花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

「メキシコ」の旅(12)

2014年11月30日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「チチェン・イツァー遺跡」②≫

①「ククルカン神殿」
「新チチェン・イツァー」の最大の遺跡は、やはり「ククルカン神殿(エルカステージョ)」だろう。
「ククルカン」は「羽毛の蛇」を表し、「エルカステージョ」はスペイン語で「城」の意味である。
9世紀に造られたこの神殿は、1辺が55.3m、高さが24m(上の神殿の高さは6m)もあり、基壇は9段ある。

 

階段は他の遺跡と異なり、4つの面の全てにあって、それぞれ91段ある。91×4=364となり、上の1段を足すと365段になる。1年365日と一致している。
9段の基壇が中央で2分されるので、9×2=18となり、1年が18ヶ月に分かれていた「ハアブ暦(マヤの暦)」の月数と一致する。
他にも1面に凹み部分が52あり、これにも意味があるという。

※「ウィキペディア」で調べたら、マヤには「日」「月」「年」の神がいる。「月」の神は18あり、1つの「月」の神が支配の座に着くのは20日間である。20日×18=360日となり、それに不吉の日「ウェヤブ」の5日間を足すと1年=365日と考えたという。

さらに北側階段にある蛇頭は、年に春分と秋分の2回、太陽が沈む時に真西から光が当たると基壇の陰が階段に現れて、あたかも「ククルカン」の胴体の様になり、太陽の動きと同時に「ククルカン」が動くように見える。この現象を「ククルカンの降臨」と言っている。このように「ククルカン神殿」は巧妙に設計されているのだった。
        
この日は気温が35度近くあり、午前10時半には強い太陽光が神殿を照らしていた。現地ガイドが私達に、「神殿を見ながら、ゆっくりと神殿の西から北に回り込むように歩くように」と案内した。本当に影ができ、それが動くのだった。
残念ながら、この神殿には上ることはできなかった。

②「ジャガーと鷹の台座」



③「頭蓋骨の台座」
この台座の上には、実際に頭蓋骨が並べられていたと考えられている。



④「ジャガーの神殿」

 

⑤「球戯場」
かなり規模が大きい球戯場だが、両方の壁が内側に傾けて造られているため、声や音が反響して良く聞こえた。係りの人が手をたたくと、その音が大きく反響するのが確認できた。

球技は手を使わずに上腕と足、腰で硬いゴムの玉を壁中央の上部に設けた穴(写真で分かるだろうか)に入れるというものだ。競技で優勝した者が生贄に選ばれたらしい。なぜなら「太陽」は、毎日の栄養に強い人間の心臓の血を欲したと考えていたからだという。優勝者は名誉の生贄になったらしいが、思っただけでゾッとする。何故儀式を行う「神官」たち自らが、率先して生贄にならなかったのかと思うのは私だけだろうか。



⑥「戦士の神殿」
石柱が林立し上部に空を仰ぐ「チャーク・モール」が設置されている。これに生贄の心臓を捧げたのだ。この神殿も立ち入りが禁止されていた。



⑦生贄の泉「セノーテ」
遺跡群から北北西に100m程の所に生贄の泉「セノーテ」があった。調査した所、湖底から多くの人骨と財宝などが出て来たらしい。
ガイドに聞くと子どもの骨が多かったという。理由は、子どもが泣き叫びながら涙を流すので「雨乞い」のためには適すると考えたのだろうと言っていた。他の「セノーテ」からは女性や男性の人骨も多く見つかっているらしい。

ガイドが「チチェン・イツァー遺跡」は、世界の7不思議(他は「マチュピチュ」「万里の長城」「ブラジルの大キリスト像」「タージマハール」「コロッセオ」「ペトラ遺跡」)の一つに数えられている」と話した事が、分かった様に思った。

「セノーテ」に行く道の両側に、土産物を並べた屋台が幾つも並んでいた。彼らは朝、商品を並べて、夜は片付けるのだそうだ。
「セノーテ」には、水を求める植物の根が長く伸びて垂れ下がっていた。

 

また、木彫りをしながら店番をしている男性も何人もいた。技術があれば、仕入れるよりも利益になるのだろう。私はTシャツの店で、記念のシャツを買った。

 



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「メキシコ」の旅(11)

