花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

栽培講習会

2010年04月30日 | 家庭菜園・市民農園
今年の栽培講習会が終わった。
1回目は土作りについての講習で、2回目がじゃが芋、スイートコーン、豆類の栽培についてだった。この回では参加者が持参した土壌のPH検査も行なってくれた。
そして3回目は、実際に畝を作り、堆肥、石灰、元肥をやって植え付けをする実技講習の予定だったが、朝から強風と降雨のために、急遽、全員立ったままで納屋での講義と相談会になった。
気温が7~8度と凄く寒く、私も足元から震えが来たが、参加者のほとんどは最後まで2時間の講習を受けた。

昨年までは市から助成金があって、参加も資料も無料だったのだが、今年からその助成が打ち切られたため、講師が自腹を切り、立派な資料を用意してくれたのには恐縮した。
今年も常に参加者は25名前後いたし、私にとっても、今まで3年間、自宅の庭と休耕地の畑を借りて野菜栽培ができたのは、ひとえにこの講習会で学んだ事が力になってくれた。
そのことを考えると、市の財政が大変だとは言え、助成を打ち切ったことに対して納得できないでいる。

今日、畑の植え付けを予定していたが、雨天なので中止した。
もし明日、晴れたら、札幌から来る2人の友人と半年振りの農作業をしたいと思っている。

(写真は近郊のじゃがいも畑を、昨年、写したもの)
    

  

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農協とホームセンターで

2010年04月29日 | 家庭菜園・市民農園
この所、風が強く気温が低い日が続いている。
しかし、月末には農園の植え付けをしようと思っているので、農協の資材部に種芋を買いに行った。
昨年は4種類の芋を植え付けたが、6月の日照不足と低温で疫病が出たため、ほぼ全滅した。しかし、そんな中でも1種類だけが病気に強く、まあまあ収穫できたのだ。
今年の長期予報でも7月は低温らしい。そこで今年は、体験上知ったその芋を植える事にしたいのだ。
6~7種類売っていたが、私が欲しいのが無い。
聞いてみると、「同じ農協でも、それぞれの立地環境によって置く商品が異なる。」と言われた。
求める種芋は、さらに7km程離れた別の店舗にあると言われて、納得した。
その店は、農園に行く途中にあるので、植え付けの日に寄ることに決めた。

次に、ホームセンターに向った。
寒風の中、すでに外では様々な種類の花と野菜の苗や苗木が売られていた。
クリスマスローズの苗の傍に居たら、年配のご夫婦らしき人達がやって来た。
「この白い方、買おうか。」と男性が女性に言った。すると女性は、「そんな小苗なら、花が咲く前に死んでしまうよ。」と言い返したのだ。
確かにクリスマスローズは、根が成育して花が咲くようになるまで3年ほどかかる。否定された男性は黙ってそこを離れた。

     

今度は私は店内に入り、春植え球根の売り場に行った。
すると、私と同世代らしき女性から声をかけられた。
「チューリップの球根が見当たらないけど、何時植えたらいいのですか。」と言うのだ。
「秋になると売り出されます。私の場合は、10月に植えます。」と答えた。
さらに聞くと、昨秋ポットに植えたチューリップが、まだ芽を出さないので、植え直したかったらしい。
それで、どの位の深さに植えたかを聞いた。
大きな深いポットの底に植えたというのだ。多分、土の下20cm位に植えたようだ。
私は、「普通、球根類は球根の高さの3倍の深さに植えるといいようですよ。チューリップなら5~6cmの深さかな。それより深く植えたなら、今年は寒いから、芽が土の上に届くのに時間が掛かっているのかも知れないですね。土をそっと除けて見ては?」と話した。

また、彼女は百合が好きだといい、既に芽が出ているバーゲンの球根を買って植えたいと言う。
私は、「百合は秋に植える方が良いけれど、既に出かかっている芽を傷つけないようにして植えるなら大丈夫かも知れないです。でも百合は球根の上に根ができるから、球根は10cm程深く埋めた方が良いですよ。」と話した。
彼女は納得して、その球根を買う事にしたが、別れ際、「いろいろ教えてくれて有難う。本を書いても良いくらい詳しいですね。」と言われた。

私は、色々な人がいるなと思いながら、宿根草のオキナ草2色とバラの小苗1本、長さ10mの農業用不織布とその押さえを買ってから帰宅した。
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伯母の手伝い(2)

2010年04月28日 | 高齢期の生活
伯母は数年前より耳が遠いが、最近は緑内障ですっかり目も悪くなり、昨年辺りからTVをほとんど見なくなった。
所がNHKから3月、今年も2ヶ月毎に2,690円、年間にすると16,140円になる放送受信料の請求通知が来た。
3週間前に行った時に伯母にその通知書を見せられて相談されたので、早速NHKに連絡をした。
すると、案内係りに「例え見ていなくても、TVが設置されているなら支払って下さい。」と言われてしまった。
「放送法」では、見ているかどうかに関係なく、TVが設置されていれば自動的に放送受信料を払わなければならないのだ。

