するのは難しいよね。だけどね、その食べきれずに捨てている食べ物が、どのようにして作られているか考えてみるといい。食物を作り出して、痩せてしまった土地に大量の人工肥料を投入して、無理やり育てた食物を食べている。魚も豚も牛も鶏も、餌としてそれを食べているから、その肉を食べるのも同じこと。自然に作られる食べ物では、すでにこの惑星の住人たちに充分な食糧を賄うことができないの」
 何かが増えれば、何かが減る、それが宇宙の摂理だ。ゼロ以上にも、以下にもならない。減ってしまったモノが、自然に増えることはない。そこには別の何かを犠牲にして増やしているカラクリがある。
「スミレの時代に食べ物が満たされているのは、この惑星に借金をして、大地の再生能力を前借りしているに過ぎない」
 何だかその言葉をよく耳にする。お金も借金して、未来の子供たちに押し付けようとしているとか、希少資源も争うように開拓され、枯渇すれば万人に行き届かなくなる。
 すべて大地から搾取した物なのに、そこにたまたま国があったということで、自国の利益にしている。そして大地の都合は考慮されないまま、利権のやり取りは紙面のうえでなされ、利便を共用するという名の下に、より高値で取引される者の手に落ちる。
 人々が余計なことを考えないように、緩やかに制御されている。今が良ければこの先がどうであろうと、気にならないように仕向けられている。
 圧政であれば反発も起きやすい。それが緩慢に統制されていれば、いつの間にかそのようになっており、それも民意総意であったと言い訳がたつ。ゆでガエルの理論だ。それとも先のことを心配するほどの余裕がないのか。
 人が食べることが優先されれば、その他の生物にも多くの影響が及ぼされる。何も絶滅危惧種の増加は乱獲だけが理由ではないのだから。人が増えた分だけ動物や昆虫や植物は減っていくのだ。
「でもおかしいよね。そうならないために、偉い人たちが会議して、じぞくかのうな世界にしようって決めて、みんなで努力してるんでしょ」
「一部の権力者が自分の利権が持続可能になるようにしてるだけでしょ。どんなにあがいたって、食べるものが届かなくなるのは、スミレのような一般市民からなんだから」
「そんな、そんなんなら、わたしたちはどうすればいいの。セージカは国民のために頑張ってるんじゃなくて、自分達だけが得することだけ考えてるの?」
「国民のためと言う定義は、あやふやでどうにでも取れるからね」カズさんはハナで笑ったような言いかたをする。
「権力者と、その利権者達は自分達が安定的に生活できることが、ひいては国民の安定につがると確信していれば、それはもはや真実となる。国民は何も産み出さない、権力者が提供する生産に依存するしか生きる路は無いのだから」
 スミレの期待は霧散した。どうりでしがみついてでも政治家を続ける人が多いわけだ。
「それはどうにもならないの?」不満だった。
「どうにかするのは、ひとりひとりの行動だろ。権力者に働きかけることではない。誰もが自分事ではないと関心を持たず、誰かがやってくれるとたかをくって、そうしてるうちにハナの効く者たちに良いところを奪われてきた結果なの。ソイツらにしてみれば、こんなやり方があるのに、みすみす見逃している者たちを、その位置に甘んじているおめでたい奴らだと蔑んでも、かわいそうにと同情することはないのよ」
 カズさんの言うことは正しいのだろう。もっと世の中は優しいひとが多く、弱い人を助けてくれるひともいると信じていたい。そうでないことも多々あったがそこに目を向けていないだけだ。
 クラスメイトたちは学級委員なんて面倒なことを、誰も率先して引き受けようとはしなかった。ほっとけば我こそはとリーダーシップを発揮する子か、目立ちたがり屋な子がやってくれる。選挙になったとしても、どちらが当選しようが構わないので、盛り上がっているのはふたりだけとタカをくくっていた。
 そうして自分達で放棄しておきながら、何か事が起きれば学級委員の言うことを優先しなければならないし、先生もお前たちが選んだのだろと、その方向で舵を取ることに苦痛を伴いはじめる。先生もその方が管理しやすいため、それは生徒が自ら作り出した先生の傀儡政権の様なものになった。
