たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

2月29日、閏日、

2024年02月29日 17時17分18秒 | 暮らしの記録

ほとんど、気にもしていなかったことだが、
今年は、4年に1回巡ってくる閏年だった。
今日は、その閏日。
「OCNブログ人」で、初めてブログなるものを始めてから12年以上になるので、
その間に、閏日が3回有ったことになる分けで、今日は、4回目。
12年前の、2012年2月29日のブログ記事を振り返ってみた。
「へー!、大雪だったんだ!」
昨日の夕食、何食べた?・・・、さえも、さっと思い出せない爺さん、
12年前の今日のこと等、覚えているはずはないが、
ブログの記事や写真を見ると、当時の記憶が炙されてくる。
有難い存在だと思っている。

ハナニラ


振り返り記事
2012年2月29日「雪の閏日」
👇
こちら


(蛇足)

相互フォロワー登録している方で、閏年の閏日2月29日生まれの女性がおられる。
今日は、21回目?の誕生日だという。何歳?
なるほど、その計算では、25回目の誕生日が、満100歳・・・か。

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古い写真から蘇る旅の思い出 ・「蘇州」その3・ 「拙政園」(再)

2024年02月29日 10時35分44秒 | 旅行記

古い写真から蘇る旅の思い出
「蘇州」その3
「拙政園」(再)


かれこれ18年前の2005年12月に、当時、次男が駐在していた中国江蘇省蘇州市(苏州市、スージョウ、スーチョウ、英語 Suzhou)を訪ねたことが有った。まだまだ自営業を続けていた頃でもあり、時間的、経済的に余裕も無かった頃だったが、「今、行くしか無い」、「今でしょ!」と、清水の舞台から飛び降りる思いで出掛けたものだったが、海外旅行等不慣れな老夫婦、ましてや、日本語で通じる添乗員付きのツアー旅行ならまだしも、中国語たるや、「ニーハオ」、「シェイシェイ」、「ハウチー」位しか知らない類で、航空券の手配、ホテルの手配等は日本の旅行会社にしてもらい(フリープラン)、次男には、上海浦東空港まで迎えに来てもらい、帰りには、空港まで送ってもらうまで、何から何まで次男を頼った旅だった。
ほんの数日間の中国滞在ではあったが、次男の案内で、乗り方も分からない鉄道、路線バス、タクシーで移動し、上海市や蘇州市の街中をそぞろ歩いたり、食堂や土産店に入ったり、駅の待合室で並んだり、一般の観光ツアー旅行では味わえない、貴重な体験が出来たものだった。
上海市のホテルに2泊、蘇州市のホテルに2泊したが、蘇州市では、お目当てだった蘇州の名所旧跡観光を、まる1日、やはり次男の案内で忙しく訪ね歩き、大満足の旅だった気がしている。訪ねた先々で撮った写真が残っており、記憶力無しの老脳ではあっても、そんな古い写真を見ると、あの時、あの場所が、昨日のように蘇ってくる。


10時30分頃、「拙政園」の着き、入園した。
当時の門票(入園料)は50元(当時の円換算で、約750円)、

「拙政園(せっせいえん、zhuō zhèng yuán、ジュオ ジォン ユェン)」は、明の時代につくられた庭園で、園名の由来は、西晋の潘岳による「閑居賦」の一節「拙者之為政」(愚かな者が政治をつかさどる)から取ったものなのだそうだ。「中国四大庭園」の一つとされていて、面積 約4万平方メートル、蘇州では、一番広い庭園で、「東園」、「中園」、「西園」の三つの景観からなっている。敷地の半分以上が、池や堀、水がテーマになっている。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている「蘇州古典庭園」のひとつ。
蘇州の庭園作りの方法の一つに、外にあるものを庭園に取り込む「借景」という手法があるが、「中園」を入ってすぐのところから、「北寺塔」を借景とする風景があり、一番のお勧めポイント。