それで一昨日行った時に、もう1度電話をかけた。
「お客様番号‥‥‥の伯母の事で電話をします。高齢で耳が遠く、目も悪くなったので、TV受信機を先日、私の家に引き揚げました。今後、受信料はどうなりますか。」と。
すると電話の向こうの方が、「TVがなくなっても、他にパソコンなど、TVが受信可能な器具はないですか。」と言うのだ。
「伯母は高齢なので、パソコンなどは持っていませんし、この先、目や耳が良くなることは考えられません。」と答えると、「では、受信契約解約の申請書を送りますから、必要事項を書いて送り返してください。」と言われた。
勿論、目が悪いので、用紙は私の所に送ってもらい、伯母に代わって私が解約手続きを行う事にした。

   

これでTVの件も一件落着し、伯母にはとても喜ばれた。
差し当たり私は、伯母のボランテア・マネージャーという事になるのかも知れない。
あれこれ用事を済ませ、少し話をしていたら、3時間半があっという間に経っていた。「また来るから。」といっていつもより早めに帰宅した。

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伯母の手伝い(1)

2010年04月26日 | 高齢期の生活
今日はやっと晴れて来たので、3週間ぶりに施設の伯母の慰問に出かけた。
いつもながらその日の天候を見てから、行くのを急に決めるので、家にあり合せの食材で昼の仕度をした。
南瓜と小豆、切り餅があったので、南瓜の汁粉を作った。小豆は圧力鍋で20分煮たら、丁度良く柔らかくなった。
施設には朝食しか頼んでいない伯母のために、鶏もも肉、厚揚げ、コンニャク、竹輪、人参、竹の子があったので、それで煮しめを沢山作った。
11時頃着いたので、少しおしゃべりをし、まず伯母に昼を食べてもらった。

家を出る時、今まで施設の庭を借りて野菜作りをして来た伯母を手伝うつもりで、私は余っていた種と石灰、化成肥料も持って行った。勿論作業道具と長靴、手袋もだ。
この4月から伯母の施設の管理会社が変わり、事務員、介護職員も変わったので、改めて「時々お邪魔する姪です。宜しくお願いします。」と、挨拶をした。
そして、「高齢者には植物が好きで、見ているだけで元気になれる人が多いですが、伯母もその1人です。
ここに入所してから3年、庭の1部を借りて花や一寸した野菜を育てる事を楽しみにして来ました。
所が植物も人間と一緒で、肥料が無ければ育ちません。ここは肥料が全く無い痩せた砂土なので、今までは私の家から肥料や堆肥を運んで来ていました。
食堂の生ごみをコンポストで発酵させて堆肥を作る協力をしていただけないかと、前の管理人さんにも何度か話したのですが実現しませんでした。」と、私は一気に新しい事務員さんに話した。
彼は、早速、市役所に、コンポスト購入の助成等がないかを問い合わせてくれたようだ。今度は協力してもらえるかもしれない。

伯母のいる4階の窓から遠くに見える空知地方の山は、まだ雪で真っ白に覆われていて(写真)、外は寒風が吹き、寒かったが、昼からは伯母と長靴に履き替えて庭に出た。
私は伯母が指図した場所の土をスコップで起こし、石灰、肥料を施してから野菜の種を蒔いたり、種芋を植えたりした。

若い介護職員さんが、「畑仕事を教えて欲しい。」と言ったので、植え付け作業を見てもらったら、メモを取っていたのに驚いた。
作業は30分程で済んだ。
中に入ると、事務員さんが、「何を植えたんですか。」と伯母に聞いた。
伯母は、「じゃが芋、スナック豌豆、ほーれん草、蕪、大根」と、間違いなく答えていた。
介護職員さんは、「育つのが楽しみですね。」と、伯母に優しく言ってくれていた。(伯母は90歳で、その施設の最高齢者だ)

  
 
帰宅後、今度は私は自分の家の庭に出て作業をした。
まず、去年植えつけたニラが芽を出し始めたが、邪魔にならない場所に移植した。
それから、スナップ豌豆を蒔いた。また、うっかりしている内に芽が出てしまったじゃが芋を適当に植えつけた。

家に入ったところに、伯母からお礼の電話が来た。
今日は、思いがけず数種類の野菜の種を蒔くことができて、嬉しかったようだ。
今年は天候不順で野菜が高騰している折、食べられる新鮮な野菜が少しでも育ってくれたら、収入がほとんどない伯母にとっては大きな喜びなのだと思う。
芽が出揃った頃、また伯母を訪ねる積りだ。今日は、充実した1日だった。


