花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

エジプトから出した絵葉書の事

2013年01月30日 | 海外旅行「北アフリカ」
昨年12月中旬にエジプト旅行をした時、ナイル川を下るクルーズ船の中で友人や親戚、ご近所数人に絵葉書を書いた。
船の売店で買った切手を張って、クルーズ船のポストに投函したのが、確か12月15日だったと思う。

それが一昨日から今朝までに5人の人から、「絵葉書が28日に届いたよ。」という連絡があった。
何と1ヶ月半も掛かったのだから呆れる。
(93歳の伯母からは、「三角のが写っているけど何なの?」と聞かれた)

                  

私は着くのが余りに遅すぎるので、「絵葉書代も切手代も国の収入になったのだからと、そのままナイル川に捨てられてしまったのではないだろうか。」とかなり疑っていたのだ。
時間が掛かったとはいえ確かに届いた訳で、疑った事を反省している。

一番上に赤字で「AIR MAIL」「TO JAPAN」と大きく書いたのだが、ひょっとして船便で日本に運ばれたのかな。まさかね。
以前、南アフリカのボツワナ共和国から出した絵葉書が3ヵ月後に届いた事があった。受け取った人は、「切手が剥がれて、ぼろぼろになっていたよ。」と話していた。
やはりアフリカは、まだまだ遠い国なのかも知れない。
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「エジプト」旅行(14)

2013年01月08日 | 海外旅行「北アフリカ」
今朝は晴天。そのために放射冷却現象が起きたのか、明け方の気温はー18℃だったらしい。8時半にはー13.5℃に上がっていたが、室内もかなり冷えた。
ニュースでは、今朝、北と南の気温は最高地点で50℃も差があったと言っていた。南では桜が咲いたらしい。
北海道電力からは、朝8時からの節電が要請されているが、我が家のような電気暖房の家では、節電すること自体にかなり難しい現実がある。
昨日は図書館が休みだったが、今日は3時間ほど行って、その間、家の電気は切ろうかな。
12日頃から少し暖かくなりそうなので期待したい。

昨日、伯母に電話をかけたら、私から食事が冷たくて美味しくないという伯母の苦情を伝えた後に改善されて、「大分美味しくなった。嬉しいよ。有難う。」と言われた。「それは良かったね。だけど本当は、良く知っている自分達で施設に言わなければ駄目なんだよ。」と話して置いた。




《カイロの市内観光》
7日目の午前中は、観光の最終時間だった。
泊まったギザのホテルはデラックスなリゾートホテルで、幾つもの棟に分かれているので初め自室を探すのに苦労した。
部屋、洗面所、浴室とも広く、設備も整っていたし、ホテル内で数軒のみやげ物店も営業していた。
入り口では荷物のX線検査もされ、安全に配慮していた。何よりもプールがある広い中庭の植栽が素晴らしかった。

  

          

朝8時半、バスでカイロに行き、最初にギザの三大ピラミッドの傍にある「香水店」に行った。私は香水のきつい匂いにアレルギーなので、店の外に出てぶらぶらしていた。
丁度現地ガイドとツアーポリスが駐車場にいたので、簡単な会話をした。ポリスは2人とも20代だという。立派な私服のスーツの下に銃を下げていた。

次に「エジプト考古学博物館」の見学に向かった。
数千年前の貴重な遺跡からの出土品や彫像の展示品の大半が、大きな建物の廊下や部屋に無造作に並べられていた。
写真撮影は禁じられていたので、ガイドの説明を聞きながら見て回った。

 

1番記憶に残っているのは、「ツタンカーメンの黄金のマスク」と「玉座」、王のミイラが入っていた入れ子細工式の4重もの「大きな棺の箱」「棺」とそれに描かれた極彩色の絵だった。

なおガイドブックによると、この建物は古くなったので、新たな「大エジプト博物館」をギザに建設中だという。総工費700億円の半分を日本のODAが出しているそうだ。

その後、車が多い市街を走って、「モハメドアリ・モスク」の概観を見に行った。
途中、高速道路の下にある有名な「タフリール広場」(写真の奥が広場)も見たが、屋台も人も沢山出ていて、高速の下には車も沢山駐車していた。この狭いごみごみした場所が「アラブの春」で拠点となった所なのかと思った。

