花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

生まれて初めて購入した音楽

2016年03月20日 | TV・映画・音楽・美術
お題「生まれて初めて購入した音楽は?」に参加中!
高校1年生の時、奨学金で出始めたばかりの「オーデオセット」を買った時に、ベートーベン作曲の「運命」と裏がシューベルトの「未完成交響曲」のレコードを買って、毎日聞いた。元気が出たように思う。
                         
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ショパンのピアノ曲

2013年09月18日 | TV・映画・音楽・美術
「ショパン~花束の中に隠された大砲」(崔 善愛著・岩波ジュニア新書)を読んだ。
この本は当時のポーランドが置かれた状況(ドイツ、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの列強国に侵略、分割されて支配されていた)の中で、ポーランドの独立を願いながら不本意に外国(フランス、イギリス)で生きなければならなかった作曲家ショパン(1810~1849年)の人生と、そこから生み出されたピアノ曲について書いてあった。

私は1985年のショパン国際ピアノ・コンクールで優勝したソ連のピアニスト「スタニスラフ・ブーニン」の演奏が好きで、ショパンのピアノ曲を主とした彼のCDも4枚あり、幾度となく聴いて来た。
今までは、ショパンの曲が何故心を捉えるのかを感情的にしか分かっていなかったが、この本によって、ショパンが心から湧き上がる祖国ポーランドへの切なる思いに基づき、「マズルカ」「ポロネーズ」などのポーランドの民族音楽を取り入れ、それまでの作曲の決まりに拘らない歌うような曲を作ったからだったと知った。
(既に多くの人が知っていることだが、スタニスラフ・ブーニンも優勝の数年後、母親と共にソ連から亡命したピアニストだ。その後日本女性と結婚し、日本に住みながら世界中で演奏会を開いて活躍し続けている)

ショパンが、フランス、パリで最後の演奏会を開いた直後の1848年にパリで「二月革命」が起きている。
その後、演奏旅行に出たイギリスで結核が悪化、11月16日に人生最後の演奏会を体調不良を圧してポーランド亡命者のために開いたのだ。

パリに戻ったショパンの病状は、翌年にはますます重篤になりながら、最後に「マズルカ ヘ短調 作品68」を作曲している。(この曲は、残念ながら手持ちのCDには収録されていない。是非聴いてみたい)

ショパンは、1849年10月13日、危篤状態の中で神父に遺言を残した。
出版されていない曲は焼却すること、葬儀にはモーツアルトの「レクイアム」を演奏して欲しい、そして自分の心臓はワルシャワに持って帰って欲しいという内容だったという。
そして10月17日、亡くなった。その後、彼のデスマスクと左手の型が取られた。
遺言どおり、彼の防腐処理をした心臓は、翌年初め、姉の手でワルシャワの「聖十字架教会」に納められた。

1917年にロシア革命によって帝政ロシアが崩壊した後の1918年、ポーランドは遂に123年振りの独立を果たしたが、1939年、ヒトラー政権のドイツが進攻し、その後ソ連にも進攻されて、またポーランドは2国に分割占領されて国の存在が消されてしまう。

東部の100万人以上の市民がソ連に移住させられ、強制労働で命を果たす事に。
また西部の市民の2割はドイツに殺害されたという。さらにユダヤ人の多くが迫害され、その9割(虐殺された数は定説で全部で600万人といわれる)が強制収容場に送られて命を落したという。
1940年には、ナチス占領下で「ポーランド音楽演奏禁止令」が出た。音楽を聴くことで民族の精神的支えを得て来た市民の悲しみは大きかった。その後も市民は、地下室などに集まり、密かにショパンなどの音楽を聴き続けたという。
ポーランド国民悲願の独立は、第二次世界大戦終結を待たねばならなかった。

読み終えてから久し振りにCDを続けて2枚聴いた。
「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」は私が最も好きな曲の一つだが、ショパンはポーランドを離れる直前の演奏会で、自らこの曲を演奏したらしい。彼の切ない気持ちが、今までよりも強く心に伝わって来た。

(なお著者の崔氏は、1959年日本で生まれた在日韓国人のピアニスト。
彼は外国人登録の諮問押捺制度に反対したため、留学していたアメリカから日本への再入国が不許可となった。
裁判を起こし、14年間戦って「特別永住権」を取り戻した経歴の持ち主である。こういう人だから、ショパンについて書けたのだろうと思った)

 
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「アフガニスタンの女性刑務所」のTVを見て

2013年03月08日 | TV・映画・音楽・美術
昨日の「BSドキュメント」で「アフガニスタンの女性刑務所ー塀の中の自由」を見た。
子どもを連れた女性達の罪は、「親の命令に従わずに恋愛した」「夫の暴力に耐えかねて家出した」「夫の言い分に従わなかった」などという罪で夫や親から訴えられて、懲役3~20年を言い渡されて収容されたのだという。
塀の中ではブブカをすっぽり被る事もなく自由に暮らせるが、子どもの食費は自己負担だ。(女性の居場所を出る時は、ブブカを被らなければならないが)

