花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

「バルト三国の旅」(13)

2014年04月02日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産・首都「タリン旧市街」観光》(2)

⑦「カタリーナの通路」と店の「看板娘」
細く短い通りだが、クラッシックな雰囲気が感じられる通りで、よくソ連の映画の場面に使われたらしい。

  

 

⑧旧市街のスナップ

   
 
 (展望台から下った時に通った門) (学生らしき一団が、門で歌を歌いダンスをしていた)

⑨自由行動
午前中でツアーの見学は終了。天候が悪いので、友人とカフェに入ってケーキと飲み物を頼み、1時間ほど休憩した。その店にスプーンをデザインしたカップの回転車があった。

その後、世界で最古の薬局があるというので探した。その「市議会薬局」はすぐ傍にあった。1422年から営業しているという。昔は薬草や漢方薬を売っていたが、今は化粧品や洗剤などを売っていた。

 

その後、二人で旧市街の土産物屋を幾つか覗き、最後に3時頃「聖ニコラス教会」に行った。
ガイドブックに小さな字で「土、日曜日は、午後4時からパイプオルガンコンサートがある」と書いてあるのを発見したからだ。
この教会は、15世紀にドイツ系の商人が船乗りと商人の守護聖人「聖ニコラス」を祀るために建てた教会で、木製の彫刻でできた主祭壇と15世紀後半に描かれた「死のダンス」の絵画が有名である。

入り口で3.5€の入場料を払い、内部をじっくり見学した。
「死のダンス」の絵は、死人や骸骨が『全ての人間は必ず死ぬ。さあ皆のもの、踊ろう』というテーマの奇異な絵で、元は社会の全ての人が書かれた壮大な絵だったらしい。
現存しているのは国王、皇帝、王妃、教皇が、嫌々ながら踊っている場面を描いたものだった。

その後、訪れた多くの人々と共に30分間のパイプオルガンの演奏を聴いた。良い思い出ができた。
内部の写真撮影は禁止されていたが、演奏が終った時、係りの人の了解を得て、フラッシュなしでパイプオルガンだけ写して来た。

  

帰路、少し道に迷ってしまったが、ようやく目指すスーパーマーケットに着き、2階のフードコートで惣菜を選び、夕食を食べた。
最後に1階の食品売り場でチョコレートなどの土産を買い、ホテルに戻った。
自由行動を共にした友人に感謝して、部屋に戻った。

翌朝はホテルを出て「ヘルシンキ」行きのフェリーに乗った。2時間後到着。
写真は、9階建てフェリーの側面図と9階部分平面図、最上階から見た客室先頭部分、そして到着した「ヘルシンキ」のターミナルからフェリーの後部を撮ったもの。



 

夕方のJALで成田空港に戻った。
これで「バルト三国」の旅は、全て無事に終った。
海外旅行では珍しく、今回は生野菜やカットされた果物を口にしたが、お腹を壊すことは無かった。 (完)
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「バルト三国の旅」(12)

2014年04月01日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産・首都「タリン旧市街」観光》(1)

旅行5日目の朝は、雪だった。それまでで一番暖かい服装をして外に出た。
気温はプラスになっていたので、道路は溶けた雪と降って来る雪が混ざり、ぐちゃぐちゃ状態だった。
まず、北の港のフェリーターミナルに案内された。
大型船が数隻停泊していた。明日の午前10時半には、ここからフインランドのヘルシンキ行きフェリーに乗るのだ。

①「歌の原」
次に向かったのは郊外の「歌の原」だ。
三国共、他国に支配されていた時代にずっと国民の愛唱歌を歌い続け、タリンでは5年に一度2万人以上の人々が集まってここで発表会が行われるという。歌は国民の密かな独立への意思表示だったのだ。
「歌の原」はちょっとした丘になっていて、下にホールと広場があった。傾斜した場所なので雪のために滑り、下りて行くことができなかった。
有名な第二の国歌『わが祖国・わが愛』を作曲した「グスタフ・エルネサクス」の坐像が頭と背に雪を載せて広場を見つめていた。
(今思えば、せめて像の前に行き、彼の顔を見てくるべきだったと後悔しているし、何故現地ガイドが悪天候の中でもそこを見せたかったのかが理解できた)

 