 

また街中や運河の水面にはびっしりごみが散乱していて、その内町中がごみに埋まるのではないかとも思った。郊外では自然では分解しないビニール袋が散乱し、それを鳥や動物がつつく様には心が痛んだ。
バスが駅の傍にある駐車場に止まっていた時の事だ。大きい袋を担いで来た男性が、袋を逆さまにして中のごみを駐車場の隅に出すと何食わぬ顔で立ち去ったのを目撃した。間も無く野良猫が数匹現れて、餌を漁り出した。

  

  

夕刻、スーパーマーケット「シティスターズ」に連れて行ってもらい1時間買い物をした。
そこは巨大なスーパーで、門番が居て手荷物がチェックされ、中産階層以上の人しか中にはいれないらしかった。
私は小型の「ヘーゼルナッツ入りチョコレート」10個とミックススパイス3個を買った。

夕食後空港に行き、23;20発のエジプト航空機で成田まで帰った。帰りも運良く席を3つ取ることができ、11時間40分の飛行中大半を寝る事ができて幸せだった。
成田には19日18時に着いたので、旅行社が取ってくれたホテルに一泊し、20日、成田空港発10時の新千歳行きに乗って無事に帰宅した。

今回のエジプト旅行は、予想外の収穫が沢山あった旅行だった。やはり旅行は思いついた時がチャンスなので、ぐずぐずしないで実行するべきだと思った。
長くなったこの旅行記を読んでいただいた皆さんには、エジプトを前よりも身近に感じて貰えただろうか。 

12月15日にクルーズ船のポストに投函した絵葉書が、まだ届いていない。既に3週間になるというのにどうしたのだろうか。   (完)
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「エジプト」旅行(13)

2013年01月07日 | 海外旅行「北アフリカ」
年末から来ていた家族もみな去り、恒例の賄い婦としての役割が終わった。認知症予防の1つは「料理をすること」だというので、少しは予防ができたかなと思う。
今朝7時の外気温はー14℃。これから1ヶ月間、まだまだ寒い日が続くのではないかと思うが、風邪など引かぬように注意して暮らしたいと思う。




《カイロのダハシュールのピラミット》
ダハシュールには2つのピラミッドがあり、「クフ王」の父になる「スネフェル王」が作ったものだ

1つは高さ105mで真ん中辺で角度が変わっている「屈折ピラミッド」で、もう一つは赤い石で作られている「赤のピラミッド」だった。

後者は中に入れるそうだが、私達は行かなかった。
ガイドブックに「凄く臭い」と書いてあったので、理由をガイドに聞くと、「管理人が中で用を足すからだ」という答えが返って来たので驚いた。
こちらは、二等辺三角形のピラミッドとしては最古のものだという。

  

この後、古王国時代(紀元前3000年~2040年)に1000年間にわたりエジプトの首都だった「メンフィス」に行き、「メンフィス博物館」の二階に上がって体長が10mもある横たわる「ラムセス2世の巨像」を見学した。
保存状態は良いが、あまりにも大き過ぎて上手く写真に納まり切れなかった。
この王は、随分あちこちに自分の彫像を残している。

傍の公園に小型の可愛い顔をした「スフインクス」があった。アラバスター石(大理石だが柔らかい石)で作られているそうだ。

  

幾つか質素な土産物の小屋台が出ていたので、私はツタンカーメンのマグネットを数個買った。
その店のハンサムな男性店員はシャイなのか、不思議なことに客に品物を売り込もうとする気持ちがほとんど感じられなかったので応援したくなり、他の人にも「あの店良いよ。」と宣伝した。

博物館の入り口横で日本円「100円!」といって絵葉書などを売っていた男性がいたが、自由時間に私が近寄ると100円硬貨を10枚出して、「これを1000円札にチェンジして欲しい。」と話しかけられた。
私は1000円札を持っていなかったので断ったが、エジプト国内では使えない日本の硬貨で商売している人に初めて出会ったのもメンフィスだった。
考えて見たら同じものを1ドルで売るより、100円で売る方が15%位高く売れる訳だ。彼なりに頭を使って考えたのだろう。
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「エジプト」旅行(12)

