花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

自分への褒美

2013年12月28日 | 日記
今まで外国旅行に携帯して来た古い小型英和辞典の文字が小さ過ぎて、だんだん読めなくなって来ていた。
拡大鏡も持って行っていたが、やはり不便なことは変わらないので、この度思い切って電子辞書を買うことにした。
何とか元気で1年を終えようとしている自分への褒美だ。

大型電気店に行って、手にとって見た。
老舗のカシオのは、シャープのよりも少し大型で重い。
旅行中、ショルダーバックに入れて持ち運ぶことを考えたら、少しでも小さくて軽いに限ると考え、シャープの電子辞書にした。
価格もネットで調べたら電気店より格安だったので、ネットで新品のトラベルタイプのを買った。

英語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、韓国語、中国語の場面別会話、旅行ミニ知識、辞書が入っていて、文字の大きさも変えれるものだ。
その他、ブリタニカ国際大百科事典、日本史辞典、世界史辞典、ビジネス関係辞典10冊、家庭の医学 正しい治療が分かる本、広辞苑、漢字源、故事ことわざ辞典、四字熟語辞典、ジーニアス英和、和英辞典、英英辞典 英会話、その他医者から貰った薬がわかる本なども入っていて、旅先でもこの電子辞書一つ持っていると、色々なシーンで十分に活用できそうなのだ。

折角買ったので、日常生活の他に長時間の航空機の往路などで言葉やその国の勉強をしたり、現地で一人歩きをする時など、色々と検索して活用したいと思っている。

                  
コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

伯母からのお歳暮

2013年12月26日 | 高齢期の生活
昨日、やっと時間を見つけて岩見沢市の高齢者賃貸住宅に入居している伯母を訪ねた。
いつもの様に前日に買っておいた愛媛産の「みかん5kg1箱」や朝炊いた「ご飯とおかず」、私が漬けた「聖護院大根の漬物」、煮物に使って貰う「本みりん1本」、「ヨーグルトやベビーチーズ」数個ずつなどを持参した。

それと今回は、伯母に私からのクリスマスプレゼントとして「腕時計」を買って行ったのだ。
伯母が長いことしていた腕時計は、文字盤が小さく黄色いものなので、目が薄くなった今は時刻が分かりにくそうだったからだ。
今回買った時計は、文字盤が白、数字が黒く大きくはっきりとしているし、針も黒いので見えやすいものだ。
伯母は驚いた様子だったが、腕にはめて上げたら嬉しそうだった。

所がである。帰ろうとすると、熨斗袋を渡された。お歳暮の代わりだという。
こんな事は初めてなので少し驚いたが、伯母の気持ちをあり難く頂く事にして、お礼を言って受け取った。
帰宅後、熨斗袋を開いて見たら、小さな手紙と1万円が入っていた。

鉛筆で書いた手紙には、「〇〇さん、いつも心にかけていただき、ありがとうございます。元気な言葉にはげまされ、生きのびています。心ばかりの御礼です」と書かれていた。
夕方、伯母から電話があったので、「私の方こそ、93歳の元気な伯母さんを目標にさせて貰っています。これからも互いに支えあって行こうね。」と話した。
豪雪地帯の岩見沢の冬は厳しいが、伯母には施設の最高齢者として冬を元気に乗り越えて欲しいと改めて強く思った。

 
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

とうとう大雪

2013年12月23日 | 日記
昨日午後から降り出した雪は、3時間程で35cm積もったので、1回目の除雪を30分間した。
その後も今朝までに断続的に降り、昨日の朝まではアスファルトが出ていた道路も雪にすっかり覆われてしまった。

明け方除雪車が来て、道路の雪を左右に振り分け、車道を開けて行った。そのため、我が家の車庫前、玄関前は雪がどっさり置かれているのだ。
今朝、仕方なく、また雪に埋まった玄関前と振り分けられた道路の雪を除雪した。
気温はー4℃。40分作業をしていたら、長靴を履いた足が冷たくて痛くなって来た。
一旦室内に入り、足を温め、休憩してからまた作業を15分続けた。
完全ではないが、取りあえず良いことにした。

今朝のニュースでは、私の住んでいる所の降雪量は今朝までに50cm近い。そして昨日の新千歳空港の欠航便は、150便に上ったそうだ。

 

 