(参考・参照)
「拙政園」
👇
こちら


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「拙政園」園内を、約1時間、逍遥した後、
タクシーで、「観前街」に向かったが、
たまたま、運転手は女性で、男性運転手顔負けの乱暴な運転でビックリ、
急な車線変更、割り込み、対向車線はみ出し追い越しも、平気の平左、
ハラハラ、ドキドキ、約20分間、降車するまで、緊張の連続だった気がする。
日本では、考えられないことで、
運転マナーも、交通ルールも有ったものでなく、
プロの運転手、そんな運転、当たり前だと聞き、
さすが中国?・・、と、つくづく恐れ入ったものだった。

(つづく)

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葉室麟著 「玄鳥さりて」

2024年02月28日 21時59分55秒 | 読書記

図書館から借りていた、葉室麟著 「玄鳥(げんちょう)さりて」(新潮文庫)を、読み終えた。
先日、著者創作の架空の小藩「蓮乗寺藩(れんじょうじはん)」を舞台にした「おもかげ橋」を読んだばかりだが、その際、同じく「蓮乗寺藩」を舞台にした作品として、「玄鳥さりて」が有ることを知り、図書館に予約してあったものだった。


振り返り記事
葉室麟著 「おもかげ橋」
👇
こちら


読んでも読んでも、そのそばから忘れてしまう老脳。
読んだことの有る本を、うっかりまた借りてくるような失態を繰り返さないためにも、
その都度、備忘録として、ブログ・カテゴリー「読書記」に、書き留め置くことにしている。


■目次
 (一)~(二十七)
 解説「友情の賦を歌い続けて」島内景二

■主な登場人物
 三浦圭吾(みうらけいご)・美津・与市・琴、
 樋口六郎兵衛(ひぐちろくろべい)、芳賀作之進(はがさくのしん)、柴省吾、
 津島屋伝右衛門・美津、
 今村帯刀、沼田嘉右衛門、
 蓮乗寺藩藩主永野備前守利景、梟衆(ふくろうしゅう)頭大藏、
 庄屋作右衛門、

■あらすじ等
 本書の舞台は、著者が設定した九州肥前付近(?)の架空の小藩
 「蓮乗寺藩(れんじょうじはん)」(四万石)、
 「忍坂藩(おしざかはん)」(十二万石)の支藩である。

 城下の林崎夢想流、正木十郎左衛門の道場で、先輩後輩の間柄になった、三浦圭吾と、
 8歳年上の樋口六郎兵衛が、藩内の派閥抗争に巻き込まれ、運命に翻弄されていく中で、
 最終的には、「何を守るために刀を振るのか」「本当に大切なものは何なのか」を、
 描いている作品なのではないかと思う。

 片や、豪商津島屋伝右衛門の一人娘美津を娶り、有力派閥の後継者となり、次席家老にまで
 出世するエリート圭吾、片や、藩内随一の剣士でありながら、世渡り下手で、遠島、出奔を
 繰り返す、不運な下級武士六郎兵衛、
 しかし、その対照的な二人の間には、友情の美しさと悲しさが同居、互いを思いやりながらも、
 藩政に翻弄されることになる。男たちの葛藤と覚悟が見事に描かれている。

   吾が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし
   (とても親しいあなたと二人でいるので、高い山が遮って月が、
    この里を照らさなくとも構わない)

 執政達の派閥争いと親政を目論む藩主永野利景の陰謀が複雑に絡み合い、圭吾もまた、
 権勢欲に駆られてしまい、翻弄されるばかりで、幾度となく命を狙われる。
 そのたびに六郎兵衛に助けられ、思慕に似た友情はゆるぎないものだったが、
 不幸な藩に生まれた武士の悲運、圭吾は、藩主永野利景に、六郎兵衛との決闘を命じられ、
 窮地に追い込まれ、死を覚悟する。

  「武士には、殿に命じられたほかの生き方がない」
 凄まじいクライマックス、圭吾は刀を捨て、目を閉じた。・・・・・・、「三浦殿ーー」、
 「玄鳥(げんちょう)」とは、「燕(つばめ)」の異称である。

