private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over26.21

2020-04-26 11:42:56 | 連続小説

「ハゥッ ワンダフォ ライッ イッ ワイ ヨー リンダ ワー♪」
 なんか、ふたりでハモっちゃってるし、ふたりともいい笑顔してて、朝比奈の笑顔は今日二回目で、母親がこんな笑顔をしてるのを見るのは初めてだ、、、 たぶん、、、 こんな顔するんだって、息子のおれがなにも貢献していないなによりの証拠だ。

 母親の笑顔を見て思うのもなんだけど、おれが自分で自分が、まだ人間らしいなどという一面を感じるときって、他人が、人間が、楽しそうに笑っている姿を目にするときで、おれもまだ捨てたもんじゃないって、なけなしの良心を取り戻したりできる。
 そう感じるときって自分にとっても大切で、おれは朝比奈と一緒にいるようになって、そういう機会が増えたのは間違いない。一緒にいることで感じられるなら、それが一番目にくる意義なんじゃないかなんて、えらそうに思ってしまう、、、 与えられているだけなのに、、、
 そしておれは、同じくらいにひとが悲しむ姿を見るのは嫌いだ。おれ自身のハートが貧弱なせいもあり、そのひとたちの重みを受け止めるウツワもないからで、それなのにどうしても目がいってしまうのは人の不幸だ。
 それをみて自分はまだましだとか、そういう比較的な立場でしか、自分の幸せ具合を量れない、、、 子猫を見て、自分と比べているぐらいだし、、、 そんな自分が嫌でもゼロにはできない。だから少しでもひとが笑顔になっている場面で帳尻を合わせようとしている。なんだ、けっきょく罪滅ぼし的に、自分を正当化しているだけだ。
 朝比奈を見ていると、、、 一緒にいると、そんなのがひしひしと伝わってくるのに、おれにそれをおしつけるわけでもなく、諭すわけでもなく。ただ、いるだけで、おれにわからせて、考えさせている、、、 そう感じ取っただけで、その先はまだ見えていない。
 競争力を失ってしまったおれの走力を、肉体的補完したのがクルマだとしたら、カラダの延長線であり増強機能でもあるわけで、さらにはツヨシが言ってたように、未来を見せてくれる乗り物ならば、自分自身でかなえられないことをまやかしの力で手に入れられる物体であった。
 自分の足で走っているときにわきあがる多幸感は、一種の脳内麻薬だとか部活の顧問の先生に訊いたことがあるな。苦しみから逃れるために脳が自分をごまかそうと、はきだすホルモンが作用するらしい。
 昨日チンクで走ったときその感じがすこしだけよみがえった。これってもしかして、あの感じをもう一度取り戻すことができるのかって期待した。チンクを降りた時に、なんだか少し、ものさびい気分になった。
 そんなのが自分のカラダに入ってきて、アレルギー反応をおこしていたのかスッキリしなかった、、、 精神も肉体も変化している。環境に対応しながら、周囲にかき混ぜられながら。そいういうのが素直に入り込むときとそうでないときがあり、たいした技量がないのに、変なプライドだけは高かったりして、、、 
 子供のころ大好きなオモチャを取り上げられるような気分。ほとんど飽きてるはずなのに、それを認められない、親に悟られたくない、悟られればオモチャを捨てられてしまいそうで、そんな状況は自分の本当の感情がわからなくなり、オモチャを死守することだけを目的としていた、、、 不安定なまま、ありのまま、、、
https://youtu.be/tH9o2rd7dr0
 音楽はこころの壁をひろげてくれるようで、実体のない存在だからこそ、その力や影響力はひとによってそれぞれだし、無限の可能性を秘めている、、、 たぶん、秘めているはず、、、 だからモノを使って自分を大きく見せるより、気持ちが同調した方がおもしろい、、、 競争するより調和を目指す、、、 ケンカもできないようなおれにはピッタリだ。