2014年11月29日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「チチェン・イツァー遺跡」①≫

旅の5日目は、「メリダ」のホテルで朝食後、バスで走ること2時間、マヤの遺跡の中で最大の「チチェン・イツァー遺跡」に着いた。



ここはユカタン半島の中心地として栄えたらしく、6世紀からマヤの特徴を示す遺跡が建造された「旧チチェン・イツァー遺跡」と、10世紀に入って中央部で栄えていた「トルテカ」文化と融合した時代に建造された「新チチェン・イツァー遺跡」の二つの時代の遺跡が残されていた。


先ず「旧チチェン・イツァー遺跡」からみる。
かなり石が崩れ落ちそうな状態になっているピラミッド型の①「高僧の墳墓」②「カラコル(天文台)」③「尼僧院」が代表的な遺跡だった。

①「高僧の墳墓」基台だけが残存していたが、「蛇頭」が綺麗に残っていた。



②「カラコル(天文台)」
古代マヤの天文台で、高さ13mある上の丸いドームに開いた3つの窓で天体観測をしていたと言われている。
南の窓は真南を向いている。西南の窓からは、月没の最北線をみる。西の窓からは、春分、秋分の日没と月没の最北線が正確に見えるという。
また、9mの高さがある台座の正面は、真西から27.5度北にむいている。この方向は金星が北に沈む方向と一致している。
こうしたことから、千数百年前に生きていたマヤ人は、月、太陽、星の運行を観測して、正確な暦を作る高度な知識を持っていたのだ。



③「尼僧院」と傍の「エルアカブ・ジブ」
高さ20mの台の上に個室が沢山ある。積み上げた石が崩壊している所もあった。ガイドは階段跡だと言った。
石の間に生える草を2人で取っている職員がいた。草を放置すると、根が張って遺跡を破壊して行くからだろう。

 

「エルアカブ・ジブ」は、何をする建物なのかな。



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「メキシコ」の旅(10)

2014年11月27日 | 海外旅行「中米」
≪マヤの世界遺産「ウシュマル遺跡」≫

7世紀初めに栄えたマヤ文明の「ウシュマル遺跡」は、「メリダ」から南方に80kmの所にあった。
「ユカタン半島」地域は、石灰岩に覆われた「カルスト大地」のため、雨が降っても皆地面に沁み込んでしまい、地下の所々に溜まるだけなので、どこにも川がない
地下にできた水溜りの上部の地面が落ち、穴が開いた所が「セノーテ」(沁み込んだ水が溜まった深い池)だ。
だから古代からこの地に住む人たちは、常に水の必要性に迫られていた。そのため神殿は、雨の神「チャーク」を祀って雨乞いをしたものがほとんどだった。
しかし、10世紀頃には、中央高原から来た「シウ人」によって「ウシュマル遺跡」は占拠され、「ケツアルコアトル」(羽のある蛇)も信仰されたらしい。



「チャーク」の丸い大きな目、突き出した長い鼻、開いた口の顔は、壁面の至る所に見られた。チャークの顔1個を作り上げるのに10個以上の彫刻した石が組み合わされていた。
また雨乞いの儀式に使ったらしい大きな「水盤」があった。

 





亜熱帯の森の中に石を積み上げたアーチ状の門があった。「マヤの凱旋門」と言われていて、この街道を進むと18km先のウシュマルの町まで続いているという。
こうした三角形の形がマヤに特有の形だそうだ。

         

≪世界遺産「カバー遺跡」≫

「カバー遺跡」は「ウシュマル遺跡」の東南18km程の所にある遺跡だ。白い石畳の道が続いていた。
ここもやはり、雨の神「チャーク」を祀っていて、壁中に「チャーク」が飾られている建物もあった。

 



壁の上部はぎっしりと「チャーク」と幾何学模様で埋めつくされていた。



マヤの三角形がここにも…



この遺跡にも「球戯場」があった。



この遺跡のあちこちに「イグアナ」が生息していた。太陽が昇ると彼らは身体を温めるために石の隙間から出て来て、日向ぼっこをするそうだ。

 

ここの「魔法使いのピラミッド」は、角が丸みを帯びた形になっていた。

 

ピラミッドの上部から見た広大な「カバー遺跡」









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「メキシコ」の旅(9)

2014年11月26日 | 海外旅行「中米」
≪「メリダ」市内観光≫

3日目の観光の後、「メキシコシティ」21;50発の国内線飛行機で西方に900km離れたユカタン州の州都「メリダ」に移動した。「メリダ」には23;46に到着したが、ホテルに着くと午前1時近くになっていた。