2013年01月05日 | 海外旅行「北アフリカ」
《カイロのサッカーラ観光》
6日目は早朝に下船して「ルクソール空港」から6;45発の航空機で「カイロ空港」に向かった。飛行時間は1時間10分だった。

たまたま窓側の席に座れたので、夜明け後のカイロ近郊の景色を上空から見ることができたのだが、一面に砂漠が広がっている光景に胸が痛んだ。
本当に上空から見ても、緑があって農業や牧畜ができるのはナイル川の岸辺に僅か4%程しかないというオアシスだけなのだ。
産業の近代化を進めなければ、この国は豊かになれないことが良く分かった。

1年前に「アラブの春」で民衆が立ち上がり、長く続いた独裁政権を倒したのだが、新憲法を作る段階で90%を占めるイスラム教信者がイスラムの教えに基づく憲法にしたいと言いだした。
それで私が旅行中に国民投票があったのだが、不正があったのかなかったのか、結果はイスラム憲法支持者が過半数だったという。
イスラム教の影響を排除したい「アラブの春」の中心になった若者達の中に諦めムードが広がっているのではないかと心配だが、暫くはエジプトに宗教戦争さながらの不安定な政治状況が続くのだろうか。

数日振りでカイロに戻り、バスは高速道路を走ってギザの南方10kmにあるサッカーラに行った。
そこには、ピラミッド建設の第一歩を記したという「ジョセル王の階段ピラミッド」があった。
高さ60m、底は140m×128mと独特な長方形をしていて、6段の階段状をしているのだ。その傍に祭壇、葬祭殿などの複合施設(ピラミッド・コンプレックス)が残っていた。

ここでも売り子数人が私達にしつこく付きまとって来ていた。施設の上部に上がるとらくだ引きも2人いて、写真を撮らせてチップを稼いでいた。

  

   


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「エジプト」旅行(11)

2013年01月03日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ルクソール東岸観光》(2)
「カルナック神殿」を観光後、次はすぐ近くにある「ルクソール神殿」に向かった。
この神殿は「カルナック神殿」の付属神殿として造られたといわれる。かってはスフインクスが並ぶ参道で、両者がつながっていたらしい。

入り口から入ると中庭があり、そこに「ラムセス二世座像」と高さ25mの「オベリスク」が立っていた。
かってこの「オベリスク」は左右一対のものだったが、右側の物は持ち出されて、今は何とパリの「コンコルド広場」に立っているのである。

(調べたら、1805年にトルコのスルタンにエジプト総督として任命された「ムハンマド・アリ」はエジプトの近代化に着手したが、彼にはヨーロッパ各国の技術者が群がり、導入する機械や技術と引き換えに貴重な遺跡の持ち出しを認めた事が分かった)

ラムセス二世の「第一塔門」を入った所に「ラムセス二世の中庭」があり、列柱が並んでいた。
この頃、既に陽が沈み、神殿はライトアップされ、太陽の下で見るのとは違う雰囲気に満たされた。

  

  

午後の2箇所のオプショナル観光は、こうして結構充実し、満足できたものだった。










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「エジプト」旅行(10)

2013年01月01日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ルクソール東岸観光》(1)
「ルクソール西岸観光」を終えて船に戻り、昼食を摂った後は、オプショナルツアーの「東岸観光」(8000円)だった。
私は折角遥々エジプト迄来たのだからと、申し込んだ。
14時から3時間半の観光で、先ずはバスで「カルナック神殿」に向かった。

「カルナック」は、ナイル川を挟んで「東岸」が生者が暮らす町、「西岸」は死者が暮らす来世の町とされていた。
「カルナック神殿」は、東西540m、南北600mの広さに、エジプト最大規模の「アムン大神殿」と「ムート大神殿」「モンツ大神殿」がある。

古王国時代は、王がラーと一体になり、王自身が神として崇められる対象だったが、中王国時代になるとテーベ(ギリシャがナイル川の河畔地域をこう呼んだ)が発展して行くにつれ、「アムン神」(羊の頭をした神)は太陽神「ラー」と結合して最高神となり、王の地位は下がって、神に寄進する立場になったという。

