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討論広場 その(2)止 ≪ 夫婦別姓に反対する代表的論拠 ≫  西田自民党(参)議員へ私の反論

2015-12-27 10:26:01 | 時評
  西田昌司・自民党参院議員 家族の絆壊す恐れ http://mainichi.jp/articles/20151226/ddm/005/010/074000c
* 昨日、私は<”家族の絆”維持に名字共有が必須である>との西田氏の主張が、実は大家族を尊ぶ「イエ」共同体保持願望に他ならず、それが既に崩壊している
  日本の家族構成/世代構成の現実に抗うものであることを指摘した。その現実は都市部/地方を問わず見られる現象であるから私は反対するのではなく、今後も
  「守るべき価値」ではない、と考えるゆえの反対である。
* もうひとつ、嘗ての農村共同体生活は<守るべき伝統であり、日本社会の仕組みだから、外国との比較で論じるべきではない>という西田氏の姿勢に顕れる
  排他性の中に、私は戦前までの強烈な国家主義への回帰願望を観る。だから、反対するのである。 ⇒ この排他性は、次の発言にも共通しているので紹介したい。
 ◆ 個人のアイデンティティーと ”行き過ぎた個人主義”観
【1】 <夫婦同姓では個人のアイデンティティーが守れず、「対等の男女関係による新しい家族像を作るべきだ」との考えもあります>との設問に対し、
   <それは幻想だと思う。夫婦別姓は「行き過ぎた個人主義」を助長し、家族の解体をも引き起こす。個人主義に基づく別姓の夫婦の下で、子供は父母どちらの名字を選ぶか
   という自分のアイデンティティー探しに苦心するだろう。それがあるべき家族像と言えるのか、大いに疑問だ>。
  * 別姓を実行してきた人の話が出始めている。それを読むと、子供が苦しんでいるというケースは不思議に出てこない。苦しんできた女性の話だけが隠される、
    話したがらない、というのは逆であろう。苦しむ人こそ「別姓選択の自由」を主張する人であり、若し子供が被害を受けているなら主張をためらう筈である。
 ⇒ まず、西田氏の主張の根底には、伝統的家族構成と家族意識/イエ意識崩壊が「行き過ぎた個人主義」をもたらしている、それが夫婦別姓で益々助長されるだろう、
   という考え方がある。だが、ここには根本的な「個人主義」への無理解/曲解がある。
   国家主義を称揚する人にとっては、個人が「国家」と対等であるなんて想像すらできない概念だろう。「主義」とは<~を主たる義(=正義)とする>意味であり、「個人を主とする正義」こそ人権意識・四民平等そのもの根幹概念、民主主義の屋台骨である。其の個人を主と考える考え方(=個人主義)の「行き過ぎ」とは、どういう状態を指しているのか?
【2】西田氏が口にする<個人主義の行き過ぎ>には、「利己主義」的なマイナスイメージが匂う。或は、公共利益に反する利己的行為への批判イコール「行き過ぎた個人主義」との誤解が覗える。この感情と「対等な男女関係による新しい家族関係」は論理的に結びつかない。結びつかないのに「幻想だ」と断じてしまう。そりゃそうだ。 西田氏が代表するのは<新しい家族関係>そのものを受け入れる現状認識を拒否する立場だから。 ここが私と決定的に対立する。

 ◆ 若年層に「夫婦別姓支持」が高い理由の解釈 そこに潜む誤り
   <各種の世論調査では、若年層ほど選択的夫婦別姓を容認する割合が高くなる傾向が出ています>の設問に対しては
 【1】<夫婦別姓に賛同する人の多くは、個人のアイデンティティーの問題よりも、実家の「家」存続の危機という問題に直面しているのではないだろうか。これまでは
   親類縁者による養子縁組制度を活用することで「家」を存続させてきたが、少子化で困難なケースが生じている。これは選択的夫婦別姓の是非とは本質的に異なる
   問題であり、背景にある事情を分けて対策を講じる必要がある。
  ⇒ ここは完全なすり替え、若しすり替えでなくば、西田氏の誤解が在る。<実家存続の危機に直面するから>夫婦別姓に賛同する? どこからそういう論理が出てくるのだ? 
   別姓賛同者の基本は上に述べた「対等な男女による新しい夫婦関係」を是とする考え方の人々であり、事実は同姓賛同者こそ<実家存続の危機に直面>と感じている人々ではないのか? 高齢化と少子化で”実家”が途絶えそうになることへの危機感、その危機意識有無と「個人のアイデンティティー」を尊重する思想には何ら関係は無い。西田氏の云う意味とは真逆で、同姓強制は本質的にアイデンティティー価値の否定、選択は同価値の尊重と直結するものである。  つまり、実家が残ろうが絶えようが、この価値を否定するのか/尊重するのか、の対決なのである。
 【2】<通称使用では、カバーできない不便さがあるのなら具体的に議論すればいいが、現状では個人のアイデンティティーの問題くらいだろう。家族の絆を
    壊しかねないほど個人の自由を認める制度に、国民的理解が得られるとは到底思えない>。
  ⇒ これぞ同姓強制派の本音である。通称使用で生じる不便さの一部として<個人のアイデンティティー>がある、との理解である。日常生活での便宜と人権/男女平等を巡る
   価値観は同列に論じる問題では断じてない! ここには「国家が個人の上に立つ」考え方、即ち<国という名のイエを主たる正義とする=国家主義>が厳然と有る。 
   それが<家族の絆を壊しかねないほど個人の自由を認める制度に、国民的理解が得られるとは到底思えない>という西田氏の観方になっているのだ。
  皆さん、家族の絆と個人の自由は対立概念ではない。寧ろ両立すべきもの。然し日本社会はこれが充分に両立できていない。家族偏重が個人の自由尊重にブレーキをかける
  歴史であったことを忘れてはならない。          さあ貴方は、その歴史を変えようとするのか、固守しようとするのか???
コメント
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