次の写真の左側が歩道、右側が車道。その間に振り分けられた片方の雪の山がある。
今はまだできた雪山は低いが、この先、道路の両側の雪山が2mにもなると、道路が狭く、交差点の見通しが悪くなって、運転するのも歩くのも危険になるのだ。
おまけに路面が凍りつくと、スケートリンクの様になって、車も人も一層危険になるから恐ろしい。

 
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

乳癌の検査結果

2013年12月21日 | 医療・健康問題・食生活
昨日、今は1年毎に受ける乳癌の定期検査の予定日より少し早いが、気になる痛みがあったので検査を受けに行った。
札幌の路面状況は、車の轍の雪が少し溶けているだけで、歩道はつるつるで氷付いた状況だった。
所々に滑り止めの砂が撒いてあるが、そうでない部分が多いので一歩一歩足を下ろす場所を探しながら歩くのだ。
病院に近いJRの駅からは、足に体重をかけずに、こそ泥がする抜き足差し足の歩き方をして、往復1時間弱歩いた。

「マンモグラフィー検査」と医師による「超音波検査」を受けた。いつ受けても「マンモグラフィー検査」は痛くて脂汗が出る。
今回は結果のフイルムを手渡されなかったのでどうしたのかと思ったら、撮った画像を診察室のパソコンの画面で検索するように変わっていた。
そして結果は「異常なし」。良かった。
医師からは、「この場所には色々な筋肉や組織が重なっているので、他の場所の傷みかもしれないです。」と言われた。
再発や転移でなければ、多少痛くても何ていうことはないのだ。

大腸のポリープ以外、健康上の不安がある程度解消されたので、帰宅後、2月にインドに行くための国内航空機のチケットを申し込んだ。
この時期の新千歳空港では大雪による欠航も有り得るので、前日に成田に行く事にして近くの旅行社に申し込んだ。
まだ大分先の事なのに、JALは既に満席だったので、他の便にした。
また今朝は、ネットでホテルの予約もした。
前泊するので、10日間の旅になる。多分インドは、これで最後になるだろうが楽しみだ。

                                      



コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

胃と大腸の検査結果

2013年12月19日 | 医療・健康問題・食生活
数年前に胃と大腸の検査を受けた時、毎年受けるように言われていたが、何か億劫で受けていなかったのだ。
インド旅行に行く前に検査を予約し、今月5日は大腸検査、11日は胃のカメラ検査を受けていた。

どちらにも3~4個のポリープがあり、精密検査に出していたが、その結果が今日分かった。
一応良性だったそうだが、大腸のポリープの1つがが6mmあり、切除する必要があると言われた。
また辛い思いをしたくないので、来年にしてもらいたいと頼んだらOKだった。良かった。

ところで前から「逆流性食道炎」だと言われていた。脂っこいものを食べると、ひどく胸焼けがして、胃液が逆流するのだ。
今日は自分の胃がただれて赤くなっているPCの画像を見せられた。
初めて薬が出て、毎日夕食後に飲むように言われた。
今までは家でも旅先でも揚げ物や炒め物を控えて来たので、旅行中、国によってはパンと水しか食べるものが無かったが、今度は食べて見ようと思う。

また、最近、手術をした左胸に気になる症状があるので、明日は乳腺外科に行って調べてもらう予定だ。
その結果が出るまで、2月のインド行きはお預けだ。
                               
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(14)

2013年12月15日 | 海外旅行「南アジア」
≪「ダージリン」最後の日、また「カンチェンジュンガ」に出会えた≫

前に書いた様に私の部屋からは「カンチェンジュンガ」が見えなかったので、暖かい服装をして、夜明け前の5;50にホテルの門を開けて貰い、1人で外へ出た。
40m程坂を下ると前方が開けた場所があった。そこで朝日を待つことにした。
昨日の「タイガー・ヒル」よりも山に近いのか、朝焼けの太陽に照らされた「カンチェンジュンガ」がはっきりと浮かび上がった。

ところが電線が邪魔になって、写真をとるのにはどうも良くない。困ったと思っていたら、道路の下に建つ家の男性が、自分の家の庭に下りて来ないかと手招きしてくれた。
インドはレイプ多発国なので一瞬迷ったが、決心して男性が開けてくれた鉄の扉の内側に入った。
そのベランダ状の庭には邪魔になるものは何も無く、素晴らしい「カンチェンジュンガ」と下方に見える「ダージリン」の町の景色を堪能できた。

 

 