※ネットで検索すると…
「この合唱祭につきものの曲『我が祖国 我が愛』は、エストニアの第二の国歌とも言うべき歌です。
 1945年にソ連に併合されて以来、この曲は当局によって演奏が禁止され、この曲の作曲者は合唱祭を含む公の活動が阻まれていました(*)。ところが、1960年の合唱祭で4万とも6万とも言われる聴衆から自然にこの曲の合唱が湧き起こったのです。6万人は人口の4%、25人に1人です。泣く子も黙る秘密警察も頭を抱えたことでしょう、「いくら禁止されてる歌を歌ったとはいえ、そんなに大勢の国民を逮捕はできない」と。同時に、きっと震え上がったことでしょう-----どんな恐怖政治を以ってしても、この国民から歌を取り上げることはできないし、歌の背景にある独立への願いを押し潰すことは出来ないのだ、と。
 ともかくも、この合唱祭を契機に『我が祖国我が愛』は再び演奏を認められました。ソ連からの独立を勝ち取るより遥か昔にエストニアの国民が勝ち取ったひとつの、しかし偉大な自由でした。」

②「トーンペア城」
バスは城外の低地を城壁に沿って回り込み、1つの城壁の門をくぐり抜けて旧市街に入った。

 

そして海抜50m程の崖の上に建つ「トーンペア城」前で下りた。
建物は1500年に完成し、高さ50mの塔がある。この塔には歴代の支配者の旗が掲げられていたという。
現在は「国会議事堂」として使われている。

 

③「アレクサンドル・ネフスキー教会」
「トーンペア城」の向かい側に道路を挟んであるロシア正教会の大聖堂だ。
建物は19世紀末に建てられたので新しい。ロシア支配の象徴だったため、疎まれているらしい。

  

④「パットクリ展望台」
暫く歩いて北の端に行くと、断崖の上に展望台があった。相変わらず湿った雪が降っていたが、下を見渡すとタリンの「旧市街」の向こうに「新市街」、そして遥か遠くに朝行った港と「フィンランド湾」が霞んで見えた。
傍に揚げピーナツを売る屋台が出ていた。また近くに「首相官邸」もあった。

 





⑤「ネイツイトルン」(乙女の塔)
「アレクサンドル・ネフスキー教会」横の坂を下り、城壁の一部に開けられた小さな出入り口を抜けて右側を振り返ると、城壁の一部に四角い塔があった。そこは「中世の売春婦の牢屋」で、「乙女の塔」と呼ばれていた場所だ。



 

⑥「ヴィル門」
城壁の所々にある旧市街へ出入りする門の一つがこの一対の門だ。「旧市庁舎」前の「ラエコヤ広場」から東に真っ直ぐ伸びている道路の先にあって、新市街に抜けやすい門だ。奥に見えるのはホテルだと思う。

 




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「バルト三国の旅」(11)

2014年03月31日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「エストニア」という国》 

今回行った「バルト三国」で最も北に位置する国が「エストニア共和国」で、北は約300kmもバルト海の「フィンランド湾」に面している国だ。
北海道のおよそ60%の面積に130万人の国民が住み、首都は「フインランド湾」に開いた北部の「タリン」である。
民族構成はエストニア人が70%弱、ロシア人25%で、その他はウクライナ人、ベラルーシ人である。
地理的には、「フィンランド湾」を挟んだ北70kmに「フィンランド」の首都「ヘルシンキ」がある。

今回の旅行では、南の「リトアニア」から中部「ラトビア」を旅行している間中晴天に恵まれ、朝の気温は低かったが午後は快適な春の気候だった。
しかし、「エストニア」に着いた日の夜から冬型の気候に変わり、夜中から雪が降った。翌日は一日中断続的に吹雪きに近い天候で、道路に5cm程積もった雪が暖気でぐちゃぐちゃになったところを歩いた。また石畳の傾斜地は、雪のため滑りやすくなっていて、転ばないように細心の注意を払って歩かなければならなかった。

ガイドブックを参考に「エストニア」の歴史を概観する。

紀元前30年頃、エストニア人の祖先が、エストニアに住む。
12世紀末、エストニアの「バイキング」がスエーデンの首都を略奪。
1219年、デンマーク王、タリンと北部エストニアを占領。
1227年、キリスト教布教と異教徒の排除を目指す「帯剣騎士団」タリンを占領。