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娘が近くに

2010年04月20日 | 日記
2年間、遠くで働いていた子どもが、4月の異動で札幌に越して来た。
内示後の3月18日には、一緒にアパート探しに付き合った。
結局、JRと地下鉄の両方を利用できる駅から徒歩で3分位の所に、鉄筋コンクリート造のしっかりした1DKを見つけた。
20日からは私が旅行に出かけたので、4月初めに越して来た時、掃除、荷物の受領などを手伝った。重いものを持ったので、2~3日腰が痛かった。
しかし、子どもはもう数回目の転勤のため荷作りも慣れたもので、何度もあったらしい送別会の合間に1人で全部梱包したのを見ると、我が子ながら大したものだと親馬鹿な気持ちにもなった。
私の住まいからは車で30分もかからない場所なので、今までよりは家に来るようになった。
食事が目的なのだろうが、近況を話したりするのは楽しいし、ほっとする時間なのである。

また2~3年後には、どこかへ転勤してしまうだろうが、近くにいる間は1人暮らしを側面から支えてやりたいと思う。
ただし、、彼女の自立した生活を邪魔しないように、そこは決してやり過ぎないようにしたい。
そんな訳で、今年は少し多めにミニトマトやレタス、長ネギなどを育てたいと思い、プランターに種を蒔いて苗作りを始めたが、気温が上がらず、さっぱり苗が育たない。どうしたものだろうかと思っている。

 (写真は3月下旬から1ヶ月間、咲き続けている君子ラン)
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フランスの旅(14)

2010年04月16日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《最後はルーブル美術館見学》
7日目は、パリの最終日だ。
シャルル・ドゴール空港の飛行機が19時10分発なので、朝から郊外のホテルに集合する16時までが自由行動だった。
フランスは初めてという友人と相談した結果、ルーブル美術館を見ずに帰国するべきではないと、3度目になる私も同行することにした。

8時半にホテルを出、バスに乗り、美術館前の停留所で降りた。
ルーブル美術館のガラスでできているピラミッドに、中央入り口があった。
そこからエスカレーターで地下に降りると、チケット売り場が3箇所あって、日曜日で混んでいたがすぐに買えた。

美術館はとにかく広く、展示品も2万6000点という多さだが、私たちは1階の古代オリエント・エジプト・ギリシャ・ローマ・アフリカ・アジアと、石像、彫刻などの展示品を発掘年代順に見て行った。
石像はどれも大きく、何度見ても圧巻だった。

3階のヨーロッパ絵画を巡る頃には、次第に疲れが出て来た。
中世の絵画は宗教画が多く、聖書から題材を取って書いた絵が多いため、どれも似ていた。
その頃の画家は、教会や王室、貴族からの求めに応じて絵を描いたからなのだろう。

モナリザやミロのビーナスの前には、以前来た時にはなかったロープが張られていて、その前に大勢の人が詰め掛け、幾重にも人垣ができていた。
私達もその中に入り込んで、フラッシュ無しなら許される写真を撮った。

結局、途中、サロンで軽食を食べた時間を除き、4時間あまりも見学した事になる。
展示の全コースは20kmに及ぶそうなので、私たちは急ぎ足でそのほぼ全部を駆け抜ける様にして見たということになる。
もし、ツアーで来たとしたら、有名な作品だけを1時間で見回って終わるのだから、自分で来た方がチケット代だけでゆっくり楽しめる利点があるのだ。

それにしてもパリの美術館などのチケット代は安い。
オルセー美術館が7ユーロ(900円)、ルーブル美術館9.5ユーロ(1200円)、オペラ座見学9ユーロ(1150円)なのだ。
作品の数から考えると、ルーブル美術館のチケットは破格値だと言っても良いだろう。

(以前にルーブルに来た時は、日曜日は無料だったと記憶している。その頃は、あちこちの展示室にキャンバスを立てた画学生がたくさんいて絵のスケッチなどをする姿があったのだが、今回はそんな姿は見られなかった。混み合う曜日は禁止されたのだろうか。
そう言えばオルセイ美術館では、30人位の子どものグループが3グループ、別々の会場に居た。全員が絵の前に座って、先生らしき人の熱心な説明を聞いていた。(外国でこうした光景に出会うと、子ども達が全く私語をし無い事を私はいつも不思議に思うのである)
土曜日の午後だったので、ひょっとしたら社会教育の絵画グループかも知れない。若い時から本物の芸術に触れられる彼らは幸せだと思った)

  ( ルーブル美術館とオルセイ美術館の間にあるセーヌ川のカルーゼル橋)
    

無事に自由行動を終え、オペラ通りのバス停から予定通りバスでホテルに戻った。
帰国便の航空機は、パリ→ミュンヘン→上海→成田と経由したが、成田に着いたのが20時40分だったので、私たちだけ成田にさらに1泊してから9日目の午後に北海道に帰宅した。
(パリから成田まで航空機に乗っていた実質搭乗時間は15時間弱、乗り継ぎと待ち合わせ時間を合わせると17時間かかった。乗り継ぎの際の待ち時間は少なかった)