男性には「どこから来たのか」「どのホテルなのか」と聞かれた。やがて「椅子に座りなさい」「ティーを飲むか」「あなたの写真を撮って上げる」と凄く親切にいわれたが、私は写真だけ3枚撮ってもらった。
15分間程だったが、写真を10枚ほど撮った。その時は安全を考えて部屋にバックを置いて出たので、カメラしか持っていなかった。何もお礼ができなくて残念だったが、男性に心からお礼を言ってホテルに戻った。

4WDとバスを乗り継いで2000m以上の標高差があった山を降りる途中、「1000m以上の場所に生えている杉の木は、1800年代に日本から持って来た苗木を育てたものだ」とガイドが説明してくれた。途中、茶葉を摘んでいる光景にも出会った。

やっと「バグドグラ空港」に着いた。
空港の安全検査はとても厳しく、私がバックに持っていた印鑑を「出して見せなさい。」と言われた。X線では鉄砲の弾の様に写ったのかも知れない。
「ダージリン」は、「ネパール」「中国(チベット自治区)」「ブータン王国」「バングラディシュ」に国境を接した狭い高原地帯であるため、この近辺では時々外国の軍隊や反政府派がテロ事件を起こしているので、この空港の警備が厳しかったのだろうと思った。

現地ガイドが「デリー空港」に向かう航空機の右窓の座席を取ってくれていたので、窓から遥か遠方に白く輝くヒマラヤ山脈が見えた。
3年前に「タイ」から乗り継いで「ネパール」に行った時の事を思い出した。小さな窓から8000m級の山々がズラリと連なる光景を見ながら、遥か昔、「インド亜大陸」と「ユーラシア大陸」が移動して衝突し、ぶつかった時にその衝撃で「ヒマラヤ山脈」ができたという話が本当だと思えた。

インドの旅8日目の夜、「デリー空港」21;15発の「エアー・インディア」はエコノミー席の後方に空席があり、私は中央の3席を独り占めして横になる事ができた。お陰で6時間半位、ぐっすりと寝られた。
成田空港には翌朝8時前に着いたので、10;20の航空機で成田から新千歳空港に乗り継いだ。家には昼過ぎに無事帰宅できた。

広いインドの世界遺産の中で、もう少し見たい場所がある。折角苦労して取った6ヶ月有効のビザがあるので、その期間内に未だ見ぬ場所の良いツアーがあれば、もう一度行きたいと思っている所だ。

これで長かった旅行記を終えるが、読んでくれた皆さんに感謝しつつ、今回の記事を通してインドに更なる関心を持って戴けたら嬉しい。     (完)
コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(13)

2013年12月14日 | 海外旅行「南アジア」
≪「ダージリン」周辺の観光≫

「トイ・トレイン」乗車体験終了後、「グーム僧院」と 「チベット難民センター」「ヒマラヤ登山学院」の見学に行った。
「グーム僧院」は1850年に創建されたところで、チベット仏教の寺院と僧房があった。
ヒマラヤ山脈の向こうにネパールや中国のチベット自治区があるこの地には、チベット仏教を信仰する人たちが山を越えて来て以来、信仰を守り伝えているのだろう。

   

「チベット難民センター」に行くには、急傾斜の山肌に作られた狭い道を登るしか道が無かったので、危険この上ない走行振りに冷や汗が出た。
この施設は1959年に中国から亡命して来たチベット難民の自立を支援するためにできたという。何棟かの建物が建っていた。その一つでは、老婦人達が糸車を使って羊毛を紡いでいた。また別の建物では、糸から敷物を織っていた。民族的な小物や絨毯を売る店もあった。みんな優しかった。

  

「ヒマラヤ登山学院」は、駐車場で車を降りてから10分程坂を上った先にあり、壁一面に登山の影絵が描かれていた。
また、直ぐ傍には「ヒマラヤ登山博物館」が併設されていて、ヒマラヤ登山の全記録が展示されていた。(写真撮影は禁止だった)
1953年5月29日に人類初のエヴェレスト登頂に成功した「テンジン・ノルゲイ」と「エドモンド・ヒラリー」のその時の登山服や靴、ロープなども展示されていたが、余りの簡単な装備に驚いた。前庭には模型が作ってあった。

また、日本人登山家「田部井淳子さん」が、1975年女性としてエベレストの初登頂に成功した時の写真と記録もあり、日本人として誇らしかった。
(現地ガイドが「女の子として初めてだった日本人の記録もあります。」と見学前に説明したので、見学後、私は彼に「展示には女性登山家とありますから、『女の子』ではなく、これからは『女性』と言ってくださいと頼んだ)

  

