花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

八重山諸島の旅 (7)

2009年01月30日 | 道内・国内旅行
[八重山ミンサー織と婚姻制度]
石垣島の「ミンサー工芸館」に行った。
調べたら、ミンサー織りは竹島にもあったが、材料、染料に違いがあり、出来上がった製品の材質が微妙に異なるらしい。
昔、この地域では、伝統的に「通い婚」が行われていて、17世紀になって綿花が栽培されるようになってから、女性が木綿糸を藍で染めて織った細帯を、婚約の印に男性に送った事が、ミンサー織りの始まりだと言う。
必ず五つ目と四つ目の絣の柄を織り込んで、「いつ(五)の世(四)までも末永く」と愛を誓い、「足しげく通って欲しい」という願いを込めたらしい。

ちなみに私の知る日本の婚姻史を簡単に振り返ると、源氏物語に見られるように、日本の各地で昔は母系制の「妻問い婚」(結婚後も同居せずに男性が女性の家に夜通う「通い婚」の事)が行われていたと言われている。
初めは別居婚だった夫婦も、やがてその内、妻の元に同居する「婿取り婚」になって行ったという。

しかし鎌倉時代(1185~1333年)になると、「婿取り婚」をした男性がその内財力、権力を持つようになるに連れ、自分の家を構えて結婚と同時に女性を夫方に居住させる「嫁入り婚」に移行して行く。それと同時に徐々に「父権」が絶対になり、女性の権威は弱まり、女性は物扱いされるようになって行った。

やがて室町時代(1336~1573年)になると、最初から女性が生まれた家を出て男性の家に入る「嫁入り婚」の形が一般的になって行ったと言われている。その結婚で嫁に期待された事は、「家の跡継ぎ」としての「男子」を産むことだった。

「父権制家族」が完成した江戸時代になると、武家に生まれた女性には、「家」のために政略結婚させられる事も当たり前になって行った。
やがてこの家族制度は明治民法に取り入れられ、日本中の家族の規範として第2次大戦終了まで引き継がれた。

1945年の敗戦、1946年新憲法成立によってそれまでの「家の制度」は廃止され、男女が対等な立場で結婚し、協力して家庭を維持するという理念に基づく「法律婚」家族に移行したが、実態は半世紀が経っても、まだ多くの問題を抱えていると言えるのではないだろうか。
DVの問題や離婚後の母子・父子家庭の問題、核家族の育児・養育の困難や放棄、家庭教育力低下の問題などがある。
中でも最近は、不定期雇用の若者に、経済的に自立できず、結婚したくてもできないという切実な問題も出て来ている。
反面では高齢者夫婦家庭の老々介護、一人暮らしの高齢者の生活と介護の問題など、地域から孤立しがちな現代家族の問題は深刻である。

私には八重山地方の詳しいことはまだ分からないが、どうやらここでは、1600年代でも「通い婚」が続いていたらしい。
(歴史では、1609年に薩摩藩が圧倒的な軍事力で当時の琉球国を制圧して付庸国にした後、1879年、明治維新で日本の沖縄県に組み入れられた。)

ということは、ここでは生まれた家で一生を送る「母系制家族」が続いていて、女性の地位も認められ、生活は現代の女性よりずっと安定していたようだ。お互いに嫌になった時は離婚しやすく、子どもは妻の家で家族みんなの手で育てられたのだろう。
小さな島が多い八重山地方では、そんな南国的で大らかな男女関係がずっと長く続いていたことを知った。(亜熱帯の気候も、「通い婚」に有利だったのではと私は思う)
それにしても、女性が細帯1本織り上げるのには、大変な時間と労力を要しただろうなと思った。