1238年、デンマークがタリンを支配。
1285年、タリン、「ハンザ同盟」都市になる。
1343年、デンマークに対して大反乱が起きる。デンマークは北部エストニアをローマ・カトリック教会が公認したドイツ人の聖母マリア騎士修道会「チュートン騎士団」に売却する。
16~17世紀、エストニア人、ドイツ貴族の農奴になる。

1524年、宗教改革。
1558年、ロシアの「イワン雷帝」バルト地方に侵攻。
その後、次々とスエーデン、ポーランド、ロシアの支配を受ける。

1905年、ロシア革命始まる。
1915年、第一次世界大戦勃発。

1918年、エストニア共和国「独立宣言」。直ぐにドイツ軍に占領される。11月、ドイツ敗北。ソビエト・ロシアのバルト地域侵攻開始。
1920年、ソ連・ロシアと「平和条約」締結。
1934年、独裁政権誕生。

1939年、ソ連「相互援助協定」の締結を強要。ソ連軍、エストニアに駐留。
1940年、条約違反を理由にソ連軍、バルト三国に侵攻。ソ連、エストニアを「併合」。
1941年、数万人のエストニア人、シベリア流刑。
1942年、ドイツ軍、バルト三国侵攻。ソ連軍撤退。
1944年、ソ連軍、エストニア占領。
1949年、数万人の市民、シベリア流刑。

1991年、エストニア「独立」

この国も他のバルトの国と同じく、周辺大国の侵略、支配に限りなく翻弄され苦しめられた歴史があった。三国共、地理的に山が無く、どこまでも平野が続く恵まれた国土と、西ヨーロッパ、ロシア、北欧にとっては、三国が重要な中継地にある。そしてまたカトリック教会の支配範囲を拡大しようとしたためかと思われる。





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「バルト三国の旅」(10)

2014年03月31日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(3)

⑤「猫の家」
高い屋根の両端で背伸びをする猫が2匹乗せられている建物があった。「猫の家」だ。
かってこの家には裕福なラトビア人の商人が住んでいて、大ギルドへの加入を希望していたが、ドイツ人が支配的だったギルドに加入を拒否された。その仕打ちに怒ったラトビア商人は、屋根に大ギルド会館に尻を向けた猫を取り付けたのだという。
今、猫は向きを変えている。昔の商人の意地を見た猫だった。



⑥「城壁」と「スエーデン門」
「リーガ」の旧市街は13世紀から18世紀まで「城壁」で囲まれていた。かっては28の門があり、日没時に閉められ、夜明けに開けられたという。
その門の1つが「スエーデン門」と言われている。名前の由来は、近くの兵舎に住んでいたスエーデン兵が良く利用したかららしい。当時はリーガの娘は外国人と会うのを禁じられていたという。

  

⑦グリム童話「ブレーメンの音楽隊」の銅像
姉妹都市の「ブレーメン」から贈られた銅像が「聖ペテロ教会」前に設置されていた。像の足や鼻にさわると幸福が訪れると信じる多くの人たちが手で撫でるので、ピカピカに光っていた。

 

「リーガ」の観光は楽しかった。昼食を摂ってから、バスは最後の訪問国「エストニア」の首都「タリン」に向けて309kmの道のりを北に向かって6時間走った。
途中で石油を運ぶ長い貨物列車に出会った。

 

国境が近づいたが、バスはノンストップで通り抜けた。EU加盟前に入出国の事務手続きをしていた建物とゲートが、国境を挟んだ両側に残されていた。

 
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「バルト三国の旅」(9)

2014年03月30日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(2)

リーガの町には大きな「ダウカヴァ川」が流れるが、その川辺の景色を眺め、継いで「リーガ城」に行ったが、現在修復中で見ることができなかった。
②「ブラックヘッドのギルド会館」
真新しく見えたが、実2000年に再建されたものだそうだ。
この会館は未婚の貿易商人の友愛会員によって建てられたもので、月、日、時間、月齢を刻む大時計が掲げられ、彫金細工と彫刻で出来た個性的な建物だ。コンサートホールやダンスパーテーなどができた大ホールも再建されているらしいが、内部の見学はしなかった。

(下の写真は「ギルド会館」前の市庁舎広場。広場の中央には、リーガの守護神「聖ローランド」の像が立つ。後方の123mの尖塔は「聖ペトロ教会」)

 

右側の建物が「ブラックヘッドのギルド会館」である。

 