 表題の「玄鳥さりて」の「玄鳥」は、六郎兵衛を指しているのだろうが、圭吾もまた「玄鳥」
 なの
かもしれない。
  大阪に出た圭吾は、箭内仙庵(やないせんあん)という学者の塾に入って、
  次第に学問を究めていった。そのころ圭吾は頭を総髪にして、
  「燕堂(えんどう)」と号した。号の謂れをひとから訊かれると、
  「去った燕に戻ってきて欲しいからです」と笑みを浮かべて答えた。
  蓮乗寺藩藩士、樋口六郎兵衛については、藩の記録に、
  「不祥ノ事アリて出奔ス」と、記されているだけだった。
 で、終わっている。


「玄鳥」で、
藤沢周平著の「玄鳥」を思い出した。
振り返り記事
藤沢周平著 「玄鳥」
👇
こちら


 

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「ワン・オクロック・ジャンプ(One O'clok Jump)」(再)

2024年02月27日 20時49分43秒 | 懐かしいあの曲

当地、今日も、快晴ではあったが、
冷たい風が吹き荒れ、ヒュー、ヒュー、ガタ、ガタ、
体感的には、真冬並みに寒い1日だった。
午前中、車で妻の送り迎えしただけで、
あとは、コタツムリ?、
毎度のこと、夕食前の手持ち無沙汰な時間、
久し振りに、ジャズを聴きたい気分になり、
古いレコード盤やCDを引っ張りだしているが、
その内の1枚に、「カウント・ベイシー」(全14曲)が有る。
ジャズに詳しくもない類いではあるが、
なんとなく脳裏に焼きついている曲に、
「ワン・オクロック・ジャンプ(One O'clok Jump)」が有る。
カウント・ベイシー楽団(Count Basie and his Orchestra)のバンドテーマ曲でも
あった曲だ。

今更になってネットで調べてみると
カウント・ベイシー(Count Basie)は、アメリカジャズのピアノ奏者であり、バンドリーダーで、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共に、スイングジャズ、ビッグバンドの代表奏者に挙げられている。
バンドのテーマ曲、「ワン・オクロック・ジャンプ(One O'clok Jump)」の曲名の由来については、カンサスシティーのある局の深夜ラジオでライブ演奏していた時、アナウンサーから曲名を問われ、ベーシーがとっさに時計を見て、「1時のジャンプ」と答えたことによるものと伝えられているようだ。

「ワン・オクロック・ジャンプ(One O'Clock Jump)」 (YouTubeから共有)

陸上自衛隊第1音楽隊演奏の「ワン・オクロック・ジャンプ」 (YouTubeから共有) ♫ 

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古い写真から蘇る旅の思い出・「蘇州」その2・「北寺塔、旧市街」(再)

2024年02月27日 08時26分29秒 | 旅行記

古い写真から蘇る旅の思い出
「蘇州」その2
「北寺塔、旧市街」(再)


かれこれ18年前の2005年12月に、当時、次男が駐在していた中国江蘇省蘇州市(苏州市、スージョウ、スーチョウ、英語 Suzhou)を訪ねたことが有った。まだまだ自営業を続けていた頃でもあり、時間的、経済的に余裕も無かった頃だったが、「今、行くしか無い」、「今でしょ!」と、清水の舞台から飛び降りる思いで出掛けたものだったが、海外旅行等不慣れな老夫婦、ましてや、日本語で通じる添乗員付きのツアー旅行ならまだしも、中国語たるや、「ニーハオ」、「シェイシェイ」、「ハウチー」位しか知らない類で、航空券の手配、ホテルの手配等は日本の旅行会社にしてもらい(フリープラン)、次男には、上海浦東空港まで迎えに来てもらい、帰りには、空港まで送ってもらうまで、何から何まで次男を頼った旅だった。
ほんの数日間の中国滞在ではあったが、次男の案内で、乗り方も分からない鉄道、路線バス、タクシーで移動し、上海市や蘇州市の街中をそぞろ歩いたり、食堂や土産店に入ったり、駅の待合室で並んだり、一般の観光ツアー旅行では味わえない、貴重な体験が出来たものだった。
上海市のホテルに2泊、蘇州市のホテルに2泊したが、蘇州市では、お目当てだった蘇州市の名所旧跡観光を、まる1日、やはり次男の案内で忙しく訪ね歩き、大満足の旅だった気がしている。訪ねた先々で撮った写真が残っており、記憶力無しの老脳ではあっても、そんな古い写真を見ると、あの時、あの場所が、昨日のように蘇ってくる。


「留園」から、タクシーで約15分、
10時45分頃、「北寺塔(ベイスーター)」に到着したが、
「北寺塔」門前には、「修復工事中」の表示有り、残念なから入園出来ず、
門前で、証拠写真?、カシャ!

