Sightsong

自縄自縛日記

川下直広+山崎弘一『I Guess Everything Reminds You of Something』

2018-01-29 23:59:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

川下直広+山崎弘一『I Guess Everything Reminds You of Something』(地底レコード、-1997年)。

Naohiro Kawashita 川下直広 (ts, ss)
Koichi Yamazaki 山崎弘一 (b)

これが出た当時、まるでアーチー・シェップみたいだなと思ってずいぶん気に入ってよく聴いていた。血迷って手放し、最近、中古盤を見つけてまた手に入れた。やっぱり良い盤である。もう売らないぞ。「Blue Moon」なんて古い曲、いまの誰がやっているだろう。そんな選曲の妙もある。

川下直広さんのサックスがなにしろ濁っている。ヴィブラートの中に声成分が混じり、とにかく濁っている。そしてべらんめえ調ではなく、何といえばいいのだろう、自己流のよどみない大きな流れの中で吹いている。息継ぎのあとにどのようなフレーズが出てくるのか、じっと黙って聴き入る。テナーも良いのだが、「Yesterday」などでの手打ち麺のようによれるソプラノもまた良い。

一方の山崎弘一さんの重く悠然としたベース。「Pharaoh」では「川の流れのように」を思わせる旋律も聴こえてくる。情と重力のベースである。

●川下直広
川下直広カルテット@なってるハウス(2017年)
川下直広@ナベサン(2016年)
川下直広カルテット@なってるハウス(2016年)
渡辺勝+川下直広@なってるハウス(2015年)
川下直広『漂浪者の肖像』(2005年)
『RAdIO』(1996, 99年)
『RAdIO』カセットテープ版(1994年)
のなか悟空&元祖・人間国宝オールスターズ『伝説の「アフリカ探検前夜」/ピットインライブ生録画』(1988年) 

●山崎弘一
本多滋世トリオ@駒澤大学Bar Closed(2017年)
本多滋世@阿佐ヶ谷マンハッタン(2016年)
宮野裕司+中牟礼貞則+山崎弘一+本多滋世@小岩フルハウス(2013年) 
『生活向上委員会ライブ・イン・益田』(1976年)
明田川荘之『This Here Is Aketa Vol.1』(1975年)


ちあきなおみ『星影の小径』

2018-01-28 12:56:08 | ポップス

ちあきなおみ『星影の小径』(Victor、1985年)を聴く。

1985年の初出時のタイトルは『港が見える丘』。1993年にこのタイトルに変えられ、その後、またオリジナルのタイトルに戻されたようである。

ドラマチック歌謡、ムード歌謡、大人の歌謡。バックのサウンドは、当時にしては思い切ったアレンジなのだろう。いま聴けばモダンでベタベタな感じがない。もっともamazonのレビューなどを見る限りでは、ベタなものを求める人たちは多いのだろうね。

それにしても、奥が深く、愁いがあって、何かを必ず残す声。ときどき復活待望論が出てくる歌手だが、もう残された録音を聴くだけで十分なのだ。

収録曲は以下の通り。

1. 星影の小径
2. 雨に咲く花
3. 港が見える丘
4. 上海帰りのリル
5. 青春のパラダイス
6. ハワイの夜
7. 水色のワルツ
8. 雨のブルース
9. 夜霧のブルース

●参照
ちあきなおみのカヴァー曲集
降旗康男『居酒屋兆治』


フレッド・フリスとミシェル・ドネダのデュオ

2018-01-26 00:11:48 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Fred Frith / Michel Doneda』(Vand'Oeuvre、2009年)を聴く。

Michel Doneda (ss, sopranino sax)
Fred Frith (g)

ちがう世界に棲んでいそうなふたり。かれらの移動性、越境性、その場での音の発見能力などをもってすれば、なにか化学変化が起きそうなものだ。

しかし、なにも降りてこなかったようである。ふたりの音は侵食し合わず、別々の世界のままである。何度繰り返して聴いても驚きのひとつもない。

●ミシェル・ドネダ
MLTトリオ(JazzTokyo)(2017年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン@バーバー富士(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+今井和雄@東松戸・旧齋藤邸(2017年)
ミシェル・ドネダ『Everybody Digs Michel Doneda』(2013年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
ロル・コクスヒル+ミシェル・ドネダ『Sitting on Your Stairs』(2011年)
ドネダ+ラッセル+ターナー『The Cigar That Talks』(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ミシェル・ドネダ『OGOOUE-OGOWAY』(1994年)
バール・フィリップス(Barre's Trio)『no pieces』(1992年)
ミシェル・ドネダ+エルヴィン・ジョーンズ(1991-92年)

