ボクシングジムがそこにあった。
昔であれば汗くさい熱気のこもった薄暗い室内で、明日のチャンピオンを目指す若者達が、黙々とトレーニングを続けていた場所だった。
今では明るい室内に、流行りのサウンドが大音量で流れるなかで、女性達がボクシングを原型としたエクササイズを笑顔で楽しんでいた。
あの殺伐とした雰囲気を知るトウジロウは、隔世の風景が未だに馴染まない。事務室のドアを開けて現場の様子を見る度に、開けるべきドアを間違えたのではないかという、何度も訪れる既視感が未だに拭えない。
彼女たちは、日ごろのうっ憤を晴らすかのように、奇声をあげながらサンドバッグにパンチを入れ、ダンスを織り交ぜたシャドウボクシングで、気持ち良い汗をかいて明日への活力にしているようだ。
トウジロウがドアを閉めると直ぐに、すごい勢いでドアが開いた。下がり気味の眼鏡の上から裸眼で目をやる。
「すいません遅くなりました!」と息を切らして膝に手を付きアタマを下げているのは、トウジロウの一人娘のメグだった。
「遅かったな、メグ」トウジロウは席に戻り、少々嫌味を含めて言う。
そして来週行われるイベントのチラシの刷り上がりを確認をする。確認と言っても何か気になることがあるわけでもなく、おざなりな作業だ。
大学生のメグは学校が終わったあと、アルバイトとしてここで働いている。大学に行きたかったら自分の金で行け。金を稼ぐならここで働け。それがトウジロウの出した条件だった。
さすがに以前のジムなら、働くのも二の足を踏んだろうメグも、きれいに改装され、流行りのスポーツジム然とする今ならば文句のつけようもなかった。
「ごめんなさい、どうしてもやらなきゃならない課題があって」と説明する。
「よかったな。ウチのバイトで、、 」トウジロウはそれ以上を訊くつもりもなく、訓戒を込めてそう言った。
親ということで多少の遅刻は大目に見てもらえると、気持ちのゆるみがあり、ちょくちょく大学の行事を優先しているところもあった。それが行き過ぎてはどちらにも不都合になる。
返す言葉がないメグは、早速仕事に取りかかる。トウジロウはパソコンなどの機器に疎いため、そういった作業全般をメグが担っており、実質的な運営をしている親会社からの連絡事項などを順序よく処理していく。
「お父さんもさあ、少しはパソコン覚えたほうがいいよ。急ぎの用件があったら困るでしょ?」
キーを打ちながら遅刻を咎められたことにかけて、自分が居ないと困るだろうと示したい「これなんかさ、早く返事がほしいんじゃないの?」。
メールのひとつを表示して、画面をトウジロウの方へ向けた。チラシから目を上げて、目を細めて画面を覗き込む。
「ああ、それならちょっと前に電話があった。それで進めてもらうように伝えてある。向こうも心得てるさ、必要なら電話してくる」
「ふーん、じゃあ、回答済で返信しとくね」メグは画面をもとに戻して、パチパチと手早くキーを打ちはじめる。
トウジロウはメグに、それが終わったらお茶を淹れてくれと頼んだ。こんなことを頼めるのも身内だからで、その点は楽をさせてもらっている。フッと息をつく。
昔ながらの商店街の一画に、異彩を放つように当時のボクシングジムは存在していた。
当時は開け放たれた窓からは熱気がほとばしるなか、通行人や買い物客が物珍しさもあって、冷やかしやら、興味本位とかで、鈴なりの人だかりが絶えなかった。
人目があれば活気づき、練習にも力が入る。練習生の応募もひっきりなしにあった。メグも子供のころ母親に連れられて何度か来たことがある。
トウジロウはオンナ子どもの来る所じゃないと、ジムの中に招き入れることはなかった。扉先で要件や、頼んだものを受け取るだけだった。
メグも鋭い眼光の男達が、黙々と鍛練している姿を見て、怖いと思ったことはあっても、楽しいと感じたことはなく、母親がお使いついでに声をかけても行きたがらなくなった。
商店街が寂れてくると、ジムの練習生も減っていった。シャッター街になった頃には、開店休業状態になっていた。
ジムを畳もうかと考えていた時に商店街に大手の資本が入り、商店街はショッピングモールに、ボクシングジムは美容と、健康に特化したエクササイズジムに変貌した。
事前にマーケティング調査を徹底的に行い、女性専用にしたのが功を奏して人気を博しており、かつて女人禁制の場は、今では男性禁制と逆の立場になっていた。
当時からは考えられないそんな場所にトウジロウがそのまま店長として残ったのは、トレーナーとしての肩書きを必要とされたからだ。
この道20年の名トレイナーで、誰もが知るチャンピオンを発掘した人物だと、リニューアルされたこのジムのホームページにも掲載されていている。
その選手が実際にチャンピオンになったのは、大手のジムに移ってからだ。筋を見込んで育て上げて、移籍を申し込まれるまで育てあげたのは間違いない。多分に本人の才能があったからというのは否めない。
今は本社から練習内容についてアドバイスを求められると、それに回答するぐらいで、それ以外はチラシの確認や、店番兼雑用をしているだけだった。
ジムにいても生徒に直接声をかけることもなく、本社から派遣されているインストラクターが一切の実務を行っている。入会してしまえば必要とされることはないようだ。