4日目は「メリダ」は人口72万人の町だ。ユカタン州にはマヤの遺跡が沢山ある。
市内観光を午前中に終え、午後は「マヤ遺跡」を2箇所観光した。

①野口英世像

最初に行った所は、かって「オーラン病院」だったという建物の入り口に立っていた「野口英世像」だった。この町で、一番知られている日本人が「野口英世」だという。
ネットで調べると彼は1919年から1920年にかけて3ヶ月間、黄熱病の研究のために「オーラン病院」に滞在したというのだ。
その銅像は昭和36年に病院から要請された「玉川学園」の創設者、小原氏が、礼拝の献金を集めて造り、メキシコ大使に手渡したものだという。その後の長い年月で傷んだ像を修復するのも学園がしたそうだ。
研究半ばの1928年5月に黄熱病にかかりアフリカのガーナで51歳で亡くなった彼が、メキシコにも足跡を残していたことを初めて知ったのだった
        

②市場を見学

遠いメキシコから日本にも色々な野菜が輸入されているが、市場には新鮮な野菜や肉類、「タコス」の皮「トルティ-ジャ」、菓子パンなどが屋台に並べられて、素朴な売り方で売られていた。皮を剥いてすぐに食べられるようにした果物がビニール袋で売られていたのが珍しかった。

 

 

 

③「カテドラル」「モンテホの家」

メリダは、1542年、スペインの「モンテホ」が率いる軍に占領されて以来、ユカタン半島の侵略基地、カトリック布教のための基地になった。
夕方再び町を訪れた際に写したものだ。「モンテホの家」は、1549年に建てられた最古の家である。

 

「カテドラル」はユカタン半島最大の規模だという。内部は簡素な造りだったが、正面のキリスト像は茶色で、メキシコ人を配慮したものと思われた。

 

5時15分頃、傍の「州庁舎」に行き、内部に展示されている沢山の壁画を見た。
二階に上がる階段の途中に「トウモロコシから生まれたマヤ人」の大きな絵があった。
二階にあった多くの絵は、メキシコの苦難に満ちた植民化の歴史と独立闘争を描いている様に見えた。この国の人たちは、遠い先祖が受けた過酷な歴史を、描くことによって忘れないようにしていた。

 

暮れかかる夕方の大通りを写した。

     
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「メキシコ」の旅(8)

2014年11月24日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「ソチカルコ遺跡」≫

この遺跡は1770年に「クエルバカ」の丘の上に造られているのが発見され、1999年に世界遺産に指定された丘の上の要塞都市である。
研究によると「テオティワカン」が衰退した後の紀元700~900年に繁栄した「ナワ文明」の「巡礼センター」として造られた様である。
遺跡は707haという広大な面積に造られていて、まだ10%しか発掘されていないそうだ。






この遺跡のレリーフには、羽毛のある蛇「ケツアルコトル神」が描かれている。



他の遺跡にも見られたゴムのボールを蹴って穴に入れる「球技場」が造られていた。



また、洞窟風の「天文台」があり、そこには1.1度北に傾斜した長さ80cmの吹き抜け穴が作られていて、入り口の看板にある様に、毎年4月30日から8月13日までの期間、太陽光が差し込み、地面を照らす仕掛けになっていて、天文学の研究会を行っていたとも考えられている。
私達も「天文台」の内部に入ったが、洞窟の中は真っ暗で、「吹き抜け穴」はかなり奥まった所の低い天井にあった。
天文学者たちは、雨期の到来時期や農耕の開始時期を研究していたと思われている。



 

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「メキシコ」の旅(7)

2014年11月24日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「テオティワカン」≫

首都から50km北にあり、紀元前2世紀頃に栄えた民族が建造した巨大な宗教都市が「テオティワカン」である。
紀元8世紀頃、この遺跡を造った「テオティワカン人」は何処かに行ってしまったが、その行方はまだ解明されていないのだ。
(後の900年頃現れた「トルティカ民族」が「神が集う場所」の意味を示す「テオティワカン」と名づけた)

最盛期は人口20万人の農耕民族がこの都市に集っていたと考えられている。最高地位の神官の下に軍人、商人、職人と区分けられた住居があった。
彼らは太陽と月を崇め、「太陽のピラミッド」「月のピラミッド」「死者の道」を造り、天文学に秀でていたと考えられる。
以前は石の表面に漆喰が塗ってあり、色づけされていたという。

①「太陽のピラミッド」
四角錐の底辺1辺は225m、高さは65mあり、世界で3番目の大きさである。年2回太陽が真上に来る。また頂上にはかって神殿があったらしい。
階段は全部で248段あるが、け上げが高く傾斜は急である。