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「北寺塔」は、庭園が集まる蘇州の「旧市街」の北に位置に有る「報恩寺」の境内に建つ仏塔のことで、蘇州でもっとも古い史跡の一つなのだという。
三国時代、西暦250年前後に、呉の王が母のために建てたとされているが、現存の塔は、その後、南宋時代に修復されたもの。塔の高さは、76m、八角形で、蘇州駅や拙政園などからも見え、蘇州の最古のランドマークとも呼ばれているのだそうだ。塔の内部に入ることも可能で、最上部からは蘇州の街全体を見渡すことが出来るという。


(参考・参照)
「北寺塔」
👇
こちら


「北寺塔」を断念し、次に訪れる「拙政園」に向かおうとして、バス停へ。
どうも、時間的に、都合の良いバス便が無かったことと、
歩いて行ける距離だというので、「旧市街」を歩くことにした。

「北寺塔」バス停

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蘇州の「旧市街」の街並み、
街路樹の鈴懸(プラタナス)が、印象的だった。
「根本が白いのは、何?」
毎年冬季間、寒さから守るため、また、防虫対策として、
地面から1m位まで、石灰?が塗られることになっているそうで、納得。

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商店街

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八百屋

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本屋

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居酒屋?

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食堂?

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「旧市街」の通りをぶらつくような観光客等はいないだろうな等と話しながら・・・。

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蘇州の「旧市街」は、「東洋のベニス」と呼ばれている程で、
いたる所に、古い水路や運河が見られる。

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遊覧船乗り場?

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30分程歩いて、「拙政園」入口方面への道路に着いたが、
工事中で道路は通行止めになっており、
「拙政園」へは、さらに、グルっと半周しなければならないことが分かった。
移動時間節約のため、
次男は、すかさずタクシーをつかまえ、「拙政園」入口へ向かった。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

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杉花粉飛散一気に加速?

2024年02月26日 13時26分48秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日は朝から快晴、
陽だまりは、かなり暖かいものの、
冷たい北風が吹き荒れており、
体感的には、真冬並みの寒さ、
  ここ数日、歩いていないし・・・、
  いかん、いかん、
午前中、やおら重い腰を上げ、
ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約4,700歩。
帰った直後のこと、
くしゃみ、鼻水、目のかゆみ・・・、
「雨後」、「晴」、「強風」は、
杉花粉が、最も飛散しやすいと言われており、
まともに、食らったようだ。
1~2時間後には、平常に戻った感じだが、
やれ、やれ、・・・である。
  春の風厄介者も連れてくる
ラ、ラ、ラ、赤い花束車に積んで、春が来た来た、丘から町へ ♫

ミモザ?
かな、

エリカ

ヒヤシンス

 

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古い写真から蘇る旅の思い出・「蘇州」その1・「留園」(再)

2024年02月26日 10時14分46秒 | 旅行記

「gooブログ」に引っ越してくる前、
「OCNブログ人」で初めてブログを始めて間のない頃に、
一度書き込んでいた記事を、今更になって、
順次、コピペ、リメイク(再編集)することにしている。


古い写真から蘇る旅の思い出
「蘇州」その1
「留園」(再)

