たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

2024年01月17日 10時18分53秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その5

大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立

出典
金葉集(巻九)

歌番号
60

作者
小式部内侍

歌意
母のいる丹後国は、大江山や生野を通って行く、
都から遠いところなので、あの天の橋立はまだ踏んで見たこともなく
もちろんまだ、母からの手紙も見ていません。

注釈
「大江山」=山城国と丹後国の国境の山(現在の京都府西北部の大枝山のこと)
「いく野」=現在の京都府福知山市にある生野(幾野)
「行く」と、掛詞になっている。
「まだふみもせず」の「ふみ」は、「文(ふみ)」と「踏み(ふみ)」の掛詞。
「踏み(ふみ)」は、「天の橋立」の縁語になっている。
「天の橋立」=丹後国(現在の京都府)宮津湾に有る名勝。
陸前(宮城県)の松島、安芸国(広島県)の宮島(厳島)と共に
「日本三景」の一つになっている。

金葉集の詞書には、
母親和泉式部が父親橘道貞と共に丹後国に下った留守中に
京で歌合が有り、藤原定頼(ふじわらのさだより)から
「歌はどうなさいましたか?、もう丹後の母のもとへ使いを出しましたか?」と
言われ、返答に作った歌であると、記されている。
それは、母親和泉式部の代作ではないかとの噂が立ったのに対し、
そうでは無いというところをはっきりさせるための
定頼と小式部の、絶妙な機知のやりとりだった。


小式部内侍(こしきぶのないし)

和泉式部(いずみしきぶ)と橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘。
母親和泉式部と共に、一条天皇の中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)に仕え、
母親が「式部」と呼ばれたことから、「小式部」と呼ばれた。
「内侍」は、「内侍司」の女官の総称。
才色兼備の才媛、歌才に長けていたが、
母親より早く、25歳位で没している。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌のいずれの区分にも属さないとされる歌も、
まだまだ沢山有るが、「小正月」も過ぎ、
すっかり、「新年気分」?「正月気分」?、「百人一首気分」?も無くなっており、
また、今年の年末まで、中断することにする。

コメント (2)

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

2024年01月13日 11時18分37秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その4

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関

出典
後撰集(巻十五)

歌番号
10

作者
蟬丸

歌意
これがまあ、あの有名な
都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、
互いに知っている人も、知らない人も、
ここで別れてはまた逢うという
その名の通りの、逢坂の関所なのだなあ。

注釈
「これやこの」の「これ」は、代名詞で、「逢坂の関」を指し
一首の主語になっている。
「行くも帰るも」=「行く」、「帰る」の下に、「人」が省略されている。
「別れては」=下の「逢坂」の「逢う」に続いており、
「逢う」と「別れ」の動作の反復を表現している。

「逢坂(あふさか)の関」=山城国(現在の京都府)と
近江国(現在の滋賀県)の国境に有った関所。

(ネットから拝借画像)


感動表現で始まり、体言止めで終わっており、
作者の感動が伝わってくる作品。
対句的表現の調子良さも加わって、
読者に愛唱される名歌となっている。


蟬丸(せみまる)

平安初期の歌人。
盲目の琵琶の名手で、後に、逢坂山に住んだとされている。
「源平盛衰記」「今昔物語」等に伝説的な記述があるが、
その実際は不明。
「蟬丸」は、
蟬の鳴き声のような特殊な発生法で歌う「蟬歌」の名手だったことから
名付けられたと言われている。


川柳

敷島の百里の道に関三つ

「敷島(しきしま)の道」とは、和歌のこと。
「和歌の百人一首には」という意。
「関三つ」とは、
「関所が詠み込まれている句が、3句有る」の意。

歌番号 10 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 
歌番号 62 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
歌番号 78 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守   


川柳

琵琶の曲行くも帰るも立ち止まり

蟬丸が逢坂の関の近くに住んで、
琵琶を弾いて暮らしていたという伝説をとらえて
蟬丸の作品をもじった川柳。 


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

コメント

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

2024年01月11日 10時11分27秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その3

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ

出典
後拾遺集(巻十六)

歌番号
62

作者
清少納言

歌意
夜のまだ深い内に、鶏の鳴き声を真似て、
(関所の門を開けさせようと)騙しても
(函谷関ならともかく)
決して(私達の逢う)逢坂の関は通してはくれません。
(私は、決してあなたの言葉には、乗りませんよ)

