花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

今年を振り返って(2)

2014年12月30日 | 日記
今年は7回の外国旅行で12カ国に行くことができた。
それぞれの国で大自然や世界遺産を見、歴史、文化、生活を知れて良かった。

3月に行った「ウズベキスタン」では、第二次世界大戦後ソ連に強制連行された日本人がシベリア以外の旧ソ連領に連行されたことを知った。
首都タシケントには、数百人の日本人が貧しい食事を与えられながらも誇りを持って立派な「バレー劇場」を造り上げていた。その劇場はタシケントが大地震に見舞われ、周囲の建物の大半が破壊された時にも壊れなかった事で、日本人の仕事に対する評価が高まっている。
郊外にはタシケントで亡くなった日本人の立派な墓地が作られていて、管理人が綺麗に管理していたのにも心打たれた。

5月に行ったバルト三国の一つ「リトアニア」で「旧日本領事館」を訪れた。
1940年、そこに勤めていた「杉原千畝氏」がナチスドイツに追われた6000人のユダヤ人に「命のヴィザ」を発給して命を救ったというその現場に立てたことに感動した。
日本政府の意向に反した行動によって彼は外務省を退職するのだが、そんな決断と行動をした彼は、今、世界的に称えられている。

9月に行った「オーストリア」では、ヨーロッパアルプスの展望も素晴らしかったが、最後に立ち寄ったウイーンの自由行動でベートーベンやシューベルト、モーツアルトら楽聖の墓がまとめられている「中央墓地」に行った事が良い思い出だ。
帰国後、改めて耳に障害を持ちながら次々と素晴らしい交響曲を作曲したベートーベンの凄さを感じながら、CDを聴いている。

来年も、できればまだ見ぬ国を幾つか訪れるつもりだ。外国旅行は、同じ地球上に暮らす様々な民族の歴史と文化を知ることで大いに学ぶことができると共に、私にとって最高の非日常的な刺激で、生きている喜びを感じられものだから。

最後になるけれど、私のブログを訪れて下さり、いつもアドバイスや励ましのコメントを下さった方達に改めて感謝します。
どうか来年もまた宜しくお願い致します。



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今年を振り返って(1)

2014年12月29日 | 日記
今年も残り3日。私の1年を振り返って見た。

今年、何よりも嬉しかったことは、12月の乳癌検診で「手術後10年」をクリアーできたことだ。
10年過ぎれば完治したという訳ではなく、今後は再発・転移する確立が低くなるということらしい。
よって今まで通りこの先も、1年に1度の検診を受けることになるのだが、精神的な不安は大分少なくなった。
この十年間は、自分が「がん患者」であるという事が常に意識の中にあった。来年も健康であるという保障はないと考え、「できることは今の内に」と生き急いで来た。しかしこれからは、もう少しゆったりと構えて暮らして行く事にしたい。

国立病院に行ったついでに婦人科に寄り、「子宮がん検査」も受けて置いたが、昨日その結果が送付された。見ると検査を受けた「子宮頸がん」も「子宮体癌」も「異常なし」だった。
しかし、「毎年受けるように」と書いてあった。子宮がんには年齢は関係ないようだ。

12月に受けた「大腸ポリープ4個の内視鏡切除」は、手術を受けて良かった。2年後に、また検査を受けることになる。

体あっての日常生活なので、これからも諸検査を受けながら暮らして行く事になるだろう。

趣味の農園は、今年も5月から9月の末迄5ヶ月、「野菜つくり」という「1人遊び」をしたのだが、毎月「野菜研究会」の仲間と交流もあって実に楽しかった。
色々収穫した野菜を近所や知り合いに差し上げることができて良かった。
収穫した大根を差し上げた家からは、先日、漬物が届けられた。私が漬けたものよりも美味しいのでありがたい事だ。

それから蜜柑の共同購入は、仲間が固定して来たが、配達しながら色々な話をする事ができたと思う。
高齢者の一人暮らしは人と話すことが少なくなって認知症になりやすいと言われるが、私の場合はお陰で友人が沢山できて嬉しいし、生活の知恵も学べて一挙両得だと思っている。
来年も今年と同様に、畑作りや共同購入を続けたい。

