花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

最近あった嬉しかった事

2016年02月22日 | 暮らしと経済
アメリカのビザ申請書作りでパソコンと格闘し、疲れ果てていた時に嬉しい事があった。
前にも記事に書いたが、JAで年金を受け取っている人が「くじ付き定期預金」をした場合にプレゼントが当たる場合がある。
それに、またまた12月にした預金が当選したという葉書が届いたのだ。
今回の当選は3回目になるが、貯金額とは無関係な事が分かった。この定期預金は1回50万円以上なので、私は最低額を1年定期にしたのだった。(前はもう少し多い額を定期にしたが、1口は1口らしい)

今、銀行貯金の利息も日銀の金融政策によって大きく下がるというニュースがある。
「貯金はしても馬鹿々々しいので、使ってしまおう」と思う人や、「こんな時代だから手持ちのお金を大切に保有したい」と思う人など色々だろう。中には「金融機関に預けても利息は無いに等しいから、箪笥預金にして置こう」という人もいるだろうが、盗難や火災で失う危険を考えれば、やはり面倒でも金融機関に預けざるを得ないと思う。
こういう時勢に8000円相当の賞品が出るというくじに当たるとは、凄い事では無いだろうか。
早速、返信葉書に希望の商品名を書いて出した。最初の「乳製品詰め合わせ」が良かったので、今回はまたそれにした。何時頃届くか楽しみだ。

もう一つの嬉しい事は「カード」の「ポイント交換」をしたことだ。
今回は、全国のデパートやスーパーマーケット他の店舗で使える三菱UFJ〇〇が発行しているギフト券1万円分と交換でき、昨日郵送されて来た。嬉しい。

更に、4月のアメリカ旅行に必要な「新千歳~成田間の航空機の往復航空券」を、溜まった「マイル」で入手できたことも嬉しかった。
友人と一緒に行くので、友人のもマイルでと思ったが、マイルを使うには「家族以外は駄目だ」と言われてしまった。

最後の嬉しかった事は、一昨日25cmの雪が降り、除雪で疲れた日の夕方、近所の「花友さん」が熱々できたての「ポトフ」を鍋ごと届けに来てくれた事だ。
夕飯の仕度が面倒だなと思っていた時に届けられたので、冷めない内にと思って早速頂いた。
大きめに切った豚バラのブロック肉、じゃが芋、人参、大根、キャベツ… 
どれも柔らかくて、良い出汁が出ていて凄く美味しかった。お陰さまで身体も心も温まった。

生きて生活していれば、辛い事もあれば嬉しい事もある。
先週NHKのEテレで「鬱」の事をやっていたが、医師が「落ち込んだ時は、その日の中で楽しかった事、良かった事を5つ思い出すと良い」と話していた。
毎日5つも思い出せる人は少ないかもしれないが、私もこれからは小さな事でも、良かった事、嬉しかった事をなるべく心に留めて生活したいと思っている。
                           
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「アメリカ入国ビザ」の申告書作成で疲れ果てた

2016年02月19日 | 海外旅行「北アメリカ」
3月末に行く「アメリカ旅行」のツアー参加を申し込んでいた。
ところが2月7日に旅行社から「〔イラン・イラク・シリア・スーダン〕への渡航暦がある人には、3月1日以降のアメリカ入国に当たり、電子ビザ「ESTA」ではなく、正式な「ビザ」が必要になった」という連絡が入った。そう決まったのは1月下旬らしい。
多分、ISなどによるテロの不安が高まったからだし、アメリカはISに対抗するために「シリア」を「フランス」「イギリス」「ドイツ」「トルコ」「ロシア」と共に空爆に踏み切っているから、報復のテロなどを恐れて、入国者を厳しく取り締まる一環なのだろう。

私は昨年10月に「イラン」に渡航した。そのため私にもビザの取得が義務付けられたので、その日から3日間、朝から夜までずっとパソコンの前に座って、アメリカ政府のビザ発行部署が出している「DS-160」というパソコンによる申請用紙と格闘した。

きちんと数えた訳ではないが、質問は全部で160項目程あった。
(前に「インド」のビザ申請をやはりパソコンでした時は72項目だった。その時にも苦労をしたが、今回はその比ではなかった)
画面の最初にある「使う用語」を「日本語」にする。そうして英語で書かれた質問をクリックすると、簡単な日本語和訳が出て来るが、回答は全て英語で答えなければならない。英和辞典を片手にしながらだが、文字が小さいので拡大鏡を使って読んだ。疲れた。

そして、質問項目が全部最初から画面で見える様にはなっていない。
例えば、「あなたは職業を持っていますか」という質問では、「ハイ」とか「リタイヤした」と答えると、その下に隠れていた質問が飛び出す仕掛けになっているのだ。
この場合は、「勤務期間」「会社名」「上司の名前」「副上司の名前」「会社の郵便番号」「住所」「電話番号」「あなたが担当した仕事」「その主な内容」という訳だ。
次々と質問が飛び出して来るので、全体を見通す事ができない訳だ。終着点が分からないので、精神的に不安だし疲れる。

