花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

冬対策が欠陥している仮設住宅

2012年01月31日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
ニュースや新聞によると東日本大震災の被災者用仮設住宅で、水道の凍結や破裂、結露、凍上など深刻な冬場の問題が起きているという。
さもありなんと思った。氷点下になり、大雪が降る冬の住まいには不適切な住宅なのだろう。
応急で建てた住宅だったとはいえ、人がそこで東北の冬を越す事を考えなかったとしか言えないのだと思う。

水道管内の水は零下で凍るのだ。水道管を断熱材で保護するとか、床下を吹きさらしにしないとか、最低の基準として考えるべきだった。
また、家の壁や床、屋根の断熱はほとんどなされていないのではと思って見ているが、そうなれば暖房で温められた空気が窓、壁、床の表面に触れて冷やされると、当然結露になる。
放置すれば構造体が腐食し、カビの温床となるし、それが長期に渡れば住む人の健康被害にもつながりかねない。
政府や自治体はこうしたトラブルを予想しなかったのだろうか。あるいは知っていても費用削減、応急建設という事で無視したのだろうか。

北海道では長い間の研究から、これらの問題を乗り越える寒冷地住宅作りを目指して来て、実際に費用は高くなるが高気密高断熱の住宅が建てられて来たので、一般人の私でも水道管の凍結や結露について基本的な知識位は持っているのである。
寒さと結露に悩む人たちの住生活を考えると、仮設住宅のこうしたトラブルの解決策が早急に取られることを願いたいし、来年も冬を越す人たちのためには費用はかかっても厳しい冬を乗り越えるための抜本的な改善策を考慮する必要があると思う。

                  
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一日中除雪

2012年01月28日 | 日記
今朝の気温はー10.5℃と随分暖かくなって喜んだが、外を見ると、昨夜10cmほど雪が降ったらしく、朝食後、除雪した。しかし、途中で手が冷えて痛くなったので、家に入り、温めてからまた出て除雪した。
やれやれとTVを見ていたら、急に空が暗くなって来て、昼過ぎから雪が降り出した。それが見る見る内に激しい降り方になって行くではないか。

もう一度除雪をして置いた方が良いだろうと2時半に外に出て見て驚いた。朝、すっかり除雪を済ませて置いたのに、物差しを立てて見たら降り出してからわずか3時間で40cmも降ったのだ。近所の人達も銘々除雪をしている。仕方なく私も3回目の除雪に取り組んだ。

今日だけで50cmの雪が積もった庭に除雪分の雪を捨てるのですっかりうず高く雪が積もってしまい、雪を高く跳ね上げる際に力が要るのだ。まあ健康にいいと思って前向きにやったが、そろそろ捨てる場所がなくなって来た。歩数計は朝から今までで5000歩を越えた。
先程、札幌のマンションにいる友人からメールが来たが、「寒くて外出もできないので、体が鈍りそうで困っている」と書いてあった。
雪は今も激しく降り続いていて、予報では夜半まで降るという。暗くなる前にもう一度、除雪した方がいいかもしれない。この後も心配だ。

      

 

  



17時過ぎにまた外へ出て見た。さらに15cm積もっていた。ベランダがすごい雪になっていたので庭に跳ねた。
17時半、やっと雪が止んだ。これ以上降って欲しくない。

夕食を食べ、休養してから21時近くに最後の除雪に出る。道路、歩道にすでに除雪車が入っていて、車庫前に除雪車が置いて行った雪が盛り上がっていた。その雪は各戸の責任なので除雪すること40分。流石にこの時間になると近所の人は出ていない。街灯の光の下で黙々と除雪した。
今日1日で5回作業したが、今夜降らなければ明朝はゆっくり寝ていられるかな。(下は除雪を終えた車庫前から、歩道と車道の間にできた雪山を写した)

    
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循環器内科通院日

2012年01月27日 | 医療・健康問題・食生活
午前中、循環器内科の3か月に1度の診察に行った。
外気温は7時半にー18.2℃をつけ、今冬最低だった。
9時過ぎに車で病院に向かった。いつもの交差点を右折したが、路面がツルツルだったため車が滑って急に右に向かって、雪の壁にぶつかりそうになった。慌ててゆっくりハンドルを左に切って、何とか正常に立て直した。
こんなことは8年ぶりだ。対向車が来なかったから良かったが、そうでなければ衝突事故を起こしていただろう。真冬の路面は本当に危ない。

病院では採血と採尿の検査があり、2時間半後にやっと主治医の診察室に呼ばれた。
真っ先に「中性脂肪、悪玉コレステロールが高くなったよ。美味しいものを食べたんでしょう。」と言われた。そして3年前からの血液検査の結果が折れ線グラフで書かれた紙の今回の結果に赤丸を点けて渡された。
私は「検査日が今日だったので、悪い予感がしていました。正月とかあったからこんなだと思います。」と言い訳をした。すると「患者さんみんな正月だったのに、変化なかった人も多いよ。」と言われてしまった。
やれやれ、私の年齢の半分にもならない医師にきつく言われると、やはり少し落ち込む。 (;_;
血圧と心音はOKだった。
次回の診察は、4月下旬だ。それまでに油もの、甘いもの、食べ過ぎを控え、運動をしなければならないのだが…。

