久々に仲間2人と江田島・呉方面観光。金曜日15時から海上自衛隊・元海軍兵学校の見学、翌日はヤマトミュージアムを見た。一度は行ってみる価値が有るお勧めコース。10分の1スケールのヤマト、本物のゼロ戦、戦艦陸奥(だったか?)の砲筒なども飾られ、退役した潜水艦も隣接。
日露戦争当時は武士が健在で優れたリーダーシップを発揮、兵士も勇猛果敢であった。その上、イギリスで外債を引き受けて貰うなどにより、辛うじてと言うか奇跡的な勝利を収めた。1000万ポンドの外債引き受け手が無ければ勝てなかった。その返済は1986年(昭和61年)の完済だったらしい。
日露戦争勝利が、更なる軍拡に向かうきっかけになり太平洋を挟んでアメリカと覇権を争うことになる。アメリカとの戦争はやむを得ない面も有ったとは思うが、無謀で、その始まりの真珠湾攻撃は、現在も、あるいは未来にわたる日米関係に非常に大きな禍根を残した。
当時アメリカでは国民の間に厭戦気分が強く、軍事産業をバックにした政治家は日本との戦争のきっかけを待っていた。全プランの中で、日本から戦争を仕掛けてくるのがベストだった。当時、日本軍は鹿児島湾を真珠湾に見立てて、日々、空爆の訓練を続けていた。
アメリカが日本軍の暗号を解読していたかと聞かれれば、当然解読していただろう。(イギリスが解読していたことが明らかになっている)その上で、願ったりの日本軍の情報を得た。そして痛恨の日本の過ちは、真珠湾攻撃の後に宣戦布告したことだ。国内では、宣戦布告文章が長すぎ解読に時間がかかっただの、大使館でパーティーが有っただの、諸説有るが、所詮身内の言い訳。
むしろ、私は宣戦布告が真珠湾攻撃後に出されるよう最初から計画したと思う。本来、ベストは1日前、最悪でも1時間前には宣戦布告しなければならなかった。もし、攻撃の1日前に宣戦布告すれば、アメリカは待ち構えていて、華々しい戦果は望めなかった。しかし、そうであれば、負けてもアメリカの日本に対する信頼は高かっただろう。勢いに乗って戦線拡大することも無かった。
アメリカは願ったりかなったりの日本のだまし討ちで、大がかりなプロパガンダを展開し、戦争へ駆り立てた。原爆を落とす理由にもなった。アメリカ軍事派の望む以上の、最高のきっかけを与えた。日本は一度走り出すと、官僚の常で止まらない。これで300万人の命が失われ日本は焦土と化した。
明治には健在だった武士道が、全く失われていた。山本五十六が英雄?とんでもない。日本はこれからも、重い十字架を背負わされるのだ。アメリカが世界を動かす構図は、旧英連邦、およびヨーロッパのバックアップで崩れない。
ニクソンが中国に飛んだ時、その対談内容の40%は日本だった。米中が、悪い日本をどう叩き、金を搾り上げ、繁栄を築くかは重要なテーマだったと推測する。アメリカは中国に、日米同盟で日本を軍事的に抑え込むと約束している。
私の感覚では、2011年秋までアメリカにとって日本より中国の方が信頼に足り、好感のもてる対象だったのだ。アメリカ人の多くは中国人が好きと公言していた。中国のミサイル24基が日本の主要都市などに向けられているが、表向き、アメリカはターゲットにはなっていなかった。米中が協力し、いかに日本の財産、製造力をそぎ、むしり取るかは特にビル・クリントン大統領時代の隠れた大きなテーマだっただろう。
現在も世界中のスパイや情報収集の専門家が日本に来て、堂々と簡単に情報を入手し、あるいはノウハウを盗む。中国スパイがアメリカの情報を盗むのも有れば、日本政府やトップ企業の高度機密情報も大量流出している。企業で最も成功した例はサムソン電子だろうね。
