ビッグバン宇宙論は世界の天才たる宇宙物理学者達の夢世界を提供してきた。物質と反物質が絡み合い打ち消しあう煮えたぎった無の空間から、一つの量子大の粒子がトンネル効果により別の空間に遷移し、大爆発し、インフレーションによりこの宇宙を形成したとするのがビッグバン理論である。日本の学会やNHKを初め権威ある機関がこぞって支持し、教科書や辞典に全く疑う余地の無い定説のように紹介されている。ちょっと待って欲しい。ビッグバン宇宙論を証明する科学的事実は乏しい。未だ一つの仮説に過ぎないのである。
国内では圧倒的にビッグバンが支持されているが、世界的に見れば冷ややかな見方は結構多いらしい。何故、奇想天外な仮説(例えば、宇宙誕生前の時間は虚数としている)が否定されないかについては、一部の国内研究者も指摘しているように、狭い学界で主流のビッグバン派が権限や予算を抑えている(異を唱えた研究者は左遷されてしまった)、世界中の殆どの学者がビッグバン理論の証明を目指して研究し生活しており、この説が崩れると過去の膨大な業績が無になるだけでなく、明日から失職することになる・・・というのが実体のようだ。
例えば、人類が最新の科学技術を駆使しても、この宇宙で存在を確認できる物質重量はわずか6%程度とされている。残りは未確認のダークマターやダークエネルギーが占めているとされている。また、例えば、宇宙を構成する重要な要素である重力や、重量を伝える重力波のことも殆ど分かっていない。宇宙はまだ分からないことだらけなのである。殆どが未知のままで全宇宙を語ることは出来ない。私が今回ビッグバンへの反論の一つとして主張したいのは「時間が独立する物理量としては存在しない」ことである。
実は、時間は存在しない
人間を初めとした生物には体内時計が存在し、体内時計を作る遺伝子も発見されている。時計は人々に時を伝えるものとして、古代の歴史から生活に密着し、時計精度の向上が文明の発展を支え、歴史を刻む役割を果たした。今や人類は原子時計でほとんど狂いの無い時を知り、秒単位の時刻に世界が同期して動いている。しかし、これらのことが物理的な意味での時間の存在を証明するわけではない。アインシュタインを初めとした天才達は時間が空間のようなものだと述べている。何のことか分からない。文学的表現で時間の存在をアッピールせざるを得ないことが現代物理学の泣き所である。
アインシュタインが重要視したのは説得力である。幸い人々が時間の存在を疑わずに受け入れる素地があった。また、研究者に対しては時間に関する難解な議論を分厚い本に残している。時間の存在を不動のものにし、その上に相対性理論などの現代物理学が構築された。例えば、4次元空間は3次元に時間の空間をプラスしたものだ。単純に3次元空間に時間をプラスしただけなら日常的な我々の生活もそれに属するが、物理学者の言う4次元空間とは特別なポケットのことである。我々が存在するこの宇宙以外に、別の次元の空間がたくさん存在することになっている。別の空間(ポケット)が存在することになれば新たな理論の可能性が広がり、疑問を持つ人を煙に巻くことも出来る。一方で時間の存在を提唱することにより、数学理論の歪を全て時間に持ってくることで吸収することが出来る。
ところで、その時間を我々はどのように確かめるのか?「あんた頭がおかしいのじゃないか?時計だよ!時計を見れば時間を確認できる」という声が聞こえてきそうだ。それでは時計で我々は何を見ているのかといえば、針の動きや水晶振動数を変換させたデジタル表示を見ているに過ぎない。ちょっと、視点を変えて、宇宙の始まりまで遡ってみよう。次第に温度は上昇する。温度は電子の振動と比例しており、容易に電子の速度は光の速度を超えてしまう。宇宙の温度は無限大に上昇するが、遥かに手前で、物質の移動速度も光の速度を超えてしまう。相対性理論では光の速度を超えることが出来ないので矛盾するし、同時に時間の計測も出来無きなくなるのである。
時間だと考えているものの実態は実は動きであって、状況によりこの動きは早くもなり遅くもなる。分かり安く表現すれば、時間とはテープレコーダーのテープの長さ、今時にいえば、記録したメモリーのバイト数の大きさである。そこにはあらゆる物質の可能性が試される移ろいがある。ただし、私は時間という概念を持つこと、時間という便利なツールを利用することには反対しない。時間や時計の文化を否定するものではない。独立した物理空間としての時間の存在を否定しているだけである。それにしても、時間が存在することの矛盾点はいくつか指摘できるが、逆に存在しないとする明確な証拠を示すのは容易ではない。今後の課題である。
時間の存在は宇宙の始まりや終わりにもリンクしている。物事には初まりがあり、従って終わりもあると考える根底には欧米の宗教観、思想・哲学がある。欧米的な合理思考法では初まりの無い世界を考えることが出来ない。頭が破裂してしまうから、無理矢理始まりを作り、始まりが有るから併せて終わりを作る。ところが、宇宙は我々人類の出現以前から存在していたし、今後も我々の存在や考えには全く左右されない。言わば理解不能な存在、それが宇宙である。宇宙論はその時々の文明の具合などによって今後も変化し続けるだろう。
始まりとは組み合わせに対してのみ存在する。物質、エネルギー、運動に関してある組み合わせが生じる、これが始まり。この組み合わせが壊れる、これが終わり。例えば、生命も細胞、組織、器官およびこれらの組み合わせとしての生体システムで構成されている。これら生体システムの構成により生命が始まり、壊れることにより終わる。
時間が存在しないから宇宙の端を特定することは出来ない。何らかの物質が存在するところを宇宙と定義すると、宇宙は常に膨張している。宇宙の先は何も無いゼロ空間であり、ゼロ空間には元々何も存在しないのだから端が無い。また、138億光年の遠くにある天体がこの宇宙の端ではない。おそらく、138億光年の先にある天体しか観察できなくて、その先には光の速度以上の速度で遠ざかる無数の天体があるだろう。そのずっとずっと先には全く別の巨大な空間と天体があるに違いない。