私がアフガニスタンの社会事情を知ったのは、アメリカのツインタワーのテロ事件以来だ。
驚くことに、女性には教育はいらない、女性は職業にも就けない。
早ければ10歳になった頃から親が決めた男性に嫁がねばならない。
イスラム教社会なので、男性は複数の妻を持てる。まるで羊を買う様に娘の親に家畜やお金を渡して、年の差が大きい若い女性と結婚する男性も多い。
夫が絶対権力を持っているので、夫婦間のトラブルで殺される女性も多いらしいのだ。(数年前までは公共の場で処刑される女性も沢山いたのだ)

同じこの地球上に、自分の意思だけでは何もできずに抑圧され、支配されている女性が、まだ多くいることが悲しい。
全ての人間は、女性から生まれた。女性は命の母として尊重されることが必要なのにと切なく思う。
最近はやっと女性も教育を受けたり、スポーツをやったりできるようになったというが、まだまだ一般的ではないという。
アフガニスタンの女性が幸せになる日は、何時来るのだろうか。
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韓ドラの魅力分析

2012年11月10日 | TV・映画・音楽・美術
今日は久しぶりに秋晴れの天気だが、午前中庭を見回って、冬囲いがされていない木がないか点検した。
2本のつつじと4本の薔薇、クロコスミノ、ブラックベリーの冬囲いを済ませたら全て完了した。積雪が多かった去年の教訓から今回はしっかりとやったので、これでいつ大雪が降って来ても安心だ。数えて見たら、全部で100本を越えた。
今回購入した細縄や支えの女竹、麻のコモの総支出は、5,540円だった。




昨日は畑の仲間である友人の実家の冬囲いを手伝った。
薔薇10本とつつじなど数本を2人でしたので、僅か1時間半で完了した。

 

その後、家に入ってコーヒーを入れてもらい、1時間程お喋りをした。
友人も韓国ドラマ「イ・サン」を見ていると聞き、先日の韓国旅行でイ・サンが父のために着手した世界遺産「水原華城」に行って来たことを話した。

彼女は、「どうして韓ドラがこんなに放映されるようになったのだろうか。」と言うので、日本で作るよりも安く買える からだと説明した。

続いて韓ドラの魅力について話し合った。
①長時間ドラマなので視聴者を飽きさせないように脚本が実に巧妙に練られて作られていて、見出すと止められなくなる人が多い。
また韓国は今でも儒教思想が大事にされている社会なので、ドラマの根底にその思想が流れている。人間関係で家族愛や親を大切にするという考えが色濃く流れている。その考え方は人間社会の原点なので他国にも受け入られやすい。
②特に登場人物中主役については家族構成や生い立ちなど人物像と家庭や社会背景も詳しく画かれるので、見ていてストーリーを理解しやすいし、登場人物の行動や考え方に良くも悪くも共感できる。
また、③役者の表情の変化がわかるようにアップで写されるので、中心的な役を演じる役者には演技力が求められる。その結果、演技力がない役者は余り居ない。また、役者達の大半が芸術大学などを出ていて演技力も役への向き合い方も日本のアイドルやタレントとは一レベル違う様に感じる。
さらに、④芸術文化を国を挙げて支援し、外貨獲得のための重要なものとして位置づけ力を入れていることもあるだろう。

しかし、大量生産されているので中には見ごたえのないドラマもあり、時間の無駄にならないよう選んで見る必要があるという点では一致した。

その後、友人をお母さんが入所しているグループホームまで車で送ってから、私はスーパーに寄って食品を買って帰宅した。
良い1日だった。

                 「またどうぞ…」
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映画『マーガレット・サッチャー』を観て

2012年03月16日 | TV・映画・音楽・美術
題名から分かる通り、1979年から1990年までの11年間、英国の首相の任にあったマーガレット・サッチャーを映画化したイギリス映画である。
サッチャー役を完璧に演じたメリル・ストリープが、この映画でアカデミー賞主演女優賞を得て話題になったので、上映初日を待って出かけた。メーキャップの出来栄えも去ることながら、メリル・ストリープが演じた言葉使いとその抑揚、演技には目を見張らされた。

映画では、既に認知症を患い、娘の介護に頼って生きているサッチャーの私生活を描きながら、若い頃の家庭の様子や政治家となった経緯、婚約時に夫になるデニスに告げた言葉(「食器を洗って、一生家庭内で過ごす女性にはならない」)などが次々と思い起こされ、折り込まれて行く。
そして男尊女卑思想が根強く、男性議員しかいなかった保守的なイギリス議会に、女性議員として初めて当選し、自己の政治信念を誰よりも強く打ち出す政治家になって行ったマーガレット・サッチャーという1人の女性の姿を浮き彫りにしようとする。
やがて首相に推され、経済政策、教育改革、フオークランド紛争での徹底抗戦などを強行に進めて行き、「鉄の女」と言われるようになる。
彼女は強い政治哲学に基づいて周りが反対する政策でも強行して行くのだが、そんな強引なやり方に周りの反発も強く、最後に打ち出した強権的経済政策で国民や所属政党の支持を失い辞任せざるを得なくなった事が画かれる。
最後まで彼女を支えたのは、ただ一人、夫のデニスだった。先だった夫に認知症の彼女は「あなたは幸せだった?」と問いかける。