今回は、観光客を狙うスリが多いフランスなので、庭仕事用のグレーのジャンバーを引っ掛けて出かけた。お陰で私たちは危ない目には遭わなかったが、ツアーの数人はすられそうになったと聞いた。
そして春の寒くも暑くもない季節に、観光客が少ない田舎の世界遺産と自然をゆったりと見られた旅だった。(旅行費用も、観光シーズンの初めなので比較的安かった)
前回のオーストラリアのように土産屋に連れて行かれることも全く無く、どこでも時間をめい一杯使って観光することができた。
(パリの市内見学以外、現地ガイドを雇わず、ほぼ全日程を添乗員が観光ガイドもしたからかも知れないが‥)
随所で自由時間もあり、そんな時は気心が知れた友人と好きなように行動し、本当に楽しめた良い旅だった。
また機会があったら、今度はまだ行っていない郊外の町へ、さらに足を伸ばしてみたいと思ったりした。

そして、こんなに長く旅行記を書いたのも初めての事だが、私と一緒にブログで今回の旅を辿ってくれた来訪者の方達に、旅の楽しさとフランスを訪れる魅力が伝わったなら幸いである。(完)




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フランスの旅(13)

2010年04月15日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《オルセイ美術館》
6日目の午後、オペラ座見学の後は、友人はベルサイユ宮殿のオプショナルツアーに参加した。
それで1人になった私は、まだ行っていないオルセー美術館に行くことにした。

地図を見るとオペラ座からは2km程なので、歩いて行くことにし、まずルーブル美術館を目指した。
幾つかある門の一つから入り、庭を抜けるとセーヌ川畔に着いた。①
川の向こう岸に見えるのが、目的のオルセイ美術館だ。②
道路脇の公園に植えてある木蓮の蕾がふくらんでいた。③
オペラ座からオルセイ美術館までは30分で着いたが、すでにチケットを買う人が200人以上並んでいて、買うだけでも30分もかかった。その時間を利用して、私はすでに200枚は写したカメラを見ながら、駄目な写真をずっと削除し続けた。

 ① ②

  ③

しかし中に入って見ると、元々は1900年のパリ万博時にオルセー駅舎として建てた建物を、1986年に美術館に模様替えしたものなのに、ドーム型の建物の内装が素晴らしいのにまず感嘆させられた。
(美術館内は写真撮影は禁止されている)

ここには1848~1914年に製作された印象派の絵画、彫刻が収められていて、ルノワール、ドガ、マネ、ルソー、ミレー、セザンヌ、ゴーギャンなど、美術の教科書に出てくる絵のまさに本物が目の前に所狭しと展示されていた。
ただ、ゴッホの部屋は閉鎖されていた。多分、ゴッホは稼ぎ人だから、どこか外国に行っているんだろうなと思った。
「晩鐘」などのミレーの作品の実物を今回初めて見て、その静寂に満ちた農民の祈りに感動した。
私が好きなセザンヌの作品も多く、どれにも見入ってしまった。
私は疲れると椅子にかけて時々休みながら、2時間余りもたっぷりと楽しんだ。
外に出て入り口を見たら、相変わらず大勢の人が並んでいた。

オペラ座の近くまでまた歩いて戻ったが、途中でスーパーマーケットを見つけた。
調味料売り場に、醤油が数種類並べられていた。「キッコーマン・すし、さしみ」「醤油」と書いてあるのが500円していた。また「豆腐みそスープ」というのもあり、600円していた。④
私はチョコレートに包まれているキャンデー、コニャックチョコレートを少し買い、友人との待ち合わせ場所に戻った。
                                   
 ④

友人とフランス料理でも食べようとしてレストランに入ったが、とても混んでいた。やっと席に案内されたが全く落ち着かない場所だった。それでそこは諦めた。
今度は、近くにあったピザ屋に入った。
ところがそこも混んでいて、50分位では無理だと言われ、添乗員と一緒にホテルに帰るのに待ち合わせた時刻には間に合いそうにない。仕方なくそこも出た。
結局、テイクアウトの寿司店を見つけて生寿司のパックを買い、ホテルに持ち帰って食べたのだ。(この寿司には、別パックでサラダが組み合わされていたのに驚いた。得をした気分だった)
土曜の夜のパリ中心部では、たっぷりと時間が取れなければ、レストランは無理だと言う事が分った。




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フランスの旅(12)

2010年04月14日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《オペラ座》
全体のツアーはオペラ座の傍にある「三越」で解散したので、早速友人と2人でまだ見ていないオペラ座の見学をする事にした。
オペラ座は、公募で選ばれた35歳のシャルル・ガルニエが設計し、1860~75年の15年間に及ぶ工事で完成した建物だが、途中、普仏戦争、帝政の崩壊、パリコンミューンなどで度々工事は中断されたという。
土曜日だったせいか、見学者の入り口から入ると、チケットを買う人達が大勢列をなしていた。私は少し躊躇したが、見たい気持ちが勝って並んだ。