③「聖リーガ大聖堂」
「ギルド会館」の前は「市庁舎前広場」となっているが、その広場を挟んで建つのが「聖リーが大聖堂」だ。
1211年に僧正アルベルトが建築を初め、その後幾度も増改築を繰り返して来た。帯剣騎士団の根拠地だったらしい。
建て直された現在の塔の高さは90mだが、元は140mの高さだったという。
中に入ったが、ステンドグラスが美しく、1883年に造られたパイプオルガンのパイプは6718本もある。
リーガの人口の1/3がコレラとチフスで亡くなったといわれる1709年の大洪水の時の水位が、壁に記されていた。

  

  

 
④「火薬塔」
14世紀に建てられて火薬の保管に使われた塔で、高さ25.5m、外壁の厚さは3mあり、ロシア軍が打ち込んだ砲弾数発が残るという。現在は「戦争博物館」として使われている。絡み付いていたツタは春に新芽を出し、夏に緑の葉を付け、秋には紅葉するのだろう。

 
 
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「バルト三国の旅」(8)

2014年03月30日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(1)

「リトアニア」の「十字架の丘」観光後、バスはノンストップで国境を越えて、隣国「ラトビア」に入った。
そのままバスは首都「リーガ」を目指し、国境を越えてホテルに向かった。

先ずガイドブックを参考に「ラトビアの歴史」を概観する。

「リーガ」は、人口70万人を越えるバルト三国の中心的な町だ。この町が歴史に登場するのは、1201年に「ブレーメン」の僧正「アルベルト」が要塞を築いた事からだが、その際住民達には羊の皮1枚で囲める土地を要求し、同意を得ると、羊の皮を細長く切り、結局広大な土地を奪ったと伝えられているらしい。
その後、「帯剣騎士団」が作られ、リガはドイツのバルト三国覇権の本拠地になって行ったのだ。

そして13世紀は「ハンザ同盟」に加盟し、町は大きく発展を遂げた。13世紀末には、ラトビア全域が「ラトビア騎士団」に支配された。
16世紀に宗教改革が起きると、騎士団は弱体化し、ラトビアをポーランド・リトアニア連合国に譲渡してしまう。

1629年には、スエーデンが支配する様になったが、1710年には「ロシア」のピョートル大帝の支配下に入り、ロシアにとっての「ヨーロッパの窓」になって発展した。

1915年第一次世界大戦が始まると、1917年にはドイツ軍が侵攻し、全土を制服。翌年の11月、ドイツが敗北して、ソ連・ロシア軍が侵攻した。
1919年、全土をソ連から開放し、翌年、ソ連との平和条約を結んだ。

1920年には、農地改革、民主的憲法導入、国際連盟に加入した。
1934年、「ウルマニス」首相が独裁政権を敷く。

1939年、ソ連との間に「相互援助条約」を締結し、ソ連軍、ラトビアに駐留する。
1940年、ソ連軍、条約違反を理由にしてラトビアに侵攻し、傀儡政権を樹立後、ラトビアを併合する。その後、大量流刑が始まる。

1941年、ドイツ軍がバルト三国に侵攻し、ソ連軍撤退。
ドイツの占領下、9万人以上のユダヤ人が逮捕されて、強制収容所に送られる。
1944年、再びソ連軍ラトビアを占領する。1944年、「人民の敵」とされた数万人がシベリアに流刑される。

1991年、ラトビア「独立」。

この国も大国に挟まれた国として、大国の利益のために翻弄され続けた歴史があった。

4日目は、「リーガ旧市街」の観光だ。整備された町並みは、リトアニアの「ヴィリュニス」の雰囲気とは違って、経済的な力を感じた。
通りをバスで走りながら、写真を撮った。面白いデザインの像があった。
また、神戸市と姉妹都市という事で、神戸市が1993年5月に寄贈した時計塔があった。「リーガ」と「神戸」の二つの時刻を示す2つの時計がセットされている。



 



バスが旧市街の中心に行った所で、バスから降りた。

①「ユーゲントシュティール様式の建築群」

これらの建築群は、旧市街の一角、「アルベルタ通り」と「エルザベテス通り」の両側に建っていた。
サンクト・ペテルブルグの土木工科大学を卒業した「ミハイル・エイゼンシュテイン」(1867~1921年)が、19世紀後半から20世紀初めにかけてリーガで建てた建築群で、1997年に世界遺産に指定された。今は高級アパートやホテル、学校などとして使われている。それらをゆっくりと歩いて見学したが、そこだけ独特な雰囲気が漂っていた。




