トウジロウがざっと目を通しただけのトレーニングメニューに、チャンピオンを育てた名トレーナー監修と書かれていた。そういう肩書きだけが必要で、最初は上から、たまにジム内をうろつくだけでいいと言われていた。
以前、気の強そうな女性に声をかけられて、本格的にやってみたいから、パーソナルトレーナーとして見て欲しいと言われたことがあった。
何処かでトウジロウのことを耳にして入会してきたらしい。そう言われてから本人に気づかれないように、陰から少し動きを見てみたが、とてもモノになりそうにはなかった。
格好ばかりでとても身が伴っていなかった。何より貪欲さが少しも見受けられなかった。
そのことをインストラクターに相談したら、苦笑しながらコチラで対応しておきますと言わた。
それ以来、あまりジムの中を歩き回らないようにと、本社からのお達しがあった。
トウジロウにしても、相手を倒し、勝つためのボクシングしか教えてきたことがない。カラダを動かすことを目的とした女性にかける言葉は持ち合わせていなかった。余計な仕事が減って清々した。
「なんか気になるの?チラシ」トウジロウがチラシを見たまま、考え込んでいるようにも見えたメグが声をかけた。手元には淹れたての緑茶が置かれた。
手刀を切って礼を言い緑茶を啜る。高級な茶葉だった。ジム内で使用する物品はすべて本社から支給されてくる。どれもいい品ばかりだ。
週に一度、担当者がやってきて内部のチェックをおこない、備品の補充やら、機材のメンテナンスをしていく。清潔感を保っていなければ女性会員の満足度は維持できない。
これまでのジムなら、ヤカンに入った出涸らしの番茶しか口にしたことがなく、備品はどれもかれもツギハギだらけだった。
トウジロウにはすべてが贅沢すぎた。それはお茶や備品に限らず、すべての待遇がそうであり、ハングリーさとは無縁の環境が整っている。
そんな中で、自分を見てくれと言われてもしっくりこない。この環境では真のボクサーなど生まれてこないというのは偏見なのかもしれないが、トウジロウにはどうしても受け入れることができなかった。
手元のイベントチラシにも、自分の名前と写真がこれ見よがしに載っている。これが今の自分の価値なのだ。実態はなくとも虚空でカネが稼げてしまう。
自分では思いもつかなかった評価基準を誰かが見い出して、それを商品として売られているのだ。自分のところに金が回ってこない理由がよくわかった。
買収話しが持ち上がった当初は、トウジロウはジムはもゆ手放して、引退することを考えた。いつまでも過去にすがりついて仕事を続けることを良しとせず、踏ん切りをつけるつもりでいた。
そんな折に、妻のアヤが事故で急死してしまった。あの時のトウジロウは、とても見ていられないほどに憔悴していた。これから苦労かけた分をつぐなっていくつもりだった。
その機会をあたえられなかったことに必要以上に責任を背負っていた。家にいても魂の抜け殻のようで、それを心配したメグが会長のユキに相談していた。
メグも突然母親を亡くしショックを受けていたのに、そんな父親の沈んだ姿を見て、自分が悲しんでいる状況でなくなってしまった。
何か気を紛らしておかねばトウジロウも落ち着かなかった。ボクシングの他にこれといった特技が他にあるわけでなく、今さら他の仕事をいちから覚えるのも難しい。
娘のメグと、会長のユキの助言もあり、少しでもボクシングに携わる仕事ととして、スポーツジムの雇われ店長としてこの場に留まることにした。
メグもバイトをしながらトウジロウの様子伺いもでき、一石二鳥だった。トウジロウもそこは察しており、大学の勉強から、家事の面倒までみているメグに、ある程度の遅刻や早退は大目に見ているところもあった。
妻の死を紛らわすために続けた仕事であっても、そんな緩やかな働き方をしていてはどうしても物足りなさを感じてしまう。
少し前まで命を削るように、若者と対峙してきた感覚は直ぐには消えることはなく、生活のためとはいえ、今の働き方に満足できるトウジロウではなかった。
「それでね、、 」メグが学校の話題を色々と話していてもトウジロウには上の空だった「、、 新しい商品価値を提案するために、必修として学んでみたいの」。
誰もが人を出し抜いてでも、楽な道を進もうとしている。挑戦の先に成長があるとしても、いつまでも気長にそれを待ってはくれない。人が思いつかないことを生み出して、はじめて人より抜きに出られる。
それもまたトウジロウのこれまでにない価値観と、成功体験の事例だった。自分の思いもしないことが金になる。自分がこれまでにしてきたことは何だったのかと愕然としてしまう。
「ああ、いいんじゃないか、、」トウジロウはそんな言いかたしかできない。
メグもまたそういった新しい種類の人間になっていくのだ。そういう時代をこれから生きていくためには必要なことなのだ。
メグはトウジロウに何かを期待して伝えている訳ではない。大学の単位のなんたるかを知るはずもないのはわかっている。自分の将来について少しは気をかけて欲しかっただけだ。
メグもまたこのジムの変貌に関わって、今後はこういったビジネスが求められていると肌で感じていた。父親には悪いと思いつつも、本社のやりかたなど実践として勉強させてもらえて好都合だった。
チラシの確認が終わって、手持ち無沙汰になったトウジロウは、生徒の申込書がファイルしてあるバインダーを棚から取り出し、整理をしようとして昨日のことを思い出した。