メインファサード(出入り口)は2000年に改修されたらしいが、訪れた人に上演されるオペラへの期待を掻き立てるかの様に、美術品のような美しい広間と階段、そして天井絵で飾られていた。①(フラッシュが禁止されていたので、写真はどれも良くない)

2階のグラン・フォワイエ(ロビー)は長さ54m、幅13m、高さ18mと広く、柱、壁、天井のいずれもが、ルイ14世のベルサイユ宮殿・鏡の間とは比べ物にならないほど芸術的に飾り立てられ、贅が尽くされていて驚いた。②
その外側には、オペラ通りの賑わいを見渡せるロッジア(回廊)が巡らされていた。

 ① ②

1階の舞台では、丁度、舞台造りが行なわれている最中で、幕が開いていた。
パンフレットには、幅48.5m、舞台開口部16m、高さ60m、奥行き27mと書かれているが、2階側面の貴賓席から見た舞台は小さく見えた。
1900席あるという客席の20m上にある天井は、シャガールの美しい天井画で飾られていた。③(この写真だけ、こっそり違反してフラッシュをたいた)

オペラ座は、当時のフランスの政治力、経済力と、建築家、芸術家達の総力を結集した舞台芸術の拠点として作られ、今なおその価値が高い文化財なのだった。
何時の日にかまたパリを訪れる機会があれば、是非ここでオペラを鑑賞したいと思った。
最後の写真は、オペラ座の前のオペラ通りから建物の全景を撮影したものだ。正面2階がロッジアである。④

 ③ ④


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フランスの旅(11)

2010年04月13日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《パリ市内観光》
今回の地中海沿岸の町ニースから少しずつ北上したフランス旅行も、5日目の夜、ついにパリに到着した。
私がパリを訪れるのは3回目。
前回は28年も前の事だが、ツアーでノートルダム寺院とベルサイユ宮殿、ルーブル美術館を見学し、オプショナルで素晴らしいリドのショーを見た。
また自分でエッフェル塔と凱旋門に上り、サクレクール寺院とその周辺を散策、シャンゼリゼ通りやオペラ座界隈でウインドウショッピングをした経験がある。
それで今回は、オプショナルツアーは申し込まず、自分で見て歩くことにした。

6日目の午前中2時間は、バスでパリの市内観光があったが、バスが市内を余りに早く駆け抜けたので、多分、初めての人には、対峙するシャイヨー宮殿で降りて写真を写し、眺めたエッフェル塔以外は、それ程記憶に残らなかったのではと思った。

曇り空の下、動くバス内から写した写真なので、ピントや明るさが今一つなのだが、①1900年のパリ万博記念館・グランパレー 
②1779年に作られてルイ15世に捧げられ、パリ市民革命時はルイ16世や王妃マリーアントワネット達がギロチンにかけられたコンコルド広場、その中に立つ高さ23mのオベリスクは、1831年にエジプトのモハメド・アリが贈った。(象形文字でラムゼス2世の功績を書いてある)

 ① ② 

③コンコルド広場の豪華な噴水 
④ナポレオンがフランス軍に掲げるために建立を命じ、1836年に完成した凱旋門。
高さ50m、幅45m。アーチ下では1920年以来、無名戦士の墓が作られ、慰霊の火が焚かれている。9ユーロ(1150円)払って展望台まで階段を上る事ができる。
ドゴール広場に立つ凱旋門からは、12本の道路が放射状に延び、市の区画が整備されている。
(石造りの町は、建物が建ってからではその撤去が難しい。そのためだと思うが、道路や公園、鉄道などの町造りを予め計画的に設計したと思われる)

 ③ ④ 

⑤バスを降りたシャイヨー宮殿から、セーヌ川を挟んで800m程向こうに聳えるパリのシンボル、高さ320mのエッフェル塔を臨む。1889年のパリ万博時に建造された。
第2展望台に行くには、4.5ユーロ(580円)払って自力で階段を上がるか、8ユーロ(1000円)払ってエレベーターに乗るかである。エレベーターは、途中で乗り継ぎをし、第3展望台まで行っているが、13ユーロ(1650円)かかる。
見ると結構自力で登る人たちの姿があった。
⑥傍を2階建ての観光バスが走っていた。

 ⑤ ⑥




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フランスの旅(10)