●フレッド・フリス
フレッド・フリス『Storytelling』(2017年)
ロッテ・アンカー+フレッド・フリス『Edge of the Light』(2010年)
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
高瀬アキ『St. Louis Blues』(2001年)
突然段ボールとフレッド・フリス、ロル・コクスヒル(1981、98年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)


デイヴ・スキャンロン+吉田野乃子@なってるハウス

2018-01-23 23:06:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

入谷のなってるハウスで、デイヴ・スキャンロン、吉田野乃子日本ツアーの2日目(2018/1/22)。この日、関東には午後から雪が降り始め、夜にはかなり積もっていた。そのため電車やバスがストップして、共演予定の不破大輔、DJ sniffのおふたりは来ることができず、デュオとなった。吉田野乃子、デイヴ・スキャンロン(野乃子さんはデビちゃんと呼んでいる)はペットボトル人間のメンバーでもある。

Nonoko Yoshida 吉田野乃子 (as)
Dave Scanlon (g, laptop, vo)

ファーストセット、最初の30分ほどは吉田野乃子ソロ。ハコのひとりひとりと話をする野乃子さんのMCはすごくフレンドリーなのだが、演奏となると雰囲気は一変する。

冒頭にインプロ、続けて瀬戸内の無人島をイメージしたという「Desert Island」。音量が最初は大きかったということもあるけれど、この迫力にはやはり気圧される。こうなると、近作について抒情が云々と言ってしまうと弱弱しくセンチメンタルな感じかと誤解されそうだが、実際のところその正反対の強度。途中からルーパーも使い、アルトだけでなくハコ全体が三次元で共鳴する。

次に、北海道のことばを使った「Uru-kas」。手拍子からはじめ、それがすぐにルーパーを通じてビートと化し、さらにハーモニーが作り出される。このクラウドの中から、野乃子さんのアルトがピキピキピキと周囲に亀裂を入れながら飛び出てくることの快感といったらない。

3曲目は、妹夫妻にささげたという「Taka 14」。低音でエンジンをふかす感覚、そのサウンドのフラグメンツが四方に散るかと思う前にまた収斂し、加速的にドライヴする。野乃子さんはマウスピースを外し、バードコールのように使いもした。たいへんなスピード感である。

次にデュオ、スキャンロン作曲の「パン屋」。ギターのリフの繰り返し、その濁りとアルトの濁りとが重なってゆく。面白いのは、突き進むエンジンの稼働状況つまり負荷を常に微妙に力技でコントロールしている点であり、微妙なもたつき、微妙な遅れ、微妙なタメ、全体としてのスピードの調整、そんなものがまるでチキンレースのように続く。最後はふたりがきりもみを描くようにして終了。あまりにも疲れる演奏だったのか、野乃子さんはステージ上で倒れこんだ。

セカンドセット、スキャンロン。持続と執拗な繰り返しがエルメートを思わせて面白いギターソロ。次に前に出てきて座り、奥に引っ込んだようなギター音とともに味のある歌。断片、断片から風景が見えてくるようだった(cable to the sky、なんて)。そして今度はPCとともにかれのラップ、これはストリートではなく都会の住民の感覚(the shape of box I'm livin'とか言っていたように)。最期にまたギターソロ、このアンビエントな音色と繰り返しと逸脱が現代の悪夢のように感じられた。

再びデュオ。アルトとPCとが倍音でハモったり、低解像度の昔のインベーダーゲームのような音で遊んだり、哀しさをたたえたドイツロック的であったり、またアルトとPCがお互いにドローンのように音を持続させ、その中からまた抒情が突き抜けてきた。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●参照
トリオ深海ノ窓『目ヲ閉ジテ 見ル映画』(2017年)
『トリオ深海ノ窓 Demo CD-R』、『Iwamizawa Quartet』(2017、2007年)
乱気流女子@喫茶茶会記(2017年)
吉田野乃子『Demo CD-R』(2016年)
吉田野乃子『Lotus』(2015年)
ペットボトル人間の2枚(2010、2012年)