庭の薔薇は、木が大分大きくなって来て、花を沢山咲かせてくれた。土作りと開花後の剪定が基本だというので、来年も一所懸命に取り組みたい。




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恐ろしい鏡面道路

2014年12月22日 | 日記
昨日、今日と私の町では路面が凍り付き、車の運転にとっても歩行者にとっても最高に危険な状況になっている。
原因の一つは、一昨日降った雨が、気温の低下によって凍結してしまったからだ。
その後、低温が続き、晴れた日の午後に表面が少し溶けたとしても、夜間はまた凍結してしまう事が繰り返されているからだ。

昨日は用事で車を運転して出かけたが、ブレーキの効きが悪く、そうかといって低速で運転すると横滑りしてしまうのだ。
歩道はひどく凍りついているので、歩行者はおっかなびっくり、あたかもやじろべえの様な格好で歩く。
車道のわだちの所だけかろうじて少しアスファルトが出ている場所では、歩行者がそこを歩きたがる。車が来たら急には止まれないし凄く危険なので、交通警察が歩道に戻るようにと指導していた。

今日も買い物で外出したが、日中の最高気温は-6度と真冬日で、空気が凍り付いているし、道路も凍結したままだった。
こんな危険な状態が早くなくなって欲しいのだが…

 
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10年目の検診日

2014年12月20日 | 医療・健康問題・食生活
昨日は2004年9月に発見し、10月に手術を受けた乳癌の丁度10年目の予約検診日だった。
(一般的な癌は5年経つと完治したとみなされるらしいが、乳癌の場合は進行が遅いので10年となっているらしい。)

まず、いつもの様に「マンモグラフィー」の撮影からだったが、痛いの何のって脂汗が出た。短時間だからと思って必死でこらえた。
3年ほど前までは「レントゲン室」で撮影後、焼き付けたフィルムを受け取り、それを「乳腺外科」に持参して受付の看護士に渡していた。
しかし昨年辺りからは、「マンモグラフィー」の画像は、直接、主治医の机上の大型画面に送信されたのを見るのだ。
昨日は、ほぼ実物大の左右乳房の8枚の画像が見られた。
それから、ベッドに寝て触診を受けた。

私自身、多少の不安は抱いていたが、主治医からは「異常はありません。」という言葉。
思わず「ラッキー!」と大きな声を出してしまった。

この10年間、検診の度に腫瘍があるかどうかをチェックする「血液検査」も受けて来たが、これからは「血液検査」は患者の希望になるのだとか。
とに角私は、再発転移しやすい10年間を無事に乗り越えた訳で本当に嬉しい。
たまたま持ち合わせていた果物の一部を主治医に感謝の印として差し上げた。
                                   
考えたら、最初に行った「乳腺クリニック」で診断を受けた直後に、今の「国立病院札幌がんセンター」に転院して本当に良かったと思う。
当時手術を担当した主治医他の医師たちは、ほとんど皆転勤していなくなってしまったし、放射線科の担当医も別の病院に行ってしまったが、医師たちは最善の医療技術を駆使してくれた。
またその頃、まだ乳癌についての知識をほとんど持ち合わせない私の不安を取り除き、支えてくれた事に感謝している。

昨夕は病院を出てから札幌の町で娘の退勤を待ち、飲み屋さんで食事をしてから帰宅した。
JRでわが町に着くと、昼に溶けた雪が凍結して路面がつるつる状態。駅から5~6分の距離だが、滑らないようにまるでコソドロの様に抜き足差し足でやっと帰宅した。
                                  
これからは早世した父母や乳癌で亡くなった友人達の分も、一日々々を元気に有意義に過して行くのが、私がするべき事だと思っている。                                      
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低気圧で荒れた昨日

2014年12月17日 | 日記
昨日は朝から「強烈な低気圧がゆっくりと北海道に近づいているため、各地は数十年に一度の暴風雪になる」という予報で、「不用不急の外出、車での外出は避けるように」とTVやラジオで何度も報じられていた。
私は、まだ荒天にならない昼に灯油を買うついでに、スーパーマーケットに行って見た。

食料品の棚はガラガラ。レジの人に聞くと「開店以来、年末みたいに客が殺到して並び、レジ打ちが大変だったよ。」と言っていた。
なるほどパン類や生鮮食品がもう10~30%値下げされているのだ。大荒れになったら、客が来なくなるのを見通しての事なのだろう。
私もそんな食品を少し多めに買いだめした。