また「父親の名前」「父親の出生地」「母親の名前」「母親の出生地」などなど、日本で生活していたら絶対に聞かれない事柄も次々と質問されるのだ。(私の父は既に60年も前に、母も40年以上前に死去していてもだ)

一番困ったのは、「アメリカ滞在中の身元証明先」で、旅行社に問い合わせて「現地の手配会社」を教えられたが、それでは駄目だという。2度目に問い合わせて教えられた「レストラン」の名前と住所、郵便番号、電話番号を入力したら、OKだった。

終りの方の質問では、29項目の「安全」「健康」上の質問に答えるのである。
例えば、「テロの組織の一員になった事があるか」「違法な麻薬などを持ち込もうとした事があるか」「人権を侵して拘束された事があるか」「子どもや女性を金銭で売買した事や、それに手を貸した事はあるか」「特定の感染症になっているか」「臓器を売買する組織や人に手を貸した事はあるか」などなどだった。

私の記憶では、同じ質問がページを変えて3回なされ、全ての質問に3回回答したので、結果的に物凄い時間と体力を要した。

質問が終ると「電子プロフィール写真」の取り込みと編集が続く。
大きさが600px(5cm)×600px(5cm)ピッタリで、背景が白かオフホワイトの写真を指定された画面に取り込むのだ。顔の位置と大きさも決まっているから難しい。
私の場合は半日あれこれやったが上手く行かず諦めかけていた時、「あなたの写真は条件に合わないので、面接時に改めて持参して下さい」という画面が出て来て、やっと次に進むことができた。

進むと「料金の支払い」画面だ。「取得するビザの種類」を選ぶと金額が出てくる。私の場合は「ツーリスト」で「19,200円」だった。
その次が「支払い方法」だ。銀行振り込みなど色々あるが、私は「カード支払い」にした。
画面には「一度支払ったお金は、どんな事があっても戻されません」と警告が出た。

支払い手続きが済むと「面接の予約」画面に変わった。
日本に数箇所あるアメリカ大使館や領事館の内、希望する場所と時間を選ぶのだが、面接は毎日行われるのではなく、月に2回なのだ。
最後に「あめでとうございます。あなたの面接は〇月〇日〇時に決まりました」という画面が出た。

しかし、私には問題があった。一番早い2月下旬の面接日には丁度予定している旅行とぶつかっていく事ができないのだ。
止むを得ず3月の初めの面接日を選んだが、ビザの取得が3月下旬のアメリカ旅行の出発に間に合うかどうかが不安で、問い合わせのメールを2回、それに必須の「理由書面」を作製し添付してビザ発行部署に送ったが、今の所、拉致があかない。
悩んだが仕方なく、結局は出発予定を後にずらす事にした。旅行費用も高くなったし、国内線飛行機の往復予約と帰国後一泊する成田のホテルの予約をし直した。

結局、ビザ取得が必要だという連絡を受けてから一昨日まで、画面との格闘が続いた。肩は凝るし目は霞むし熟睡できないし、本当に大変だった。
私の場合、勤めていた職場で最後の5年間程、パソコンで仕事をする事になって以来、パソコンを曲がりなりにも使って来た。ブログを始めてからは、写真の取り込みや編集もして来た。この経験があったから、今回のビザ申請を自力でする事ができた様に思う。
その時は面倒だと思っても、どこでその経験が役立つか分からないから、人生には幅広い経験が大切だと改めて実感する事ができた。

面接に必要な写真は、改めて「証明写真」のボックスで撮った。疲れもあったとしても、年月の経過が私の写真にはっきりと見て取れて愕然とした。
また、ここまで苦労したのだから、ビザが取れたら「有効期限5年間」の間に、まだ行っていないアメリカの地域やアメリカの国際空港で他国に行く航空機に乗り継ぐ旅行をしたいと考えるが、正直な所、この先何時頃まで私自身の体力、気力、経済力が持つかが気になり始めている。

昨日、東京の「文書配達センター」から「レターパック」が届いた
中には私の面接場所である「アメリカの札幌総領事館」宛の「レターパック」だけが入っていた。
今朝からは「DS-160」の必要書類を印刷し、「パスポート」のコピーをして送付する準備をしている所だ。(途中でプリンターのインクが無くなり、車で買いに走って来た。やれやれだ)
                    
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平成27年の「確定申告」を終える

2016年02月17日 | 高齢期の生活
昨日、確定申告に行って来た。
午前中一杯、資料の整理に取り組んだ。
先ず医療費の領収書を整理して、年間合計額を計算して見た。昨年はさして特別な病気をしなかったので、20年来の「高血圧治療」と「鼻炎」それに「がんセンターの定期検査」だけだったので、「医療控除」は申告するべき額にはならなかった。

次に、伯母が扶養家族なので「扶養控除」が認められた。
また伯母は「要介護2」である事を伝えると「障害者控除」も認められた。

それから昨年「ふるさと納税制度」を利用してある自治体(上士幌町)に1万円寄付したが、その内の8000円分の控除が認められた。(勿論その自治体からは、謝礼の牛肉、何でも5000円相当だという品が送られて来た)
担当者も「そこの保育料は無料になったんですよね。」などと良く知っていた。
改めて担当者に聞くと、「年収が300万円以内の人は、年間23000円まで」の「ふるさと納税」に対して控除が認められるらしいので、心配なら自治体の担当者に問い合わせて見ると良いだろう。私は今年は2万円程度を寄付したいと思っている。