おそらく、政府首脳や政府内の情報は、当の民主党の議員より、アメリカや中国の諜報機関の方が詳しい。これまでも述べてきたが、アメリカ政府は官僚を動かせる。日本にはスパイ防止法が無い。これからどうなるか?アメリカと中国との関係は多少変わってくるが、日本のスパイ天国は永遠である。
江田島や呉で、資源の無い、科学技術の遅れた日本がいかに苦労し、軍事技術を培ってきたかが分かった。しかし、日本からの巨額のODAや日本製造業の中国移転などで世界第2位となった中国は、経済成長以上の猛スピードでアメリカを脅かすほどの軍事力を持とうとしている。アメリカの世界戦略は大きく狂い、失敗を重ね、錯誤の世界が拡大する。
脱線するが、中国のアメリカを翻弄し、たらしこむテクニックは凄い。日本がアメリカと戦う羽目になった裏にも、ソビエトと対峙していた中国が不利な形勢を挽回するためのアメリカ引き入れにも、中国のソフトパワーが効いている。日本のモノづくりのハード技術は優れているがこれは易々と、とられてしまう。片や、中国の寝技はアメリカをしのぐ軍事大国実現に至るかもしれない。
江田島記念館の多数の特攻隊員の名前が記された大きな布、ミュージアムでの人間魚雷などを見るにつけて、日本軍の人命を大量投入・消耗させ、それを当然のこととして戦う姿勢は人間社会の出来事とは思えない。叔父は特攻隊員だったが、終戦が一日早くて助かった。神風特攻は貴重な命、鍛え抜かれた技量、飛行機を失う。明日なき消耗戦だ。
これに対して、アメリカはスキップボンビングという方法を編み出した。例えば戦艦の遠くから、高度を下げ横腹に向けて進み、爆弾を離脱させて飛び去る。爆弾は海上をスキップしながら戦艦の横腹に当たり爆発する。この方法だと、パイロットも、飛行機も失わない。人命尊重の考えが生み出した。末期には特攻隊は近づく事も出来ず散った。
ゼロ戦などの操縦席背板には鉄板が入っていない(軽量化)ので、これを知ったアメリカ軍は背後から機銃掃射し容易に撃ち落としたと言う。グラマンなどは厚い鉄板が背板に有ったらしい。人を、命を、大切にすることがいかに大事か教えてくれる。
終戦に近いころ、日本軍本部は、フィリッピンなどの残存兵(殆ど全滅状態で、武器弾薬も無かった)に対して、早く突撃せよと指令を出したらしい。要は死んで来いと言う命令。何のために死ぬのかわからない。NHKで当時の兵士が証言していた。命令していたやつらは恥も外聞もなく生き残った。
東京裁判の戦犯は勝算のない戦争を開始し、人命の消耗を前提とした戦線を拡大した。敗戦確実な情勢でも、事実や過ちを認めず日本人総玉砕に導きながら、捕虜となっても自ら腹を切ることもできなかった。戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と記されている。
彼らは現地にはいかず、ぬくぬくと権限と安全を確保した状況で、残存兵に突っ込め、突っ込んで死ねと命令を出していた。私の父もフィリピンの山の中を重傷の身で、傷に食いつくうじ虫を払いつつ這って逃げ回った。ドブには頭から突っ込み、蛇でもカエルでも掴んで口に入れた。生存者は100人中1人ぐらいだったらしい。
いつか日本人自身で先の大戦の裁判なり、総括する必要があるが、戦犯となった責任者が全員割腹していたら、日本はもっとましな国になっただろう。
追記:特攻(飛行機でアメリカの艦船などに体当たり)で亡くなられた方は、17歳から22歳で、海軍が2,431人、陸軍が1,317人の合計3,848人らしい。我々はこれらの方々の魂を十分受け止めて、日本の発展に貢献できているだろうか?
架空の話だが、もし特攻で亡くなれた方々10名が元気で、終戦後復活されたとしたら、のうのうと責任も取らずに生きていた軍隊の幹部は切り殺されただろう。何しろ死線を越えた復員兵は怖いものなしで強いし、やくざも全く歯が立たなかったとの記事を読んだことが有る。