帰りに寄ったガソリンスタンドでは、18L入りポリタンクに灯油を17L入れて貰った。重くて運ぶのが大変だからだ。
その時の若いお兄さんに「選挙に行ったの?」と聞くと、「仕事があったし行かなかった。」という。
私は「若い人が棄権すると、政府は票に関係ないからと若い人の事を考えてくれなくなるよ。」と言った。

16時頃からは雨が降りだした。そして風も強くなった。
夕食は、多めに炊き込み飯を作った。
7じ頃、雨が降り、暗い中、外に置いてあった発泡スチロールの箱を物置に入れた。
21時頃からは、雷が鳴り出した。

今朝起きて見ると、当地は降雪も少なく晴天で気温は高めだ。
まだ、「今日も低気圧による暴風雪に厳重に注意して欲しい。」「雪で視界が効かなくなったら、明かりがある場所を目指して行くように!」と言っている。
ニュースによると、JRも航空機も多数の欠航を発表している。小中学校も昨日から休校を決めたらしく、生徒が歩いていない。

今日の天候がどうなるか、見守る積もりだ。先ず、ごみを出しに行こうか。
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伯母を訪問

2014年12月16日 | 高齢期の生活
大腸手術から5日経ち、選挙の投票も済んだので、昨日、伯母の施設を2週間ぶりで訪ねた。
伯母に頼まれた「収穫したじゃがいも」と「買った玉葱」、それに家にあった「愛媛から取り寄せたみかん」「カボチャのプリン」「細かく切った手製の蕪の甘酢漬け」「栗の甘煮」などを車に積み、近くのスーパーで「刺身」と「稲荷ずし」「ひき肉」「白菜」「豆腐」「菓子パン」を買って向かった。

路面は凍結していてブレーキが利き難く恐ろしかったが、車間距離をしっかり取って運転した。
I市に近づくに連れて道路わきの雪が多くなって行き、郊外に着くと1m程もある。やはり豪雪地帯I市だ。

入れ歯が合わなくなって噛めない伯母は「刺身」も「みかん」も予め包丁で小さく切り、それを口に運んでいた。
「漬物もこうして小さく切ると食べられる。久し振りでおいしい。」と言いながら食べていた。

伯母の話では、選挙の投票に行くために施設が投票所まで2~3回車を出したそうだが、伯母が乗った時刻には他に1人しかいなかったと言って嘆いていた。
若者の棄権者が多いことが問題になるが、その施設の高齢者もそうらしい。
伯母は「選挙の結果が、自分達の暮らしに返って来ることが分からないのかな。」と凄く心配していた。
そんな伯母を見て、95歳ながら実にしっかりしていると感心させられた。

2時間半程居てお喋りをし、「又来るから…」と分かれを告げた。
家に着く時刻にはもう薄暗くなって、気温も下がり始めていた。
凍結路面を往復2時間弱かかった運転で、やはり少し疲れてしまったが、できたら天気の良い時を見計らって、年内にもう一度行きたいと思っている。

                       
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伯母の誕生日

2014年12月12日 | 高齢期の生活
I市の高齢者専用賃貸住宅に入居して1人で暮らしている伯母の誕生日が来た。
≪大正8年12月12日生まれ≫なので、満95歳になったのだ。

8時過ぎから何度電話を掛けても、繋がらない。耳が遠いので、また、ラジオの音量を最大にしていて電話の音が聴き取れないのかなと思っていた。

先程かけたらやっと繋がった。
「誕生日おめでとう!この1年良く頑張ったね。これからも元気でいてよ!」とお祝いの言葉を言ってから、何をしていたか訊ねた。
すると「廊下を歩いていたの。」という返事が返って来た。

夏場は朝5時前から外に出て、手押し車を押しながら1時間以上散歩をしていたらしいが、この時期、外は雪が積もり、気温も氷点下で路面は凍りついているから、歩くのは危険だ。それで屋内の長い廊下を往復しているらしい。

目が悪くなったのと耳が遠くなったこと、入れ歯が歯茎に合わなくなって食物を噛めないこと、それに60年以上続けた厳しい農作業で、腰がすっかり曲がってしまって歩行するのが大変になっていることを考えると、伯母の前向きな気持はどこから出るのだろうと不思議にさえ思う。
夫にも一人息子にも先立たれ、たった一人になってしまったので、自立心が強くなったのだろうと思うが、立派だ。
私も決して健康体ではないが、できる限り伯母を支援したいと思っているのだ。