 


Wavebender、照内央晴+松本ちはや@なってるハウス

2018-01-23 00:29:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

入谷のなってるハウス(2018/1/21)。

Wavebender:
Rieko Okuda (p)
Antti Virtaranta (b)
Chris Hill (ds, laptop)

Hisaharu Teruuchi 照内央晴 (p)
Chihaya Matsumoto 松本ちはや (perc)

ファーストセット、照内・松本デュオ。

パーカッションを手で弄ぶ、一方では音を選んでは鍵盤を1本の指で叩く、そうしながらじわりと音世界が導入されていく。松本さんは鐘がいくつも結わえられた紐をたぐり、打楽器をそれにより侵食し、照内さんは半覚醒でシンクロを狙う。パーカッションのピークに向けての準備は終わらない。爪でひっかき、指の腹で叩き、スティックで繊細・スピーディーにシンバルを鳴らす。そして駆け始めた。松本さんはまるで乗馬しているように右足の踵でカホンを打ちつつ疾走し、飛翔もするのだが、その音は、常にこちらの想定を超えた奥にまで届き、そのたびに驚かされる。野蛮といってもよいほどである。

一方の照内さんは叩きつけるような和音もあり、再び音選びを意図的に狭めていく動きもあり、構造を作り出しまた壊す両方のアクションを繰り出した。吊り下げられたベルによる満天の星空のような広がりがあり、それが乗り移ったようにピアノも残響を作り出した。松本さんのカホンとパーカッション、照内さんのピアノもまた強度を高めていった。演奏はエネルギー密度の高いところで終わった。

このデュオは去年3回観ることができたのだが、演奏がどこかに向かって変貌しているわけではなく、毎回、場や状況や奏者の調子にもっとも影響されるようであり、常に驚きがあった。今回もまたそうだった。

セカンドセット、Wavebender。昨年来日したVOBトリオとはドラムスが異なる(ヤカ・ベルガー→クリス・ヒル)。

奥田さんは右手の爪でピアノ内部の弦を執拗に擦り、あるひとかたまりのトーンを形成する。やがて、それまで遊ばせていた左手を端っこの弦のところに置き、力を込めて、親指で弦をはじく。そして鍵盤の前に座り、やはり音の性質の幅をあらかじめ決めた上でまた別のトーンの雲を生み出しては、別の形へとシフトしていった。重低音も轟音も、きらびやかに輝く音の数々もあった。

クリス・ヒルは金属板や小さな鐘を使いながら、虫の羽音のような音からはじまり、複数の周波数によるうなりも、鼓動のようなビートも作りだした。そしてアンティ・ヴィルタランタのベースは洞窟の中のように不気味に響いた。

小さなフォルムを繰り返すことによる大きな展開はなかなかに素晴らしく、昨年のVOBトリオの演奏と同様に動かされ、拍手を止める気がしないほどだった。

サードセットは順次加わり全員での演奏。照内・松本デュオともWavebenderとも性格が異なり、少しゴージャスにさえ聴こえて愉快でもあった。 

 

Fuji X-E2、XF35mmF1.4、XF60mmF2.4

●参照
フローリアン・ヴァルター+照内央晴+方波見智子+加藤綾子+田中奈美@なってるハウス(2017年)
ネッド・マックガウエン即興セッション@神保町試聴室(2017年)
照内央晴・松本ちはや《哀しみさえも星となりて》 CD発売記念コンサートツアー Final(JazzTokyo)(2017年)
照内央晴+松本ちはや、VOBトリオ@なってるハウス(2017年)
照内央晴・松本ちはや『哀しみさえも星となりて』@船橋きららホール(2017年)
照内央晴・松本ちはや『哀しみさえも星となりて』(JazzTokyo)(2016年)
照内央晴「九月に~即興演奏とダンスの夜 茶会記篇」@喫茶茶会記(JazzTokyo)(2016年)
田村夏樹+3人のピアニスト@なってるハウス(2016年)


鹿島茂『東京時間旅行』

2018-01-21 12:57:02 | 関東

鹿島茂『東京時間旅行』(作品社、2017年)を読む。

長いこと東京を歩き回っていても知らないことだらけであり、この本でへええと教えられることは多い。何しろ資料収集の鬼のような人が書きためたコラム集であり、面白くないわけがない。もっともらしさで包んだ中沢新一『アースダイバー』などとはわけが違うのである(もっとも、掘り進む時代も違うのだけれど)。

