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アーモーおやじ

テニスのときによく出る「アーモー」。これが口癖で、なんでも首を突っ込んでは失敗を繰り返しているじいさんの日記です。

おふくろ、ありがとう

2023-06-26 06:22:00 | Weblog
 4月21日、おふくろがおやじのところに旅立ちました。91歳と3か月でした。
 4月26日に葬儀、6月4日に四十九日と納骨を終えました。
 
 そして、やっとこのブログに残しておこうという気持ちになりました。こんな人生もあるもんだ、という記録です。


 私の母は、新潟県刈羽郡西山町(現在は柏崎市)で、1932年(昭和7年)2月7日、12人兄弟、姉妹の7番目に生まれました。戦争中に小学校時代を過ごし、戦後すぐに洋裁学校に通い、18歳で、同じ西山町から先に東京に出ていた24歳の建具職人の父と結婚しました。花嫁道具は洋裁に必要なミシンと編み機です。そしてすぐに池袋の地で父は独立して建具店を開きました。埼玉県東松山に引っ越したのは、私が大学のときで、弟が中学に入学したときです。


 19歳で兄貴、24歳で私、31歳で弟を産みました。父の仕事の経理をすると同時に、生命保険の勧誘(ニッセイのおばちゃん)やヤクルトの配達、料理店の給事などをして、食べ盛りの私達を育ててくれました。 
 


 40歳でリュウマチを発病してから、さまざまな病に襲われましたが、持ち前の明るさで乗り切ってきました。


 母は22年前に76歳で亡くなった父に対して、東松山の家と畑を残してくれたと、いつも感謝してました。兄弟仲良く旅をしたことや、子や孫が元気なことを父のおかげと言い、父と暮らした51年間の思い出を大切にしてました。尋常小学校出の夫婦が、仲良く力を合わせて大都会で暮らしていたのです。
 私たち夫婦が病などで大変なときは、埼玉から車で駆けつけてくれて、助けてくれました。

 
 父も母も、私のやりたいことをすべて認めてくれました。高専への進学、高専を3年で中退し家を出て大阪の大学へ行くこと、敏美さんと結婚して大阪で暮らすことなど、反対されたことはありません。私が決めたことが前向きならば、いつも許してくれました。
 

 夏休み、家族で帰省したときは、父といっしょに孫を可愛がってくれました。大阪に帰るとき、子どもたちはおじいちゃん、おばあちゃんとの別れが悲しくていつも泣いてました。また、母が大阪に来て、保育園の送りをしてもらったときは保育園での別れが悲しくて母のほうが泣いていました。

 帰省するたびに、お前も忙しいんだから早く帰れよと言ってました。
 
 新年の挨拶はいつも笑顔で、みんな仲良く、いつも感謝が定番です。
 

 そんな母(おふくろ)でした。

 
 私は、自分勝手ばかりしてました。お許しください。


 あっちの世界で、父に私たちの今を報告してるかな、孫の話をしてるかな、なんて思いながら、心の中にいる母、父と共に、これから生きていきます。

 今まで、ありがとう。