かれこれ18年前の2005年12月に、当時、次男が駐在していた中国江蘇省蘇州市(苏州市、スージョウ、スーチョウ、英語 Suzhou)を訪ねたことが有った。まだまだ自営業を続けていた頃でもあり、時間的、経済的に余裕も無かった頃だったが、「今、行くしか無い」、「今でしょ!」と、清水の舞台から飛び降りる思いで出掛けたものだったが、海外旅行等不慣れな老夫婦、ましてや、日本語で通じる添乗員付きのツアー旅行ならまだしも、中国語たるや、「ニーハオ」、「シェイシェイ」、「ハウチー」位しか知らない類で、航空券の手配、ホテルの手配等は日本の旅行会社にしてもらい、次男には、上海浦東空港まで迎えに来てもらい、帰りには、空港まで送ってもらうまで、何から何まで次男を頼った旅だった。
ほんの数日間の中国滞在ではあったが、次男の案内で、乗り方も分からない鉄道、路線バス、タクシーで移動し、上海市や蘇州市の街中をそぞろ歩いたり、食堂や土産店に入ったり、駅の待合室で並んだり、一般の観光ツアー旅行では味わえない、貴重な体験が出来たものだった。
上海市のホテルに2泊、蘇州市のホテルに、2泊したが、蘇州市では、お目当てだった蘇州市観光を、まる1日、やはり次男の案内で忙しく訪ね歩き、大満足の旅だった気がしている。訪ねた先々で撮った写真が残っており、記憶力無しの老脳ではあっても、そんな古い写真を見ると、あの時、あの場所が、昨日のように蘇ってくる。

蘇州で、まず最初に訪れたのは、ユネスコの世界遺産に登録されている「蘇州古典園林」の一つ、「留園(リイウユエン、リユウユアン)」だった。清代の個人庭園の傑作と評され、「中国四大庭園」の一つに数えられている庭園だ。
当時の門票(入場料)は、30元(当時、約450円)。

蘇州市は、上海の西側に位置し、江蘇省東南部に位置する人口約1000万人の都市。北に、長江が流れ、北京と杭州を結ぶ京杭大運河が通るなど古くから運河を利用した水運が生活に用いられ「東洋のヴェニス」とも称され、その地の利から古くから経済の中心地として栄えてきた。
紀元前に、城壁が築かれ都となり、すでに2500年の歴史を持っており、現在はどう変わっているか不明だが、当時はまだ、「旧市街」には、新しいビルなどはほとんど無く、一方、「新市街」には、近代的なビルや高層住宅などが立ち並び、開発途上、「新」と「旧」が共存している都市というイメージだった気がする。

 

「留園」の園内風景

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「留園」のハイライトの一つ。まっすぐに天に向かって伸びる太湖石「冠雪峰」。
高さ6.5m1枚岩で、その姿は迫力がありながら、エレガントな佇まいでもある。

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庭園内には、さまざまな趣向を凝らした美しい建物が有り、
その内部には、繊細な装飾や重厚感のある調度品が設えられている。

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まずは世界遺産の庭園「留園」を見学

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当時、中国のトイレには、間仕切りが全く無い「ニイハオトイレ?」が有ると聞かされていて、「ニイハオトイレだったらどうしよう」とビクビクしていた気がするが、さすがに世界遺産の園内の公衆トイレは、最新式の水洗トイレに改装されていた。本物か偽物かは不明だったが、確か、「ToTo」の文字が見えたような気がする。
出てきてから、思わず、「水洗トイレだったよ」と、声を上げた記憶がある。
「留園」の園内を1時間程で巡って後、移動時間節約、タクシーで、「北寺塔(ベイスーター)」へ向かった。


(参考・参照)
「蘇州市公式観光サイト」
👇
こちら


(つづく)

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その43(再)

2024年02月25日 18時28分51秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その43
「十二ヶ岳(じゅうにがたけ)・節刀ヶ岳(せっちょうがたけ)」(再)

かれこれ26年前、1998年4月に、当時、一時所属していた山の会の仲間と、山梨県の「十二ヶ岳・節刀ヶ岳」を訪ねたことが有った。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ほんの数枚だが、プリントした写真がアルバムに貼って有る。
「OCNブログ人」でブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込み、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んであったが、コピペ、リメイクすることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


歩行コース・歩程等

文化洞トンネル前駐車場→ミネ山→毛無山→一ケ岳→十二ケ岳→金山→節刀ケ岳→
金山→鬼ケ岳→鍵掛峠→根場
(標準歩行時間=約5時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