私がこの映画を観て思ったことは、女性だったからこそ自分の利益などは考えず、様々な反対にあっても一途に考えを主張し、大ナタを振るう政治をやれたのではという事だった。
私もまた1960年代後半から仕事を始めたので、立場は大きく異なるが、妻、母の役割以外に経済的、社会的にも自立を目指した一女性としての考え方や生き方、それを阻もうとする様々な壁の前で苦悩し、決断、行動する彼女の姿には体験的に重なるものもあり、強く共感した。
当時はまだまだ働く女性を支援する社会的な仕組みは未熟だったので、自立を目指すと言っても家事・育児と仕事の両立は並大抵のことではなく、どうしても家庭生活に何らかの歪を来した人が多かったのではないだろうか。そんな訳でサッチャーと同じく「人生は満足できるものだった?」と家族と自分に問い直したいと思った。

また彼女の在任中、ヨーロッパで起こった経済共同体結成に参加することを拒否したためイギリスは孤立の道を進んだのだが、この間のギリシャ経済破綻に端を発したEUの深刻な経済問題を見ると、彼女の先を見通す目は、現在、イギリスだけでなく世界で再評価されているのではとも思った。

彼女が行った政治は、まだまだ先の人達が歴史の中で評価すると思うが、この映画は大きく動いて来た現代の世界史の一時期に確かな足跡を残したイギリス初の女性首相を、人間的な面で捉える事で多くの人達の共感を得たのではないかと思う。
多くの女性に見てもらいたい映画だと思った。

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心に残った兵士の証言

2011年12月09日 | TV・映画・音楽・美術
この所TVで太平洋戦争に因んだ番組を放送しているが、先日NHKTVで放送した兵士の証言を編集した番組が心に残っている。
数人の元日本兵が話した内容は、戦争の現実を知らない私にはどれも衝撃的だった。
しかし、ある部隊の指揮官だったと言う男性の人生は、私の心を強く揺さぶった。
彼の部下は200人近くいたが、生き残ったのは僅か4人だったそうだ。
彼は、突撃を命じた自分の責任を強く感じ、自分は楽しむことを一切してはならないと部下の魂に誓ったのだ。
結婚はしたが、娘の結婚や親類の法事、村の祭りや集会などは勿論、個人的な小旅行なども一切せず、ひっそりと家に籠る生活を課して、過日死んで行ったのだ。

彼をそこまで追い込んだ戦争の悲惨さを、その番組から私は強く感じたのである。
自分を振り返って見ると、定年まで続けた仕事や家庭生活で、思い起こせば小さな後悔は幾つかあるが、他人の命を奪ったり、または人間としてあってはならない事をしてしまったという悔いを全く残さなかった事に、平和な時代に生きられた幸せと安堵を心から感じたのだった。

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HV特集「密着!!中国・問題児の訓練学校」を見て

2011年02月06日 | TV・映画・音楽・美術
昨夜、タイトルにある番組を8時から1時間半視聴した。
この番組で、中国の1人っ子政策の下、特に胡錦濤が「改革開放政策」を進めるようになってから生まれ、育っている1人っ子たちの中に、金銭的物質的には過剰な程の物を与えられながら、仕事に忙しい両親からは放置されていて、問題を抱えた子供が多くなって来ていることを知った。
番組は、そうした「小皇帝」の子供を対象にして運営されている私立の訓練学校が舞台だった。

毎日12~17歳位の数人の子供が親に連れられてやって来る。
親は多額の金を払い、自己中心的な考え方を身に着け、公立学校に通わず、怠惰な生活に陥ってしまった我が子を鍛え直してくれるよう、全寮制のこの学校に預けるのだ。
カメラは、200人程の中から数人の子供を取り上げ、入学時の様子から、年3回、2週間かけて行われる400km大行進まで密着するのだ。

中国の貧しい農村部の家庭では、若い夫婦が生活費を稼ぐために都市に出稼ぎに行く。その間、子供は祖父母に預けられるのは、極一般的な事だ。
しかし、昨夜の「問題児」たちは、都市で暮らしているが、子供には「勉強をして、良い成績を取れ。」としか言わない親に反発し、勉強を拒否し、不登校になり、遊び呆けて、自分の目的を見失った子供たちなのだ。
中の1人は、洗面、歯磨き、入浴などといった基本的な生活習慣もないまま、入学して来る。
所が学校の生活場面では、厳しい規律に基づいたまるで軍隊の様な集団生活が要求される。
そして今までの家では家政婦がしてくれた掃除やトイレ掃除、食器洗いなども自分でしなければならないのだ。

いよいよトラックの中で寝起きしながら2週間歩き続ける日が来た。途中で農家に1泊させてもらい、農村の生活を体験する学習も含まれている。
ある女生徒は、農家の主婦から昔の貧しかった生活と厳しい労働の話を聞き、それまで自分で何でもできると思って来たけれど、実は何もできない自分に気づく。
ある男生徒は、力仕事が好きかも知れない自分に気づく。
多くの子供たちは、辛い強歩の中で、互いに支えあいや友情も生まれ、達成感を知り、自信を取り戻す。
また、毎日歩きながら自分に向き合い、自分の限界や精神的な弱さ、足りなかった面に気づき、少しずつ新たな目標を掴んでいくのだ。

中には1年以上もいる子供も登場した。子供を連れて来た親たちは皆、親の責任を自覚せず、子供の人間的な教育までお金で買おうとしていた。
そんな中で、粘り強く、厳しく子供と接し、徐々に信頼されて行く教師達が魅力的に見えた。
急速な経済発展によって「お金至上主義」に陥っている今の中国社会、その教育問題の一つを考えさせられた特集だった。
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本の力