今度は96歳の誕生日を目指して元気に暮らして欲しいと願うが、国の高齢者福祉政策がだんだん後退して行っている現状を見ると、心配にもなる。
(今までは「要介護1」の認定で施設に入居できたが、今度は「要介護3以上」にならないと入居できないようになるという。伯母は数年前から、まだ「要支援2」なのだ)

                     
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初めて大腸ポリープ切除手術を受ける

2014年12月10日 | 医療・健康問題・食生活
8日午後に入院し、9日午前中、腸内の洗浄をしてから、午後、内視鏡によりポリープ4個を切除して貰った。
その後はベッドに安静にして、20時間、点滴が続いた。その間は絶食だった。
医師の説明によると、1年前からあった大きさ5mmと3mmのポリープが1個ずつと、新たに分かった2~3mmのが2個だったという。
検査に出して性質を調べ、次回の通院で結果を聞く。

簡単な手術だと安易に考えていたが、内視鏡とは言え、やはり私にはきつかった。
でも、今回4個も取ることができて良かった。
医師達(手術は医師2人、看護師2人で行われた)に感謝!

退院許可が出てから、浴室の使用許可を貰って入浴し、身体を温めて退院した。
駐車場に置いておいた車に雪が10cm程積もっていた。
スーパーに寄って刺身や豆腐を買い帰宅したら、玄関前が綺麗に除雪されていてびっくり。近所の方がしてくれたらしい。感謝!

病室は26℃もあったのに、室内は8℃しかない。ずっと暖房を炊き続けた。
気温差でまた風邪を引かないようにしたい。
一先ずやれやれだ。

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初除雪・札幌有島武郎記念館

2014年12月08日 | 日記
昨日は、夕方初めて宅急便が届いた時に外を見た。何と雪が10cmほど積もっているではないか。これでは長靴を履いていない来宅者なら、玄関前まで入って来られない。
慌てて今冬初めての除雪をした。
家に入った所に娘からメールが来た。「前にTV音も聞ける携帯ラジオを欲しがっていたけど、今もそうなの?」というものだった。
直ぐに「明日からの入院で必要だと思って、普通のラジオを昨日買ってしまった。」と返信した。その後は音沙汰なしだ。

今回は1日違いで損をしたかも知れないが、まあ仕方ない。
これからも娘に、普段から欲しいものを告げて置こうかな。年末ボーナスも出たのだろうし…


ところで先月末の土曜日、娘の誘いで「札幌芸術の森美術館」で開催されていた「藤城清治 影絵の世界展」に出かけたのだが、その時に駐車場の先に見つけたのが、「有島武郎記念館」だった。

彼は、「カインの末裔」「或る女」「うまれ出づる悩み」などの小説家として知られているが、札幌農学校(現北海道大学)を卒業し、米国に留学、欧米を旅行後、札幌農学校に勤務した。
その時に自分で設計して建てた家を解体移築した家がその家だった。今は無料で記念館として公開されていた。
彼が本格的な小説家になったのは大正5年だ。大正11年7月には「有島農場」の解放を宣言した。
大正12年(1923年)6月7日、軽井沢の別荘で雑誌記者「波多野秋子」と心中し、45歳で亡くなった。当時は随分話題になったらしい。

家は大正2年(1913年)8月に北12条西3丁目に自宅としてに建てられた二階建ての日本建築だが、西洋の住宅との和洋折衷式建築になっていて、屋根は腰折れ屋根(マンサード屋根)小屋裏を二階にして部屋数や窓が多く、部屋の1つ1つが広い作り方をした機能的な家になっていて流石だとおもった。洋風住宅の先駆けになったらしい。一時は学生寮としても使われたという。

内部には経歴や写真、執筆書なども展示されていて、興味が持てた。特に北大を出た娘は関心を引かれた様子だった。

 





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雪の朝

2014年12月07日 | 日記
今朝起きてカーテンを開くと、一面真っ白。ただ今の所の積雪は2~3cmなので、明け方から降り出したのだろうか。
ニュースによると、本州の日本海側では一昨日から大雪の所があり、交通が寸断されたり、事故車が続いたり、高齢者が除雪に苦労している様子が報道されている。

