静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 私は貝になりたい(1958年) ≫  時代閉塞状況の再来と感じられる現在  個人が踏みにじられる不条理は変わらず

2018-07-24 09:05:13 | 時評
▼ 【火論】山手線の人々=玉木研二 https://mainichi.jp/articles/20180724/ddm/003/070/112000c?fm=mnm
・ <先週100歳で亡くなった脚本家・橋本忍さんは山手線で人間観察をした。「七人の侍」で共同執筆した黒澤明監督の綿密な人物像ノートに仰天したのがきっかけ。自分流のやり方を
  考えた。>
・ <まず反対側座席や周辺のつり革の人々を見る。「カメラを据えられる顔」と「据えても意味のない顔」がある。そして、カメラの枠の中で精彩を発揮する顔は徹底的に観察し、
  体つきも覚える。その人の置かれた状況、喜怒哀楽を想定し、降りた駅では改札口までついて行って後ろ姿が消えるまで見送り、心の奥でシャッターを切る……。
  累計60~70人になった。この人々の像は「貯蔵」され、脚本に生きるのである。>
・ <人物描写のこまやかさは作品に共通している。例えば、1958年10月31日、ラジオ東京テレビ(現TBS)がBC級戦犯の悲劇を90分余のドラマにして放映した
  「私は貝になりたい」。橋本さんが脚本を手がけ、翌年は自ら監督した映画も公開された。>

 ⇒ 私は未だ少年だったが、皇太子(=現平成天皇)成婚を前に買ったばかりのテレビで観た此のドラマは鮮烈に覚えている。近所には満州に抑留された人、女性であることを隠そうと
   丸刈りで朝鮮半島から逃げ帰った婦人たち、B級もしくはC級戦犯にされ帰国の送れた人達が居たし、繁華街には、傷痍軍人と呼ばれる元兵士の松葉杖姿は消えていなかった。
  それらの記憶が薄っすらながらも確かに残っていたあの頃、フランキー堺の名演は心を打った。「社長漫遊記」でのコメディアンやジャズ・ドラマーだけがフランキー堺ではない。

  あれは涙無しに視ることのできない不朽の名作であり、子供心にも、国の命令で戦地に送られた挙句、理不尽な罪に問われる「不条理」の不気味さは「個人とクニの関係性」という
  得体の知れないモノを私に焼き付けた。個人の生活が国家主義の犠牲になった時代を知らない戦後生まれだが、この衝撃は私の抱く<国家観><個人と集団観><民主政治意識>に
  根本的な影響を与え、今までの人生を律してきた。   同世代あるいは少し年長世代の方々も似たような受止めをされたのではないだろうか?

 しかるに、である。其の世代が退く今、後から生まれ育った現役世代の動かす現在、”個人がクニに呑み込まれる不条理”は消えたと言えるか? 
 集団協調主義が学校教育の場で相も変わらず教えられ、個人よりも国家が大事だ、といわんばかりの風潮がじわじわ醸成されているではないか! 
 不条理に抗わず、国民が「私は貝になりたい」と声を挙げずにいてくれるクニ、そんな方向へ向かいつつあるのではなかろうか?  若しそうなら、敗戦で日本人は何を学んだのか?
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『性的少数者:LGBT』を蔑視し、人権否定する議員が<自由><民主>党に在籍するブラック・ジョーク。  杉田議員の支援者よ  恥を知れ!

2018-07-22 08:48:03 | 時評
◎ LGBT「生産性なし」自民・杉田議員の寄稿が炎上 https://mainichi.jp/articles/20180722/k00/00m/040/028000c?fm=mnm
・ 此の見出しを目にした私は、すぐに「杉田議員」なるヒトは、”脂ぎった典型的古参自民オヤジ”のイメージを抱いた。ところがだ、引用記事に添付された写真は正反対の仮初にも
  年配とは呼べない年頃の女性。 
・ SNSでの発言、並びに解説記事の概要から判断するに、論理のお粗末さ、阿呆さ加減は「またか!」とウンザリする水準の低さだ。本人は自分が口にしている内容は”性差別”であり
  ”基本的人権の擁護”原則を侵していることにさえ気づいていない。  然も<自由>と<民主>を標榜する政党から議員になっているのだから、これはブラックジョークだ。
・ 加えて、子供を産むことが国民として・納税者としての「生産性」だと? 明治生まれの男のセリフなら未だしも、生きる時代を間違えてるのではないか、此の女性は?
  いやいや、そうではなく、明治以来の男尊女卑・産めよ増やせよ思想が連綿と継承されている、此の事実こそ 冗談で済ませてはならない現実なのだ。