                 
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マレーシアの旅(9)

2012年01月22日 | 海外旅行「東南アジア」
≪最後に≫
思い切って出かけたマレーシアだったが、現地ガイドは戦時中の日本統治にはほとんど触れず、私達を気遣ってくれた様子だった。しかし、私は『旅行ガイドにないアジアを歩くーマレーシア』(梨の木舎)を図書館で見つけて借り、当時の実情を知った。

        
それによると、マレーシア国内にある日本人に殺された人たちの「追悼碑」は、著者たちが調査したものだけで70か所以上あり、中には赤ん坊を含む村人全員が虐殺されたとか、村の男性数十人が広場に集められて殺され、放置されたり埋められたりしたという場所も何か所にものぼっている。(彼らに穴を掘らせてから側に並んで立たせ、背後から銃を撃ったり銃剣で刺して殺戮して埋めたという調査も出て来る。共通したやり方は、集めた大勢の人達を幾つかに分けて兵士が4~5人ずつ付き、離れた場所に連行してから殺害したと書かれていた)

また、北ボルネオ島の売られた日本人女性『からゆきさん』で有名な「サンダカン」では、1944年11月に連合軍の大空襲を受け始めると、この地の放棄を決めた日本軍は、軍事用飛行場の造成をさせていた連合軍のオーストラリア軍、イギリス軍の捕虜を含む1000人強の兵士の逃亡を恐れ、250km離れたラナウまで険しいジャングルを3回に分けて強行行進させたという。
この途中、熱帯というだけでなく、食糧不足、過労で多くが倒れたり病気になり、その都度、刺殺、射殺された犠牲者が多く出て、日本の敗戦時にはわずか6人しか生存者がいなかったというのだ。「サンダカン、死の行進」といわれるこれらの事実を日本の私達にはあまり知らされていない。
私はこの本を読んで、今までナチスドイツが行ったおぞましいホロコーストや日本軍が中国で行った残酷非道な行いに心を傷めて来たが、ここでもまた、敗戦までの僅か3年9か月の間に、日本軍は大勢のマレーシア人(日本軍は、抗日運動をした中華人の排除を狙ったのだというが)や、連合軍捕虜を殺害したのである。
歴史に「もし」は無いというが、もし日本の侵攻が無ければ、マレーシアはもっと早くに大きな発展を遂げていたのではとも思ったりするのだ。
こうした史実を私達も知って、今世紀以降の国のあり方、国政の進み方に生かさなければならないと強く思う。

僅か数日間の旅行だったが、本当に行って良かった。私のつたない体験ではあるが、まだマレーシアに行った事がない方々や長くなった旅日記にお付き合いいただいた方々には、マレーシアという国について少しは身近に感じていただけただろうか。
旅を終えた今、今度はもう一つのマレーシア領である「北ボルネオ島」と、かってマレーシアだった「シンガポール」に行きたくなっている。(完)
                    
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マレーシアの旅(8)

2012年01月21日 | 海外旅行「東南アジア」
≪マラッカ観光≫
旅行5日目の朝は、「クアラルンプールタワー」とヒンズー教の神々を祀った鍾乳洞「バツー洞窟」に行くオプションがあったが、私は健康上の理由で参加せず、ホテル周辺の地域でセヴンイレブンや小型スーパーを覗いたりした。
昼近くに全員でバスに乗り、有名なチョコレート店に行った。
敷地内にカカオの木が数本植えられていて、ガイドがカカオの実①を教えてくれた。外国人で溢れている店では、美味しいが高価なチョコレートが売られていた。試食後、苺を包んだのとアーモンドを包んだチョコレートを土産に買った。
店の前に果物屋が屋台を出していて、ランブータン他の南国の果物が並んでいた。②

 ① ②

  ⇒⇒

美味しい中華料理の昼食後、バスは南東の世界遺産「マラッカ」を目指して145kmの道を2時間半走った。
「マラッカ」は、1396年にスマトラ王に発見されてから築かれた王国で、季節風を利用してマラッカ海峡を東西に行き交うペルシャ、アラブ、インドの船の中継地となったため、イスラム教徒の影響を強く受け、15世紀には海上交易とイスラム教で栄えたという。
16世紀以降は、ポルトガル→オランダ→イギリスと支配国が変わり、その都度、マレー半島全体に支配権は及んだらしい。
1786年にイギリスがマレー半島とボルネオを支配すると、錫鉱山、ゴム農園を大規模に開発し、マレーシアの基幹産業になって行った。
「マラッカ」には、こうした長い間の歴史が残っていた。

