最後になってしまうはずの試合であった。そのつもりで闘っていたし、リングに沈んだあとはもう、その先はなにもないはずであった。
兄弟に立ち向かいそうになったとき、エマに寸でのところで抑えられた。そしてそのあとでかけられた言葉。たんなる慰めの言葉だとしか思えなかった。
毎試合あとがない覚悟で挑んできた。今更もう一度とは言い出せなかった。兄弟はアオイによそよそしい態度を取るようになった。あのとき突っかかったことで、アオイはふたりに顔を合わせるのがキツかった。
いつだって負けたら終わりだと、そんな覚悟を毎試合背負っていた。敗者ではジムの看板にはなれない。辞めると言っても止められもしなかった。
これまでなら、これで終わりにしていただろう。もう一度挑戦しようという気持ちにはならなかった。好きなことを極められなかった要因がここにある。
同じことを繰り返していたら、何も変わらない。自分が納得がいかなければ、自分で変える必要がある。誰も自分の行き先を変えてはくれない。
リングでグローブを重ねた時に、得も知れず同じ境遇であるように感じた。エマともう一度やりたい。そんな思いが沸々と湧いてきた。
抑えきれない気持ち。ごまかそうとするほど、それを越える闘争心が溢れてきた。したこともない恋愛感情に近いのかと笑ってしまうほど。
現実にしてしまえば、これまでの自分はなんであったのかと後戻りしてしまう。自分に従順であるべきか、それとも排除してもいいのか。
いつしか脳が膨張していき思考能力は低下し、なにも考えることができなくなっていった。そうすると自分の本心だけがむき出しになった。
気がつけばフラつきながら電車に乗り込み、モタつきながら電車を降りた。自分の意思とは切り離されたカラダが勝手に動いていく。
そうしてエマのジムの前に立っていた。その時、心臓が破裂するほど緊張しているの気づいた。それなのにドア開けてしまった。そこから先は覚えていない。そしてアオイは今、エマと同じジムにいる。
アオイは専属トレーナーとなったユウヘイと、対話を重ねて練習メニューを構築していった。ユウヘイは練習の量は抑え、質を上げて、オーバーワークにならないようにまずは気を配った。
放っておけばいつまでも練習しているアオイである。気づかないうちに溜まる蓄積疲労も侮ってはいけない。コンディショニングを一定に保つこともプロとして気づかっていかなければならない。
論理的に練習の意味合いを教えてくれるユウヘイに、アオイはこれまでにない信頼感を得ることができ、同時にひとつひとつの練習への取り組みも、細部まで気を配るようになる。
アオイの動きを分析して、ポイントに焦点を当てて的確に指摘される事もあれば、アオイからの疑問にも、納得できる答えを見つけ出してくれる。
そうやってお互いが意見をぶつけ合って、練習内容を組み立てていく。自分から積極的に意見を言うなど、これまでになかったことで、自分にこんな一面があると知って、それもアオイには新鮮であった。
一日中、何をしていてもボクシングのことを考えるようになっていった。仕事をしていても、ついシャドウの動きをしてしまう。アオイがボクサーと知らないまわりから驚かれると、顔を赤らめて必死にごまかす。
ユウヘイとのマンツーマンの練習を重ねていくと、自分が成長していることを実感できた。確実に昨日より強くなっている自分がいた。申し訳ないがあのまま兄の指導を受けていてもこうはならなかった。
そのうえでエマに勝つための戦略をふたりで考えた。エマの最大の武器はスピードだ。前戦ではこれまで体験したことのないスピードで、一気にダウンまで持っていかれた。
少しでもスキを見せようものなら、あっという間に中に入られ、パンチの連打を浴びることになる。あの時の衝撃、恐怖は、今も思い出しても背筋が冷たくなる。
打ち勝たなければ先に進めない。そう思うほどアオイはそれを払拭しようとして、練習が止まらなくなってしまう。
そんなアオイを落ち着かせるために、ユウヘイは逆にエマの弱点は何かをアオイに問いかけ、洗い出す作業に取りかかる。
アオイの見立ては、パンチが軽いことと、スタミナ不足をあげつらった。そう思う要因をユウヘイが訊く。
確かにノックアウトはされた。最後の決定的な一打は、ワン・ツーでグラつかされて前のめりになろうとしたところを、下から突き上げるカウンターをモロにくらったためだ。
その前のワン・ツーもしっかりと顔面を捉えられたのに、さほどダメージはなかった。最後の一打のための呼び水でしかないようなパンチだった。
それをカバーするために強化されたスピードなのか、スピード重視のためのパンチへの配分なのか。ユウヘイは専属トレーナーでなくとも、これまでのエマを見ていれば、アオイの判断に同意できた。
そしてもうひとつ、スタミナに難があるのも間違いない。ラウンドを重ねればスピードも落ち、パンチ力もさらに弱くなる。そこはアオイの見立てと一致していた。