2010年02月28日 | TV・映画・音楽・美術
昨夜、BS日テレで放映した中仏共同製作映画「小さな中国のお針子」を見た。

あらすじー文化大革命が行なわれていた時代の中国で、父親が知識人・反革命分子の医者だということから山間の小さな村に再教育のためにやられた2人の青年マーとルオが、そこで仕立て屋の祖父と暮らす美しいお針子に出会う。
彼女に一目惚れした彼らは、当時、西洋文学を読むことは禁じられていたのだが、手に入ったバルザックの小説を、毎日秘密裏に文盲の彼女に読み聞かせて行くのだ。

やがて彼女は、ルオと恋愛関係になり妊娠する。
25歳にならないと結婚できない中国で、ルオが一時、帰省してしまっていない間、彼女は途方に暮れるが、マーが父親の知人だという医者に頼み込み、こっそり中絶してもらう。
ルオは村に戻ったが、ある日彼女は2人に黙って1人で町に出る決心をする。
それを知った2人は、彼女の後を追い、戻るように説得するが、彼女は自分の可能性を試したいと言うのだ。
そして、そう考えるようにさせたのは、バルザックだったといって彼らの元を去って行くのだ。

映画の舞台は、多分長江上流だろうが、険しい山々が聳え立つ山間に、へばりつく様にして貧しい家々が点在する村だ。
旅人にとっては風光明媚な場所に見えても、そこで暮らす人々の生活は厳しい。
学校はなく、村長以下皆ほとんどが文盲だ。
山奥の畑には、肥やしを人力で背負って運ぶのだが、再教育を受ける2人が歩くたびに背中の背負子から撥ねてこぼれる肥やしがかかる。しかし、風呂などはないから、滝の下にできた小さな湖に行くのだ。
(先日見たシリーズ「コメ食う人々」の中国版では、今も、もっこで堆肥や苗を運び上げて棚田を守る人々の姿が映し出されていた。美しい棚田の陰で、人力しか使えないコメ作りの厳しさに、今まで思いが及ばなかった自分を恥じたのだった)

実は私も、中学高校の頃に読んだ西洋文学に大きな影響を受けた。
高校の時は、育英会の奨学金の中から毎月買って読んだ世界文学全集の中で、今思えば、モーパッサン、エミール・ゾラ、パール・バック、ヘルマン・ヘッセ、ゲーテなどの小説に心を動かされ、自分の人生を重ねて考えたのを覚えている。

この映画の原作は実話に基づいたもので、世界30カ国で翻訳、出版されたというが、私は知らなかった。
中国の社会主義体制にあって、自由、民主主義、夢を追うなどという事を知らなかった辺境の地に生きる彼女が、西洋文学から大きな影響を受け、新しく目覚めた自由への希求心が恋愛さえも超える行動を促したのは想像できる。

本は、読者にまだ知らなかった考え方や未知の世界を知らせ、小説に登場する人々の人生を疑似体験させることによって、考え方、生き方にも影響を与える力を持っている。
そして今は、苦労して活字を読まなくても、簡単に映画やTV他のマスメディアがその役割を果たしていると言える。
特に映画やTVの映像が持つ力は、本以上である。
何でも知ろうと思えば知る事ができる時代にあって、若者達は今、何を見出そうとしているのだろうか。





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映画「インビクタス」を見て

2010年02月17日 | TV・映画・音楽・美術
昨日、従姉妹と札幌駅で待ち合わせをして、「インビクタス」を見に行った。
この映画は、長い間の沖合いの島ロベン島での幽閉を解かれ、選挙で大統領に推されたマンデラ氏が、就任直後取った政策の1つが、彼の手腕を象徴するものとして映画化されたものだった。
1年後に南アで開催が決まっていたフットボールのワールドカップ、そこに開催国として出る事に決まっていた南アの弱小ラグビーチームに、彼は民族の融和の願いを託したのだった。

スポーツは、肌の色も人種も宗教さえも乗り越えさせ、人々の心を1つにする力を持っている事を彼は知っていた。
1948~1991年まで43年間の長期に渡って続けられた人種隔離政策後の傷だらけな南アフリカ共和国を安定させ、国民を1つにまとめるため、彼の差別を受けた者こそができる人間的な考え方と粘り強い説得力が、チームも周りも少しずつ変えて行った。
そして、ワールドカップの決勝にまで勝ち進む力をつけたチームが、いよいよ最強のニュージーランドチームと決勝戦でぶつかる。

私は1年7ヶ月前の2008年6月に、ツアーで南アフリカ4カ国を訪れた事がある。
南アの首都ヨハネスブルグでは、ケープタウンへの飛行機の乗り換えをしただけだった。
しかし、人口350万人の南ア第2の都市ケープタウンで見たり聞いたりした事を、今回の映画を見て鮮明に思い出した。