メグはメールのチェックを終えて、郵送物の仕分けをはじめているのを見て。トウジロウは一番下の引き出しに突っ込んだ、シワの寄った申込書を取り出した。
エマとだけ氏名欄に書かれていた。名字なのか、名前なのか判断できない。最終学歴に中卒と殴り書きしてある。生年月日から年齢を計算すると16歳だとわかる。
トウジロウはあたまを掻いた。――ガキじゃねえか。――
「気ぃつかわせて、悪かった」マリイは、沈黙のことを、涙のことを詫びているのだろう。
「いや、オレに配慮がなかったから、、」その原因を作ったのは自分であるというのがエイキチなりの言い分だ。
今度はチェアを倒さずに、エイキチの後頭部にハサミを入れはじめた。やはりカラダを休めるつもりはないようだ。エイキチは訊いてみた「いいのか?」。
「そういうのはキライだ」マリイはエイキチに、服を引っ張られたような錯覚を覚えた。
エイキチは頷いた。シャキ、シャキと、ハサミの刃が重なる小気味いい連続音が鳴っていく。自分の仕事を続けろという意思表示に聞こえる。
代理人の指示の意図は何なのか、傍受していたやり取りと、どうつながるのか、またはつながらないのか。
まずはウラで動かしている、データ処理を画面に戻した。あれからも例の件についてのやりとりは続いており、その内容が画面に表示されていく。これまでになく混乱して慌てた様子が見て取れた。
いったい何が正しいのか、エイキチはそれを知りたい欲望に駆られていた。飛び交う情報を目で追っていく。そこには多くの意味合いが含まれているようで、捉え方は様々にありそうだった。
「マリイ、いいんだ。オレには体裁を整える必要はない、、」エイキチはそう吐き出した。
キーボードをたたく手が、いつしか止まっていた。いつもなら一心不乱に解析にのめり込んでいくはずだった。耳元で鳴り続ける断続的なハサミの音がそれを妨げている。
誰とも会わずに、ここにひとりで生きていても、多くの情報が溢れて処理しきれないでいる。故意であるのか、偶発的なのか、わかるはずもなく、それが惑わすためなのか、正当性があるのかとまで疑ってしまう。
いつの間にか思考はマリイのことに行き着いていく。結局自分もマリイと同じだった。ふたりで協働して、制約だらけの街なかを、1秒でも削って駆け巡っている時だけが生を感じることができた。
「何を賭けるつもりかしらないけど、言葉の意味はひとつじゃない。そしてどちらが嘘かなんてわからないんだから」マリイは言った。
エイキチたちの残りの時間は、その走りをするための下準備でしかない。難攻不落のゲームをしているような感覚。必死にそれと向き合っている時は、何か充実しているような錯覚に陥っているだけで、終わってしまえば何も残らない。
それなのに、そこにかけた時間を否定することが怖くて、次の獲物を探し、攻略を続けてしまう。いつしかやりたいことが、やらなければならないことに変わってしまっていた。
だからなのか、難しいミッションをこなしたあとにくる、高揚感を上回る寂廖感が日々重たくなっていた。いつまでも同じことを繰り返してはいられない。
「そうだな、誰だって欲望を隠したがるものだから、、」エイキチが返した。
物事には必ず終わりがあるのだ。成功の体験が大きいほど、そこから逃れられなくなっていく。引き際や潮時を見誤れば人生を間違えるだけだ。出来ることをやり尽くしたならば、卒業しなければならない。
マリイとエイキチは囚人のジレンマに近い状況にあった。どちらかが下りれば、もう一方も巻き込まれる。それは、どうしたって言い出した方に過重がかかる。
そして何より最大の問題は、今の関係が維持できなくなることだった。仕事は辞めたい、でもここで一緒に暮らしたいは通らない話しだ。
今のような収入を得るのは、自分達の置かれた状況で、特にエイキチに取っては困難だ。その環境を準備してオーナーは彼らにこの仕事を担わせいる。
絶対に代替の利かないのは、仕事もこの環境も一緒だった。オーナーはそれをわかったうえで、うまく自分達を利用しているようにもみえる。そして自分達もそこに依存している。それがこの世のすべての仕組みであるように。
マリイの手がエイキチの耳を覆い、そこにハサミを入れていく。自らの悪しき考えから、耳を閉ざせと言う示唆であるかのように。
悪く考えれば確かにそうなってしまう。そうでないことの方が多いのに。いまはネガティブな方が先に立ってしまう。偏った方向性に流されているのは危険な状態とわかっているのに。
オーナーは自分のような人間の、得手の部分を活かしてくれている。マリイも街なかで、意味もなくスピードを追い求めているだけの暴走車だった。他のクルマや、ひとに迷惑をかけるだけの存在だ。
それを必要をする人やモノを結びつけ、ビジネスにつなげたのもオーナーだった。マリイが苦手とする代理人も、耳に痛い言葉がなければ、取り返しのつかない大きな事故を起こしていたかもしれない。
それが同時にマリイが束縛を感じている要因にもなっている。物事には必ず表と裏が一体化している。どちらに傾くかはその時の自分の状況に左右されてしまうものだ。
前髪を摘ままれて、そこにハサミが入っていく。前髪を作られるのはエイキチは苦手だった。髪を結んでいたときは、オールバックにしていた。