「登山学院」の下は、傾斜地を利用して「パダマジャ・ナイドゥ」動物公園が作られていた。
ここには絶滅危惧種を中心にした動物が集められていたが、レッサーパンダ、ユキ豹、黒豹、狼、この地方の熊や平らな角のヘラ鹿などが珍しかった。それぞれの囲いが凄く広かったので、どこに居るのか探すのも大変だった。

  

  

この後、紅茶店に案内されたが、外国人向けの店らしくかなり高価な価格が付けられていたので、その店で私は買わなかった。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(12)

2013年12月13日 | 海外旅行「南アジア」
≪世界遺産「トイ・トレイン(ダージリン・ヒマラヤ鉄道)」乗車体験≫

「タイガー・ヒル」で「カンチェンジュンガ」を見た後、1881年に開業したアジア最古の登山鉄道、世界遺産「トイ・トレイン」に乗ることになった。
再び4WDに分乗して「グーム」駅まで山道を下った。「クルシャン」駅から蒸気機関車が客車を牽引しているが、私達はそこから2駅先の標高2258mの「グーム」駅を11;05に発って、標高2134mの「ダージリン」駅まで、緩い下りになっている2駅間を約1時間かけて走る列車の座席を予約していた。

 

駅に蒸気機関車があったが、まるでおもちゃの様に小さかった。その傍で交代で写真を撮ったりした。
機関車の下に、61cm幅しか無いレールの上に砂を落す装置が2箇所造られていた。
列車を見ているネパールの女性達がいた。

  

  

2輌連結の列車は指定席になっていて、実際に乗り込むと、案外それ程狭くは感じなかった。しかし、窓やシートは決して綺麗ではなかったし、半透明の天井にはごみが乗っていたので少しガッカリした。煙を出して走る蒸気機関車だから、仕方が無いかと思って自分を慰めた。

列車は20分後に大きいカーブがある「バタシア・ループ」で5分間停車した時、全員が降りて景観を眺めた。
私は「トイ・トレイン」の写真を撮った。機関車が後ろ向きになって客車を牽引していた。この方が牽引力が大きいのだそうだ。

  

再び出発したが、グループの2人が乗って居ないという声でガイドが列車を停止させた。2人は実は2輌目に乗っていたのだが、車輌間の行き来ができなかったので座席に戻れなかったという。ちょっと驚いた出来事だった。

ガイドの説明では、時々故障するが部品は無いので、全てあるものを修理したり、新しく作って動かしているのだという。
私自身は1970年頃まで蒸気機関車の列車に乗っていたが、こんなに小さな機関車の牽引力には驚いた。さすが蒸気機関を発明し、産業革命を起こしたイギリスが造ったものだと思った。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(11)

2013年12月12日 | 海外旅行「南アジア」
≪「カンチェンジュンガ」の朝焼け≫

5日目朝は4時半に起きて5時半に懐中電灯とカメラを持ち、暖かい服装をして4WDのラウンドクルーザーに分乗した。目指すは標高2590mの「タイガーヒル」だ。
狭い急傾斜のでこぼこ道を上り、30分以上かかって「タイガーヒル展望台」に着いた。そこの建物の3階に上がり(外と2階と3階では展望料金が異なるらしい。3階は外国人が多く、ミルクティーのサービスまであった)、大勢の観光客と一緒に標高8586m、世界で3番目に高いインドの最高峰「カンチェンジュンガ」の朝焼けを待った。

じっと待つこと30分程。右側の東の空が赤くなり始め、しばらくすると反対の西側に太陽に照らされて色合いを変える「カンチンジュンガ」が雄姿を現した。
古いデジカメで写真を何枚も撮ったが、果たして上手く写ったかどうか。夢のような感動の時間が流れていった。
このようにはっきりと姿を見られる日は、そんなに多くないらしい。
下を見ると「チベット仏教」の旗「タルチョ」が揚がっている場所に、大勢の観客がいた。

①6;27                             ②6;45
  
③7;02
 
④7;13
 

暫くすると「カンチンジュンガ」よりさらに西方、遥かに離れた場所に、かすかだが「エベレスト」(8848m)の頂が見え出した。
「エベレスト」は隣国ネパールの山だ。3年前にネパールに行った時、遊覧飛行でその上空近くまで行った事があるが、インドからも見られたことは嬉しかった。
「エベレスト」は、幾つもの山並みの遥か遠くに小さくしか見えないので、私のカメラで写すのは無理だろうと思ったが、とりあえず試しに撮って置いた。
帰りがけに別の展望場所にも寄った。