注釈
「夜をこめて」の「こめ」は、「包み隠す」の意の動詞で、
「夜であることを隠して」の意。
「鳥のそら音」の「鳥」は、鶏(にわとり)のこと。
「そら音」とは、鳴き声を真似ること。
「はかるとも」は、「騙しても」「たくらんでも」の意。
「よに・・じ」の「よに」は、「このように決して」の意の副詞で、
打消しの語を伴う。
「許さじ」は、「許さない」の意。
「逢坂の関」=京都と滋賀に堺に有った関所。
「男女が逢う」の「逢う」ことにかけた掛詞。

「後拾遺集」の詞書には、
大納言藤原行成(ふじわらのゆきなり)が、
作者(清少納言)の局(部屋)で物語等した後
帝の物忌みのため急ぎ帰った翌朝、
「昨夜は鶏の声に追い立てられましたて・・・」等と
弁解の手紙を寄せてきたが
「その鶏の声は函谷関のそら鳴きでしょう」と切り返したところ、
再び、「あれは、逢坂の関です(あなたと逢い引きしましょう)」と
言ってきたのに対して、詠んだと記されている。

中国の「史記」にある下記の故事を踏まえ、
相手の懸想めいた気持ちを巧みにそらしてしまう、
即興の機知に富んだ作品。

戦国時代、斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が、
秦(しん)に使いをした時、捕らえられ殺されそうになったが、
奇策を用いて逃げ出し、函谷関(かんこくかん)に到着した。
ところが、函谷関は、「鶏(にわとり)が鳴かない内は、開かない」という。
そこで、家来の中で鶏の鳴き真似の上手い者が、
夜が明けていないのに、鶏の鳴き声で騙し、
孟嘗君は、無事、函谷関を通り抜けることが出来た。


清少納言(せいしょうなごん)

「枕草子」の作者。
清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘。
橘側光(たちばなののりみつ)の妻。
一条天皇の中宮定子(ていし)に仕えた才女。
紫式部、和泉式部、赤染衛門等と共に、
王朝女流文学を代表する一人。
中宮定子没後、宮中を退き
藤原棟世(ふじわらのむねよ)の後妻となったが
死別し、晩年は、不遇だったとされている。
家集に「清少納言集」が有る。


川柳

敷島の百里の道に関三つ

「敷島(しきしま)の道」とは、和歌のこと。
「和歌の百人一首には」という意。
「関三つ」とは、
「関所が詠み込まれている句が、3句有る」の意。

歌番号 10 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 
歌番号 62 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
歌番号 78 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守   


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

コメント

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

2024年01月07日 12時09分10秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その2

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ

出典
古今集(巻十七)

歌番号
12

作者
僧正遍昭

歌意
空を吹く風よ、
(天女が通る)雲の中にある通路を吹き閉ざしておくれ。
(舞いが終わっても、直ぐには天上に帰れなくして)
天女のように美しい舞姫の姿を、
ここにもう少し地上にとどめておきたいと思うから。

注釈
「天つ風」は、ここは、呼びかけで
「天の風よ!」「空を吹く風よ!」の意。
「雲の通ひ路」とは、雲の中に有る天上への通路の意。
舞姫を天女に見立て、舞いが終わると天に帰ると想定した表現。
「をとめ」は、「天女」の意。
ここでは、舞姫を天女と見立てている。
「五節の舞姫を見て詠める」という題が付いており、
宮中で毎年11月に行われる「豊明節会」の際に舞う
未婚の美女達のこと。
「とどめむ」の「む」は、意志、希望の助動詞。
「とどめておきたい」と訳す。


僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

第50代天皇桓武天皇(かっむてんのう)の
皇子良岑安世(よしみねのやすよ)大納言の子。
俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ)
第54代天皇仁明天皇に仕え、蔵人頭、右近衛少将となったが、
天皇崩御の際に出家、比叡山で剃髪、35歳で僧侶なった。
「六歌仙」の一人。


「六歌仙」とは、
平安時代初期の優れた歌人6人のこと。

在原業平(ありわらのなりひら) 
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
小野小町(おののこまち)    
文屋康秀(ふんやのやすひで)  
喜撰法師(きせんほうし)    
大伴黒主(おおとものくろぬし) 


川柳
遍昭は乙女になんの用がある
僧正という偉い坊さんなら、俗世間を超越しているべきなのに、
乙女に心ひかれるとは、何事か・・等という
意地悪な、からかいの気持ちの句。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