これまでもマリイは、流したり、真ん中で分けたり、細かく交差させたりと、色々なアレンジを試してきた。形が決まらないのは最終形を模索しているためか、どれも似合わなく迷走しているのか。
エイキチは、どれもそこそこ様になっていると満足していた。それなのにその評価を下されないことに気をもんでいた。マリイはただ単に、楽しんでいるだけなのかもしれない。
エイキチはマリイが楽しめないのならば、この仕事を続ける意味がないと考えていた。
そして、やはりマリイも同じことを考えている「それが自分たちの、ある意味運命だってわかってるだろ。それでいいと思ってるんだ」。
ここはどうしたって自分が負荷を抱えることになったとしても、マリイの気持ちを優先させたい。そうしなければ自分の存在価値がないだろう。そうやって自分のやるべきことを無理やり実行しようとしている。
モニターに気になる言葉が並んだ。”ホントに、殺るのか?”。よくある誤変換だ。”陸ではオボ練だろ”話し言葉であれば、その傾向は一層強まることもある。
マリイは再びチェアを倒した。エイキチは完全にモニターから隔離されてしまった。強制的にすべての情報からシャットダウンされた。マリイが意図してしたことではなく、それに意味があると思えた。
もはやアタマの中で考えをまとめるしかない状態になり、それもまた硬直した思考には有効に働くこともある。
電子レンジで温めたタオルをエイキチの口まわりにあてる。じんわりとした温かみが気持ちいい。スプレー缶のシェイビングクリームを手にとって、額や瞼のあたりに馴染ませる。
剃刀を滑らせてクリームを削いでいく。眉の周辺はゾリッ、ゾリッと抵抗感のある音を立てる。自分の顔が無防備に侵略されていくのはいつだって不思議な感覚だ。
無抵抗な状態が継続していくと、それが却ってなにか包容感に覆われていくようであった。本当はそうでなくとも、それが本当であると信じてしまう。
知られたくない情報を隠すには、それより大きな嘘をつくしかない。代理人に言われたことを自然と思い起していた。
外交と軍基地がどう結びつくのか、そこが鍵となるはずだ。必要以上のことを知らせない代理人は、そうやってエイキチがどこまで本質に近づけるか試してくる。
まんまとその仕掛けに乗ってしまうのも癪だが、エイキチにも好奇心と少しの意地もある。あってはならないことが起こりそうな気配がある。逃げる先があればゴリ押しも可能だ。
マリイも同様に代理人から色々な拘束を受けて、それを超える走りを生み出して来た。今日の走りなどその最たるものだった。
それが達成感や高揚感につながるかは別だ。何か自分達の能力が上手い具合に使われているだけで、ともに成長しているような共有感はなかった。これからも同じことが続いて行くのであれば、そこに何の希望も見えてこない。
データの検索に頼らずに、いくつかのキーワードを思い出して、過去に該当事例がないか思い起こす。嫌な予測しか出てこない。
偏ったバイアスに傾いている。サンプルケースがあると、それが正解という前提で、その後の解析を進めて行きがちになってしまう。
前例はあくまでも前例であって、判で捺したように継続していくわけではない。それこそ、以前にない方法、以前とは逆の方法を行使することで、過去にとらわれない新しい視点が目付けできる。
エイキチはそんなあたりまえの教訓を、無理やり自分に啓蒙していた。該当事例から推察される進化系や、相反する案件を含めて集約していき、在りえもしない状況を無理やり創ろうとしていた。
タオルを置いたところ以外の剃毛が済んだので、タオルを外し、柔らかくなったあごひげにクリームを塗っていく。物事には何にしろ準備が必要だ。そうすればすべてうまく行く。
毎朝、電気カミソリで剃っているものの、やはり剃り残しや、髪の生えぎわは疎かで、ひとの手を使って行うとでは仕上がりが違ってくる。
ひと通り終わると、クリームを剃りあとに塗布して、顔中をマッサージしながら伸ばしていく。そのあいだは顔が揉みくちゃにされて、なすがママになる分、そのあとの爽快さがいっそう際立ってくる。
もはや何も考える必要はない。答えを出したところで何かできるわけでもない。何かができるのはいつだって選ばれた人間だけだ。自分達はその一部を動かすために働いているだけだ。
チェアを起こすマリイの表情は満足げだった。鏡に写してエイキチに確認するでもなく、自分がこれで良いと思える形になればそれで良いようだ。
「オレは一緒に居たいんだ」ディスクまでチェアを寄せながらエイキチは言った。返事はなくとも顔を見ればわかっているのに聞いてしまう。
エイキチの後ろに回ってシーツを外すマリイ。シーツをはたいて床の髪の毛を片付けだす。やはり何も言うつもりはないようだ。
エイキチはキーボードをたたきだした。サンプルになるデータは膨大にあるので、その集計には時間がかかる。
自分で組み上げたPCでは演算速度が追いつかない。カットのあいだに走らせていた処理がまだ続いていた。そのあいだに現地の経路の見直しをする。
自分達がやることだけを考えればいい。それで何が起ころうと、単なるバタフライエフェクトでしかないのだから。
「ひとりで居たいんだ」そう言って道具を持って、マリイは自室に行ってしまった。
その時間差にエイキチも吹き出してしまう。マリイらしいと言えばその通りだ。