 面倒事を避けるために権利を放置したことで、かえって面倒や増え、束縛されることのなる。そうすると、みんながやりたいようなアニメっぽい演劇や、流行の歌での合唱はことごとく却下され、先生好みのありきたりな日本昔話の出し物や、押し付けられた文部省推薦曲を歌う羽目になった。そこには意見交換のうえでみんなで作り上げられた、多くの想いが詰まったものではない。
 今までに何度も目にしてきた、今まで通りの出し物を、今までと同じように行なう。過去をなぞっているに過ぎない不毛な時間。そんな時を過ごしてはじめて、自分達の判断の安易さに気づく。
 今の社会がそれと同じ状況だとすれば、時を経てばまた同じことを繰り返しているだけなのだ。子供の頃から学んでいても、いくつになっても変わらないのは、むしろ同じことと認識していないし、枠組みが大きいだけに、関わることにますます躊躇してしまっている。
 その結果が後戻りできないところまで来てしまい。権力者のしたり顔と、学級委員を思い通りに扱う先生の顔が重なってくる。
「いつかやろうは、永遠にしないのと同じこと。何かをはじめるには多くの労力が必要で、どうしてもその一歩が踏み出し辛い。それなのに自分がやらない言い訳を探す労力の消費は厭わない」
「それは、、 」スミレには思い当たる節が一杯あった。
 部屋の片付けをしなかったこと、頼まれていたお風呂掃除をしなかったこと、デパートの催しに友達に誘われたけど、興味がなかったが話を合わせるために、行くといっておきながら、適当な言い訳をして最終的に断ったこと。みんなめんどくさくて、やりたくなかったのが先に立った。
 そしてその代わりにしたといえば、部屋でゴロゴロとマンガを読んだぐらいで、気づけばあっという間に時間が過ぎただけだ。自分ながらに言われたことはやるべきだったし、守るつもりのない約束ならしなければよかったと反省した。少なくともムダな時間を過ごしたという後悔はなかったはずだ。
 約束を反故して過ごしても落ち着かず、単に消費されるだけの時間になってしまったのだから。
「一事が万事、成功の元は細部に宿る。おろそかにして良いことなど何もないの。そうして楽な方へ流されて行って、気づいたときには、自分の首を絞めている。そりゃねスミレぐらいの子どもに、完璧を求めるのは酷だとは思うよ。私だってこれまでどれほどできてきたかわからないし。年寄りの経験を赤ん坊にそのまま引き継ぐことができれば、世の中はもっとマシになるんだろうが。神がそうしなかったのは、古びた経験が新しい挑戦への足枷にもなるからかな。恐れを知らない若者が、時に思いきって、これまでタブーとされてきた新しいことに挑戦して、未来を切り開いてきた。予定調和と、日和見では、そんな勇気を削ぐことにもなる。バランスがとれているんでしょうね」
 カズさんは、一般論を言いながら、スミレに奮起を促している。何故に自分がスミレの前に現れて、多くの事を伝えようとしてるのか。赤ん坊に引き継ぐことはできなくても、未来ある子どもに託すことはできる。
 古くはそれを祖父や、祖母が担ってきた。学校では先生が直接的ではなくとも、想いを込めてきた。画一的な教育が推奨され、老人は排除され、個性よりも同じ考えをもつことが最善とする教育のもとで、権力者に都合の良い被支配階級を大量生産してきた結果が、今の世界だった。


昨日、今日、未来22

2024-03-03 18:06:07 | 連続小説

「わたしはどうすればいいの。ひとりじゃ、なんにもできないよ」
「そうねえ、みんなそう思ってるでしょ。だから何もしない。そして何も変わらない、、 自分の世界なのにね。変えようと思えば変えられるのにね、、 」カズさんはそう言った。
 自分の世界だと言われても随分と極端過ぎて、全てを受け入れることができない。誰かの見た目が若くなったり、年不相応に成長したりなんてことは、これまで体験したこともなければ、聞いたこともない。
「そうね、体験していないのも、聞いていないのも、みんなスミレが主体としてのことだからね。それ以外の人たちには、それ以外の世界があるんだから」