丸の内界隈で仕事をしていた頃には、丸の内カードが使えないビルがあって不満を覚えていた。しかし、それは逆に言えば三菱地所がこのあたりをずっとおさえていたからであり、その歴史は明治の軍用地払下げを巡る岩崎と渋沢のたたかいにまで遡る。そしてこの先はというと、常盤橋街区再開発プロジェクトがある。東京駅近辺を歩くだけで縄張り争いが気になりはじめること請け合いである。

カフェの歴史も面白い。

明治末期になって日本にカフェ文化が根を下ろそうとした。洋酒中心のプランタン、当時は入手困難であったコーヒー豆を確保したパウリスタ。しかし、ライオンがエプロン姿の美人女給を入れたあたりから、東京のカフェはエロに牽引される「カフエー」(カフェではない)へと変貌していった。これは実は19世紀末のフランスでの動きと連動していて、ドイツに編入されるアルザスからフランス人が多くパリに流れてきて、お色気サービスを売りにしたブラスリを流行らせた。東京で、正統カフェの担い手たちは、ヘンな色が着いてしまった「カフエー」ではなく、「喫茶店」を開いた。しかしここにもエロが追いかけてきて、その結果、うちは違うという「純喫茶」が登場したのだという。

なるほどなあ。昭和の喫茶店も良いけれど、「原点回帰」に貢献したドトールやスターバックスには感謝しなければならない。

それから、神楽坂がプチ・パリになった理由とはなにか。アンスティチュ・フランセ(東京日仏学院)があるためだけではない。アテネ・フランセは当然としても、東京理科大学、法政大学などにも、フランスとの浅くないかかわりがあった。何よりも川があり、細い路地があった。こうなると曖昧ではあるけれど、やはり街のアイデンティティは歴史の産物だということがよくわかる。


『Ftarri 福袋 2018』

2018-01-21 11:23:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Ftarri 福袋 2018』(meenna、2017年)を聴く。

■ Shuta Hiraki

タイトルは「Optimal Layers」であり、その通り、さまざまな周波数の流れがまるでレイヤーのように積み重ねられていく。『Unicursal』がそうであったように、耳がそれらの複数さで分裂し、勝手に補足するレイヤーを途中変更する側面がある。また、複数の存在によって、別のレイヤーがあるかのように錯覚してしまう(あるかもしれないし、ないかもしれない)。

一方、レイヤーの積み重ね自体は、対照的にパラノイア的であり、崩壊の予感を内包した行動に感じられる。しかしそれが途中で突然断ち切られる。ジェンガが崩れ落ちるカタルシスとは違い、その瞬間に、不思議な時空間がぽっかりとあらわれる。

■ Radio ensembles Aiida

短波ラジオを音源として使ったもののようで、それらがダイレクトに録音され、多重録音もあとでの修正もなされていないとある。ざわめきのゆるやかなうねりと、その中で高周波のラインが人格を持っているかのようによれてゆく面白さがある。

■ Zhu Wenbo

Zhu Wenboさんは北京の自宅でこれを録音している。そのせいか自動車など環境音が入り、その中で、15分もの間、かれは気の向くままに両手を叩く。リズムとか事前の計画とかを無化するかのようなアナーキーさがある。

昨年観客としてのみ逢った人だが、パートナーのZhao Congさんによれば、この6月に再来日するとのことであり、そのときはパフォーマンスを目撃したい。

■ Zhao Cong

そのZhao Congさん。彼女が用意したものは、「light, paper, cloth, fanner, spring, metal box, wod ball, strings, bass guitar, salt and other objects near at hand」。それらの音が増幅されてゆくのだが、一方で、まさに手元での手作業自体もクローズアップされているようであり、音と作業のサイズ感がぐらつく。ミクロなものを愛おしむ感覚がとてもいい。

■ Leo Okagawa

巨大な排気口なのか、延々と続くこと自体がそのアイデンティティのようなゴオオという音。一転して場面は地下空間のようなところに移り、金属の軋む音が聴こえる。貌が外部に隠しようもなく晒される前者と、内に籠るかのような後者とが、まるで垂直構造をなしているようである。