2010年04月12日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《ノルマンデイ地方-モン・サン・ミッシェル》
ロワールの城を見学した後、その日はトゥールで宿泊をした。
翌朝、トゥールから291km北北西のモン・サン・ミッシェルに向ってバスは走った。
休憩を入れて4時間半かかって到着した。
先ず近郊のレストランで昼食を食べてから、世界遺産、モン・サン・ミッシェルに向った。
モン・サン・ミッシェルは、708年にノルマンディの大司教が「この島の頂上に礼拝堂を作れ」という大天使ミカエルのお告げを受け、イギリス海峡に面した小島の岩山の上に作った修道院だと言われている。
巨大な建造物なので、数百メートル手前で全員バスを降り、全景をカメラに収めてから傍の駐車場に行った。①

駐車場でバスを降り、入り口から中へ入った。
入り口の門は、砦のように堅固にできていた。②
門に続く通りの両側には、みやげ物店やレストランが並んでいた。③

 ① ② ③

やがて上へ上る狭く急な階段を260段ほど上り詰めると、④ 高さ80mの岩の上に教会が建てられていた。
その尖塔を見上げると、大天使ミカエル(フランス語ではミッシェル)の像が点のように小さく見えた。⑤
その姿は、教会の中の実物大のレプリカで見る事ができた。その3mの高さの像は、貴公子のような雰囲気の天使が悪魔の化身、龍を退治する姿だった。⑥

 ④ ⑤ ⑥

私たちは教会の中に入り、上層から中間層、そして下層と見学した。
上層には列柱に囲まれた中庭があり、その回廊は修道僧の祈りと瞑想の場所だった。⑦
60人も入れる大きな食堂があったが、近年は修道僧が十数人と激減し、別の小部屋を使っているという話だった。
世界的に有名なこの教会にも、今や後継者不足という現代的な問題が起きているらしかった。

門を出てから、モン・サン・ミッシェルを振り返って見た。⑧
こんなところに堅固な修道院を建てた当時の建築技術の素晴らしさと、教会の権力に私は改めて思いを馳せた。
ただ、「神のお告げ」にはどう考えても疑問が残る。
多分、大司教自身がこの地を見て礼拝堂の建設を思いつき、その記憶が基で夢を見たが、膨大な建築費、労力がかかる事でもあり、周りを納得させる方法として「神のお告げがあった」と言ったのではと、私は勝手に想像するのである。

 ⑦ ⑧

見学後、360kmの距離を5時間かけて首都パリに行った。
ホテルに着いた時は20時半で夕食も遅かったが、その夜は遠いモン・サン・ミッシェル迄行って来たという満足感に浸ったのだった。








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フランスの旅(9)

2010年04月10日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《ロワール川周辺の城》
ロワール地方は、全長1020kmものロワール川が東西に流れ、美しい渓谷と森がおりなす景観が古くから王族や貴族たちに愛され、幾つもの城が建設されて来たところである。
パリにも近く、オルレアン、ナントといった歴史上有名な町もこの地方にある。
今でも城の幾つかが世界遺産に指定され、公開されている。
私は二十数年前にパリから1日がかりで城の幾つかを見学した事があるが、今回は「6人の女性の城」とも言われているシュノンソー城を観光し、その後、アンボワーズ城には写真撮影に立ち寄っただけだった。

シュノンソー城に着いた時に、初めて雨が振り出した。
この城は、シュール川をまたいで建てられていて、外観が白鳥に例えられる程優美な美しさで人気があるためか、入場券売り場の周辺は観光客で溢れていた。

この城は、1521年に財政出納官ボイエの妻が完成させた。
その後1547年に当時の王、アンリ2世が愛人ディアーヌ・ド・ポアチエに贈ったとされている。
王が暗殺された後、正妻カトリーヌ・ド・メディシスが愛人から取り上げて3人目の城主となった。
その後も引き続き女性が持ち主となり、今は個人の所有になっているという。
(日本では女性が経済的な所有権や取引の権利を持ったのは、第二次世界大戦後の事だと思われるが、フランスでは早くから、女性にも男性と同じ経済的な権利が与えられていた事が分かる。
日本では現在もなお、生きるための裏づけである財産権が女性にも必要だ、と言う事が十分に認識されているとは言い難いと思う。)

しかし残念なことに、丁度、外壁の一部が工事用のシートで覆われていて、今回はその美しい全景を見る事はできなかったが、内部の調度品は以前来た時とあまり変わっていなかった。ただ、地下の台所の炊事用具は、新しく充実していた。
地下は川の流れの中に建っているため、夏でも涼しい天然の冷蔵庫となり、食品の保存に適する建て方がされているのだ。
①全景 ②1階の礼拝堂 ③2階のガブリエル・デストレ居室 ④⑤地下の台所の一部
(室内はフラッシュが禁止されているので、どれも暗い写真となっている)

 ① ② ③

 ④ ⑤ 

私は以前に見学した事があるのだが、今回は遠くからの写真撮影だけだったアンボワーズ城である。⑥
ガイドブックによると、この城は15世紀末、古代ローマ時代の砦をもとにシャルル8世が造り、ルイ12世、フランソワ1世が増築した。
1519年にここで死んだレオナルド・ダ・ビンチは、建築に多大な貢献をしていて、傍の礼拝堂に埋葬されているといわれている。
1560年には、新教徒1500人がここで虐殺されたという歴史も持っているとのこと。
権力者の栄光と血で染められた歴史を見て来た城なのである。