「そうなんだろうけど、、 カズさんは、どうしてそうやって、わたしに伝えようとするの?」
「それはね、、 」 おやじさんが代弁しようとする。「、、 それは、スミレちゃん、君が望んだからなんだとしか、言いようがないんだ」
 結局そこに行きついてしまう。自分が望んだと言われても、肯定も、納得もできない。自分の望んだとおりに世界が動けば誰も苦労しない。事実なっていない。そんなことができるのは神様ぐらいのものではないか。
 カズさんは目を閉じて澄ましている。スミレがそう考えるのも当然だといった面持ちだ。
「腑に落ちないのも無理はないけどね。人は唯一無二なんだよ。スミレはスミレであり、それ以外の誰者でもない。それはつまり神と同じなんじゃない」
 またまたカズさんは、とんでもないことを言い出した。
 人が神と同じなら、この世は神だらけで、神だけが存在している。では普段、自分達が祈りを捧げているのは誰なのだ。それが隣のおばちゃんであったり、おじちゃんでも変わらなくなってしまう。
「それは概念が違うんだよ」と、おやじさんが口を挟んできた。
 なにかこれまでの飄々として表情ではなく、厳格な物言いに変わってきた。例えば祖父とか、師匠とか、そういった人生の酸いも甘いも知り尽くした人が言っているように聞こえた。
「それも概念ね。神と言う言葉はスミレにイメージしやすくするために使っただけで、従来の定義とは別のところにあると考えて。アナタを理解できるのはアナタだけで、アナタを信じられるのもアナタだけ。アナタが理解すればそれは全て真実であるし、アナタが信じればそれは全て可能になる、、 なんて言われてもピンと来ないでしょうけどね。なにもアナタを説得するつもりはないのよ。そうね、いくらなんでもね。ただ、スミレがそれを信じるようになれば、少しは生きやすいように変わるんじゃないかしらね。少しはね、、 」
 信ずれば実現できる世の中を、誰も信じないから実現できていない。自分の人生なのに誰かが何とかしているのだろうと、他人事になっている。カズさんはそう言いたげだった。
「わたしが望んだから、カズさん達と出会えたとして、わたしが望まなかった場合、ふたりはどうなっていたのかしら? だって、カズさんの言う通りなら、みんなの人生がわたしのために有る訳じゃないでしょ?」
 そこがスミレには釈然としない。その人たちはスミレに人生を問うたりしない。ましてや都合よく若返ったり、もとに戻ったりもだ。
「そうねえ、スミレだってお友だちを介して人を紹介されたり、クラスで一緒になったから知り合ったり、それに知らない人と不意に出会うことだってあるでしょ。そんなとき、いちいちその人がなぜ自分と出会ったのかなんて考えないでしょ?」
 人生には影響を与える人が何人かは現れるものだ。それは例えば、学校の先生、クラブの顧問、歴史の偉人、芸術家でも、アーティストでも。心を震わす言葉を与えてもらい、人生の分岐点になったりする。
 なぜ自分の前に現れたのかとは疑問を呈さない。理屈ではわかるが、それにしても今の状況に当てはめようとするには無理がある。
「刺激が強すぎるのもよくないものでね。印象には残るけど、その分、警戒心もわきやすい。自然な状態で相手の心に入り込める方がいいけれど、スミレはもうその段階じゃないでしょ?」
 乾いた心に染み込ませる言葉は、多少浮わついていても効果がある。我が道を得たりと気持ちだけが先走り、得てしてそんな時は言葉に惑わされて失敗してしまうものだ。
「それでいて本当に大切な人との出会いに、人は時として鈍かったりする。素直になれない自分が、そのチャンスを遠ざけてしまう。多くの場合、そうなる方が多い。それは恋愛についても同じことがいえる、、 ねえスミレは恋したことあるの?」
 恋愛と言われてスミレはドキッとした。自分はまだ異性を好きになったことがない。
 アキちゃんは、ユータのことが好きでスミレに相談してきた。その時にスミレは誰が好きと聴かれて、ただ黙って場の雰囲気を壊さないようにするためだけに、隣の中学生のマサト君と答えた。