Pホテルと基地との最短ルート、迂回路、安全ルートなどをデータベース化していく。それが終わると過去5年間の交通状況を洗い出す。
特にこの日に起きた、特記するような出来事がなかったか検出する。ひとつ気になることが目についた。今日は、通り道となる神社で奇祭が執り行われる日だった。
神木が神社に奉納されるため、通行止めになる区間があり、その迂回のために近隣の道路も渋滞となるのは確かだ。
21時に解除される予定だが、最悪を考えれば、最短ルートは使えない。ルートを2−3考えておいたほうがよさそうだ。ホテルは裏口からの搬入になる。物流の搬入口に横付けすることを想定したルートを考える。
燃え上がるのはこれからだった。
事務所の裏口から中に入って行くマリイ。エイキチは医療用のチェアーに座って、インカムをつけた状態で幾つも並ぶモニターを目で追っていた。
事務所の扉を開けて中に入ってきたマリイに、おつかれと声をかける。マリイは軽く手をあげるだけで、冷蔵庫を開けて飲み物を物色しはじめる。
「なんか飲む?」そうエイキチに問いかける。自分は炭酸水を取り出してコップに注いだ。
「いいや、間に合ってる」エイキチは、そう言って点滴のチューブを指でさした。
フーンと、小さく何度かうなづき冷蔵庫を閉じる。次の仕事が入るまではここで待機となる。マリイはイスに座って炭酸水を含み渋い顔をする。
「金一封出たってのに、浮かねえツラだな。走りも良かった。もっと喜んでもよさそうなもんだ、、 」
エイキチはヘッドフォン一体型のインカムを外した。マリイからの返答は期待していない。次の仕事に備えてモニターのチェックを怠たらず、キーボードを操作して詳細を表示してはデータをインプットしていく。
モニターに集中していたので、いつの間にか背後にいたマリイに気づかなかった。髪を少し引っ張られて、目線が上を向く。天井のシミは前の持ち主からの残こし物だ。
ケイサツの交信が、モニター上に文字起こしされており、気になる文面を目で追っていたところだった。ところどころで誤変換があるのは御愛嬌だが、そこから発想が転換されたときもあったのでバカにできない。
「カミ、切るよ」
エイキチの髪は左右が非対称になっていた。昨日の空き時間にマリイがカットをはじめたところ、出動要請があり途中になったままだ。
外出もしないし、ひとに会うこともないエイキチは、そんな状態で生活していても何ら支障はなかった。
元々、髪型を気にするタチでもなく、わざわざ人の手を借りたり、自分自身も労力を掛けてまで髪の毛を切りに外出する選択肢はなかった。
これまでは伸ばした髪を後ろで束ねておき、一定の長さになったら自分でカットしていた。
マリイと仕事をする様になってから、ここで共同生活をはじめると、髪の毛のことをとやかく言われるようになった。
だったら切ってやるよとマリイが言い出し、それからはマリイが気の向くままにカットすることになった。
「また、飛び込みが入るかもな。いつになったら完成するか、、」
そんなエイキチのボヤキも聞かずに、マリイは道具を取りに行ってしまった。自由になったエイキチは、さっきの文章を探してカーソルを当てる。
キーとなる文字をドラッグし、それに類似する項目の検索を進める。いくつかの関連項目が呼び出された。これは通常の検索エンジンではヒットしないケイサツや、諸官庁の内部情報のみが表示される。
映し出された内容に、身を乗り出し文面を目で追う。何やら大きな政治的な動きがあるようだ。それが今日なのか、明日なのか、今週のいつかなのか。それによってマリイの動きも変わってくるはずだ。
今いちばんの話題と言えば、Pホテルで先進国が為替について会談を行っていることで、一般国民にまで関心が及んでいる。いずれにせよどこかのタイミングで代理人からの連絡が入るはずだ。
そんなことを考えていると、何か気になることでもあるのかと、戻ってきたマリイに声をかけられた。文面に気を取られて、再び背後を取られていた。
「いつもの内輪もめだろ、、」そう言ってモニターの画面を別の内容に切り替えた。
マリイも訊いただけで、エイキチが調べていることに対して関心があるわけでもない。PCのバックグラウンドでは、引き続き関連事項の抽出が続けられている。
持ってきたシートで上半身を覆い、タオルで首元を巻き、カットの準備をしはじめる。自分もエプロンを着け、霧吹きを使ってエイキチの髪を湿らせる。
手のひらでカバーして、顔に水がかからないようにする仕草は、自分がされた時の経験からか、どこかで知り得て練習したのか、それっぽくだんだん板についてきている。
チェアの傾斜を横になった状態まで倒して、マリイも椅子に腰掛ける。マリイの顔に見おろされる態勢になり、目の向けどころに困ったエイキチは目を閉じた。
昨日と同じように、目線が合ったり、マリイの顔を至近距離で見ることができなかった。通信での会話では、言いたいことも言い合えているのに、面と向かった今の状態では言葉が滞ってしまう。
何を意識することがあるのかと、この接近環境に慣れない自分を笑ってしまう。新しい環境は、いつでも自分の未知の領域を教えてくれる。
マリイは粛々とカットをはじめる。自分の中にそのルーティンがあるかのように、順番になすべきことをおこなっていく。濡れた髪をクシで撫でつけ、指で挟んだ髪にハサミを入れる。
