花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

《10》旧日本軍が朝鮮で起こした「提岩里事件」を知っていますか

2007年02月28日 | 海外旅行「韓国」
 今朝の朝日新聞の一面に「3.1運動の鎮圧 詳述 宇都宮大将15年分の日記」のタイトルで、
 「日本統治下の朝鮮で1919年に起こった3.1独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将の15年分の日記など、大量の資料が見つかった。独立運動への鎮圧の実態や、民族独立運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている」という記事が私の目に飛び込んで来ました。

 その日記には「1919年4月15日起こった「提岩里事件」は、ソウル南方で日本兵が約30人を協会に閉じこめ、虐殺、放火。宇都宮らの知らない間に発生した事件だったが、朝鮮軍は発表で虐殺や放火を否認する。日記では「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」「虐殺、放火を自認する事と為り、帝国の立場は甚だしく不利益」となるため、幹部との協議で「抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺、放火は認めざる事に決し、夜十二時散会す」(4月18日)」と記されていると報じていました。 
  
 私が韓国を訪れたのは、確か9年前の夏でした。
 その旅を今まで外国旅行体験記になかなか書けなかったのは、他の国とは違い、私にはとても重く感じられた旅行だったからです。でも今朝の新聞を読み、やっぱり書かなければと思いました。

 そのツアーは「韓国の歴史と文化を訪ねる旅」で、6日間、韓国の世界遺産だけでなく、朝鮮統治時代の日本政府や日本軍が犯した加害の歴史跡を訪ねた旅でした。

 訪れた場所の一つが、朝刊に出ていた「提岩里事件」が起きた協会でした。
 そのキリスト協会は、のどかな田園地帯にあり、建て替えられたばかりだという小さな協会でした。
 朝鮮人の遺骨収集のために北海道にも何度か来たことのある協会の羹牧師は、静かな声で私達に説明を始めました。

 「1919年のその日、日本軍から、以前起こした行為を謝りたいので、村の男性は全員、協会に集まるように、という連絡がありました。それを信じて村の男性のほとんどの人達が集まったら、間もなく、外から鍵を掛けられて放火されました。窓から逃げようとした人達は協会を取り囲んでいた日本の兵隊に射殺されたので、ほとんどの人が逃げることができずに焼死し、助かった人は僅か一人だけでした」と。

 礼拝堂の階下に事件の展示室が作られていて、数十年前のその事件を絵や当時の新聞記事などを使って、わかりやすく展示していました。中に、当時、ドイツの新聞がその事件を報じたコピーもありましたが、その時は未だ、日本は事件を認めていないという説明でした。
 
 私は、事件の起きた場所に立ち、その時の様子を想像したら、直接、私自身がした事ではないのですが酷く胸が詰まり、「加害者である日本人の一人として、本当に申し訳ありませんでした」と、羹牧師に心から謝罪しました。
 すると彼は、「日本軍だけが悪いのではないのです。当時、日本軍の植民地支配を跳ね返す力がなかった我が国も悪かったのです。」と言ったのです。思いがけないその言葉に、私は少しだけ救われた感じがしました。

 翌日、日本の歴史教科書問題を契機に韓国が作つた「独立記念館」に行きました。
 そこでは、日本に支配されていた当時の数々の史実が、子どもでもわかるように、実物大の人形や模型を使って幾つもの部屋に展示されていました。
 それを見ながら小学1~2年生位の男の子どもと母親が、私達の傍で何か話しをしていました。
 どんな事を話しているのかと同行者の一人がガイドさんに訪ねると、「『日本人って悪い人だね』と言った子どもに対して、母親が、『昔の日本人は悪かったけれど、今の日本人は良い人達だから、決して嫌いになったら駄目だよ』って、言ったのです」と、彼女は涙を浮かべながら答えてくれたのです。その説明を聞いて私の胸も熱くなりました。

 夕方、3.1独立運動の発祥地として知られ、当時の様子を表した大きなレリーフの銅板が、物語風に幾つも並べられているソウルのタプコル公園に行きました。
 丁度、大勢の高齢者が集まり、碁をしたりして夕涼みをしていましたが、私達を見てほろ酔い気味の一人の老人が近づいて来ました。「お前達は日本人だろう。ここに何しに来たのだ」と大声で言いました。私達は集まって来た人達に取り囲まれてしまいましたが、ガイドさんが「日本人ですが、このレリーフを見に来ました」と説明し、何とか収めてくれました。

 私達にとって韓国の旅は、日本人であることが恥ずかしくなる様な辛い旅でした。
 でも、日本との歴史的な関係の事実を知らなければ、韓国の人達、ひいては世界中の人達と、本当の相互理解や国際交流はできないのだと、考えさせられた旅でもありました。

 去年、私は図書館から、フイリピン、韓国で中学生が学習している歴史の教科書を借りてきて読んでみました。そこには私のような普通の日本人なら、まだまだ知らない歴史が、沢山書いてありました。私達は知らなくても、その国の人達は、学校で教えられて知っているのです。

 1909年、ハルビン駅で伊藤博文を銃殺した殺人犯の安重根(アンジュグン)は、韓国では英雄です。何故なのか。(安重根記念館にも行きました) 
 また、日本にいる外国人の中で一番多いのは韓国朝鮮人です。何故なのか。
 世界の中でも旧日本軍にだけ設けられたという従軍慰安婦にさせられた女性のほとんどが韓国人だったのですが、どうしてか。
 私達は、そうした歴史的事実や答えを知っている必要があると思うのです。
 そのためにも、この度発見されたこの日記が、新しい歴史の真実を解明するのに役立って欲しいと心から思います。
 

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《9》 中欧、トルコ、ニュージーランド、ドイツ、スイス、北イタリア、ハワイ

2007年02月27日 | 海外旅行 色々
私が初めて中欧のハンガリー、チェコスロバキア、オーストリアに行ったのは、冷戦終結後数年経った年の8月でした。
 中世の建築物や美術品などの文化遺産も素晴らしく、また、音楽を日常的に楽しむ国民性を羨ましく思いました。
 ハンガリーの首都ブタペストで行った野外音楽会は、足を幾つも蚊に刺された事を除けば素晴らしい演奏会でした。中央市場は多様な種類のハム・ソーセージ、チーズなどが所狭しと売られていて市民で賑わっていました。 

 ウイーンでは世界最初に作られた観覧車に乗り、チョコレート風味のスポンジケーキに生クリームがたっぷりと添えられたザッハトルテを味わいました。
 翌日、自由時間に訪れたウイーン美術史美術館では、オランダの農民の生活と寓意画を描いた事で有名なブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の喧噪」他、何枚もの絵にも出会い、感激しました。町中では、音楽会のチケットをモーツアルトの仮装をした人が売っていて、楽しめました。

 チェコでは、私達が昼食をしたレストランの別室で、結婚式を終えたばかりらしい新郎新婦が、十数人の親族に囲まれて祝宴を開いていました。日本の結婚祝賀会に比べると、とてもこぢんまりしていて、温かい雰囲気が感じられ、好感が持てました。
 またチェコは、児童文化に優れた歴史的な業績を上げている国ですが、出店でも手作りの「赤ずきん」や「モグラとズボン」のストーリーを演じる事ができるように工夫された人形が沢山売られていました。娘は、赤ずきんのスカートの下に狼が隠された人形を、私は指の数だけカラスの子がついている手袋人形を記念に買いました。



 
 ヨーロッパとアジアの中継地トルコには1月に行きました。
 パムッカレの石灰棚、カッパドキアの岩窟群など、多くの変化ある自然と、トロイ遺跡、エフェス遺跡などの古代遺跡を見ました。私は遺跡では、まるでギリシャやローマに行った様な気分になりました。
 また、早朝から寺院の祈祷時間を報せる拡声器の声が響き渡るイスラム文化にも、初めて触れた旅でした。




 映画『ロード・オブ・ザ・リング』を子どもと一緒に見て、撮影地ニュージーランドの素晴らしい自然が見たくなり、1月1日に二人でツアーに参加、出発しました。
 赤道を挟み、丁度、日本の反対側に位置するその国は夏を迎えていました。氷河の浸食でできた美しいミルフォードサウンドや無数の羊がどこまでも続く広大な農場で草を喰む牧歌的な光景など、正に映画の通りの雄大な自然がありました。バスが通った道路沿いに『ロード・オブ・ザ・リング』の撮影セットの一つが残っていました。ワイトモ鍾乳洞では土蛍を初めて見ました。

 また、ニュージーランドは食料輸出国ゆえに、国を上げて安全性の管理にとり組む姿が印象的でした。
 スーパーマーケットに行きましたが、卵は30~40個単位、牛乳は3~5L単位、肉は1~5kg単位などと、売られている単位がやたら大きく、しかも安いのに驚きました。 
 車を生産していない国のため、会社名などがそのままに残っている中古の日本車を沢山見かけました。文字を消さないのは、日本車だと良い車だと誇れるからだと聞きました。
 日本と違って労働力不足のため、ワーキングホリディの制度を利用して働いている若い日本人を何人も目にしました。
 また、ニュージーランドは、オゾン層の破壊が進んでいるという南極に近く、紫外線が強いため、条例で、子ども達を幼稚園や保育所、小学校に出す時は、親には日焼け止めクリームを塗る義務が決められていると聞きました。帰って見ると、私もかなりな日焼けをしていました。




 そして一昨年の9月には、ドイツでロマンチック街道を巡って中世の歴史に触れたり、スイスでは登山電車を乗り継いで4000m級のユングフラウ、アイガー、メンヒの展望台まで登りました。
 南ドイツでノイシュバンシュタイン城を観光してから、バスでスイスへ向かった時、運転手が、ガソリンを安いオーストリアで入れるからと言って、国境で少し迂回してオーストリアに入りました。20分給油してから、また、スイスへ向かいましたが、国境を超える時は何の検閲もありませんでした。間もなく、スイスらしく、すでに雪を抱いた山々がバスの両側にそびえ立つのを楽しみながら走る内に、まっ暗くなりました。
 翌朝、ホテルの部屋のカーテンを開け、窓の外を見てびっくり。目の前にユングフラウが雄大な姿を見せていたのです。
 バスで登山電車が出るグリンデルワルドに向かいました。電車に乗り込み、少しずつ高度話を上げて行くにつれ、眺めの素晴らしさに大感激しました。途中で電車を乗り換えて最後の展望台に行きました。そこでは、ユングフラウ、メンヒ、アイガーの雄大な山々が連なっている姿を目の前にできました。遠くにアルプスの山並みも美しく光り輝いていました。自然を観光の目玉にするために莫大な投資をして、世界中から観光客を集めるやり方が羨ましく思えました。

 ドイツのライン川下りの船内で、その日が私の誕生日である事をを知った同席のアメリカ人のグループから、急遽「ハッピィバースディ」の歌と飲み物をプレゼントされた事が、旅の良い思い出となりました。




 去年春の北イタリアの旅では、その歴史と残された文化、芸術は素晴らしかったのですが、EU統合後のイタリアのせち辛さを強く感じました。
 リラがユーロになってから、物価の多くが切り上げられたそうですし、嫌な思いも経験しました。
 まず、個人で行ったローマの国立博物館で、10ユーロ札を出して7ユーロの入場券を買おうとしたら、売っていた中年の女性に 『釣りがない』と言われ、暗に釣り分のチップを要求されました。私は釣りができるのを30分も待ってから、もう一度買おうとしましたが、同じ事を言われたので、入場を断って帰って来ました。見ていると、どうやら日本人の私達だけが券売りの女性に狙われた様です。国立の博物館なので、その女性の身分は公務員だと思うのですが…
 左下の写真は、中世の小都市サンジミニャーノの塔を門の内側から撮ったものです。右下はベネチァの協会のドームを船の中から撮りました。

 

 また、個人で入ったベニスのレストランで、食後2階のトイレに行った所、入り口に男が二人立ちふさがり、「40ユーロ出せ」と言うのです。私はトイレを断って下に下り、コーヒーを飲んでいたら、暫くしてその男達が下りて来ました。階段の傍のテーブルにいた私達を見て、「金はいらないから使え」と言いました。やっと用を済ませて出ようとすると、何と入り口近くのテーブルでさっきの男達が食事をしているのです。彼らは他人の店で勝手に荒稼ぎをしているマフィアなのだろうと思いました。

 バスがトイレを借りるために寄ったお土産屋やカフェの大半は、価格がやたら高い商品を売っていました。日本の価格と比べて私はそう思ったのですが、最後に自分で行ったローマのテルミノ駅地下のコンビニは、現地の人も沢山利用するだけあって、ほとんどが適正価格でした。でもイタリアは消費税が高かったので、私は最小限の物しか買いませんでした。帰りに飛行場の免税店をのぞきましたが、免税で有るはずなのに、これまた値段がほうがいに高くて驚きました。イタリアってそんな国だと思います。お陰で、持って行ったお小遣いのほとんどを残して帰りました。

   




 去年の年末には、初めて常夏の国ハワイの4島巡りのツアーに参加しました。毎朝、次の島に行くための飛行機に乗りました。飛行機がハワイの人の足でした。ハワイ島から隣のマウイ島に飛んだ時、左側の窓からマウナケア山の山頂に並ぶ天文台が見えました。その一つが日本のすばる天文台でした。機会があったら、次はスバル天文台まで行きたいと思いました。
 また、北海道に住む私にとっては、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの南国の花々が、年中色取りどりに咲き乱れているハワイの気候を羨ましく思いました。でも、四季がはっきりしている日本の気候にも良さがあるとも考えました。
 この旅行では、キラウェア火山の火口を散策したり、自由行動日に登ったホノルルのダイヤモンドヘッド登山が一番の良い思い出となりました。

 上の写真左は、キラウエァ火山の展望台で撮りました。現地の人が信仰している恐ろしい女神様の怒りを沈める(噴火を抑える)ために供えた花かも知れません。右の写真は、オアフ島のダイヤモンドヘッド頂上から、州都ホノルルの市街を撮影しました。この日は、登山口に着くまでは小雨が降っていましたが、登り出すと晴天になりました。

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私の軽登山略歴 《4》 2004年・2006年

2007年02月25日 | 軽登山・登山・軽スポーツ


 2004年 

 3月に60歳で38年間の仕事を停年退職しました。
 5月の「藻岩山」スキー場リフト上コースで、初めて雉と対面でき幸せでした。
 6月にはバスツアーで日高の「アポイ岳」に、また8月には網走まで7時間掛けて車で走り、翌朝、網走から知床の「ホテル地の果て」迄走り、木下小屋から一人で「羅臼岳」に登りました。
 二山とも今まで以上に疲れやすく、山頂を眼前にした8合目当たりでギブアップしてしまい、いよいよ年齢的に体力が衰えたのかなと残念に思っていました。

 ところが秋に思いがけない病気(乳がん)になっている事が分かり、手術そして病院通いをする羽目になったのです。
それからの1年半は、軽くパークゴルフをしたり、ウオーキングをする程度で、登山は諦めざるを得ませんでした。

 2006年登山再開

 少しずつ体力が付いて来たと感じていた頃、友人から「雨竜沼湿原」(7月8日)のバスツアーに誘われたのです。それが契機になって再び登山を再開しました。

 ①「雨竜沼湿原」 今までの私は一人での登山が多かったのですが、このツアーでは雨後の滑りやすい岩だらけの登山道を、標高差を300m、2時間で若い男性添乗員に追われるように登らされました。
 さらに湿原に着くと1時間で遊歩道を一回りして来るように指示され、ゆっくりと花々を見る暇もなく、駆けるように回って降りて来ました。ツアー登山の欠点を思い知らされました。
 でも久し振りの登山に、私の気持ちのロックが外されてしまったのです。
 


②「夕張岳」 雨竜沼登山が契機になって元気が出、思い切って7月30日には憧れだった夕張岳(1668m)に登ることにしました。
 前日に友人2人と山小屋に泊まり、朝6時前に出発し、私のペースに合わせてもらってゆっくりと5時間50分かけて頂上に着きました。
 この登山で適切なガイド役の大切さを再認識しました。それと共に、ようやく私は前のような体力の自信を取り戻したのです。

 ③大雪「銀泉台」  

 9月17日には夕張岳に行った友人とバスツアーに参加して、「大雪山銀泉台」(標高1500m)へ行きました。
 紅葉は8分方進んでいて、人出も今年最高と報じられた位多かったのですが、友人と「今度はもっと上の赤岳まで登りたいね」と話したりしました。写真右は、銀泉台から遙か遠くの大雪山系を撮りました。中央の山は二度登った事のある黒岳です。
 山岳連盟の副会長という経験豊富なガイドが、適切な時間配分のガイドをしてくれたので、とても楽に紅葉を楽しめた良い登山でした。
 
 ④「愛山渓沼の平」


 さらに気を良くした私は、翌週の9月23日、一人で「愛山渓・沼の平」登山(1430m)のツアーに参加しました。
 登山道は背丈より高い笹藪に覆い隠された所が多く、また、湿原からの流水で粘土質の道がひどいぬかるみになっていて、私にとっては今まで経験した事の無い程、厳しい登山でした。
 でも山岳連盟会員で大雪山系に経験豊かな熟年のガイド氏のお陰で、「カムイミンタラ」(神々の遊ぶ庭)と名付けられた標高1500mの高地にあるいくつもの沼と、初雪をかぶった山々に映える素晴らしい綾錦の世界を見ることができました。私は大きな感動を覚えて下山しました。

 沼の平は私一人では絶対に行けない所でした。泥だらけの靴と服を「愛山渓温泉」に入って着替えてから、札幌までバスの中で眠りながら帰りました。疲れた身体で運転しなくても良いのもツアーの良さだと納得しました。

 ⑤ハワイ・オアフ島の「ダイヤモンドヘッド」   

 

 11月末にハワイ4島巡りのツアーに参加しました。スーツケースに杖を偲ばせ、最終日の12月2日の自由行動日には、真珠湾を見下ろす休火山の「ダイヤモンドヘッド」に登りました。写真は噴火口の底にある登山口から見た山頂です。
 ホノルルのホテル街から1弗支払ってワンマンカーの循環バスに乗り、登り口迄行きました。(ホノルルのバスには時刻表が有りません。20分も待ちました)
 ガイドブックでは登り1時間と出ていましたが、実際には登り35分、下り28分ととても楽な登山でした。
 頂上の展望台からの眺めは、青い海とビルが林立するホノルルの町、反対側の海岸沿いに広がる整備された緑地などが素晴らしく、休火山の火口を真下に見下ろせたのも貴重な体験でした。それと共に、私にとってハワイの旅の最高の思い出となりました。

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私の軽登山略歴 《3》 2002年・2003年

2007年02月24日 | 軽登山・登山・軽スポーツ

 ⑤2002年 

5年目は、家を早朝出発してニセコ迄1時間半程走り、 「ニセコアンヌプリ(1309m)「チセヌプリ」(1134m)「シャクナゲ岳」(1074m)「白樺岳」(923m)「目国内岳」(1220m)など、ニセコの山々に通った年でした。

 この年はまた、少し遠い当別「道民の森」にも通い、「神居尻山」(947m)「隈根尻山」(971m)に登りました。
ABCの3コースある「神居尻山」は、一番距離の長いAコースを残していましたが、この年の秋にAコースから登り、やっと全部のコースを体験したのです。急登のBコースは、いつも下りる時に利用していました。登りはCコースからが一番楽で、私に適していると思いました。

 秋の母の命日には「手稲山」(1023m)に行きました。

平和の滝奥、ガレ場入口の美しい紅葉に感動しましたが、帰り道の遠さにはすっかりバテてしまいました。

 ところが秋に受けた退職前の人間ドックで、私の「肺活量」が同年齢の女性の平均値の60%しか無い事を知りました。道理で登りの息の切れ方が強かった訳です。医者から「生まれつきなので、どうすることもできません。」と告げられました。
 それまでも登りはできるだけゆっくりと写真を撮ったりしながら行くようにしていたのですが、それからは一層、マイペースで無理をせずに登るように注意しました。

 ⑥2003年

この年は手近な「藻岩山」(531m)に通い、「慈恵会コース」以外に「旭山公園コース」「小林峠コース」「スキー場コース」「スキー場リフト下コース」と藻岩山の幾つものルートを体験しました。
 それ以来、頑張りたい時は「慈恵会コース」から楽をしたい時は負担の少ない「スキー場リフト下コース」から登るようになりました。
 「藻岩山」は大都市の傍にありながら、手軽に四季の変化を楽しめる素晴らしい札幌市民の山だと思います。

 春には「尻別岳」(1107.2m)に喜茂別コースから登りましたが、高めの気温と急登続きできつかったけれど、目の前の雄大な羊蹄山に感動しました。

 8月6日には2回目の「大雪山縦走」(黒岳ロープウエイ~旭岳ロープウエイ)ツアーに参加しました。
 今回は晴天に恵まれましたが、おにぎり3個と水だけで、10時間半の行程を頑張ってついて行けた事が嬉しかったです。

旭川の女性山岳会員の適切なガイドに感謝しました。
 

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私の軽登山略歴 《2》 2000年・2001年

2007年02月24日 | 軽登山・登山・軽スポーツ

 ③2000年

 この春は薬局で生ゴムのサポーターを買い下山時に傷む左膝に巻いて出掛ける事にしました。これは結構、効果がありました。
 春の足慣らしに「藻岩山」(531m)に3度通い、夏には「札幌岳」(1294m)「神居尻山」(947m)「空沼岳」(1251m)「岩内岳」(1085m)と登って、標高1000m前後の山ならマイペースで登れる様になり、大分、体力にも自信が持てるようになりました。

 でも下山後3~4日は決まってひどい筋肉痛になり、階段の下りが辛い日が続きました。

しかし、不思議と痛みが弱くなると、又、次の日曜日は、晴れたらどこに行こうかと、ガイドブックを開く自分がありました。

 ④2001年

 4年目になると、6月に支笏湖畔の「風不死岳」(1102m)に初めて行き、間近に見る樽前山、遠くの羊蹄山の景観に感動しつつも、帰路の遠さに疲れが増しました。

 夏7月30日、初めてツアーに参加して、雨の「大雪山を縦走」(黒岳→旭岳)する経験をしました。
前日、車で2時間走って層雲峡に行き、予約していたホテルに泊まりました。
翌朝は5時半にホテルを出発し手ロープウエーに乗りました。更に上でリフトに乗り換え、黒岳の登山口に着きました。霧雨の降る中、視界も不良で、黒岳山頂では何も見えません。一列になってアップダウンしながら行きました。
途中みぞれ交じりの雪が降り、真夏でも高山の気候の変わりやすさを知りました。雨の中、中岳で立ったままの状態で昼飯を初めて食べました。でも雨に霞むお花畑の素晴らしさに癒され、満足して下山しました。

 翌日の昼、ホテルから真っ直ぐ車で斜里に走り、翌日「斜里岳」(1545m)の登山口を確認、その次の日、初めて「斜里岳」の沢登りを体験しましたが、沢でぶよの洗礼を受け、何日か腫れて見られない顔になりました。この事があってから洋品店に行って黒のチュールを30cm買い、頭からすっぽりかぶる虫除けを手作りしました。

 秋、母の命日の9月23日に母が背中を押してくれる様に感じながら、初冠雪後「羊蹄山」(1898m)に登りました。
 前日急に思い立ったので、秋の連休日、宿を見つける事ができず、初めて役場の駐車場で車中泊をしました。毛布一枚では寒くてよく眠れませんでしたが、傍のコンビニで朝と昼の食料を調達し、こんな時のコンビニの良さに気づきました。

 朝日に輝く「羊蹄山」は初雪で覆われていました。水場が無いので水を3L持ち、7時前に登山を開始しました。
 口が渇くとまんじゅうやパンは喉を通らない事が解りました。
 「羊蹄山」の頂上に着いてみると、大きな噴火口が一つと小さなのが二つあり、その間に結構な面積の平地もある事が分かり、下から想像していた様子とは大違いでした。
 この登山で私は、「羊蹄山」は「一人でもマイペースで登れる山だ」と気を良くしました。

 下山後、祝日の中山峠がひどい渋滞で、札幌まで3時間もかかり疲れましたが、自宅近くの回転寿司に飛び込んで空腹を満たしました。
家に帰ってズボンを脱ぐと、後ろが泥だらけで、寿司店ではきっと嫌われたに違いないと反省しました。

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私の軽登山略歴 《1》1998年・1999年

2007年02月24日 | 軽登山・登山・軽スポーツ

 私が登山をするようになってから、かれこれもう8年位になります。
 当時、医者から高血圧症の治療の一環として毎日の運動を勧められたのですが、毎日朝早くから夜まで働いていたので、日曜日にまとめて1週間分の運動ができないものかと考えた結果、試しに始めたのが軽登山だったのです。
 それまでマンションの隣にあった市の公園周囲をジョギングしたり、少し遠くまでウォーキングをしたりもしましたが、単調で長続きしませんでした。
 しかし軽登山には、いつも目指す頂上があり、そこに辿り着けば、見たことのない凄い景観に我を忘れる事ができるのですから、飽きっぽい性格?の私にも続いたのだと思っています。

 次にこれまでの私の簡単な「登山記録」を書いて見ます。

 ①1998年 
始めは標高300m程度の琴似の「三角山」に登りました。そこから見た札幌の街は、信じられないくらいの迫力で私を圧倒しました。

 直ぐに次の計画を立て、近郊、定山渓の「八剣山」(標高498m)、JRで小樽の向こうの塩屋駅まで行って登った「塩屋丸山」(629m)、「定山渓小天狗岳」(765m)、車で7合目まで行けるので1時間弱で頂上に登れる「樽前山」(1041m)とガイドブックを頼りに少しずつ標高差の高い山に登り始めました。

 雨降りの翌日登った「小天狗岳」では、粘土質の急峻な登山道が滑って、なかなか上手く下りる事ができなかったのですが、近くに住み、よく登るという63歳の男性の方が助けてくれました。
それ以来、私は、赤い帽子やバンダナなどを身につけて、少しでも若々しく見えるような出で立ちで出掛ける事にしたのです。その方が困った時に助けて貰えそうだと思ったからです。
 
 そして、その年の夏にはついに「札幌岳」(1294m)や「尻別山」(1107m)に登頂でき、秋には「大雪山旭岳」(2290m)、「恵庭岳」(1320m)にも登れ、自分の登山力成長に気を良くしました。
 道民の森の「神居尻山」(947m)は、その急峻な山容が気に入り、少し遠いのですが、翌年から何度も通う事になりました。

 ②1999年 
この年は雪解けを待って初めての「藻岩山」(531m)、支笏湖を見下ろす「紋別岳」(865m)と隣の「イチャンコッペ山」(829m)、銭函から「春香山」(907m)に登りました。

 5月始めのこの年の「藻岩山」は、雪解け水が登山道に溢れてぬかるみに足を取られ、長靴を履いてくるべきだったと反省しました。
 また、「イチャンコッペ山」では、私の後を鶯が良い声で鳴きながらずっと着いてきてくれ、ことの他嬉しかったです。
 「春香山」では、5合目位から上にはまだたっぷりと残雪があり、特に山小屋の裏は雪解け水の流れる小川ができていて、短い登山靴で渡るのは厳しかったです。
下山時は頂上から雪上を滑り降りて楽しかったのですが、雪の傾斜路を登るのは一足ずつ滑って戻ってしまうため、本当に疲れるものだと思いました。下山後、車の運転中、意識が時々無くなるのではと思う程疲れ、やっと帰宅しました。

 夏には「手稲山」(1023m)、道民の森から「ピンネシリ」(1100m)にも登りました。
両山ともやっとの思いで頂上に着いたのですが、見ると立派な車道があり、ひどくガッカリした事を覚えています。手稲山では、大きな岩盤が積み重なっているガレ場のきつい登りを体験できました。
 
 秋には定山渓奥の元山鉱山から「無意根山」(1465m)へ、また、遠出をして「雄阿寒岳」(1370m)、「長万部岳」(972m)へと標高も所要時間も増して行きました。
それと同時に、下山時、左膝が傷むようになり、整形外科に行きましたが、「登山を止めなさい」と言われただけでした。

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《5》 マンション住まいを止めたわけ、防犯対策

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 
 今後は特に高齢者と独身女性の一人暮らしが多くなると思います。
 高齢者も長生きの女性が多いわけだから、一人世帯の圧倒的多数は女性という事になるでしょう。(今日の朝日新聞に「中流家庭は崩壊した」という記事がありましたが、一人世帯も二極化が進むのでしょうか)

 私自身はこの十数年、通勤と子どもの通学に便利な札幌圏の○JR駅前のマンションに住んでいました。
 このマンションは駅前なのですが、札幌市の大きな公園に隣接し、敷地にも余裕スペースがあって、季節を考えた植栽がされ自然が一杯でした。また、便利で、プライバシーが守られる設計がされ、外部の音や隣家の生活音はほとんど入って来ないし、防犯上も安心で冬は暖かい。しかも管理組合がしっかりしているのですが、何か足りないのです。

 ここに退職後もずっといたら、ほとんど体を動かす事もいらず、コミュニケーションも無く、やがて老後、次第に外出が億劫になれば、生き甲斐も少なくなり、周囲から孤立し、早死にしそうだと思ったのです。

 それで3年前に、札幌近郊のあるJR駅から近く、例えこの先、年を取って車を運転できなくなっても、JR駅まで7分間位で歩ける距離に、丁度100坪の南西向きの土地を見付ける事ができたのです。
 それで敢えて終の住処を、除雪や庭の手入れに手間がかかるけれど、好きな庭いじりができ、太陽がたっぷりと射し込む戸建てにすることに決めたのです。
 
 今までのマンションに近い防犯性を確保するために、一階の窓ガラスは割れにくい防犯ガラス、一枚ずつに防犯ブザーをつけました。そして、基本的に道路から家が見えやすいようにと、塀は50cmの高さにして、その上に低めの生け垣を植えました。車庫も扉のある箱形を止め、道路から玄関などが見通せる様に、柱と屋根だけの車庫にしました。
 (セキュリティ会社と契約する方法も考えて見ましたが、侵入者の侵入後でないと来てくれないのなら、防犯の意味がありません。)
 玄関の鍵は防犯性に優れたツーロックに換え、TVモニター式インターホンを付けました。

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《4》 収納、電灯設置、コンセント、吹き抜けなど

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 どの部屋にもたっぷりと収納場所を確保し、地震時の防災と面積の確保、掃除のしやすさを考え、置き家具が少なくて良い様にしました。

 全ての電灯は壁や天井に貼り付けるタイプとし、地震の際の危険回避をしました。かって地盤が軟弱だった札幌のH区に住んだ経験から、天井から吊すタイプの電灯の危険性を身を持って知ったからです。
 コンセントは床から50cmの位置に、スイッチは床から110cmの高さに設置してもらい、車椅子になっても使いやすい様にしました。現在でもコンセントの位置は、腰をあまり屈めなくても良いので楽だと感じています。

 また、将来、どのような家族構成になっても暮らせるように、少し余裕のある間取りにしたのです。

 さらに、私は登山を続けて来たため、数年前から膝に自信が持てなくなったので、将来、階段昇降ができなくなった時の事を考えました。その結果、いつでも玄関ホールの突き当たりにホームエレベーターを設置できるよう、予め基礎や配線をしました。そうしておけば、二階のスペースを車椅子生活になっても利用できるからです。
 当面はそこを吹き抜けのギャラリーにすることにしました。
 (工務店からは、その空間の一・二階に納戸を二つ造ったらどうかと言われましたが、既に収納は十分あるし、仮にエレベーターを造る事になった時に、納戸のドアも二階の床も取り壊す事になれば不経済なので、それなら初めから吹き抜けのままにするのが良いと考えたのです。)
 
 外断熱工法の良さの一つは、屋根が断熱されているので、吹き抜けを作って場所に広がりを持たせれる事です。
 この家の吹き抜けは、エレベーター予定ホール、階段室、二階廊下とホール、二階の主寝室(下の写真)です。
 いずれの場所にも天窓があり、朝日が射し込んだり、一日中明るかったり、主寝室には夜も街灯や月の明かりが射し込む様になっています。
 下の写真左は、二階廊下上部の南東側天窓です。写真中は、二階主寝室の天窓です。ベランダの一部も見えます。写真右は、玄関ホール突き当たりに作ったエレベーター設置予定場所です。

   

 また、壁の断熱材の厚さ分、窓枠に奥行きがあるので、好きな花を飾って冬でも楽しめます。
ただ、地震の時に鉢が落ちる事を考え、カーテンの留め具を窓枠の下から15cm上がった位置につけて貰いました。気休めかも知れませんが、そこにスズランテープを渡していざという時の落下防止策としました。(これ一つ思い付くのに数日間、考えました。)
 下の写真左は、居間から見た北東の洋室です。写真右は、南西にある居間のベランダと南東方向にとった明かり取りの窓です。

   

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《3》 バリアフリー用のスペースを

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 各室ですが、一階の台所、食堂、居間は同一平面にした回遊式で、開放感と来客時、防災時の対応のしやすさを考えました。

 高齢社会に対応する国の施策は、従来の様に高齢者を施設に入所させるよりも、これからはできるだけ在宅で介護をする方向に転換しつつあります。その方が高齢者自身の生活の質(QOL)も上がるのです。

 それで私は、できるだけ長く自分の家で生活できるような、バリアフリーの作り方にしておきたいと考えました。
 段差がない事はバリアフリーの条件の一つですが、決してそれだけでは実現しません。何よりも一定の広さを確保して、車椅子でも生活できるような家にしたいと思いました。



 台所は、車いすでも自由に動けるように、現在流行のアイランド型を止め、従来の壁付けタイプを選びました。
 居間の隣に8.3畳の洋室を設け、私の終の生活場所と考えました。(この室は隣がトイレ、その隣が洗面浴室)
 どの寝室も8畳以上にして、ベットを置いたとしても三方を歩ける様にしました。(寝たきりになった時、医者、看護婦、ヘルパーや家族がベッド側に立てるように。また、その方が介助しやすい)

 下の写真は1坪タイプの浴室ですが、元気が出るレモンカラーの浴槽にしました。
 高齢になると掃除も面倒かなと考え、壁はでき上がるまでは不安だったのですが、汚れが目立たなくて掃除し易い色を選びました。また、台所の流し台前の壁も同じ色合いにし、洗面台もグレーの砂模様にしました。別に違和感は有りません。
 
    

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《2》 家の配置、基本形、暖房方式など

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
    

 まず、建物の位置ですが、敷地は南西向きの中地なので建物をできるだけ北東に寄せました。しかし、北東側隣家との将来的な事を考えて、そちらは境界線からの位置を敢えて125cm離しました。
写真左は、前庭にコンクリートの塀を作っている途中です。右は現在の車庫と雪の庭を居間の窓越しに撮りました。
 
 家の屋根は降雪を配慮し、三角屋根にしました。雪を乗せて置く無落雪屋根は、長い間には雪の重さによって家に負担がかかると思ったのです。屋根には一気に雪が滑り落ちない様に、雪止めもつきました。
 
 家全体の形をできるだけ単純な直方体にして、断熱性、耐久性を高め、建築価格も抑えたいと考えました。

私は現在○○歳の一人暮らしで、体力も少し衰えて来ていますので、バリアフリーを考え、階段の段差は18.5cm、階段幅100cm、廊下幅は120cm、扉は全部82cm幅、浴室は1坪タイプにしました。

下の写真は階段下から見上げた明かり取りの窓です。下は一階食堂から、上は二階寝室からの明かり取りです。ガラスには飛散防止フイルムを貼りました。右のドアは台所に通じています。



 今冬の灯油価格の高騰を受け、暖房様式には一番悩みましたが、寒地住宅研究所研究員の講演を聞き、設備費、電気代を長期に見れば蓄熱式も電気温水方式も同じになると分かったので、最終的に初期の設備費用が安い電気ボイラーの電気温水システム暖房にしました。

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私が建てた外断熱・バリアフリーの家 《1》 工務店を選ぶ迄

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 私の場合は半年間、北海道建築指導センターの指導を受けながら、自分で何十枚も平面図を書いて見て、何枚かを5人の指導建築士さんに時期をずらして指導して貰い、検討を続けました。

 幾つかの工法の業者が建てている最中の基礎や壁内部の断熱工法が分かる家を何軒も見せてもらい、最終的には外断熱法に決めて、相見積もりを取りました。
 結果的に見積もり額は、多少、高かったのですが、こちらの要望を良く聞いてくれた上に、4ヶ月間に図面を4枚書き直してくれ、その度に、膨大な見積書も作ってくれたO工務店を選びました。

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《8》 中国、インド

2007年02月23日 | 海外旅行 色々
 50歳代になってからは、中国、韓国、タイ、インドと、アジア地域に行くようになりました。
 西洋の先進国と違って東南アジア地域の発展途上国では、円の価値の大きさを知らされました。
 
 アジアで最初に行ったのは8月の中国でした。社会主義国を標榜している中国で、まさか乞食がいるとは想像していなかったのですが、田舎の農村に行くと、1ヶ月以上も入浴した事がない様な汚れた身体の子ども達が、私達に手を出す姿に出会いました。

 また、素晴らしい世界遺産の雲崗石窟寺院がある大同は、北京のエネルギー源となる石炭を産出する町ですが、戦時中、日本軍人の駐屯地がありました。
 添乗員から、日本人に対する治安が良くないからと、個人的な外出は禁止されました。
 帰国後、伯父が戦時中、大同の部隊にいたことを知りましたが、駐留当時、素晴らしい石窟寺院があることは知らなかったそうです。その石窟は規模も数も、数日前に見た龍門石窟を遙かに凌ぐ物でした。

 (北京から大同へは、8時間程かかる夜行列車に乗って行きました。中国の人達は夏休みのためか、普通列車に詰め込み状態で乗っていましたが、私達はコンパートメントの寝台列車でした。
 所が部屋に入った途端にその汚さに驚きました。ベットも窓側にあるテーブルも泥まみれだったのです。
 そんな列車に慣れていない私は、すぐに車掌に言って雑巾とバケツを借り、拭き掃除をしたのです。やっと座れる状態になった時、テーブル下に置いてあるお湯を入れるポットを見て、また、コルクの蓋の回りの汚さにびっくりしました。一生懸命洗面所で洗いましたが、あまり綺麗にはなりませんでした。
 「郷に入っては郷に従え」という言葉がありますが、あの時乗った寝台列車のその汚さに、私は我慢がならなかったのです。
 大同では、多くの家族が、山の中腹に開けた横穴を住まいとしている様でした。冬、温かいとは思いますが、まるで動物のような暮らし方をまだしている事に驚きました。)

 北京、西安近郊などへ行きましたが、文化大革命によって貴重な文化遺産が破壊されたり、保存に手が回らない状況が見て取れ、残念に思いました。
 (何故か『兵馬俑』だけは、莫大なお金を掛けて展示されていました。ここで兵馬俑を発見した農民の最後の生存者という男性と一緒に、写真を撮ることができました)

 人々は真夏の炎天下で地面にすいかを積み上げ、簡単な屋台で、蠅が飛び交う中、豚肉を売っていました。家庭には、まだほとんど冷蔵庫などは普及していない様子でした。
 中華料理は大抵、高温の油で処理し、味付けに酢を使う料理ですが、その時私は、その調理法が実は食中毒を防ぐために昔から中国人がして来た知恵なのではないだろうかと考えました。

 北京郊外の万里の長城の出店でこぶりの桃を買って食べました。日本円で一個40円位の桃でしたが、実が硬めでりんごの様にぱりっとした歯ごたえでとても美味しかったです。帰国後スーパーに行くと、お盆用に大きな桃が1個200円で売られているのを見て、私はそれからしばらく桃を買えなくなりました。
 

 その翌年の冬に行ったインドでは、1億人を超える数のホームレスが、家族単位でビニールシート上で路上生活をしている姿に、大きな衝撃を受けました。
 あちこちで私達に手を出す子ども達や、赤ん坊を抱えた女性の物乞いに応じたりすると、わっと大勢の物乞いに取り囲まれてしまいます。
 私は、悪いけれど見ない様にしました。インドは、私達一人二人の善意や力ではどうすることもできない様な極限の貧困に充ち溢れていました。
 その反対に、かってのマハラジャは、広大な敷地と豪華な家を有していて、それらがホテルになっていた所もありました。
 生まれながらに所属する社会階層がカースト制度によって決められている社会の、想像を絶する格差の存在に胸が痛みました。

 また、日中、大勢の人が行き交う街中でも、牛や豚、あひるやクジャク、猿などの動物が自由に放されていて驚きましたが、夜にはちゃんと飼い主の元に返るのだと聞きました。私はちょっとした物陰に沢山あるホームレスの排泄物を餌にしているのだろうなと思ったりしました。
 
 インドの中西部ムンバイのホテルで、朝、焼いて貰った目玉焼きには驚きました。黄身がほとんど白身に近い色をしていたのです。
 知識では、卵の黄身の色は鶏に与える餌の色で決まると知っていましたが、実際に私達が普段食べている鶏卵の常識とはかけ離れたものでした。
 日本で売られている鶏卵は、私達消費者が、最も新鮮で美味しそうに見える色にするため、鶏に食べさせる餌に色素を加えて調整している事を思い返しました。
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《7》 アメリカ、カナダ

2007年02月23日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン
 アメリカ東海岸を訪れた8月の旅では、ニューヨークの近代美術館に次いで行ったボストン美術館で、素晴らしい日本美術の部屋の展示に感動しました。

 また、小学1年の時に雑誌の写真を見て以来、ずっと憧れだったナイヤガラの滝で「霧の乙女号」に乗って滝壺の近くまで行きました。夜は、アメリカ側から渡りだした橋の途中で、お金を払って国境を越える手続きをし、カナダ側に渡り、綺麗にライトアップされた姿と轟音を堪能しました。
 ホテルがあったナイヤガラの傍の町で、当時の北海道ではまだ見かけない大型ショッピングモールを初めて見ました。

 翌日はバスで国境を越え、カナダ東部のケベックに行きました。ケベックの公用語は英語とフランス語ですが、歴史的にフランス移民の生活感情が残っていて、アメリカからの独立運動も何度も行われて来た独特な気風の土地である事を知りました。
 
 また、当時、アメリカは、日本製電気製品をたたき壊すなど、挑戦的な日本製品バッシングをしていましたが、その国内には根深い民族問題や深刻な経済格差を抱えていました。
 私は、アメリカは自国の問題には目をつぶり、どうして日本には内需拡大の他、国政に対する細かな要求を強行に迫れるのか、不思議に思ったりしました。

 
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《6》 スイス、西ドイツ、オランダ

2007年02月23日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ
 幾つもの国に国境で囲まれ、周辺国から攻め続けられた歴史を持つスイスでは、国民皆兵政策による国を上げての特異な生き残り戦術を取っています。
 また、有事の時を考え、国民には全家庭で3ヶ月間の食料を備蓄する事も法律的に義務付けられ、国としては常時3年分の食料を備蓄していることなどを知り、国際的な緊張状態の中では国民の命綱である食料の自給率をいつも高く維持することの大切さを教えられました。

 パンの原料の小麦は、天然の冷蔵庫としてアルプスにトンネルを掘り、片方の入り口から今年の小麦を保管し、反対の出口から3年前の小麦を取り出しているそうです。スイスのパンが不味いと言われる理由が分かりました。
 
 西ドイツのミュンヘンでは、商業事情とスポーツなどの社会教育を、オランダでは酪農業と干拓事業を、そしてフランスでも社会教育などの研修をしました。

 ミュンヘンの市庁舎前では、もうクリスマス市が開かれていて大勢の買い物客で賑わっていました。デパートはクリスマス一色に豪華に飾り付けられていました。
 ミュンヘン市は札幌と姉妹都市なので、社会教育委員会の担当者と懇談した時、北海道から行った私達はグリューワインで歓迎を受けました。
 このワインは、赤ワインを温め、熱い紅茶と砂糖を適量加えて作るホットワインです。ドイツでは風邪を引いた時によく飲み、身体が温まって治るのだそうです。私は初めて飲んだのですが、甘くて美味しく、ついおかわりをしてしまいました。
 また、社会教育委員会の人の話では、毎年どちらかの国で行われる少年サッカー交流試合では、札幌のチームを配慮して、ミュンヘン市は2流のチームを出しているという裏話も聞かされました。

 ミュンヘンで私は履いていったローヒールの靴のかがとを傷つけてしまい、仕方なくスーパーマーケットの靴売り場に行きました。サイズを聞かれて、23cmと答えると、「その靴はここにはありません。下の階の子ども靴売り場に行って見て下さい」と言われたのです。
 なるほどと思いながら下に下り、何とか大人っぽく見える靴を見つけて買いました。その靴は内側にもしっかりと皮が張ってあり、とてもがっしりと作られていました。帰ってからよく見るとそれはイタリア製の靴でした。
 この事があってからは、外国に行く時、私はカバンに予備の靴を一足、入れるようになりました。
 
 オランダの酪農家を訪ねたのですが、日本と違ってオランダでは、一頭で肉も牛乳も両方利用する事ができる牛を飼っていました。もの凄く大型の種牛も一頭いました。
 その後、北海の干拓事業の記念館に行ったのですが、海抜の低いオランダの大規模な干拓事業が、実は秋田県八郎潟干拓の技術的な支援を受けて行われた事を知りました。
 またオランダでは、多くの人の交通手段として自転車が使われていました。学生が背中にカバンをしょって自転車を走らせる姿を見て、日本でもこの様な背負える通学カバンが普及するべきだと思いました。

 アムステルダムでダム街の「飾り窓の女性」を視察した夜は、同じ女性の一人として考えさせられ、なかなか寝付けませんでした。
 友人と一緒に覗いた大人のおもちゃ店で、児童ポルノ雑誌が置いてあり、写っていたのは当時のベトナムのボートピープルではないかと思う小学生位の子ども達で、胸が痛みました。
 でも、当時の日本の書店では、そのような本が子どもでも誰でも見られる様な売り方がされているのに比べれば、ヨーロッパの国々では、一つの雑誌に一緒くたに記事を掲載するのではなく、内容によって本が種類分けされ、ポルノグラフィーは、一般書とは別な場所に置かれている点は良いなと思いました。

 また、レストランの昼食に出された揚げ芋は、日本でなら畑で捨てられてしまうような小粒の芋でした。オランダではそういう芋もちゃんと流通していたのです。私は、日本の美術品の様に、大きさ、形、色つやが揃い、虫にも食われずに整然と綺麗に並べられて売られている野菜や果物に、大きな疑問を持ちました。
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《5》 イギリス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

イギリスでは、まず「大英博物館」を見学。収蔵された世界中の貴重な歴史的展示品に圧倒されました。
そこには大航海時代から抱えた多くの植民地などから、強権的に収集した貴重な文化遺産が詰まっていました。ギリシャが返還を要求しているパルテノン神殿のレリーフも一隅を飾っていました。
 
訪問当時のイギリスの経済状況は決して芳しくなかったのですが、ガイドの説明で、かってイギリスの植民地だった国々から多くの難民を受け入れなければならないのも原因の一つだと知りました。
日本は難民の受け入れに厳しい国として知られていますが、今後、外国労働者の受け入れなど、どうして行くべきなのかが課題だと思いました。
 
ロンドンでは、同じ町から参加した女性と二人で、ロンドン郊外の「母子家庭」に1泊だけホームスティをして、イギリスの庶民の暮らしを体験できた事も大きな収穫でした。
食事は昼食(場合によってはブランチ)がメインで、夕食は簡単に済ませるのです。
行った日に最初に出された夕食は、「コーン入りマッシュポテト」一皿と「オレンジジュース」1杯だけでした。正直、夕食としては貧弱すぎるとびっくりしました。
翌朝は「パン」と「スクランブルエッグ」「紅茶」でした。昼は「チキンソテー」と「ポテトサラダ」「コーヒー」だったと記憶しています。やっぱり昼食が一番、品数もボリュームもありました。

11月下旬のロンドンは気温も低く、寒くなって来ていましたが、その家の居間に置かれた電気ストーブに火はなく、赤い炎の絵が張ってあるだけでした。
 母親は、その夜、二人の小学生の娘を階段下の狭い場所に寝かせ、娘達のベットを私達に貸してくれました。
 
はお土産用に日本から、折り紙と簡単な折り紙の本を持参して行って、二人の子どもに教えました。見ていた母親から「子どもは折り紙をどこで習うのか」と聞かれたので、「親や学校などで習う」と答えると、「父親もできるのか」と言います。それで「日本人なら誰でも鶴位は作る事ができます」と答えたら、「日本人は箸を使ったり、折り紙をするので頭が良くなるのですね」と言われ、的を射ていると思いました。
 
『ボランティア』を世界で初めて提唱し、国の政策にも取り入れさせた博士から講義を受けました。
日本にも来たことがある博士は、その時、私達に「新潟沖地震の時、地震の中で日本人が真っ先に考えた事は何ですか」と聞きました。「自分の命を守るために逃げる事だけですか」「他の人の事は考えないのですか」と、私達は厳しく問われました。
 
「阪神淡路大震災」以降、日本でも「ボランティア」の存在が関心を集めていますが、イギリスでは既に博士の提唱で、公務員は政策作りのために実際にホームレスを体験したり、学校や病院、各種の社会施設、公園、駅などで、多くのボランティアが活動していたのです。また、アフリカ諸国でも大勢のイギリスの若者がボランティアとして行き、活動していると聞きました。
「ボランティア」とは「自ら進んでする行為」なのですが、イギリスでは、それに打ち込む人には全くの無償という事ではなく、生活費と住居を提供する事が多いと知りました。だから半年~数年間、仕事を休んでボランティアする人も大勢いるのだと思いました。
 
ロンドン郊外の小学校を視察した日、日本人を含めた何人かの母親達が、授業の助手のような立場で「ボランティア」として来ていました。放課後のクラブ活動的な事にも参加するそうです。
 
なお、小学校の授業の様子ですが、子ども達は自分で作った時間割に沿って勉強をします。先生は「勉強」を教えるのではなく、「勉強の仕方」を教えるだけなのです。だから教室では、一人一人が違うことを実に静かに勉強していましたし、先生はこどもから何か聞かれると、それに答えていました。ある子は算数、ある子は国語、ある子は絵を画くという具合です。

教室の後ろには勉強に必要な各種の図書類も置いてあり、何か調べていた子どももいました。
私の知っている日本の子どもと違い、全く静かに物事に集中している姿を初めて見て、私は子どもの別な姿をそこで再発見した思いでした。
 
また、その小学校の場合は、午前の部と午後の部の二部制になっていて、別な子ども達が昼からやってくるのだと言っていました。  
低学年の教室の人数はわずか十数人でしたので、当時の日本の大人数の教室とはまるで比べ物になりません。

階層的に貧しい親達が多いというその学校では、黒人、アジア人、欧米人など、色々な人種と思われるこども達がいて、イギリスが多民族国家だということを示していました。
短時間でしたが、この公立小学校訪問で、私は貴重な体験をする事ができました。
 
また、ロンドン市内の交差点にある「信号機」が、その頃の日本の物と比べ、珍しかったです。
日本では当時まだ、「信号機」と言えば3色のものだけでしたが、「ロンドン」では「3色の信号」の下に歩行者用信号機が縦型に付いていて、止まれは×印が赤く点灯し、進めは人が歩く絵が明るく光って浮き出る仕掛けでした。 これだと色弱者でも絵や形のライトで正確に見分ける事ができ、とても良いと思いました。
日本でも最近は、多様な生活場所や用具に、障害のある人にも使いやすい「ユニバーサルデザイン」が普及して来ましたが、その先駆けだったと思います。さすが、ゆりかごから墓場までの伝統を持ったお国柄でした。
 

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