花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

通院検査日

2011年05月28日 | 医療・健康問題・食生活
一昨日、1年ぶりの乳がんの検査日だった。
8時前に家を出てJRで札幌に向かった。通勤通学時間だったので電車は混んでいたが、優先席に座っていた3人から、座りませんかと声を掛けられた。その時私は元気だったので断ったが、さぞかし高齢者に見えたのかも知れないと複雑な気持ちだった。
札幌駅から地下鉄を乗り継いで病院前まで行く事もできるのだが、歩いて行っても25分かからずに行けるため、今回も歩いた。
病院に着いた時にはかなり汗をかいていた。

受付を終えて乳腺外科に行くと、先にマンモグラフィーを撮ってくるように言われた。
今回も左右の乳房を正面と横1回ずつ撮影機械で挟み込んで撮影したが、それぞれ短時間とはいえ辛かった。
その後、1時間以上待って主治医の診察があった。主治医は超音波で診察をしてからマンモグラフィーの映像と合わせて見て、「異常はありません。また1年後に来てください。」と言った。結果を聞くまで不安だったが、良かった。
最後に採血をした。いつもなら血管がどこかよく分からなくて採血者泣かせなのだが、体温が高くなっていたために細い血管が浮き上がっていて、1度で血管を探り当ててくれた。
血液検査の結果は、3週間後に郵送で知らされる。

支払いを済ませてから、また駅まで歩く事にした。
今年初めての良い天候で、気温もぐんぐん上がっていて暑い位だったが、沢山の人が集う大通公園に寄って初夏らしい花壇と噴水を見た。
パンジーが色とりどりに咲いていた。花の植え替えをしている人たちもいた。こういう人たちが、札幌の名所である大通公園の季節ごとの美しさを支えてくれているのだ。
見学旅行で来たらしい女学生、散策を楽しむ高齢者、乳母車を押して花巡りをしている若い人達などで賑わっていた。
  

札幌は丁度ライラック祭りだが、肝心のライラックはまだ3分咲きだった。私はのんびりと写真を撮った。
いつもより鳩の数は少なかったが、帽子に何か落ちて来たので見たら、鳥の糞だった。帽子を被っていて良かったのだ。

         

  

その後、北側の道庁に向かった。前庭の八重桜が満開で、池に花びらが浮かんでいた。

                  

門の傍には幾つものテントが張られ、北海道食の物産展が行われていた。うどや蕗、豆類、トマトジュースなどが売り出されていて、大勢の市民が買っていた。私は色々な豆を売っていた店で、その豆の利用法だけを聞いた。

都心で働く娘の昼休み時間に合わせて待ち合わせ、一緒に昼ご飯を食べてからJRで帰宅した。
その後、近所に住む1人暮らしの高齢女性宅に行き、約束していた通り20~30分程庭の草取りのボランティアをした。
夕方のニュースでは、札幌の最高気温が今年初めて25度だったと伝えていた。暑かった筈だ。
夜寝る前に歩数計を見たら15000歩を越えていた。多少疲れたが、良い通院検査日の1日だった。



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中国黄山の旅(6)

2011年05月13日 | 海外旅行「中国」
最後の見学は「河坊古街」だった。ここは2004年から開発保護された宋代から清代に繁栄した商店街で、明代~清代の古い建物が保存されていて、当時の賑やかな雰囲気を疑似体験できる所である。
30分自由時間が与えられたので、古街の中心まで行って見た。
お茶屋、呉服屋、菓子屋、玉石店、雑貨店などが軒を連ねる通りは賑やかで、金銭と子宝に恵まれそうな金ぴかの布袋大仏の前では写真を撮る人が絶えないようだった。またレトロな建物が多く、古代の服装に身を包んだ餅売りや彫刻があちこちに置いてあって、時間を忘れて楽しめた。
文化大革命の頃、毛沢東が紅衛兵を使って貴重な歴史的文化遺産を破壊したが、今の中国では様々な遺跡や文化遺産の保護に国を挙げて予算を付け、取り組んでいることが見て取れた。中国がそれらの価値に気が付き、ユネスコが後押しをしていることは良い事である。

  

 