「カルナック神殿」は、入り口から奥に「スフィンクス参道」→「第一塔門」→「第二塔門」→「大列柱室」→「第三塔門」→「第四塔門」→「第五塔門」→「至聖所」と順に造られている。
建築が始まったのは紀元前1800年頃の第11王朝辺りからで、紀元前170~116年に在位していたプトレマイオス8世が完成させるまで実に1700年近い間、何人もの王が様々な建物を次々と寄進し続けたのだ。
(第30王朝が寄進した「第一塔門」は未完成のまま残されている。「大列柱室」と「スフィンクス参道」、自分の「巨像」は第19王朝のラムセス二世が寄進したもの)

まず、入り口にズラリと並ぶ「アムン神」の像が見学する私達を圧倒した。さらに第一塔門から中に入って見た光景の壮大さ、列柱室に林立する太い柱に本当に仰天させられた。

(クレオパトラとアントニウスがオクタビアヌスに敗れた紀元前30年以降、ローマ帝国の属州となった。紀元395年にローマ帝国が東西に分かれると、エジプトは東ローマ帝国領になった。この頃、原始キリスト教の「コプト教」が盛んになり、紀元42年には使徒マルコが布教を始めたという。
「カルナック神殿」の一部にも、彫像が削られて十字型に変えられている場所があった)

  

  

  


実はこの間、紀元前675年に「アッシリア」王がエジプト討伐作戦を命じた。アッシリアの大軍が国内に攻め入り、古都メンフィスが占領された。
(アッシリアは、今のイラクに当たるチグリス川沿いの高原地帯にある地域で、雨が多く農業、遊牧が盛んな豊かな地域であった)
紀元前667年にはカルナック神殿の破壊を免れるためにアッシリア軍に門を開けた。アッシリア軍は宝物を奪い、建物を破壊しつくした。遂に紀元前664年には、覇権国家エジプトは終わりを告げた。
(一方、南方のヌビア軍が攻め入ると、アッシリア軍は敗退し、紀元前609年にはアッシリアも滅亡したという)



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「エジプト」旅行(9)

2012年12月31日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ルクソール西岸観光》(2)
「王家の谷」を観光した後、谷を挟んだ東側にある「ハトシェプスト女王葬祭殿」に行った。
「ハトシェプスト女王」は「トトメス一世」の第一王女として生まれ、エジプト初で唯一の女王になり、22年間在席した女性だ。
「夫トトメス二世」と結婚したが、その死後、幼少の「トトメス三世」の摂政になり、その後自ら男装をして王となったという。

この葬祭殿は自ら設計して作らせたというが、自然の地形をうまく利用したテラス様式の美しい葬祭殿は唯一の物である。

(1997年11月17日朝、この神殿で火器と短剣を使ったイスラム原理主義者による「ルクソール事件」が起き、62人もの人が死亡した。日本人は新婚旅行者を含む10名が被害にあった。犯人6人は射殺された。テロの目的は、エジプトの観光収入を減らし、正教分離政策をとっていた当時の政府に打撃を与える事だったと言われている)

 

  

女王は建築、芸術、外国貿易(ソマリアの乳香を求めたりした)に熱心だったが、死後、「トトメス三世」に葬祭殿の一部が破壊された。
エジプトの小学生が先生と旅行に来ていた。先生に聞くと写真を写してもいいと了解してくれた。生徒達は嬉々として収まってくれた。

  

山の中腹に洞穴が幾つも開けてあった。ガイドに聞くと「かってキリスト教信者の隠れ家として使われていた穴倉だ。」と返答された。
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「エジプト」旅行(8)

2012年12月31日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ルクソール西岸観光》(1)
5日目、船が「ルクソール」に停泊すると9;30に下船し、バスに乗り換えて観光に出発した。

先ず向かったのが「メムノンの巨像」だ。
紀元前2040年頃、衰退した古王国時代の後にエジプトは再統一されて中王国時代を迎えた
紀元前1720~1680年頃、アジアからデルタ地帯にやって来た人々が王朝を成立させ、新王国時代が始まる。

この後、巨大建築物が首都「ルクソール」に沢山造られたが、「メムノンの巨像」は「アメンホテプ三世」が建てた物だという。
ネットで調べると、この二体の像はアメンホテプ三世が建てた葬祭殿の入り口に作られた高さ18mのものだが、後の第18王朝のメルエンプタハ王が自分の葬祭殿をたてる石材を得るために破壊したと言われ、今は巨像しかない。
右の写真は巨像の背景である。ここに葬祭殿があったのだろうか。遠くの山は王家の谷の方角に当たる。