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「バルト三国の旅」(7)

2014年03月29日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《カウナスの「大聖堂」と「十字架の丘」観光》

3日目、カウナスの「聖ペトロ・パウロ大聖堂」に行った。
15世紀に建てられた赤レンガの大聖堂で、現在はリトアニアのカトリックの枢機卿が本拠地にしている教会だ。

 



午後、「カウナス」から「ラトビア」の首都「リーガ」に向かう途中で、「ユルガイチャイ」の町の郊外にある「十字架の丘」に寄った。
バルト三国には高い丘や山がほとんど無いのだが、農業地帯の真ん中にあるこの丘が、カトリック教信者が建てた十字架で埋め尽くされているのだ。
何時頃から十字架が立てられる様になったのかははっきりしないらしいが、1831年後、ソ連軍が3~4度、ブルトウザーで破壊した事があるというが、また直ぐにいつの間にか十字架が立ったという。添乗員は、権力に反対する非暴力の運動なのかも知れないと言っていた。

バスを降りて土産物屋の前を通り、何も無い平地を丘まで200mほど歩いた。
傍に行ってみたら、僅か2~3m程の高さがある狭い場所に、本当に大中小の十字架が所狭しと立てられていた。今も増え続けているという。

 

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「バルト三国の旅」(6)

2014年03月28日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「トラカイ城」観光》
「ヴィルニュス」の西方28kmの所にある町「トラカイ」には、多くの湖と森があり、かってリトアニアの首都が置かれていた事もある町だ。その一つのルコス湖の小さな島に建てられたのが「トラカイ城」だ。
バスを下り、湖にかかる木製の桟橋を渡って城を目指した。
この城は、14世紀後半にチュートン騎士団の侵入を防ぐために建てられた要塞だったが、権力がポーランドに移ると荒れ果ててしまった。1961年から復元され、博物館になっている。

 

 

 

またこの町は、15世紀初めに「クリミア」から傭兵として連れて来られたトルコ語系の少数民族「カライメ」の里でもあるという。現在は200人程が暮らしているそうだ。

観光後、また「ビリュニュス」に戻った。その途中、火力発電所があった。
ホテルの近くのアパートと隣にあるスーパーマーケットを写した。



 
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「バルト三国の旅」(5)

2014年03月28日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヴィリュニュス」観光》

2日目、ホテルを出て市内観光に向かった。

①「聖ペテロ・パウロ教会」
1668~75年に建造された教会。イタリアから招いた彫刻家達が30年の歳月をかけて作った2000以上の白い漆喰の彫刻群が有名だ。
この教会は、抵抗運動の本拠地だったという。

 



②「大聖堂」
17世紀に建造されたバロック様式のカトリック教会。

ソ連併合を認めた「独ソ不可侵条約秘密議定書」締結50周年に当たる1989年8月23日にバルト三国の220万人が参加して、この大聖堂前の広場から手を繋いで三国を結ぶ「人間の鎖」を作り、独立運動のための平和的デモをした基点が記されていた。
地元の共産党当局も容認して、鎖が切れないように無料バスを出すなどしたという。
この1週間前に、ソ連は「秘密議定書」の存在を認めたらしいが、あくまでも三国が自主的に併合を望んだと主張したという。

「聖イジミールの部屋」には、ポーランドのシンボル「鷹」の上に大きな聖杯が乗って飾られていた。

 

 

③「聖アンナ教会」
16世紀に建設された教会で、33種類のレンガを積んで建てられているという。



さらに「ビリュニュス」には「KGB博物館」もあり、1944~91年にソ連の国家警察・秘密情報機関だったところだ。そこでは1000人以上の人々が銃殺されたという。







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「バルト三国の旅」(4)

2014年03月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヴィリニス」の歴史》
今回訪れたバルト三国は、似たような歴史を有する国だが、最も南に位置する「リトアニア」の首都「ヴィリニス」から観光が始まったので、先ずはその歴史をガイドブックを参考に概観したい。