やるならば徹底的にやる。それがマリイの流儀だった。誰にも見せることのないカットにも、ドライビングと同様に手を抜かない。自分が目にするからだ。やらないなら手をつけない。
ザクッと小気味いい音がして、カットされた髪の毛が、シーツの上をシューッと滑り落ち、床に落下する。
アルデンテになったパスタの芯のみを切り刻む感触が、エイキチはアタマ越しから伝り、マリイは手から感じられる。
切り終えた時の快感にも似た痺れを、ふたりは時を同じくして、肌につたって行くのを感じていた。それがなぜか相手も同じように感じているとわかっていた。
カラダの芯が熱くなっていく。自分では制御でいない潮流がうねり出す。
「オマエ、ホントはもう、やめたいんだろ?」何かを言わないとエイキチはおさまらなかった。
マリイの方から何か切り出すとは思えない。マリイの手が止まった。事務所内の空気の振動が止まった。無機質な電子音がノイズのように耳に届くだけだ。
再開する気配がなく、どうしたのかとエイキチは目を開いた。目の前にアタマ越しに座っている、逆さになったマリイの顔があった。
その表情からは、何も読み取ることはできなかった。運搬中のマリイの心理状態や、行動パターンは推察することができているのに。そして、それはほぼ予想通りの結果を得られているのに。
普段の言動や、行動は別物なのだ。何ひとつ見えてこない。ポツリと涙が落ちてきて、エイキチの唇を濡らした。感情のない顔がその涙の意味をより深くしていた。逆さだからそう見えるのかもしれなかった。
マリイは指先で唇についた涙を拭った。自由のきかないエイキチはされるがままだ。もし、マリイがエイキチを殺そうと思えば、何の抵抗も受けずに実行できてしまうだろう。そしてその逆もまた可能だ。
そんな不揃いなふたりだからこそ、わかりあえることもあり、相容れないこともある。負い目を感じたまま、ここまで生きてこざるを得なかったエイキチに、自分からそれを行使しようとする選択肢はなかった。
そしてマリイから、なんらかの判断が下されようとも、それを受け入れる用意はできていた。
ピッピッというアラートがなった。代理人からの呼び出しだ。エイキチは今のままでは自分でインカムを装着することはできない。立ち上がったマリイがディスクに駆け寄り、インカムをエイキチに渡す。
エイキチに顔を見られないようにして目を擦っていた。自分の感情とは別のところで、涙がこぼれてきた。絶対にそんな姿を見せたくない相手であるのに、今日の様々な出来事が自分を狂わせていた。
寝かせていたチェアをもとの状態に戻して、モニターの位置まで移動させる。それはエイキチでも出来ることでも素早く行うにはマリイの手が必要だ。軽く手をあげて礼を言う。
エイキチの後頭部はまだ不揃いのままだ。
『どうした?』代理人が問うてきた。呼び出しに時間がかかったた理由を訊いている。
ちょっと頭痛があったから、インカムを外していたと答えた。そんな理由など、どうだってよく、ようは仕事中はインカムを外すなと言う警告に過ぎない。
『どうやら政局が大きく動きそうでな。今夜がヤマになりそうだ、、』エイキチの回答について、なにも言わないことがそれを物語っている。
やはりPホテルの件が関係していると、すぐに結びついた。代理人もエイキチが色々なニュースソースにアクセスして、多種多様な情報を得ていることは気がついている。
ただそうして出回っている情報が、どれだけ精度が高いかは別物だ。代理人はいつもエイキチがどこまで知っているか、どの情報を正しいと判断して準備をしているのか、試すような言い方をしてくる。
そして何が正解だったかはけして口にしない。
マリイが箒で髪の毛を集める、さーっ、サッサという音が聞こえだした。マリイのインカムでも、この会話は聞くことができる。エイキチは早めに切り上げたい。
「そうですか。で、何処に、何時に張ります?」エイキチも自分の情報は漏らさない。代理人の言葉から何が正しいかを判断していく。
『20:00にヨコスカBだ。状況により市内に戻るケースもある』
「Bですか!?」エイキチが思わず反応してしまった。
Bは基地のことだ。エイキチは会議が行われている市内のホテルだと思っていた。
『何か気になることでも?』代理人が試すように訊いてくる。
マリイが箒を持ったまま、エイキチに寄り添う。「いえ、別に、、」エイキチに言えることはない。
『マリイ。聞いてるだろ? しばらく出突っ張りになるだろう。寝れる時に寝ておくんだ』
代理人の警鐘はよく当たる。それがマリイを縛り付ける要因になっている。
「わかった」無言だと何度も繰り返えされるので、そう返事する。
『何か動きがあれば連絡する。エイキチも、それまではカラダを休めておくんだ』
それは必要以上に、この件に対して詮索するなと言う警告だった。
「はい、そうします」そう言って通信が切れるのを待った。エイキチから先に通信を切ることはない。
しばらくして通信は切れた。エイキチは再びインカムを外して髪の毛をかきむしる。毛に挟まっていた切髪が、パラパラとシーツに舞った。マリイがブラシで髪を漉く。絡んだ髪が梳き解れていく。
「すまない」そう言うエイキチに頷いて応えるマリイ。
「休んでろよ。それが今おまえがすべきことだろ」