今回は3泊4日という短期間の滞在だったが、八重山諸島の気候と風土に私は日本のハワイを感じた。
しかし、最南端の場所だけに、琉球国時代の事、明治時代初めに日本の国の一部に編入されてからの事など、知らないことが余りにも多い事も分かった。
何故、江戸末期に、南方に位置する薩摩藩があれだけの軍事力と徳川幕府に対する権力を発揮できたのか、それを知るためにも明治期に沖縄の一部になった八重山諸島をもっと知る必要があると、気づいた旅にもなった。(終わり)

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八重山諸島の旅 (6)

2009年01月29日 | 道内・国内旅行
[八重山の郷土料理]
毎回、郷土料理が出たが、さすが南国らしく、パイナップルやスイカ、瓜などの果物が美味しかった。
島の豆腐を使った炒め物料理・チャンプルーが必ず出された。豆腐は海水中の天然にがりで固めるというが、ソフトで美味しい。
その豆腐を泡盛と麹で発酵させて作る豆腐ようは、チーズに似た濃厚な味のもので癖になりそうだった。
豚のばら肉をじっくり煮込んだ角煮のラフテイは、柔らかで薄味に仕上げてあった。
豚の耳を材料にしたミミガーは、こりこりした食感だったし、今はほとんど養殖されているという海葡萄も面白い味だ。
二杯酢味のもずくは、酸っぱいが美味しかった。
断面が丸い八重山そば(小麦粉で作ったもの)は、さっぱり味だった。
年中気温が高い土地柄、いたみにくい調理法が工夫され、味付けはさっぱりとした薄味になっているのではと思った。

石垣島の「船倉の里」で食べた夕食の会席料理には郷土料理が並んだが、どれもおいしく食べられた。
写真の小魚の唐揚は、3枚下ろしに似た切り方だが、頭の部分は切り離さない状態の魚をしっかり2度揚げ(3度かも知れない)してあって、骨もパリパリと食べられる様に調理されていた。
(写真の料理に吸い物が加わった)
                            


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八重山諸島の旅 (5)

2009年01月28日 | 道内・国内旅行
[小浜島観光]
3日目、石垣島観光を終えてから高速船で小浜島に向った。
数年前、NHK朝の連続ドラマで放送された『ちゅらさん』の舞台として有名になった島だ。
島に着くと小型マイクロバスが待っていた。運転手兼ガイドの70歳位に見えるおじさんが慣れた口調で説明を始めた。

①ちゅらさんの島
今も記憶にあるガイドの言葉は、「島民はNHKに心から感謝しています。」「この道で3時間撮影したのは、30秒放映されました。」だ。
そしてえりいが暮らした家として撮影された「こはぐら荘」を見ようとした丁度その時、雨が降り出し、その結果、バスから下りたのは3~4人だけだった。
ガイドは、家の看板を挟んで私と友人を並べ、自分は雨に濡れながら記念写真を写してくれた。
その家も伝統的な形をしていた。撮影当時は住人がいない家だったが、今はいるので、中を見ることができないと言われた。

 

ガイドはしきりと島が小さい事を強調し、「次に渡る橋は島で2番目に大きな橋で、長さが2mあります。」と笑わせていた。
また、サトウキビ畑を指しながら、「国の補助金があるので今は何とかやっているけれど、無くなったらどうなるか分かりません。」とか、「最近は遠くへ出稼ぎに行く人や移住する人が多くて、人口が少なくなりました。」と寂しそうに話してくれた。

②ホテル「ヴィラハピラパナ」
このホテルは、ゴルフ場を有し、目を見張る程立派なリゾートホテルだった。
数室毎に作られた2階建ての建物が、沢山、点在していて、1階の室はベランダから庭に出られるようになっていて、ハワイ等のリゾートホテルに似た作りになっていた。

私たちが部屋に入ると間もなく、ベランダの方で鳥の鳴き声がした。
見ると綺麗な雄の孔雀がいた。野生だと思うが人に慣れているように見えた。暫く声かけをして遊んだ。
翌朝、また鳴き声が聞こえた。友人がスナック菓子を見せるとかなり近くに寄って来た。
この孔雀は、こうしていつも客から食べ物を貰っているのだろう。
ホテルの人に聞くと、近隣に数羽、生息しているらしいと話していた。
 