13世紀の中頃、「ミンダスガウ大公」がリトアニア初の王位に就く。
1385年、「ヨガイラ大公」ポーランド皇女「ヤドヴィカ」と結婚し、連合国になる。
16世紀後半、貴族のポーランド化が進み、事実上ポーランドに吸収される。

1795年、「第三次ポーランド分割」でリトアニアは「ロシア領」になる。
1830年、反ロシアの蜂起が多数起きる。これに対してロシアは激しく報復、カトリック教を弾圧し、リトアニア語の使用を禁じる。
1904年、日露戦争でロシア敗北。

1915年、第一次世界大戦始まり、リトアニアにドイツ軍が侵攻する。
1918年、「国民議会」はドイツからの独立を宣言する。
1920年、「ポーランド軍」、「ヴィリニス」占領。首都を「カウナス」にする。

1939年8月、「ソ連外相モロトフ、ドイツ外相リッペンドロップ秘密条約締結」
      (表向きは「独ソ不可侵条約」。しかし、秘密裏に相互の利益を擁護し、バルト三国とフィンランドの相互分割を約束していた)
      第二次世界大戦勃発(9) 「相互援助協定」により、「ソ連軍」、リトアニアに駐留する。

1940年、条約違反を理由にして、「ソ連軍」、リトアニアに侵攻(6.15)し、その後「併合」する。(8.3)
1941年、数万人が逮捕(6.14)され、大量流刑始まる。

      「ドイツ軍」、バルト三国に侵攻(6月)し、占領する。
1941~1944年、20万人以上の「ユダヤ人」が「強制収容所」に送られる。

1944年、「ソ連軍」、リトアニア占領。
1949年、数十万人が「人民の敵」として、シベリアに流刑される。
1990年、リトアニア「独立宣言」
2004年、EU加盟を果たす。

苦難の歴史を乗り越え、「独立」を果たしてから僅か24年の若い国なのだ。




《「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」》

旅行3日目に、バスで「リトアニア」から北の隣国「ラトビア」に向かう途中の町「カウナス」で、「日本のシンドラー」と称えられる「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」に立ち寄った。
今は「杉原記念館」として保存されている閑静な住宅地の中のその建物は、普通の住宅と間違えそうなものだった。
中には執務室、ビデオが鑑賞できる視聴覚室、資料展示室、事務室があり、まず15分間、ビデオを見た。それから彼の執務室、資料室を見学して、記念品を買った。

資料に拠ると、1939年9月、第二次世界大戦が始まり、「ポーランド」がドイツ軍に占領されると、12000人のユダヤ人がまだ独立国だった隣国「リトアニア」に避難した。
その2ヵ月後、杉原領事代理は「カウナス」のこの地に「日本領事館」を開設した。

リトアニアにいたユダヤ人亡命者は、戦争の危険が及ばない国への亡命を求めて、外国のヴィザを得ようとした。
1940年、ソ連がリトアニアを「併合」すると、彼らはソ連を通過して日本に逃れ、そこからアメリカなどへの渡航を望んだのだった。
何百人もの亡命者達が、「日本ヴィザ」の発給を求めて「日本領事館」を訪れた。

杉原氏は、日本政府に報告してヴィザ発給の承認を待ったが、2度ともドイツと協定を結んでいた日本政府の応えは「ノー」だった。
ソ連が「カウナス」にある全ての外国の大使館の閉鎖を命じる中、彼はベテランのオランダ外務省員「D.L.デ・デッケル」の助言を得て、正規でない「キュラソーヴィザ」を発給して「人道上の役割」を果たす事を決意した。

1940年7~8月に、毎日18時間働き、彼らの求めに応じて2193通の手書きのヴィザを発給した。
いよいよ領事館を閉鎖してドイツの「ベルリン」に向かう列車に迄、救いを求めるユダヤ人が押し寄せた。彼は車内で書いたヴィザを走り出した列車の窓から投げて渡したという。
こうして6000人の人たちが亡命を果たし、世界中に散らばった。

杉原氏は、その後、日本の外務省を辞職し、商社マンとしての人生を送り、1986年86歳で永眠した。
今彼の名は、リトアニアで最も有名な日本人として知られ、彼の名前をつけた通りもある。
この記念館は、2000年にオランダとベルギーの人々の基金と努力によって、かっての「旧日本領事館」に開館し、維持されている。

 
 (「希望の門・命のヴィザ」と書かれた入り口)      (彼の執務室)                

 
 (視聴覚室の出窓にあった国旗)          (キュラソー・ヴィザの提案者)

私達は2日目に「ヴィリニュス」の郊外、ネリス川の河畔に建てられている「杉原千畝記念碑」を訪れた。
この碑は、1919年に早稲田大学在学中に外務省の留学試験に合格し、その後外交官になって果たした彼の功績を称えて、早稲田大学が2001年10月に建てたものだ。
その碑には彼が発給した1通のヴィザも掲げてあった。


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「バルト三国の旅」(3)

2014年03月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヘルシンキ国際空港」で乗り継ぎ、リトアニアの首都「ヴィリニュス」へ》

成田空港を11;30に飛び立ったJAL機は、時差-7時間の国「フィンランド」の最南端にある首都「ヘルシンキ国際空港」に現地時間15時に到着した。つまり10時間半飛行した事になる。私は飛行機に乗ると、いつも直ぐに時計を到着する国の時刻に合わせる様にしている。今回は7時間針を戻した。

一旦入国してから、売店が幾つかある待合室を通って、16;20発「ヴィリニュス」行きのフィンランド航空機のゲートに向かった。
ゲートの傍の売店を覗いて驚いた。500mlのミネラルウオーターが4.3€もしたからだ。1€が交換手数料込みで146円としたら628円という事になる。サンドイッチも1個で400~700円だ。グループの誰もが目を丸くしていた。

帰国時にも立ち寄ったので、今度は地下のスーパーに行って価格調べをし、記録のために写真を撮った。それが次の写真だ。単位は「€」

   
 (1.5L入り2.3~2.6€。ビタミンC添加のは+0.5€)   (全て果汁100%280cc程のが4.9?)

   
 (醤油もコーラ、ジュースの大瓶も4.5€)  (ケーキ1個の価格が4.3€と5.9€)

1時間15分の飛行で「ヴィリニュス」に着き、スーツケースを受け取ってから空港内の両替所で両替を済ませた。
リトアニアはEUに加盟しているが、通貨はまだ「リタス」なのだった。レートは1リタス=50円だった。

バスで郊外のホテルに着いたら、隣にスーパーマーケットがあった。
部屋に荷物を置くなり、薬を飲むのに絶対必要なので、ミネラルウオーターを買いに走った。リトアニア語が分からないので、ガスが入っていないナチュラルな水がどれなのか散々迷い、やっと店員に聞いて買った。1.5Lで約1.89リタス(95円)だったので安心した。レシートを見ると21%の消費税が含まれていた。

時差7時間を足すと1日が31時間の日だったが、機内で少し寝たのでなかなか寝付けそうにない。明日からの観光のためにはしっかりとこの国の時刻に合わせて寝て置く必要があるので、私は医師に処方してもらった催眠薬を飲んで寝た。
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「バルト三国の旅」(2)

2014年03月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《無事に帰国した》

「バルト三国」の内、先に観光した南部の「リトアニア」「ラトビア」は晴天に恵まれて、朝の気温は2~3℃と低かったが、陽射しが温かく早春の雰囲気だった。
しかし、最後の国「エストニア」の首都「タリン」を観光する日だけは、夜中から吹雪いて道路に雪が2~3cm積もり、観光中も冷たい雪が降りつづき、石畳の坂道では足元がぐちゃぐちゃで滑りやすく、おぼつかなかった。

「バルト三国」は他国に代わる代わる支配されたという似たような歴史の国だけに、暗いイメージを持っていたが、行って見ると真っ青な青空のためか、そんな様子はあまり感じられ無かった。

石造りの建築文化の国なので、戦争で破壊されたものもあったが、歴史的な価値のある遺産が多く残されていて、見応えがあった。

今回はK旅行社のツアーだったので、日程的にゆったりしていて、近くのスーパーマーケットに各自で買い物にも行くことができ、品物を見て土地の人たちの生活を想像でき、良かった。

往復、直行便がないので、「フィンランド」の「ヘルシンキ国際空港」で乗り継ぎをした。
空港内のスーパーや店を見て歩いたが、余りの価格の高さに驚いた。ミネラルウオーターが「バルト三国」の値段の3~4倍、パンなども2~3倍だった。
「エストニア」の「タリン」から「ヘルシンキ」まで乗ったフェリーには、「タリン」までビールや酒類、食料品や衣類などの買出しに行って来た「フィンランド」の人たちで溢れていて驚いた。
北欧は「高福祉・高負担」の国だと言われるが、その一面を見ることができた。