上に上ると心地良い風が吹いていて、周囲の景色、特に右手500m程の所に立つ「月のピラミッド」が美しく見えた。



また左手900m程の位置には、「ケツァルコアトルの神殿」が見えたが、距離があるので私は見に行かなかった。



ピラミッドの頂上は、緩い球形になっていた。かってはここに神殿があったと思われている。
また、下る途中で修理をしていた人が二人いた。写真を撮らせてくれたので、飴を上げた。

  

②「月のピラミッド」
底辺150m×130m、高さ42mで350年頃造られたらしい。この神殿前には「月の広場」があり、色々な宗教行事が行われたらしい。
今回は工事が行われていて、1段目までしか登れなかった。



北にある「月のピラミッド」前から南に真っ直ぐ造られた約2kmの道が「死者の道」だ。右手遠くに「太陽のピラミッド」が見える。


③「ケツァルパパロトルの宮殿」
「月のピラミッド」で祭事を行う神官の住居だったという。「ケツァルパパロトル」とは、彼らが信仰していた鳥だが、そのレリーフも壁の上部に描かれていた。
当時は屋根が木で葺かれていただろうと想像して屋根を葺いた部屋もあり、そこの修復はほぼ完全に終了していた。





 


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「メキシコ」の旅(6)

2014年11月23日 | 海外旅行「中米」
≪「国立自治大学」の大壁画≫

旅の2日目は、メキシコシティ郊外の世界遺産を見学した。
首都の南西部にある「メキシコ国立自治大学」のある町は「大学都市(C.U)」とも呼ばれているらしい。大学には30万人の学生がいて、広大な構内をバスでいどうするという。図書館では学生たちが勉強をしていた。

世界最大の壁画があるのは、大学図書館で、その4つの壁面が「オルゴマン」の壁画で埋め尽くされ、窓は最小限に開けられていた。
壁画は「アステカ文明」「スペイン植民地時代の圧制」「太陽と月、宇宙、科学、政治」「学生の役割」のテーマで作られているという。







また本館には「シケイロス」の「民衆から大学へ、大学から民衆へ」という立体壁画が見られた。



≪世界遺産ポポカテペトル山腹「フランシスコ会修道院」≫

スペインがメキシコを武力で征服した直後に、アステカ人たちの心を支配するために「フランシスコ会」「ドミニコ会」「アグスチーノ会」など幾つものキリスト教団がやって来て、メキシコシティから60kmほど離れ、標高2200mの「プエブラ」地区の標高5450mの活火山「ポポカテペトル山」山腹に競って修道院を建てた。最盛期には300もあったが、独立後整理され、現在は14の修道院が残されている。
土着の信仰を取り入れながらキリスト教を布教しようと工夫したらしく、修道院には屋外礼拝堂やインディオの顔に似たキリスト像などが見られ、スペインの布教の足跡を残す世界文化遺産として1994年に指定を受けた。

その一つの「カテドラル」に行った。その教会には1959年に壁の石灰層の下から「日本の26聖人殉教図」が発見された。豊臣秀吉が、1597年2月15日に宣教師6人と日本人信者20人を長崎で磔にした図が克明に描かれていた。
(船で居留していた島から長崎に移される所や、居留地の住居や生活が描かれている)
宣教師の一人がメキシコ人最初の聖人となった「フェリベ・デ・ヘスス」だという。
日本から遠いメキシコの郊外で日本との関わりを見るとは、全く思いも依らない事だった。



 

 







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「メキシコ」の旅(5)

2014年11月21日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「メキシコシティ歴史地区」②≫

「ソカロ」の傍に「テンプロ・マヨール」という遺跡があった。
この遺跡は1913年に地下に行く階段が発見されたのに続き、1979年にはアステカ神話の「月の神の石像」が発見されたのを契機に発掘された遺跡だった。
発掘が進むに連れ、「赤い神殿」や生贄を乗せたらしい「チャーク・モール」の石造や「蛇頭像」などが発見された。

結局、かって湖に浮かんでいた島に作られたアステカ帝国の首都「テノチティトラン」の「中央神殿」だったことが分かったという。
スペインが侵略して来てから湖の水を抜き、「中央神殿」の上に次々と建物を建てたのだ。
今建造物が建っている所は、湿地帯で地盤が弱い場所なため、道路、建物の多くがかなり不規則に沈下して傾斜していた。