⑤7;15
 
⑥8;15
 

ホテルに戻り、朝食を食べたが、仲間達は感動覚めやらぬ様子でそれぞれ口々に「カンチェンジュンガ」をこの目で見た感想を語っていた。確かに今回は季節と天候に恵まれ、本当にラッキーだったのかも知れない。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(10)

2013年12月12日 | 海外旅行「南アジア」
≪「コルカタ」空港から「バグドグラ」・そして「ダージリン」へ≫

4日目の朝、バスは「コルカタ」の市街を通り抜けて空港へ向かった。
そこから10;15発の小さな国内線航空機で、「ダージリン」の足元の「バグドグラ」空港を目指した。所用時間は1時間5分だ。
ヒマラヤ山脈とは反対側の座席だったので、何も見られなかった。機内ではビスケットと水、紅茶が出た。

「ダージリン」への玄関口、「バグドグラ」空港は、標高140mの高さにあった。そこから小型バスで、目指す「ダージリン」まで95kmを4時間かけて山道を走った。
低地の広い茶畑に植えてある茶は「アッサムティー」になるという。葉が大きいので、粉にして発酵させ、濃い色が出るのでミルクを加えて飲むと美味しい茶だ。

  

次第に狭く傾斜がきつい山道に入った。ピンキングカーブを越えて標高1200mの地点で休憩をした。
遠くに見えるヒマラヤの山並み、足元の急斜面にへばりつく様に広がる茶畑、山肌にはこの地方独特の向日葵が咲いていて一面に黄色いじゅうたんを敷いたように見える。
遠く見上げると、高地に村が見えた。あそこが目指す「ダージリン」かなと思った。

  

  

さらにがたがた道をバスは登って行った。山道を抜けると、山肌にへばりつくように家々が建つ町に着いた。標高1500mにある町「クルセオン」だった。
ここは線路幅が僅か610mmしかない小さな鉄道、世界遺産『トイ・トレイン』が走っている町だ。

  

『トイ・トレイン』はイギリス統治時代に彼らがこの地を避暑地にするため、1881年に開業した鉄道路線で、「クルセオン」の遥か下の町「ニュウジャルパイ町」から、終点「ダージリン」まで全長88km、標高差200mを時速15kmで約7時間30分掛けて走る鉄道だ。
2010年6月の山崩れで、まだその一部が運休中だった。
荒れた山岳高地の山肌に茶を栽培させ、紅茶を作らせることも、イギリスが思いついて指導したのだ。確かにこの近郊では、気温が高い低地よりも葉が小さく柔らかい茶が育つので、紅茶としても美味しい茶ができるようになったのだ。しかし急勾配の傾斜地では、年3回の摘み取り作業は大変だろうと思った。

運転手が休憩している間に私達もレストランで紅茶を飲むように言われたが、私は1人で周囲を散策する事にした。
直ぐ傍に小さな「キリスト教会」があった。庭にマリア像が佇んでいた。教会のドアには鍵が掛かっていた。

  

教会の周りで遊んでいる若者に「写真を撮っていいか。」と聞くと、全員が「OK」といってポーズを取ってくれた。お礼に持っていた金柑のど飴を1つずつ配った。年齢を聞くと18~26歳で、平日なのに群れて遊んでいるので「今日は仕事が休みなのか。」と聞くとそうだいう。何の仕事をしているかは聞かなかったが、身なりからして失業者には見えなかった。
バスが出る時も、坂の上から手を振って見送ってくれた。明るく人懐こい青年たちだった。

丁度学校が終わった時間らしく、大勢の子ども達が帰宅する様子に遭遇した。皆制服を着ていて、極普通の子ども達だった。

  

「クルセオン」から4つ目の町「ダージリン」に向かう途中で、バスから降りて荷物を持ち、4WDの車に分乗するよう言われた。さらに道が狭く、急だからだった。
やっと「ダージリン」のホテル(標高2200m位ある場所に建つ)に着いた頃には、夕闇が迫っていた。

ホテルは山小屋風の木造ホテルで部屋は広かったが、各部屋から「カンチンジュンガ」が見えると言われていたが、残念ながら1人参加の人に割り振られた部屋からは見えなかった。
室温が低く、浴室も上の欄間に冷風が吹き込んでいて、寒くて入れなかった。
夕食後、部屋に戻ると暖炉に薪が燃えていた。さらに布団に湯たんぽが入れてあった。それで何とか寝ることができた。