  

食事はセンター棟に行って食べるので、私たちはゴルフ場脇のアップダウンのある小道を往復した。
バイキング様式の夕食だったので私は柔らかい料理を選んで食べた。
バライテイ豊かな上、どれもとても美味しくて、思いがけない場所で腕の良い料理人の料理を食べられた事に感動させられた。


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八重山諸島の旅 (4)

2009年01月27日 | 道内・国内旅行
[西表島観光]
①水牛車で由布島へ
船は西表島の南部に位置する大原港に着いた。そこからバスで西側の美原に行き、水深10cm程の浅瀬の400m向こうに浮かぶ小島、由布島に水牛車でのんびりと渡った。時間も行路も牛次第。
ここでも御者が三線の調べに乗せて披露する島歌に、客も合わせて歌った。
何と牛車の天井には幾つかの歌の歌詞が貼り付けてあって、客も歌えるようにしてあった。(写真の背景は西表島)

 

由布島のレストランで民族色豊かな昼食を採った。その後、小さな島を散策した。
島には、照りつける日差しで体温が上がっても汗腺が無い水牛のために、水中に入って休ませ体温を下げる池が作られていて、仕事を終えた牛が入れられていた。

帰りは、少し潮が満ちて来て水深15cm程になっていた。潮が最高の時は、海水が膝位の高さになるのだという。
私たちが乗った牛車の水牛は、まだ小さい牛らしく(3歳から車を退くのだという)なかなか真っ直ぐには歩けないし、ゆっくりなので一番遅れて向こう岸に着いたが、その内経験を積んで立派な引き手となって行くことだろう。その牛車でも島歌を聞くことができた。

②由布島植物園

 

昼食後、レストランの裏手に広がる植物園を散策したのだが、小さな由布島全体がまるで植物園のようになっていた。
西表山猫の実物には会えなかったが、散策の途中、木彫りの山猫が出迎えてくれた。(写真上)
また西表島では、あちこちの道路で、「西表山猫に注意!」という絵入りの立て札が立ててあるのを見た。

③仲間川クルーズ
西表島は、沖縄県で唯一、国立公園に指定された島で、奥深い密林には天然記念物の動物が色々生息しているという。
川船に乗って仲間川上流へ向った。
広い川幅の両岸に、独特の鬱蒼としたマングローブ林が続いている。
上流で船を下りて、川岸のジャングルに少し入った所に見たことも無い植物が生えていた。
「サキシマスオウ」の木だという。
発達した大きな板根が本当に素晴らしい。亜熱帯、熱帯地方に見られる木だと言う。
入り口の看板には、この木が樹齢400年、樹高18m、幹周り345cmとあり、昔、板根は船の櫂などに利用されたと説明されていた。

  

クルーズの帰りに、川で遊ぶ黒い数羽の鵜を見かけた。北海道では見かけない鳥なので、野生の鵜は珍しかった。
 
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八重山諸島の旅 (3)

2009年01月26日 | 道内・国内旅行
[竹富島観光]
石垣島の西隣にある東西2km余り、南北3km余りの小さな竹富島には、小型高速船に乗って行った。
私は下の船室には下りず、後部甲板席に座り、ジェットエンジン音とスクリューが巻き上げる水しぶきの音が混じった轟音、それと体に当たる強風をたっぷり楽しんでいる内に竹富港に着いた。

  

   

①水牛車観光
25℃の強い日差しの下を、守り神シーサーが乗った赤瓦の家と石垣でできた狭い通路を、のんびりと水牛車に乗って見て回った。
家々に赤いハイビスカスや濃いピンク色のブーゲンビリヤが咲き誇っていて、南国を感じた。
良く見ると屋根のシーサーが多様な表情をしていて面白い。
御者のおじさんが、若者が少なくなった島の現状や玄関がなく、縁側から出入りし、室内が見えないように塀で隠す八重山独特の建築様式を説明した後、良く響く三線を弾きながら島歌を情緒たっぷりと歌ってくれた。(写真上)