後はいつもの通り「社会保険料と生命保険料」の控除分がプラスされた。

結果的に還付される税金は僅かなものだった。しかし、最高気温-5℃の中を近くの申告場所まで出向き、待ち時間1時間、相談時間30分を割り引いたとしても、税金が戻されるのだから確定申告をした甲斐はあった。
国は「年収400万円以内の年金受給者は、確定申告をしなくても良い」などとしているが、生命保険料などがある人は、やはりするに限ると思う。

今朝から、申告に使った1年分の資料の廃棄をしている。
シュレッダーなどと言う近代機器は持ち合わせないので、私の住所と名前、年金番号や銀行の口座番号など、個人情報に関するものを全て手でちぎったりはさみで切り取ったりしてゴミ箱に捨て、本体資料はリサイクルされる「雑紙」に仕分けている。
                              
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変調ぎみの気候だが

2016年02月14日 | 高齢期の生活
この所、雪が降ったり、雨が降ったりと、凄く気候が変動している。
昨夜は濃霧になったが、ニュースによると「新千歳空港」に着陸できず、二十数便の航空機が欠航し、200人以上が空港で夜を明かしたとか。
今日は、北見地方で大雪と猛吹雪の予報が出ている。事故者が出ないことを望みたい。

また一昨日は、1ヶ月振りに札幌の友人に会いに車で出かけた。
彼女も車なので、今までは互いの住まいのほぼ中間にあるお気に入りの「回転すし店」で落ち合って来たが、今回はゆっくりと会話がしたかったから「大型ショッピングモール」のフードコートにした。
そこには色々な店があったが「ピザ」にすることにした。彼女は「カルボナーラ」私は「ゴルゴんゾーラ」を注文して、互いに分け合って食べた。
2時間半居て、色々な話ができた。

別れた後、一人でぶらぶらしていたら、極小ショルダーバッグ(横幅18.5cm、縦12cm、奥行き3cm)を見つけた。見たら私が好きな半額だった。
今まで長時間乗る飛行機の中で、バッグに入れてあるカメラや財布、パスポートなどの貴重品の管理が不安だったが、これからはこのバッグに入れて身に着けようと思う。
コートの中に下げる事もできる大きさなので、夏以外にコートや上着を着る時期の旅行先で、スリや盗難防止にも重宝しそうだ。

  

そして昨日は、車を手放した家の「花友さん」を食料品の買出しに誘い、私の車で少し離れた「スーパーマーケット」に行った。
土曜日のバーゲンセールをしていたので、伊予柑1箱、ホーレン草2把、肉、魚、調味料、パンなど、私は4000円、花友さんは1万円も買い込んだ。彼女は「重いものは普段なかなか買えないから、車で運べる良い機会なので…」と言っていた。
帰りに花友さんから「手作りの餡餅」を貰った。

今日は午前中に伯母の所に行こうと思っている。汚れ物を預かって来て洗濯をする予定だ。
また昨夜は、旅行中に取り溜めたVTRを3時間程見たが、まだまだ残っている。今夜も続けて見るつもりだ。
                              
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また除雪

2016年02月11日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
一昨日から断続的に降り続いた雪のために、昨日は50分間、今朝も1時間弱と除雪作業に勤しんだ。
以前ほど力がなくなり、作業のスピードも落ちた。
しかし、自分の敷地内と敷地の前の道路にかき分けられてできた雪は、責任を持ってそれぞれの家で除雪をしなければならない。だから、仕方なく頑張った。
早朝の作業なので、気温は零下だが、暫くすると汗をかく。この時期、なかなかできない運動だが、天がその機会を与えてくれていると考える事にしている。

変わり映えがしないが、今朝の除雪を終えた玄関前通路の写真だ。庭の積雪も大分多くなって来た。
       
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このところ真冬日続き

2016年02月08日 | 日記
最高気温が零下の日が「真冬日」だが、もうずっと続いている。
当地は石狩地方でも気温が低めの地域に入るが、昨日の最低気温には参った。ネットで調べたら、何と-17℃だったのだから。
前夜から確かに冷え込んではいたが、ここまで下がるとはトホホ…なのである。多分、放射冷却現象だったのだろう。
(10日前まで居た気温30℃のフィリピンで、暑い々々と言っていたのが懐かしい)

今まで9年間、ずっと2階の半分が吹き抜け天井になっている南面14畳の寝室には、暖冷房なしで年中寝起きして来た。しかし、昨秋、天井を張ってある10畳間に寝室を移し、空気容積が少なくなったので、思い切って先月、私の寝室にもポット式の石油ファンヒーターを買って置いた。
それからは寝る30分~1時間前に点火し、温まった頃に行って寝ることができるようになった。この年でようやく文化的な生活になった訳だ。
しかし就寝時には消火するので、昨日の朝、室温を見たら4℃しかない。これでは寒い筈だ。急いで着替えて階下に降り、ベランダの外の寒暖計を見たのだった。