ポルトガルが支配した時代は、西洋から来た宣教師たちは布教に力を入れたが、1521年にマラッカ海峡が見渡せる丘に建てられたのが「セント・ポール教会」③だ。屋根は崩れて無いが、ここで亡くなった宣教師達の墓石が壁に立てかけられていた。
教会の外で男性が歌を歌っていた。真っ赤なシャツが引き立っていた。④
ここで活動したフランシスコ・ザビエル(日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師)も、死後この教会に9か月間遺骨が置かれ、その後、インドのゴアに移されたと言う。
(ガイドは教会の前に建てられている片手が損傷したザビエルの像⑤を示して、「彼はインド人です。だからゴアに埋葬されたのです。」と確信を持って二度私達に言ったが、彼はスペイン生まれのバスク人である)
少し離れた所にフランス人が建てた「セント・フランシス・ザビエル教会」があるらしいが行かなかった。

 ③  

 ④ ⑤

丘の上からマラッカ海峡が見えた。⑥

 ⑥

丘を降りた所にマラッカの象徴「サンチャゴ砦」⑦があった。ポルトガルがオランダとの戦いを準備して1511年に建てた砦で、門と大砲が現存していた。
すぐ傍に「ムルデカ広場」(独立広場)もあった。
丘の下にある「オランダ広場」には、1753年に建てられた朱色の「キリスト教会」、噴水があった。⑨ 
傍に思い思いに飾り立てた自転車タクシー⑧が数台、客を待っていた。

 ⑦ ⑧

 ⑨  

「マラッカ」にはこの他に幾つもの歴史的遺産があるがツアーでは行かなかったので、また訪れる機会があれば個人でも楽に観光できそうな町なので、是非行きたいと思った。

その後、商店街の日本人相手の土産物店に案内された。私はそこでカレー粉⑩数袋(1袋10RM=280円)とマラッカの図柄が入ったTシャツを旅の記念に買った。
(本来カレーというスパイスは無いが、カレー粉として売られているのはターメリックや胡椒、唐辛子、シナモン、オールスパイス、クミン、コリアンダー、陳皮などの香辛料20種類ほどを調合して作ったものなので、調合の仕方で味が変わる)
帰国後早速、チキンカレーを作った。鶏肉にこのカレー粉をまぶして10分程置いてから、ニンニクと生しょうがのみじん切りを玉葱のスライスと一緒に炒め、じゃが芋、人参を入れて煮た後、いつものカレールーでとろみをつけてカレーを作った。すごくスパイシーな美味しさにでき上がり、感動した。

 ⑩

美味しい中華の夕食後、クアラルンプールに戻り、空港に行ってガイドと別れ、自分で出国手続きをしてから23;10発の大韓航空機に乗り込んだ。韓国仁川空港で乗り換えて新千歳空港に12;40着で戻った。
札幌圏は晴れていたが最高気温はー5℃程しかなく、留守にしていた家に帰ったら室内は12℃になっていて、マレーシアとの余りの違いに震えてしまった。
帰国後数日で体が当地の気候にも慣れ、この所毎日、昼間でもー5℃位しかない外を出歩いている。大寒の今朝はー14℃と寒く、マレーシアが懐かしい。








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マレーシアの旅(7)

2012年01月20日 | 海外旅行「東南アジア」
≪クアラ・スランゴールの蛍鑑賞≫
4日目午後2時にホテルを出て船着き場に向かった。ホテルから船着き場までの車で数分間をスーツケースを運んでくれた人に1個3RM(84円)を渡し、また小型フェリーに乗ってマレー半島のルムッ港に戻った。
ルムッ港からバスでマラッカ海峡の海岸線に近い道路を南下して行った。途中、湿地帯も見たが、稲刈りが済んだばかりの田んぼが広がっている地域があった。栽培されているのは多分、細長い形で粘らない「インディカ米」だろうが、不思議な事に日本で刈るより長く、地面から20cmもの茎を残したままだった。① 気温が高いこの国では残渣の分解も早いだろうから、きっとこのまま畑に梳き込んで堆肥にするのだろうと思った。
また油やしの苗を育てている畑も見えた。②(走るバスの窓から撮ったので、ぼけている)



約2時間半後「蛍の里」クアラ・スランゴールに着いた。川沿いのレストランで海鮮料理を食べてから、15分程の距離にあるスランゴール川のボート乗り場に行った。着いた頃、丁度日が暮れた。

券売り場の横に小さい土産物屋が2軒あって、女性陣が早速品定めをしていた。店先に『パシュミアウール100%』と表示してある色とりどりのマフラーが30RM(840円)で下がっていた。私が「表示が正しいなら、インドのパシュクール地方で取れるカシミヤかも知れないね。」と言っていたら、店員が「3枚買えば1枚おまけする。」と言った。すると1枚当たり22.5RM(630円)とさらに安くなるので、何人かの女性が買った。(1人だけ1枚買った人が居たけど)
彼女の夫たちは集まって、「こんな時の女性は目の色が変わるから、黙って見ていた方がいいんだ。」と言っているのを聞き、長い間の経験は人を賢くするなと思った。
翌日、クアラルンプール空港の免税店で、同じマフラーが100RM(2800円)で売られていたのを見つけた人が居て、「蛍の里」でまとめて安く買った事を喜び、「ここでもう1枚買ったの。」と私に報告していた。
本物なら上質なのに確かに安い。私は彼女に「繊維を少し取って燃やして見て、髪の毛を焼く匂いがすれば本物だよ。」と伝えた。私自身は既に売る程マフラーを持っているので、手を出さなかった。

私達はマラリアに感染しないために虫刺され予防のクリームを塗ったり、虫除けスプレーをした。(私は持参した手作りのネットを頭に被って、顔を覆った。また昨年1月にカンボジャに行く前、マラリアと日本脳炎のワクチンを接種していると話したら皆に驚かれた) 

それからボートに10人ずつ分かれて乗り、真っ暗い川面を静かに漕いでもらって進んで行った。
目を見張ると川岸に茂る低木に、小さな点のような光が見えて来た。移動するに連れてその数は増し、1か所に100~200以上もの小さな光が一斉に瞬くのが見えた。あたかも示し合わせたように同時に約0.5秒間隔程で瞬くのだ。オスがそうして協力してメスを誘っているのだ。ボートがさらに隣の木へと移動して次々に私達を案内する。川岸がイルミネーションで飾られているような実に不思議な光景だ。
1つの光が宙に浮かんだ。私が手を伸ばすと光が手に留まった。数秒後にまた飛んで行ってしまった。一瞬の事だったが、感動した。
私が蛍を見たのは初めてで、とても良い思い出になった。(フラッシュは焚けないので、微弱に発光する蛍をカメラに収める事は出来なかった。またこの川岸の木は、「ブルンバン」という名で、蛍は片側の岸のこの木だけにいた)

夜の道をまた1.5時間程、バスは東のクアラルンプール目指して走った。両側に背が高い油やしのプランテーションが続く所は不気味だった。
やっと10時頃、1日目と同じホテルに着いた。最後の夜の部屋は19階だった。
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マレーシアの旅(6)

2012年01月19日 | 海外旅行「東南アジア」
≪油やし生産と大理石の採掘≫
キャメロン・ハイランドからバスで2時間程降りると、道路の両側に油やしの林が続いて現れた。
ガイドの説明では、フランスが植民地にしていた時代にアフリカから持って来て栽培が始まったという油やしには、食用のパーム油を採る種類と工業用、バイオ燃料用の油脂を採る種類があるそうだ。しかし木を見ても区別が良く分からなかった。1度苗を植えて育てても20年持つ木は5%しかなく、ほとんどが5年で駄目になるので、また苗を植えるそうだ。
ジェトロの発表をネットで調べたら、マレーシアの2010年上半期の実質GDP成長率は+7.2%だ。(これはすごい!!)
建設業、天然ガス、石油がけん引役となり、パーム油、天然ゴムの生産増加も貢献しているそうだ。そういえばアジア各国で目にしたホームレスは、今回のマレーシアの旅では1人しか見かけなかった。(ガイドの話では、天然ゴムはボルネオ島のマレーシア領で栽培されているらしい)
ガイドは、油やしは土壌から肥料分を大量に奪うので、その後に他の作物を植えても育たないと言っていた。また、油やしの林はネズミが繁殖するので、天敵の蛇を放しているのだという。最近では夜行性でないフクロウも飼われているそうだ。

 

少し行くと、白褐色の山肌がむき出しになった山が幾つも現れた。ここは大理石でできた山で、採掘をしているのだそうだ。世界中に大理石が採れる場所があるが、山を見たのは初めてだった。

 
≪パンコール島のリゾート≫

大理石の町「イポー」で中華料理の昼食を食べてから、さらにバスで南西に1時間半行くと、マラッカ海峡沿いの「ルムッ」に着いた。
そこから小型船に乗り変えて30分程で沖合の小さな島「パンコール島」に着いた。
私たちのホテルは、船着き場からほど近い島の北側にあって、その他のホテルが見当たらない地域だった。
広いロビーは、南国風で屋根だけの開放的な吹き抜けに作られていて、気温は30℃はありそうなのに風が吹き抜けて涼しかった。広いプライベートビーチがあるリゾートホテルなので、1階の部屋はベランダから海辺へ出られるようになっていた。プールやテニスコートがあり、野生の猿と孔雀がいた。
私たちの部屋は大分古い作りの様だったが、レストランの食事は豪勢だった。

  

  

 

翌日、オプションの島めぐりツアーがあったが、私はホテルでゆっくりしたかったので参加せず、海に入ったり散策をして午後2時までのんびりと過ごした。海は遠浅で水温は高かった。ホテルの傍にコンドミニアムも沢山建っていて、外国人らしき長期滞在者が沢山いた。こんな所に居ると、真冬の北海道を忘れてしまいそうだった。

 


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マレーシアの旅(5)

2012年01月18日 | 海外旅行「東南アジア」
≪キャメロン・ハイランド≫
市内観光を終えてからバスで高原の「キャメロン・ハイランド」に向かったが、途中、スリムバー駅まで1時間半程、マレー鉄道に乗車した。私たちは清潔な指定席に乗ったが、黄色のユニフォームを着た女性車掌が時々巡回して来た。座席の向きが真ん中から左右に向けて固定されていて、私達は後ろ向きに座る事になり、変な感覚だった。

 

下車後、駅前で待っていたバスに乗り込んで100kmの山道を3時間かけ「キャメロン・ハイランド」を目指して登って行った。
私は途中で寝てしまい、目が覚めたら標高1800mの「キャメロン・ハイランド」に近づいていた。遠くに高い山並みが見え、舗装された道路の一方に深い渓谷があった。
やがて平地だけでなく傾斜地にもビニールハウスを張った温室が沢山見えだした。小さな町を2~3通り抜け、どんどん高地まで登って行った。
すると何と山の中に信じられないような大きなホテルが建っていて、そこが2日目泊まるホテルだった。

  

ここはクアラルンプールからは車で4時間だそうで、イギリス統治時代の1885年にウイリアム・キャメロンに見いだされ、紅茶栽培、高原リゾート地として開発が勧められた所だと言う。現在は高級別荘地として知られ、茶畑、野菜畑、イチゴなどの果樹園の他、薔薇園やゴルフ場も作られている。農産物の大半はクアラルンプールに運び、消費されるという。

夕食はホテルの傍のレストランで「水炊き鍋」を食べた。地元で採れた色々な新鮮な野菜や茸類、魚介類、豆腐や油揚げを1つずつ順番にだし汁で茹で、たれにつけて食べて行った。最後にラーメンを入れて食べたのだが美味しかった。

 

3日目、起きてからカーテンを開けるとキャメロン・ハイランドの風景が見えた。早速部屋のベランダから周囲の写真を撮った。部屋の下にホテルの前に立ち並ぶ高級コンドミニアムが臨めた。朝食は山の上のホテルとは思えない豊富な食材と美味しさだった。

 

  

8時にホテルを出発し、先ず近くの朝市に行った。トーモロコシやさつま芋を茹でて売っていた。さつま芋の揚げたのもあった。苺は酸っぱめらしく、砂糖煮したのも売っていた。冬虫草という虫に似た植物が珍しかった。大きい野菜はクアラルンプールに出荷するのか、朝市で目にしたのは小型のイモ類が多かった。数人が苺畑のマグネット5個を10RM=280円で買った。

   

そこから茶畑に行った。赤道に近い場所なのに高原なので柔らかい茶葉ができ、年間24回も摘めるのだそうだ。私は中にある店でティーパックが25個入っている紅茶を数箱買った。(1箱15.5RM=430円)

 

次いで「国立植物研究所」に行った。入り口の温度計は17℃だった。
苺、トーモロコシ、薔薇、ダリア、ラン、ゼラニュームなどが植えられていた。この高地で生産販売できる植物を研究しているのだろう。

  

 

帰りはバスの右側の席に座って、昨日寝てしまって見なかった渓谷をしっかり見ながら山を下りた。現在でも途中の村々にホテルやコンドミニアムの建設が進められていた。学校や病院もあった。
コンドミニアムは家具や電気製品が付いたアパートで、退職した日本人夫婦も沢山長期滞在しているそうだ。
高物価の大都会に住む退職者夫婦にとっては、雄大な自然に恵まれ、気候が穏やかで、日本よりも物価が1/2~1/3と安いというこの場所で長期間滞在するのも楽しいかも知れない。また西日本の夏の酷暑を避けて、ここに避暑をするのも良いかも知れない。
しかし私自身は今でも似たような自然に囲まれた生活をしているので、こちらが寒い冬にでも行って安価に暮らしながらトレッキングでも楽しめる外国という以外の利点は見当たらなかった。キャメロンハイランドは私にとって、正に「百聞は一見に如かず」の場所だった。

  
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豪雪の岩見沢市

2012年01月18日 | 日記
年末から一昨日迄降り続いた雪で、豪雪地帯岩見沢市の積雪量は例年の2倍以上の194cmにもなり、除雪が追い付かず、一時はJR、バス、タクシーも含めた交通がマヒしていた。プレハブの事務所が潰れたり、除雪ができず、家に閉じ込められている高齢者も多いらしい。
今日、やっと自衛隊の除雪救援活動が入ったそうだ。
昨日、伯母から電話があったが、今まで見たことが無いような積雪状態だそうだ。(幸い今、伯母は、高齢者専用賃貸住宅にいるので心配ないのだが、4年前までは、家に私が除雪の手伝いに行っていた)
ニュースによると、この所の雪は、降る場所が固定化しているために起きているという。また、例年よりも気温が低い日が続いたので、降った雪が溶けないことも積雪量が大きくなった理由らしい。

実は私もこの市の出身で、高校卒業まで実家に住んでいた。
母子世帯だったので、冬の除雪は私の役目。
屋根に上って雪下ろしをしたり、軒先まで降り積もった雪で窓が塞がり、室内が真っ暗になるので、幾つもの窓の所まで雪を漕いで行き、塞いでいる雪を取り除く作業を毎年していた。
屋根から滑って落ちた事も数回ある。直後にスコップが傍に落ちて来た時は驚いたが、怪我もなくホッとした事もある。そんなので豪雪の大変さは分かっている積りだ。
また、玄関前に屋根から雪が落ちてくるような家は危険なので、屋根の形は慎重に考えなければならない事も学んだのだ。

ニュースで高血圧や心臓病の人が気温の低い戸外に出て重い雪の除雪をすると、体に負担がかかって倒れる事があると言っていた。私も高血圧症なので気をつけたいと思った。

岩見沢市も今日は晴れ。除雪が進んで早く交通環境が回復し、日常生活ができる様になって欲しい。

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マレーシアの旅(4)

2012年01月17日 | 海外旅行「東南アジア」
≪クアラルンプール市内観光≫2日目午前中は、首都クアラルンプールの市内観光だった。
インターネットで自宅で調べた天気予報は、毎日「曇り、雨」だったのに、晴天なので喜んだ。朝の気温は25度位。バスや建物内は皆クーラーが効いているので寒い位だ。

先ず案内されたのは1963年に建てられた「国立博物館」。外観はマレーシアの伝統的な建物になっていた。
開館前に着いたので、外壁に描かれているマレーシアの古代からの歴史図②を概観して説明を受けた。中には多岐に渡る展示があるらしかったが、ガイドは植民地支配の歴史をざっと案内し、独立後、各政権が果たした政策を説明しただけだったので、私はもっと詳しく見たいと思ったが叶わなかった。④はマレー王が謁見時に使った椅子

 ① ② 

 ③ ④

その後、1965年に建てられたと言う「国立回教寺院」に行った。
入り口で靴を脱ぐと、女性は全員、髪を隠すための頭巾「アル・アミラ」かワンピース式「チャドル」を着せられた。⑤ 私は長袖のジャケットを着ていたので、頭巾だけ被せられた。それでも被ると圧迫感を感じ、気分が悪かった。
(コーランには、「女性は髪を隠せ」とは書いていないが、「魅力的な部分を男性に見せてはいけない」と書かれているという。髪や素肌を見た男性が欲情するのを防ぐのだそうだ。私は、年中35℃近い気温の国で女性側だけが蒸し暑さを耐えなければならないこのような規制をされることに大いに疑問を持つのだ)
本殿内には信者しか入れないが、周囲のイタリア製大理石でできた廊下や柱の間は散策できた。幾何学的なイスラム模様が美しかった。

 ⑤

 

 

次にバスは「独立広場(ムルデカ・スクエア)」と「ぺトロナス・ツインタワーズ」が見える場所に行き、バスから降りて写真だけ写した。
「独立広場⑥」は1957年に独立宣言が行われた場所で、南端に高さ100mの国旗掲揚塔があった。毎年ここで独立記念式典が行われていると言う。
広場の奥にイギリス統治時代に作られた「ロイヤル・スランゴール・クラブ」のクラブハウスがあり、現在も王室関係などの宴会が行われているらしい。

 ⑥

「ツインタワーズ」⑦は、高さ452m88階建てのオフィスビルで、片方を韓国のサムスンが、もう片方を日本の間組みと二国の建築会社が請け負い、1998年に完成させたもので、クアラルンプールのシンボルであり、2003年までは世界一の高さを誇っていたタワーだ。
また「クアラルンプールタワー」⑧は通信用のタワーで、421mの高さがあるという。展望台もあり、オプショナルで行けたが、私は健康上の理由(エレベーターで急に高い場所に上がると胸が苦しくなる)から登らなかった。

 ⑦ ⑧

途中、「バティック染色工房」に寄った。
布に描く下絵は熟練職人が全くの手書きで、墨出しを使って画いていたのが凄かった。その後、別の職人が溶かした蝋を染色しない部分に入れていた。

バスから市内を見たが、「旧連邦政府庁舎」は、1894年にイギリス統治時代に政府機関の庁舎として建てられた建物で、全長が137mあり、時計塔の高さも40mもあるという。現在は最高裁判所として使われているという。 

   


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マレーシアの旅(3)

2012年01月16日 | 海外旅行「東南アジア」
≪マレーシアという国≫
2日目のスタートは市内観光だったが、その前にまず、マレーシアの全体像を抑えて置く。
ガイドブック『地球の歩き方』によると、マレーシアは地理的にインド洋と南シナ海の間にあるため、古くから海上貿易の重要な中継地として栄え、ペルシャ人、インド人、中国人などの様々な民族が行き交い、文化的な影響を受けて発展して来た。
またそれだけにヨーロッパの列強国などから狙われ、1511年にポルトガルが香料などの交易の独占権を求めてマラッカを占領→1641年にはオランダがポルトガルに勝ち、植民地化→1786年、イギリスがペナン島を割譲されて後、マレー半島とボルネオ島北部を植民地化し、錫の採掘とゴム農園を開発した→1941年12月に日本が真珠湾攻撃に先立ち、コタ・バルに上陸後、マレー半島を南下して、1942年クアラルンプールとシンガポールを占領し、支配した。→第二次大戦終了後、支配権がイギリスに戻された→しかし、民族主義運動が高まり、イギリスより1957年8月31日に独立を果たした。

しかし、農村部で生活して来た貧しいマレー人と、植民地時代に移民した豊かな中国人、インド人との間の経済格差が問題となって、1969年に暴動事件が起きたという。その後、貧困の撲滅、人種間の経済格差縮小を旗印にした政策が推し進められ、多民族国家が互いの生活文化、宗教を尊重する国作りが進められて来た。
現在の人口は2831万人である。『地球の歩き方』2006,2007年版によると、人口構成はマレー人が65.5%、華人25.6%、インド人7.6%と書かれている。

写真①首都クアラルンプール(2010年、人口165.5万人)の郊外のホテル19階の窓から写した中心部 
 ①

②ホテルの裏通りの建物 ③街角の出店で、朝、売られていたチマキ
 ② ③

宗教的には早くよりマレー半島に出入りしていた南インド人がヒンズー教を伝えたが、その後、ペルシャ、アラブ、インドから来たイスラム教徒の影響を受け、15世紀後半にはイスラム化されたらしい。現在はイスラム教が国教である。
イスラム教では飲酒を禁じているので、コンビニではビールはケースの下部に置かれて売られている事が多く、価格は高めだ。(ホテルでは缶ビール350cc15リンギット=420円、グラスワイン1杯20リンギット=560円以上だった)
私たちの中国人現地ガイド氏は、「イスラム教徒は、家が狭いのに妻を4人迄持てる。だから子供が12歳になると学校へやって家から出す。1日5回お祈りをする義務があり、一生酒を飲めないのは問題だ。」と話していた。

④はクアラルンプール市内にある「国立イスラムモスク」 
 ④

 
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マレーシアの旅(2)

2012年01月14日 | 海外旅行「東南アジア」
≪大韓航空機を乗り継ぎ、クアラルンプールへ≫11日に無事帰国した。
出発時の状況をいうと、当地は前の日から6日の朝にかけて50cmもの雪がずっと降り続き、何度も除雪をし、朝も4時半に起きて最後の除雪に精を出してから6時過ぎに家を出た。除雪疲れで腕と腰が痛かったが、機内で休めると思って飛行場に向かった。
添乗員が付かないコースなので、クアラルンプール迄、全て自分で判断して行った。
新千歳空港9;00出発予定の大韓航空機は、滑走路の除雪が遅れて40分遅れで離陸した。写真はようやく荷物を積み込む飛行機の様子。

  

3時間15分でソウル仁川空港に到着。ソウルはー2℃と寒かった。(上の写真は、4か国語で書かれている分かりやすい仁川空港の案内標識)
ソウル発16;00の大韓航空機に乗り換えてマレーシア、クアラルンプール空港に向かった。飛行時間は6時間50分だ。機内エコノミー席は割合ゆったりしていて、食事もまあまあ美味しく食べられた。

クアラルンプール到着時刻は21;50。(マレーシアは日本との時差マイナス1時間)
所が新千歳空港で預けた荷物が、なかなか出て来ない。マレーシアは何でも急がない国だと言うので、じっと待った。到着からおよそ1時間後、やっと荷物を受け取り、出口へ。
そこで初めて現地ガイド氏に出会った。中国人で、親は客家の出身、自分はその2代目のマレーシア人だと名乗った。
空港からホテルまで約50分かかり、ホテルに着いたら23;30を過ぎていた。部屋は広く、クーラーが入っていて、室温18℃になっていた。寒いので切って寝た。
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マレーシアの旅(1)

2012年01月04日 | 海外旅行「東南アジア」
今年もまだ見ぬ国や場所の旅行をしたい。年明け早々だが、H旅行社の札幌支店が企画催行している新千歳空港発着の「マレーシア旅行6日間」に参加する事にした。
前にも書いたが、冬場は雪害で新千歳空港が閉鎖することがあるため、成田空港発着のツアーは不安で申し込めないからだ。(その場合、自己都合で旅行をキャンセルしたとされるそうだ)
新千歳空港からマレーシア行きは出ていないため、今回は、一旦、大韓航空機でソウルに行き、そこでクアラルンプール行きに乗り継ぐのだ。だから行きも帰りも乗り継ぎ時間を入れると長くなるが、今の私には時間だけはたっぷりある。別に急ぐ必要もないので、ゆっくり行きたいと思っている。