当時、私は帰国後ブログに次のような記事を書いた。

「アパルトヘイトは、最初に南アに入植したオランダ人(自らをボーア(農民)と呼んだ)の黒人選民思想がもたらしたものだと言う。
当時の国民党政府は、国民を白人、カラード(混血)、インド人、黒人に分類し、少数の白人が政治経済を支配し、居住地、教育、就職、宗教、恋愛に至るまで、詳細に白人以外の人種に対して徹底した差別を制度化した。
やがて国内外でアパルトヘイト反対運動が激化。アフリカ民族会議議長だったネルソン・マンデラは捕らえられ、決して逃げ出せないケープタウンの12km沖にあるロベン島に、1990年に釈放されるまでの18年間、幽閉された。
1990年、政府は民族融和政策に転換し、1991年、アパルトヘイトを廃止した。
1994年に行われた初めての総選挙でマンデラが大統領に推された時から、長かった白人単独支配に変わって、多民族が共存する民主主義国家が目指された。」

「今回、私達のケープタウンでの現地ガイドは、白人の男性だった。
彼は、現在の国民の85%が黒人で、政治家の大半も黒人であると話した。
 (しかし、wikipediaで調べたら、少し古い2001年の国勢調査の結果が出ていた。それによると白人18.75%、黒人31%、カラード48%、アジア系1.4%となっていた。彼は、「白人以外は85%」と言うべきだったのだろう。) 
国の法律で、会社の75%の人員を黒人 (これも多分、正確には、白人以外の意味で彼は言ったのだと思う。) にすることになっていて、違反すると高い税金が課せられるそうだ。白人は55歳で定年となるが黒人はわからないという。

黒人はホームレスでも選挙権が与えられる現在、白人の政治力は低く、白人の子供は会社に入れないので外国に行かざるを得ない。自分の子供もヨーロッパで仕事をしているといっていた。金持ちの中高年も国外に出る人が多いそうである。
確かに私達が行ったレストラン、飛行場、ホテル、観光地で色々な仕事をしていた人たちの多くは黒人だった。
考えると、もともと白人は居ない国だったのだから、アパルトヘイトの反動で、厳しくワークシェアーをすることになったのは歴史的に仕方が無い面があると思った。

2001年、市街地に住む者の失業者は19.4%で、その58%が黒人、38%がカラード、3.1%が白人だったらしいが(wikipediaによる)、現在はこの数値がどう変わったのか興味がある。
しかし、将来的に公教育が行き届けば、やがて適材適所の雇用形態へと変わって行くのではと思った。
いずれにしてもアパルトヘイトが無くなってから二十数年経ち、白人は少数民族として生きて行かざるを得なくなっている事だけは事実らしかった。」

そして今年、サッカーのワールドカップが南アで開催される。
国は国際空港の拡張、道路の整備、環境整備、ホームレスの解消などを急いで来たし、そのための莫大な歳出をして来たが、経済的なひずみが国民生活に大きくのしかかっているのではと気になる。
 
「ガイドは、空港の近くに何時の間にかできたというホームレスの人達のスラム街を指しながら、「80%の人は仕事を持っていてもここで暮らしている。
水も電気も上手く盗み、地代も税金も払っていない。それを負担しているのは私達一般市民だ。
市は公共住宅を建てて入居を勧めるが、入ると安くても家賃がいるし、公共料金も払わなければならなくなるので、彼らは何時までもここに居たがる。」とこぼしていた。」

近年の南アは、金属資源が多い国として世界中から注目され、多額の投資が集まっていると聞く。
また、黒人の一部は、国と結びついて採掘権などの特権を得、富を得ているらしい。
映画を見て、今後の南アがどうなって行くのか、さらに気になる所である。

マンデラ氏は91歳を越えた。
世界的に有名な英雄の彼が、もしかの時のXデイのために、すでに密かに国はその時の準備を行なっていると聞いた。
なお、映画の大統領執務室に飾られていたオレンジのストレチアには、「マンデラ・ストレチア」という名が付いている事を付記したい。
 

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映画「エネミー・ライン」を見て

2010年01月28日 | TV・映画・音楽・美術
昨夜TVで2001年に製作されたアメリカ映画 「エネミー・ライン」を見た。
普段なら戦争映画はあまり趣味で無いのだが、新聞の解説にボスニアが舞台とあったし、マイケルムーア監督の作品ということで見たのだ。
題名の和訳は、「安全地帯」とあったが、指示された安全地帯を求めて逃げ惑う兵士は、結局また、撃墜された「敵陣」のど真ん中に戻る事になるのだ。

映画は、ソビエト連盟崩壊後のバルカン半島に起きた民族対立戦争末期、NATO軍が停戦させた後にボスニアで起きたセルビア人民軍の民間人ムスリム(ボスニア人)の虐殺という戦争犯罪がテーマだった。

映画の最初、アメリカ軍の偵察機が迎撃ミサイルの攻撃を受け、撃墜される場面には驚いた。
勿論映画にはCGが使われたのだが、それにしても近代兵器迎撃ミサイルの正体を初めて見て、ぞっとした。

