岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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母の戦争体験:釜山でみたもの

2020年09月13日 21時28分03秒 | 紀行文・エッセイ
「戦争は知らないうちに来ていた」8月29日@みどりアートパークギャラリー
                                岩田幸枝

・物が一斉になくなる(ゴミも出ない)
・色がなくなる(美しいものはない)
・貧しさと病気がやってくる(結核・性病)
 
「私が生まれた時から戦争があった。どの家も揃って貧困だった。食事は汁物、主食、焼き物と揃えるのが大変だった。私が子どものころは、体が小さく、30キロから34キロ。結婚したときも34キロだった。粗食はどこの家もあたりまえ。父は教師、母は明るく優しかった。4人の姉妹。兵役は家族の中ではなかったが、学校へ行く途中の焼き芋を焼いてしのいでいた駄菓子屋の店主が、兵役にとられ、ねんねこで体をおぶった小母さんが焼き芋を焼いていた。」

「小学校4年の夏、父が釜山へ転勤となり、家族で引っ越した。長い旅のあとに着いた釜山は、明るい街でモダンだったが、朝鮮人は一人も見なかった。電車のなかも日本人ばかりだった。数日後、家の近くの川沿いを歩いてみると土で造った入口の小さい家が数軒あり、そこが朝鮮人の家だった。家のまわりに石と板で作ったシーソーがあって朝鮮人の子どもたちが遊んでいた。釜山には日本人の小学校は10校もあるのに、朝鮮人の小学校は一つしかないと聞いた。朝鮮人の親子が庭の桃の実に石をぶつけて落とそうとしていたが、『取っていいよ』と言った。『あたりまえだ。ここは朝鮮の土地だから。』と母は言った。」

 「日本人の小学校の校庭に、大陸へ出兵する日本軍が大勢はいってきた。見ていると兵隊の中に一人どもる人がいて、、話が通じないと隊長がムチでたたいていた。叩かれた兵隊は、その場で大便をもらしてしまい。泣き出していた。その兵隊たちは分かれて、日本人の家に泊まった。家に帰れば、良き父、良き兄であるのに、戦争で残虐行為をしたのだ。」

 「母が結核になったので、知人のすすめで九州へ引っ越した。内地は朝鮮と違って貧しく、物がなく、食糧の確保が大変だった。父はそれを補うために家族に内緒で畑を仮り、落花生、豆などを作った。教師の仕事をしながら。結核の母の栄養を考えてのことだった。母は『死の病』と言われていた結核を乗り越え長生きしてくれた。私は栄養学校を卒業して、栄養士になり戦後学校給食の仕事をしたが軍隊の錆びた肉の缶詰めが余るほど来た。」


・戦争は「一億総貧乏」軍隊は惨い。
   二度と戦争をしてはならないと思う。

 (新日本婦人の会・緑支部、支部ニュース、より)






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