また三カ国ともだが、独立後も「残留ロシア人」が多くいて、中には国籍を持たないロシア人も多いのだと聞いた。
先日の「ウクライナ」の「クリミア自治区」で行われた住民投票で90%以上がロシアへの帰属に賛成した結果を受けて、今日、ロシアのプーチン大統領とクリミア自治区の代表が編入条約に調印したというニュースがある。
旧ロシア領だった「バルト三国」にもロシア語を話す残留ロシア人の問題が、表面に出ない形でくすぶっているのかも知れないと思った。

  

(「タリン」の旧市街で見た店の看板)  (リトアニアの「ヴィリニス」にある「杉原千畝氏」の記念碑)



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「バルト三国の旅」(1)

2014年03月08日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
まだ1.3m位積もっている庭の雪が溶け、庭仕事や家庭菜園の仕事が始まる迄まだ少し余裕があるので、今回はJALが企画した「バルト三国の旅」に出かける事にした。
昨年10月に「ポーランド」に行った時、傍の「バルト三国」も含むツアーを探した。あるにはあったが、ポイントだけしか観光しない駆け歩きの旅になるので、「バルト三国」には別途、行こうと思っていたのだった。

JALは特別に今回、国内線の搭乗チケットが往復で1,000円だというので、いつも北海道から成田までの往復便を高額なチケットで利用している私はこの破格値に飛びついたのだ。

小国「エストニア」「ラトビア」「リトアニア」の「バルト三国」は東ヨーロッパの北に位置し、「バルト海」を挟んだ北欧の南側、「バルト海」の東岸にある国々だ。そしていずれもかってはソ連邦の一部に組み込まれていて独立を果たした国々である。

面積は三カ国合わせて北海道の2倍に満たない位小さい。
しかし、ヨーロッパの海運の要衝として重要な役割を果たして来た歴史がある。
そのために近隣国であるデンマーク、スエーデン、ドイツ、ポーランド、ロシアなどの侵略と支配を受けた歴史を持つ。




10日夕方、新千歳を発っていつもの様に成田に一泊し、11日成田空港11;30発のJALに搭乗する。
直行便がないので、「フィンランド」の南端の都市「ヘルシンキ」で乗り継いで、先ず南の国「リトアニア」の首都「ヴィリニュス」に向かい、そこからはバスで「エストニア」の「タリン」迄、北上する日程になっている。

観光最後の15日に「エストニア」の「タリン」で半日、自由行動がある。オプションも設定されているが私は参加する積りがないので、今、どこに行くかを検討中である。

最後は16日「タリン」からフィンランドの「ヘルシンキ」に行くのに、バルト海を横断する2時間の船旅があり、楽しみだ。
そして夕刻「ヘルシンキ」空港から、JALで成田に帰国する予定だ。
成田到着は17日午前中となるので、午後の新千歳空港行きに乗り継ぎ、帰宅は夕方になる。

「バルト三国」の気温は今の北海道よりは高いが、東京よりは数度低いので、風邪を引かぬようセーターや冬用の下着を持ち、重ね着をし、ダウンコートを着て行く積もりだ。

また今回は、「海外旅行傷害保険の加入」が義務付けられていて、その内容を英語か独語、露語などで翻訳した「付保証明書」を持参しなければならない。
主催する旅行社は提携する保険会社の保険を薦めるが、私は最近、カードに自動的についている保険で間に合わせているので、その「付保証明書」を保険会社に要請した。無料だった。

先日、「ウクライナ」の「ヤヌコビッチ」前政権が崩壊した後、クリミア半島でロシア軍の領土介入の動きが連日、問題になっているが、今回も、それぞれの国への影響があるのかどうかなどもできれば見て来たい。

今までと同じく、元気で事故に遭わぬように、また迷子にならないように注意して行って来るので、宜しくお願いしたい。




11日11;30出発のJAL国際線は、72時間前から(一部は24時間前から)WEBで座席が予約できる。30分近くかかったが、通路側の座席を予約し、今しがた「オンライン搭乗券」の印刷を済ませた。
いよいよ行く気持ちになって来た。これから持って行く荷物の整理をしたい。


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