 

 




コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(9)

2013年12月10日 | 海外旅行「南アジア」
≪「ベナレス」に別れを告げ、「コルカタ(カルカッタ)」へ≫

2日間に渡って人間の極限の生き様に触れ、少なからず衝撃を受けた後、午後はホテルを出発して「ベナレス空港」に戻り、17;30発の国内線航空機でかっての首都「コルカタ」に向かった。

インドの国内線航空機では、預けるスーツケースの重さは15kg以内で、もしも超過すると1kg単位で超過料金が発生する。そのため、日本から持ち込んだおかゆ2袋や洗面用具、雨具などをリュックに移して背負った。国内線に4回乗ったので、その間中スーツケースの重量を気にし、リュックに荷物を入れて背負った。

1時間45分の機内では、傍に小学校低学年らしき女児が家族と乗っていた。私はいつも折り紙を持参して行くのだが、その時もその子に「鶴」と「蝉」を折って渡した。言葉は通じないが、家族で喜んでくれたらしい。
降り際、母親からブレスレットを手渡された。驚いた。「気持ちだから受け取ったら?」というツアーグループの仲間の言葉で、あり難く頂くことにした。たまたま以前オーストラリアに行った時に買ったピンブローチがあったので、それを子どもに着けて上げた。父親が住所と名前を聞いて来たが、それは遠慮した。
仲間の1人が、「折り紙の力って凄いね。」と言っていた。「折る」「たたむ」は日本の文化なので、これからも機会を見て折り紙を折って行きたいと思った。
なお、そのブレスレットは私の手首には細めだったので、帰りに添乗員さんに差し上げた。

「コルカタ」は翌朝、大半が車窓からの見学だった。
「コルカタ」の町は、逆三角形の形をしたインド亜大陸の北東の角に当たる町で、英語読みでは「カルカッタ」となる。
ここは西ベンガル州の州都で、人口は1411万人(2011年調査)。「ムンバイ」に続くインド第二の都市である。
1690年に商館「イギリス東インド会社」が設置され、1698年には「ウイリアム要塞」が築かれた。やがてイギリスは、フーグリー川東岸に並ぶ3村の徴税権を購入し、その後は力でベンガル地方の徴税権を獲得して、1858年にはイギリス領インドの首都と定めて支配した。
1912年に首都を「デリー」に移すまで、「コルカタ」はイギリスにとってインド植民地の拠点都市だったのである。

イギリスの支配時代に建てられた白亜のキリスト教寺院①「セントポール寺院」は下車して写真を撮ったが、②「ビクトリア記念堂」(インド皇帝を兼務したビクトリア女王を記念して1921年に建てられた。「タージ・マハール」に似せたデザインの建物で、今は博物館になっている)と「ウイリアム要塞」などは走るバスから見ただけなので、ほとんど記憶に残っていない。
途中で「マザー・テレサ」が働いていた教会があったが、バスは通り過ぎただけだった。

 ①

 ②

また「コルカタ空港」に戻り、10;15発の国内線航空機で今度は「バグドグラ空港」まで、1時間の飛行をした。ヒマラヤ山脈の麓の町、「ダージリン」に行くためだ。

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(8)

2013年12月09日 | 海外旅行「南アジア」
≪仏教の聖地≫

「ベナレス」で、かってイスラム教徒の襲撃を受けた歴史がある仏教寺院、「黄金寺院」に行った。
ここはとりわけ警備が厳しく、財布やパスポート、ボールペン1本も持ち込めないので、一切の持ち物を事前に近くの店屋に置いて行った。
混み合う細い路地の入り口で身体検査をされて、やっとその路地に入り、寺院の塀の外からちらりと上部を見た。確かにそこに黄金に輝く寺院があった。

 

また「ベナレス」の隣町「サルナート」は、2300年前に「ネパール」の「ルンビニー」で生まれ、出家してインドの「前正覚山」で苦行をしてから「ブッタガヤー」で悟りを開いた「ゴータマ・シッタールタ(仏陀)」が、初めて5人の人に説法をした土地である。
その場所に小さな「ムルガン・クティ」寺院が造られていた。
そこでは、3人の僧侶と、やって来た仏教信者達が、熱心に祈祷していた。
圧巻だったのは、この小さな寺院の三面の壁全体に釈迦の生涯と仏教の教えが誰にでも分かるような絵で描かれていた事だ。描いたのは日本人画家「野生司香雪」だという。その壁画は色が薄く風化していたので、私はその内修復が必要だと感じた。