-17℃の昨日に比べると今朝は大分温かい。ネットを見たら、最低気温は-9℃とか。8℃も違えば、はっきり感じ方も違って来る。
このまま温かな春に向かって欲しいと、祈るばかりだ。

伯母は週2回、午前中に入浴するので、私はその日脱いだ洗濯物を取りに行く。私もそれに合わせて入浴し、風呂の残り湯を使って洗濯を済ませる様にしている。
ところが1~2月は、2階のベランダで干し物ができない。一日中気温が低いので、乾く所か凍り付いてしまうからだ。
今まで自分の衣類ならそんなに急いで乾かす必要は無かったが、伯母の衣類を洗うようになってからはそうは行かない。
苦肉の策として、昨年末からストーブを焚いている居間にパイプ製の「スタンド型物干し」を置き、それに「小物干し」やハンガーを吊るして干すことにした。乾くまで何となく居間がうっとうしいが仕方が無い。ついでに書くと、吊る「物干し」は日本の独自製品だ。私は、「小物干し」をいつもスーツケースに入れて旅をしている。
昨日は、私のシーツやタオルケットも洗濯したが、やはり大きな物は乾き難い。
(伯母は、毛布、布団、枕とシーツは施設の備品なので、シーツは週に1回洗濯をしてくれる。私物のタオルケットやバスタオルなどは、2週間に1度程度、私が持って来て洗っている)
施設の入所者の多くは、衣類の洗濯は全部、お金を払ってクリーニング業者に頼んでいるらしいが、私は近くにいるし、伯母の下着の果てまで外部のサービスに出させるのは忍びないのだ。
しかし冬期は手洗いを要するセーター類や靴下などが多いので、確かに手間はかかる。

毎日少しずつだが、日差しが明るく強くなって来ているように思う。
傍の山桜に来るヒヨ鳥の「ピーピー」というさえずりも何となく力強くなった様に聞こえる。
「春よこい! 早くこい!」    
                        
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海外旅行「フィリピンの旅」(11)

2016年02月06日 | 海外旅行「東南アジア」
6日目は、第二次世界大戦の激戦地「コレヒドール島」の観光だったが、残念ながら個人的に
不都合な事ができて、行くことができなかった。

参考図書「現代フィリピンを知るための61章」(明石書店)によると、第二次大戦末期の1944年10月20日に米軍が「レイテ島」に上陸してからは、日本と米比の戦闘が激化して、フィリピン全土は焦土となり、111万人の犠牲者と、1950年価格で60億ドルもの物的な損害が生じた。
同時に日本側には、50万人あまりの戦没者が生まれたと書かれている。
最後の日に「マニラ空港」ですれ違った天皇陛下は、この歴史的な事実に基づき、フィリピンと日本の戦没者を慰霊するために訪れたのだ。

最後の夕食には参加でき「フィリピン・ダンスショウ」を見ながら、「海鮮料理」を食べた。
海老、ムール貝、烏賊を焼いた料理は美味しかったが、オーブンで焼いたマグロの大きい切り身は、一層、油が少なくなってパサつき、美味しく感じられなかった。しかし、最後に食べ切れないほど出た数種類の果物は「フィリピン」ならではで、本当に美味しかった。


7日目は、ゆっくりとホテルを出て、東南アジア最大だというショッピングモール「モール オブ アジア」に行った。買い物の時間は2時間だったが、私は「ドライマンゴー」「パパイヤ石鹸」「ココナツオイル」など、買いたいものは決めてあったので素早く買うことができた。


              

マニラ発の飛行機は1時間遅れて離陸したが、羽田空港にはそれ程遅れずに到着した。
今回フィリピンを訪れた天皇陛下とは、マニラ空港ですれ違う形になったのだろう。
21時過ぎに羽田空港に帰国し、予約してあった第二ターミナルに直結する「羽田エクセルホテル東急」でゆっくり一泊し、翌日帰宅した。

最後になるが、前掲書によると、第二次世界大戦までは多くの貧しい日本人女性が「からゆきさん」として東南アジアに渡った歴史があるが、近年の日本とフィリピンの関係は、東南アジアにおける同じ自由主義国として共存共栄が計られて来ている。
日本の科学技術、工業製品がフィリピンへ多く輸出され、フィリピンからは果物や水産食品、電子部品、電気機器、輸送用機器の輸出が伸びている。
特に2009年の受け入れから日本の高齢者介護や病院の介護と看護の現場で、難しい日本語の試験にもかかわらず、フィリピンの介護師、看護師達の挑戦と就業が少しずつ進み出し、今後の貢献度と期待が高まって来ている。
また、その多くが高学歴で英語を理解する身近なアジア人である彼らは、日本の労働力不足を解決してくれる貴重な人材としても、今後ますます広い分野で活躍が期待されるのではないだろうか。

経済界は2006年9月に調印した「日本フィリピン経済連携協定」に大きく期待しつつあり、2006年の「国交樹立50周年」には「日比NGO協働」2008年には「対フィリピン援助計画」を策定して、現地の状況に応じた支援を行って来ている。
また、2008年の世論調査によれば、フィリピン人の93%が「日本は信頼できる」と答えているという。(「ボホール島」のガイドさんからは、日本の援助に対して私達に感謝の言葉が述べられた)

