数学が人類の発展に果たしている役割は大きい。あらゆる分野で数学は活用され、駆動エンジンになり、ツールになっている。然しながら、数学で自然界の現象を語るには限界があると言うべきであろう。例えば、宇宙は有限か無限かと言う議論が有る。有限の宇宙モデルを想定するなら、それは、宇宙に始まりが有ることと連動する。数学は有限の世界を表現することができる。ところが、無限の世界についてはどうだろうか?
数学的な無限(∞)とは何か?例えば∞+1とは何だろうか?∞÷5と∞×10,000とはどう違うのか?実は回答は ∞+1=∞ 、∞÷5=∞ 、∞×10,000=∞ となりいずれも無限(∞)と言う同じ答になる。2÷0も3,000÷0も答えは∞である。つまり、数学では元々∞と言う世界を厳密に表現できないのである。その定義さえ明確ではない。
宇宙において無限とは何なのか?観察によると宇宙は膨張している。何故、膨張出来るのかと言えば、そこには何も無い領域(真空)が想定されているからであり、真空に物質が拡散してくることにより宇宙が膨張してくるとされているのだ。ところで、真空は有限なのだろうか?もし、真空が有限なら壁にぶち当たるような現象が起き、宇宙は膨張できなくなる。壁が有る、あるいは同様な現象が起きるとしたらそれは真空とは言えない。つまり、宇宙には無限の真空が有るのだ。無が無限にあるとはへんてこりんな表現だが、これは現実の話である。ところが、数学ではこの無限の無のことが表現できない。多分、論理的に語るべき対象ではないのだ。
膨張する宇宙に関する無限は直線的な話である。私が指摘したい重要な無限は循環である。電子が陽子の周りを、地球が太陽の周りを、太陽系が銀河中心部の周りをまわっている。宇宙では様々な循環が見られ、一つの循環が終わっても更に新しい循環が始まる。無限の循環が継続される。私はこの循環性こそが、秩序であり、根源であり、存在そのものだと言いたい。
私が宇宙によらず、全ての対象に関しての分類として定義したいのは循環か非循環かということだ。
さて、物理学者は宇宙の有限性を説明するために、空間のような時間の存在を定義している。この時間は、大きくもなれば、小さくもなり、あるいはマイナスにも虚数にもなる。しかしながら、果たして、時間の矢は逆さまに回るのか?私に言わせれば、物理学者の言う時間とは便利の良い架空のツールであるが、このようないかさまな議論が通るのは、各学会が完全に独立し、干渉しないせいだと思う。もし、物理学会、化学学会、生物学会(あるかな?)が一緒になってまともに時間について議論したら、とても物理学者の言う、自由奔放でさかさまに回る時間は容認されないだろうと思う。
もし、宇宙物理学者の言うように、宇宙がある瞬間から収縮しだす(時間の矢がさかさまに回る)としたら、我々はそれを認識できるのだろうか?それは不可能というべきだ。今も、時間の矢がさかさまに回っているかもしれないが、その宇宙に我々が存在する限り見ることが出来ない。全てが同じ時間に拘束されているからだ。もし、観察できるとしたら、宇宙の外から眺めている自分が存在する場合だろう。もし、時間の矢が反対に回る宇宙を観察する自分が存在するとしたら、宇宙の時間に拘束されない世界が有りそこに自分がいる、すなわち時間が二つ存在することになる。
宇宙とそれに隣接する世界で片や時間がマイナス方向に動き、一方がプラスに動くと言うことが起こり得るのか。もはや、これがおとぎ話の世界であることが分かる。
もしビッグバンが、本来の大爆発による膨張と拡散であれば、文字通り物質が四方八方に飛んで行く。宇宙の卵は無限大の温度(=エネルギー)を持って誕生するのだから、アインシュタインの理論によれば、光の速度以下ながらそれに等しい速度で拡散してゆくことになる。実は拡散する物質と物質との距離も光の速度に近い速度で大きくなるのであるが、例えば天体は様々な物質が凝縮し形成されている。拡散の状況下でどのような現象により、凝縮が起こり得るのか?
数学では循環という重要な現象を表現できないのであるが、宇宙はありとあらゆる物質の組み合わせと循環が形成する無限の世界と考えるのが最も自然な論理であろうと考える。