 ⑥




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フランスの旅(8)

2010年04月09日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《プールジュ》
リヨンから北西380kmのところにあるロワール地方の町プールジュまでは、3回の休憩を挟みながら約5時間のバスの旅となった。
窓外には牧草地と農地がどこまでも広がっていて、フランスがヨーロッパの農作物生産国だということを改めて確認させられた。

面白い事に、のんびりと草を食べている牛の大半は、真っ白い毛の肉牛だった。山羊や綿羊も見かけた。
本当にのどかな田園風景だったが、不思議なことに北海道で見かけるような立派な牛舎はなかった。(走るバスの窓越しに写した写真①を拡大すると、左側に白い牛がいる)
多分、気候が温暖なので、家畜を年中、草地で放し飼いにしているのかも知れないと思った。それなら経営コストが低く済み、製品を安く供給できるに違いないのだ。
日本にもフランスからチーズ他の乳製品が輸入されているが、パリのスーパーで見たカマンベールチーズは、日本の半額で売られていた。

 ①

プールジュは、ロワール川の支流のイエーヴル川に沿って発展した町で、古代ローマ時代、カエサルがガリア戦記に書いた紀元前50年頃の時代に開かれたようである。
この町では、世界遺産、サン・テチエンヌ(プールジュ)大聖堂を訪れた。
1198年に着工された大聖堂はゴシック様式で作られ、37.1mもの高さの天井と多くが13世紀に作られたという繊細なステンドグラスが見事で、誰でもが厳かな気持ちにさせられる空間だった。②③
イエスキリストを抱く聖母マリアの座像の後ろにあるステンドグラスからは、柔らかな明るい光が射しこんでいた。④

 ② ③ 


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フランスの旅(7)

2010年04月08日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《リヨン》
ポン・ジュ・ガールから240km北のリヨンまでは、バスで3時間の旅だった。
途中、休憩が2回あった。
添乗員の説明では、「フランスの労働法では、バスの運転手は1日最大10時間労働と決められていて、10時間以上走らなければならない場合は、途中で運転手を交替させなければならない。
続けて4時間半乗る時は、15分と30分の休憩が必要。時々、警察の検察があって、タコメーターを調べられるので違反できない。」と言っていた。
運転手の労働条件を守る事は安全運転につながり、それは結局、乗客の命を守る事になるので、フランスのこうした厳しい規制は好ましい事だと思った。この点、日本はどうなのだろうか。長距離トラック運転手の過労による事故は多いらしいが‥。

リヨンには夕方着いた。
まずフルビエールの丘に行き、ローヌ・アルプ地方の中心都市、リヨンの町を一望した。
この町は、丘の下を流れるソーヌ川と、その向こうを流れるローヌ川に沿って発展した町だが、丘とその麓の旧市街地区には、14~15世紀に建てられたままの赤い屋根と石造りの家がぎっしりと立ち並んでいた。①
人々は数百年前作られた石作りの建物に、設備や内装を変えながら今も住み続けているのである。
ローマでは、コロッセオに今でも住んでいる人がいる。
それに引き換え日本の家は、木材と紙、藁で作られて来たので火災に弱く、今でも家は25~30年保てばいいという考え方になり、余り長期の財産にはならなかった。
近年は建築材、建築工法が進歩したので、日本でもこれからはせめて50~100年住み続ける事ができるような資産価値のある家を建て、代々そこに住むという住み方の変化が私は必要だと思っている。

フルビエールの丘には、壮大なノートルダム寺院が聳えていた。
1896年に創建されたマリアを祀る寺院であり、尖塔上の黄金に輝くマリア像はリヨンの町を見下ろしていた。
中に入ると、派手で絢爛豪華な金色の装飾が施されているのに驚かされた。無宗教の私から見ても、祈りの場でもある教会に相応しい雰囲気なのか疑問を感じた。②③

 ① ② ③

丘の麓に下りて世界遺産になっている歴史地区を散策した。
小さい児童公園があった。夕方のせいか、子どもの数より親の数が多く、しかも、日本では見かけない父親の姿が目立った。
フランスも日本と同じく近年少子化に悩んだが、国の政策によって数年前から子どもの出生率が上向きに転じた国である。そうした市民生活の一端を見た思いがした。④

歴史地区の路上に駐車している車である。車間距離は10~20cmしかないのに驚いた。どうやって抜け出すのだろうか。
車の中に長さが1.5m位しかない極小カーが横向きに止めてあった。これなら直ぐに出られると思った。やはり小型車が多いようだった。⑤
交通警察が検察をしているのも見た。