 別に好きでもなんでもなく、その人しか思い浮かばなかっただけだ。好きな異性がいないと変に思われるとか、わたしが教えたんだから、あなたも教えてくれるよねといった、通過儀式的な囲われ方に反発することができなかっただけだ。それなのにアキちゃんは、年上を好きになるなんて、しっかり者のスミレらしいねと言った。
 スミレは自分がまわりから、そう見られていることに愕然もした。取って付けた言葉が自分らしいと言われ、それがしっかり者とか称賛に値するなどあり得ない。
「誰にだって自我はあるし、個性を押し付けられることに反発したり、でもねそれも全部、、 やっぱり、自分なのよ」
 それ以前に、その場を取り繕うために、親友に適当な人を好きだと言ってしまう自分もイヤだった。そしてもっと言えば、スミレがそうなってしまう一番の要因が、好きな人を自分の狭いコミュニティから選ぼうとする視野狭窄な心理にあった。
 それがホントに好きな人が近くにいただけなのか、この中ならこの人がいいという消去法からなるものなのか、それを自分に相応しい人と誤認識しているようで、自分にはしっくりとしなかった。
「身近にいるひとに好意を寄せるのはごく普通な行動で、例えばそこに恋敵がいれば否が応にも希少性が高まってしまう。今手に入れないと自分のモノにはならないと不安に駆られるからね。スミレはそんな集団心理に巻き込まれるのを恐れているんでしょうけど、、 」
 何かこれまでにない視点から指摘を受けてスミレはドキリとした。自分がその輪に入って同じ人を取り合ったりする競合を無意識に避るために、興味のない振りをしているのだ。物欲しそうな自分を誰にも晒したくない気持ちを認めたくないがために。
「、、 とはいえ実際に広い世の中から探しだそうとすれば、それ相応の労力と時間を伴い、あまたの人の中から最も愛せるひとりと出逢うのは、まさに砂漠でダイヤを位の確率でしょうね。労力にかける返礼を、実際より大きく見積もってしまうもので、あとから落ち着いて考えれば、果たしてそこまでの価値があったのかって、、 それで本人が満足ならば回りが口を挟むことではないでしょ。それに、それほど時間をかけているあいだに、なにか正解のポイントか軌道修正することもあるからね」
 ここでも、自分がどこで折り合いをつけなければならない。現状を受け入れるのか、自分の選択に満足できるのか、そこが問われていた。どちらが正解だとは誰も決められないのだ。誰か別のひとを満足させるために自分が生きているわけじゃないのだから。
 まったく世の中はわからないことだらけだと、スミレは嘆いた。
「そうね。上を見ればきりがないし、下を見ても同じこと。最良の決断をしたとしても、あとで失敗だったと後悔することだってある。永遠に求め続けるか、これが最適の判断だと自分を信じることができるか。誰もがその判断をしかねている」
 これもまた当たりハズレがあるということだ。人生すべてにおいて何が出るかわからない。置かれた環境を呪うより、生かされた奇跡に感謝すべきと言われている。
「失敗を成功に変えるのも自分次第なのよ。何でも他人任せにしていれば、何時だって誰もが被害者になれる。今の自分の境遇を愛せた者は、それだけでも幸せになれると、スミレは信じられる?」
 確かに自分の身に降りかかるすべての事象を、避けて生きていけるはずはない。 どうしたって困難に立ち向かう必要性もあるだろう。それが自分の選んだ先に発生した場合に、どのようにして乗り越えるのか。それを受けて境遇を愛せと言われても、すぐにその境地に達することは難しいだろう。
「そりゃ、カズさん、いまのスミレちゃんにそれを求めちゃ酷ってものですよ。カズさんの時代にはそれこそ親が決めた相手や、権力者の利権のために見も知らないところに嫁がされるなんてのが当たり前で、誰もがそうであり、選択肢は限られていたはずです。この時代の自由な恋愛が可能な人たちに同じように考ろといってもアタマがついてきませんよ」
 カズさんは寂しそうな顔をした、時おり見せるその表情は、嫌なことを思い出しているのか、自分の思いが伝わらないからなのか。それだけでなく、最も深淵な問題を嘆いているようにもみえる。
