静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 北 日 本 の 旅 ≫ 4   青森県三沢市: 寺山修司を訪ねて 

2023-05-27 08:36:25 | 旅行
 苫小牧港をフェリーが出航するのは23:59。何故この深夜に出航を設定したのか? と考えたが、ひとつ前の便が21:15(発)で八戸(着)は翌朝04:45とある。
これだと車両を持たぬ徒歩客は不便だから?「いやいや、答えになっていないな・・・」などとムニャムニャ呟きながら狭い個室に入る。
・・部屋が狭いことよりも、ベッドの幅が肩幅ギリギリなのには参った。これじゃ船が大きく揺れたら床に落ちるのでは? 無様な姿を思い描いたが、予想通りというべきか、眠りに就いたと思うとすぐ、縦揺れ/横揺れが感じられる。だが、幸い?疲労のお蔭で揺り籠になり?何とか眠れたようだ。

 目覚めたのが6時半頃。洗面場に通じる通路を歩いていると船窓から右に薄青い陸が見え、雪を頂く高い山が綺麗に見えた。(写真左)
              
 八戸港も快晴に覆われ、ターミナルビルよりも大きそうな船が背後に写る。(写真中央)苫小牧より更に静かな朝の港を出るバスでJR本八戸経由、三沢まで「青い森鉄道」。
意外にも三沢駅のホームからも同じ山並みが遠望でき、思わずパチリ!(写真右) 地図で確かめると、フェリーの船窓から見た山並みは三沢市から西に約40Kmにある
(八甲田連峰)だ。此のあと三沢からタクシーで20分走り、空軍基地の北にある『寺山修司記念館』へ。其の車中からも、雪の山並みは切れ目なく見え隠れしていた。
 唯ひとつ、ジェット戦闘機が轟音をまき散らし、およそ30分から1時間間隔ほどで青空を飛び交う。この頻度には、改めて北方の守りを意識づけられる。

 タクシーに帰りの予約をしたうえで記念館へ。今年で没後40年を迎えた寺山修司(1935-1983)。60年代に青春期を過ごした者なら、寺山氏の多才・多面的な言語表現活動を記憶していよう。(詩人・歌人・小説家・劇作家・演出家・映画脚本家・劇団主催者・写真家)と自称したとおり、言葉を媒体にあらゆる自己表現で眩しく輝いた。

 記念館の展示で印象に残るのは、父をセレベス島で亡くして青森から三沢へ母と共に転居。母が生活の為、米軍基地で働いたこともあってか、国民学校では転校生苛めに逢いながら耐え忍んだ日々だ。母が米軍キャンプ勤めで福岡へ移ったため、青森の大叔父宅で中学・高校と過ごす。父母無き少年の俳句・短歌・不定型詩による叫び・呟きは高校生の頃から磨かれ、短歌研究新人賞を18歳で受けたのが彼の創作者人生のスタートとなった。 下の写真3葉は記念館の外と内。 
               

 寺山修司を一言で言い表すなら≪ アリバイつくりのため闇に言葉を投げ続ける ≫とでも言おうか。承知のように、寺山が早稲田に入学して以降発表した短歌は、歌壇の重鎮
(中村草田男/楠本憲吉など)から批判を受けるが、寺山氏本人には馬耳東風であったろう。展示のポイントでもある「手紙魔」とは、言葉を発し続けねば居られなかった寂しき少年の生涯に亘る叫び声であり、記念館が40周年記念企画として設けたタイトル【魂のキャッチボール】は、父母と自己の魂とのキャッチボールだと想えば腑に落ちる。
或いは、妻や友人に求め続けたキャッチボールであったかも知れない。
 晩年、寺山氏は4歳年長の谷川俊太郎氏(1931-)と交遊する。谷川氏がモーッアルト好きで言葉と音楽の繋がりを意識していたのに対し、寺山氏の関心領域に音楽は含まれて
いたのか?と私に疑問が。展示物や説明を読む限り、表現としての音楽全般への言及が殆どないからだ。谷川氏が寺山氏について書いた部分でも音楽に関する話題は記憶に無い。今でいうパラサイトのまま大学にも進まず詩人デヴューした谷川氏は寺山氏と出自や境遇は全く異なるが、不思議に両者は認め合っていた。実に不可思議だが、面白い。
 
 帰路、再び冠雪の八甲田をタクシーの窓から眺め、八戸に戻ると盛岡経由で新花巻へ。相変わらず青空は澄み渡り、宮沢賢治記念館にタクシーで向かう。 < つづく >
コメント
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