静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

生も死も常に <一人称>

2014-06-13 21:21:50 | トーク・ネットTalk Net
 このところ毎日新聞の連載記事「いま靖国から」に毎朝応答している。私のエネルギーは、靖国神社が戦犯合祀を伴うがゆえに、日本国内だけで同じ情動を共有する人が気持ちよく睦み合っていればよい「汎神教的心霊賛美」レベルでは収まらず、国を跨る誤魔化しようのない政治問題となってしまった現実、を言い換えようとする勢力が形作られつつある事象への危機感だ。

 考えてみれば戦死に限らず、(生まれるのもひとり、死ぬのもひとり)という古今変わらぬ厳粛な人間存在の事実を改めて噛み締めるとき、弔うとは、亡くなった人の肉親または、せいぜい故人が生前から心を許していた友が過去の生きざまから想像し、或いは生前意思表示していた<送られ方>を尊重することが最大限の敬意表現ではないか、と確信する。間違っても第3者、つまり3人称で語られる人が、本人(1人称)や肉親(2人称)を差し置き、しゃしゃり出ることを、許してはならない。

 然るに、本来、1人称で尊重されるべき<生と死>の多くが戦死であるがゆえに国家主義のもと、お国に命を捧げたとの美名で靖国という器に(本人または肉親の意思・本音は問答無用に)押し込まれてきた。だが、マッカーサーによる廃絶を逃れる苦肉の方便で宗教法人と鞍替えして生き延びながら、厚かましくも戦前までの国家主義そのまま靖国で<生と死>が今も扱われ続けている。

 この日本列島に住む民族集団は、もはや国家主権の大日本帝国ではなく、1945年以降、主健在民の日本国に生まれ変わった。だのに、何故このような国家主義思潮が、本質的には一個人の生と死を扱うべき弔いの場で、今もなお存続し続けているのか?? 
 
 これは我々が70年生きてきた新しい国の在り方の根幹を脅かすことではないだろうか? 
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