2024年01月04日 21時05分59秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その1

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな

出典
新古今集(巻十六)

歌番号
57

作者
紫式部

歌意
たまたまめぐり逢って、見たのが月であったかどうかも分からない内に
雲に隠れてしまった、真夜中の月であることよ。
久し振りに、昔親しかった人と偶然めぐり逢ったが、
慌ただしく帰ってしまわれたあなたは、
まるで雲に隠れた夜半の月のようですねえ。

注釈
「めぐりあひて」は、「長い間逢わなかった人に偶然出会う」の意。
「めぐりあひ」と「雲がくれ」とは、縁語。
「見しやそれとも」は、「見たのが、それ(月)であったかどうかも」と訳す。
「わかぬ」の「わか」は、見分けるの意の動詞「分く」の未然形。
「夜半の月かな」の「夜半」は、夜中、真夜中のこと。
「かな」は、詠嘆の終助詞。

「新古今集」の詞書には、
偶然に出会った幼友達なのに、月が西山に沈まない内に、
月と競い合うように慌ただしく帰ってしまったのを、
辛く思って詠んだと記されている。
幼友達とは、女性であり、懐かしさいっぱいだったが、
あまりにも突然のことで直ぐには思い出せず、
あとに一人残され、心残りであることを比喩的に表現している。


紫式部(むらさきしきぶ)



「源氏物語」の作者。
藤原為時(ふじわらのためとき)の娘。
22歳の頃、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、
賢子(かたこ)を生んだが、結婚後直ぐ夫と死別。
「式部」の呼び名は、
夫為時の官名が「式部丞」だったことからきており、
初めは、「藤式部」と呼ばれていた。
後に、源氏物型の主人公「紫の上」に因んで
「紫式部」と呼ばれるようになった。
中宮彰子(しょうし)に仕え、
その宮仕えの体験を、「紫式部日記」に書いている。
家集に「紫式部集」も有る。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

コメント

小倉百人一首で 「恋」を詠んだ歌 (まとめ)

2023年12月21日 11時14分25秒 | 懐かしい小倉百人一首

「小倉百人一首」で、「恋」を詠んだ歌と言われているものは、一般的に、43首とされているようだ。足掛け3年に渡って、順不同、気まぐれに、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に、書き留めてきたが、出揃ったところで、整理、まとめてみた。
古い記事を、クリック、クリック・・・・、で、簡単に、こんなまとめ方が出来るのも、デジタルのおかげ、便利な世の中だとつくづく思う。


百人一首で、「恋」を詠んだ歌 43首

歌番号                                    作者            ブログ記事
03 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む   柿本人麻呂   ⇨  2023.11.24
13 筑波嶺の みねより落つ るみなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる  陽成院       ⇨  2023.10.09
14 陸奥の しのぶもぢずり 誰故に 亂れそめにし 我ならなくに     川原左大臣     ⇨  2022.12.11
18 住の江の 岸によ波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ      藤原敏行朝臣    ⇨  2021.11.14
19 難波潟 短き芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとは    伊勢        ⇨  2021.12.24
20 わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ  元良親王      ⇨  2023.10.29
21 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな   素性法師   ⇨  2022.11.13
25 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな  三条右大臣     ⇨  2021.12.31
27 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ   中納言兼輔   ⇨  2022.11.06
30 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし     壬生忠岑    ⇨  2021.11.16
38 忘らるる 身をば思はず 近ひてし 人の命の 惜しくもあるかな    右近    ⇨  2023.11.19
39 浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき     参議等    ⇨  2022.11.24
40 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで    平兼盛    ⇨  2023.10.19
41 恋すてふ わが名はまたき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか  壬生忠見      ⇨  2022.11.09
42 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは     清原元輔    ⇨  2023.12.06
43 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり     権中納言敦忠  ⇨  2021.12.13
44 逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし 中納言朝忠   ⇨  2023.10.04
45 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな 謙徳公    ⇨  2023.12.19
46 由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋の道かな     曽禰好忠    ⇨  2022.12.25
48 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな   源重之    ⇨  2023.11.09
49 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ  大中臣能宣朝臣   ⇨  2023.12.11
50 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな    藤原義孝      ⇨  2021.11.26
51 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを 藤原実方朝臣   ⇨  2022.11.30
52 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな 藤原道信朝臣   ⇨  2021.12.04
53 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかはする 右大将通綱母   ⇨  2022.12.06
54 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな    儀同三司母   ⇨  2023.12.15
56 あらざらむ このよのほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな 和泉式部    ⇨  2021.11.10
58 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする      大弐三位    ⇨  2023.11.04
59 安らはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな 赤染衛門    ⇨  2022.12.19
63 今はたた 思ひ絶えなむばかりを 人づてならで いふよしもがな    左京大夫道雅   ⇨  2023.11.30
65 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ  相模    ⇨  2021.12.09
72 音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ    祐子内親王家紀伊  ⇨  2022.01.03
74 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを  源俊頼朝臣   ⇨  2023.11.14
77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思う   崇徳院    ⇨  2021.11.05
80 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ      待賢門院堀河   ⇨  2023.10.25
82 思ひわび さても命はあるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり     道因法師    ⇨  2021.12.17
85 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり 俊恵法師    ⇨  2022.01.08
86 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな      西行法師    ⇨  2021.12.27
88 難波江の 芦のかりね ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき  皇嘉門院別当    ⇨  2021.11.30
89 玉の緒よ 絶えなば絶えぬ ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする  式子内親王    ⇨  2021.11.21
90 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず  殷富門院大輔    ⇨  2022.11.19
92 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし   二条院讃岐     ⇨  2023.10.15
97 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ   権中納言定家   ⇨  2021.12.21