生き残った兵士がたった1人でボスニアの山中を逃げ回る場面で、石灰岩がむき出しの山々が続く光景に、昨年9月に見て来たボスニア・ヘルツェゴビナの景色が重なった。

ボスニアが1992年に最初の独立宣言をした頃の民族分布は、ムスリム(ボスニア)人44%、クロアチア人17%、セルビア人33%だったという。
独立に先立って行なわれた2月の住民投票は、反発したセルビア人の大半が棄権する中で、結果的に90%以上の賛成となり、独立が宣言されたと言う。
ECは4月6日承認、5月には国連加盟を果たしたが、あくまでも民族の独立を求めるセルビア人がこの直後から軍事行動を開始し、民族浄化策の下、ムスリム人、クロアチア人を殺戮した。
自分達の領土を広げるために、他民族の女性を陵辱して妊娠させ、産まざるを得なくなってから開放すると言う嫌がらせをし、近隣に住めなくさせて行ったらしい。考えるだけでおぞましい。
最初は軍事力で上回るセルビア人が優勢だったが、NATO軍の大規模な空爆作戦により1995年10月13日に停戦が実現し、内戦が終結したのだという。

それから数年後に、この映画が製作されたことになる。
マイケルムーア監督は、この映画を見る人々に何を訴えたかったのだろうか。
オバマ大統領さえも掲げる正義の戦争の必要性だろうか、それとも戦争の裏にある人間の愚かさだろうか。

写真は、去年ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルで撮ったものだ。
①はクロアチア人とムスリム人が川の両側に分かれて対立して戦い、とうとうクロアチア人が石橋を破壊したが、停戦後、国連の援助金で修復された橋である。今ではこの橋と周辺の歴史地区が世界遺産に指定されている。
②は今でも残る建物の壁の銃弾跡。
(当時の旅行記は、カテゴリーの「海外旅行体験ーバルカン諸国」を見て欲しい)

 ① ②




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子ども孝行した日

2009年12月07日 | TV・映画・音楽・美術
昨日、遠くで働いている娘がやって来た。「明日、出張なので、今日の内に来たから泊めて!」というのだ。
今年になってから出張が多く、毎月1度位は無料宿泊所を目当てにやって来る。
今朝は雪が散らついていたので、家から今日の仕事先まで車で送った。
折角遠くの町まで行ったので、私はその近くにあるスーパーの中の映画館へ寄ってみた。何と「2012」が15分後に上映されると言う。直ぐにチケットを買って入場した。

2~3人のブログでこの映画の感想を読んでいたが、私の想像以上のダイナミックな地殻変動と都市の破壊映像が続いた。
大規模な津波が大陸を飲み込み、海面がエベレストの上部にまで達すると言う筋書きには正直なところ疑問を持ったが、十分に楽しめたファンタジーだった。
凄まじいまでに大都市が破壊されて行く映像を見ながら、私が最近、旅行で見て来たオーストラリアや韓国の超高層ビルの都市の姿が何度も思い返された。この映画が、高層ビルの警鐘に少しでもなってくれればいいなと思った。

それにしても命の危機が迫った時に、自分だけが上手く立ち回ろうとする人間がいる一方で、自分を犠牲にしても愛する家族や仲間を救おうとする人間がいる。そのどちらもが人間の本質だと思えた。
もしいつか、私が生きている間に地球が破壊される日が来るとしたら、私は大金もなく、特別な技術も力も無いのだから、きっと静かにその巨大な力が引き起こす運命に、身を委ねるのではないかと思った。
ただ、真実の情報は、全ての人間に公表されて欲しいとも思った。

アメリカの大統領専用機「エアホースワン」が、海の波にもまれて破壊され沈んでいく場面は、アメリカの威信を掲げて来たアメリカ映画界も、仮想現実として考えざるを得なかったんだと、この映画に何か現実味を感じさせられた。

映像処理技術の進歩で、こんな本当らしい映像を見られたことはありがたかったが、この先、これよりももっと凄い映像作り競争が起きるだろうと思うと、いつか娯楽の範疇を抜け出さないかと心配だ。
しかし中国の最高峰を望むチベット自治州(ひょっとしてシャングリラの映像かも)の映像は素晴らしかった。
九賽溝から黄龍に行く4000mの峠には行った事があるが、やっぱりここも行って見てみたいと思った。



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映画「愛を読む人」

2009年07月02日 | TV・映画・音楽・美術
ブログの友人の映画感想を読んで、昨日、行って来た。
15歳の少年マイケルをsexの相手にしてしまった20歳年上の貧しい独身女性。
今ならさしずめ児童虐待という事になり、見ていてすごく違和感があったが、見終わってから分かった。彼女の孤独な心と生活を。
昔、アメリカ映画「グリーンカード」を観て感動したが、この映画は同じ人間の学力をテーマにしながら、何と人生が重く描かれている事だろうか。
その重さを際立たせるために、ナチスの看守だったという設定の中、ユダヤ人の生と死を彼女の尊厳に対峙させながら話は進む。

彼女は法廷で自分の恥や悲しみを明らかにするよりも、無期懲役を選んだ。
刑務所での孤独な生活が続いた後、マイケルから差し入れられた朗読テープが彼女に希望を与えていく。
やがて、マイケルが迎えに来る釈放の日を前に、彼女は最後まで自分の尊厳を守るのだ。

1人の女性の自我を貫く強烈な生き方に、私は心を揺さぶられた。
と同時に、誰にでも多少なりともあると思える人には絶対知られたくない自分の1面に、私ならどうするか、考えさせられた映画だった。


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映画「スラムドッグ・ミリオネア」を観て考えた事

2009年04月22日 | TV・映画・音楽・美術
昨日、雨で庭仕事ができないのと、この映画を観た人の感想を知り、映画館に走った。
インド映画と言えば集団ダンスと歌が一杯だと思っていたが、イギリス人監督が作った映画なので、99%、1人のスラムで育ったインド青年の生き様と彼を巡る人々の姿を通して、インドの下層社会の実情を丁寧に描き出していた。