髪をひと通りはらったマリイは、それには答えずエイキチの背後に立ち肩に手を置いた。そうは言ってもエイキチも、はいそうですかと眠れるわけではない。マリイも同じであろう。
マリイの涙の意味をどう取るべきか。エイキチには、それも重くのしかかっている。取り敢えず間を置くにはタイミングのいい連絡にはなった。
『90で!」時速90kmをキープすれば間に合うと言ってきた。
その言葉を聞きマリイは90kmに乗せる。急いでいれば、もっと踏み込んでもよさそうなところでも、必要以上にスピードを出さないのは、必要な距離で止めるためにハードなブレーキを強いる羽目になってしまうからだ。
決めたクリッピングポイントを取るためにブレーキをドカンと踏み込んでしまえば、タイヤがロックして逆に制動距離も長くなる。タイヤも傷むし、ブレーキにも負荷がかかる。
ブレーキパッドが過熱してしまえば、このあとでどうしても酷使しなければならない時に、思ったように止まれなくては意味がない。それがエイキチの考え方だ。
このクルマで、最短の時間で目的地につく手段をトータルで考えて、クルマに極度の負担をかけ続けることは避けなければならない。
これまで自分の思う通り、好きなように走ってきたマリイには、最初はそれがよくわからなかった。速く走り、短い距離で止まり、すかさず加速する。それ以外に何が必要なのかわかっていなかった。
マリイの視界は前方を広角に捉えている。大通りのクルマの流れ、人の行き交い、バイクや自転車の有無をチェックする。エイキチからの情報と掛け合わせて、リスクを最小限に抑える走りができるよう準備は怠らない。
いくら速く走れても事故を起こせば元も子もない。必ず止めれるタイミングをポケットに入れておく。そのためにも、クルマに負担をかけない走りが必要になる。それがエイキチの教えだった。
確かにこれまでは最初のうちは速くても、後半にダレていくことが多かった。クルマが言うことを利かなくなっていくのがもどかしかった。それが自分の所為だとは知らなずにいた。
歩行者信号の青色が点滅しはじめるのが目に入った。もうすぐ信号が黄色に変わる。左折するにはまだ余裕があった。
そのときエイキチが叫んだ。
「マルイチだっ!」マリイは頰を引きつらせる。
ひとりの歩行者が、左折先の横断歩道を渡ろうとしている。マリイの進入と重なる。このままだと歩道の前で一旦停止してやり過ごすことになり、ストップアンドゴーは時間の大幅なロスになる。
「マルイチも渡ろうと急いでいる。前に出るな。先に行かせるんだ」あえてエイキチは冷静に話しかける。
了解のシグナルをピッと鳴らす。オウとか、わかったとか、それだけでも口にしたくない時は無線で音を送るようにしている。交差点まで100mしかない。
エイキチの指示を踏まえて走りを変えていった。それで以前より早く現地につき、人を拾って送り届けることができるようになった。ひとりで走っていたら決して気付かなかったことだ。
マリイの位置からも歩行者が見えた。歩行者信号の青が点滅しはじめて小走りになった。ジワリとブレーキをみ込む。コチラの存在を気づかせてはならない。
クルマが左折してくると感づけば歩行者の足が止まる。そうなってはマリイも安全を期してクルマを止めなければならなくなる。アレをやるしかないと決断する。
今が良ければ、その先がどうなるか出たとこ勝負だったのは、なにも走りだけではなかった。マリイは以前よりも上手に生きていけるようになった。それが自分にとって正しいかどうかは別問題だった。
前輪に荷重が適度にかかったところでステアをあてて、リアを少しだけ横に滑らせる。横荷重を保ちながら、その動きを殺さぬようにカウンターを切る。派手なスキール音は立てない。
すかさずクラッチを切ってスロットルを戻す。エンジン音が無となり、惰性で左折して行く。先程のコーナーリングとは違うアプローチだ。
実際のスピードより、その残像はゆっくりに見える。だが速い。歩行者は信号の点滅に気がいっており歩みを早めた。その後ろをアルファは音もなく通り抜けて行く。
それは清風が通り過ぎて行ったかのように、歩行者の背後をかすめて行った。トルクがかかっていないクルマを制御するために、超絶のステアリング捌きでアルファを進行方向に向ける。
前を向いたところでスロットルを踏み込みながらシフトを2速に入れる。すぐさま回転数を合わせ、加速に必要なトルクを生み出すと、ケツを叩かれた跳ね馬のように、アルファは一気に前に押し出される。
信号を渡り終えた歩行者は、突然耳に届くその音に何事かと振り向く。その時はすでにマリイのアルファは視界から遠のいていった。通行人をやり過ごすための神業的な走行をアドリブで行っていた。
交通量の多い場所で目立つ走りは控えていた。それは代理人からの忠告があったからだ。完璧なミッションをやり遂げても、アタマにそんな呪縛が浮かんでいた。舌打ちをするマリイ。
いくら自由に走っているつもりでも、飼い犬のように首輪をつけられて、その範囲でしか走り回れない自分が無性に腹立たしかった。アルファは再び加速して車列に合流していく。
「すげえな。いつそんな走りを身に着けたんだ?」エイキチが言う。マリイは何も返さない。
どう対処するか、アタマの中で咄嗟に考えた。イメージだけが先行して、それを具現化するようにカラダが反応していった。誰にでも、直ぐにできるような簡単な走りではない。それなのに単純に喜べなかった。