 

  

そこから300m程離れた場所に紀元前3世紀に建てられ、高さが43.5mもある円形の巨大な「ダーメク・ストーパ」があった。
スリランカから来たらしい白服に身を包んだ巡礼者のグループが祈祷していた。ここは確かに仏教にとっての心の故郷、聖地だった。

  




ここでインドの歴史の変遷と宗教について簡単に振り返りたい。

「仏陀」が仏教を開いた後、「マウリア朝」の伝説の皇帝「アショーカ王」はインド全域に領土を拡大させ、仏教を広めて行った。

紀元120年頃、中央アジアから来た「スキタイ人」はインド北西部を支配し、やがて戦争や婚姻によってインド北部に勢力を拡大し、2世紀に渡るグプタ朝を開いた。この時、仏教に変わって「ヒンズー教」が取って変わり、サンスクリット文学が花開いたという。

7世紀になると中央アジア(今のモンゴル)からやって来た「イスラム」の戦士「ムハマド」がインド領域を財宝目当てで侵略するようになり、13世紀初めにデリーの王を討ち負かして新しい国家を建設した。副官に「クトゥプ・ミナール」を建てさせ、イスラム教の文化、政治で統治をして行った。

その後、1525年に中央アジアのティムール朝サマルカンド政権君主「バーブル」がやって来て、ムガル帝国を築いた。後継者フマユーンの統治後、1556年に後継者となった息子「アクバル」は、インド北部とインド南部の一部まで勢力を拡大し、 「イスラム教」と「ヒンズー教」の融和を図った

1948年には、ポルトガル人「バスコ・ダ・ガマ」が喜望峰を経て、インドの「カリカット」に到着。16世紀に「ゴア」を植民地にし、1961年まで支配した。
その後オランダ、デンマーク、フランスがインド亜大陸の支配を目的に次々とやって来たが、結局イギリスがその支配者となり、1605年「東インド会社」を「カルカッタ」「ボンベイ」「マドラス」などの貿易拠点に作って、インドの支配権を拡大して行った。
ヨーロッパ人達はキリスト教を布教し、各地に協会を建てた。

こうした歴史から分かる様に、インドに生まれた仏教は、やがてイスラム教、ヒンズー教などを掲げて台頭する勢力に抑圧され、衰退して行かざるを得なかったのだろう。
また、イギリスから独立する際、「イスラム教」と「ヒンズー教」の融和は難しく、時に流血の事態も起き、遂に、1947年には分離独立しかないという結論になって、イスラム教徒は「東パキスタン(バングラディッシュ)」と「西パキスタン」として独立した。

現在はヒンズー教徒82%、イスラム教徒12%、キリスト教徒2.4%、仏教徒0.7%、その他はシーク教徒、ジャイナ教徒などとなっている。
仏教は、インドからスリランカ、中国、タイ、インドネシア、日本、韓国などに伝わり、発展し、花を咲かせた。

                             






コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(7)

2013年12月07日 | 海外旅行「南アジア」
≪「ベナレス」観光②≫

翌朝は、まだ暗い内にホテルを出て、昨日の聖地、ガンジス河畔に向かった。
昨夜はごった返す人々の中を縫うように走る自転車リキシャに乗って聖地の近くまで行ったのだが、朝はバスを下りてから暗い道をガイドに案内されて、懐中電灯を片手に1kmほどの距離を歩いた。

軒先で汚れた布に包まって寝ているホームレスがあちこちにいたが、驚いたことにすでに多くの人々が働いていた。
歯磨きをする小枝を売る女性やホームレスに炊き出し用の雑炊を作る男性などだ。
(考えてみたら、この伝統的な小枝のブラシこそ環境を保全するスローライフに繋がる。今世界中で使われているプラスチックの歯ブラシは、絶対自然に分解しないし、燃やすと有害物質ダイオキシンを生成するからだ)

  

 
 
昨夜の川岸に近づく頃、少し明るくなった。
ガンジスに捧げる流し花(真ん中に小さなろうそくが乗っている)を売っている女性達がいたので、私達はそれぞれ10ルピー(日本円で18円)で買った。
河畔には何艘もの小型ボートが乗客が乗るのを待っていた。その1つに私達も乗り込んだ。そのボートは手漕ぎで、男性がガンジスの流れと反対側の上流に向かって全身を使って漕ぎ出した。

