静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

犯罪被害者が加害者に思いを伝える「心情伝達制度」をどこまで更生に役立てられるか? 

2024-05-13 19:53:44 | 書評
▼ 【毎日:憂楽帳】息子の供養 【山本将克】  全文掲載
・ 犯罪被害者や遺族が、刑務所や少年院に入っている加害者に思いを伝える「心情伝達制度」が2023年12月に始まった。
  制度の創設に貢献したのが「少年犯罪被害当事者の会」代表の武るり子さん(69)だ。国の審議会のメンバーとして「犯した罪の被害に向き合うことこそ、更生の出発点になる」と意義を訴えた。

・ 武さんは1996年、少年による暴行事件で、当時16歳だった長男を失った。真相を求めて駆けずり回ったが、将来の立ち直りを重視する少年法に阻まれ、事件の内容も加害者の名前も教えて
  もらえなかった。「加害者は守られているのに、被害者は蚊帳の外に置かれている」。この時の絶望が武さんを突き動かした。
  04年に犯罪被害者等基本法が成立し、武さんが訴えてきた被害者支援の必要性は少しずつ理解されるようになってきた。

・ 「親として何ができるか、ずっと答えを探してきた。最初は敵討ちのつもりだったけど、自分なりの供養だったのかな」。
  息子のため、前に進むことができない被害者のため、武さんはこれからも声を上げ続ける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「加害者が未熟或いは精神障害ゆえ将来の更生に期待する」という少年法及び刑事訴訟法の基本精神が、被害者遺族の苦悩や人生への配慮を欠落してきたことに異議をとなえた多くの方の努力で
「心情伝達制度」はできた。武さん他の努力のおかげで生まれた制度で、未熟な少年ではなく「更生」とは無縁な≪池袋暴走事故≫の飯塚受刑者(92)が自分が犯した罪に何を想っているのか松永拓也氏は
 質問状を投げかけ、不完全ながら加害当事者が罪とどう向き合っているのかを客観化できるようになった。
 これが従来はハッキリしなかった「加害者の内省有無」罪の自覚と更生の因果関係」について人々が抱いてきた曖昧さを今後徐々に解き明かすなら、歓迎したい。 

 唯、「罪の自覚と更生の因果関係」は、「他者の生きる自由な時間・人生を奪う罪の意味」が知的に幼すぎて理解できなかった多くの未成年のケースでどこまで成立するのだろうか? 
心身を拘束される施設で過ごすことが罪の理解と自覚を加害者全員にもたらすとは思えない。。罰は罪を認識し悔いることができる者にしか有効ではないので、理解できない者に「更生」は無効では?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再読「辞世のことば」

2024-05-13 09:46:16 | トーク・ネットTalk Net
 今朝の<アクセス解析>をみていたら(2020.5.5-6 【書評097】「辞世のことば」中西 進)を振り返られた方が多いので、書評の手元コピーを繰ってみた。
(なお、途中で【書評ラベル】を変更したこともあり、記載当時の連番は【書評102】)。  4年経ったいま、改めて読み返すと、著者が残した次の部分に強く惹きつけられる。

*『限られた己だけの死に対面する時こそ最後の自己発見であり、それは必ずしも死ぬ間際に発せられるとは限らない。何故なら死は生の全量を抱きかかえ遂げられる筈だから』
*『死から目を反らさず親和的に生きた人ならば≪ 畢竟、死はひとつの生にすぎない ≫』
 ⇒ この言葉は、西行・明恵上人・吉田兼好・芭蕉に連なる<三法印:諸行無常/諸法無我/涅槃寂静>の悟りを現代語でかみ砕いたものでもあり、わかりやすい。

★4年前の書評で私は次のように述べている。(要旨)
・・<生きた時間帯><存在した場所>これら二つの”時空軸”が何であれ、人間が生まれ死ぬ間に自己を突き詰め発したコトバに潜む真理は普遍だ。
  20世紀後半以降の技術進歩で生活速度感は速まる一方で、死に至るスピードは遅くなり続けているから、疲れる時間は長引き、先が見えないもどかしさも長大になってきた。 

  見渡せば、世の殆どの人の人生の過ごし方/パターンは政治・ビジネス・趣味・スポーツ、何にせよ【闘争/競争】の中に”生き甲斐”や”存在証明”を求めている。
  然し、闘いや競争に明け暮れるからこそ、民は【生の虚無と死】を茫漠ではあっても、感じないわけではない。
   そこで【生の虚無と死】に心が向き、苦しみ続ける人々も増える。 それでも自裁に赴かなかった人は何かを表現しようと必死にあがく。では表現手段に何を選ぶか?
   <A> 表現の共時性は無いが物理的空間に残って消えない<書画・塑像/彫刻・建築> 
   <B> 録音/録画や文字になっても表現の瞬間が時空ともに残らない<文学・音楽・演劇・映画>
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 <A><B>どちらも問われるのは、表現したいコトが【知性の死】【表現者の生と死】の域に達するまで深まったのか?であり、容赦なく天賦の才の有無も関わるから辛い。
 アクセス記録で想像される年齢層を考えれば、たぶん読者の皆様も私と同様の自問自答をおもちだろうし、日々様々な活動をされているのでは?と思う。 思えば私のこの4年は
「何かを表現し、残そうとあがく4年」だった。この「あがき」は息絶えるまで続く。『死から目を反らさず親和的に生きた人ならば≪ 畢竟、死はひとつの生にすぎない ≫』と言いたいから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする