花好き・旅好き女性のセカンドライフ

通院しつつ、夏場半年間はガーデニングと家庭菜園で汗を流し、その合間に外国旅行を楽しむリタイヤ女性の生活日記

初夏の庭(1)

2013年06月30日 | ガーデニング
旅行から帰国後は、庭の草取りや水遣りなどに追われる毎日だった。
今春は雪解けが遅かったことに続き、かなり気温が低い日が続いたので、草木の生育に気を揉む日々だったが、6月の中旬以降、気温が上がって来て、大分遅れを大分取り戻してくれた。
ところが昨日、今朝と早朝の気温は12℃程度、最高気温も15~18℃と低い。今日は22℃ほどに上がるようだ。

最近の庭の様子である。

 

  

  
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「インドネシア旅行」(8)

2013年06月25日 | 海外旅行「東南アジア」
≪ヒンズー教総本山・ブサキ寺院≫

4日目「平和記念館」見学の後、ヒンズー教総本山「ブサキ寺院」に向かった。
この寺院はバリ島の東部、最高峰「アグン山」(3142m)の麓にあり、バス停から寺院に向かって急勾配の坂道を500m上った所にあった。
バイクの男性が「上までバイクに乗らないか?」と誘って来るが、「5000で良い」と言われた人が、5000ルピアなら60円位かなと思って乗ると、最後に「5000円だ。」と言われたとかガイドに聞かされたので、皆頑張って自力で徒歩で上った。
私は杖を用意していたが、グループの女性が「腰が痛くて歩けない。」と辛そうにしているのを知り、杖を彼女に貸した。とても楽だと喜ばれたが、結局私は杖なしで頑張る事になった。

坂の両側には、似たような安物の生地や服を売る店がぎっしりと並んでいた。
この寺院は30もの寺院で構成された複合施設だ。一番大きい寺院が「風の神」を祀った寺院だが、その傍に「火の神」「水の神」を祀った寺院もあった。
ここで行われる祭礼は、1年が210日の「サカ暦」で行われ、年間55回もの祭礼があるそうだ。

ここでもちょっとした事があった。
どの寺院にも許可が無ければ入れないのだが、私一人でグループと少し離れたところで写真を撮っていたら、「ここまで来て写していいよ。」と手招きする若い男性がいた。5m程階段を上ると寺院の正面が見えたので写真を写した。するとその男性が「あなたをここで写して上げる。」と言い出した。不審に思ったので断って階段を下りた。すると上からその男性が、「お布施!お布施!」と言って来た。私はちゃんと寺院の賽銭箱に入れるならOKなのだが、彼のポケットに入るならNOだと判断して、「ご免、小さいお金を持っていないから。」と言って走って去った。危ない、危ない。
その時写した1枚が下の写真だ。

 

 

階段下の広場でバナナ売りの女性に会った。インドネシアの女性は、頭の上に乗せて物を運ぶ様だ。



最後の日、マッサージに行った。マッサージは初めての体験だったが、疲れて肩がこっていた体が楽になったような気がした。
午後からは買い物をし、夜、バリ空港から帰国の航空機に乗った。

最後に田舎のレストラン傍の棚田風景を載せてインドネシア旅行記を終る。 



長かった記事を読んで頂いた皆さん、コメントを下さった方々に感謝します。       (完)
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「インドネシア旅行」(7)

2013年06月24日 | 海外旅行「東南アジア」
≪平和記念館とインドネシアの歴史≫

バリ島の第一の都市「デンバサール」市内観光の日、最初に行ったところが「平和記念館」だった。
高さが45mもある石造りの記念館で、ここにはオランダの植民地だった時代の生活などがジオラマで展示されているらしい。
私達はそれを取り巻く周囲の広大な緑地公園を歩いて記念館の正面が見える所に行き、写真を撮っただけで戻った。

 

記念館に行く途中には、造園業者の園地が沢山あり、色々な熱帯の植物が植えられている静かな地域が続いた。
果物などを売る露店が出ていたので、バスから撮影した。
小学校もあって、子ども達が教室の外に出ていた。白いシャツに茶色のスカートという制服を着ていた。

 

 

 


現地ガイドによる歴史についての説明はほとんど無かったので、ガイドブックやネットでインドネシアの歴史を調べた。

それによると、ジャワ島中部の「サギラン村」から1936年にオランダ人の古生物学者が発見した化石が、猿人と現代の霊長類ヒト科への進化の途中という事が判明した。この「ジャワ原人」は、100万年程前に直立歩行し、ジャワ島に生存していたらしい

紀元前5世紀位からインドネシアにはマレー半島やベトナム、ミャンマー、カンボジャ、中国の沿岸部から、多くの人々が渡って来た。その結果、現在のインドネシアは多民族国家で、多数の言語と文化が民族の数ほどあるという。
紀元前2500~1500年には中国西南部から移住して来た民族によって水稲耕作が行われていたらしい
また打楽器「ガムラン」はベトナム北部が起源だし、様々な伝統的な手工芸も多方面から来た移住者達が伝えたとされる。

紀元前後には、「香辛料」を求めに来たインドやペルシャとの交易も盛んになる。その中で仏教国だったインドネシアに「ヒンズー教」が伝えられ広まって行った

8世紀頃、仏教を信仰する王国が「ジャワ島中部の北岸」に栄え、「ボロブドール遺跡」を建造した。
一方で「ジャワ島中部の南岸」に栄えた王国はヒンズー教を信仰していて、「ブランバナン遺跡」を建造したと言われている。その後、「ヒンズー教」の中心地はバリ島に移っていった。

香辛料を求めに訪れていたヨーロッパ諸国の中で、オランダが1602年、ジャカルタのコタに「東インド会社」を築き、少しずつ植民地を広げて行った。そしてポルトガル領だったティモール島東部以外を第二次世界大戦時の日本軍進攻までには植民地にしてしまっていた。
この間、オランダはプランテーション経営をして人々の搾取を強めた。

1908年、医学生が中心となった「民族一体運動」が起きた。
1942年には日本軍が進攻して、オランダの統治は破綻した。
日本は「緩和政策」を取り、最終的には独立させるという方針を決め、民族主義運動で投獄されていたスカルノらを解放。迫害されて来たイスラム教の活動も解禁し、インドネシア語の他に、オランダ語に変わって日本語を教育に取り入れた。
1945年、独立準備委員会を発足させたが、日本が敗戦してしまう。

その後再び植民地化を計ろうとしたオランダとの間で「独立戦争」が起きた。これには2000人の元日本軍人も加わったという。
1947年に初代スカルノ大統領が独立宣言文を読み上げた。再度植民地化を画策したオランダは世界的な非難を受けて諦め、1949年12月のハーグ円卓会議にて「インドネシア連邦共和国」として独立が認められた。
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「インドネシア旅行」(6)

2013年06月23日 | 海外旅行「東南アジア」
≪ライステラス(棚田)≫

島国のインドネシアは、かっては主食の米が不足し、輸入していたが、1985年から国が増産を促したために、今では自給率を達成したという。
バリ島の「デンバサール」から西の山岳地帯では、バトゥール山(標高1717m)の噴火でできたカルデラ湖バトゥール湖が「バリ島の水がめ」となり、火山灰質の豊かな土壌に恵まれた南側傾斜地を利用して米を栽培している。
米の栽培は全て「神事」として、「人と神、人と人、人と自然」の3つの関係が大切だと考えるヒンズー教の信仰と深く結び付いているらしい。
どの農家の敷地にも「家神様」が祀ってあり、農事や結婚、出産などの儀礼をその前で行うという。




貴重な水資源は、先祖から代々組織され、守って来た水利組合「スバック」が管理し、地域の灌漑に責任を負っているのだ。
これらの事を含めてこの地域の棚田は、2012年、「ユネスコの世界文化遺産」に登録された

年間平均気温が27度と高いので、雨期(10~3月)に米の植え付けをする。植えつけた米は4~6ヶ月で収穫できるので年に3期作もできるが、最近は2期作をした後の田にじゃが芋やトウモロコシなどを栽培する「輪作」が行われていた。
「輪作」の方が土壌の地力が回復し、同時に野菜の残渣を土壌に漉き込むことができるので、それが堆肥となり、良いらしいのだ。

6月半ばの田んぼでは、多くの人が集まって稲刈りをしている現場や、畑や庭に脱穀した米を広げて乾燥している様子、米の後に野菜が生育している畑を見ることができた。





日本で売られている黒米や五穀米に混ざって入れてある黒米のほとんどは、インドネシアから輸入されているという。それに日本は関税を778%掛けるので、結果的にとても高価な米になってしまうのだ。
私は最後の日スーパーでの買い物で、「黒もち米」の500gパック2個を買った。2個1kgで確か440円だった。
白米に少しずつ混ぜて、繊維たっぷり、ポリフェノールたっぷりの薄赤色になったご飯を炊いて食べるつもりだ。
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「インドネシア旅行」(5)

2013年06月22日 | 海外旅行「東南アジア」
≪インドネシアの民族ダンス・野生の猿≫

今回の旅行中、2つのダンスを鑑賞した。
その一つは「バロンダンス」で、もう一つは「ケチャダンス」だった。
バリ島のウブド地区は芸能の中心地で、幾つもの舞踊集団があるそうだ

3日目の朝見に行った「バロンダンス」は、民族に伝わる民話を元にしたストーリーを、打楽器ガムランと太鼓の演奏をバックにして演じる舞台劇だった。
野外の舞台には、悪魔と王と王妃、その姫が次々と出て来て会話をしながらダンスを繰り広げるのだが、入場の際に日本語で書いた紙をもらったのに、言葉も分らず、ストーリーも今一つ良く分らなかった。

  

 

また海沿いのジュンジュンガ村で行われている「ケチャダンス」は、小さな円形劇場の中央に焚かれているかがり火の周りに、腰布だけをまとった70人程の男性が口から発する「チャッ、チャッ」という音をバックにして日没寸前から始まった。
これはヒンズー教の創世神話に基づくストーリーを演じていたが、やはり私が理解するのは難しかった。



 

二つのダンスを見て、指の使い方や足裁きなどがカンボジャやタイのダンスに似ているように感じた。

所でこの会場に行く途中に野生の猿がいるのだが、グループの1人の男性が、入り口でいきなり猿に眼鏡を取られてしまったというのだ。聞くと何が起こったのか分らない程の早業だったという。眼鏡はついに戻らず、被害者の男性は「良く見えない」と言って困っていた。旅行保険で賠償されるが、帰国後に眼鏡を作るまで不便だと嘆いていた。

ところで私も、その前日「モンキーフォレスト」という所に行った時、ガイドから「猿には目を合わせないこと」「猿は興味があるものを取ろうとするので気をつけるように」と言われていたのに、ちょっとした事件に見舞われた。
「モンキーフォレスト」で自由行動の時に、私は一人で美しい渓谷の写真を撮る場所に向かった。撮り終ったので帰ろうと1歩後ずさりしたら、突然『ギャッ』という声がした。直ぐ傍に猿がいるのを知らなかった私は、何と大きい猿の脚を踏んでしまったらしいのだ。
素早くその猿は私の足に噛み付いて来たが、幸いな事にジーンズの裾布が噛まれただけで済んだ。
しかし猿はその後も歯をむき出して私に飛び掛ろうとしたので、私は驚きの声を上げた。
すると突然、数匹の猿がその猿目がけて飛び出して来て、その猿を追い払った。
お陰で私は助かったのだが、何故、数匹が目ざとく駆けつけて来て私を助けてくれたのか、今でも分らない。

  
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「インドネシア旅行」(4)

2013年06月20日 | 海外旅行「東南アジア」
≪プランバナン寺院遺跡群≫

ここは5k㎡に渡って856年に建てられたヒンズー教の寺院遺跡が点在しているところだ。
しかし、1584年に火山が噴火した際、小寺院224棟が倒壊し、現在もそのままになっていた。

 
 
その中央が「ロロ・ジョングラン寺院」だった。
高さ47mもの炎が燃え上がっているかの様な天に聳える形の寺院は、古代インドのラーマヤナをモチーフに造られた「シヴァ神殿」である。ヒンズー教寺院としての規模は東南アジアで最大だそうだが、その巨大さに圧倒された。

   

   

また「シヴァ神殿」の左右には、高さが少し低い「ブラフマ神殿」と「ヴィシュヌ神殿」があった。

「ロロ・ジョングラン寺院」の見学を終えて入り口に戻る頃には、夕闇が迫って来ていた。

 
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「インドネシア旅行」(3)

2013年06月19日 | 海外旅行「東南アジア」
皆さんに暑さと強行軍だった旅行のための疲れを心配させたが、時差が-2~-1時間と少なかったのと、帰りは機内で5時間程寝られたのが良かったのだろうか。
それで今回は思った程の疲れは出なかったので、午後に帰宅後、夕方まで3時間程1週間分の庭の草取りに精を出した。
やはり欧米などの旅行よりも、時差が少ない東南アジアの旅行は、体に優しいと思っている。

出かける前日に開花した「ボタン」は、留守中に満開となってしまっていたので、全て花を摘み取った。
今は「琉球つつじ」と「ジャーマンアイリス」「都忘れ」「除虫菊」が、咲き揃っている。「さつき」も咲き始め、ようやく庭が賑やかになった。
薔薇がいない間に花芽を沢山付けたので、嬉しいが、部分的に油虫がつき出したので手で潰している。
昨日は4箇所支柱を立てた。

「ほうれん草」「小松菜」「春菊」が食べ頃を迎えたので、近所に差し上げたり、おひたしにして食べている。
翌日は農園にも行って、草取り、じゃが芋の芽欠きなど、溜まっていた畑仕事を1日がかりで全てやり終えた。
この後は、少しゆっくりと過ごせるのではと思う。

≪世界遺産 ボロブドール遺跡≫

インドネシアでの2日目は、睡眠時間5時間でモーニングコールが鳴り、起きて支度をした。
レストランが開く前にホテルの玄関に出て見たら、丁度朝日が昇った所だったので写真を撮った。
ホテルはジャワ風で大きい中庭を囲むように客室が配置された5階建てのホテルだった。

 

 

朝食にはパイナップル、赤と黄色のスイカ、マンゴーなどの南洋の果物がたっぷりと出ていたが、バナナが無かったので不思議だった。

 

7時半にバスに乗り、「ジャワ島」の「ジョグジャカルタ」を基点に「ボロブドール遺跡」と「プランバナン遺跡」の観光に向かった。両者とも世界遺産に指定されている。
「ジョグジャカルタ」の朝は、日本車とバイクで溢れていた。バイクは1台に付き大人2人子ども2人の4人まで乗ることができるという。国道沿いには古い家が多かった。

 

先ず「ボロブドール遺跡」に向かった。
この遺跡が建設されたのは824年らしいが、その直後に火山灰で埋められて1000年もの間、存在が知られなかった
1814年、ジャワを占領していたイギリスの総督ラッフルズがジャングルの中から掘り出したという。
高さが23cmのブロックを100万個積み上げてできていた。回廊には釈迦の誕生や男女それぞれの悪行など、仏教に関するレリーフが沢山彫られていた。ガイドの説明では、2500面、1万人を超える人のレリーフだという。

また釣鐘形をした小中大のストーパがあるが、下の段のひし形の窓があるストーパは「歪んだ心」を、中段の正方形の窓のストーパは「安定した心」を表し、最上段の窓が無い大ストーパは「完全な無の境地」を表すと言われているらしい。
私は、1000年前にこの地に生きた人々の信仰とそれを現す彫刻技能の高さに思いを馳せた。

 

 

   
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「インドネシア旅行」(2)

2013年06月17日 | 海外旅行「東南アジア」
≪無事に帰国した≫

昨日午後、インドネシアから予定通りに無事帰国した。
インドネシアは、予想通り、赤道の傍の暑い国だったが、4~9月は乾期の筈なのに今回は湿度が高く、気温は28~32度あったので蒸し暑かった
強い直射日光で紫外線もきつかった。私は日光湿疹になり易いタイプなので、日焼け止めクリームを塗り、帽子を被って綿のマフラーを首に巻いていたが、顔や首が痒くて困った。

もう一つ心配していた虫刺されだが、夕日が沈む頃から野外で行われた「ケチャダンス」の会場に蚊やブヨがいた。
持参したネット(手作り)をすかさず被り顔は防護したが、サンダル履きの素足は刺された。

最後に体調だが、旅行日数は6日間と短かったとはいえ、ホテル出発が7時半~8時半、ホテルに戻る時間は21時~22時と信じられない程のハードなスケジュールだったので、睡眠時間は連日5~6時間しか取れなかった
しかも昼は長距離移動が少なく、見学箇所が多いからバス内で寝ることもできず、その上、結構急な段差がある寺院の階段や斜面の移動も多かったのでとても疲れた。70歳代と思われる方が大勢だったので、皆大変だったと思う。
(1人の女性が、バリでの最終日に免税店で倒れ、暫く動けなかったという出来事もあった)
私は何とか無事に終えることができて良かった。

島が13,000以上もあるインドネシアだが、最初に「首都ジャカルタ」がある「ジャワ島」に行って観光し、次に「バリ」がある「バリ島」に飛行機で行って観光しただけだった。
「ジャワ島」で行った「ボロブドール寺院遺跡群」と「プランバナン寺院遺跡群」の二つの世界遺産は、特に見応えがあった

食事は、香辛料を少ししか使わないので、どれも美味しく食べることができた
また、熱帯の果物が豊富で美味しかった。

そんな訳で、ハードだったが、思い出が多い良い旅になった。
次回から旅日記を書くが、今回は幾つかの主な場所に絞って書く積もりなので宜しく。

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「インドネシア旅行」(1)

2013年06月10日 | 海外旅行「東南アジア」
≪明日から6日間の旅に出る≫

本日でようやく外国旅行体験「ルーマニア・ブルガリア」を書き終える事ができて良かった。安心して明日から「インドネシア」に出かける
明日は早朝7;50の飛行機で成田に行く。帰りは16日昼の予定。

インドネシアは、赤道近くに位置していて年中暑い熱帯性気候の国だ。
東南アジアの他の国々に比べると島の数が多く、合計面積は日本の約5倍と広い。
しかし人口は日本の2倍で、多数の民族が住む多民族国家だ。
87%がイスラム教でキリスト教は10%、仏教は0.3%だという。

一番の心配は暑さと虫さされだ。覚悟はして行くがどうなることやら…

当地もやっとこの所気温が上がり出し、晴天続きなので、今朝も庭に水を撒いた。
ボタン、ジャーマンアイリスが開花し、薔薇もようやく葉が出揃った感じだ。
借りている市民農園にも7時に行って来たが、5月29日に種を蒔いた枝豆がようやく出揃っていた。しかし、隣の畑の枝豆が、雌鹿に食べられたというので私の畑も心配だ。
1週間後、帰国した時は、庭や畑の様子が変わっていることを期待している。
荷物造りはこれからする。
健康状態と思いがけない事故に注意し、出かけて来るので宜しく。







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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(16)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
観光最後の日の朝、
「アレクサンドル・ネフスキー寺院」
にもう一度行った。
すると たまたまその日は「キリル文字使用記念日」の「国民の祝日」で、大勢の人達が11時に行われるパレードのために町に出て来ていた。

「アレクサンドル・ネフスキー寺院」では、丁度10時からミサが行われる所だった。
市民が見守る中、儀礼服を着た大司教が聖書を朗詠した。TV局のカメラマンも何人も来ていたので、私達にも普段できない写真撮影が許された。
そして何と「イコノタス」の中央部が開いていたのだ。なかなか出会えない様な出来事だった。





その後、中心街をぶらぶらした。大通りで車の通行を遮断して、各種団体が行進しながらパフォーマンスを披露していた。民族衣装を着たグループも多かった。
広場で大統領が挨拶する場面もあったらしいが、私は人が溢れていて傍に行けなかった。友人はしっかり大統領の写真を撮っていた。
最後に「国立劇場」前の広場に行くと、小グループが歌を唄ったり楽器を演奏していた。現地ガイドが頼むと、子ども達は写真を撮らせてくれたり、楽器を演奏してくれた。
思いがけない祝日に遭遇できて本当に良かった。

  

  

