快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀 本能寺の変後に送られた密書をどう見るか

2018-05-22 12:54:57 | 明智光秀
 本能寺の変が起きた後、明智光秀が反信長派へ宛てた密書が去年話題になりました。
 
引用開始(一部抜粋)

https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c

明智光秀
密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

毎日新聞2017年9月12日 03時00分(最終更新 9月12日 03時00分)

 本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。

引用終了

 この密書の信憑性については特に疑問とは考えていません。十分に有り得る事とは思います。
 ただ知略家と言われた明智光秀が本能寺の変の後に、後手後手で足利義昭を擁立する事など、おかしな話だと考えています。
 毛利氏が足利義昭を手放すわけがないと言う旨は以前に記事にも書いた通りですが、秀吉とて足利義昭を決して明智方に渡さない体制を採っていたと考えるのが普通ではないでしょうか。
 中国大返しがトコロテン方式の部分もかなり有ったと言う可能性については以前にも記事にしましたが、ある程度の将兵は毛利氏領の近辺に残していた、そして足利義昭の上洛阻止、毛利氏が万が一追撃した場合の待ち伏せなど、体制をしいていたのだと考えています。
 何しろ、「信長を討ったとされてしまった明智光秀は逆臣と言うレッテルを貼られてしまう」わけで、それを覆すには征夷大将軍である足利義昭を擁立するしか選択肢は無かった、と言う状況のはずと考えています。
 仮に光秀が計画的に信長を討つ事を考えていたのだとすれば、足利義昭をまず毛利氏や秀吉の力が及ばない、例えば四国の長宗我部氏の下に移動させる準備を周到に十分行ってからしか実行しない、とする見方を個人的にはしています。
 これが何を意味しているかと言うと、「本能寺の変は明智光秀の想定外で発生してしまった。逆臣のレッテルを貼られてしまう可能性が高かった光秀は後手後手ではあっても足利義昭と連携しているジェスチャーで味方を少しでも増やすしか選択肢が無かった。」と言う事かと思います。
 もしそうでなければ、光秀の脳科学の観点から見て判断能力が著しく低下していた、としか考えられないと思っています。