もういくつ寝るとお正月
あの頃は 家族で正月 かるた取り
昭和は遠く なりにけり

(ネットから拝借イラスト)

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あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

2023年12月19日 05時58分07秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その43

あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな


出典
拾遺集(巻十伍)

歌番号
45

作者
謙徳公

歌意
冷たくなったあなたへの恋の悲しさで沈んでいる私を
ああ、可愛そうだ、あわれだと言ってくれる人は、
あなたの他に誰も思い浮かばないので、
私は、きっと、このまま、むなしく死んでしまうだろうなあ。

注釈
「あはれともいふべき」の「あはれ」は、
「ああ、かわいそうに」と訳す感動詞。
「べき」は、「はずの」と訳す当然の助動詞、
または、「そうな」と訳す推量の助動詞。
「思ほえで」の「思ほえ」は、「思ほゆ」の未然形。
自然に思いつくという自発の意味を持つ。
「身のいたづらに」の「身」は、作者自身のことで、
「いたづらに」は、「むなしく」「無駄に」と訳す。
「なりぬべきかな」の「なりぬべき」は、
「きっと、◯◯してしまうだろう」の意。
「かな」は、詠嘆。
「身のいたづらに なりぬべきかな」は、
恋に悩んで死ぬことを意味する時に使われる表現。

「拾遺集」には、
「恋の相手が冷たくなって逢ってくれないので」という
詞書(ことばがき)がついている。
男性の歌としては弱々しく、女々しく感じられる歌だが、
平安時代の男性としては、
恋する人をあくまでも恋い慕うことが真実であり、
このような心情は当然のものであったらしい。
死を思うほど、せつなくやるせない恋の嘆きを表現した作品である。


謙徳公(けんとくこう)

藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の諡号(おくりな)
(「諡号」とは、死後、その徳を讃えて送られる呼び名のこと)
摂政太政大臣にまでなり、「一条摂政」とも呼ばれた。
和歌所の別当となり、「梨壷の五人」の主宰者としても知られている。
家集に「一条摂政御集」が有る。
右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の子。
貞信公藤原忠平(ふじわらのただひら)の孫。
藤原義孝(ふじわらのよしたか)の父。
妹の安子(あんし)は、第63代天皇冷泉天皇の母。
娘の懐子(かいし)は、第65代天皇花山天皇の母。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

2023年12月15日 06時05分19秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その42

忘れじの 行く末までは かたければ
今日を限りの 命ともがな



出典
新古今集(巻十三)

歌番号
54

作者
儀同三司母

歌意
「いつまでも忘れまい」と言われる言葉が
遠い将来までも変わらないということは、
難しいことですから
逢えて、その言葉を聞いた今日を最後として
死んでしまいたいと思いますよ。

注釈
「忘れじの」は、「いつまでも忘れまいと約束なさった」と訳す。
「行く末までは」の「まで」は、物事の及ぶ限度を示す副助詞。
「遠い将来までは」と訳す。
「かたければ」=「難ければ」、
「難しいことだから」と訳す。
「命ともがな」は、「そういう生命であってほしい」と訳す。
男は、女性を前にして遠い行く末を誓うが
女は、はかない恋の終わりと共に、
傷つく自分の姿が目に浮かんでくる。
それ故にこそ、今日の幸福に命を掛けようと願う、
刹那的愛に燃え上がる王朝女性の恋の哀歌であり、
通い婚(男が女の家に通ってくる結婚形態)の風習の中に生きる
平安女性の絶唱と言える作品。


儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
従二位高階成忠(たかしななりただ)の娘で、
高階貴子(たかこ)のこと。
円融天皇の朝廷に仕えた後、関白藤原道隆の側室となり、
儀同三司藤原伊周(これちか)を生んだことから、
別称で、「儀同三司母」と呼ばれた。
藤原伊周の他に、藤原隆家、一条天皇の中宮定子(ていし)を
生んでいる。
因みに、中宮定子は、清少納言が仕えたことで知られている。


「儀同三司(ぎどうさんし)」とは、
「儀」(儀礼のこと)は、「三司」(太政大臣、左大臣、右大臣)と
同じという意味で、「准大臣」のこと


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


振り返り記事
(「中宮定子」で、ブログ内検索)
「枕草子」
👇
こちら


(つづく)

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みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ

2023年12月11日 09時09分13秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その41

みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え
昼は消えつつ 物をこそ思へ


出典
詞花集(巻七)

歌番号
49

作者
大中臣能宣朝臣

歌意
禁中の御門、御垣を守る兵士の焚く、
夜は赤々と燃えて、昼は消えている 篝火(かかりび)のように、
私の心の恋の炎も、夜は燃え上がり、
昼は、心が消え入るばかりに思い沈み、
苦しい物思いをしていることだ。

注釈
「みかきもり、衛士のたく火の」の「みかきもり」は、
皇居の多くの御門、御垣を警護する兵士、御垣守のことで、
「衛士(えじ)」も、同じ兵士のこと。
「火」は、篝火(かがりび)のことで、
「御垣守である兵士の焚く篝火の」と訳す。
「夜は燃え、昼は消えつつ」
夜、暗闇の中で激しく燃え上がる篝火、
それにひきかえ、昼間のいかにもうつろな感じの火焚き用具、
激しさと沈鬱の対照を表現し、
炎のような恋の激情と、ままならぬ恋の憂鬱な悩みを
みごとに重なり合わせている。
また、第5句「物をこそ思へ」の字余りは、余韻を感じさせる。


大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)
中臣清麿七代の孫。
伊勢神宮の祭主(神官の長)。
蔵人から讃岐権掾となった。
三十六歌仙の一人。後撰集の選者。
梨壷(なしつぼ)の五人の一人。


因みに 「梨壷(なしつぼ)の五人」とは、
宮中の昭陽舎(梨壷)に設けられた和歌所の寄人(よりうど)だった
源順(みなもとのしたごう)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、
紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)、
大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)の5人。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

2023年12月06日 17時43分33秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その40

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは


出典
後拾遺集(巻十四)

歌番号
42

作者
清原元輔

歌意
固く約束し合いましたよね。
お互いに涙に濡れた袖をしぼりながら
あの末の松山を波が越すことが無いように
私達二人の仲も決して変わることのないようにとね。

注釈
「契りきな」の「契る」は、約束するの意。
「き」は、経験した過去を回想する助動詞、
「な」は、詠嘆の終助詞
「かたみに袖をしぼりつつ」の「かたみに」は、「お互いに」の意、
「袖をしぼる」は、涙に濡れた袖をしぼること。
「末の松山波越さじとは」の「末の松山」とは、
宮城県多賀城市の海岸近くに有った名所で、
どんな高波でも決して越すことは無いと言われていた。
「不可能であること」「起こり得ないこと」を比喩的に用いて、
二人が心変わりすること等あり得ないという約束の内容を
表現している。
「後拾遺集」の詞書(ことばがき)によると、
心変わりした女へ、ある人の代作として詠んだ歌であり、
古今集の「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」を
踏まえた作品なのだという。


清原元輔(きよはらのもとすけ)

古今集時代の歌人深養父(ふかやぶ)の孫。
清少納言の父
平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。
後撰集の選者。
梨壷(なしつぼ)の五人の一人。
河内権少掾(こわちごんのしょうじょう)、周防守、肥後守を
歴任した。


語句や音韻、用法等を借りて表現した
川柳

歌がるた片手に袖をしぼりつつ

百人一首を取る時のスタイルで、
片袖を少したくし上げて押さえたまま、
札を見つめている人の様子。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

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