8月15日が近づいてくれば、新聞やテレビなどに先の戦争に関する話題が多くなる。62年前の事とはい え、80才の人にとっては18才の多感な青春時代の出来事である。忘れようとしても忘れられない記憶として焼き 付いて居るだろう。戦争とは圧倒的な理不尽・不合理の塊みたいな物だから。
竹富島の民宿で79才になるオジーから戦争中の島の出来事を聞かせてもらった。私の方から聞いたわけで はない、オジーがポツリポツリと話し始めたのです。詳しい話の内容は忘れてしまったので、メモ帳に箇条書き してあったものをそのまま転記します。
終戦間際この島に石川県出身の○○部隊長が(メモには何故か○○と伏せ字にしてあった)300人の兵隊 を引き連れて駐屯していた。住民のヤギやブタに番号札を付けて軍の物として、住民が勝手に食することを禁じ た。住民がして軍の炊事班へ持って行くと、将校や下士官のみが食べ、一般の兵隊は米一升に水一斗を 入れた物にイモの葉を混ぜて食べていた。あれで良く生きて居られるものだと思っていた。
軍曹以上の者は毎日ダラダラしていた。下級兵を銃の台尻で殴って三人殺し、戦死として報告していた。
木造の学校を取り壊し燃料としてしまった。台湾から帰った島の若者がその話を聞いて、隊長をブッ殺して やると息巻いたので、隊長は石垣島へ逃げていった。戦後石川県へ行ったら、そいつはまだ生きていた。
「戦後レジュームからの脱却」なんて事を言ったオボッチャマ総理には、食い物の恨みと心の拠り所を燃やさ れてしまった人間の心情は理解出来ないのだろう。戦後なんてものは、少なくとも関係者が全員死ぬまでは終 わらないのだ。