私は今回の旅行を通して、島によって異なる顔を持つ同じアジアの隣国である「フィリピン」、そして日本との歴史的な関係も決して忘れてはならない「フィリピン」との関係が今後一層深まることを期待し、いつかもう一度行きたいと思った。
これまで長くなった記事を読んで下さった方達に、お礼を申し上げます。
                             (完 成)


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海外旅行「フィリピンの旅」(10)

2016年02月05日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「ボホール島」観光≫(2)

③「チョコレート・ヒル」

バスで「ボホール島」の内陸部に向かった。
お椀を伏せたような形の山が沢山見え出した。これが「チョコレート・ヒル」だった。
駐車場からは階段で展望台に登った。私が数えたら215段あった。
頂上には観光客が大勢いた。
高さ30~40mの山が1268個もあるのだという。4月から6月の乾期になると、生えている草の色が褐色に変わることから「チョコレート・ヒル」と呼ばれるようになったらしい。
地質学的には山の大半が珊瑚礁の石灰岩でできているので、大昔は海の底だったのだ。珍しい景色だった。
 

     

その日のホテルは、橋を渡って行った「パングラオ島」の海岸に建つリゾートホテルだった。
夕食は星空の下の砂浜で食べた。

④「モーニング・クルーズ」
5日目の朝は「モーニング・クルーズ」だった。
朝7時に浜辺に集まり、浅瀬を自力で歩いて行って、沖合いに停っている木造船に乗った。
腰まで海水が寄せて来たが、用意して行った海水パンツを履き、ガイドが腕を支えてくれたので何とか転ばずに歩けた。
(小柄な人、高齢の人は、自主的に行くのを見合わせたらしい)

船が沖に出た頃、船の周りに野生の黒い「イルカ」の群れが現れ始めた。水面すれすれに泳ぐので、背中が見えるのだ。体長は2m前後らしい。
その内、20~30頭ほどの大群が、次々と速いスピードで船の周りを通り過ぎた。私達はその度に歓声を上げた。
中の2頭の「イルカ」が、船のすぐ前で海面から飛び上がり、コマの様にくるくると2~3回転しながら海に入った。見事だった。しかし、なぜあんなパフォーマンスをしたのだろうか。不思議だ。季節によっては、鯨も見られるという。
私達の船は大きめだったが、3~4人が乗った小さな船も3~4隻近くを通り過ぎた。

帰りは潮が満ちて来て水面が高くなっていた。そのため船底をこすらないぎりぎりの場所で停泊した沖合いの船から「プラスチック製の小型ボート」に私を含めた女性3人が乗って、船員2人が海の中を歩いて岸近くまでボートを引いてくれた。約2時間、本当にとても貴重な体験ができた。
残りの人達は、船のエンジンを外して更に岸に近づけてから、降りて自力で戻ったのだそうだ。
珊瑚が波に砕かれて出きた遠浅なので、ここに桟橋を建造すれば、もっと楽に乗り降りできるのにと思った。その内、できるかも知れない。
(海水に濡れる事が心配で、カメラも時計も持たなかった。残念ながら写真は無い)

シャワーしてからレストランで朝食を採り、12時まで部屋で休憩した。


                

その後、バスで「ボホール島」に戻り、レストランで「中華料理」を食べた。写真は料理のごく一部だが美味しかった。
 

「ボホール島」の教会などを見てから、再び夕方の航空機で初日の「マニラ」のホテルに戻った。
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海外旅行「フィリピンの旅」(9)

2016年02月04日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「ボホール島」観光≫(1)

4日目の朝も早朝起きてバスに乗り、港に向かった。その日は高速船で「セブ島」と「レイテ島」にはさまれた位置の「ボホール島」に向かった。庶民の足になっている船内は前回よりももっと混雑していて、椅子はほぼ満席だった。
2時間後の10;05に島の南西にある「タグビララン港」に着いた。

「ボホール島」は「フィリピン」で10番目に大きな面積の自然豊かな島だ。水田も広がっていた。

この島の観光資源は、世界で最小の原始猿「ターシャ」の存在と、島の中央部にある「チョコレートヒル」そして南西部に小さな橋でくっ付く「パングラオ島」の海岸だ。

上陸した時に全員に「ターシャ」のネックレスをくれた現地ガイドは40歳代の女性。大らかな性格とゆったりとした話し方が魅力的なガイドだった。
走り出したバスで彼女は話した。
「学校では「タガログ語」で教えるが、島民の多くは「ピサヤ語」を話す英語は幼稚園から教えている。
山道が多いので、この島には「タクシー」は50台程だが「4人乗り三輪車」は3000台もある。
アルコール分4%の「ココナツ椰子酒」は薬として飲まれるし、「バージンココナツオイル」も薬用で、最近、生産工場ができた。
バナナは野生で幾らでも生える。小中高校と9つの大学はあるが、病院がないので出産は自宅でする。
ここでとれる米は、1kg38ペソ(日本円では114円)だが味が良くない。日本の米は美味しいが、1kg195ペソと5倍も高い。

