10時40分に家を出て、大阪府泉南市と和歌山県紀の川市の境界あたりにある梵天山へ行こうと南へ走る
梵天山の展望台からの景色はなかなかのものらしい
山麓線で御所市から五條市へ ~R310号線を横切って ~橋本市へ ~広域農道で紀の川市へ入り ~根来寺を過ぎたあたりで、県道63号線に入り風吹峠へ向う
風吹トンネルを抜けて、ちょっと坂を下った辺りで右折して山の中へ向かう
山の中へ入る手前に 「近畿自然歩道」 の案内板があった
梵天山が書いてある、右へ行けは行ける、、、で山の中へ入って行くが、小さな集落の中の狭い道を抜けて ~舗装の形跡がある程度の急坂の落ち葉と岩がゴロゴロの悪路でコケそう
このまま進めば帰れなくなりそうなので諦めて引き返す
先ほどの案内板迄戻って堀河ダム~紀泉わいわい村へ向う、 途中から高倉林道へ入り、これまた石ころとかゴロゴロの悪路を走り 「お菊山」 へ向かう
堀河ダム、左側は桜並木、咲いたら美しいでしょう
お菊山の登山口は高倉林道の途中にある
登山口は急なガケだったが、あとにキツイ登りは無く徒歩20分程で頂上へ着いた
登山道の途中
頂上のお菊松と石碑
初代のお菊松は枯れてしまったらしい
■ 「お菊松」の名前の由来 ■
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の妾、小督局(おごうのつぼね)の子お菊は、小督の兄にあたる波有手村(ぼうで)後藤六郎兵衛に育てられ、 慶長(けいちょう)元(1615)年4月、紀州名草郡山口村の代官・山口喜内の嫡男、兵内に嫁ぎましたが、新婚5日後、兵内は大坂夏の陣で大坂城に馳せ参じました。
徳川方の紀州領主浅野長晟の大軍が和歌山から進攻する情勢を密書に託し、お菊は夫の後を追い大坂城へと向かいました。街道を避け、山道を踏み分け、風吹峠を越え、泉南市の堀河谷(ほりごだに)あたりから松の大木がそびえる納経山に辿り着いたころ、お菊は自らの髪を切って男装し、その髪をかたわらの松のところに埋めたと伝えられます。
その後も間道をひた走り、ようやく大坂城に密書を届けることができたのです。しかし、夫との対面も束の間、帰路を急ぐ途中、山口城の落城を知り、波有手村の実家に身を隠したのですが、やがて夫の討死、大坂落城の悲報がもたらされます。
お菊もまた、徳川方に捕らわれの身となり、自ら死を望み、紀州南穂村の磧で処刑されたといわれています。
・・・・・・ 泉南市の資料より
お菊山頂上より
関空が見えてますが、ボヤッ~としてよくわかりません
連絡橋と手前のビルは何とか見えている
高倉林道を少し下った所から撮影
ゲートタワービルは見えている
帰りは、そのまま林道を下って行ったら、R26号の 「砂川変電所前」 交差点に出た ~26号を北へ進み ~R170号へ入り富田林から河南町 ~太子町で夕景を撮って香芝へ帰る
快適な広域農道から、コケそうな林道、そしてお菊山からの眺めを楽しんだ 162Km走行のツーリングでした。