 ④ ⑤ 
 
この地区の中心が12世紀に建築が始められたというゴシック様式のサン・ジャン大聖堂だ。⑥
中に16世紀に作られ、今も時を刻み続ける立派な天文時計があった。⑦

 ⑥ ⑦







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フランスの旅(6)

2010年04月06日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《ポン・ジュ・ガール》
アヴィニヨンの西方25kmにあるポン・ジュ・ガールには、世界遺産の水道橋がある。
バスで向う途中の道路沿いに、ぶどう畑が広がっていた。これから新芽が生き生きと芽吹くように、短く剪定された状態で並んでいた。この辺りの南仏は、古くからぶどう酒造りが盛んに行なわれて来たのである。①
夕食時、ポリフェノールが含まれる赤ワインを飲んでみたが、辛口で美味しかった。

ポン・ジュ・ガールに着き、バスを降りて5分ほど歩いて行くと、やがて水道橋が見えてきた。
この橋は紀元40~100年に渡り、60年間を費やして作られた全長50kmの水道の一部として造られたものだ。
丁度、ガルドン川が流れるこの地が谷状になっているために、高さ50mの巨大な水道橋を建設して上部に水を流したのだ。
当時の人達にとって水を得る事がいかに大切だったかを物語る橋だが、建築デザイン上も見るものを圧倒する美しさと当時のローマ帝国の力を1900年後の今に誇っている。

橋の手前には、春風を受けてアーモンドが満開の花を咲かせていた。
私と友人は、橋の2階部分を通ってガルドン川の向こう岸に渡り、写真を撮ってから戻って来た。
写真には橋を渡っている人が小さく写っているのだが、分るだろうか。
近づいて見ると、無数の石を一つ一つ積み上げて造り上げた事が良く分かった。上の4階部分に遠くから引いた水を通したのだ。
人類の祖先の知恵と創造力、工事に加わった多くの人たちの労苦を思って感動し、何時までも見ていたいと思った。②③④⑤

 ① ② 

 ③ ④

 ⑤

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フランスの旅(5)

2010年04月05日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
《アヴィニヨン》
アルルの観光を終えてから、36km離れたプロバンス地方のもう一つの町、アヴィニヨンに向った。
この町は、1309年に当時のローマ法王クレメンス5世が、ローマでの派閥争いを嫌い、ここにカトリックの法王庁を建設した町なのだった。
ガイドブックによると、その後7代、70年間に渡って世界の教会の頂点に立った町なのである。
(ご存知のように、現在は、イタリア・ローマの中のバチカン市国に法王庁がある)

自由行動時間があったので、他の人は行かなかったが、私と友人は早速、法王庁を見学した。
15000㎡ある建物は、中庭を囲んで3階まで多くの部屋が造られていて、どの部屋も天井が高く、要塞の様に強固で壮大な造りとなっていたのには驚かされた。
しかし、1789年のフランス革命時に、権力の象徴と見られて攻撃され、内部の調度品や美術品の多くが破壊、略奪されたのだという。
かって私が、パリ郊外にある世界遺産、ベルサイユ宮殿を見た時、最高権力者ルイ王族達の想像を絶する絢爛豪華な生活振りを知り、フランス革命が起きた理由の1つが理解できた様に思ったことがあった。
しかし今回、この世界遺産を見て、私は、全ての文化遺産は人類の英知を結集した遺産なのだし、人類のかけがえのない歴史の語り部なのだから、例えそれが勝利者にとっては敵の財産であったとしても、決して破壊するべきではないと思ったのだった。
革命後、アヴィニヨンはフランスに統一されたのだという。

写真①法王庁入り口 ②階段下から中庭を見る ③大広間 ④小部屋に置かれていた石棺の台座 ⑤扉上部の聖人のレリーフからは、首が全て失われていた

 ① ② ③

 ④ ⑤

次にこの町で有名なサン・ベネゼ橋(アヴィニヨンの橋)に行った。
12世紀、羊飼いベネゼが「ローヌ川に橋を架けよ。」という神のお告げを聞いて、とうとう建設した橋がこの橋の始まりなのだそうだ。
その後何度も川の増水で流されるたびに再建されたが、12世紀に崩壊した後は橋脚を4つ残してそのままになっているのである。
「♪ 橋の上で踊ろうよ踊ろうよ ♪♪ 橋の上で輪になって踊ろう ♪」の歌が聞こえて来た様に思った。⑥

 ⑥

30分程の自由時間に時計台広場を散策した。
時計台は市庁舎の屋根にあった。15世紀に作られた古い物だが、残念ながらからくり人形が動く仕掛けは見られなかった。
市庁舎の前にあるメリーゴーランドは、子ども達に大人気のようだ。⑦⑧
その隣にはオペラ座があった。⑨
アヴィニヨンは古い町だが、市民は精神的にも豊かな生活を営なんで来た町なのだった。

 ⑦ ⑧ ⑨
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