午前9時30分頃、文化洞トンネル前駐車場を出発したようだ。
雨具こそ不要だったが、雨雲が低く垂れ込め、どんよりした天気だった気がする。
毛無山山頂までは、ミネ山(標高1,241m)経由で、標高差600mの急登。

途中、ヒトリシズカの群生、イカリソウ、アケボノスミレ、エイザンスミレ、マイヅルソウの群生、シロバナエンレイソウ、コイワザクラの群生、コバイケイソウの群生等が見られたようだが、当時はまだ、花の写真を撮ろうという意識がまるで無かったようで、花の写真は、1枚も残っていない。

10時50分頃、毛無山山頂(標高1,500m)に到着、
展望抜群のはずだが、霞んでおり・・・、
眼下には、河口湖、

富士山も、見え隠れ、

三ケ岳と八ケ岳の間には、ロープ、鎖場、吊り橋が有り、                         十ケ岳から十一ケ岳の間のキレットは、かなり難所。要注意だった。

12時45分頃、十二ヶ岳山頂(標高1,683m)に到着。(山梨百名山)

十二ヶ岳山頂で昼食、休憩後、金山、節刀ヶ岳へ向かったが、
まずは、鞍部への急下降、
毛無山から金山までの間には、ロープ、鎖場、吊り橋数ヶ所、
アップダウン激しい岩場の連続等が有り、要注意。
慎重に、時間をかけて辿ったと思う。

14時15分頃、金山(標高1,686m)に到着、
ザックをデポし、節刀ヶ岳をピストン。

14時30分頃、節刀ヶ岳山頂(標高1,736m)に到着、(山梨百名山)

節刀ケ岳から望む十二ケ岳

金山山頂に戻り、小休憩後、鬼ヶ岳へ向かう。

15時20分頃、鬼ケ岳山頂(標高1,738m)に到着、(山梨百名山)
山頂には、の角のように見える岩が有る。

鬼ケ岳から望む節刀ケ岳、

16時20分頃、鍵掛峠を通過、
鍵掛峠からは、よく整備されたジグザグ登山道を、快調に下山。
17時30分頃、根場(ねんば)に到着したようだ。
富士山周辺の山々は、当時、仕事で出掛けた折等でも、頻繁に眺めていたものだが、
山歩き初心者とて、なかなか自分で歩いて見ようという気が起きなかったような気がする。
山の会の誘いで訪れて、目から鱗・・・、
その後、他の富士山周辺の山のいくつかにも訪れるようになった気がしている。

 

 

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松本清張著 「信玄戦旗」

2024年02月25日 09時52分16秒 | 読書記

通っている図書館は、毎年2月の中旬から下旬に掛けての2週間、蔵書の点検整理作業のため休館となるが、今年も今、その休館中で、次に本を借りられるのは、来週以降になるため、なんとなく手持ち無沙汰な感じになっている。
ふっと、書棚に並んでいる本の1冊、松本清張著 「信玄戦旗」(角川文庫)に目が止まり、以前、ちょこっと読んだ気がするが、改めて読んで見る気になった。
自分で買った記憶無く、息子達が買って置いていったものなのか、妻が実家から持ってきたものなのか、定かではないが、数年前に大胆に本類を廃棄処分した際にも、なんとなく残しておいた本だ。
戦国時代の雄、武田信玄の生涯を描いた作品だが、小説としての面白さに合わせて、著者の幅広く、深い歴史考察が織り込まれ、随所に、解説図や参考図等、資料が挿入されていて、改めて歴史の勉強にもなり、引き込まる書である。

松本清張著 「信玄戦旗」

■目次
「山峡の源氏」「雪中初陣」「実父追放」「信濃の征旗」「拡張政策」「好敵手」
「八幡原の白い闇」「同盟の崩壊」「上洛急速」「伊那路に堕つ」
解説 武蔵野次郎