何かと比較するわけでもなく。今できるベストなパフォーマンスを成し遂げたとき、マリイは何にも代えがたい喜びを感じられていた。エイキチの言葉から、自分の走りが磨かれていくことが心地よかった。
それなのに、やはり慣れていくのか、現状に満足できていないのか、飼い犬になりつつある自分が許せないのか、以前のように無のままに、自然と湧き上がる高揚感はなかった。
速く走りつつも、抑制している。自分の欲望よりも体裁を先行している。エイキチと培ってきた能力を、上から咎められないために使っている。
目的地には1分前に着くことができた。これ以降もエイキチの、ラリーでのコ・ドライバーがおこなうコーチングさながらの、適切な状況描写とマリイの鋭い状況判断でキレのある走りを繰り返し、通常では到達できない時間で約束の地に着いていた。
公園の入り口で男性をピックアップし、駅までの道のりは、法定速度で間に合うほどの時間を作ってしまった。
初老の男性は礼儀正しい人で、何度もマリイにお礼を言い、マリイもこれには閉口してしまう。相席になった女性にも、寄り道をさせてしまったことを丁寧にお詫びしていた。
客が相席になること自体はじめての状況で、慣れないマリイもどう対処していいかわからず、紳士然とした男性の取り扱いに苦慮してしまう。
金一封に気がいって、この状況まで想定できなかった。あまり早く着きすぎるのも良くないので、黙らせるためにスピードを出す訳にもいかない。
こんな時のエイキチは、客の取り扱いまでは業務外とばかりに無言だ。男性はどちらに話しかけるでもなく自分のことを話した。
どうしても乗らなければ間に合わない電車の時刻があると、その理由を切々と語っていた。返事をしなくても済むのは幸いだった。車内は三人のそれぞれの思惑の中で、混沌とした雰囲気となっていた。
男性を駅に届ける時には、よりスローダウンして、警官の目につかないように配慮する。男性が希望する電車の発車時刻には、余裕で間に合う時間に横付けする。
降りる間際に男性は、酷くスピードが出るから気をつけるよう言われたが、普段のタクシーより乗り心地が良かったと、笑顔で言った。
男性は満足だったかもしれないが、マリイには誉め言葉ではなかった。唯一の報いは、これで金一封を手にすることができただけだった。
なにか自分の気持ちを見透かされているようで、あとに残った女性客の存在がやけに疎ましかった。それはマリイが自分の本心を偽って、この仕事をし続けていることが紛れもない事実だからだろう。
クルマはモールの裏手に着けられた。ここが女性を降ろす場所だった。行き先はモールの中にあっても、クルマは進入することができない。そのため自分たちのガレージの出入り口になっている裏側に着けられた。
商店街からモールに仕様替えして、風景がどんどんと変わっていった。それはマリイが乗り付ける裏手側からも見て取れた。
寂れて落ちぶれていただけの商店街は、複合ショッピングセンターのようなショップも増えてきている。それがなにかノスタルジックな中に、真新しい最新の店もありといった、複雑な景色を作り出している。
近未来SFのロケーションだとか、異国の地にいるようだとかで好評らしい。変わりゆくモールがこの先どうなるか、変わった先が誰の望んだカタチになっているのか。表通りを歩かないマリイにはどうでもいいことであった。
女性客は、どうもとだけ言ってクルマを降りた。男性客を迎えに行く途中の高速運転の中でも、声をあげることももなく、ましてや気絶することもなかった。
それどころか、何か一部始終を監視されているように、マリイには感じられた。別れ際に何か言われるのではないかと、ここまでの道中は気になって仕方がなかった。
いまクルマを降りても、平衡感覚を失うことなく平然と歩いていく姿を見て、マリイは感心する一方で、彼女がいったい、このモールのどこに向かっているのか気になり、その後ろ姿を追っていた。
女性はそれに気づいたのかクルリと振り向き、マリイはバツが悪く視線を切る。
「ボクシングジムってどっち?」それを問うために振り返った様だ。
歩きはじめて思い出したのか、やはりクルマにヤラれて意識が朦朧としているのか。その言葉で気づいたかの体で目を合わた。
はじめてしっかりと見たその顔つきは、思ったより若かった。よく見れば高校生ぐらいにみえる。
自分と同じぐらいと踏んでいたのに、これでは気に掛けていた自分が、常に圧倒されていたようで、何とも格好がつかなかった。
マリイはすかさず西の方に親指を立て、正面から入って左に沿って歩けば見えてくると伝えた。女は軽く手を上げて再び歩き出していった。
「どうした?もう着いたんだろ」インカムからエイキチの声がした。
マリイは、ああとだけこたえる。ボクシングジムと言っても、今じゃダンス教室みたいになってしまったと聞いていた。
あの娘がそれを目的で行くとは考えにくかった。それもオーナーからの輸送依頼だ。しばらく彼女が歩く先を見ていた。本当にジムに向かうつもりなのか。そして途中で止めた。それを確認してどうなるわけでもない。
「気になるのか?」再びエイキチだ。
「別に、、」マリイはそそくさと事務所に向った。
もうこれ以上、自分の感情を推し量られるのは嫌だった。