この映画を観て、私がインドに行った13年程前の事を思い出した。
当時の人口は10億人余り。事前に調べたら、その10%強がホームレスと書かれていた。
行く前の私は、それがどんな状況なのかを想像することができなかったが、実際に行って見て、僅かながら事情が分かった。

首都デリーよりも250万人も人口が多いムンバイで見たのは、交通量が多い幹線道路添いでも、道路淵の建物の塀に結びつけたシートで簡単な屋根を作り、地面には畳にしたら1~2枚の広さにしかならない面積のシートを敷いて、その上で数人の家族が暮らす光景だった。私はまともな生活道具一つ無いシートの上に、乳児や幼児もいるのを見て胸が痛くなった。
こうした路上生活家族は、私達が8日間行った観光地や泊まったホテルの近隣のあちこちで見かけた。
しかし、親がいる子どもはまだマシなのだ。この映画の主人公達は、色々な事情で親も無くしたストリートチルドレンなのだから。

行く先々で私達が乗ったバスが信号などで止まると、小さい子ども達や乳児を抱いた女性の物乞いがバスに駆け寄って来た。ほとんどの物乞いは裸足で、顔や手が垢と泥にまみれていた。
ある観光地で出会った物乞いの少年は、お金を稼がないとご飯を食べさせて貰えないのだと私達に話した。
しかし、もし1人に施しをしたら、直ぐに大勢の物乞いに取り囲まれてしまう事が予想できたので、私たちは毎回、心を鬼にして通り過ぎて来たのだった。
世界遺産になっている観光地の物陰には、ホームレスの人たちの物と思われる汚物と漂う悪臭があった。
(街中でも象、アヒル、七面鳥、豚などが、昼間、放し飼いをされているので、彼らが汚物を処理してくれるのだろうと思った)

この映画では、インドの底辺、スラム街に生きる人達の恐ろしい程の貧困の中で、生命の危機と隣り合わせにいる深刻な実情を描き出していた。
そして最も弱い立場のストリートチルドレンを食い物にする大人達によって、余りにも過酷な生活を余儀なくされながらも、その中で逞しく生きる主人公達の姿に、私は人間の尊厳とどんな境遇でも諦めずに夢に向って生きるなら、必ず希望を見出せるというメッセージを感じた。
半面、主人公である弟を思いながらもお金が全てと考える兄は、最後に弟の恋人を逃がし、ボスに殺された。浴槽でお金に埋もれながら殺されて行った最後の姿は、人間として大切なものは金の他にあるという監督のメッセージを象徴していたと思う。



インドの極端な貧富の差の根源には、紀元前から続くバラモン(僧侶)、クシャトリア(王侯・武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)、さらにアウトカーストの不可触民という身分差別制度がある。
また、細かく分けられている職業別の身分制度によっても、身分は複雑に固定化されて来たという。
長年にわたって数億人の下層階級の人たちは、農村では広大な土地を所有する僅かな地主の小作人として生活の糧を得て来た。イギリスからの独立後、表向き身分差別は禁止されたと言うが、農村では基本的な社会構造が今も続いているらしい。

あるマハラジャの屋敷を、今はホテルにしたという所に泊まった日があった。
その時私は、広大な庭、贅を尽くした建物と沢山の部屋に、日本の大金持ちとは比べ物にならないインドの富豪の贅沢な生活振りを知った。

今回ネットで調べたら、インドの平均寿命は、日本よりも気候が良いのにも関わらず、男性63.9歳、女性66.9歳(2004年経済白書)だった。
また識字率は、男性75.85%、女性54.16%だと言うから、インドの身分と職業による差別と経済的な遅れは、まだまだ深刻な事がわかる。
また、岩波新書だったと思うが、随分前に読んだ本「アジアの女性たち」によれば、インドでは結婚する時に女性が多額の持参金を持って行くという風習があり、少なかった妻が密かに焼き殺される事件も未だにあるらしい。
これは、結婚が男性の生活手段になっているわけで、貧困の一端と言えるだろう。

経済のグローバル化で、インドも近年、IT産業の発展などを通して大きく発展しつつあると聞く。
しかし一方で歴史的な多くの貧困層の存在が、まだまだインドの経済を下支えしている現状があり、私たちも何処かで影響を受けているのだと思う。

私がインドに旅行した時、この映画の背景になっているアラビア海に面したムンバイ(旧ボンベイ)のホテルに1泊した。
映画で使われた洗濯場は、私が見た所と違うかもしれないが、その時現地ガイドは、「この国では中流階級以上の家庭の主婦は、自分で洗濯や掃除はしません。洗濯は貧しい人達が御用聞きのように家庭を回って汚れ物を集め、決められた洗濯場で洗濯をして家庭に届けます。」と説明してくれたのを思い出す。
映画では、酷い汚水で洗濯し、長く張られたロープや地面に広げて乾かしていたが、実際よりも汚さが強調されていると思った。(あんなに汚ければ、洗濯を依頼する家庭は無くなるだろうから)