 それにギターを弾いたとき、つぎのフレーズへの切り替えが、脳の指示を待たずして手が勝手に動いた感じって、走ってた時に感じられた快感ホルモンの放出に似ている気がした、、、 ほんの少しだけなんだけど、、、 てことは、弾き続けていけば、それをもっと多くを感じるようになってくるのか。
 それを求めて楽器を弾いてるわけじゃないから、その感覚に酔っていくのは正道ではない。感応が自分を越えようとするときって、すごく気持ちがよかったりしてその流れに乗っかっていって、どこまでも突き進んでいきたくなる。いつかそれを抑える新しい波が発生するのかわからず、感情をコントロールできていないジレンマに陥ったりする。
 スポーツと一緒にするもんじゃないかもしれないけど、練習や競争が日常化してきたあたりから鈍ってきたような気がする。自分を超えた感覚は日常のなかでマヒしていき、いつしかそこになんの感慨もなくなっていく。
 それを超えるとまた高ぶる感情に遭遇するのかもしれない。それがいまだけ感じられるものなのか、うまく弾けるようになってからも、同じように感じれるのか、それとももっと強くなるのか。はたまた鈍ってしまうのか。一流アスリートと凡人の差、そして一流ミュージシャンと手慰みの主婦との差、、、
「コロス ト ユウ」
 “殺すと言う”? あれ、反感かった? ああ、カーペンターズね。おれの皮肉は届いてないようで、ふたりはからだを左右にふりながらあいかわらずデュエットを続けていた、、、 メロディ聴けばわかるだろ、、、 きれいにハモってるし。
 母親もこの曲は得意なのか伴奏だけでなく、その間にいろんなメロディを追加している。そのたびに朝比奈の顔が明るく微笑む。口にしなくたってお互いがそうすることが普通であるように。
 そしてこの感じもいつか忘れていく。そんな違和感に途惑いながらも、なんだか新鮮であり、懐かしくもあり、初めて体験することって一生の中で唯一無二の出来事で、本当ならもっと大切にしなければならない体験なんだって、そんなのはあとから懐かしんでりゃいいのに、つまりはいつまでも感応し続けるってのは、この場合でも不可能ってことだ。
 いつだって身体がスピードになれていき、脳内での処理速度のなかに流されていく。それが正しい状態なのか。それを知って、新しい考えを認識し、これがひとの成長ってものなんだろうか。
「ジャ ラアク ミー ゼ ロン トッ ビ♪」
 リリリリーンッ。リリリリーンッ。
 最後のフレーズの途中で無情にも電話が鳴った。ふたりの歌をかき消すように、、、 とか、よく表現にあるけど、まさにそんな感じ、、、 おれが出るべきなのかって戸惑っているうちに、母親が「はい、はい」といつもの調子で行ってしまった。
 少し前まで10代の女の子と演奏をしていたとは思えない変わり身のはやさで、沁みついた主婦歴は簡単には捨てきれないみたい、、、 夢のコンボも現実には勝てない、、、 それなのに朝比奈はその結末を知っているような目つきだった。あのとき、夏休み前の教室で見たときとおなじ目つきだった。
 朝比奈はキーボードにビロードの布を敷きフタを閉じ、レースの飾りをアップライトピアノにかぶせ部屋を出た。もうこれで終わりなんだ。おれも電灯を切って部屋を出た。この光景はもう二度とやってこない、、、 そうそうあっても困るけど、、、 また見てみたいと思うものって、たいてい二度と起こらないから。最後に母親にお気に入りのオモチャをとりあげられた気分、、、
 電話の対応をしている母親の横を通り過ぎるとき服を引っ張られ、手つきでおれ宛の電話だとアピールしてきた。おれに電話なんてマサトぐらいしか思い浮かばなく、首をひねっていると、そのとき朝比奈がこちらを振り向いた。笑顔だけど、さっきのとは違う策略のあるときの笑顔だ、、、 だけど可愛い。単純なおれはそんなのでも、こころなごんでしまう、、、



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