夕食後は、オプショナルで「西湖の夜歌舞ショー」を見に行った。4列目の席に座って、目の前の舞台で繰り広げられる杭州の歴史をテーマとした華やかなショーを見たが、十分に楽しめるものだった。

  




杭州市のホテルは12月に2泊したホテルだったので、5日目の朝は早めに起きて娘を誘い、6時に付近を散策した。
前にも行った市場では、既に商いの準備をしていた。肉屋が大ナタで豚肉を切り分けていたので写真を撮らせてもらった。
通りに朝食用の屋台が色々出ていた。娘が買った鶏卵とひき肉入りのパンケーキが美味しかった。

  

朝食を済ませ、7時40分にホテルを出て、国内最大の国営シルク店とお茶博物館を見学、ショッピングした。
お茶博物館は茶の農園を持っていて、茶の世界的な栽培分布や製法の違い、中国茶の種類他が分かりやすく展示されていた。
シルク店は、広大な敷地を有する立派な建物の店だったが私達以外の客はいなかった。こんな状態で経営が成り立つのだろうかとグループの男性たちが心配していたが、私は国営企業なのでそこは大丈夫なのだろうと思った。シルク店でスカーフを買った。

       

杭州空港に着いてから現地ガイドと別れ、個々人で搭乗手続きを済ませてから、杭州空港発13:40のANAで帰国した。
私と娘は成田空港に17:50に着いた後、同行者たちと別れて、日航成田ホテルに後泊し、翌日10:20発の飛行機で新千歳に戻った。
黄山は健脚者向けだったので帰国後に疲れが出たが、黄山の光景が期待以上に本当に素晴らしかったので、また中国の別の高山に行きたいと思っている所なのだ。(完)


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中国黄山の旅(5)

2011年05月11日 | 海外旅行「中国」
4日目となる5月3日の朝は、最後の朝日を鑑賞するチャンスだったが、夜中強い雨が降り、朝日を望むことはできなかった。
朝食後、7時半にホテルに別れを告げ、「雲谷二索」のゴンドラ駅に向かった。
2泊分の荷物を入れたリュックは重いし、登りの石段がずっと続くので、前日の登山よりも私にはきつかった。まさに「行きはよいよい、帰りは恐い」だった。
ゴンドラが動き出すと10分間で下に着いた。
5月1日の朝は、ゴンドラの営業が8時からなのに、すでに朝の3時からここに人が並び始め、昼迄は3時間待ちだったと聞いたが、メーデーの休日が終わったので、見ると並んでいる人は誰もいなかった。また、待っていたクリーンバスに乗って大型バスの駐車場に戻った。

 

1時間バスに乗り、着いた所が世界遺産「イ県古民家村・宏村」だった。
ここは南宋時代に造ったという半月型の池があり、そのほとりに明、清代の古民家が150軒ほど点在し、今も数百人が暮らしているという。
かってはこれという産業がなく、男たちは何年も遠くへ出稼ぎに行ったり、商人として働いたりしたらしい。
家に姑と残った嫁さんが夜中に寝室から逃げ出さないようにするため、2階の窓は小さく作られ、鉄格子がはめられていた。当時の結婚で嫁に期待したのは、後継ぎの子供を産むことと老いた両親の介護だったのだ。

  

村の中心にある池では、老女が鍋を洗っていた。数人の女性が仲良く筍の皮むき処理をしていた。小路の店では焼いた鶏肉などを売っていた。
美術専門学校の学生が村を写生していた。ガイドによると、今では古民家の建築者がいなくなったので、学生に学ばせているのだそうだ。

   

古民家の一つに塩の商売で財をなした「汪志永」の立派な家が残されている。
中に入り、両親の居室、アヘンを吸う部屋、麻雀室などを見て回った。
アヘン室の床は、石灰と豚の血液、もち米の粉を混ぜて作ってあった。石灰は消毒作用があるから使われたのだろう。
麻雀室には、汪志永の妻が来た時に、2人の妾が隠れる暗室もあった。家事や接待は妻がやり、妾は麻雀室で遊んでいたのだと言う。
また応接室にある2か所の出入り口の上部には、「商」の字をデザインした素晴らしい木彫りの飾りがはめ込まれていた。当時、商人は身分が低かったが、身分の高い権力者でもその入り口から入ると商人の下になる様にと考えられた作りだという。