また世界は外部へと移る。暴風のようにも聴こえるし、排気だけでなく吸気や爆音があるようにも聴こえる。そして場面が次々に変わってゆく。先の垂直構造と、力のコントラストとがあったためか、何者かの意思が背後にあるようなサウンド。

●参照
Zhao Cong、すずえり、滝沢朋恵@Ftarri(2018年)
Shuta Hiraki『Unicursal』(2017年)


Ken G『Last Winter』

2018-01-20 22:08:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

Ken G『Last Winter』(JEX、2005年)を聴く。

Ken G (ts,ss)
Dan Ionescu (g)
Jack Zorawski (b)
San Murata (vln on 6)

Ken Gとは昔の清水ケンGのことであり、今の清水賢二さんのことである。Ken Gと書かれるとどうしてもケニーGを思い出してしまうな。

わたしは第1作の『The Reason』(1995年)と第2作の『Bull's Eye』(1996年)しか聴いたことがないのだが(ちなみに第3作のライナーノートは吉田隆一さんが書いている)、そこから10年近くを経た本作から受ける印象はかなり異なる。ビリー・ハーパーを思わせる初期の熱さと比べ、ずいぶんとスマートだ。帯には「日本のジョー・ヘンダーソン」とあって、確かにジョーヘン的な雰囲気もある。これはこれでリラックスしていて良い。

清水さんは主に山口や九州で活動している。なかなかタイミングが合わないのだが、いつか関東に来る際には観に行きたいと思っている。

●参照
Sun Ship with Guevara『Live at Blue Z』(JazzTokyo)(2017年)
清水ケンG『Bull's Eye』(1996年)


ダニエル・ユメール『Seasoning』

2018-01-20 16:51:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

ダニエル・ユメール『Seasoning』(Intuition、2016年)を聴く。

Daniel Humair (ds)
Vincent Le Quang (ss)
Emil Spanyi (p)
Stephane Kerecki (b)

ダニエル・ユメールはシンバルワークの名手である。いちどだけ新宿のDUGで観たとき、シンバルのみで響きの濃淡をつけていく過激さに驚かされた。ここでも大家は健在であり、静かに火花が散るような音はこの人のみのものだなと思うのだった。

もうひとつの注目は、ソプラノサックスを吹くヴィンセント・レ・クアン。音色は透明なのだが、決して真ん中の周波数だけではなく、マウスピースのところで擦るように音を抑え、タンポのパタパタ音を響かせたりしてとても柔軟。アルド・ロマーノ『Liberi Sumus』(2014年)ではテナーも吹いていて、やはり柔らかく印象的だった。これからの注目。

ところでユメールは、かつてデクスター・ゴードンとも共演している。この「European Jazz Legends」には決まってインタビューが収録されていて、その中で、ベルトラン・タヴェルニエ『ラウンド・ミッドナイト』に描かれたパリのジャズシーンについて話題になり、ユメールは、いや違う、デックスはもっとゆっくりと喋るんだ、「A... Night... in... Tunisia」(笑)と真似してみせる。愛情たっぷりだ。

●ダニエル・ユメール
ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』(2009年)
ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』(2008年)


八木橋司『TABLE JAZZ 3』

2018-01-20 14:11:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

八木橋司『TABLE JAZZ 3』(Jabbinadow Art Music、2000年)を聴く。

Tsukasa Yagihashi 八木橋司 (ss, effecter, voice, radio, microphone, sampler, ball pen, major, etc.)

すごくアナログなアプローチでわけわからず面白い。観たらもっと面白いんだろうな。CDケースと同じくらいの厚さの版画集なのかドローイング集なのかが付属している。

音響自動書記の人だが、いま何をしているのだろう。


マリア・グランド『Tetrawind』

2018-01-20 10:05:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリア・グランド『Tetrawind』(自主制作、2016年)を聴く。

María Grand (voice, ts)
Román Filiú (as, fl)
David Bryant (key)
Rashaan Carter (b)
Craig Weinrib (ds)

マリア・グランドはスティーヴ・コールマンのグループにも参加しているテナーサックス奏者であり、気になる存在だった(NYでもリーダーとしてのライヴをやっていて、行きたかった)。

こうしてミニアルバムではあるがリーダー作を聴くと、やはり、M-BASE~スティーヴ・コールマンの流れの中にあるサウンドだ。彼女のテナーはうねうねとした旋律を吹くものの、テナーの重さによって少し落ち着いているような雰囲気がある。

そして意外にも、デイヴィッド・ブライアントがキーボードで参加している。ルイ・ヘイズ、エイブラハム・バートン、レイモンド・マクモーリン、ジョシュ・エヴァンスらの現代のハードバップ的なグループにも多く入っていながら、ここにも、また、別の大きな流れを作り出しているヘンリー・スレッギルの新作にも参加している。ギターのように聴こえる場面もあり、なかなかである。

●マリア・グランド
スティーヴ・コールマン『Morphogenesis』(2016年)

●デイヴィッド・ブライアント
ルイ・ヘイズ@Cotton Club(2017年)
エイブラハム・バートン・カルテットとアフターアワーズ・ジャムセッション@Smalls(2017年)
ルイ・ヘイズ『Serenade for Horace』(-2017年)
レイモンド・マクモーリン@Body & Soul(JazzTokyo)(2016年)
ルイ・ヘイズ@COTTON CLUB(2015年)
レイモンド・マクモーリン『RayMack』、ジョシュ・エヴァンス『Portrait』(2011、12年)


ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』

2018-01-20 09:23:04 | アート・映画

体調を崩してしまい、布団の中で、ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』(2003年)を観る。

11話のオムニバス。ロベルト・ベニーニ、スティーヴ・ブシェミ、トム・ウェイツ、イギー・ポップ、ビル・マーレイ、GZAとRZAらが実名で登場し、奇妙な会話を繰り広げる。本職はともかくみんな怪優のようなものであり、やたらおかしい。このノリは、ジャームッシュが本人として出演した『フィッシング・ウィズ・ジョン』からも影響があったのでは。

登場する誰もが余裕がなく、対人・対世界の関係を作り損ねていて、いくぶんはコミュ障である。しかし実社会の誰もがそうなのだ。このヘンな奴らを観ていると、感情移入したり呆れたり。ジャームッシュ大好き。

●ジム・ジャームッシュ
ジム・ジャームッシュ『パターソン』(2016年)
ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』(2009年)


原田依幸+鈴木勲『六日のあやめ』、『一刀両断』

2018-01-20 08:34:21 | アヴァンギャルド・ジャズ

原田依幸・鈴木勲デュオは、『六日のあやめ』(off note、1995年)だけを持っていたのだが、最近、『一刀両断』(off note、2009年)を入手した。聴き比べてみると印象はずいぶん異なっている。

Yoriyuki Harada 原田依幸 (p)
Isao Suzuki 鈴木勲 (b)

『六日のあやめ』は、1995年の大晦日、アケタの店における初共演。当日になって鈴木勲が腰痛で出られなくなったが、3セット目になってついに参戦したのだという(そのためミニアルバムになっている)。それまでまったく接点がなかったからだろうか、お互いに間合いをはかり出方を見極めるような演奏である。これも緊張感があって良いものだ。

一方、そこから十年以上が経って二度目の録音。もう前とはまったく違う。原田さんのピアノは小節の切れ目をまるで無視したように次々に硬質なフレーズを繰り出し、一方のオマさんは独特のエッジの立ったベースで拳をびしびしとさばく。

「KAIBUTSU LIVES!」での共演を観たことはあるのだが、やはりこのデュオをナマで観てみたい。

●原田依幸
原田依幸+後藤篤@なってるハウス(2017年)
生活向上委員会2016+ドン・モイエ@座・高円寺2(2016年)
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2)(2010年)
くにおんジャズ(2008年)
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2007年)
生活向上委員会大管弦楽団『This Is Music Is This?』(1979年)
『生活向上委員会ニューヨーク支部』(1975年) 

●鈴木勲
鈴木勲ソロ、椎名豊クインテット@すみだトリフォニーホール(2017年)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2)(2010年)
鈴木勲 フィーチャリング 纐纈雅代『Solitude』(2008年)


かみむら泰一+齋藤徹@本八幡cooljojo

2018-01-15 23:44:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

本八幡のcooljojoにおいて、かみむら泰一・齋藤徹デュオ(2018/1/14)。

taiichi Kamimura かみむら泰一 (ts, ss)
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