①「ターシャ・サンクチュアリー」
入り口を入るとそこは自然のジャングルだった。
ガイドに導かれて木々の中を進むと、ガイドが小さな声で「ここ!ここ!」と言って指を指した。細い小枝にしっかりと掴っていたのは、人のこぶし大しかない「ターシャ」だ。
大きな目は動かないので、横を見る時は首を180度回すのだそうだ。ストロボ撮影は禁じられていた。
餌はこおろぎ、バッタ、ゴキブリ、虫動物を食べるとか。全部で3匹の「ターシャ」と出会えた。骨だけの様な長めの指が珍しかった。
このセンターでは、8.1k㎡の敷地で100頭程を保護していて、職員の主な仕事は「ターシャ」の食べ物を捕獲する事なのだとか。
「ターシャ」の頭部はとても弱いので、檻に入れると頭部をぶつけて自死してしまうらしい。それで他へ移動させることができないという。
また、一度に生まれる子どもは1匹で、2年で大人になるという。天敵は山猫や大鼠で、平均寿命は20年だと話してくれた。

 

②「ロボック川のリバークルーズ」

「ボホール島」の南部を流れる「ロボック川」に行くと、川に大きな屋形船を浮かべたレストランになっていた。そこで昼食を食べてからリバークルーズの木造船に乗った。この船も、ボートを2艘並べた上に板を張って作った簡素なものだった。
ギターで弾き語りをする中年男性が、ずっと一人で演奏していた。

川辺には、ジャングルの中で自給自足で生活する人達の家々が点在していた。
上流へ登って行く途中、歌と踊り、バンブーダンスを披露する小屋があった。
その日は土曜日だったためか、前部で小中学生達が踊り、横や後ろで大人や高齢者が楽器を演奏していた。まさに村人が総出で観光に携わっているのだった。
気づくと船めがけて3人の男の子が泳いで来て船につかまるパフォーマンスをして、チップを求めるのだ。
こんな村人総出で観光客を持て成す光景は、私が今まで経験した事がなかったので、とても心が温まったし、子どもたちの逞しさにも触れられた。
 


 
 




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海外旅行「フィリピンの旅」(8)

2016年02月03日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「セブ島」観光≫

3日目は5;45に起床して7時にはホテル前から「トライシクル」に乗り「オルモック港」に行った。
まだ暗い早朝にも関らず、ホテル前の公園では賑やかな曲を大きな音で鳴らしながらダンス風の体操をしていた。暑い国だから日の出前にするのだと思った。
港から出る高速船に乗って「レイテ島」の西側にある「セブ島」を目指した。3時間弱乗った船内は満席に近かった。
「セブ島」に着くと、和食レストランで昼食を食べてから観光をした。

ガイドの説明では、かって海の底にあったサンゴ礁が隆起してできた島が「セブ島」だという。岩だらけで山も多いため、植物が育ち難いという。
椰子油の産地として、華僑が訪れる交易の町だった。
1521年にスペインの「フェルディナンド・マゼラン」が上陸した事が、その後1556年からの「スペイン統治」のきっかけになった。(「マゼラン」は、マクタン島で戦闘中に死亡した)
その後は、宗教のカトリック化、生活や文化、教会他の建築様式など様々な面で「スペイン」の影響が強まった。「スペイン」の統治は「アメリカ」が入って来て、お金で「フィリピン」を買い取る1898年まで342年間続いた。

①「マゼラン・クロス」
ここは「フィリピン」の「フマボン王」と「ファナ王女」そして臣下が洗礼を受けて初めてキリスト教徒になった場所で「サント・ニーニョ教会」に隣接していた。
「マゼラン」が「セブ島」上陸に当たって建てた木の十字架が洗礼の様子を描いた天井画に描かれていた。
 

②「サント・ニーニョ教会」
1565年に建てられた「フィリピン」最古の教会である。「サント・ニーニョ」とは「幼きイエス・キリスト」という意味だそうだ。
その日は揃って礼拝をする日らしく、教会や「マゼラン・クロス」の周りは敬虔な信者達でごった返していた。教会からはバック音楽と礼拝の言葉が大音響で流されていた。
私達が教会の中を見学して出て来たら、10歳前後の女児が手を差し出して付いて来た。誰もお金は上げなかった。私は菓子や飴を持っていたら上げたのにと思った。
 
       

 

③「サン・ペドロ要塞」
外敵の侵入を防ぐために海岸に建設された「フィリピン」最古の要塞だという。1565年に木造で建造が始り、1738年に堅牢な珊瑚石で改修されたらしい。
要塞の上部から見た「セブ島」の町は、「マニラ」第二の町に見えた。
また上部には、日本軍が置いたという「大砲」が、町に向けて設置してあった。


 
併設されている博物館には、古い「マゼラン」の似顔絵や1521年4月14日に「マゼラン・クロス」を上陸後初めて建てた当時の様子が描かれていた。
 

観光を終えて、「フィリピン料理」の夕食に向かった。ウエートレスの着ていたブラウスのデザイン、特に盛り上げた袖が独特だったので聞いて見た。 「イメルダファッション」だと教えてくれた。