 この流れでいくと、果たして自由な恋愛が正解なのかも怪しくなってきた。好きに選べるからこそ何も選べない、いっそ誰かに決めてもらった方が楽であると言い出しそうだ。
「そこが選択のジレンマなんでしょうね。それでいて感情が大きく左右される局面は人間を虜にしてしまう。好きになって付き合って結婚してという概念と、結婚して初めて知り合ってから愛を育んでいく概念。この世界には二分の婚姻のあり方がある。どちらが正解なんてことはない。それで自分が幸せかどうかは本人が決めることだからね」
 恋愛だとか、結婚感とか、まだずいぶん先の話しであるはずなに、また本質的な部分のみを語られて、スミレとしてはたまったものではない。
「カズさんはそれでしあわせだったの?」スミレの問いは、カズさんが結婚していて、自由恋愛ではない前提で訊いている。
「おっと、だいぶ時間を過ぎてしまったようです。ワタシはそろそろ失礼しますよ」
 おやじさんはそう言って、部屋を出ていってしまった。なんだか二人に気をつかって退場したようにもみえる。
 急な別れにスミレはもうおやじさんに会うことはないのだと知った。あのおいしかった食事を思いだし生つばを飲み込む。
 キジタさんも同様に突然現れて、スミレに大切なことを教えてくれた人たちは、突然姿を消していく。それが自分のためだけでよいのかわからなくなってしまう。そしてカズさんも。
「私たちも出ようか」カズさんは別の扉を開いて出ていってしまった。急いでスミレもあとに続く。
「わたしは幸せだったよ」カズさんはそう言った。
 外に出ると見慣れた風景に戻っていた。スミレたちが出てきた建物は雑居ビルで、階段を降りると駅前の通りは帰宅を急ぐ人で賑わっていた。
 その言葉を聞いてスミレは少し安心した。散々いろいろな人生訓を聞かされて、その本人がただ辛い人生だったなら、この先になんの希望も持てなくなってしまう。
 カズさんはすっかりもとのおばあちゃんに戻っていた。からだを動かすのにも難儀してるようで、しかめっ面をしている。スミレも小学生の姿だ。身も心もスッキリとして、からだが軽くなった気がした。
 子どもが無意味に元気なのは、明日のことをなにも心配しなくてもよく、昨日のことを後悔することないからなのかもしれない。
「なにがどう幸せとは具体的に言えないけど、自分を信じて、自分で決めてここまで生きてきた。失敗したことも多くあったけど、それで成長できた。何処までで十分とかは、自分で決めればいいだけだからね。わたしは十分やってきたと言い切れる」
 スミレは自分が同じようにできるのか今は不安しかない。誰もそんな自信を持って生きているはずはない。日々を生きるのが精一杯か、まだ先のことだと嵩をくくっている。
 これほど多くの情報量を一気にされても何から手をつけていいかわからないし、わかったとしても何から手をつけていいか、まさにお手上げ状態だ。
 アタマを抱え込むスミレが先に歩いていき、あとに残るカズさんは遠くをぼんやりと眺め、夕日に染まるその表情は苦悩を映し出していく。


昨日、今日、未来21

2024-02-18 17:37:17 | 連続小説

 隣の席の子同士が言い争いを続けている。お互いに自分の言い分を相手に認めさせようと、独りよがりな主張をやめようとしない。
 それは端から第三者として見ているからそう見えるだけで、当人達にとっては、自分が正しいと信じている意見を受け入れない相手に、教えてあげようという優しさが、やがて何度も言ってもわかってもらえないイラだたしさに変わっていく。
 お互いの意見は間違っていないし、大筋では同じ方向性であるのに、ふたりには別の主張に聞こえているかのように反発を繰り返している。少なくともスミレにはそう聞こえる。
 そういったボタンの掛け違いは、話している内容の争点にズレであったり、好き嫌いや、こう聞こえた、聞こえないなど多岐に及んでいる。
 一度ずれた会話はその主題を主張し合うより、いつしか相手を言い負かしたい、相手に言い負けたくないという趣旨に変わってしまっている。