 (両親の居室)

              (応接室の出入り口上部)

宏村を出てから杭州市の「西湖」に向かい、霧に霞んだ西湖を1周、船で遊覧した。12月の時は、半周しただけだったので、西施になったつもりでゆったりと湖上から周囲の景色を楽しんだ。

       

 
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中国黄山の旅(4)

2011年05月10日 | 海外旅行「中国」
3日目の5月2日は、4時半に起きて5時20分位に昇るはずの朝日を鑑賞する予定でいたが、夜から朝まで強い雨が続いたために中止された。
7時過ぎにレストランに行き、朝食を食べた。塩茹で卵、ちまき、おかゆ、ソーセージ、キャベツの油炒め、セロリの油炒めといった山らしい簡易な食事だった。
8時半にホテルを出発して階段状の登山道を登って行った。どこからやって来たのかと不思議に思う位大勢の人が石段を登り、一団となって上を目指した。その人混みの中を天秤棒にペットボトルや物資を下げてゴンドラの駅からホテルに運んだり、反対に客が使い終わったシーツやタオル類をホテルから駅まで運ぶ「強力さん」が、休み休み行き来していた。(環境を守るために、洗濯は下の町でするためだ)
石段は自分で好きな歩幅を選べないから登るのがきつい。私は時々ガイドに休ませてくれと頼んで、1~2分立ち止まらせてもらいながら登った。

霧雨の中を2時間20分登り続けて、遂に10:50、標高1860mの「光明頂」に着いた。
黄山で1番高い山は1864mの「蓮花峰」だが、「光明頂」はそれに次ぐ2番目に高い山だ。
そこの広場も展望台も人で溢れ返っていたが、残念な事に濃霧のために眺望は効かなかった。広場にはテントが張られていて、食べ物を売る店が出ていた。「光明頂」には、ホテルや気象台もあった。

   

        

そこで40分程休憩してから、黄山の西側に向かって歩いた。その道に入るとすっかり人影はまばらとなったため、私たちは静かな山道をのんびりと歩いた。
やがて高さ12mもある「飛来石」と呼ばれる奇岩の展望台に着いた。写真を撮ってから「飛来石」の所に行った。
ガイドは、「男は左手で、女は右手で飛来石をなでると健康で長寿できます。」と言ったが、私はつい両手で触ってしまった。
この不安定に見える石は、伝説ではインドの空から飛んで来てこの岩に突き刺さったと言われているが、本当は大雪があった遥か昔に運ばれて来て、今の所に辿り着いてから雪が溶けて留まったと考えられているそうである。

   

暫く行くと左右の岩山の間に、谷を挟んで向こうの岩山が見える場所があった。その頂上の左側の岩が観音様の横顔にそっくりなので、土地の人の信仰を集めている様だった。
      

やがて急な下り階段が続いた。その先に「印鑑岩」があった。そこからさらに急な石段を下ると村があるそうだが、私たちはそこで引き返した。
その近くの谷底に霧が漂い始めると幽玄な雰囲気に包まれた。20分程、谷底と雲海を眺めて写真に収めた。

   

               

下った分をまた登ってホテル「西海飯店」に行く事にした。ホテルの近くにある「西海水庫」は、高山に囲まれた深い大きな峡谷になっていて絶景だった。
「西海飯店」で昼食を済ませた後は自由散策だったので、私はロビーで少し休んだ。

ホテルの前から観光客のための籠かきが出ていた。目的の距離によって値段が決まっていた。丁度、お年寄り2人を担いで行くところだった。籠かきの2人にのど飴を渡したら喜んでくれた。

15時半に「西海水庫」の展望台に行って見ると、丁度、峡谷に雲海が立ち込めて来たところだった。刻一刻と靄が立ち昇って来て、最後には谷全体が真っ白になった。全く幻想的な体験ができて、日本から遥かな黄山へ来た甲斐があったと心から思った。

  

