★ 憂楽帳:批判あっての科学 http://mainichi.jp/shimen/news/20151203dde041070072000c.html?fm=mnm
・ 「若手の中には、実験データやその解釈について指導者から批判されると、自分の人格を否定されたように感じてしまう人が多い」。
神戸で12月1日夜に開かれた研究倫理についての公開討論会で、会場の研究者からこんな興味深い指摘があった。
・ 「それが日本の文化」「人物とデータを分けて評価する環境作りが必要」など、壇上を交えて議論が盛り上がった。
⇒ 私のアンテナはここで反応した! 「それが日本文化」と発言する参加者の存在に、である。 というのは?
(1) 「自分の人格を否定されたように感じてしまう人が多い」とは、どういうことを示唆しているか?
(2) 批判した人が上級者だから黙ってしまい、人格否定とまで感じることを「それが日本文化」だとすり替えるのは、本来、論理が全てである筈の科学
空間で、この発言者は何を誤魔化そうとしているのか?
わざわざ、営利追求業界では時に美徳でさえある個人の埋没=日本文化;を科学研究の場に比定して持ち出す意味。・・・それは、笑い話・揶揄でもない。
* 科学的な議論で批判を受けるたびに傷ついていたら、その人の身がもたないし、言う方も遠慮してしまう。批判を避けていれば、思い込みや間違いにも気付きにくい。若手の研究者にとっては、自らの成長の機会を失うことにもなってしまう。
⇒ これは、須田記者なりの<教育現場への配慮に満ちた言葉>であるが、恐らく、「自分の人格を否定された」と部下に感じさせた上司を反省させるには結びつくまい。 余りにも綺麗ごとである。
自由闊達な論議を交わす訓練を幼時から封じる日本文化。 薄っぺらい流行語になったキライさえある{Debate}だが、そんなものは一切無い文化で成長した大人と若者たち。「総合学習」と名付け、それっぽい授業形式を模索中。それはそれで結構。 大いにやれ。
だが、「それが日本文化だから」と、例え諦めの念からでも、貴方だけは「文化」を免罪符にしては駄目だ!
論理を徹底し、情緒を排するのに真っ向から抵抗するのが「日本文化」であり、それは美徳でも何でもない!!! 理数系の人なら尚更であろう。
・ 「若手の中には、実験データやその解釈について指導者から批判されると、自分の人格を否定されたように感じてしまう人が多い」。
神戸で12月1日夜に開かれた研究倫理についての公開討論会で、会場の研究者からこんな興味深い指摘があった。
・ 「それが日本の文化」「人物とデータを分けて評価する環境作りが必要」など、壇上を交えて議論が盛り上がった。
⇒ 私のアンテナはここで反応した! 「それが日本文化」と発言する参加者の存在に、である。 というのは?
(1) 「自分の人格を否定されたように感じてしまう人が多い」とは、どういうことを示唆しているか?
(2) 批判した人が上級者だから黙ってしまい、人格否定とまで感じることを「それが日本文化」だとすり替えるのは、本来、論理が全てである筈の科学
空間で、この発言者は何を誤魔化そうとしているのか?
わざわざ、営利追求業界では時に美徳でさえある個人の埋没=日本文化;を科学研究の場に比定して持ち出す意味。・・・それは、笑い話・揶揄でもない。
* 科学的な議論で批判を受けるたびに傷ついていたら、その人の身がもたないし、言う方も遠慮してしまう。批判を避けていれば、思い込みや間違いにも気付きにくい。若手の研究者にとっては、自らの成長の機会を失うことにもなってしまう。
⇒ これは、須田記者なりの<教育現場への配慮に満ちた言葉>であるが、恐らく、「自分の人格を否定された」と部下に感じさせた上司を反省させるには結びつくまい。 余りにも綺麗ごとである。
自由闊達な論議を交わす訓練を幼時から封じる日本文化。 薄っぺらい流行語になったキライさえある{Debate}だが、そんなものは一切無い文化で成長した大人と若者たち。「総合学習」と名付け、それっぽい授業形式を模索中。それはそれで結構。 大いにやれ。
だが、「それが日本文化だから」と、例え諦めの念からでも、貴方だけは「文化」を免罪符にしては駄目だ!
論理を徹底し、情緒を排するのに真っ向から抵抗するのが「日本文化」であり、それは美徳でも何でもない!!! 理数系の人なら尚更であろう。