 そんな子どもがするような言い争いが、大人の世界でも変わりなく繰り広げられている。まわりは争いを止めようともせず、どちらの言い分が自分に都合よいかを判断して、どっちに乗るか反るかを判断している。
 自分たちの有益を優先するだけで、他人のことなどこれっぽっちも考慮されてない。
「それがこの世界です。すべてを愛せればいいんですがね。個別ではなくすべてを。そしてすべての事象を受け入れられれば。そうすれば争うこともなくなるでしょう。だが人はそこまで寛容ではなく、それだけの許容も持ちあわせていないんです」
 そんなことを言われても、スミレには信じがたかった。何かを愛すことが人の争いを導いているならば、ひとは救いどころのない。孤独に生きるしかなくなってしまうではないか。
 カズさんは、おやじさんとの明確な役割分担でもあるかのようにそこで口を開いた。それはスミレに教鞭でもとる学校の先生のようだった。
「おやじさんの言うことをすぐに理解するのは難しいわよね。あなたは自分のまわりで、自分の理解の範疇でないことが起きると、どうにかしてそれを自分の理解の範囲内に収めようとするでしょ、、 ムリしてね、、 そうして人との対立を避け、自分の本心を殺していく。でもね、これも、、 そうね、スミレが乗り越えなきゃいけない壁だと思って」
 スミレにもわかっていた。常にそれに押し潰されないように抗っていた。遊ぼうって連絡をしても、友達から返事が来なかったこと。クラスのグループ分けで、一緒のグループになろうねって言われたのに、最後まで声をかけられなかったこと。先生に授業中、頑張ってるなって、みんなの前で声をかけられたのに、期末にもらった通知表は、それほど変化がなかったこと。そんな幼い頃に経験した過去のわだかまりが浮かんでくる。
 すべて自分の理解の範疇を越えていた。そんな時、どうしてそうなのかの折り合いをつけるために、自分の納得する理由をひたすら探した。
 そうでなければ自分のどこが悪いのかと追いつめてしまう。理由を探してもそれが正解なんて保証はどこにもないのに、それが正解でなければならないと決めつけていた。
 もし自分がそういう行動を取ったとき、それはきっとこういう理由があり、だから仕方がなかったのだと納得いく理由がなければ許しがたがった。いつしかそれは他人に転嫁されていく。
「スミレは自分をそんなに追い込まなくてもいいんだけど、まわりを自分の理論だけで決めつけてしまうのも止めたほうがいいんじゃない。自分中心すぎると世界が小さくなちゃうからね」
 世界は自分のモノで、自分次第で大きくも、小さくもなるのだ。
「もしアキちゃんが変なおばあちゃんにひきづり回されて、色んな世界に行っていたからって、アイドル雑誌を一緒に読もうと約束してたのに、行けなかった言い訳にされても信じるわけない。そんないいわけをされたら逆に頭にきちゃうね」
 カズさんは、ちょっとムッとした。”変なおばあちゃん”が気になったのだろう。こんな稀な例えをするのもどうかと躊躇したスミレだったが、一番いい例えであるはずだ。
「そうでしょう。スミレ。人それぞれに都合はあるものなの。それを自分だけの論理にはめ込もうとしたって無理が生じるだけなんだから、、 」
 カズさんの論理に丸め込まれそうで、釈然としないスミレだった。カズさんを立てようと気を遣ったつもりも、余計な言葉が影響してか、辛辣な言葉を浴びせられる。
「じゃあこう考えたらどう? 世界では今も色んなことが起きているでしょう。心温まるようなエピソードも、信じられないような悲惨な出来事も。スミレが何したって、何の影響も及ぼさない彼方での出来事は仕方ないと切り捨てられて、すぐ身近に起きたことは、理由付けがないと収まらない。すべては自分の範疇を越えた出来事なのにね」
 自分ですべてを解決しようだなんて、おこがましいにも程があるのだ。誰もそれほど自分を気にしていないし、自分が影響を与えているわけでもない。
「それなのに、誰もが自分が主役にでもなった気分になって、これ知ってる人、天才みたいな文句であおってるでしょ。それを認識できている自分を売り込みたいだけの、自己顕示欲の発散になっているだけなのにね。スミレも彼らと変わらないんじゃないの」