17時過ぎには夕日が見られると言うので展望台で待ったが、太陽はついに姿を見せなかったため中止された。
そこから40分、きつい階段を上り続けてやっとホテル「北海賓館」に戻った。その日の夕食もとても美味しかった。
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中国黄山の旅(3)

2011年05月08日 | 海外旅行「中国」
2日目は5時半に目が覚めた。昨夜とは違う静寂さが烏鎮を包んでいた。

 

黄山にいる2泊3日の生活に必要な荷物をリュックサック1つにまとめて入れた。スーツケースは山に持って行けないので下に置いて行くのだ。
民宿のお父さんが作ってくれた麺の簡単な朝食を食べてから7:50に集合し、バスで4時間かかる安徽省の黄山山麓の町「屯渓市」に向かった。
屯渓市に着いたのは昼だったが、そこは大きな町だった。古くから茶葉の交易路にあって、優秀な商人を多く輩出した町でもある。
立ち並ぶ集合住宅の屋根には、太陽光を利用する温水器が並べて設置されていた。
また建築中の集合住宅も沢山あった。ガイドに聞くと、農村から都市に出稼ぎに来た多くの人達が住むために、建てているのだそうである。
何でも今年、政府は労働者の賃金を20%アップすることを打ち出しているそうだ。
(今回のガイドは、中国がGNPで日本を抜いて世界第2位になった事を1度も言わなかった。その代り、中国人は5%は金持ちになったが、95%は未だに日本の1/15の収入で貧しい暮らしをしていて、自分もその一人だと言っていた)

  

屯渓のレストランで美味しく昼食を食べた後、「老街」という古い町を散策した。
手が混んだ木彫の装飾が目を引く宋代から明代に建てられた古い江南建築の商店街が立ち並んでいた。また、「ウダツ」を上げた白壁と黒瓦の伝統的な家の作りも特徴的で、特産のお茶や乾物を売る店、名産の硯を売る店などが軒を連ねていた。
自由時間が30分あったので、お茶屋でガイドに勧められたゴマの菓子を買った。

   

いよいよバスは山間地に入り、曲がりくねった道を進んで行った。外には平地だけでなく斜面にも至る所にお茶畑が作られていた。このあたりの山地は、平均気温が低い上に霧が多いので、良質のお茶ができるのだろう。

途中の町でバスを降り、入山専用のクリーンバスに乗り換えた。そのバスは電気で走るバスのようだった。
曲がりくねった山道をバスがかなりのスピードで走って来たので、私は気分が悪くなり、クリーンバスでは前の空席に座らせてもらった。ここからは山岳ガイドが1名加わった。この方は、私たちが山を下りるまで一緒にいて、何かとサポートしてくれた。

黄山は標高1000mを超す高い山が72もあり、その峰々が連なる名峰で、中国十大風景名勝地の1つであるばかりでなく1990年にユネスコの世界遺産に登録された広大な山地なのだ。
ガイドの話では、1億2000万年前に海中で爆発した火山が隆起してできた地形なのだという。
登るには4基のゴンドラがあるのだが、私たちは最も東側の「雲谷寺」から上がって上の「白鵝峰」まで行く新しい「雲谷二索」のゴンドラに4人ずつ乗った。標高差773m、距離2.8kmを10分間位で登るのである。丁度、霧が漂っていて視界は悪かったが、ゴンドラから見る景色は素晴らしかった。
安徽省出身の江沢民は黄山が好きで、彼が登ってから高速道、高速鉄道、黄山の山道が整備されたのだそうだ。到着した「白鵝峰」の駅からは整備された石の階段がどこまでも続いていた。
ガイドに言われて良く見ると、歩いている石段は山の斜面から突き出して作られていて、私達は空中に浮いている有様の場所もあった。世界遺産とはいえ、登山道を作るだけで難工事だったことだろう。

   

           