1日目の6日は、新千歳空港発9;00→ソウル着12;15、ソウル発16;00→クアラルンプール着21;50の予定。マレーシアの時差はー1時間なので、合わせて飛行時間は10時間にもなる。
2~5日目まで、クアラルンプール、キャメロンハイランド、パンコール島、ルム、マラッカを回る行程になっている。

今回の行程中、私が1番行きたい場所は、高原の町「キャメロンハイランド」だ。
マレーシアはほぼ赤道に近い位置にあって、年中日本の真夏並みの気候なのだが、「キャメロンハイランド」などの高原地域は、標高が1800m程度の場所にあるため、年中春秋の様な爽やかさだという。おまけに物価も安いため、仕事をリタイヤした日本人高齢者に1番人気の場所で、沢山の人達が長期滞在をしている所なのだそうだ。だからどんな所なのかを実際に見て見たいのである。
今回事前勉強をしたら、第二次世界大戦の前、「キャメロンハイランド」に日本人がまとまって移住し、農業を手掛けたというが、戦争状態に入るために引き上げたらしい。しかし、その後を引き継いだマレーシア人が、高原野菜で成功を収めているという。

また、今回はマレーシアの飛び地である「カリマンタン島(ボルネオ島)」には行かないが、その島の北側にある「サンダカン」という町は、「からゆきさん」といわれる明治女性の民衆史を研究して書いた作家、山崎朋子の代表作『サンダカン八番娼館』『サンダカンの墓』の舞台として広く知られている場所でもある。日本が貧しかった時代には、日本の若い女性たちが売られて行った国の1つがマレーシアなのだ。
勿論、第二次大戦中は日本軍の東南アジア侵攻とも縁のある国なので、それなりの覚悟をして行きたいと思っている。
帰国は11日。それまでしばらくブログを休むので宜しく。


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新たな年の始まりに

2012年01月03日 | 日記
新しい2012年の年が始まった。 今年も宜しくお願い致します。

全ての人にとって、悲しく大変だった昨年よりも、良い事が増える年になるように望みたい。
また私にとっては、何よりも今の体調が維持され、パークゴルフや庭仕事ができ、引き続き旅行を楽しみつつ視野を広げられたら幸いだと思っている。
そして家庭菜園の作物が豊作で、庭の花木が生き生きと成長して花や実をつけるよう、安定した天候が続いて欲しい。

さらに図らずも起きた福島の原発事故によって、原発の構造や危険性、放射性物質の拡散と残留、その危険性、そして放射性物質の最終処理には想像を超える年数が必要なことなどを知った。なぜ地震国日本にこんな危険な物を沢山作ってしまったのかを反省したい。
事故や再処理を考えなければ自然エネルギーよりも経済的だと言うこと、二酸化炭素を出さない、日本の原発は技術的に優れているので絶対安全だという理屈で許されてしまったのだ。
しかし今になって、技術的にも多くの問題があった事、事故処理費用を考えると高くつく事、事故の被害は広範囲に及び、極めて甚大になる事、放射能の除染が難しい事などが知られる事になった。
(事故を起こしたのだから、内閣の下にある「原子力安全委員会」を解散させ、新たに第三者機関を作るべきだ。委員長のマダラメ氏は大事故が起きたのに少しも責任を取らず、現在も委員長を続けている事が私には不思議でならない)

私自身、寒さの中でも、日々、省エネに取り組んでいる所だが、昨秋、脱原発を決めたドイツを訪れた時、沢山の風車を目の当たりに見て、日本も自然エネルギー活用に、国、民間を挙げて取り組むべきだと思った。
「アラブの春」の様に、国民の意見を行政府に反映して行かなければと思う。上意下達ではなく、国民に情報を公開し、下意上達の民主主義政治にならなければならないのではと思う。その意味で今年は、私ももっと賢くならねばならない。




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「エジプト」旅行(11)

2012年01月03日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ルクソール東岸観光》(2)
「カルナック神殿」の次に近くの「ルクソール神殿」に向かった頃は、すでに夕方近かった。

「ルクソール神殿」は「カルナック神殿」の付属神殿として建てられたものらしいが、小型ながら美しさでは大同小異だと感じた。
「ネクタネボ一世の中庭」には、 「ラムセス二世像」とその傍に「オベリスク」が建っていた。この「オベリスク」は本来左右に対で建てられていたが、現在右側のは持ち出されて「パリのコンコルド広場」に建っているのである。

  

神殿は日暮れと同時にライトアップされると、また違った美しさを見せてくれた。

  

以上の様に「東岸」のオプショナル観光は、十分に見応えのあった観光だった。
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