■あらすじ等
戦国乱世のただ中に、天下制覇を目指した名将武田信玄。その初陣から無念の死まで、波乱激動の生涯をたどる迫真の長編時代小説である。大国の当主同士が一騎打ちを演じた唯一の合戦として名高い川中島の戦い、軍師山本勘助の巧妙な活躍ぶりなど、歴史の転換点、名場面の仕組みを周到な時代考察をふまえて、鮮やかに描いていく。虚々実々のかけ引き、壮大な勇気、そして決断のあり様などに魅きこまれるうちに、今を生きる私たちの処世や対企業組織の活路が見えてくる。巨匠による、異彩をはなつ歴史読物になっている。
第1章「山峡の源氏」では、甲斐国の解説や、武田氏の起源成り立ち、当時の時代情勢等が実に丹念に描かれている。
例えば、

   甲府というのは、江戸時代になってからの名である。もとは府中である。
   信玄が死んだのち、
子の勝頼が北西の韮崎に城を築いてこれを新府中といった。
   その勝頼の新府に対して信玄の
旧都のほうを古府(こふ)と呼んだのだ。
   古府(こふ)がのち甲府の字に置き換えられた。

   「甲陽軍鑑」に「甲府」と出ているのは、同書が江戸時代に書かれたものだからである。
   甲府の旧い人は、韮崎のほうをいまでも「ご新府さま」と敬称で言っている。
第2章「雪中初陣」以降は、数多の歴史時代小説でも描かれている、武田信玄の出生、父親信虎との確執、川中島の合戦、三方ヶ原の合戦等、数多の戦い、上洛への道等々、おおかたの筋書きは、誰でも知っているようのものであるが、小説にも拘らず、随所に解説図や参考図等資料を添えながら描いており、

「なるほど、なるほど・・・、」
「へー!、そうだったの!」
小説の面白さ以上に、歴史の参考書にもなるような書だ。

挿入されている資料の一部

      躑躅ヶ崎館配置図              上杉・武田・北条・今川勢力図

 

     甲斐武田氏系図              上杉氏系図

 

武田・今川・北条婚姻関係図

      武田二十四将図               「風林火山」「諏方法性」の旗

 

戦国時代合戦武具

     信玄信濃侵略図                 謙信軍「車懸り」

 

戦国武将家紋

三方ヶ原合戦要図

 信玄上洛軍、侵攻・撤退コース           晴信信玄花押

 

「松本清張」と言えば、「推理小説の分野の第一人者」とされることが多いと思うが、歴史時代小説の分野でも、優れた作品を遺しておられるという。
数年前に図書館から借りて読んだ、「無宿人別帳」「鬼火の町」もその一つ。読書初心者故、その他の作品、まだ、全く読んだことが無いが、手を伸ばすよう心掛けたいものだと思っているところだ。


振り返り記事「鬼火の町」
👇
こちら

振り返り記事「無宿人別帳」
👇
こちら


 

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畑も冬から春へ・・、

2024年02月24日 18時14分01秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日は昨日と打って変わって「快晴」。
日中の気温も、10℃前後まで上がったようだ。
明日以降は、また、愚図ついた天気が、予報されており、
今日、行くべし・・・。
午後になってから、やおら重い腰を上げ、
Go To 畑! と相成った。

(1)コマツナ、サニーレタスの寒冷紗外し。
   第1陣のコマツナは、すでに片付け済みで、
   第2陣のコマツナだが、まずまず生育している様子。
   寒冷紗に守られて、ホトケノザ等、雑草まで蔓延っており、
   草取り(草抜き)してやらないと・・・、

(2)ダイコン、2本収穫
   まだ、10本近く残っているが、
   今冬のダイコン、今のところ、
   まだ スが入ったり、割れたりしておらず、マトモ・・。
   不思議?

(3)残っていたハクサイを全部収穫、片付け、
   出来が超悪く、お裾分け等は、控えた今冬のハクサイだったが、
   ウチで食する分には、十分、間に合ったという感じだ。

畑地全体に蔓延っているホトケノザ、
よく見れば、可愛らしい花を咲かせているが、畑地では、厄介者?
近日中に、草取り(草抜き)をし、春の土起こしをしないといけない。


爺さんの備忘録的花図鑑「ホトケノザ」
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