また、舞台でピアニカとギターで演奏する中年の男性は、二人とも盲目らしかった。日本の曲をリクエストしたら、2曲ほど演奏してくれた。
翌々日も飛行場の待合室でもっと若い4人組の盲人演奏家が演奏していた。その案内役は足が悪い男性だった。
ガイドに聞くと、障害者の雇用を国で促進しているのだという。日本では空港の待合室などという閉鎖された場所では絶対に見られない光景なので、とても良いなと思った。勿論私は前の箱にチップを入れたが、演奏中、何人もの人達、中には子どももがチップを入れていた。
その日はセブ島のホテルに行って泊まった。
 



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久し振りの除雪作業

2016年02月03日 | 高齢期の生活
今朝起きてカーテンを開けてびっくりした。ずっと雪が降らなかった当地に、夜中に降ったらしい雪が、20cm弱積もっていた。
室内から見ると、通路には新聞配達さんの足跡だけが付いている。

 

気温を見ると-10℃。昨日よりは4℃も温かい。
まだ気温は低いけど、向かいの高齢女性が頑張って除雪しているので、しぶしぶ私も出て除雪する事に。

セーターの上にカーディガンを着て、その上にオーバーを着込む。首にはタオルを巻き、マスクと帽子を被って外に出た。
除雪用と決めている厚手の豚皮手袋も履いた。
ショベルで少しずつ、根気良く続けていたが、20分もしたら指先が冷たくなってジンジンと痛むので、一旦家に入り手を温めた。
もう一度出て除雪し、何とか40分程で完成。



この先も2~3度位、雪が来るかも知れない。今日程度の降雪量なら楽だが、例年一度に50~60cm降る事があったので、油断ならない。
隣家の山桜が、雪をまとって美しい。
        

不本意ながら、今朝は適度な運動ができた。残りご飯があったので、ベーコン、卵、玉葱、椎茸、人参でチャーハンを作って食べた。普段、朝からチャーハンなどは食べないのだが、軽い作業をしたせいか今朝は美味しく食べられた。
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海外旅行「フィリピンの旅」(7)

2016年02月02日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「レイテ島」観光≫(2)

③「マッカーサー上陸記念碑」
日本軍は侵略中「タクロバン」に臨時政府を置いてフィリピンを支配していた時、「抗日ゲリラ」が作られ抵抗を続けたという。
1944年10月20日に島に上陸した「マッカーサー」と米軍兵士7人が最初に上陸し、その後レイテ島を日本軍の手から奪還した。その時の様子を忠実に表す像が「レッドビーチ」の上陸地点に造られていた。

        

④「日本兵の記念碑」
バスが「リモン峠」に向かう途中、道路沿いにある碑の前で止まった。
降りると、それはある「日本兵」の記念碑だった。私達はその碑にお参りをした。
上下は同じ碑文だった。カメラに収めたのでそのまま紹介したい。〇は判読不明な字
『              記 念 碑
第2次大戦の傷跡が今なを残り 住民の半日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に 公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵陸軍大尉 山添勇夫 並びに勇士の遺徳を偲び 地元市民の手で記念碑が建立された
 1943年4月18日 この地点で戦死されました
    出身地 京都府与謝郡岩滝町〇田
    寄贈者 坂本喜計 河野アメ〇ア                    』

                     

⑤「静岡県レイテ碑」
次にトイレ休憩でバスから降りた際、バスの後方にこの碑があった。
静岡県が建てた慰霊碑なのだろう。50坪程あると思われた碑の土地の草が綺麗に刈られていた。傍に男性が立っていたので「この草はあなたが刈っているの」と聞くと「イエス」と答えた。彼に「フェルナンド」というサインをしてもらってから、私は感謝の気持のチップを渡し、握手してバスに戻った。
 

⑥「リモン峠小学校訪問」
山道をバスが1時間半も登っただろうか。やっと目的の小学校に着いたのは17時を過ぎていた。
大勢の子ども達が私達を出迎えてくれた。教室が3つしかない山奥の公立小学校だ。
説明してくれた40代の女性校長の話では、8時~12時半の幼稚園1時~5時の学校には5~17歳の子ども256人が在籍し、教員は7名である。
家庭事情があって昼通えない子どものためと補修授業のために5時半からのクラスもあるという。

途中退学者もいるが、70%は卒業後、高校に進学する。30%は小学校止まりであり、家事労働や牧畜などの山でする仕事に就くという。
私達はそれぞれ日本から持参した学用品などを校長先生に渡した。
最後に子ども達が合唱してくれ、急な坂の下で待機していたバスの所まで下りて来て、私達を見送ってくれた。
子ども達や先生との交流は50分程だったが、「フィリピン」の貧しい家の子ども達が通う山の小学校の実情を知る事ができた。私は子ども達の純真な輝く瞳を胸に、その夜のホテルの町「オルモック」まで降りたのだった。
 
           


            

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海外旅行「フィリピンの旅」(6)

2016年02月01日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「レイテ島」観光≫(1)

旅の2日目は、北部「ルソン島」の「マニラ」から南部にある「レイテ島」の「タクロバン」まで直線距離で600km余りを航空機で向かう予定で、私達はホテルをバスで6;20に出て8;20の国内線航空機に乗り込んだ。
この際、大きいスーツケースはホテルに預け、3泊4日の島巡りに必要な荷物だけを持参するように言われていたので、私はリュックサック、ショルダーバックの他に中位の手提げバッグを持った。
この航空機は混んでいたが、1時間25分の飛行時間で「タクロバン」に到着した。