  

次に向かったのが「王家の谷」だ。
そこはぐるりと山に囲まれ、北側だけが空いている谷状の地形だった。

  

墓の全てが、紀元前1365年以降の新王朝時代に岩山を掘って造られたものだという。
「ラムセス六世」の墓、「ツタンカーメン」の墓、「貴族」の墓などの中に入ったが、カメラ撮影ができなかったので写真は無い。
入り口から玄室までほとんど真っ直ぐに大きい通路が作られていて、その通路の両側の壁には王の生前の生活や来世の神の姿、王の死後の世界が沢山画かれていた。
死後、魂は蘇ると信じていたので、体をミイラにし、内臓を甕に分けて入れ、死後の世界で生きるために必要な生活用品を置いた。
彩色もそのまま残っている墓も多く、3000年前に描かれたものとは思えないような新鮮な感じを受けた。
紀元前1350年に即位した「ツタンカーメン王の墓」は特に保存状態が良く、玄室の絵は極彩色に彩られていて、当時の王族の宇宙観が画かれていた。

紀元前1150年にはここで労働者がストライキを起こしたらしいが、徐々に新王国は衰退して行った。
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「エジプト」旅行(7)

2012年12月30日 | 海外旅行「北アフリカ」
《エドフの「ホルス神殿」》
「コム・オンボ神殿」の観光を終えて船に戻り、昼食後はゆっくり休んだ。その間も船は次の停泊地に向かって航行している。
バス移動なら一定の窮屈な姿勢で座り続けなければならないが、船なら好きなことをしていていいから気分的にも身体的にも楽なのだ。
それで私は、昼食後親しくなった人達とお喋りを楽しんだり、自室で買った絵葉書(売り子から10枚1ドル=85円、切手は日本まで35円)に手紙を書いたり、船内の売店を覗いたりして過ごした。
ずっと最上階の甲板で過ごした人は、動く景色を見続けたためか「酔って気分が悪いから夕食は食べられない。」と言っていた。

17時に船がグレコローマン時代に栄えたという「エドフ」の町の船着場に着くと、私達のグループは下船して二人ずつ「観光馬車」に分乗し、「ホルス神殿」の観光に向かった。
私と友人は少年が御者の馬車があったので乗ることにした。ところが、走り出して間も無く父親が御者席に飛び乗って来て、二人で馬に鞭打ち、夕暮れ迫る街中を走らせた。
馬車が7分走ったところで「ホルス神殿」に着いた。既に陽は落ちて真っ暗になっていたので、神殿の全体像を写真に写すことはできなかったが、壁画を見るのに持参した懐中電灯が役立った。

この神殿は、プトレマイオス朝時代の紀元前237年に着工し、紀元前57年に完成した神殿で、守り神「ホルス神」とは冥界の神「オシリス神」とその妻「イシス神」が生んだ子どもで、「ハヤブサ」の頭をした神だ。
神殿は大きく、今から2060年以上前に建てられたものとしては保存状態がとても良いそうで、高さが3mはあるかと思う大きいホルス神の彫像が第二門の入り口に置かれていたり、レリーフが至る所に彫刻されていた。
しかし、紀元391年にローマ帝国の「非キリスト教崇拝禁止」が打ち出された後、燃やされたらしく、天井部分が黒く焼けていた。
この近辺の地下にも「ナイロメーター」が作られているのを見に行った。

  

  

帰りも同じ馬車に乗って暗い街の通りを抜けて船着場に戻ったが、降りる時に添乗員から言われていた額のチップを父親に渡したら、彼から「息子にもくれ。」と請求された。私は「1ドルはあなた、もう1ドルは息子です。」と言って急いで友人と降りた。


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「エジプト」旅行(6)