 そこまで言わなくてもとスミレも口を歪ませる。それはカズさんが、そこまで思い込まなくていいと、エールを送ってくれているのはわかっている。
「みんな誰かと違う何かになりたい。それはいいんだけど、方法が誰かの足を引っ張るとか、誰かより優れていることを誇示することで達成できると勘違いしてしまう。そんなことより、誰かの役に立つことを少しでもできたら、スミレの世界は彩り豊かになるでしょうね」
 難しくないことだ。誰かの役に立てて、感謝されれば自分も嬉しいし次への意欲につながっていく。そんな単純な循環ができない。
「これでおやじさんが言いたかった答えにつながったんだね」カズさんがうなずいた。
 おやじさんが続ける「それができたとしても、日常化していくと別の刺激が目についてくる。もっと簡単に、もっと早く、もっと大量に手に入れようとする。そして善行と同じように、悪行も人に高揚感を与える。それがやられたら、やりかえせの循環をも増幅してしまう」
 そうであれば、ひとは永遠に成長できはしないではないか。例え多くの経験を次の世代がそのまま引き継げたとしても、悪い循環まで引き継がれれば事態は悪化するばかりになる。
「そうね、それに、ひとはなぜかやらない理由を探したがる。何かを変えるのは大変な労力がかかるし、変えない方が楽だからね。変えないための労力は惜しみなく注ぐのに、その方がかえってムダな労力を割いていると実感できない。新しいことを成し遂げるには多大な犠牲も伴うけど、乗り越えた先には、これまでの経験で得られなかった新たな体験が間違いなく待っている」
 スミレはそこでひとつの疑問がわいた。変えるにしても、変えないにしても、労力をかけた分だけの見返りが、実の有るものであったかを保証するモノではない。
 変化を阻止したり、変革を起こしたことで満足することと、そうなった現実が良い社会かどうかは別のはずだ。
 カズさんが舌打ちをしたように見えた。おやじさんは腕を組んでうなづいた。
「そう、それが対立という構図の悪いところなんだ。わたしも彼と対立せずに、共に高まればよかったんだ。お互いに良いところ、悪いところを認め合い、補えあえば、つまらないイガミ合いにエネルギーをつかうこともなかったのかな。わからないけれど、、 」
 おやじさんはそう前置きして「、、 彼がもし、ワタシへの対抗心をエネルギーに代えて、今の仕事で成功したならば、それも間違った方法ではないのかもねえ」そう言った。
 確かにそういった事例はこの世界に事欠かない。変化うんぬんより憎しみを動機にすることで成功するならば、それが正解となり、かけた労力も報われるはずだ。
 カズさんは、ニヤリとイヤな笑いをした「何を持って成功と呼ぶかは、人それぞれだけどね」そんなふうに納得しかけたスミレを、再び迷宮に舞い戻すような言い方をする。
 おやじさんが調理人になって失敗したわけでもなく、彼が航空プロジェクトの一員で成功したのかは、本人以外はわからないのだ。
 スミレはハッとした。なんだかおやじさんを、敗者であるような前提で話してしまっていた。
「ごめんなさい。わたし、決めつけたような、、 」
 おやじさんは、やさしい顔で首を横に振った。
 自分が望んでいる世界にスミレは生きているとカズさんに言われた。そうであれば自分の思い通りになっていいはずなのにそうではない。でもこれが自分の望んだ世界であり、未来になっていくと言われている。
 それならば、スミレを含めてひとりひとりがすべきことは、ひとつしかないはずだ。
「そうなんだけどね。そう、うまくはいかないからね。それに、人にできることは限られているから」
 次の子どもたちに経験者の知識が伝わらないように、いまのままではカズさんの人生の経験はスミレには引き継がれないのだ。
 辺りは夕暮れにつつまれていった。家に帰らなければ母親が心配する時間だ。それでもスミレは帰れない。もはや景色は変わりすぎて、ここがどこなのかもわからない。そしてなぜか帰らなくても大丈夫な気がしている。
 スミレの時代の時の流れは止まったままであるはずだから。