「タクロバン」は人口18万人の都市で、木材の積出し港として栄えて来たが、2013年11月8日台風30号に直撃され、多くの犠牲者(死者3637人行方不明者1186人)を出し、その時「タクロバン」の町が壊滅状態になった事を記憶している方が多いと思う。
町の中心部に進むに連れ、台風の被害から立ち直ってない生活がなめこトタンとベニヤ板で作った住居に見て取れた。
 

          
途中の道路縁に台風で陸上まで流された船の先の部分が置かれていた。住民が再建材料として切り取って持ち去り、残ったのを展示する事にしたのだそうだ。

途中、バスは2回の検問を受けた。入り込んで欲しくない車輌をストップさせるためだそうだ。警察官の中に女性もいた。


          
「レイテ島」は、第二次世界大戦中、大勢の日本軍が侵略、駐留し、最終的に米軍との激戦地となり、日本兵の多数が命を落した島でもある。
また、現地ガイドの話によると「イメルダ・マルコス」の出身地でもあるそうだ。(彼女は、その年の美人コンテストで優勝し、「マルコス大統領」と知り合い、結婚したらしい)

「中華料理」の昼食を採り、午後からレイテ島の「戦跡」を訪ねた。

①日本軍の「トーチカ」
「トーチカ」は、浜辺に残されていた。地面から2m程低い場所にレイテ島で取れる硬い珊瑚の石を積み重ね、コンクリートで補強した厚い壁の造りで、「トーチカ」の中には、兵隊が4~5人入れる広さがあった。浜辺に向けて機関銃を撃つ横長の穴が開いていた。


          



②「アルハンドルホテル」
島で最古のこのホテルは、旧日本軍も利用していたという。二階に登ると古い写真が沢山展示されている中に、日本兵の写真もあった。


 



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海外旅行「フィリピンの旅」(5)

2016年02月01日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「マニラ市内」観光≫(4)

④「サン・オーガスチン教会」

ここもスペイン統治時代に狭い「イントラムロス」内に12もあったという教会の一つで、1606年に建てられた。珊瑚石で造られた堅牢さから、幾度もの大地震や第二次世界大戦の爆撃にも耐えた。
入り口の扉は木製で、左右に日本の「狛犬」風の飾りが置いてあり、珍しかった。
教会内部はバロック風に造られ、祭壇左側にはスペインの初代総督「レガスピ」が眠る礼拝堂がある。
 

 

⑤「バハイ・チノイ」

④の道路を挟む向かいにあるのが「フィリッピン華僑の歴史博物館」だったが、この日は結婚式があるらしく公開されていなかったので、入り口から見える建物を写して来た。
スペイン統治時代には華僑は迫害を受けるなどしたため、自衛組織ができていたという。1904年には「中華商会」ができた。


           

狭い通りの石畳も古そうだった。
      

朝羽田を発ち、午後には観光したので、初日だったが疲れた。ホテルに着き、宿泊客は19時まで無料だという19階のラウンジに行って飲食して寛いだ。
その後、レストランで夕食を食べた。メニュウが豊富で食材が新鮮、おまけに香辛料があまり使われていないため私には美味しかった。中でも完熟している「パパイヤ、パイナップル」が特に美味しく、巻き寿司、刺身などもあって満足した。
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海外旅行「フィリピンの旅」(4)

2016年02月01日 | 海外旅行「東南アジア」
≪「マニラ市内」観光≫(3)

②「サンチャゴ要塞」

この要塞は前回も少し書いたが、「イントラムロス」の北端にあり、北側がマニラ湾に続く「パッシグ川」に面している。
スペイン時代に中国人はスペインから敵視され、川向こうに居住させられたという。その地域には高層ビルが立ち並んでいた。


 
日本軍が「マニラ」を占領していた3年間には、周囲600m程の城壁に囲まれた要塞は日本軍の刑務所として使われ、ここで多くのフィリピン人(石碑によるとおよそ600人)が命を落したという。
水面下の地下牢に閉じ込められた「囚人」は満潮時に水死した。
 

珊瑚のレンガで造った要塞の入り口が壊れていたが、アメリカ軍の戦車が突撃した時にできたという。その際に大半が爆撃によって破壊された。
前庭には芝生が植えられ南国で見られる「プルメリア」の木が沢山の花を咲かせていた。近くには日本軍が設置したという「大砲」が残っていた。
 
             

現在はスペインによってここに収監されていた「ホセ リサール記念館」になっていて、彼の着ていた服や描いた絵などが展示されていた。
また「ホセ リサール」が、出口から歩かされて処刑場まで連れて行かれた時の足跡がペンキで書き記してあった。
            

③「マニラ大聖堂」

「イントラムロス」内にあるカトリック教会の大聖堂でスペイン時代の1571年に造られた。しかし、大二次世界大戦で破壊され、1958年に再建された。
「オランダ製のパイプオルガン」がある。ミサ中で中には入れなかったが、大勢の人が訪れていた。



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