②カイジ浜
星の砂があることで有名な海岸の一つで、多くの人がしゃがんで探している。私も探して見たが、人が出入りする場所の近くではほとんど見つからなかった。もっと遠くに行くとあるのかも知れない。
お土産やでは、小瓶1つ100円位で売っていた。

 

③なごみの塔
島を360度見渡せる塔だが、1~2人がやっと登れる急勾配の細い塔だ。
順番を待って登ると、赤瓦の集落とその向こうに青い海が見えた。
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八重山諸島の旅 (2)

2009年01月25日 | 道内・国内旅行
[石垣島観光]
②川平(カビラ)湾
南国の太陽に照らされた川平湾には小型のグラスボートが数隻浮かんでいて、波も静かだった。
早速私達は、2艘の海底を見ることができるグラスボートに分かれて乗り込んだ。
ボートが静かに湾に出ると、間もなく船底に見たことの無い色々な形をしたさんご礁、泳ぐ可愛いくまのみや鯛、海草が次々と見えて来た。30分間は、あっという間に楽しく過ぎた。

   

③唐人墓
バスを降りようとしたら急に大粒の雨が降って来たので、傘を差して中国様式の墓の前に行った。
墓には建立された経緯が克明に刻まれていた。
それによると、1852年2月、中国福建省からアメリカのカリフォルニアへ中国人苦力400余人を運んでいたアメリカ船内で、虐待に耐えかねた中国人が暴動を起こし、米国人を殺害後、石垣島沖で座礁して、380人が島に辿り着いた。
八重山政庁は小屋を建てて収容したが、その後3回に渡ってやって来た米英兵船の攻撃などで128人が死亡。島民は一人々々に石積みの墓を建てて手厚く葬ったという。
また生存者には密かに食料を与えて人道的な援助をした。
その後事件は解決を見、翌年9月、生存者は福州に送還された。
この墓は1971年に、石垣市が中華民国、在琉華橋に寄付を募って建てたのだと言う。
私は、この地で初めて当時の凄惨な事件と島民の温情を知った。急な雨に、128人の涙を思った。

 

最後に誰もいなくなった唐人墓の後ろへ回って見た。
建立に尽力した当時の琉球政府行政主席、屋良朝苗氏の追悼文が石碑に刻まれて埋め込まれていた。
それには、『人間が人間を差別し、憎悪と殺戮が繰り返される事の無い人類社会の平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる』と、書かれていた。
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八重山諸島の旅 (1)

2009年01月24日 | 道内・国内旅行
暫く振りで、3泊4日の旅行と歯痛からの復帰である。
旅行直前からいよいよ奥歯が痛み出し、鎮痛剤を飲みながらの少し辛い旅だった。

帰宅した翌日(昨日)、歯医者に駆け込み、その親知らずを抜歯した。
(痛んでいる歯は麻酔が効きにくいそうで、30分かけて7~8回麻酔薬を注射され、やっと抜いて貰った。
歯の生え際がぐるりと虫歯になっていた。
直ぐに鎮痛剤を飲んだが、それから1時間余り、待合室の椅子に目を開けることができずにうずくまっていた。)
今日は、やっとパソコンに向う気が出てきたので、良かった。

では、今回の旅を報告したい。
飛行機は千歳空港発10時45分で発ったが、乗り次ぎ時間は羽田で1時間、那覇で20分と順調で、石垣島空港には予定通り17時35分に着いた。疲れはほとんど感じなかった。
八重山諸島は4日間とも24~25℃の気温だったので、真冬の北海道から行った私達にとっては、瞬時に初夏が来たような感じだった。