 ⇒ いつもながらのバカバカしさにいい加減取り上げるのも阿呆らしいが、それでも見逃してはならぬと心の奥底が叫んでいる。
  こんな愚か者を国会議員に送り出す後援会と選挙制度とは何だ???  単純な「失言や誤解だった」なんていう いつもの言い訳で幕を引かせてはならない。  
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≪ 人の命を奪う罪と罰 ≫  再び問う: 反省/更生の可否&期待は 遺族の赦しを超えて余りあるか?  死刑は”近代国かどうか”の浅はかな踏み絵ではない

2018-07-19 19:58:23 | トーク・ネットTalk Net
 14年前、茨城で起きた女子大生殺人事件に対する検察求刑につき、今日の報道でまたまた、おなじみの光景が展開された。お馴染みとは、弁護側の展開する「反省/更生のチャンス」に訴えかける非論理/情緒論法だ。  此の訴えかけは「犯行時の精神不全を検証してくれ」という精神鑑定要求の投げかけと同次元。それは≪もだし難い発情、とっさの情欲、計画性は一見無い≫かに見える流れを構成する犯罪行為? なら弁護士が必ず使うツールだ。 

 でも<精神不全/異常、或は瞬時の錯乱>が犯罪のエネルギーであったことを証明することが、何故、殺人の倫理的「罪 = Sin」まで赦すことにつながるのだろう? 貴方は赦せる?
つまり、計画的な殺意準備が立証されねば、いつでも<”とっさで”瞬間おかしくなっただけです”>で逃げられるのか?  それで、好いのか?という根本的疑念なのだ。
 医学的な問いではなく<何故か、あの瞬間、ふと可笑しくなっただけなんです・・・>が殺人の言い訳になリ得る、その『更生/精神療養を信じる』刑法理念そのものへの私の疑問だ。

幸い、私は今のところ、身内に殺人事件の被害者も加害者も持たない。然し、それとは無関係に「罪と罰には例外を一切許さない人類普遍の原理がある」を肯定する。
なので、精神異常/精神不全/過去の前歴などという周辺要素で言い逃れ/罪逃れを赦す余地を含む現在の法体系は、どうしても整合しない。人的情意としても受け入れられないのだ。
 例えば私の息子が殺人を犯したと仮定しよう。 其の際、私は理由/精神状態を問わず、定められた法規体系に従い、死刑も受け入れる。誓って命乞いなどせぬ。   < 終わり >
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≪ 1票の平等に名を借りた 自民の定数増法案 ≫  本音は ”現在の都道府県制度死守”と結びつく 集票後援会ネットワークの維持だ

2018-07-18 20:18:12 | トーク・ネットTalk Net
 想い出せば、人口減少が招いた有権者人口の偏在が<1票の価値の不均衡>を生み、遂に都道府県の枠組みを超える「合区」の発想が実現した。ところが、である。
本日の国会で自民・公明の両党は、<1票の価値の不均衡是正>を名目に、合区で候補者が出せない議席を埋めるべく、定数増加を定める法案を通した。

嘗て最高裁からあれほど言われた<投票価値の不平等是正>は、純粋に議員数/有権者人口比率の標準化を求めるものであり、選挙区の区割りとは、本来なら数学的配分で済む問題の筈だ。
 早い話が、比例代表区は、自治体など無縁な得票率に正比例した議席配分で良い。地方自治制度に基ずく議席配分も、人口偏在の事実に応じた配分で済む。ところが、それでも、現在のような過疎化が
 現実となった(鳥取/島根/高知/徳島など)では、自治単位毎の最低1議席すらままならなくなってしまった。  これで慌てたのが政権党だ。