齋藤徹さんがcooljojoではじめて音を出す。それは縁のようなものかもしれなくて、なぜなら、cooljojoが高柳昌行のアルバム名から名付けられた場であるからなのだ。この演奏の前に、テツさんがかつて高柳昌行と共演したときのノートや楽譜を発掘したそうであり、それらは、かみむらさんの手に渡されていた。

最初はショーロから。「薔薇」(ピシンギーニャ)と「鱈の骨」(セベリーノ・アラウジョ)、かみむらさんはソプラノを吹く。まるで空気に消え入ることを最初からビルトインしたような音である。「Cheguei」(ピシンギーニャ)ではテナーに持ち替え、テツさんは笛を吹きながら2本の棒で弦を叩く。「Dikeman Blues」(かみむら泰一)は、かみむらさんが住んだこともあるNYのDikeman St.から名前を付けたそうであり、最初はどブルース的に、やがて「Willow Weep for Me」のような旋律でジャズ的な雰囲気へとシフトした。ソプラノはシドニー・ベシェを思わせる縮緬の音も発した。そしてなんと、「Serene」(エリック・ドルフィー)。これは高柳ノートにあって、ほとんどリハばかりをやっていたものだという。想像するだけで震えるようだ。

テツさんのコントラバスは終始好調で、ここまで飛ばして良いのだろうかと逆に心配にもなるほどだった。cooljojoという共鳴空間の中で、ガット弦のひとつひとつのノイズを含み持つ響きが、全体の大きなうねりへと展開していった。

セカンドセットは、「縄文」(かみむら泰一)から。ソプラノは管の長さからも物理的によれやすい楽器だが、かみむらさんは、ベンドでさらに過激に大きな周波数の振幅をもってよれさせた。そのままインプロへ。テナーは無音と有音との間を往還する。マージナルな音を増幅するのではなく、真ん中の音をそのように扱う。演奏後にかみむらさんに訊いたところ、ジャズ的にテナーが道の真ん中をひた走るのではなく、テツさんの音とともにサウンドを作るために、このような形になったのだという。

次の「バンドネオンソロ」(齋藤徹)では、コントラバスによる静かな繰り返しがあり、ソプラノはエアの中に抒情を込めた。「結婚式の旅行」(ピアソラ)は2声のみによる和音を生かした曲なのだという話があった(これもまた、高柳ノート)。そのこともあったのだろうか。テナーとベースの弓弾きが距離を置くような感覚でシンクロした。そしてアンコールは、ふたたび高柳ノートから、「ショーロの呟き」(アベル・フェレイラ)。愁いのような旋律を微妙にテナーとコントラバスとでずらし、コードもまたゆっくりとずらしていった。

終わったあと、会場と近くの居酒屋でいろいろな話を聞いた。そしてまた、新しい音の縁もできるようなのだ。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4

●かみむら泰一
かみむら泰一session@喫茶茶会記(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
かみむら泰一『A Girl From Mexico』(2004年)

●齋藤徹
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
2017年ベスト(JazzTokyo)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
『小林裕児と森』ライヴペインティング@日本橋三越(2017年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
長沢哲+齋藤徹@東北沢OTOOTO(2017年)
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
齋藤徹@バーバー富士(2017年)
齋藤徹+今井和雄@稲毛Candy(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば(2017年)
りら@七針(2017年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
明田川荘之+齋藤徹『LIFE TIME』(2005年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン 


佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』

2018-01-14 10:18:53 | 思想・文学

佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ、2017年)を読む。

本書は、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの共著3冊を取り上げ、それぞれが異なる狙いの革命をにらんでいたとする。すなわち、『アンチ・オイディプス』(1972年)はプロレタリアによる階級闘争、『千のプラトー』(中)(下))(1980年)はマイノリティが権利や等価交換を求める闘争、『哲学とは何か』(1991年)はマジョリティ自身がマジョリティであることへの恥辱を哲学に組み込むための闘争を。

また、かれらの言説は、ミシェル・フーコーの権力論への応答や問いかけでもあった。すなわち、1970年代のフーコーによる権力論(『監獄の誕生』、1975年、など)は『アンチ・オイディプス』への応答であり、それへのD/Gによる応答が『千のプラトー』であり、フーコーが知への意志』(1979年)のあと長い沈黙期間を経て発表した『快楽の活用』(1984年)が『千のプラトー』へのさらなる応答であり、そして、ドゥルーズ単著の『フーコー』(1986年)が最晩年のフーコーに対する応答であったのだ、と。