2012年12月29日 | 海外旅行「北アフリカ」
《ナセル湖を見つめるラムセス二世像》
現在、ナセル湖の畔にある「アブシンベル神殿」は、「アスワンハイダム」の建設によって湖底に沈む運命にあった。
しかしユネスコが国際キャンペーンを起こして救済された神殿で、1964年からの工事によって、元の場所から60m上にそっくり移設をすることに成功したのである。
岩山を利用して造った神殿の入り口に、高さ20mのラムセス二世像とその妻の像が湖を見つめていた。
像の横側にはレリーフが彫られていたが、その中にこの当たりで暮らしていた色が黒い「ヌビア人」と隣国「リビア人」達が首を紐で結わえられて奴隷となっているものがあった。王の権力を誇示したかったのだろう。
日没が迫る「ナセル湖」が美しかった。

    

         




《コム・オンボ神殿》
4日目、「アスワン」から46kmナイル川を下り、「コム・オンボ」(アラビヤ語で「オリンポスの丘」の意)の町で停泊したクルーズ船を降りると、すぐ傍の丘の頂に「コム・オンボ神殿」があった。
この神殿は紀元前2世紀に着工され、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に完成したもので、「ホルス神」(ハヤブサの頭を持つ天空の神)と「ソベク神」(ワニの神)を祭るために建てられたという。
この神殿の石材は、後に持ち出されて他の建造物に使われたそうだ。
残っている部分のレリーフに女性の出産場面やミイラ作りの各種道具なども画かれていた。

庭に大きい井戸の様な「ナイロメーター」(ナイル川の水位を測る)が造られていた。底の方にナイル川の水が流れ込む穴が作ってあった。
井戸に向かって特別の祈りをしている男性がいた。


また少し離れた所に、この近くで発掘された「ワニのミイラ」の博物館があった。ズラリと並べて展示されていたミイラは、子ども以外はどれも大きかった。

  

  


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「エジプト」旅行(5)

2012年12月28日 | 海外旅行「北アフリカ」
《アスワン観光》
9;30に「ナイルエクスプレス」は「アスワン駅」に着いた。
待っていたバスに乗り換えて「アスワン」観光に向かった。

最初行った場所は「切りかけのオベリスク」だった。
そこは古代の石切り場で、切り出す途中に石に亀裂が入ったために打ち捨てられたものがそのままの形で残っていて、古代の石切り方法を今に伝える貴重な場所だった。
その方法とは、石に切り込みを付け、そこに木のくさびを打ち込み、それを水で濡らして膨張させると石が割れるのだと言う。
捨てられたオベリスクは、長さ42m、重さ1168トンあり、完成していればエジプト最大のものになった筈だという。
(写真は、頭の方からと下の方から撮ったものである)

   

次に向かったのが「アスワンハイダム」「ナセル湖」だ。
ダムは「アスワン」の町の南方12kmにあり、そこまで行く途中には広大な砂漠の光景が広がっていた。
1970年にドイツとソビエトが協力してできた幅3.6km、鷹さ111mあるこの巨大なダムは、ダムの上流に面積が琵琶湖の7.5倍あるという長さ500kmもの人造湖「ナセル湖」が続いていた。
このダムからエジプトの電力は供給されている。
しかし「ナセル湖」ができたために「ナイル川」は氾濫しなくなり、流域に豊かな土壌がもたらされなくなって下流域の農業に大きなマイナスの影響を与えたという。
農業を諦めた人々は都市に移住したり、出稼ぎを余儀なくされた。

  

               

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「エジプト」旅行(4)

2012年12月27日 | 海外旅行「北アフリカ」
《旅行の交通手段》
今回の「エジプト8日間」のツアーでは、2日目に「ギザ」から南部の「アスワン」まで夜行列車「ナイルエクスプレス」のコンパートメントが使われた。この列車はナイル川に沿っておよそ900kmを南下するが、1室2人(2段ベッド)で「ギザ」発20;30、「アスワン」着は翌朝9;30で、約13時間の旅だった。

   

その間夕食と朝食が出るが、夕食は簡単な弁当食で美味しいものではなく、朝食は飲み物とパン、果物だけだったし、ゴトンゴトンとレールを走る音と揺れで浅い眠りしかできなかった。多分航空機を使うのに比べたら格安なのだろうと思った。

朝になると窓からナイル川沿いの光景が見えて来た。
町のモスクや庶民の住む集合住宅、オアシスに植えられているバナナ、サトウキビ、ナツメヤシ、野菜、ロバや馬、荷車、自転車、三輪車、小型貨物車などに乗って荷物を運ぶ人や農作業をしている姿など、中世と現代が混ざり合ったような景色に見ていて飽きなかった。
(写真は走る特急列車の汚れた窓から撮ったもの。最後の写真はルクソール駅で撮った)