[石垣島観光]
①石垣島鍾乳洞
石垣島に着くと、真っ直ぐさんご礁からできた石垣島鍾乳洞に向った。
山口県秋吉台に比べれば規模は小さいが、石筍の緻密さ、美しさに目を見張った。

 

たっぷりその素晴らしさを堪能し、夕食をとってホテルに向った。
ホテルは規模が大きいN八重山ホテルだった。このホテルには2泊したが、大浴場もあったので、そこで旅の疲れを癒す事ができた。

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ドジな私 (3)

2009年01月18日 | 日記
(1)の続きである。
投函直後に切手不足に気が付き、郵便局で話をした。20円切手を買って、間もなく来るはずの集配人を待った。
20分後にやっと来たので事情を話した。
彼は「1度投函したものは、もうどうすることもできません。」「ただし、切手が剥がれていれば、付けられます。」と言うのだ。
そこで私は20円切手を投函した。
「分かりました。」といってくれたので、その場を離れた。

後で気が付いた足りない分は、切手を中に落として置けば良いというのだが、全国でそういうサービスをしているのかは分からない。
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明日から4日間、八重山諸島に行く

2009年01月18日 | 道内・国内旅行
先月、共に四国一周をして来た友人の一人と、今度は沖縄の南に位置する石垣島、・西表島・竹富島・小浜島の島巡りツアーに出かけることにした。

色々調べて見ると、それら八重山諸島は、北緯23.4度を通っている北回帰線の直ぐ北に接している。
北回帰線上は、太陽が赤道に来た時、春分と秋分には赤道上の太陽光線を垂直に受ける場所で、北回帰線から南回帰線(南緯23.4度)の間が熱帯と言われている。
今回は、真冬の北海道を飛び出して、日本の最南端に行って見ようと計画した。

所が実は、2月下旬には中国雲南省の旅も申し込んであり、3月には台湾周遊を予定している。
考えて見たら、北回帰線は台湾の中央を通っているし、雲南省も然りである。
それぞれの旅先をバラバラに考えたのに、結果として国は違うが、月を変えて、北回帰線近辺の気候や自然、文化を続けて見に行くことになったのだ。これは面白い。

ついでに地図で確認したら、私が行った事のある所では、モロッコの南部、インド、タイ、ハワイ諸島,ボツワナ、ザンビアが熱帯に入っていた。

明日は新千歳空港から東京国際空港に飛び、それから那覇で乗り接いでから石垣島空港に行く予定だ。乗り継ぎ時間も入れて、行くのに約7時間かかる。日本も南北に長いな~。
おまけに気温差は20度以上だから、出かける時の服装と現地の服装の差にどう対処するか、工夫が必要だ。
そこで明日朝は、着ていく薄いコートの下を暖かくすることにして、カーデガンを重ね着することにした。飛行機に乗ったらカーデガンは脱げば良いだろう。

観光は中2日半だけだが、友人と思う存分楽しんで来たい。
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ドジな私 (2)

2009年01月17日 | 日記
明後日から国内旅行に出かけるので、納戸から小型キャリーバッグを出した。
先月使ったばかりのバッグなので、その中に鍵が入っていると確信していた。
ところが、中をいくら探しても鍵は見当たらない。頭も気持ちも混乱した。
気を取り直して、私が置きそうな場所を1時間半以上、色々と探しまくった。
しかし、やっぱり何処にも無い。

仕方がないのであきらめて、新たに明日でもまた買いに行くことにし、バッグのファスナーを閉じた。
アレッ!あった。何と持ち手に留めてあったのだ!