これで全ての観光は終ったので、昼食後、バスでソフィア空港に向かい、帰国の途に着いた。
航空機はブカレストで一端着陸して乗客を乗降したが、私達は機内で待機して、再びドーハに向かった。
ドーハで乗り継ぎ、10時間かけて日本時間5月25日17時50分に成田に着いた。
私は成田のホテルに1泊後、翌朝10時20分のJALで新千歳空港に無事帰って来た。

私には11日間の旅行だったので疲れたが、今回も気が合う旅友と出会ったり、楽しい思い出が沢山できた良い旅行になった。
最後に、長い記事に付き合ってくれた皆さんに、お礼を言いたい。
そして、日本からは遠い地にある国「ルーマニア」と「ブルガリア」に、今までよりも親しみを感じてもらえたら幸いである。
                                       (完)

 

 



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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(15)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
≪ブルガリア/ボヤナ教会・リラの僧院≫

旅も8日目となり、ブルガリアのハイライト、「リラの僧院」に行く日だった。
初めに、ソフィアのホテルを出て南西8kmの町「ボヤナ」にある世界遺産「ボヤナ教会」を訪れた。
この教会は標高2000m級の山が連なるビトシャ山の麓にあり、11世紀に建築されてから2度増築したというが、本当に小さな教会だった。
しかし、中のフレスコ画が価値があり、世界遺産になっているのだ。(内部の写真撮影は禁じられていた)
写真の左側が最古の建物で、中のフレスコ画も素晴らしかった。

  

それから110km南にある「リラの僧院」に行く途中で、「コウノトリ」が巣を作る村を通った。また昼食は、渓谷の傍に建つレストランで「マス料理」のランチを食べた。美味しかった。

  

「僧院」は「リラ山脈」の奥深く、曲がりくねった山道を登った先にあった。「リラ」とはトラキア語で「水の豊かな地」という意味だそうだ。
着いた時は雨が降り出していて、まだ午後を過ぎたばかりなのに薄暗かった。

  

ここは元々10世紀に『イヴァン・リルスキ』という僧侶が隠遁の地に選び、小さな寺院を建てたのが始まりという。14世紀に王に庇護されて今の様な形になり、「ブルガリア正教」の総本山となった。
500年間のオスマン朝の支配の時代には、税金を納めることでこの僧院の存在が黙認されたらしい。

周囲を取り囲む僧坊の中心に「聖母誕生教会」が建てられていて、三方のアーケードの壁と天井にぎっしりと描かれたフレスコ画ははっきりとした色彩の絵で圧倒された。
教会内部の撮影は禁止されていたが、幅10mもあるという木製の「イコノタス」(その奥は天国に通じると考えられている仕切り)には、非常に精巧な彫刻がされていて、それに金箔が張ってあり、輝いていた。

 

  

360もあった僧房は、1833年大火で「フレリョの塔」以外は消失してしまった。その後復旧再建され、1983年世界文化遺産に登録された。

 
 
僧房の一部が公開されていた。写真は上級僧侶の部屋であろう。また、裏側に回るとライラック(リラ)の花が植えてあり、花は終りかけていた。



「僧院」には「歴史博物館」が併設されていて、貴重な文物が展示されていた。そこも撮影は禁止されていた。
 
その夜、オプショナルに行かなかったので、友人と夕食をホテル傍のスーパーマーケットに買いに行った。ダンボールショップの様な形式の大型店で、何でも大量の品物がパックに詰められていて驚いた。すし屋があったので、注文して巻いてもらいホテルで食べた。まあまあ美味しかった。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(14)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
≪ブルガリア/首都「ソフィア」観光≫

「プロブディフ」観光後、150km西北西にある首都「ソフィア」までバスは走った。
「ソフィア」は、ブルガリアの西部、ビトシャ山の麓にある町なので、標高が550mもある人口140万人の高原都市なのだ。私には何となく暑さが和らいだ様に感じられた。

ガイドブックに拠ると紀元前7世紀に「トラキア人」が町を造ったが、紀元後は「ローマ」の支配を受けた。そして1398年~19世紀の500年間は「オスマン朝」が支配した
19世紀末の露土戦争で独立したが、第二次大戦後は政治的に旧ソ連に組み込まれ、社会主義化が推し進められた。旧ソ連の民主化後は、ブルガリアも親西欧路線を推し進めている。

「ソフィア」に着くと直ぐ、バスを「アレクサンドル・ネフスキー寺院」傍の駐車場に止めて中心部の市内観光をした。

この寺院は、1878年、オスマントルコからの独立を果たした露土戦争で、ロシアから支援に来て戦死した20万人のロシア兵を慰霊するために、1882年から40年の歳月をかけて建造した寺院だ。
高さ60mの金色ドームと12のドームがあり、巨大なシャンゼリア、モザイク画で飾られている。
余りに大きいので、かなり離れないと写真に収められなかった。内部の撮影は禁止だった。

この寺院を見た時、突然、昔唄ったロシア民謡『バルカンの星の下に』を思い出した。『黒き瞳いずこ 我が故郷いずこ ここは遠きブルガリア ドナウの彼方…』という歌だ。(調べたら、第二次世界大戦末期の1944年頃、故郷を懐かしんだロシア兵たちに歌われた歌だという)

 

次に「聖ソフィア寺院」「聖ロシア正教会」「旧王室」「大統領官邸」「旧共産党本部」「聖ソフィア像」「バーニャ・バシ・ジャーミャモスク」「聖ゲオルギ教会」と順に見学した。支配者が変わる毎に建てられたそれぞれの時代の文化財が肩を並べていた。
 
①聖ロシア正教会(1913年建立) ②バーニャ・バシ・ジャーミャモスク


③大統領官邸と衛兵交代式


④聖ソフィア像           ⑤聖ゲオルギ教会(4世紀の温泉施設もあった教会)

  

⑥聖ペトカ地下教会(14世紀オスマン朝時代に遠慮がちに半地下で建てられた教会)

  

「アレクサンドル・ネフスキー寺院」傍の緑地に、日本とブルガリアの国交40周年を記念して1999年10月に日本が桜の苗木50本を贈ったという記念碑が立っていた。

 

 



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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(13)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
≪ブルガリア/プロブディフ観光≫

旅行7日目は、前夜の宿泊地「プロブディフ」観光から始まった。
「プロブディフ」の歴史は古く、紀元前19世紀にはトラキア人が住んでいたらしい。
現在は人口38万人のブルガリア第二の都市だ。
旧市街の傍に「マリッツア川」が流れていて、両岸には街路樹が植えられ散策路が整備されていた。ホテルは旧市街の傍だったので、歩いて屋根のある橋を渡り、旧市街に向かった。橋に行って見たら両側が店になっていて、川は全く見えなかった。

 

先ず、「イマレット・ジャーミヤモスク」に行った。かっては救護院だったらしい。(写真は無い)
続いて「ジュマヤモスク」に行った。14世紀のオスマン朝皇帝「ムラト2世」の時代に建てられた中型のモスクだが、入り口に清めの場所があった。男性は1階、女性は2階で祈るのだ。
モスクには一切の偶像は置かれていない。一番奥の壁が凹んだ所が1番大切な場所でメッカの方角を現している。信者は1日5回、その方向に向かって祈りを捧げるのだ。

  

 

「ジュマヤモスク」の傍の地下に「ローマ時代の競技場跡」の一部が発掘保存されていた。かって戦車の戦いやレスリングなどが行われた競技場で、観客は3000人が入れたという。(全体像がわかる模型が飾られていた)
競技場から数メートル上にある現代の地面を見上げると、そこに現代の市民が暮らす建物と生活があり、不思議な感じがした。ローマが支配した地域には、まだ発見されていない似たような地下遺跡が多数あるのだと思う。

  

 


暫く東側に歩いて坂を登ると「聖処女教会」に着いた。その傍に丘の下の町を臨むことができる半円形の「ローマの円形劇場跡」が残っていた。
3000人が入れる立派な劇場跡で、今でも夏にはコンサートや野外劇が行われているという。傍にあった「つる薔薇のパーゴラ」が素敵だった。

  

その後、木造建築が保存されている「民族復興地域」に行った。ドイツの木造建築に似た「木組み様式」で建てられた建築が多かった。近くに1847年に建てられた「民族博物館」があった。私達はそこのトイレを借りた。

  

一つ、面白い事があった。写真を撮りたい店があったので、私は中にいた男性店員に撮っていいか聞いた。すると首を横に振ったので、駄目なんだと思って出て来た。添乗員に言うと、「首を横に振ったのはOKという意味です。駄目なら縦に振ります。」と言うので、また行って写真を撮って来た。
ブルガリア人のしぐさには、日本と反対のしぐさがあった。


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(12)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
(6日目の記事が抜けていたので、ここに掲載する)

≪ブルガリア/野外博物館、薔薇博物館、トラキア人の墓≫

6日目はヴェリコ・タルノヴォを出て50km南西の「カブロヴォ」近郊にある「エタル野外博物館」に立ち寄った。
ここは1960年に造られ、職人町を再現した場所だった。「シベク川」の水を利用して水車を回し、穀物を搗いたり、糸をつむいだり、刃物を研いだりする動力に利用していた。木彫り細工、刃物、毛皮、パン、お菓子などを造って売る店があった。

  

さらに50km南に走り、「カザンラク」にある「薔薇の香油博物館」に行った。香油の採取法が展示されていた。
毎年6月の初めに開かれる「薔薇祭り」でその年の「ミス薔薇祭り」が選ばれるそうで、歴代の優勝者の写真も飾られていた。
「カザンラク」とは、薔薇の香油を作る時に使う「銅の釜」の意味。薔薇の谷で一番大きい薔薇栽培の中心地だった。
薔薇は早朝に花びらを摘み、直ぐに処理をするそうだ。
博物館の庭には、沢山の薔薇が咲いていたが、油虫にまみれた薔薇も多かった。

  

 

「香油博物館」を出た後、現地ガイドさんの好意で薔薇農園に立ち寄って、香りの強い「ダマスクス系の薔薇」を摘む体験をした。
農家の経営者が来ていたので、「油虫などの害虫対策はどうしているのか。」と質問したら、「化学薬品は使わず、自然素材の薬を毎日撒いている。」という答えが返って来たので、私は納得した。

 

その後、「カザンラク」で発見された「トラキア人の墓」(レプリカ)が展示されている場所に行った。
ここは1944年に防空壕を掘った時、偶然発見され、今はユネスコの世界遺産に指定されている。
墓に描かれているフレスコ画は、紀元前3~4世紀のもので、戦闘場面、葬送儀式が描かれていた。絵に拠ると、夫が妻の手首をつかんで別れをしている様子が克明に描かれていた。
左の写真は墓の場所。右は別の場所に作られているレプリカ。その内部は撮影禁止だった。
(レプリカの写真は、展示場の入り口にあった「ドーム型の天井に描かれているフレスコ画」。馬の絵も精巧で驚かされる)

 

  
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(11)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパ」
≪ブルガリア/ベリコ・タルノヴォ観光≫

「イワノボ岩窟教会」から南南西90kmのところの町「ベリコ・タルノヴォ」に向かった。
この町は、 「バルカン山脈」の東端にあって、幾つかの丘に囲まれた蛇行する「ヤントラ川」の渓谷に開けた町で、私達のホテルはその渓谷を背にして建てられたものだった。
また1187~1393年の200年間は、ブルガリア帝国の首都だった所でもある。

ホテルの5階にフロントや喫茶があり、そこから下の渓谷の中州を臨む景観が素晴らしかった。中州には「ベリコ・タルノヴォ美術館」があった。川の向こうに町が広がっていた。
 
  

  

ホテルは旧市街にあったので、そこから歩いて美しい旧市街を散策し、ブルガリア帝国時代の宮殿跡がある「ツァレベッツの丘」に行った。
1393年、オスマントルコ軍との3ヶ月の戦いで征服され、宮殿は破壊された。現在は頂上に「大主教教会」が建っていた。
その後500年間、ブルガリア全土はオスマン朝に支配された。

途中、夕立の強い雨と雹が降ったので小さなみやげ物屋に非難した。私はこの店で薔薇の香りがする「薔薇ハンドクリーム」を10個買った。雨が止んだので出て見たら綺麗な虹が掛かっていた。

  

 
 
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