北海道も今年は道北の日本海側や道南を以外は、まだ降雪量が少ない。それだけに放射冷却現象なのだろうと思うが、例年よりも寒さが強い。昨朝は-10℃、今朝は-8℃だった。
昨日は、昼間買い物に出たが、息をするのが苦しいほどの冷気だった。

昨日は、携帯ラジオを買いに行ったのだ。
明日から3日間、大腸ポリープの切除のために入院するので、少しは病室で退屈しのぎになるのではと思っての事だ。
色々な機種があったが、結局、停電した災害時でも、また屋外でも使えるという「ソーラー、ダイナモ(手回し発電)」の二通りで発電ができる他に、USBにも繋ぐことができるというAM/FMが聞けるのを見つけて買った。勿論同室者に迷惑をかけないようにイヤホンもだ。

確かに電気が要らないので経済的だし、緊急時に威力を発揮する目的で作られているが、小型なので音質があまり良いとは言えない。しかし贅沢は言えない。
昼間は窓の所に置いて充電している。これからの毎日、電気代を気にせずに長く使いたい。

             (写真は窓外の景色も見て欲しくて写した)
               

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寒い朝

2014年12月03日 | 日記
昨日は一日中雪が降ったが、大雪ではなかったので、今朝見ても全体がざっと雪で覆われた状態だ。
しかし、気温は氷点下で風もあり、寒い。



春から庭に植えて置いたのを10月18日に室内に入れた「アザレア」と「椿」が、窓辺で開花し始めた。他のも蕾が脹らんで来ているので楽しみだ。

 

玄関に仲間から貰った「かりん?」を置いてあるが、良い香りがしている。

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「メキシコ」の旅(15)

2014年12月03日 | 海外旅行「中米」
≪最後のカンクンのホテルは「オールインクルーシブプラン」≫

その後はバスで3時間東に走り、「カリブ海」に面したリゾート地「カンクン」のホテルに着いた。
「オールインクルーシブプラン」のホテルだったので、飲食物を何時どこで摂っても(ルームサービス、ビーチサービスも可能)全て無料だった。こんなホテルは初めての事だったので、慣れるまで少し緊張したが、直ぐにバーに行ったりアイスクリームなどの軽食店に行ったりして楽しむ事ができるようになった。
食事は三食、異なるメニューが提供されていた。2日目の夕食は、イタリアレストランでの定食だった。
2泊したので、2日目の自由時間に循環バスに乗って町に行ったり、ホテルのプールやビーチを散策したりして楽しんだ。

5階の部屋のベランダから写したホテルのプールとカリブ海のビーチ。 


庭を散策。
       

最大のレストランのビュッフェスタイルの食事。


        



希望の具でオムレツを焼いてくれるコック氏。不思議な雰囲気のバー。私はここで「アイリッシュクリーム」のリキュールを飲む。


7日目の夜、「カンクン空港」発18;06の「アエロメヒコ」航空機で帰国の途に着いた。途中「モントレイ」で給油した。
一時、気流が悪く、私にとっては体験した事が無いような揺れ方だった(飲み物をテーブルに置いて置けない程だった)が、日付変更線を越えて16時間後の11月17日6;20、無事に成田空港に到着した。スーツケースが重かったので、初めて空港の宅配窓口にスーツケースを預け(料金は1980円)京急電車で羽田空港に2時間弱かけて行き、11時発の国内線で北海道に戻った。スーツケースは2日後の朝、配達された。

今回の「メキシコ」の旅は思いがけずとても楽しく、充実した旅となった。「国立人類学博物館」も半分の展示は見られなかったので、機会があればまた、中米に行きたいと思っている。
読んでいただいた方々には、日本に情報が少ない「メキシコ」の一部分を知っていただいたのだが、現代の国情や経済、文化、生活などについてはほとんど書かなかった。
私自身は旅に行く時にいつも図書館から「明石書店」発行の「現代〇〇を知るための60章」シリーズなどを借りて予習するのだが、現地ガイドからは余り話を聞くことはできなかったのだ。
(この本は、その国に精通している研究者数人以上が各自の専門分野を担当して分担して書いているので、信頼できる本だと思っている)

今は何とか旅行記を書き終わってホッとしている。今日からは年賀状作製に取り掛かりたい。

私の記憶に曖昧な所があって、文や掲示した写真に間違いがあるかも知れない。あればお詫びします。気づいた方はどうか指摘して下さい。お願いします。 (完)
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「メキシコ」の旅(14)