現在「テンプロ・マヨール」は、かなり発掘されて保存され、市民は無料で遺跡に入場できるようになっていたが、私達は入場する時間が無かったのが残念だった。ツアーで行くと、自分が入場したい場所でもままならない所が恨めしい。
田中さんは「アステカ帝国4代目の皇帝が、スペインが侵略して来た時に黄金を渡すまいと隠したと言われるが、未だ黄金は見つかっていない。」と説明し、「スペインが湖の水を抜いたのは、底に黄金があるかも知れないと考えたのだろう。」とも言っていた。





田中さんは、「「テンプロ・マヨール」はまだ発掘が進められているが、「アステカ時代」の「中央神殿」のさらに下から「マヤ時代」の遺跡が見つかるかも知れない。何故ならこの地に興った文明は、次々と建物を積み重ねて造るという特徴があるからです。」と話していた。しかし、周りは既に住宅街になっているため、発掘は思うようには進まないだろう。


(遺跡の傍で、警備や事件のために待機している大勢の警察官たち。女性警察官も数人いた。)

次に「ソカロ」の一画に立つ「カテドラル」の中を見学した。カメラのフラッシュ撮影は禁止されていた。
この教会はスペインがアステカ帝国を滅ぼした4年後の1525年に着工し、1681年にバロック様式で完成したものであり、メキシコのカトリック教の主座となっている。
祭壇などには金が贅沢に使われているが、スペインの支配権力を今に伝えていると思った。




(黒いキリスト像について田中さんは、「皆さんが信じるかどうかは別にして、昔信者の一人が毒を盛られたが、その毒を吸って少しずつ黒くなったと信じられています。」と話した)


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「メキシコ」の旅(4)

2014年11月20日 | 海外旅行「中米」
≪世界遺産「メキシコシティ歴史地区」①≫

「メキシコシティ」は、「アステカ帝国」(13世紀~1519年)の遺跡とそれに次ぐ「スペイン植民地時代」(1519年~1821年)の遺跡、そして「独立」(1821年~)後の建造物が混在している人口860万人の大都市だ。

まず歴史地区の中心「ソカロ」別名「憲法広場」に行った。この広場は、「アステカ帝国」の時代から造られた神殿がある場所で、現在その周辺には主要な建物や遺跡があった。

現地ガイドの田中さんは、私が「歴史学を研究した事があるんではないですか。」と聞いた位に良く勉強している方で、説明内容がとても詳しかった。
「コロンブス」が新大陸を『発見』する遥か前の紀元前12世紀頃から、メキシコには「巨石人頭像」を残した「オルメカ文明」が繁栄していた。
また紀元前3世紀には「テオティワカン」の大ピラミッドを建造した宗教都市が繁栄したが、何故か10世紀には滅亡している。
田中さんによると、「メキシコにとっては既に長い歴史を持った地域であったので「コロンブス」は『侵略者』以外の何者でもない」という。私も、この国の人の見方に立てば全くその通りだと思った。

次の写真は、矩形の「ソカロ」の周囲に立つ建物である。


(左側は、ラテンアメリカ最大の「カテドラル」。1681年に100年をかけて完成した。
右の低い建物は「エグ・サグラリオ教会」で18世紀半ばに建てられた。当時のスペインは税収の半分がメキシコの銀に依ったと言われている)




(幅200mある広大な規模の「国立宮殿」で、「アステカ帝国」の宮殿跡地に建てられた。かっては「国会議事堂」だった。現在は大統領執務室があり、毎年9月15日の独立記念日には式典が開催されるらしい。リベラが描いた壁画「メキシコの歴史」があるというが、内部は見学できなかった。残念!)

 
(沢山出ていた露店。本来は禁止されているため、警察の手入れがあると瞬時に品物を包んで撤去するという)


(「カテドラル」の向かい側のホテル)



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「メキシコ」の旅(3)

2014年11月19日 | 海外旅行「中米」
≪初日の行程・「メキシコシティ」に着いて≫ 

9日の朝4時に起床して軽食を採り、朝1番のJRで新千歳空港へ。
7時50分の成田空港行きANA便に乗った。成田空港には9時半に到着。
その後、ツアーの集合時間の午後1時半まで、家から持って行った軽食を食べたり、空港内の銀行で円を「メキシコペソ」に両替する。銀行の交換手数料を入れて「1ペソ=10.44円」だった。

15;25発の「メキシコシティ」行き「アエロメヒコ航空機」は、ほぼ満席に近かった。飛行時間13時間の予定の所、12時間で首都の「メキシコシティ」に到着した。
「メキシコ」は日本との時差が-15時間なので、到着は同日9日の12時20分だった。

