日本経済がその成長を更に加速させてバブルと呼ばれる10年前の1975年、社会人としてその新しい世界への扉を開けた時、期待感もあったがむしろ日本社会が悪化してゆくことへの漠然とした不安が思考空間を漂っていた。果たして、その予感は的中してゆき、現実となってきた。今や、日本の良さはことごとく失われつつあり、モラルの破壊、いじめ、自殺や殺人の増大など病的な日本の状況を疑わない人はいないだろう。
1994年だったか、司馬遼太郎が週刊現代で、日本の未来が心配だと書いた。私が知る限り、知識人では初めてそのことを明確に表した。むさぼるようにそのコラムを読んだ。(その後、田原総一郎がサンテレで同様の発言をした。) 司馬遼太郎は「日本は難しい」とも書いていた。しかし、司馬遼太郎はその難しさの内容を具体的に書いていなかった。司馬遼太郎は、日本は解決すべき多くの問題を抱えながら、その解決が難しいために、日本の未来が危ぶまれることを言いたかったのだ。そのことは、直感的に理解できたが、具体的に何なのかが分からなかった。
日本は難しい。司馬遼太郎ほどの人物だから、その具体的な内容について確信が有れば、もう一歩踏み込んだ記述があったはずだ。そう考えると、日本の難しさを解き明かしてみたいとの思いが強くなった。このテーマは分かっているようで、明快に表現するのは簡単ではなかった。1998年ごろ、日本を形成する既得権構造の概念を得て、自分なりに納得できる回答を得た。
日本は官僚という最強の既得権組織を頂点として、その下に繋がる権力連鎖で形成されている。政府や役所の許認可を要する企業、非競争型の組織ほどこの性格が強い。既得権は本来アンフェアー、非合理的なもので、これを維持のために、更にアンフェアーで非合理的な行いがなされる。表面的には完璧で美しく、実は嘘が横行し、都合の悪い事実は粉飾され、隠ぺいされ、いつの間にか抹消される。
ベルリンの壁が壊され、東西冷戦が終了し、価値観や成功方程式ががらりとその方向を変えた中で、官僚は日本をリードすべき力を失いつつも、支配構造は営々と築き上げてきた。失われた10年と言われるが、実は官僚が繰り出したあらゆる手段は全く功を奏せず、いたずらに税金をばら撒いただけで負債が膨らみ日本の沈下が決定的なものになった。官僚は無能さをさらけ出し何の結果も出せなかった10年だったが、権力を構築することだけは必死で進めてきたのだ。
日本最高の官僚組織リードするのは東大の法学部をトップクラスで卒業した頭脳であるが、彼等がその実力を発揮するのは教科書の世界であり、実績・経験のない世界では歯が立たない。正確に言えば、彼等が自らを防御しつつ最大限の権力を維持するには、未知の世界には入り込めない。未知の世界では、学力無い人材と同じ条件・レベルで戦わざるを得ず、それ以上にミスを極端に恐れるのである。既得権組織では常に完ぺきを求められ、ミスは致命傷である。知識という曖昧な情報を駆使し、極めてミクロな世界で完璧を演出するゲームの覇者、それが官僚である。最高に優秀な頭脳を持ち、一方で比類のない巨大な欠陥を持ち合わせているのが官僚、および官僚組織である。
国会議員と言えども官僚には歯が立たず、日本国内において、官僚に並ぶ力は無い。同じく、非競争型・政府認可型のビジネス企業において、既得権構造は厳然たる力を持っている。すなわち、日本の社会では、アンフェアー・非合理が正しいことであり、これを正そうとすることが悪なのだ。日本人はそのことを実によく理解している。うっかり本当のことを言えば、たちまちいじめ、村八分、左遷、首切りとなりかねない。末端の組織までとんでもない悪行が実に違和感なく整然と実行される。この日本型悪行の例外は、表面化することだ。法律違反が表に出、警察が動くとトップが逮捕される。トップの逮捕が当たり前になってきたのはおそらく、1980年ごろからだろう。
日本の未来を切り開くには、最大のガンである官僚組織を改革することが求められるが、政府与党として長年政権を維持してきた自民党の最大の支援組織であり、巨大企業の利権とも強力に絡んでおり、それは容易なことではない。民主党など現在の野党が政権を獲得しても、予算に絡めて巧妙にたち振る舞いしぶとく生き続けるであろう。国民の下僕という理念とはかけ離れた、自らの欲得だけのために権力を増大維持し、未来の発展をの目を摘んでゆく官僚組織の存在こそが、実は司馬遼太郎の危惧した、日本の難しさであり、実現不可能な日本の未来発展である。