2014年12月02日 | 海外旅行「中米」
≪「国立人類学博物館」見学≫②

「アステカ(メヒカ)室」

ここの広い場所に展示された直径3.6m、重さ24Tもある「太陽の石(アステカカレンダー)」が圧巻だった。この暦は「メキシコ・シティ」の中央広場付近に捨てられていたのが発見され、インディヘナの人達が敬うのを見て、キリスト教の大司教が再び土中に埋めてしまった。それから再度1790年に発見されたという数奇な運命のものである。
20日を1ヶ月として1年を18カ月に分け、さらに「空の5日間」があって365日となっている。
アステカ人はこのカレンダーに基づいて農耕や祭事を行っていたのであろう。
その前には、抱き合って写真を撮るカップルやグループが次々と来て賑わっていた。



 

アステカ時代に変わった頭部の形づくりが行われていた。生まれて直ぐ、まだ頭骨が柔らかい時に額に板を当てて、額から上に向かって平らにするというものだ。左の遺石の写真に見られる神官になるような身分の家で行われていたのだろうか。 

 

 

スペインが支配する前の「テノチティトラン(メキイコ・シティ)」の大きな絵が掲げられていた。



前に書いた様にこの都市は、湖の中にある島に1325年(または1345年)に造られて次第に大きくなり、16世紀の初めには人口20万人以上の大都市になっていたという。
中心の広場には、双子の大神殿(アステカの主神と雨の神「トラロック」を祀った)、諸王の神殿、球技場、生贄の頭蓋骨を並べた祭壇などがあり、一辺500mの蛇の壁で取り囲んでいたらしい。

資料(世界の博物館5『メキシコ国立人類学博物館』)によると、1450年頃に中央高原一帯が大飢饉にみまわれた時、『花の戦争』が始った。これは、6カ国の王達が協定を結んで、生贄にする捕虜を捕まえるための戦争だったのだ。
(1926年、「不足する生贄を確保するためには、戦争が必要だ」と呼びかける絵文字が発見されている)

やがて1487年、大神殿が完成した時には、支配下の都市や部族が差し出した2万人の人の心臓がくり抜かれて、神と太陽に捧げられたと言う。

「アステカ王国」では人々の不安が高まるばかりだった。そんな時にやって来たスペイン人の征服者「コルテス」に1521年8月13日王国は滅ぼされてしまった。
1532年11月16日には、アンデスの山中でインカ帝国皇帝「アタワルパ」が「ピサロ将軍」に捕らえられて、アメリカ大陸最大の古代国家は消滅したという。



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「メキシコ」の旅(13)

2014年12月01日 | 海外旅行「中米」
≪「セノーテ」の傍で昼食と休憩≫

バスで別の「神秘の湖・セノーテ」に行き、傍のレストランで昼食を食べた。
その後、40分程自由時間があり、希望者は更衣室で着替えて「セノーテ」までの階段を88段下りて遊泳したが、私は「セノーテ」の写真を撮りに行っただけだった。
泳ぐ人、飛び込む人などが沢山いたが、この場所でもかって儀式が行われたのではないかなどと考えると、余り良い気分にはなれなかった。








≪「国立人類学博物館」見学≫①

旅の3日目、「テオティワカン遺跡」を見学した午後、メキシコの古代文明の歴史を永遠に残すために造られた「国立人類学博物館」に行った。
メキシコ各地に点在する重要な壁画や石像、発掘品の全てが集められている世界的にも大きな博物館だが、残念ながら私達はその一部の「マヤ」と「アステカ」の部屋を中心に見学しただけだった。

「マヤ室」には「チチェン・イツァー遺跡」の「チャック・モール像」や地下から発掘された「パレンケ遺跡」の「王墓」と「ヒスイの仮面」などが展示されていた。

1つを正面と側面から撮った。実際に遺跡で見た像の大半は鼻が下向きだったが、これは上を向いた鼻だ。
 

次の「王墓」は「パレンケ遺跡」から発見されたもので、幅4m奥行9m高さ7mのものだった。棺の蓋は幅2.2m長さ3.8m厚み25cmあり、王は翡翠のマスクと衣を纏っていた。

 

この腹部に生贄から摘出した心臓を乗せたのだろう。
 
  
 

トウモロコシの図柄を用いた遺物も多かった。
  
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