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子ども虐待に思う

2009年04月03日 | TV・映画・音楽・美術
先日、北海道の最北の地・稚内で4歳の男児が2.5℃の水風呂に繰り返し押さえつけられて入れられ、虐待死したというニュースを聞いて、背筋が凍るような思いにさせられたのは私だけでは無いと思う。

今朝の新聞には、続報として、水風呂に入れる前に裸にして水のシャワーを全身に掛けたこと、また道警の解剖所見として、腸間膜とすい臓が傷つき、出血を確認していると書かれていた。
これらの臓器の損傷は、何らかの強い圧力が体に加えられた場合にできるのだという。
逮捕された母親は25歳、同居する容疑者の男性は38歳だという。
2人は、子どもなら誰にでもあり得る食事が遅いとか、行儀が悪い事へのしつけだったと言っている。

この事件を知ってから、私は20年くらい前に読んだアメリカの人類学者、ヘレン・E・フィッシャーが書いた翻訳本の1節を思い出した。
(彼女は今年1月に放映されたNHKスペシャル「男と女」にも出演していたので、覚えている人も居るのではと思う)
書名は「結婚の起源ー女と男の関係の人類学」。
私の記憶の中の1節とは、「人類の祖先に当たるとされるチンパンジーは、ボスを中心としたハーレムを作って暮らすが、若い別のオスがボスと戦って勝ち、新しいボスになると、メスが育てている前のボスの子どもを殺す」という下りだ。
ヘレンは理由として、子育てをしている期間の雌は発情しないから。また、自分の遺伝子だけを有利に残したいためだと説明していた。

先日、図書館で彼女が16~7年前に書いた本の邦訳版「愛はなぜ終わるのかー結婚・不倫・離婚の自然史」を見つけたので読んだ。面白かった。
こちらの内容は、機会があればいつか書きたい。

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一日、美術作品を堪能

2008年08月16日 | TV・映画・音楽・美術
今日は朝まで降っていた雨も上がったので、札幌に行き、美術巡りをすることにした。
一人ではつまらないので、従姉妹を誘って近代美術館で待ち合わせた。
従姉妹への土産に庭のキューリ、トマト、インゲン豆、サラダ菜、シシトウを大急ぎで摘んで、持参した。

先ず、そこで公開されていた『レオナード・藤田展』を、1時間半掛けて堪能した。
彼は1986年に東京に生まれ、東京美術学校卒業後フランスに渡ってピカソやルソーらと親交を深め、その影響を受けながら当時のエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍したのだった。
やがて、日本画の筆を使ったり、陶器の肌のような乳白色の絵画表現でヨーロッパで有名になる。
数枚の自画像や裸婦の絵には猫も書き込まれていて、独特な雰囲気を醸し出していた。大型キャンバスに描かれた多くが裸の男女の群像は見ごたえがあった。

晩年、彼はフランス国籍を取り、キリスト教の洗礼を受け、最後の仕事とした協会建設を手がけた。内部の壮大な壁画、ステンドグラスには、彼の画家としての集大成を見ることができた。

私は、こんな素晴らしい作品を残した日本人画家が居たのかと感動した。
しかし、当時の日本社会では、彼の様な自由奔放な絵画表現は許されない風潮があった時代だったと思うし、とりわけ戦争中、日本の軍部に依頼されて書いた軍人の群像画が、戦後非難を受けた事もあったらしく、彼が言うところの『日本に捨てられた』画家としての苦悩と人生が理解できる思いがした。
どの絵も荘厳な人間の存在と精神に満ちていたが、笑顔は一つも描かれず、生きる幸福感を感じさせられる絵はなかった。
最後に私は、彼が建築家と作り上げた協会の説明文の中に、『戦争や広島の原爆という悲惨な出来事が、世界から無くなる事を神に祈る』ための場として協会を建てた、と言う様な意味の事が書かれていたのを見つけたのだった。

美術館を出てバスに乗り、次に見に行ったのは無料で展示されていた『墨描・中国人強制連行図絵』展だった。
「人として忘れてはならない歴史がある」として、当時の中国人の強制連行の実態を墨で大判十数枚の絵に書き上げたのは、太平洋戦争末期、北海道岩内町(現在共和町)にあった鹿島組玉川事業所で管理人をしていた志村墨然人さん、85才だ。
彼は、その事業所で実際に見た自分の記憶を、そのまま絵に表したのだ。

絵は、数百人の中国人が列車で岩内駅に着いた所から描かれていた。
2日間の身体検査の後、初めてさせられたもっこ担ぎの絵、過酷な作業現場、集団逃走、捕らえられてからの拷問場面、過酷な労働と栄養失調で死んだある中国人の解剖場面図、その火葬の図、日本人囚人を使ったたこ部屋の作業場面などが、次々と白黒の墨による圧倒的な迫力で当時の実情を訴えて来るのだ。
日本は戦時中不足した労働力を、このようなすざましい非人間的なやり方で補ったのだという。見ていると辛くなった。

会場の片隅で画家の志村さんは取材を受けていたため、声を掛けたかったができなかった。それで私は記名帳に「有難うございました」と一言書いて出て来た。
戦後63年、もっともっと、当時の歴史的な事実を知ることが大切だと思った。

その後、二人で遅いランチを食べながら絵の感想や近況報告などおしゃべりをしてから帰宅した。
今日は全く異なる作品に触れる事で、それぞれに感動したり、考えさせられた一日になった。

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