8月30日、米欧等西側諸国との冷戦状態を終わらせたソ連最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフ元大統領がモスクワで病気のため91歳で死去した。
1980年代半ばに疲弊していた体制を立て直す「ペレストロイカ」政策に取り組んだが、結果としてソ連崩壊を招き、国内では批判にさらされた。
一方でノーベル平和賞を受賞するなど外国では高く評価された。
ゴルバチョフ氏は1931年生まれ、55年に名門モスクワ大法学部を卒業し、故郷で党官僚のキャリアを歩み始め、71年にソ連共産党の中央委員に抜てきされた。80年に政治局員となり、85年に54歳でトップの党書記長に就いた。
ソ連は79年に始めたアフガニスタンへの軍事介入が泥沼化し、政治や経済の体制が疲弊していた。
ゴルバチョフ氏はペレストロイカの旗振り役として個人の営業を認めるなど、経済改革に踏み切った。社会生活でも86年4月にウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故が引き金となり、情報公開(グラスノスチ)を進めた。
外交ではシェワルナゼ外相と共に「新思考外交」を推進。87年にアメリカと中距離核戦力(INF)全廃条約を結び、89年にアフガンへの軍事介入を終わらせた。
ベルリンの壁の崩壊など、東欧で社会主義政権が倒れていった際には介入を避けた。同年末にはアメリカと共に冷戦の終結を宣言するなど、国際社会の緊張緩和に貢献し、90年にノーベル平和賞を受賞した。
内政では90年に共産党の一党独裁を廃止し、初代のソ連大統領に就任するなど変革を試みたが、むしろ権力基盤は揺らいだ。当時のソ連国家保安委員会(KGB)ら保守派の反発を招き、91年8月の休暇中に軟禁されるクーデター未遂事件を許した。
事件はゴルバチョフ氏の権威を失墜させる一方で、徹底抗戦したエリツィン・ロシア共和国大統領(当時)による主導権の掌握を決定づけた。
エリツィン氏らは91年12月、ソ連を構成する共和国が参加した独立国家共同体(CIS)の発足を表明。ゴルバチョフ氏は大統領を辞任し、69年続いたソ連の歴史に幕が下ろされた。
退任後はゴルバチョフ基金総裁に就き、国内外で評論活動などに従事した。96年のロシア大統領選に出馬したが、得票率は1%に満たず、国内の低い評価は覆らなかった。
日本にはソ連大統領時代の91年4月に初訪問し、海部俊樹首相(当時)と北方領土問題を話し合ったが、進展を図れなかった。妻のライサさんとはモスクワ大学時代に結婚したが、99年に先立たれていた。「毎日新聞」
ソ連は、スターリン後も共産党一党独裁の暗黒社会が続き、フルシチョフ書記長などを除き強権的イメージを持った指導者が続いていたが、それをがらっと変えたのがゴルバチョフ書記長だった。
極力、アメリカをはじめ西側指導者との接触を増やし、アメリカのレーガン大統領と核兵器削減など冷戦構造の解消に努めた。
ソ連の指導者のノーベル賞受賞はゴルバチョフ氏が初めてで、その時点では適切な受賞として持てはやされた。
ペレストロイカ、グラスノスチを駆使した、ゴルバチョフ氏の驚異的な体制改革への挑戦は世界中の注目を一手に集めた。
現在、ロシアのウクライナ軍事侵攻という悲惨なプーチンの戦争が続けられているが、この侵略をゴルバチョフ氏はどのように見ていたのだろうか。
恐らく、プーチン大統領がゴルバチョフ氏だったなら100%このような愚挙は無かった筈だ。