機内で書いた「入国書類」とパスポートを手に入国審査に向かったが、私は書類の初日のホテル名を間違えたため、それに=を付け、隣に正しいホテル名を書いたのを所持していたら、最初に見た男性係員が「これでは駄目だから、書き直しなさい。」と言って、同じ用紙をくれた。
慌てて全ての項目を書き直し、女性審査官の前に行った。試しに=が付いているから駄目だといわれた最初の用紙を出して見た。するとその係官はOKで事無入国できた。一貫性が無いので不思議だった。

標高2240mの午後の「メキシコシティ」は晴天で、気温は20℃以上あった。
大分前から聞いていた世界有数の大気汚染の町を予想していたが、随分改善されていて、インドの「デリー」程ではなかった。
ガイドブックによると、これには1989年に「大気汚染対策総合計画」が策定されて、日本の「国際協力銀行」も市に協力して植林事業、トロリーバスの導入、地下鉄整備などを支援して来たのだという。

しかし、水道水には嫌な匂いがしていて飲むことはできなかった。スーパーで清涼飲料水1.5Lは11ペソだった。食料品には消費税は無く、他は10%だと聞いた。

現地ガイドの説明では「車が沢山走っているが、この国は車優先社会なので、十分に注意するように」と言われた。何でも「メキシコ」には自動車教習所が無く、免許証は個人が買い、運転技術は個人で覚えるのだという。凄く恐ろしい国だと思った。


(大勢の人と車が行き交う町中)※バスの座席横の窓ガラスに何故か網目が入ったシートが貼ってあったため、ボケた写真になった。悪しからず…


(旧市街で客を待つ三輪車)

そのまま世界遺産「メキシコシティ歴史地区」の観光をしてからホテルに向かった。就寝したのは午前1時だったが、24時間+15時間=39時間という長い長い一日がこうして終ったのだった。


(空港で見かけた3人の子どもを乗せる乳母車)


(独特なデザインの大きな二階建て観光バス)
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「メキシコ」の旅(2)

2014年11月19日 | 海外旅行「中米」
≪無事に帰国したが、寒さに震えている≫

皆さん、ただ今!

予定通り17日早朝、13時間飛んだアエロメヒコ航空機が成田に着陸した。
地下に降りて京成電鉄羽田空港行きに2時間弱乗って、羽田発11時のスカイマーク便に乗り継ぎ、12時40分に新千歳に帰り着いた。

新千歳空港の気温は5℃だと機内アナウンスがあったが、20時間前まで「カリブ海」と「メキシコ湾」の境界に面したメキシコ「カンクン」の気温30℃以上の町に居たので、北海道の冷たく肌を刺すような空気に身体がこわばった。
千歳市の後方に聳える「樽前山」などの山頂は雪で真っ白だったが、どこを見ても地面には雪が無かった。

我が家に着くと沢山咲いている庭の薔薇が、色褪せて萎れていた。
居間の気温は10℃だったので、早速灯油ストーブを点火した。(夜12時まで焚き続けたが、留守中、家の構造物が冷え切っているため、やっと20℃に上がっただけだった)

早速隣家に帰国報告をしに行ったが、留守中は強風、大雨、雪と、毎日季節の変わり目の荒れた天候が続いていたらしい。
「庭木や薔薇を皆ちゃんと囲って行ったから、被害は無かったようですね。」と言われた。
いつもながら留守中、我が家を見守ってくれる近所の方達には感謝した。

昨日は、朝は-1℃、昼の最高気温も4℃までしか上がらないので、食料品の調達に車で買出しに出ただけだった。
とに角寒さが身に染みるので、気候に慣れるまで暫くは重ね着をして凌ぐ事にしたい。

帰国早々、安倍内閣総理大臣の「国会解散」や「10%消費増税据え置き」発言、株価が不安定など、国内は揺れ動いているが、私自身はいつもの事ながら、帰国したその日から留守中撮り貯めて置いたTV番組を必死で見ている。

ところで今回は、出発前日に内科医に処方された抗生剤と風邪薬を3度々々服用しながらも時々咳と痰に悩まされたが、「メキシコの旅」自体は思いがけず素晴らしい旅だった。
世界遺産の多くは、マヤ、アステカ文明が残した「ピラミッド」と、スペインからの独立運動を記録した絵画などだった。
「ピラミッド」は、エジプトのそれとは異なる構造をしていてまだ謎だらけだと言うが、中米に確かに存在した天文学に通じた民族の高度な文明に触れる事ができて感動した。