  

  

  

次に「アスワン」から「ルクソール」までの170kmは、ナイル川を大型のクルーズ船に乗って3泊4日の「ナイル川クルーズ」で、来た時とは逆に北上した。
港?では、クルーズ船は数隻がピッタリと横並びになって停泊し、乗客は他船のフロントのあるフロアを横切って自分の船に乗ったり降りたりするのだった。(写真はクルーズ船5隻が停泊している姿を背後から写した)
その間毎日、世界遺産がある町に停泊した船から降り、ボートや馬車に乗り換えて観光し、食事は船内で摂った。
食事は朝から夕までバイキング形式で変化がある食事だったし、バス、トイレ付きのゆったりした船室で、窓から見える川沿いのオアシスの風景や人々の生活光景、クルーズ船が行き交う様子も見られて楽しかった。

  

  

6日目はクルーズ船に別れを告げ、「ルクソール」から「カイロ」までの530kmを航空機で1時間10分掛けて飛んだ。さすが航空機は速い。

このように今回の旅ではバス以外の交通手段が色々組み込まれていて、それぞれの特徴を味わえたのだった。





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「エジプト」旅行(3)

2012年12月26日 | 海外旅行「北アフリカ」
《カフラー王のピラミッドとスフィンクス》
「クフ王のピラミッド」から出た後、バスで「三大ピラミッド」が良く見える場所へ移動した。
真ん中のピラミッドがやはり紀元前2550年頃建造されたという「カフラー王のピラミッド」だ。こちらは傾斜が少し急に造られていて、「クフ王のピラミッド」よりも少し小さいが、それでも一辺は215m、元の高さは143mあり、上部に表層の白い石灰石が残っている。一番の特徴は、大きな「スフィンクス」(鷹さ20m、長さ57m)も斜面の下に造られている事だ。
 

バスで「スフィンクス」の見学場所に戻った。「スフィンクス」はその場に元々あった岩山を削って造ったという。大き過ぎるので近くからだとうまく写真を写せない。この写真は、高い所によじ登って写した。
傍に石材で複数の部屋に仕切られた天井の高い場所があった。現地ガイドの説明ではミイラを造る場所だったという。

  

左端のピラミッドは「メンカウラー王のピラミッド」で、3つの中では最も小さく、一辺が103m、元の高さは65mあるものだった。表面の化粧石は花崗岩が使われているので少し赤っぽい色をしていた。

 

この後もピラミッドは造られ続けたが、次第に石材ではなく、小さな日干し煉瓦を積み上げる方法に代わって行き、崩れやすくなったと言う。これは王の権力が弱まっていったからだそうだ。

「ギザの三大ピラミッド」の見学後、パピルスを売る店に行った。日本語が上手い店員がパピルスからどうやって紙を作るか説明した。
本物のパピルスでプリントされたものは大きさにより数千円から数万円という結構な価格だったし、我が家に飾る場所もないので私は手を出さなかった。
店の説明では、最近バナナの皮から作った紙のプリントが安く売られているが、直ぐに駄目になるそうだ。行く先々で露天や売人が「10枚1000円」などと言って売っているのはバナナ製なのだろう。こちらは遥かに安いので何人かが買っていた。

  


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「エジプト」旅行(2)

2012年12月23日 | 海外旅行「北アフリカ」
《クフ王のピラミッド》
エジプトと言えば先ずピラミッドだ。
早朝、カイロ国際空港に着き、朝食を摂った後、バスで隣町の「ギザ」に行った。
バス1台毎に常に内務省管轄の警察官『ツーリストポリス』が、私服で最前列の席に座ってツアーに同行した。背広の下には長さ30cm位の銃を携帯していて一見物々しかったが、私達は全く気にすることなく旅行した。

「ギザ」には、世界遺産のピラミッドが3つある。最大のが「クフ王のピラミッド」だ。
これは紀元前2550年頃造られた物で、一辺の長さが230m、元の高さが146m(今は上が崩れて、元の高さを示す棒が立てられていた)の角錐の形をしていて、ピラミッドの王様と言われている。1837年に王の名と治世年が発見されたそうだ。
使われている石は平均2.5tもある巨大なもので、崩れないようにきっちりと重ねられていた。