 ここでだ。・・・何故か、純粋算数計算に基づく配分では零れ落ちる自治体(=〇〇県)が出る事態を巡る制度議論に「おらがムラ/町」伝統維持に名を借りる心情が登場し、
あんなに無視してきた<投票価値の不平等是正>と摩り替えられた。

明治維新後の「廃藩置県」=歴史の授業で習ったお馴染みの変革だが、何と150年経った現在も何故か、これを変えようと政界・財界どちらからも議論は出ず、選挙の公約やキャンペーンテーマにもならない。口にするのは学者・研究者しか居ない、 交通/通信/インフラ/地方文化の浸透など、統治構造効率からいえば、明治以来の小さな行政区分は150年後の現代ニーズに合致していない。 それを否定する人は居まい。
 ところが、野党も含め、どうして 都道府県制度の変革を取り上げない?  これが私が繰り返し問い続ける「国家ヴィジョンの欠落」であり、国政改革の根本的テーマだ。

* 再び問う。・・何故、誰もとりあげない?  答えは簡単だ、自治体制度の変革イコール「県単位の議員後援会ネットワークの崩壊」ゆえ、明日の議員生命に直結する。
  それが怖いから、に過ぎない。 ピリオド!  ここに「国家百年の大計」を論じる魂など、政治家/中央官僚たちのどこをひっくり返しても無い。     これで好いの?
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≪ 辛い事・見たくないこと ≫ 忘れたいからと 目くらましの祭りで誤魔化す国民・・・・『西郷どん=維新の称揚』 『東京五輪+大阪万博=成長よ 今一度』 

2018-07-18 11:58:58 | トーク・ネットTalk Net
▼ 【毎日】試される2年=中村秀明 https://mainichi.jp/articles/20180718/ddm/003/070/037000c?fm=mnm
・ <7年前の東日本大震災は2万人近くが亡くなり、重大な原発事故を起こした。あの時、自らの利益よりも誰かのために動く「利他の精神」が広がった。物質中心の豊かさを問い直す
  考えも台頭した。社会が変わりそうな予感が世の中を包んだ。そう言われ、そう思われたが、そうでもなかった。作家の池澤夏樹さんは2年前、日経新聞のインタビューで
 「結局、幻想にすぎなかったのか」と語っている>。
・<放射能汚染で住む土地を奪われ、容易に戻れない人も多い。事故原発の安全な解体には気の遠くなるような時間がかかる。厳しさが明らかになるにつれて、空気は変わっていった。>

★ <取り返しがつかない状況を前に、少しずつ「見ないようにしよう」とし、「考えてもしようがない」と脇に置くようになった。問い直すことも徐々にやめてしまったようだ。
  そして2020年の五輪開催が決まり、どこかひとごとになった。>

誰でも、極端に辛すぎる出来事は忘れたい。だが、出来事の再発を防ぐ手立てを追い求めない限り、何度も同じ悲劇を繰り返す愚かさからも逃げられない。この「再発を防ぐ手立てを追い求める」作業は多くの人に長く忍耐を要求し、とても苦しいので、ついつい<パーっと 明るく吹き飛ばそうぜ!>とばかりに祭りごとを次々に用意しては、
『そのうち、何とかなるだろう』とやり過ごす。・・・地震/台風/豪雨/火山爆発など、多すぎる天災から逃げられない風土がもたらす諦め・諦念も一役買っているだろう。

無論、忘れたいっ! パッパラパー、これは日本人の専売特許ではない。 が、忘れまいと努力する真面目さを「ダサい」の一言で軽くうっちゃる風潮は近年強まっていないか? 
 でも、胸に手を当てて考えよう。 原発に限らず、価値観や倫理に関わる全ての物事を直視しない国民が集まる社会。 このままで良い筈はない!!
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