そう言えば、前回片付けた時に、失くさない様にと目立つ持ち手に留めたのを思い出した。
でも何故、納戸から出して運んで来た時に、鍵に気が付かないのだろうか。目には見えていても、脳が意識しなければ見えないのと同じなのかも知れない。
それにしても良かった。
でも、また自分のドジさ加減を知り、がっくり来てしまった。

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ドジな私 (1)

2009年01月17日 | 日記
先日、絵葉書と封書を出す事になり、絵葉書には50円切手、封書には余っていた古い62円切手を貼った。足りない18円分は郵便局で買って貼れば良いと思って出かけた。

ところが、郵便局で知り合いに会って話をしたり、現金振込みをしていたら、すっかり出すのを忘れてしまった。
駐車場に戻ってそのことに気づき、慌てて郵便局の玄関口にあるポストまで戻り、そのまま投函してしまった次第。
投函直後に、切手が不足していた事を思い出した。時、既に遅し。

皆さんにはこんな経験ありませんか。その時、どうしましたか。(つづく)
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通院日

2009年01月13日 | 医療・健康問題・食生活
今日は数ヶ月振りの乳腺外科の予約日だった。
珍しく6時に起きて仕度し、8時前のJRに乗って札幌まで行った。

何時ものように地下鉄などを使わずに、-4度の中を病院まで歩いた。滑りそうになる足元に気を付けながら雪道を25分間歩いたら、汗をかいた。
今回は、受付を済ませて直ぐにマンモグラフイーの撮影だ。
新しい機械は容赦なく乳房を挟みつける。余りの痛さに頭が真っ白になった。左右を横と上から合わせて4回、息が詰まった。

その写真を持って乳腺外科に行き、医者の触診を受けた。
「今回も異常ありません。」と言われてホットした。
改めて机上に貼り付けてある私の写真をみたら、乳腺まではっきりと写っていた。さすが我慢してとっただけある写真だと思った。
小さな白い点が1つ写っていたので聞くと、「カルシュームが石灰化したものです。」という答えだった。
私から、「数ヶ月前から、また、毛髪が凄く抜けるのですが、原因が女性ホルモンが少ないためだとしたら、どうしたら良いでしょうか。」と聞いてみた。
すると、「あなたの乳がんは、女性ホルモンとは関係ないがんですが、もしも女性ホルモン剤を呑んだり貼ったりした場合、別の癌ができるかも知れません。婦人科で更年期障害の相談をして見てください。」と、言われた。
そうなのだ。どうしようか。
次の検診日は6月になった。

帰りは札幌駅で従姉妹と待ち合わせてランチをし、夕方まで近況報告をし合った。
従姉妹に上げるお土産に、少し重かったけれど、じゃが芋と栽培元から送られた有機栽培の美味しい蜜柑を沢山、リュックに入れて持って行った。
従姉妹からは、デパートで買った五目おこわと茄子のしぎ焼きを頂いた。おこわは美味しかったが、茄子は油が多く、胸焼けをしてしまった。

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「ホンモノの温泉案内」を読んで

2009年01月12日 | 日記
タイトルに「女性のための」という頭がついているこの本は、温泉教授、松田忠徳氏が書いたものだ。
彼の主張は、新聞、雑誌などで何度か読んで知っていたが、今回、1冊の本にまとまったものを読んだのだが、温泉が身近なものになっているだけに興味が持てた。

彼は、湧出量が多い源泉から引いた湯を、そのまま掛け流し、決して水を加えて薄めたり、塩素を混ぜて成分を換えたりしていない温泉こそが、本来の地球の恵みなのだと言う。

しかし、現在は、あたかもブランド品を売るように、温泉本来の泉質よりは、こ洒落た浴室や客間を作って客引きをする温泉宿が多く、残念だと言っている。

確かに私も今まで多くの温泉に入った経験をしているが、その多くにはプールの様な塩素臭があった事を記憶している。
彼に言わせると、それは温泉ではなかったのだ。

源泉からの取水量が少ない所は、大抵、循環させている。酷い所では、湯船から溢れた湯や洗い場の汚水まで循環させているらしい。その場合、湯の衛生状態を保つためには、塩素で殺菌せざるを得ないのだという。
それなのに、建物が近代的だとか、部屋が綺麗だとか、食事が美味しいというレベルで、私を含めた多くの人が温泉を選んでいる事を嘆いているのだ。