また、「メキシコ湾」と「カリブ海」の接点にある「ユカタン海峡」の沿岸に面した規模が大きなリゾート地「カンクン」では、私にとって今まで経験した事がないようなゆったりとした贅沢な体験をすることもできた。

写真は首都「メキシコシティ」の旧市街である。これから少しずつ、旅日記を綴って行こうと思う。








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「メキシコ」の旅(1)

2014年11月07日 | 海外旅行「中米」
こんにちは!
7日の今朝は4℃、最高気温も5℃の予報で寒い。なんだか時間と共に気温が低くなって行くので、とても庭仕事などはできそうに無い。

今日までに一応「農園の片付け」と「庭木の冬囲い」80本を何とか済ませたので、いよいよ次の旅行に出かける。雪の便りもあるが、まだ飛行機の欠航が心配になる大雪の時期ではないのが嬉しい。
風邪は全快していないが、徐々に快方に向かっているので、大丈夫だと思う。

今回の国は、中米「メキシコ」9日間の旅だ。
この地域は、アメリカ合衆国と陸続きの国で、国境線はアメリカに密入国する人々が多く治安が悪い地域だ。
太平洋とメキシコ湾に挟まれたこの地域にはまだ一度も行った事が無いが、一昨年「ペルー」「ブラジル」に行った帰りに「リマ」から日本への乗り継ぎのため「ロスアンゼルス」に向かう飛行機の窓から下に見た。その時、美しい海岸線が続くのを見て「いつかここにも来たい」と思ったのだ。
今回はそんな中米行きを初めて実現する旅になる。



「メキシコ」は、日本の5倍の国土面積を持ち、人口は日本のの90%程の国だ。太平洋の日付変更線を挟んでいるが、日本とは-15時間の時差がある。

首都の「メキシコシティ」は内陸で標高が2240mという高地にあるため、気温の高低差が大きく、この時期は朝10℃以下になるらしい。
ところがユカタン半島など低地は北半球ではあるが、赤道に近い亜熱帯地域なので、10月から5月は乾季というが11月でも最高気温は30℃を越すという
昨年11月に「ダージリン」を含む「北インド」に行った時の様に、服装は夏服と冬服の両方が必要な訳で、荷物が少し多くなりそうだ。

飛行機は「アエロメヒコ航空機」の直行便で、直接人口860万人の首都「メキシコシティ」に乗り入れる。乗り継ぎでアメリカに寄らない分「電子ビザ」の必要がないから楽だ。

9日間で世界遺産7箇所「メキシコシティー歴史地区」「ソチカルコ遺跡」「ボボカテベトル山腹の修道院」「メキシコ国立自治大学」「テオティワカン遺跡」「ウシュマル」遺跡を観光する。
(地図に青色で△をつけた地域)

「メキシコ」を始めとするこの地域は「アステカ帝国」が支配していたが、中世にスペインの植民地になったことがあり、古代からの土着のものと融合したその影響が今でも経済、社会、文化、宗教に強く残されているらしい。
どんな観光や体験になるか興味がある。

成田空港からの出発は9日午後15;25、帰国は17日朝6;20の予定で、行きは13時間、帰りは14時間飛行機に乗る。
暫くブログを休むが、帰国後、また宜しくお願いしたい。 
                                   
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仲間からの頂き物

2014年11月06日 | 日記
柑橘類の共同購入をしている仲間の一人が、一昨日届けてくれた「柿」と手づくりの「干し牛蒡」だ。

     
「柿」は、知り合いの家の庭になった柿が贈られて来たからと言って10個届けてくれた。
後で聞いて分かったことだが、お連れ合いさんが山形県の出身で、その田舎の幼馴染から届いたのだそうだ。故郷の味便りは良いなあと思った。
既に5個は食べてしまったのだが、「次郎柿」と言うのだろうか。小ぶりで種が8個入っているが、甘味が弱いので食べ易く、まとめて2~3個食べられる柿で気に入った。

「干し牛蒡」は、私が育てた牛蒡を差し上げた時、「干し牛蒡」にする方法を伝えた。
彼女は研究熱心な人で、早速、切って天日で干し、最後はフライパンで乾煎りして作って見たそうで、それを届けてくれたのだ。
色が黒いのは、牛蒡のポリフェノールが沢山残っているからだ。
昨日、少しの量を味噌汁に入れて見た。だしが出て美味しい。鍋物や煮物などに重宝しそうだ。