私達は入り口から入って、このピラミッドの王の間につながる狭い回廊を登って行った。回廊は進むほど傾斜が上向きに急になり、広さも人1人が頭を下げてかがみ、やっと進める程だった。通気が悪いのでみんな汗びっしゃりになりながら頑張った。
王の間は20畳ほどの広さに見えた。御影石でできた蓋のない石棺がぽつんと置かれていた。(吉村教授は棺ではないという説を持つ)
カメラの持ち込みは禁じられた。
私は今から4500年も前の王の絶大な権力と遠くの山から切り出し、ナイル川を船で運び、ピラミッドに隙間無く積み上げた技術力に大いに感じ入った。
(右は三大ピラミッドの写真。クフ王のは右端のだ。遠いので小さく見える)

  

このピラミッドの付近には、観光客を狙った物売りやらくだ飼いが沢山居て、すごくしつこく押し売りの様に付きまとって来た。
10歳程の子どもの物売りもいた。義務教育の小学校に行っていない子どもだった。
中には隙を狙って金品の盗みを働く者もいて、全く気を抜けなかった。うっかりらくだの写真を写すとチップを請求された。

 




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「エジプト」旅行(1)

2012年12月22日 | 海外旅行「北アフリカ」
《はじめに》
「チュニジア」旅行記の最後を残して暫く留守にしていたが、実は12月12日から20日まで「エジプト」旅行に行って来た。
出かける1週間前になってカイロの状況が不安定になったというニュースが飛び込んで来て、旅行社に安全状況を問い合わせるなど私も不安だった。
そんな訳で皆さんに心配を掛けたくないと考え、行き先を伏せて出発したのだった。

かって私がエジプト旅行を予定した年、丁度「ハトシェプスト葬祭殿」の銃撃テロが起きた。そのため、予定を中止して暫く様子を見ていたのだが、その内TVの旅行番組で頻繁に「エジプト」が登場するようになり、それを見ている内に次第に行って見たいという気持ちが萎えてしまったのだった。
ところが今回「チュニジア」に行く事になり、どうせなら直ぐ傍の「エジプト」にもやはり行って来ようと思い立ったのだ。
それで旅行社の締め切り間際に駆け込みで申し込んだ旅だったが、やはり今回も「行って来て良かった」の一言に尽きる。
「百聞は一見にしかず」と、先人は良く言ったものだと思う。

 
 ( 保存状態が最高の「カフラー王ピラミッド」と低地にある「スフインクス」を、入場口より撮影)

「チュニジア」でこの時期の気候が良く分かったので、衣類は洗濯して、またそのまま詰めて出かけた。
ただ、ガイドブックを見ると「エジプト」は埃っぽいとか、年中蚊がいるとか書いてあったので、マスク、蚊取り線香を用意した。
また遺跡の中が暗いので懐中電灯があると便利だとあったので、手回し充電式の「LEDライト」を新しく求めたりした。
実際、手回しライトは軽くて役立ったが、蚊取り線香は使わなくても良かった。
このライトは現地ガイドの目に留まり「欲しい。」と言われたので差し上げた。私ならまた買えば済むから。

  

「チュニジア」旅行で壊した胃腸は、病院に行って抗生物質と消化薬を処方して貰って出かける前に何とか治した。
エジプトでは、生野菜、ジュース、カットした果物、油っぽい料理には全く手を付けなかったので、胃腸は壊さなかった。

エジプトの気候は、最高気温が22℃程度と過ごしやすかった。
また、今回利用した航空機は、往復共成田~カイロ間のエジプト航空の直行便だったが、空席があったので行きも帰りもゆったりと体を伸ばして休むことができ幸せだった。
今回も成田には18時に着いたので、旅行社が手配したホテルに一泊して翌日午前中の飛行機で北海道に帰宅した。

出かけた12日の朝も雪が25cm積もり、30分掛けて除雪してから出かけたので、留守中の降雪が一番気になった。
帰宅して見ると、隣家の方が除雪をしてくれていた。いつもの通り、気持ちだけのお土産を差し上げた。いつも見守ってくれ、ちょっとした手を貸してくれる近所の方々には本当に感謝している。


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