川岸を見るとズラリと連なったガートが良く分かった。モスクや協会、ホテルの建物もあった。どれも古い建物らしかった。
外れに黒く焼けた木から白煙が立ち昇る「火葬場」らしき場所が見えた。

太陽が対岸遥か地平線に上って来た。私は旅で仲良くなった友人と並んで座っていたが、「無事に旅行を終えて帰れます様に…」とつぶやきながら途中で買った流し花に火をともしてガンジス河に流した。

  

 

河畔のあちこちで、男女がガートを下りて流れに身を浸けるのが見えた。泳ぐ男性もいた。皆、ガンジスの水で顔や髪を洗い、うがいをしていた。

 

やがてボートは反対側に向きを変え、流れに沿って下り始めた。
ガートの下流の外れにも、白い煙が上がる「火葬場」があった。ガイドは「近くから写真を撮ってはいけない。」と注意した。
その周辺には薪が積み上げられていた。どうやら夜中、火葬をしているようだった。その灰は全て聖なるガンジス河に流すのだ。
ここで「火葬」されれば、ヒンズー教が教える生命の輪廻の教え(人間は何度も生まれ変わり、その度に自分が招いた罪を抱えて生きなければならないという教え)から抜け出し、「安心して天国に行くことができる」と信じられているという。
ここで火葬してもらう費用は、10(日本円で18円)~500ルピー(日本円で900円)程がかかる。乳児、妊婦などは火葬されずに、布に包んだまま流れに入れられるそうだ。

 

ボートを降りて、階段を上った。ガートでホームレスらしき母が、小さな子どもに着替えをさせていた。離れた所では子ども同士で焚き火を焚いて暖を取っていた。

それから「火葬場」の裏手に当たる細い路地を通り抜けた。自転車の後ろにつけた荷車で「火葬場」に薪を運ぶ裸足の男性に出会った。
この場所には人間の様々な、そして赤裸々な生と死、切なる願いが、悲しいほどに凝縮されて現れているように思えた。

  
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(6)

2013年12月07日 | 海外旅行「南アジア」
≪「ベナレス」観光①≫

インドの「デリー」に着いた翌朝、また飛行場に行って国内線で1時間15分飛び、「ベナレス空港」に着いた。
「ベナレス」は「バラナシ」とも言われる町で、人口は300万人。
昔から聖なる河「ガンジス」の流れまで下りることができる階段状の「ガート」がズラリと造られていて、沐浴をしたり、火葬(3箇所)をしたりする聖域となっている。
ヒンズー教の信者にとっては一生の内、一度はここに巡礼に来ることが夢なのだという。

私達は夕飯を終えてから、ガンジス河に祈りを捧げる『プージャ』祭を見学に行った。
そこで店の3階に作られた展望席に案内された。すでに外国人が10人ほど座っていた。
下を見ると、ガンジス河に向かって幾つかの台が作られていて、その上で火縄を持った男達が打楽器のリズムに合わせて踊っていた。
その周りでは大勢のヒンズー教の信者達が、両手を合わせて一心に祈りを捧げていた。独特の雰囲気に圧倒された。
この時期は、毎晩、こうした『プージャ』祭が行われるのだという。

 

帰りに暗がりをふと見ると、高齢者が10人ほど空き缶を前に置いて並んで座っていた。ガイドは、ここで死を待つ人達なのだと話した。神聖なガンジス河の傍で死に、河畔で火葬にして貰って、その灰をガンジス河に流してもらいたいと願っているのだろう。
私はカメラを向けることにためらいが起きたが、この場所で最後を迎えたいと願う彼らの強い信仰心を記録したいと思い直し、少し離れた所から写させてもらったのだった。

  

 

 


コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「インド旅行」(5)

2013年12月06日 | 海外旅行「南アジア」
≪「アーグラー」観光②≫ 

②世界遺産「アーグラー城」
この城も1565年に建造されたムガル帝国の権力を誇るイスラム様式の建物で、「アクバル帝」が築いた。ヤムナー河が流れを北に変える場所、「タージ・マハール」の西2kmの所にあり、周囲に堀を回してあった。
その一部には「タージ・マハール」を建造した「シャー・ジャハーン」が、謀反を起こして権力を握った息子に幽閉された部屋、「囚われの塔」があった。そこからは「タージ・マハール」が水面に浮かぶように見えるのだそうだが、今回は修復工事中で立ち入ることができなかった。
その日は、全体がもやに霞んでいて、別の場所から見た「タージ・マハール」は霞の中に浮かんで見えた。

 

  

 

  

 

 

 

 

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加