北海道では雪が降るので畑に牛蒡を置いて置くわけには行かない。掘ったり買ったりした牛蒡を数日置いて置くと、乾燥して使えなくなってしまうことが多いので、この保存法は凄く良い方法の一つだと思う。
育てた牛蒡がまだ沢山あるので、私も時間がある時に作って見たい。
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とうとう初雪

2014年11月04日 | 日記
昨日は朝から大荒れの天気だった。
北海道上空に12月並の寒気が入っていて、場所によっては午後から雪になるというので、まだ夏タイヤを交換していない私は、予定していた岩見沢行きを急遽取りやめると伯母に連絡した。

朝9℃あった気温は時間と共にどんどん低下し、ごご2時には3℃程に。
庭仕事をしていたが、寒風と冷たい雨が降って来たため中断して室内に。

今朝7時近くに起きてカーテンを開けると、庭が白い。昨夜降ったのだ。
早速室内からガラス越しに庭を写した。





それから2℃しかない外に出て、冬囲いの作業半ばになっている薔薇や菜園のレタス、青梗菜などを写して見た。
花や蕾が残っている薔薇も、寒さで凍えているようだが、野菜は元気だ。

 

 

 



小雨が降っていたが、どうやら風も収まり、晴天になって来たので雪は間も無く溶けるだろう。
温かくなったら、今日も冬囲いの作業を続けたい。
毎日気温、天候が目まぐるしく変わるので、できる時に本格的な冬を迎える仕事をして置きたいのだ。
その前に、風邪薬が無くなったので病院に行って来るとしよう。昨夜も寝てからずっと咳が続いたから。
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農園の仕事納めに当たって

2014年11月01日 | 家庭菜園・市民農園
今日から11月だ。いよいよ初冬の気配になって来たので、テンプレートのデザインを変えることにした。

ところで、5月10日に開園した市民農園を借りて今年も色々な野菜を栽培して来たが、いよいよ11月3日で閉演する。
2、3日は雨の予報なので、今日で最後と思って仕事をして来た。

昨日は、まだ残してあった大根と聖護院大根、長葱を抜いて家に持ち帰った。大根の葉は、堆肥にするための残渣置き場に運んで捨てた。
今日は、ブロッコリーの脇芽を収穫して、後は引き抜いて片付けた。白菜は不出来だったが、収穫して持ち帰った。これで借りた50㎡の農園が全て綺麗になった。

振り返ると、春に25㎡分にじゃが芋を植え、収穫後は大根と手無し隠元豆の種を蒔き、白菜と、ブロッコリーの苗を植えて育てた。
残りの25㎡には、トウモロコシと枝豆(大豆)、夏大根、小蕪、牛蒡の種を蒔き、収穫した。また、ブロッコリーの苗を植えた。

今年の反省は、①先ず大根の発芽が少し悪く、2週間後に蒔き直しをした。蒔き直した大根は生育が良くなかった。来年は失敗しないように種を蒔きたい。
 ②夏に植えた白菜の苗は、不織布を掛けたのだが虫が中にいたらしく、結果的に虫食いの白菜になってしまったことだ。来年は不織布を掛けずに育てて見たい。
 ③大豆の種蒔きの結果、密植気味になった。来年は畝幅を広げて追肥しやすくしたい。
 ④トウモロコシに支えをしなかったので、風台風で倒れて受粉が上手く行かなかった。来年は、初めから支えをして置く。
 ⑤牛蒡は30cm程にしかならないミニ牛蒡の種を蒔いたが、掘るのが大変だった。来年はビニール袋での栽培を考えたい。
 ⑥草地で試した小玉スイカは6株で30個収穫できたが、9月の旅行と収穫が重なった分のスイカが過熟して駄目にしたのが残念だった。
 ⑦じゃが芋は6品種育てて見たが、それぞれの特徴がわかり、利用法を考えることができた。
 ⑧春に植えたブロッコリーは、次々と出て来る脇芽を今日まで収穫できた。来年も春に数本の苗を植え付けて置きたい。

今年の農園もお陰さまで楽しく充実していた。来年もまた今年程度の広さを借りて植え付けし、身体に負担とならない様に考えて農作業をしたいと思う。

《追記》夕方娘が来たので、一緒に夕食をした後、今朝作った「聖護院大根の甘酢漬け」と余った「炊き込み鶏飯」、収穫した大根と長葱を持って帰らせた。
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