そのため1ラウンドで見切り、2ラウンドで勝負をつけるためのボクシングをする。それができてしまうのも、類稀なスキルを持ち合わせているからできることではある。
スタミナがないから早めに勝負をつけようなど、簡単にではない。あの試合で持久戦に持ち込もうとしたアオイの判断は、間違えではなかった。
それなのにエマのノラリ、クラリとした戦法に、アオイは何か急に集中力を崩してしまったように隙ができた。そこをエマが見過ごすはずはない。
アオイの話しを聞いているうちに、その理由がわかっていった。観客の目が力になること知っているアオイは、あまりにもそこに依存しすぎて、期待に応えられていない時に、今度は足枷になっていく。
それを見透かされて、エマに手を抜かれて、焦ったところで一気にたたみ込まれたのが反省点であった。エマのセコンドについていたユウヘイも、そこは気になった。
その部分で一喜一憂しないように、最終的に観客の期待に応えればいいと、考えを変えるメンタルトレーニングも取り入れた。
それを後押しするために、アオイの持つストロングポイントをユウヘイは説明した。1ラウンドの最後に見せた、ガードするエマの肘を押し込み、ボディにダメージを与えるほどの力強いパンチのことだ。
あれでエマは、ますます2ラウンド目に勝負をかけなければならなくなった。トウジロウからも、必ずここのラウンドで決めてこいと指示が出ていた。
アオイのパンチは見た目よりもはるかに破壊力がある。ガードで抑えたと思ったエマに衝撃を与えるほどであった。
見た目とは結構大切な要素で、強いパンチが来ると思えばカラダも身構えるし、それに対して反応もできる。フワッとした攻撃をされると、どうしてもカラダにも、気持ちにも隙ができてしまう。
そこに予想以上の打撃が加わると、ダメージも増幅する。ならばスローに見えるヘヴィなパンチを更に進化させる。それがふたりの一致した意見だった。
兄は年齢のせいもあって、どうしても自分の言う通りにやれば良いというタイプであった。アオイは何よりも、こうした戦略的なコミュニケーションを取りあえることが嬉しかった。
それと同時にメグの存在も良い影響を及ぼしていた。パンチの重みを増すという課題に対して、効果的なカラダの使い方をいくつか提案してくれる。
アオイがしっくりきて実戦に取り入れようと思ったのが、足への体重の乗せ方の意識だった。当然のことながら、軸足より前に体重がのれば、前のめりになり、足元から力が抜けてしまう。
後ろにのれば腰が下がり、それこそパンチに力がこもらない。パンチが最大限にパワーを発揮する軸足の置き場を、カラダに覚え込ませる。それがアオイの課せられた課題だった。
どの体勢から打ち込んでも、軸足から腰にリングからの反力を受けて、その力が腕から拳まで、もれなく伝わっていくようにする。
メグに両肩を支えてもらい、やや前傾気味になって足を踏み出す。力が抜けていると、肩から伝わるのでメグに指摘を受ける。それを1mm単位で調整していく。
そうやって理想的な体重移動をものにしていく。1gでも相手に与えるダメージを増加したい。一発でもクリーンヒットが当たれば確実にノックアウトできるように。
そんな後ろ盾があればメンタルも落ち着くという相乗効果を生み出していた。ただ、自分の能力が高まっていくのを感じるほどに、エマもあの時のままであるはずがないと言われているようであった。
果たしてエマは、メグからどんな指導を受けているのか。より鋭いスピードを身につけているのか。それとも自分と同じようにパンチ力の増加を図るのか。
パンチが軽いとか、スタミナがないとかは、過去のエマだ。次のエマが同じだという保証はない。自分が体現できるなら、エマもまた同様になる。
同じ成長では差は縮まらない。いや追い越さなければ勝つことができない。アオイは持ち前の継続力を生かして、地道な努力を積み重ねていくしかなかった。
ユウヘイやメグというブースターを得て、存分に自らの能力を最大限に引き上げる。その作業に没頭していくことですべての不安を払拭していく。
結果が出るのはリングの上だけだ。これほどまでに充実した日々を送れていることにアオイは感謝していた。エマに出会えたことも同様だった。
再びボクシングをすることも、今いるジムを辞めて、エマのジムに移ることも、これまでなら意思を曲げている自分を恥ずかしく思い、できなかったであろう。
ひとつのことをやり続けられたのも、やめてしまうことが自分の弱さだと認めてしまうようで、怖かったからだとも言えた。
アオイ自身それが勇気だと言えるのか分からないが、とにかく自分で決意して、進むべき道を切り開いたのは間違いない。
愚直に続けることが必ずしも正になるわけではない。変わることでそれを正にすれば良い。他の誰かにとってに正ではなく、自分のこの先にとっての正であれば良いのだから。
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