彼は、歴史的にずっと男性の遊び場だった温泉が、今は女性の癒しの場になっている。だから、これからの温泉をリードして行くのは女性の手にかかっているのだと言う。
確かに家族でも友人同士でも、最後に温泉宿の決定権を持つのは女性になってきているかも知れない。

もう一つ、最近大流行の「足湯」についても書かれていた。
足は体の中では汚い部分だ。その足を不特定多数の人間が浸ける湯は、相当汚い湯になっている筈だ。わざわざ「足湯」なんか作らなくても、風呂に足を入れれば足湯はできると言っている。
私は、「足湯」の多くが地域の人達や旅行者への温泉組合のサービスで、ほとんどが無料だから人気があるのだと思う。
先月行った道後温泉にも足湯があったが、大勢の人が訪れる場所だけに、衛生状態がどう保たれているのか気になった。

この本を読んで、これからの私の温泉選びが変わりそうだし、急に本物の温泉に行きたくなった。

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オセロに夢中な伯母

2009年01月12日 | 高齢期の生活
今朝から伯母の部屋に何度も電話をしていたが居ない。
午後1時頃かけたら、やっと出た。
聞くと、7時の朝食後、ずっと食堂でオセロをしていたのだという。
「自室で一人でいるよりも楽しいし、ボケ予防にも良いので。」と笑う。
(伯母達がしているオセロのゲームセットは、大きさが普通の1.5倍位もある高齢者向けの物で、多少指が不自由でも、目が霞んでも楽しめるように作られている)

60数年間、農家の嫁として、余暇など無い、まさに働き詰めの人生だったが、2年前に伯父が亡くなった後、やっと手にした今の安楽な生活を、毎日、施設の友人達と楽しんでいる伯母を心から応援したいと思った。

伯母から貰った手作りのスワン 
 
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金柑の甘煮を作って、伯母に届ける

2009年01月11日 | 医療・健康問題・食生活
昨日1日降っていた雪が今朝止んだので、伯母の所へトートバッグを届けに行くことにした。
あり合わせで持って行く煮物を作りながら、四国から買ってきた金柑がまだ少し残っていた事に気がついた。
それで大急ぎで甘煮もつくることにした。
経験した事が無いので、本を見てつくった。

(作り方) ①へたを取った金柑に包丁で縦に7~8本切込みを入れる。
      ②指で上下を押し潰しながら、切り込みの隙間から中の種を取り出す。
      ③2度、水を替えて湯がく。
      ④砂糖を入れて煮詰める。

やってみたら③④は簡単だが、①②の作業が思ったよりもずっと手間がかかった。しかし、完成した甘煮は優しい甘さで美味しくできた。

       

伯母は金柑の甘煮を初めて食べたらしく、「変わった味がするね。美味しいよ。」と言いながら、続けて3個食べた。

トートバッグは、予想外の形にできていたようで喜んでくれた。
それと、家にあったゆで小豆の缶詰も2缶持参した。簡単にお汁粉ができると喜んでくれた。

前に私が作って上げた×÷の混ざった四則計算問題40題の紙をやり終わったと言って見せてくれた。間違っていたのは僅か6題だったので驚いた。
建物内に同居している人の中には、一緒に風呂に入ったばかりなのに、廊下で会うと「風呂に入りましたか。」と聞く様な人が何人かいるけれど、自分はああはなりたくないから努力するのだと話す。
私は、「長生きすると大抵の人はそうなるけど、仕方が無い事だよ。」と言った。

「髪が伸びたけれど、雪道を美容院に行くのは面倒なので切って欲しい。」と頼まれた。工作用の鋏しかなかったが、それで何とか短く切った。
それから2時間ほどおしゃべりをして、日没前に帰って来た。




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