こうしてD/Gとフーコーとの関係を見せられると、わたし(たち)がかれらの著作に魅せられた理由もわかるように思える。フーコーはどのようなミクロなもの(たとえばそのへんの鉛筆と消しゴム)においても権力関係が生じること、またそれが外部からの所与のメカニズムだけでなく、さまざまなレベルで支配し支配される人間の思考回路のあちこちにまで浸透してきたことを示してくれた。対してD/Gは、では権力が完璧な形を取ってしまったら人間には抗する手段がないことになってしまうではないかと考えた。それがたとえば逃走線やリゾームとなった。フーコーは世界のメカニズムを細部にいたるまで凝視し、説いてみせた。D/Gはそのメカニズムをどの地点からでも根底から別の形にする策動を煽ってくれた。なるほどなあ。

廣瀬氏は、『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』において、ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」を引用した。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。それによってはじめて、情勢を突き破る「出来事」すなわち革命が生まれる。してみると、これはフーコーにとってみれば死をも賭した「勇気」、D/Gにとってみれば生に固執しながらにして闘う「恥辱」であったのか。

いずれにせよ敵は昔も今も「資本主義」であったのだ。D/Gのいう欲望・リビドーによる世界の駆動は、いかに自分自身が搾取・収奪される側であれ、資本主義社会を強化する方向に走るようにできている(「肉屋を支持する豚」)。それはもはや容易には変えることができない、それだからこそ現実的な対処は事件(革命)への道ではないということだ。

著者は、現在の日本において、上の三つの革命が同時に希求される状況になっているという。そしてそれが亀裂となって現れている現象・現場として、沖縄、福島、国会前などを挙げる。この、市民による反ファシズム闘争についての指摘は、おそらく「穏健な保守」だと自認する一方の市民にとっても重要なものだ。後者の市民にとって前者の市民は、現実的な解に向かおうとしない非論理的な存在かもしれないからである。

「・・・権利回復運動の直中において、いかなる利害計算からも析出され得ない絶対的に異質な運動が同時に生起したのだ。利害やその計算に基づく運動ではなく、利害に反する計算不能な欲望の運動。」

「戦後平和主義をこのように抜本的に改めようとする我々の振舞いは、確かに、そのラディカルさにおいてあなた方を驚かせるものであろうし、あなた方にとってなかなか受け入れ難いものであろう。しかし我々は、あなた方の暮らしを守り抜くという我々に課せられた責任を、何としてでも果たしていかなければならない。そのためにこそ、労働者を切り捨てて金融資本とその主軸を戻せば事足りると考えている資本に対して、戦争経済への途を拓いてやることで、何とか産業資本に踏みとどまらせようとしているのである……。半ば本心からそう言っているのであろう安倍首相に対して、人々はただ一言「安倍やめろ」と返す。余計なお世話だ、我々はあなた方の世話にならずとも生きていける、我々の力能はあなた方は考えているよりもずっと大きい、それがどのようなものとなるかはまるでわからないが、それでもなお我々は既に、賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ。」

「人々の怒りは、原発や放射能、改憲や戦争、雇用規制緩和や収奪、米国基地といった外(利害)に向けられているだけでなく、オイディプスという彼ら自身の内(欲望)にも向けられている。」

著者はまた、高橋哲哉氏による「犠牲のシステム」論および「基地引き取り論」(『犠牲のシステム 福島・沖縄』『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』)についても、否定的に言及している。それはなぜなのか、必ずしも明快ではないが、ひとつには、「政治哲学」を解決策として見出そうとしている点にあるようだ。著者によれば、「土人」(=動物)が絶望して「人間」に問いかけているのではない、「土人は自分自身で問いを立て、自分自身でその答えを決定するのである」。

「琉球人の闘争を介して日本人は否応無しに政治過程の中に投げ込まれ、そこで初めて、土人になるチャンス、すなわち、市民であることから自らを脱領土化し、土人性への生成変化の無限の過程の上に自らを再領土化するチャンスを得る。」

●参照
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(1996年)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(1981年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(1972年)
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』
アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1979年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』