景色が素晴らしく、かつ、高度差を実感できる幾つかの場所で写真を撮りながら歩いて行った。強風のために片側にしか枝葉が出ていない松が多かった。やがて山中にある「北海賓館」ホテルが見えて来た。ほとんど下りのコースだったので、楽しんでいる内にホテルに着いた。(その代り帰りは登りが続くことになるのだ)
このホテルは、黄山に数か所あるホテルの中で4つ星のホテルだ。ホテルの営業と生活に関わる物資は、何から何まで下の町から調達しているのだが、ゴンドラの駅からは階段道しかなくて車を使えないため、運搬は全てを人力に頼っているのだ。「強力さん」と呼ばれる男性が、天秤棒の前後に85kg以上の荷物を下げて、休み休み階段を上下する姿は痛々しかった。

ホテル前のテニスコートに、カラフルなテントが沢山張ってあった。ガイドに聞くと、ホテルが満室なので、止まれない人達は4000円でテントを借りてここで泊まるのだそうだ。山の天気は変わりやすくその夜も雨が降った。テントで寝た家族たちは、さぞ寒かっただろうと想像した。
このホテルに2泊したが、夕食は美味しかった。
(テーブルにある陶器の壺には岩竹のスープが入っていた。岩竹は黄山の断崖絶壁に貼りつくようにして生えているきくらげに似た黒いキノコだ。その収穫作業は危険なため、非常に珍重され、高価なものである.手前の料理はその岩竹と卵の炒め物)

  

 

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中国黄山の旅(2)

2011年05月07日 | 海外旅行「中国」
成田日航ホテルでの前後泊を入れて6泊7日の中国の旅を終え、5日に無事帰宅した。
留守中は予想外の低温と雨が続いたらしく、ベランダに出して行った苗やゼラニュームが弱っていて驚いた。
今回の旅は黄山の山中にあるホテルで2泊して軽登山を楽しむことが中心だったので、帰宅後、筋肉痛やら全身疲労が出て昨日まで静養していた。

4月30日、成田空港発10:10のANAで飛び立ち、3時間半後の12:40に予定通り中国杭州国際空港に降り立った。
飛行機から見た杭州市は、どこまでも整備された田圃と農地が広がっていて、13億国民の食糧供給地の一つであることが分かった。

今回のツアーは、日本からの添乗員は無かったので、杭州の空港で荷物を受け取って出口を出た所で初めて現地ガイドに会った。
ガイドは40歳代の男性で、特に黄山の案内と安徽省の観光を得意としている人だった。
人数も10人と少なく、和気あいあいとまとまりやすかったし、円卓を囲む食事の際も丁度良い人数だった。バスは32人乗りで、1人2席でも余り、ゆったりとした快適な旅ができた。

しかし、予想外だったことは、5月1日のメーデーは中国では国を挙げた祝日で、国内旅行を楽しむ中国人が全国から観光地に大挙して押し寄せていた事だ。そのため4月30日~5月1日は、本当に人の波をかき分けて進むという状態で驚いた。世界遺産黄山の登山道も、さながら黄山銀座の様子を呈していたのだった。

では1日目、杭州空港から3時間半かけて向かった古都「烏鎮」(ウチン)の様子から書きたい。
私は昨年12月に行っているので懐かしい場所だったが、気温が26度という蒸し暑さの中、今回はまず、大河「銭塘河」に繋がって張り巡らされている烏鎮の東圏の運河を小舟で遊覧した。
その後、12月には静かだった狭い路地や運河沿いの道を、人をかき分けながら進んだのだった。
中国人もツアーで来ている人が多く、何人ものガイドがハンドマイクでボリューム一杯に喋る音がけたたましく感じられた。
前回行った木彫り博物館や藍染工房(今は営業していない)、作り酒屋、ベッド博物館などを見てから、烏鎮の郷土料理の夕食を取った。

   

それからバスで西圏に移動し、私たちは古民家に設けられている民宿の数か所に分かれて宿泊した。
烏鎮西圏は4年前から民宿の営業ができるように整備されたのだという。古民家の2階の部屋は、狭いながらもツインの部屋の中に洗面所、シャワー設備、空調が整えられていた。
小休憩してから暗くなっても人で溢れる運河沿いを娘と散策した。ライトが灯された古都の夜景には独特の雰囲気があった。運河にかかる幾つもの小さな石橋も、人で溢れていた。
散策を切り上げて民宿に戻り、寝る事にしたが、外は23時頃まで賑やかだった。

           



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